新・五輪招致の記憶

January 15, 2019

2億3000万円どころじゃない 東京五輪招致費用は100億円 

今日の竹田恒和JOC会長の会見、「私は潔白だ」「適切な対価だった」と何の証拠も示さずにこれまでの主張を繰り返しただけで、記者の質問もいっさい受けず、わずか7分で一方的に打ち切った。
竹田恒和会長がブラックタイディングス社へ支払った額は約2億3000万円。
だが、東京五輪招致にはざっと100億円ものカネが動いていた。

東京五輪の招致活動のうち、税金を使った支出については情報公開請求の対象となる。
招致費用の89億円の内、都税が35億円、その他が65億円。
都税の35億円は当然情報公開請求の対象となる。

しかし、その他の65億円の内訳は、スポンサー企業の協賛金が7億円、スポーツ振興くじの助成金9億円、さらには寄付金等が49億円。
こちらの金額は残念ながら使途開示義務がない。

きっこさんの指摘する竹田恒和JOC会長がは、石原慎太郎都知事時代の2011年から猪瀬直樹都知事時代の2013年にかけて「2020東京五輪招致」の名目で計7回、総額27億円もの予算を東京都に請求したものが、65億円の方から出ていれば使途開示義務はなくなってしまう。

招致活動に必須のロビー活動の費用は、65億円を使ったと見られる。
JOCの元専務理事の市原則之氏は、かつてこんなことを言っている。

「投票を依頼する国際オリンピック委員会(IOC)の委員との関係もあり、すべてを透明にするわけにはいかない」(朝日新聞2012年10月21日)

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September 15, 2017

JOC竹田会長起訴へ 東京オリンピックは本当に開催されるのか?

東京に続く2024年、28年の二つの夏季五輪開催地が、パリとロサンゼルスに決定した。

カネのかかりすぎる五輪開催に意欲的な都市が激減したことを踏まえ、IOCが2大会の開催地を一度に決めたのだ。

ところが、IOCの中心的メンバーだった人物が、リオデジャネイロ、東京の招致運動の前後に、高額の時計や宝石を購入していたという調査結果が出ており、買収目的の資金が渡った可能性があるとの結論を出したことが分かった。英紙ガーディアンが14日報じた。

前国際陸連IAAF会長のラミーヌ・ディアク(セネガル)は、急死したプリモ・ネビオロ(イタリア)の後を受けてIAAFの会長に就き16年(1999年11月から2015年)に渡って務めた。

2020年夏季五輪の開催地が東京に決まったブエノスアイレスでIOC総会が行われた2013年、10人の陸上競技出身のIOC委員がいた。
ラミーヌ・ディアクにとって彼らやアフリカ出身のIOC委員を束ねることは難しくなかったのだろう。
ラミーヌ・ディアクと東京五輪招致委員会の間に入ったのはもちろん電通である。

東京五輪招致の裏金の問題のそもそもの発端は、女子マラソンのリリア・ショブホワ(ロシア)のドーピングが発覚した際に、彼女がロシア陸連に7000万円を払ったことに始まる。
その際に使われたのがシンガポールにあるBLACK TIDINGSの口座だった。

東京と2020年五輪の開催地を争ったのが、トルコのイスタンブール。
陸上競技は、サッカーを除けば、世界的にも最も人気の高い競技だ。
だが、IAAFの財政を支えているのは日本企業だ。
TBSがIAAFの各選手権の独占放送権を持っているほか、IAAF公式パートナー4社(トヨタ、TDK、セイコー、アシックス)は、いずいれも日本企業である。
ラミーヌ・ディアクが東京招致に協力するのは明らかかと思われていた。

これに対し、イスタンブールもIAAFに近づいていった。
トルコはそれまでIAAFの公式競技会を開催したことがなかったが、イスタンブールは2012年春に世界室内陸上選手権を開催した。
そして、同じ年に行われたロンドン五輪の陸上女子1500mでは、トルコのアスリ・カキルアルプテキンが金メダル、同じくガムゼ・ブルトが銀メダルを獲った。
トルコにとって陸上競技での金メダルは史上初の快挙だった。

ところが、ロンドン五輪の翌年、アスリ・カキルアルプテキンのドーピングが発覚し、やがて金メダルははく奪されることになる。
その時の経緯はこうだ

IAAFのラミン・ディアク前会長の息子でIAAFコンサルタントだったパパ・マッサタ・ディアクが、ロンドン五輪陸上女子1500mで優勝したアスリ・カキルアルプテキン(トルコ)のドーピング違反をもみ消す見返りに3万5000ユーロ(約450万円)の賄賂を受け取った。
カキルアルプテキンは違反が発覚して昨年(2015年)8月に8年間の資格停止処分と金メダル剥奪が確定した。(毎日新聞16年1月15日)

パパ・マッサタ・ディアクが、ロシア選手だけでなくトルコの選手をも餌にして私腹を肥やそうとしていたのだ。

IAAFは、毎年ダイヤモンドリーグという陸上競技のシリーズを開催している。
五輪や世界陸上とは別に、シーズン中に世界各地を転戦し年間総合王者を決めるというもの。
高額な賞金を売りものとし、スキーのW杯に似た形式だと思っていただければいい。

ダイヤモンドリーグは、その発足当初からスポンサーのサムスンの名を冠していたが、2011年の世界陸上大邱大会が終わると、サムスンは世界陸上とダイヤモンドリーグの両方のスポンサーを降りることになった。

IAAFのラミン・ディアクは、サムスンの後釜となるスポンサー企業を探した。
カネのにおいに敏感な彼は、五輪招致レースをしていたトルコと日本に、「IOC総会での票に繋がるから企業を紹介してほしい」と声を掛けた。

トルコからは世界室内陸上でも協賛した携帯会社のTURKCELL、TURKISH AIRLINESに打診したようだが契約には至らず、日本のキヤノンがIAAFのスポンサーに新たに加わった。

