オリンピックの記憶

July 23, 2020

市川崑監督の『東京オリンピック』を見る

先週、NHK-BSで市川崑監督の『東京オリンピック』1965年(昭和40年)が放送された。
本来であれば、今日が東京五輪開幕であった。
新型コロナの影響で1年延期になったが、中止になる可能性もかなり高いだろう。
東京五輪が昭和39年、この映画の公開は翌年の昭和40年、当時の興行記録を超えたとあるが、2時間50分の超大作である。

この映画は前にも見たことがあったが、開会式の様子からいくつか発見があった。

台湾の存在である。

1964年当時、中華人民共和国はIOCを脱退中で、台湾は正式メンバーだった。
中国は1979年にIOCに復帰するまで、戦後の五輪には参加していない。
一方の台湾が中華台北として五輪に参加するのは1984年の冬季五輪から。
なので、東京五輪は台湾として参加していることになっている。
が、開会式で台湾選手団が入場してくる映像を見ると

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プラカードには TAIWAN
その下に漢字で 中華民国
選手団の旗手は当時の陸上界のスター 楊伝広で掲げた国旗は 青天白日旗

これには少し驚いた。

この時代は、中国と台湾以外にも東西に分裂した国がいくつかあった。

西ドイツと東ドイツ

韓国と北朝鮮

北ベトナムと南ベトナム

だが、それぞれの参加状況は以下のようになる。

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ドイツが東西に分かれていた時代に、統一ドイツ選手団は、1956年のコルティナダンペッツォ冬季五輪から1964年の東京五輪までの6回の五輪で組まれている。
当時、日本は東ドイツと国交はなかった。

そして、もう今はないスポーツ大国ソビエトもアメリカのあとに堂々入場している。
旗手はジャボチンスキーだったはずだ。

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June 16, 2020

戦後唯一 オリンピックを返上したまち

オーストリアのインスプルックは、1964年と1976年に冬季オリンピックを開催したまちである。
これだけの短期間に2回オリンピックを開催したまちはない。
なぜこのようなことができたのだろうか

1964年と1976年のインスブルック冬季オリンピックの大会ロゴ ほとんど同じ Picture_pc_93798f59a0abcedc2e510026793cd

当初1976年の冬季オリンビック開催地に決定していたのは、アメリカ コロラド州のデンバーであった。
コロラド州はアメリカ独立から100年後の1876年に誕生した州で、州誕生100年目にあたる1976年に向けて、大々的なイベントを計画していた。
そこで持ち上がったのが、冬季オリンピック招致である。
他に立候補していたのは、シオン (スイス)、タンペレ (フィンランド)とバンクーバー(カナダ)。
デンバーとシオンのデッドヒートの結果、デンバーが開催地に決まった。

第69回IOC総会 オランダ アムステルダム 1970年12月5日

1976年冬季 デンバー 米国
シオン スイス
タンペレ フィンランド
バンクーバー-ガリバルディ カナダ
29
18
12

9
29
31

8
-
39
30
-
-

ところが、冬季オリンピックを開催するにあたり、地元コロラド州が負担する費用は500万ドル(当時)という莫大な金額。
そんな費用をかけてまで開催するべきかと、疑問の声が上がるようになった。
環境問題や観光への影響、直前のミュンヘン夏季オリンピック開催中に起こったテロの影響なども懸念され、市民グループによる開催返上運動が盛んになっていった。
そこで1972年11月、ニクソン対マクガバンの大統領選挙と同時にオリンピック返上が住民投票にかけられた。
開催派35万票に対して返上派は52万票、大会返上が決定した。
これを受けてIOCはインスブルックを代替開催地としたのである。

冬季オリンピックは夏季オリンピック以上に、施設を整備するのに時間がかかる。
デンバーが開催返上した時点で、新たな開催地を決めることは難しかった
そこで既に大会開催経験のあるグルノーブル(1968年開催 フランス)か、インスブルック(1964年開催 オーストリア)で行うのが妥当と判断し、オーストリア政府の後押しの強かったインスブルックに決まったというわけだ。

