勝負を超えた、友情のメダル
1936年ベルリンオリンピック。陸上・棒高跳びの決勝は、小雨の降る中5時間30分に渡って行われた。
アメリカのメドウスが4メートル35を成功させて金メダルを獲得し、日本の大江季雄と西田修平は、それぞれ4メートル25を成功させ、銀メダルと銅メダルが確実となった。
この時、時計は既に午後9時を回っていた。本来ならこの後、大江・西田両選手で2、3位を嬉定させるため試技を続けることになるが、日本人同士でこれ以上争うことはないとして試技を行わず、先に4メートル25をクリアした年長の西田を2位に、大江を3位とすることを申し合わせたのだ。
ところが翌日、表彰式の場で西田は大江に道を譲り、2位の位置に立たせたのである。
帰国後、2人は獲得した銀メダルと銅メダルを半分に剖ってつなぎ合わせた。これが「友情のメダル」として後世まで語られることとなる。
西田が若い大江の首に銀メダルを架けさせたのは、4年後に開催が決まっていた東京オリンピック(1940年)への期待を込めての配慮だったと見られている。だが、その東京オリンピックは日中戦争のため返上(のちに中止)、大江自身も1939年に陸軍に召集され、1941年にフィリピン・ルソン島で亡くなった。
「友情のメダル」と言うと、先の西田・大江のエピソードが有名だが、他にも友情のメダルは存在する。
1976年モントリオール大会。女子バレーボール全日本チームは、白井貢子と前田悦智子の世界的大エースを、セッターの松田紀子が自在に操り、失セットゼロという圧倒的な強さで優勝した。ところが、この大会で獲得した金メダルを、松田は2つに割ってしまったのである。
実は松田は、元々セッター未経験の選手だった。そんな松田にセッターのイロハを教えたのが、所属していた日立の同期、永木芳子である。永木の存在なくして、セッター松田はなかったのだ。世界の頂点に立つ名セッターとなった松田は、獲得した金メダルを半分に割り、苦楽を共にした永木へ、半分を贈ったのだった。