この時のことは英国の高級紙THE GUARDIANにも記事がある。
https://www.theguardian.com/sport/2016/jan/14/bidding-2020-tokyo-olympics-IAAF-scandal
(日本語訳)イスタンブールは、世界陸上か、ダイヤモンドリーグに400万ドル~500万ドルのスポンサーマネーを払わなかったため、トルコはラミン・ディアクのサポートを失った。トランスクリプトによると、日本はこれを支払った。

2012年11月15日 日本の新聞各紙にも以下のような記事が載っている。
キヤノンは14日、来年(2013年)から4年間、世界選手権など国際陸連が主催する15の大会に協賛することを発表した。カメラ、レンズのメンテナンスなどを通じて報道関係者を支援すると同時に、同社の印刷機器などが大会で使用される。

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2012年11月という時期、400万~500万ドルという金額もぴったりだ。


世界陸上はその最初に行われた1983年から、日本企業の協賛を得てきた。が、いずれも長期に渡っておりキヤノンの4年間、しかも2013年~16年の4年間という短期は例がない。
キヤノンが「IAAFの依頼を受けて協賛した」というのは海外メディアも書いている。

2013年6月 地中海競技大会がトルコのメルシンで開催された。
大会中、トルコの陸上選手団に30名の大量ドーピング疑惑が浮上し、トルコ陸連の会長は8月に入り責任をとって辞任に追い込まれていく。

トルコの陸上選手のドーピング騒動が、IAAFの協賛を断ったから明るみに出たのか、それとも表に出るのが必然だったのか、それは判らない。
五輪開催地が決まるIOC総会が9月9日に開かれることを鑑みれば、直前の立候補国のドーピング大量摘発は、招致決定に何らかの影響があっただろうことは想像に難くない。

敢えて書くならば、この時期東京側は、東京からわずか250キロしか離れていない福島第一原発事故由来の汚染水問題が連日テレビを賑わしていた。
その中で、招致を争う国の不祥事は東京側にとって有り難かったのは間違いない。

現在、東京五輪組織委員長に森喜朗元総理がついていることは知られている。
では、名誉委員長は誰か?
元経団連会長の御手洗冨士夫キヤノン会長である。

どうだ、これでつながっただろう。

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2014年1月29日付 御手洗氏の名誉会長就任を伝える新聞


経緯を時系列にしてみた。

2012年3月
世界室内陸上選手権トルコ・イスタンブールで開催

2012年7月
ロンドン五輪開催
女子1500mで、アスリ・カキルアルプテキン(トルコ)が金メダル

2012年11月
キヤノンがIAAFの公式スポンサーに決定

2013年6月
地中海競技大会がトルコのメルシンで開催
トルコ陸上選手団は30名の大量ドーピング違反

2013年7月
東京 1回目のブラック・タイディングス社へ1億円の送金

2013年8月
地中海競技大会のドーピング違反の責任を取り、トルコ陸連会長が辞任

2013年8月
ロンドン五輪女子1500m金メダルのアスリ・カキルアルプテキンドーピング発覚

2013年9月
パパ・マッサタ・ディアクがパリで高級時計などを爆買い

2013年9月
ブエノスアイレスでIOC総会 五輪東京開催決定

2013年10月
東京 2回目のブラック・タイディングス社へ1.3億円送金
フランス当局の捜査にもとづいて、検察局は2013年9月8日に、ブラック・タイディングス社は、シンガポールのスタンダード・チャータード銀行の口座から8万5000ユーロをパリのある会社宛てに送金し、それがマッサタ・ディアクが宝石店で購入した高額商品の支払いに充てられたことを明らかにした。

2014年1月 
キヤノン会長御手洗冨士夫氏の東京五輪組織委員会名誉会長就任

2014年9月
IAAF 電通との代理店契約を2029年まで延長

2015年8月
ラミン・ディアクIAAF会長を退任

2015年11月
ラミン・ディアクIAAF前会長 ドーピング絡みの収賄発覚

2016年5月
フランス検察
「2020年東京五輪招致」の名目で、ブラック・タイディングス社の口座に2.3億円が支払われていたと公表。

2016年12月
キヤノンIAAFスポンサーを降板

2017年9月
ブラジル司法当局が、東京五輪招致の不正疑惑を巡り、招致委員会から当時IOC委員会で国際陸連会長を父に持つディアク氏に対し多額の金銭が渡った可能性があると結論付けた。

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June 15, 2017

引き受け手のないオリンピック

パリとロサンゼルスの一騎打ちとなっている2024年五輪招致だが、今年9月にリマで開かれるIOC総会では、2024年だけでなく、2028年大会の開催都市も決めることになりそうだ。

費用負担の大きさから、五輪開催に立候補する都市は減っており、IOCとしては、パリ、ロサンゼルスといった開催実績のある2都市をともに確保したいとみられる。

実はIOCには痛いトラウマがあるのだ。

2011年7月6日 南アフリカのダーバンで開かれたIOC総会のこと。
2018年の冬季五輪の開催地が決まろうとしていた。
立候補していたのは平昌(韓国)、ミュンヘン(ドイツ)、アネシー(フランス)の3都市。
平昌は2010、2014年に続いて3回目の立候補、ミュンヘンは初の夏冬開催を目指していた。

1回目の投票で平昌が63票と過半数を超え開催地に決定。
ライバルと見られていたミュンヘンは25票、アネシーは7票に留まった。

この時点でIOCはまだ甘く考えていた。
ミュンヘンは2022年の冬季五輪立候補するだろうと。
なぜならば2022年は、1972年のミュンヘン夏季五輪からちょうど50周年にあたり、記念大会になると誰もが思っていたのだ。
ところが、ミュンヘンは2013年11月に行われた住民投票で立候補に賛同が得られず招致を断念。

ミュンヘン撤退後に2022年冬季五輪の本命と見られていたオスロも、2014年10月、ノルウェー政府の財政保証が得られないことを理由に冬季五輪招致から撤退した。

そして、2015年7月 クアラルンプールで行われたIOC総会。
中国・北京とカザフスタンのアルマトイの二都市で投票を行い、44-40で北京開催が決まった。

ご存知のように2018年平昌、2022年北京、さらにその間の2020年には東京五輪もある。
極東アジアで五輪が続くことは異常事態であり、IOCは焦っている。
せっかく手を挙げてくれたパリとロサンゼルスを、取り逃がしたくないと思っているのだ。