興味深いのはここからだ。
インスブルックでの2回目のオリンピック開催が決まると、1980年冬季才リンピック開催地にアメリカのレークプラシッド (ニューヨーク州)が正式に名乗りを上げた。
開催地決定の直前になって、対立候補のバンクーバーが立候補を取り下げたため、無投票で開催地に決定している。
商業主義が確立されていなかった1970年代は、最もオリンピックの開催が苦しかった時期である。
同じアメリカ人の都合で返上しておきながら、何ごともなかったようにまた手を挙げる。
こんなことができるのはアメリカだけだ。

 

 

 

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April 25, 2020

日本と韓国 両国の代表としてオリンピックに参加した選手

戦争責任のため日本が参加できなかった1948年ロンドン大会では、 女子陸上短距離のフランシーナ・ブランカース・クン(クン夫人・オランダ)がスターになった。

女子陸上の100m、200m、80m障害、400mリレーに優勝、一大会で四つの金メダルをとったのは女子陸上ではクン夫人だけだ。

このとき30歳だが、実は1936年のベルリン五輪に18歳で400mリレーと走り高跳びに出場している。

ご存知のように五輪は、1940年(東京→ヘルシンキ)、44年(ロンドン)と2大会が第二次世界大戦のために中止になり、1948年のロンドン五輪は実に12年ぶり催であの開った。

12年はあまりに長く、選手としての全盛期に五輪が開催されなかった選手も多くいた。

クン夫人は、1940年にコーチと結婚。翌年に長男を出産、1946年に長女を出産しながら競技を続けた。

日本とドイツはロンドン五輪に招待されず、1952年のヘルシンキ五輪まで16年のブランクができた。

ベルリン五輪では、マラソンの孫 基禎と南昇竜がそれぞれ金と銅メダルに輝いたが、彼ら以外にも7名の朝鮮半島出身の選手が日本代表に加わっていた。

陸上競技:孫基禎、南昇竜

サッカー:金容植

バスケットボール:張利鎮、李性求、廉殷鉉

ボクシング:李奎煥

その7名の選手の内、2選手がロンドン五輪に出場した。

勿論 韓国代表としてだ。

ひとりはサッカーの金容植。韓国サッカーの父と呼ばれる人物だ。

26歳のときのベルリン五輪、ベルリンの奇跡と呼ばれたスウェーデン戦での勝利の一翼を担った。

その12年後のロンドン五輪にはコーチ兼任選手として出場。 

1954年のW杯にも韓国代表コーチとして参加をした。

もうひとりはバスケットの張利鎮。18歳で日本代表としてベルリン五輪、30歳で韓国代表としてロンドン五輪に参加し8試合に出場、8強入りに貢献した。

あらゆるスポーツ選手の中で、日韓の両方で代表になった選手は何人かはいるが、両国の代表で五輪に出場したのはこの2人だけではないかと思う。

 

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April 07, 2020

男性だったオリンピック女子金メダリスト

2009年にべルリンで開催された陸上世界女子800mに、彗星のごとく現れ、圧倒的な強さで勝ったキャスター・セメンヤ

ロンドン、リオデジャネイロの両五輪と2009年、11年、17年の世界陸上の女子800mを制した選手だ。が、子宮と卵巣が無く精巣があり、通常の女性の3倍以上のテストステロン(男性ホルモンの一種)を分泌している性分化疾患が判明したと報じられたことがある。

国際陸連(IAAF・現世界陸連)はこの件について肯定も否定もしていないが、2018年4月になって、男性ホルモンのテストステロンに関するルール変更を行った。

テストステロン値が高い女子選手に対し、400m800m、および1500mへの出場を制限するというものだ。セメンヤ潰しのルールと言われ、セメンヤは昨秋のドーハの世界陸上は出場を断念した。

29歳で迎えるはずだった東京五輪は200mに出場すると明らかにしたが、これまで200mを走ったことはほとんどない。

2021年、彼女は東京の国立競技場のピッチに現れるだろうか。

 

女子選手だと思ったら、男子だった。

こういった例は今始まった問題ではない。

特に陸上競技では昔からある。

 

もう40年も前のことだが、1980年の暮れに、ショッキングなニュースが飛び込んで来た。

「女性金メダリストは男だった」

 