 

日本では、今朝、共謀罪が成立した。
我が国の首相は、東京五輪を開催するためには共謀罪が必要と言うが、私が共謀罪のない社会と、東京五輪のどちらを選ぶかと問われれば、間違いなく共謀罪のない社会を選ぶ。

今日の朝日新聞の投書欄に作家の赤川次郎氏の投書が載っている。
赤川さんも、共謀罪がなければ五輪が開けないのなら、中止にすればいいと言い切っている。

 

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●2024年夏季五輪招致

 

2015年9月 パリ、ロサンゼルス、ハンブルグ、ローマ、ブダペストの5都市が立候補
2015年11月 ハンブルクが辞退
2016年9月 ローマが辞退
2017年1月 ブダペストが辞退

 

2017年6月 IOC:
パリもロサンゼルスも五輪開催に相応しいので、2024年大会だけでなく、2028年大会も一緒に決めませんか?←今ここ

 

2017年9月 IOC総会(ペルー・リマ)

 

 

 

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December 28, 2016

コンパクト五輪はどこへ 東京五輪は10競技で会場変更

二転三転していた2020年の東京五輪のバレーボール会場が、当初の予定通り有明アリーナに落ち着いた。
有明アリーナの収容人数は15000人(仮設席を含む)
延床面積は45,600m²
竣工は2019年12月
総工費は339億円となる。

前回の東京五輪と言えば、東洋の魔女の金メダルに全国が沸いたことよく知られている。
では会場はどこだったか?

駒沢オリンピック公園総合運動場体育館と横浜文化体育館である。

当時の駒沢の収容人数は3900人、横浜文化は3800人。
56年前と比較すると、有明アリーナの15000人は余りにも巨大だ。

「世界一コンパクトな五輪」。このアピールポイントはすっかり影を潜めた。

2020年の五輪招致レースに東京が勝利したのは、33競技場中28競技場を中央区晴海の選手村から半径8キロ圏内に集めるという公約が大きかった。

33の競技場のうち10カ所で変更するとは、公約違反と言われてもしょうがない。
競ったマドリードやイスタンブールに何と言い訳すればいいのだろうか。

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が、過去に開催された五輪は、いずれも会場の変更などなかったのだろうか?

2012年に五輪を開催したロンドンには、メインスタジアムを始め、多くの競技場が集まるオリンピックパークと呼ばれていた地区がある。

ロンドンが2012年の五輪招致で、宿敵であるパリに勝って開催を決めたのは2005年7月6日、シンガポールで開かれた第117次IOC総会でのことだ。
このとき、オリンピックパークには4つのアリーナ(室内競技場)を作る計画があり、オリンピックパーク1から4として仮称が付けられ、下記のような競技の会場とされていた。

アリーナ1 バレーボール
アリーナ2 バスケットボール及び近代五種のフェンシング
アリーナ3  ハンドボール
アリーナ4 フェンシング・柔道 

ところが招致決定から1年後の2006年には、マスタープランが発表され、アリーナ1の建設は中止。
バレーボールは既存施設のアールズコート・エキシビジョン・センターで開催することが決まった
さらにアリーナ4の建設も中止となり、フェンシングと柔道は、エクセル展覧会センターで開催することになった。

アリーナ2は、仮設のバスケットボール・アリーナとして建設され、ノース・グリニッジ・アリーナ(通称O2アリーナ)とともにバスケットボールの会場になった。
アリーナ3は、恒久施設のカッパー・ボックスとしてハンドボールの会場になり、近代五種のフェンシングも行われた。なお、ハンドボールの準決勝以降はバスケットボール・アリーナが使われた。

さらに2009年11月には、バドミントン競技や新体操競技についても整備費削減のため、当初の仮設会場であるグリニッジ・アリーナから、既存施設のウェンブリー・アリーナに変更された。

もう一つ言うならば、ロンドンが招致段階で見積もっていた総コストは40億ポンド(現在のレートで約5800億円)。
実際のコストは89億ポンド(約1兆3000億円)かかった。

 

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September 28, 2016

負担の大きい五輪招致 2024年大会はパリ、ロサンゼルス、ブダペストの争い

1980年代、五輪は嫌われ者だったといってもいいだろう。
開催したいと手を挙げる国はなく、開催すれば莫大な赤字が残った。

1976年以降1988年までの夏季五輪に立候補した都市はこれしかない。

1976年 ◎モントリオール モスクワ ロサンゼルス
1980年 ◎モスクワ ロサンゼルス
1984年 ◎ロサンゼルス
1988年 ◎ソウル 名古屋

1976年大会に立候補した3都市が、順番に1984年まで開催している。

1984年大会に立候補した都市はロサンゼルスのみ。
莫大な赤字を背負ったモントリオールの記憶が新しく、他に立候補を表明する都市はなかった。
アメリカ連邦政府、カリフォルニア州政府はビタ一文税金を使わないのなら、開催してもいいよとロサンゼルス市に通告した上での立候補だった。
この大会が、今日でも踏襲される商業五輪の原型となるのだが、30年以上経って五輪招致をめぐる状況は似てきている。

先に開催されたリオデジャネイロ五輪。
総費用は約144億ドルと見られている。
日本円にすれば1兆5000億円にもなる金額だ。

4年後の開催都市東京は、その招致の段階で大会にかかる予算総額を7300億円、組織委員会の予算を3400億円としていたが、実際の費用は、3兆円になるとも言われている。

2022年の冬季五輪は北京とアルマトイ(カザフスタン)が争い、44―40で北京が勝利した。
ご存知のように2018年は韓国平昌。
なぜ2018、20とアジア開催が続くの22年もアジア開催になったのか。
開催地を決めるIOC総会に至るまでに

ストックホルム(スウェーデン)
クラクフ(ポーランド)
リヴィウ(ウクライナ)
オスロ(ノルウェー)

の欧州4都市が招致を断念したのだ。
いずれも費用がかかりすぎるというのがその理由だ。

2024年の夏季五輪も同じような道を辿っている。

時系列にすると以下のようになる。

2015.09.15
IOCは、2024年夏季五輪招致の申請を締め切り、ローマ、パリ、ロサンゼルス、ハンブルク、ブダペストの5都市で争う見通しになった。

2015.10.16
分割金の支払い
立候補を表明した5都市は50,000ドルをIOCに支払った。

2015.11.29
2024年夏季五輪の開催都市に立候補したハンブルクの招致委員会は、招致の是非を問う住民投票の結果、巨額の開催コストへの懸念などから反対51.6%、賛成48.4%で過半数の賛同を得られず、招致を断念すると発表した。

2016.2.17
候補都市による立候補ファイル提出
IOCは、2024年夏季五輪招致の立候補ファイルで開催計画やビジョンを示した第1段階の申請を締め切り、パリ、ローマ、ブダペスト、ロサンゼルスの4都市が提出した。

2016.7月
分割金の支払い2
4都市は50,000ドルをIOCに支払った。

2016.9月
ローマ五輪招致を断念
ローマ市長ラッジ氏
オリンピックはある種の夢だが、それはある時点で悪夢に変わる。

2024年大会は、1924年大会を開いたパリが100周年ということで大本命。
負ける戦にカネは使わないということだ。

なおこれまでのローマの招致活動費用は、1300万ユーロ=約14億7300万円

2016.10.07
立候補都市は、政府の財政保証などを求める2回目の立候補ファイルを提出する。

2017年1月
分割金の支払い3
3都市は150,000ドルをIOCに支払う。

2017.02.03
大会運営や会場の後利用計画を記した3回目の立候補ファイル提出。

2017.2月~7月 IOC
IOC委員らによる立候補都市の視察

2017年09.13
IOC総会 ブリーフィング及び開催都市決定
(ペルー・リマ)

IOCは、2024年五輪を組織するのを助けるために17億ドルを招致に成功した都市に支払うと2015年に発表している。
開催都市の負担が大きく、近年夏季冬季ともに開催に立候補する都市が減っているための措置だろうが、当然東京五輪には適用されない。

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February 24, 2016

新・五輪招致の記憶(8)パリ バルセロナに敗れる 1992年夏季五輪

2024年夏季五輪にパリ、ロサンゼルス、ローマ、ブダペストの4都市が立候補した。
パリとロサンゼルスの一騎打ちになるだろうと見られる。
パリは過去に1900年と1924年の2回の五輪開催経験があり、2024年は2回目の開催から丁度100周年となる。
1924年のパリ五輪といえば、映画『炎のランナー』(Chariots of Fire1981年公開のイギリス映画)の舞台となった五輪だ。
4年前のロンドン五輪の開会式では、セント・アンドリュースのウエストサンド沿いをランナーたちが走る有名なシーンの映像が会場に上映されたが、その映像の中にMr.ビーンことローワン・アトキンソンが登場した。
見ていて思わず顔が綻んだが、厳格な五輪開会式中のユーモア、2020年の東京五輪でああいった
真似はできないだろう。

一方、ロサンゼルスは1932年と1984年の2回、ローマは1960年に開催経験があるが、ブダペストは初の開催を目指す。

パリは、第二次大戦後の五輪招致においては苦労している。
1992年、2008年、2012年にも立候補しているがなかなか開催都市に選ばれないのだ。
今回は、1992年の招致について振り返ってみたい。

現在は、夏季五輪の中間年に冬季五輪が開催されているが、1992年までは同一年に冬季、夏季五輪の両方が開催された。
開催地を決めるのも同一のIOC総会だった。

1992年の冬季五輪に立候補したのは
 アルベールビル(フランス)、ソフィア(ブルガリア)、ファルン(スウェーデン)
 リレハンメル(ノルウェー)、コルティナダンペッツォ(イタリア)
 アンカレッジ(アメリカ)、ベルヒテスガーデン(西ドイツ)の7都市。

1992年の夏季五輪に立候補したのは
 バルセロナ(スペイン)、パリ(フランス)、ベオグラード(ユーゴスラビア)
 ブリスベン(オーストラリア)、バーミンガム(イギリス)、アムステルダム(オランダ)の6都市。

何と、フランスは冬季と夏季のどちらにも立候補したのである。
1992年は近代五輪の父であるフランス人のクーベルタン男爵がパリで近代五輪を提唱してから100周年にあたるので、これを祝うことはパリの義務であると立候補することを決めた。
また、冬季・夏季五輪が同一年に開催される最後の大会となることから、冬季・夏季の両方ともにフランスで開催したいと考えた。

ところが、最大のライバルと見られていたバルセロナは、当時のIOC会長アントニオ・サマランチ氏の出身地である。
1992年はコロンブスがアメリカ新大陸を発見してから500周年にあたる。コロンブスが大西洋を航海し帰って来た港がバルセロナだった。
コロンブスはその死後、セビリアに葬られており、スペイン政府は1992年に、五輪と合わせてセビリア万博をも招致した。

現役IOCの会長の出身地が夏季五輪に立候補!
IOC委員にとって会長に半旗を翻すことは難しい。
焦るパリは、シラクシラク首相兼パリ市長自らがIOC事務局長のフランス人、ベルリュー女史を引き抜いてパリ五輪招致委の顧問に据えた。
ベルリュー女史IOC内における存在感はこの上なく大きく、時に会長以上と言われる発言力があった。

パリの最大の敵は、バルセロナではなくて、冬季大会に立候補している同じフランスのアルベールビルだと言われていた。
冬季・夏季の両五輪をフランスが同時に勝ち取っても良いのか?
しかも1968年の冬季五輪を開催したフランスのグルノーブルは、アルベールビルから100キロと離れておらず、グルノーブル五輪のアルペン3冠王のジャン・クロード・キリーが、招致の顔として孤軍奮闘している。