その内容はこんなところだ。

スタニスラワ・ワラシェビッチ(通称ステラ・ウォルシュ)という陸上短距離の選手がいた。

幼い頃にポーランドからアメリカに移住したが、ポーランド代表として1932年のロサンゼルス五輪に出場、陸上女子100mで金メダルを獲得した。

4年後のベルリン五輪では銀メダルを獲得。

その後もアメリカに住み続けた。

が、不幸にしてこの数日前に強盗に会い、殺害された。

警察が司法解剖したところ、なんと男性だったことが判ったというのだ。

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この頃は、東西冷戦の華やかな時代で、旧ソ連や旧東ドイツには異様に筋肉の発達した陸上や競泳の女子選手がいた。

そのため、すぐはドーピングで男のようになった女子選手のことを言っているかと勘違いをした。

だが、しばらくして『女子選手のはずが、実は男性だった』という内容だと気が付いた。

 

翌日の新聞には『ステラ事件』の詳細と続報が書かれていた。

「男性だったと」いう第一報に対し、遺族が「ステラは、男性器と女性器の両方を持っていた」と反論したという。

要は、半陰陽=両性具有=インターセックスだったということだ。

 

後にエリック・カーマーというオーストリアの五輪研究家が、ポーランド国内でステラ・ウォルシュの出生証明書を発見するのだが、女児として届けられている。

恐らく女性として育てられたのだが、死亡後家族が両性具有であることを逸早く公表していることから、生前、家族はそのことを知っていたということになる。

問題になるのはロサンゼルス五輪当時、本人や周囲がその事実を知っていたかどうかだが、今となっては判らない。

 

インターネットを検索していると事件からひと月後の新聞の記事が出てきた。

これによると、ステラには女性器はなかったとある。

 

Report Says Stella Walsh; Had Male Sex Organs

Published: January 23, 1981

CLEVELAND, Jan. 22 Stella Walsh, who won a gold medal and

several silver medals in track competing as a woman in the 1932 and

1936 Olympics, had male sex organs, according to an autopsy report

released today. The report also said that Miss Walsh had no female

sex organs.Chromosome sex tests were inconclusive, and further

tests are being made.

The report by the Cuyahoga County Coroner's Office was obtained

through the courts by television station WKYC, which had been

criticized for broadcasting a report questioning Miss Walsh's sex last

month. Miss Walsh, 69 years old, was killed in an apparent robbery

attempt in Cleveland Dec. 4. Born in Poland, she competed in the

Olympics representing her native land, although she had lived in the

United States since she was a year old.

 

一昔前の五輪ではセックスチェックなるものが行われていた。

本当の女性であるか、医学的に確認するというものだ。

1964年の東京五輪以前は、男子選手が女子選手になりすましてメダルを獲るも、後に男性であることが判り、メダルが剥奪された例がいくつかある。

そのため1966年に、「能力の平等さを保つ」を建前とした、セックスチェック(本当に女性であるか調べること)が行われるようになった。

この検査は、スポーツ史上類を見ない女性差別と言っても過言ではない。何人もの医師の前で全裸になっての視認検査や、さらには直接性器を確認するなど行為が行われていた。

あまりに露骨なチェック方法に、選手からはクレームが殺到し、それを受けて、1968年のメキシコ五輪からは、頬の内側の粘膜を採取する遺伝子検査が行われるようになった。

ところが、この検査方法だと、生まれながら染色体に異常のある女性が「男性」と判定されかねない。

性分化疾患と言うが、生まれてからずっと女性として育てられてきたのに、DNA的には男性、あるいは半陰陽、インターセックス等であると判明し、五輪に出場できなかった選手が少なからず出てきたのだ。

そんな選手たちは急にケガをしたことにし、「棄権」という形をとり、ひっそりと帰国させられた。

 

日本人選手にも該当者がいたと言われている。

IOC1999年になって、すべてのセックスチェックを中止した。

検査に費用がかかることをその理由としているが、実際には選手の人権に配慮したのであろう。

セックスチェックが最後に行われた1996年のアトランタ五輪では、チェックを受けた3387人中医学上女性でない女子選手が8名参加していたことが判っている。

 