投票は1986年10月17日 冬季、夏季大会の順で行ってから結果が公表された。
アルベールビルは、ほぼ間違いなく勝つだろう。アルベールビルの開催が先に決まり、夏季大会がバルセロナとパリで決戦投票持ち込まれた場合、パリは不利になるとメディアは予想した。

冬季大会は、実に6回の投票でアルベールビルが逆転勝ち。
第1回投票はソフィア(ブルガリア)が25票でトップ、アルベールビルは19票で2位だったが、最低得票の都市を落として投票を重ねるごとにアルベールビルが首位をとり、最後の6回目の投票ではアルベールビル51票、ソフィア25票、ファルン(スウェーデン)9票だった。

夏季大会の投票は、やはりバルセロナとパリの争いとなった。
2都市とも2度の投票まで過半数に達しなかったが、終始首位だったバルセロナが3回目に47票を集め、パリの23票を下した。

フランスはなぜ冬季五輪と夏季五輪の両方に立候補したのか。
疑問はやはりここに来る。
結果論でしかないが、バルセロナ招致を成功させたサマランチ会長は、自らの眼鏡に適った人物をIOC委員にし、五輪の商業化と肥大化を進め、ついにはIOCスキャンダルを巻き起こすのだが、それはまた別の機会に触れたい。

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July 11, 2013

新・五輪招致の記憶(6)豪腕プーチン ソチ五輪を呼び込む

安倍首相が外遊日程で頭を悩ませているそうだ。
というのも9月5、6日にロシアでの主要20カ国・地域(G20)首脳会議があり、7日にはブエノスアイレスでIOC総会がある。
IOC総会では2020年五輪開催地が決定されるため、どちらの出席にも意欲的だというのだ。

前回の2016年夏季五輪開催地の決まったコペンハーゲンのIOC総会には、鳩山由紀夫総理(当時)が出席しているが、東京と同じく落選したシカゴは、オバマ大統領が招致スピーチをしている。
IOC総会に首相、元首クラスの大物が出席するようになったのはいつからだろうか。

2012年の夏季五輪がロンドンに決まったのは、2005年7月シンガポールで開催されたIOC総会。
3大会連続立候補し、早くから本命とされたパリをロンドンが敗った。
各都市の招致委員会は会議場となる当地のホテルで、パリはフランスのシラク大統領(当時)、ロンドンはブレア首相(当時)、さらにはデビッド・ベッカムなどが集い、活発なロビー活動を行った。

このとき、ブレア首相とシラク大統領が顔を合わせたことで、五輪開催地決定の際に国家元首が招致アピールをする既定路線ほぼできたと言える。(厳密にいうならばブレア首相、シラク大統領ともに、直後にG8サミットを控えていたためロビー活動のみで、招致スピーチはしていない。)

2014年冬季五輪開催地は、2007年7月にグアテマラシティで開催されたIOC総会で決まった。
争ったのはソチ(ロシア)、平昌(韓国)、ザルツブルク(オーストリア)の3都市。
IOCの評価報告書では、平昌が最も評価が高く、世界中のスキーファンはモーツァルト生誕の地であるザルツブルクを推した。
が、直前にオーストリアのスキーとバイアスロンの6選手のドーピングが発覚し、五輪から永久追放を受けた。
オーストリア五輪委員会は、IOC総会のわずか2ヶ月前に100万ドルの罰金処分を受け、最も堅実と思われたザルツブルクが招致レースから後退して行った。

それでもザルツブルクの応援には、オーストリアからグーゼンバウアー首相とフィッシャー大統領(いずれも当時)が駆けつけた。
一方、韓国は盧武鉉大統領(当時・故人)、ロシアもプーチン大統領が顔を揃えた。

2年前の2012年夏季五輪開催地招致レースで、立候補したロンドン、パリ、マドリード、ニューヨーク、モスクワの5都市が投じた費用の総額に匹敵する4000万ドルもの大金をソチ、平昌の双方が使っているとAP通信が伝えた。ザルツブルクですら1300万ドルを投じたと言われている。
平昌の後ろにはIOCパートナーのサムスン、ソチの後ろにはロシアの国営ガス企業ガスプロムが控える国家総力戦だった。

ご存知のようにIOCには、100人以上の委員がいる。
とはいうものの、半数以上のIOC委員は、アフリカ、アジアの冬季五輪に直接関係のない(ほとんど参加しない)国の委員だ。
この浮動票をいかに取り込むかが鍵になる。

結果はソチが56-53で平昌を敗ったのだが、その勝因はプーチン大統領の存在といっても過言はない。
元々ソチという町は、旧ソ連時代から、共産党幹部が避暑に使っていたまち。
プーチン大統領も多分に洩れずソチにスキー用別荘を持っていた。
そのプーチン氏は投票2日前、米露首脳会談を経てグアテマラ入り。
IOC総会開会式後のレセプションでは、握手を求めるIOC委員等の行列ができた。
投票直前の招致演説では、英語とフランス語で政府の全面支援をぶち上げ、多くの委員の意表を突いた。
プーチン氏が公の席でロシア語以外を披露したことは、おそらくこれが初めて。
世界中が驚いた。
一方、韓国の盧武鉉氏、韓国語の原稿を見ながらの演説ではプーチン氏に適うはずもない。

ソチの招致戦略は多くの面でロンドンをモデルにしたもの。
12年モスクワ招致の失敗から、複数の五輪金メダリストを招致の顔に立て、計画策定にも関わらせた。
競技施設群と選手村を集中させ、コンパクトさもアピールした。

ソチの勝利を受けてロゲIOC会長はこう述べた。
「政治的リーダーによる保証と支援は心強い。成功する招致の条件は、政府と国民の強力な支持を得ていることだ」。
そして僅差で平昌をかわしたのは、元駐ソ連大使でロシアへの思い入れが強いサマランチ前会長の影響力もあったとも言われている。


平昌は、この4年後2018年の冬季五輪招致を成し遂げるのだが、ソチに敗れたこのとき、韓国の聨合通信はこんな記事を配信している。
(このいかにも韓国らしい記事は韓国語のみで、英語の記事も日本語の記事もなかった。)


平昌は2回連続冬季五輪招致に失敗して 8年に渡る努力が水泡に帰してしまった。

一方黒海沿岸の夏休養地であるソチは競技場施設が全くない状態で、度が外れた環境破壊によって非難が殺到している。
また、初の立候補で冬季五輪開催地になり相当な論難がおこる見込みだ。

2010年五輪招致に失敗した平昌は直後直ちに組職を再編し、完璧に2014年招致を準備した。
IOC委員たちを対象に底引網招致作戦(?)を広げたし北朝鮮五輪委員会も支持を約束して対外的な名分でも一番先に進んだ。
(サムスン会長でIOC委員の)李健煕も世界を通いながら支持を訴え、現代・起亜,LG,SKなどの企業グループも総力戦を広げた。

盧武鉉大統領までIOC総会の開催されるグアテマラに行き、スポーツ外交'を広げたが IOCは結局プーチン大統領に迎合してしまった。
今回の冬季五輪開催地投票の結果は対外的な名分と完璧な招致計画よりはIOC委員たちが人的な影響力とロビー活動に屈したという点で相当な非難が起こるだろう。(以下略)

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June 18, 2013

新・五輪招致の記憶(5)嘉納治五郎の意思が呼び込んだ64年東京五輪

後に五輪開催地になるミュンヘン(西独=当時)のIOC総会で1964年の夏季五輪東京開催が決定したのは、1959年5月26日のこと。
半世紀以上前になる。
対立候補だったデトロイト、ウィーン、ブリュッセルを抑えて、聖火はアジアに初めて灯されることになった。
 
当時の首相は岸信介。「東京で五輪を開くことは、国民多年の念願。成功させるため、全力を挙げて努力していきたい」と決意を述べたという。
IOC総会のひと月前に東京都知事に選ばれたばかりの東龍太郎も、公約の一つに五輪開催を掲げていた。
東は1947年から1959年まで日本体育協会会長とJOC会長を兼務、1950年から1968年までIOC委員を務めた人物である。

東京が最初に五輪招致を目指したのは1940年大会。
このとき対立候補はヘルシンキと、ローマ(その後撤退)だった。
1936年8月31日 ベルリン五輪に合わせて開催されたIOC総会で東京に決定した。
36対27という投票結果が残っている
このとき東京開催に尽力したのは嘉納治五郎。
柔道の創始者として知られ、今日でも嘉納杯に名を残す嘉納だ。

嘉納は1909年(明治42年)に日本人初のIOC委員となった。
IOCの創立が1894年だからことのほか日本人初のIOC委員は早く誕生していたことになる。
1911年に日本体育協会の前身である大日本体育協会を設立し、1912年日本初の五輪参加となるストックホルム五輪に団長として参加した。

ところが、嘉納は東京五輪を2年後に控えた1938年、カイロで開かれたIOC総会の帰路、5月4日 横浜港に帰港する氷川丸の船内で肺炎により急死した。
突然の死から2カ月後、日本政府は日中戦争の拡大を理由に東京五輪開催を返上、1940年五輪はヘルシンキに変更されたが、後に大会そのものが中止とされた。

嘉納が氷川丸船上で亡くなったときに、最期を看取った人物に当時外務省に勤務していた平沢和重がいた。
平沢は後にNHK解説委員になり、1959年の東京招致を決めたIOC総会では招致演説をしている。
「世界柔道史」(恒友社刊)の序文に平沢のこんな文章がある。

「東龍太郎博士がIOC委員諸公に私を紹介する時に『嘉納先生の最後をみとった人物』であることに触れたとたん、委員諸公の顔にはありありと緊張の色が浮かんだ。大部分の委員は嘉納先生を知っていて、改めて先生の逝去を悼んでくれた。従って、私の演説の蔭(かげ)の力としてどれだけ嘉納先生の存在が物を言ったか計り知れないのである」

嘉納治五郎の思いが1964年の東京五輪招致にも生き続けたというエピソードである。

 

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June 15, 2013

新・五輪招致の記憶(4) 長野勝利とサマランチ、堤義明、荻村伊智朗

このところ懐かしい名前がメディアに登場した。
堤義明氏 79歳。
西武グループの元オーナーであるだけでなく元JOC会長。
故サマランチIOC会長と親しく、長野五輪招致に著しく貢献した人物だ。
この堤氏が西武HDの株主総会で経営陣を支持することを表明したかと思えば、東京五輪招致に向けてJOCの最高顧問に就くという。

この週末スイスのローザンヌでは、各国オリンピック委員会連合(ANOC)総会
が開かれ、2020年五輪に立候補している3都市のプレゼンが行われる。
 

五輪招致、堤義明氏とローザンヌといえばこの話を思い出す。
1998年に冬季五輪を開催した長野市。
長野の開催が決まったのは1991年のバーミンガムで開かれたIOC総会だ。
当時のIOC総会だったサマランチ氏(故人)は、IOCの本部のあるローザンヌに五輪博物館を作ろうとしていた。

ハコモノを作る際に先立つものはカネ。
サマランチ会長は五輪博物館を作るために堤氏を通して日本企業に寄付を求めた。
結果、一口100万ドル以上を寄付した企業は全世界で33社、その内日本企業が19社、堤氏個人も100万ドルを寄付した。
今この博物館は改修中のはずだが、1 階ロビー奥に積み上げられた石板には、寄付した企業名が刻まれている。
サマランチ氏の名前もあり、その右隣に、盟友「ヨシアキ・ツツミ」の名前が刻まれている。