〇1932年ロサンゼルス五輪 陸上女子100m 

①ステラ・ウォルシュ 11.9(ポーランド)

 

ロサンゼルスで圧倒的な強さを見せたステラ・ウォルシュも、4年後のベルリン五輪ではアメリカ選手に敗れてしまう。

 

〇1936年ベルリン五輪 陸上女子100m 

①ヘレン・スティーブンス 11.5(アメリカ)追い風参考

②ステラ・ウォルシュ 11.7(ポーランド)追い風参考

 

ベルリン五輪で、金メダルを獲ったヘレン・スティーブンス(アメリカ)は、「あのステラ・ウォルシュよりも速いとは信じられない」

「男が女子選手に化けているのではないか」

と話題になった。そのため組織委員会は、本当に女子選手であるか確認するために医師の立会いのもと、全裸にして確認をし、女子選手と認められている。

なんという皮肉だろうか。

 

1992年まで国際陸連(IAAF・現世界陸連)はステラ・ウォルシュのような性分化疾患の選手が女子の競技に出場することを認めていなかった。ウォルシュの記録を抹消するか否かという議論が発生したが、IOCIAAFはともに抹消するといった決定はせず、ウォルシュの記録は現在も残っている。

 

男女の違いは思いのほか判断が難しい。

2000人に一人の割合で、男女の区別が難しい体を持った子供が生まれている。

卵巣と精巣を持つ。卵巣と子宮があるのに、性器が男性様の形。逆に性器は女性様だが、精巣があり子宮がない人もいる。胎児期に性が分化する過程で、ホルモンの作用に障害が起きるのが原因という。現在では医学的には、男と女だけではなく、多種多様な性があるとされている。

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March 30, 2020

硫黄島に散った、日本人オリンピックメダリスト

東京から南に1250キロの場所に浮かぶ、亜熱帯の島・硫黄島。ここを舞台に繰り広げられた硫黄島の戦いでは、日本軍約2万人、アメリカ軍約7000人が亡くなった。

日米双方の視点から描いた映画『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』といった映画の舞台でもある。つい先日もNHKBSで放送されたからご覧になった方もいるかもしれない。

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この硫黄島の戦いで亡くなった日本人メダリストがいる。馬術のバロン西が、その人だ。

バロン西こと西竹一は、外交官の三男として生まれた。

「バロン」とは男爵のことを言う。

裕福で、外国製の乗用車やオートバイを乗り回していたという。

西は、栗毛の馬「ウラヌス」とイタリアで出会って、自身で購入した。気性が激しく、西以外は誰も乗りこなせなかったと言う。

西が出場した大賞典障害飛越は、「オリンピックの花」とされ、閉会式直前に開催される伝続になっている。

1932年 ロサンゼルスオリンピック大賞典障害飛越の観衆は10万人。

西は、愛馬ウラヌスと絶妙の呼吸で、全長1000メートルのコースの18の障害を越えた。外国勢が次々と失敗する中、西は減点を最少の8にとどめ、金メダルを獲得した。

勝利後、西はインタビューに英語で「We won」と答えている。We=私たち、つまり「西とウラヌスで」得た勝利というこの表現に、アメリカ人も敬意を表した。

 

それから13年、西は硫黄島で第26戦軍連隊長を務め、1945年3月にはアメリカ軍と歴史に残る激戦の中にいた。

最期の時には、アメリカ軍が西に、「オリンピックの英雄、バロン西。軍人として責任を果たした。あなたを失うことは耐えられない。出てきなさい」と、投降を呼びかけたが、西隊長は王砕を選んだ、などという話もある。

馬術選手としての西が、どれだけ世界的に著名であったか、大賞典障害飛越の金メダリストがどれだけ敬意を持たれているかが伺えるエピソードである。

一方の愛馬ウラヌスは、西の戦死を知っていたのだろうか、西の死から1週間後の3月28日に東京の馬事公苑で死んだ。

26歳だった。

一節には、西は戦地でもウラヌスのたてがみを肌身離さず持っていたと言われている。

実は、硫黄島で日本人メダリストがもう1人亡くなっている。

河石達吾陸軍大尉は、西と同じ1932年のロサンゼルスオリンピックに出場した競泳選手である。

出場当時は慶應大学の3年生、男子100メートル自由形で、銀メダルを獲得した。オリンピック翌年に一度徴兵された後、除隊、結婚後再び召集され、硫黄島で散った。

 