堤氏がローザンヌに行ったのかどうかは知らないが、東京側が堤氏の威光を再び利用しようとしているのだろう。
日本にはそれほど人材がいないのだろうか。


話を1991年に戻そう。
この年に来日したサマランチ氏の行動を振り返ってみる。
4月24日 世界卓球選手権開幕(千葉市幕張メッセ)
5月4日 サマランチIOC会長来日 
競技は1日のみの視察をし、幕張プリンスホテル(当時)の宴会場で開いた昼食会には秋篠宮夫妻も招いた。
5月5日 JOC独立記念祝賀会開催 サマランチ会長出席
オリンピック・オーダー金賞が決まった堤義明JOC前会長に対し、自ら金賞メダルを授与した。東京での宿泊は東京ディズニーランド近くの外資系ホテル。最上階を借り切った。
5月6日 世界卓球閉幕
5月7日 サマランチ会長は随行員5人のほか、JOCや長野五輪招致委員会、報道関係者らとJR海浜幕張駅から長野に向け、3両編成の特別列車に乗り込んだ。
特別列車は、当時あった豪華さが売り物の団体専用列車「シルフィード」。
ラウンジ風の展望室があり、カラオケも楽しめた。
夜は、市民団体など500人による歓迎レセプションに出席、戸倉上山田温泉の名門旅館を借り切っての接待を受けた。
翌朝、列車は松本へ。
会長は松本空港から、トヨタ自動車の社用機で名古屋に向かい、同社を見学。
さらに、大阪の松下電器(現パナソニック)を訪問している。


このようにこの当時の五輪招致に、サマランチ氏は絶大な影響力を持ち、立候補都市は最大限にもてなした。
が、サマランチ氏に影響力を行使できる人物が日本にも2人いた。
ひとりは前述の西武鉄道のオーナーだった堤義明氏、もうひとりが荻村伊智朗さん(1994年没)。

荻村氏は、卓球が五輪種目になる前に何度も世界王者になり、引退後は国際卓球連盟会長、JOC国際委員長も務めた方だ。

サマランチ氏を幕張の世界卓球に呼べたのも荻村氏であればこそ。
サマラン氏と、約束なしで会えることのできた荻村氏の存在なくしては考えられない。
残念ながら長野五輪前に亡くなったのだが、国際的な知名度、影響力など際立った存在だった。
こうした人物が今日本にはいないではないのだろうか。

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June 05, 2013

新・五輪招致の記憶(3) 今だから言える 名古屋がソウルに敗れた理由

 「セウル!」
1981年9月30日、西ドイツ(当時)・バーデンバーデンのクアハウスの2階で開かれたIOC総会で、1988年の五輪開催地がIOC会長から発せられた。
会長の名前はアントニオ・サマランチ。
この前年東西冷戦の最中、ボイコットに揺れたモスクワ五輪の際のIOC総会で会長になった男が発したのは極東の半島にある軍事政権下の国の首都で、当然勝つだろう言われていた名古屋市ではなかった。

1980年代、五輪は嫌われ者だったといってもいいだろう。
開催に手を挙げる都市はなく、開催すれば莫大な赤字が残った。
加えて76年にはNZのオールブラックスの南アフリカ遠征に端を発したアフリカ諸国のボイコット、80年、84年は東西冷戦の煽りを食ったボイコットの応酬に見舞われ、3大会続けて五輪は正常な形で開催されなかった。
実際1976年以降1988年までの夏季五輪に立候補した都市はこれしかない。

1976年 ◎モントリオール モスクワ ロサンゼルス
1980年 ◎モスクワ ロサンゼルス
1984年 ◎ロサンゼルス
1988年 ◎ソウル 名古屋
(◎は開催の決まった都市)

1976年大会に立候補した3都市が、結局順番に84年まで開催しているのだが、1984年大会に立候補した都市はロサンゼルスのみ。
莫大な赤字を背負ったモントリオールの記憶が新しく、他に立候補を表明する都市はなかった。
アメリカ連邦政府、カリフォルニア州政府はビタ一文税金を使わないのなら、開催してもいいよとロサンゼルス市に通告した上での立候補だった。
これが今日でも踏襲される商業五輪の原型となるのだが、1988年五輪開催地を決めるIOC総会は、ロサンゼルス五輪開催のまだ3年前のことだ。

当時は東西冷戦の真っ最中。
この前年に開催されたモスクワ五輪は西側主要国のボイコットに遭った。
多くの方は西側のほとんどが参加していないと思われているだろうが、実際にボイコットをした西側の主要国は米国、カナダ、日本と分断国家だった西ドイツ、韓国などだ。
その韓国は全斗煥政権時代。
1979年に朴正煕大統領が暗殺されると、全斗煥は、暗殺を実行した金載圭を逮捕・処刑するなど暗殺事件の捜査を指揮、12月12日に戒厳司令官鄭昇和大将を逮捕し、実権を掌握(粛軍クーデター)。
1980年9月に自ら大統領に就任した。

朴政権は、1990年代初頭に五輪招致の目標を掲げていたが、全斗煥政権は目標を前倒し、1988年夏季五輪招致を決めた。

ソ連、東ドイツなど東側諸国は北朝鮮と友好関係にあり、当時韓国とは一切の国交を持っていなかった。
そのため、1978年にソウルで開催された世界射撃選手権に東側諸国は参加をしていない。
こうした事情から、日本側はソウルが開催地に決まっても、東側の参加しない片肺五輪になるリスクが高く、浮世離れしたIOC委員も、ソウルには投票しないと予想、戦わずして名古屋勝利を誰もが信じていた。
日本のマスコミの中では、最も名古屋五輪に否定的だった朝日新聞ですら10月1日付けの「決定名古屋五輪」の別刷りを用意していた。

 

ここからソウルの逆転劇が始まるのだが、重要な登場人物が3人いる。

●ホルスト・ダスラー
 ドイツのスポーツ用品メーカーadidas社の社長。
●金雲龍
 韓国の元外交官 世界テコンドー連盟会長。後のIOC副会長。
●瀬島龍三
 戦前は大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長。

 