 

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February 14, 2020

金メダリストであるギリシア国王に聖火が採火された東京五輪

映像の世紀プレミアム 第15集「東京 夢と幻想の1964年」(1月3日にNHK BSで放送)を見た。

1964年の東京五輪の前後が東京の様子が発掘映像で描かれている。
聖火リレーも当然出て来る。
東京五輪の聖火リレーは以下のように始まる。

ギリシャ国王コンスタンチノス2世が立ち会う

炉の女神ヘスティアーを祀る11人の巫女で採火される。
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映像の世紀プレミアムの映像はここで終わるが、聖火は第1走者のマルセロス選手に手渡され、マルセロス選手は聖火台に点火した後走り出した。
Apikyodo

この写真のみ共同通信

私が気になったのは、ギリシャ国王コンスタンチノス2世のことだ。
ギリシアでは、1967年4月21日に軍事クーデターが生じ、同年12月にコンスタンチノスは家族を連れてローマに脱出した。

その後も国王不在のまま、形だけの君主制が続いていたが、1973年に軍事政権は君主制を廃止、コンスタンチノスは亡命し、現在もロンドンに住む。

この元国王の凄いところは、五輪金メダリストであること。
東京五輪の4年前、ローマ五輪のヨット・ドラゴン級で金メダルを獲得している。

即位前だったとはいえ、王様の金メダルは五輪史上2例しかない。

「映像の世紀プレミアム」の中に五輪に詳しい人がいなかったのだろう。

残念ながら金メダリストである国王に触れていない。
東京五輪の聖火は、金メダリストの国王の立ち合いのもと採火された唯一の聖火である。

ちなみに、もう一人金メダルを獲った国王とは、ノルウェーの前国王、オーラヴ5世。
まだ皇太子だった1928年のアムステルダム五輪でセーリング(ヨット)6メートル級で金メダルを獲っている。
この場合は、4人のノルウェーチームでの金メダルであり、個人種目で金メダルを獲ったのはコンスタンチノス2世が唯一となる。

 

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February 02, 2020

大谷翔平よりも凄い?オリンピックにはこんな二刀流がいた

1964年の東京五輪陸上男子100m金メダルのボブ・ヘイズは、五輪後NFLのダラス・カウボーイズに入り、1971年にスーパーボウルで優勝した。
長い五輪史の中で、金メダルとSB・リングを獲得したのはヘイズひとり。
東京五輪金メダルタイムは10秒0だが、電子計時で10秒06、準決勝は追い風ながら9秒91で走った。

 

1984年のロス五輪陸上男子砲丸投げで銀メダルを獲ったマイケル・カーターは、同じ年NFLのサンフランシスコ・フォーティナイナーズに入団。
なんとその年のスーパーボウルで優勝している。ボブ・ヘイズには及ばないが、五輪メダルとスーパーボウル優勝を同一年に成し遂げた唯一の選手。
なおNFLのドラフトはロス五輪の直前にあった。

五輪に出場したわけではないが、ディオン・サンダースは野球のマイナーリーグにいた89年6月にNFLファルコンズから一巡目指名、その後MLB昇格し、本塁打を打った週にファルコンズに入団、開幕戦でタッチダウンを記録した。
同じ週に本塁打とTDを記録した唯一の選手。さらにワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場した唯一の選手。

1988年カルガリー五輪のスピードスケートで500m銀、1000mで金メダルを獲ったC・ローテンブルガー(東独)は、同じ1988年のソウル五輪 自転車女子スプリントで銀メダルを獲得した。
現在、夏季・冬季五輪は異なる年に開催されており、同年の冬夏両五輪でのメダル獲得はあり得ない。

陸上男子には、100mと110mハードルの両方に金メダルを獲った選手が一人だけいる
ハリソン・ディラード(米国)だ。

元々はハードルの選手だったが、1948年のロンドン五輪選考会では110mハードルの出場を逃してしまう。
が、100mでは3位となり米国代表に滑り込んだ。
ロンドン五輪の100m決勝では、同じ米国のバーニー・ユーウェルと10秒3の同タイムでゴールするが、五輪史上初となる写真判定に持ち込まれ、1つめの金メダルを獲得した。
ロンドン五輪では4×100mリレーでも3走を走り、40秒6で2つ目の金メダルを獲得した。
4年後のヘルシンキ五輪、110mハードルのアメリカ代表の座を得たディラードは、13秒7のタイムで3つ目の金メダルを獲得。
さらに、4×100mリレーでは2走を走り4つめの金メダルを獲得した。
同一大会ではないが、100mと110mハードルに金メダルを獲った唯一の選手であり、今後も絶対に出ないだろう。

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October 03, 2019

10種競技の選手だったIOC会長アベリー・ブランデージ

1964年の東京五輪の際、IOC会長が誰であったかご存知だろうか。

アベリー・ブランデージ氏(アメリカ)である。

ブランデージ氏は、東京五輪だけでなく1972年の札幌五輪開催時もIOC会長だった人物だ。
いかなる形であれ五輪にプロフェッショナリズムが持ち込まれることに強く反対したほか、親ナチス的・反ユダヤ的な態度、あるいは人種主義的とも取れる言動は、たびたび論争の的となった。
ブランデージ自身は陸上10種競技の選手として、五輪出場経験がある。

10種競技 (デカスロン)は、陸上の10種目からなる混成競技のことだ。
1997年の日本選手権大会の覇者である武井壮が、タレントとして活躍し、右代啓祐が日本人選手としては48年振りとなるロンドン五輪、さらにはリオ五輪に出場するなど、10種競技に関心を持つ人が近年増えてきている。

通常、2日間にかけて実施され、1日目は、100m、走り幅跳び、砲丸投げ、走り高跳び、400m、2日目に110m障害、円盤投げ、棒高跳び、やり投げ、1500mを行う。

陸上各競技の走・投てき・跳躍に関わる技術と、2日間にわたる体力、持久力、集中力が要求されることから、総合王者は「キング・オブ・アスリート」と称えられ、ヨーロッパでは特に人気が高い。
古代オリンピックの5種競技をルーツとし、近代オリンピックでは、1912年のストックホルム五輪から採用されている。
また、1912年のストックホルム、1920年のアントワープ、1924年のパリの各五輪においては、走幅跳び、円盤投げ、200m、1500m、やり投の5種目を1日で競技した5種競技(ペンタスロン)も正式競技として行われた。

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ジム・ソープ

1912年ストックホルム五輪の陸上5種、10種競技の両種目に優勝したのはジム・ソープ(アメリカ)。
ソープの偉業は、ストックホルム五輪の開催国であるスウェーデン国王、グスタフ5世から「世界で最も偉犬なアスリート」と特別にトロフィーを贈られたほどだ。

ソープはアメリカの原住民インディアンの血を引く万能スポーツ選手だったが、彼の名前が有名になったのは、
2つの金メダルを剥奪されたからだ、

アマチュアリズムが崩壊した現在では考えられない話である。
ソープが2つの金メダルを獲った翌1913年、アメリカの地方紙に「ソープはプロ野球選手だった」という記事が載る。
この記事が元で、ソープは金メダルを剥奪された。

現代の五輪では、プロ選手にも開放、オープン化されている。
しかし当時、五輪にはアマチュア規定が厳しく定められており、プロ選手の参加は認められていなかった。
貧しい学生だったソープは、学生生活の傍ら、プロ野球とは名ばかりのセミプロ球団で、夏休みに2度ほどアルバイト選手としてプレーし、週10数ドルほどの給料を受けたことがあった。

スウェーデン国王が素晴らしいと褒めたたえるほどの成績を残しても、プロで稼いだ金が微々たるもので、ほとんどが学校に入っていたとしても特例は認められず、ソープの金メダルは剥奪されてしまった。

後のIOC会長であり、アマチュアリズムの権化と呼ばれたアベリー・ブランデージ(アメリカ)は、ソープと同じストックホルム五輪の五種競技に出場し、6位に入ったが、ソープの失格で5位に繰り上がっている。
ソープの金メダル剥奪の影には、ブランテージの存在があったのではないかと言われている。
また、インディアンの血をひくソープヘの人種差別、偏見もあったようだ。

1953年にソープ自身は死去するが、30年経った1982年10月にIOC理事会はソープの権利回復を承認した。
ただし、当時繰り上げで金メダルを獲得した5種競技のフェルディナンド・ビー、10種競技のフーゴ・ウィースランダーともに繰り下げずにそのままとし、ソープも金メダルを獲得=両者優勝とした。

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September 26, 2019

金メダルから失格 ベン・ジョンソンのその後

31年前 1988年の9月24日に陸上界だけでなく世界のスポーツ界を震撼させた大事件が起きている。
舞台はソウル五輪 陸上男子100mで金メダルを獲ったベン・ジョンソンにドーピングが発覚、追放された事件だが、五輪史上3本の指に入る大スキャンダルと言ってもいいはずだが、30年以上昔のこと。
今の陸上ファンには、話は知っていても映像を見たことがない人も多いと言う。

@TriviaOlympics がこのレースを紹介しているので見てもらおう。

 

1988年ソウル五輪の陸上男子100m決勝。
スタートから飛び出したべン・ジョンソンは、一気に走り抜け、9秒79の驚異的な世界新記録で優勝した。
2位にロサンゼルス五輪の同種目金メダリストのカール・ルイス(米国)、3位にバルセロナ五輪で同種目の金メダリストになるリンフォード・クリスティ(英国)が入った。
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ところが、その3日後、IOCはジョンソンのドーピングテストで禁止薬物が検出されたため、金メダルをはく奪すると発表。歴史に残るスキャンダルはこうして幕を開けた。
ジョンソンから検出されたのは、アナボリック・ステロイド(筋肉増強剤)の一種で、同年のカルガリー冬季五輪までは登場していなかった最新型だった。

ベン・ジョンソンは1976年にジャマイカからカナダに移民してきた。
その4年後のロサンゼルス五輪では、カナダ代表として100mに10秒22で銅メダルを獲った。
だが、あまり記憶にない。
1987年の陸上ワールドカップに10秒00で優勝、同年のローマの世界陸上で、9秒83という驚異的な世界新を出して優勝し、一躍ソウル五輪の金メダルの本命に挙げられていった。

100m決勝から3日後、国際陸上競技連盟(IAAF)はベン・ジョンソンの2年間競技者資格停止と、9秒79の世界記録取り消しを決めた。
さらにローマの世界陸上で出した9秒83の抹消と、こちらの金メダルはく奪も決まった。
するとジョンソンは27日午前中の内に、ソウルの金浦国際空港から追われるようにニューヨークへ逃げていった。

当時、ベン・ジョンソンは日本でも有名選手で、共同石油(現JXTGエネルギー・ブランドはENEOS)のCMにも出演していた。
共同石油は27日、ベン・ジョンソンのCMを別のものに差しかえるよう各放送局に連絡、ジョンソンのCMはこの日を境にオンエアされていない。
ジョンソンは、ローマの世界陸上の金メダルを機に、多額のスポンサーがつくようになっていた。
ディアドラ社のシューズの契約金は5年で2億円強、共同石油も億単位の契約金だったといわれている。


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筋肉増強剤であるアナボリック・ステロイドは1981年秋から使用していたと証言しているから、ロサンゼルス五輪の銅メダルの時には、既にクスリに犯されていたことになる。
が、メダル剥奪処分にはなっていない。

この後のベン・ジョンソンについてあまり知られていないが、2年間の競技者資格停止が解け、1991年陸上界に復帰。東京で行われたこの年の世界陸上にやって来た。
とはいうものの、100mの世界陸上B標準しか突破できていなかったジョンソンはカナダチームのリレー要員だった。3走を任されるも、コーナーが下手、カナダは何とか8位に入るのがやっとだった。

そして1992年バルセロナ五輪、ベン・ジョンソンは100mのカナダ代表として3度目の五輪出場を果たした。
スタジアムで名前が紹介されると、人気は意外にも高く、大きな拍手と歓声が沸いた。
1次予選は10秒55と、32人残った中で20番目。2次予選は10秒30、4組4位で辛くも準決勝に進んだ。
準決勝1組に出場したジョンソンは、スタートと同時にこけて、10秒70。最下位で決勝に進めなかった。
「陸上の神様がこけさせた」世界中が思ったに違いない。

そして、1993年3月. ベン・ジョンソンの同年1月に行われた尿検査でテストテロン(筋肉増強剤)の服用が判明。
国際陸連(IAAF)は永久追放処分を発表、カナダ政府もこれを受けてスポーツ基金受給資格を取り消し、さらにすべてのスポーツ競技から、ジョンソンを永久に締め出すとした。

その後ベン・ジョンソンは馬などと慈善レースをしていたが、1999年にまた薬物陽性反応があったとされる。(詳細不明)
2007年になって、選手としては永久追放処分を受けているが、コーチとしてのチャンスは与えられるべきだとの関係者のコメントとともに、20歳のカナダ人選手のコーチを務めることになったとAFP通信が伝えた。

 

余談になるが、ソウル五輪は1988年9月17日から1988年10月2日に開催されている。
暑さも和らぐいい季節に開催されたのだ。

 

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August 08, 2019

東京オリンピック 最長身はだれだ?

1964年の東京五輪で活躍した外国人選手というとアントン・ヘーシンク(オランダ・2010年没)を思い浮かべる方も多いだろう。
言わずと知れた柔道無差別級の金メダリストだが、身長は196cm。
体重は東京五輪時には120㎏だったようだが、身長は192㎝、196㎝、198㎝と諸説ある。
ヘーシンクに敗れた神永昭夫さん(1993年没)は179㎝102㎏。体格でも圧倒していた。

 

柔道は、東京五輪初めて採用され、現在では実施されていない無差別級で、金メダルを獲った選手だが、東京五輪の3年前、1961年の第3回世界柔道選手権で、日本人以外の選手として初めて優勝した選手でもある。
当時のヘーシンクの強さは抜きんでており、東京五輪でもヘーシンクには敵わないと関係者は感じていたようだ。
当時、柔道は東京大会に限って実施されることになっており、事実、1968年のメキシコ五輪では実施されていない。
ヘーシンクが東京で勝たなければ、1972年のミュンヘン五輪で再び柔道が正式種目になることはなかっただろうと言われている。
 
実は、東京五輪の日本選手団に身長がヘーシンクに匹敵する人物が二人いた。
一人はバスケットボールの小玉晃さん(当時20歳197cm)、もう一人が南将之さん(当時23歳196㎝2000年没)。
小玉が東京五輪の日本人最長身選手、南がメキシコ五輪の日本人最長身選手である。
以下東京五輪以降の日本人最長身選手を挙げてみた。
バルセロナ五輪に出場した大竹秀之208㎝が、史上最長身ということになる。

 

●日本選手団最長身選手 1964年 小玉晃 バスケットボール 197cm
1968年 南将之 バレーボール 196㎝
1972年 沼田宏文 バスケットボール 205cm
1976年 沼田宏文 バスケットボール 205cm
1980年 蒲生晴明 ハンドボール 192㎝(但し日本は不参加)
1984年 岩田稔 バレーボール 197㎝
1988年 蔭山弘道 バレーボール 200㎝
1992年 大竹秀之 バレーボール 208㎝ 1996年 小川直哉 柔道 193㎝
2000年 篠原信一 柔道 190㎝
2004年 平山相太 サッカー 190㎝
2008年 齋藤信治・山村宏太 バレーボール 205cm
2012年 朝日健太郎 ビーチバレー 199cm
2016年 右代啓祐 陸上 196㎝

 

近年、中国・韓国に加え、イランとカタールが各球技に急速に強くなり、日本の団体球技の五輪出場が難しくなっていった。
そのため長身の日本人選手の五輪出場も少なくなっている。
2020年は地元開催ということで、バスケットボール男子が44年ぶりに五輪出場を果たす。
渡邊雄太 メンフィス・グリズリーズ 207㎝
八村塁 ワシントン・ウィザーズ 203㎝
ニック・ファジーカス 川崎ブレイブサンダース 210㎝
の3人の代表入りは間違いないだろうから、史上最長身選手が更新されそうだ。

 

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