◇名古屋五輪構想◇
1988年10月8日から16日間、名古屋市を中心に東海地方で21競技を繰り広げる。主競技場は、名古屋市の平和公園南部に建設。市の試算では、大会運営費、競技施設費は合計1100億円。
1980年11月に閣議了解された。  
1988年五輪に立候補意志のあった都市はほかにもアテネ、メルボルンがあったが、財政的な理由などで立候補を見送った。
立候補締め切り日に手続きをした都市は名古屋のみ。
ソウルは締め切り翌日にファクシミリで手続き書を送るが、IOCはこれを受け付けた。
ソウルの準備不足は明らかと思われた。

この当時の五輪が政治に振り回されたことは先にも書いた。五輪にプロは原則排除され、自主的な収益モデルを持たない競技団体、選手個人は行政(政府)に頼っていた。
この件についてサマランチ氏は生前こう話している。
『国際スポーツ組織にとって重要なのは「お金」だと、私は思っていた。資金がなければ、何もできないからだ。そして、その資金は、テレビ放送権やマーケティングによって生み出すべきで、政府に依存するべきではないと。政府に頼れば、組織の独立性が失われる。そして政府は、(五輪ボイコットのように)時として異なる方針を持っているからだ。』

政治からの独立のためには五輪の商業化、五輪の商業化のためには世界最高水準の選手の五輪参加が必要。これが1980年にIOC会長に就任したサマランチの考えだった。

サマランチの考えに賛同し、当時確立されていなかったスポーツをビジネスにするモデルを考えついたのが世界最大のスポーツ用品メーカー「アディダス」を創設したアドルフ・ダスラーの長男、ホルスト。
この時代の五輪の画像を見て欲しい。
多くの選手が履くシューズには3本線、ウエアの胸には月桂樹の冠をモチーフにした三つ葉マークがある。
どちらもアディダス製であることを物語る。
アディダス社を率いるホルストは、世界のスポーツ界に絶大な影響力を持っていた。

IOC委員を長く務め、日本サッカー協会の名誉会長でもある岡野俊一郎氏。
岡野氏はホルスト・ダスラーとは旧知の仲で、ホルストが来日すれば必ず岡野氏の自宅を訪れていたという。

名古屋招致はほぼ決まったかのように見えた。
名古屋市の幹部の元には米国3大ネットワーク(ABC、NBC、CBS)の副社長級の人物がたびたび訪れていた。
IOC総会の前にテレビ放映権交渉の予備交渉が始まっていたのだ。
このとき名古屋市は放映権を350億円と見込んでいた。

ところが、あるとき岡野氏は、ホルストが来日して東京にいたはずなのに、自分に連絡してこなかったことに気づいた。
それまでなかったことだ。自分を避けているようだった。
調べてみて、その情報に驚いた。
「アディダスが、ソウルについた」

 

サマランチは、IOC会長になってすぐに、ホルスト・ダスラーと、IOCのマーケティング・プログラムについて話し合いを始めている。
これがやがて現在も続くIOCのスポンサー制度TOPの元になる。
ホルストは、IOCだけでなく、FIFAマーケティングの仕組みを作り、82年にはマーケティング会社ISLを創業した。(但し2001年に破綻)
こうしたホルストの動きに目を付けたのが、韓国の外交官から国際テコンドー連盟の会長を務めていた金雲龍。
金雲龍はホルストにこう話を持ちかけた。
『ソウルが五輪招致に成功したら、ソウル五輪に関する全ての商業的権利、テレビ放映権、コイン、切手、マスコットの権利を10億ドルで君に売るよ。』
こうしてアディダスはソウルについた
金雲龍とホルストは、前代未聞の買収=サンダーボール作戦を展開、票固めをした。
世界一周の航空券が渡されたとか、現金が飛んだとか様々言われている。

一方東京では、海外との名古屋の橋渡し役を果たしていた外務省の動きが鈍くなっていく。
そして一切外務省から情報が流れてこなくなった。
これを操っていたのが伊藤忠商事会長の瀬島龍三。
韓国大統領の全斗煥や盧泰愚は、瀬島の陸軍士官学校の後輩にあたり、若い頃から瀬島に絶大な信頼を寄せていたという。
瀬島龍三が、日本政府として名古屋五輪招致に関与しないよう、ソウルに勝たせるべく動いた。

 

1981年9月30日、西ドイツ、バーデンバーデン 第84回IOC総会が始まった。
会場には韓国の欧州駐在大使が勢ぞろいした。
IOC委員の部屋には朝、韓国側から花束が届けられ、活発なロビー活動が繰り広げられた。
一方、名古屋の招致団は総勢49名いたが、在欧州の外交官はゼロ。
余りに華やかさに欠け、JALのCAが数人手伝ってくれた。
IOC総会開幕直前になり、招致団はようやく深刻な事態に気が付いた。
柴田勝治JOC委員長(当時は会長職ではない)がなぜか直前に帰国。
愛知県選出の江崎真澄衆院議員の会場入りも中止になった。
五輪に立候補しているNOCのトップが、IOC総会に参加しない、これだけでも異常な状態であることが判るだろう。
投票結果が発表される数時間前、名古屋市の事務局に現地情報が流れた。
「小差ながら、負ける可能性が高い。」

 

投票結果は午後3時45分にサマランチ会長の口から発表された。
52-27
シナリオ通りソウルが名古屋を圧倒した。

 

ソウル五輪開催決定に暗躍した3人のその後について簡単に述べよう。
●ホルスト・ダスラー
 1982年にスポーツマーケティング会社ISLを電通と合弁で設立。
 1987年 ソウル五輪の開幕1年半前にガンのため死去 51歳。
 2人の子どもは盧泰愚大統領の招きでソウル五輪の開会式を観戦している。
 なお、スポーツマーケティング会社ISLは2001年破綻。

●金雲龍
 ソウル五輪招致を成功させ1986年からIOC委員、92~96年IOC副会長。
 国際競技連盟総連合会(GAISF)会長。
 93年大韓体育会会長、韓国五輪委員会委員長を経るが、2005年再三の汚職と横
 領の罪により逮捕され辞任。
 韓国語のほか日、英、独、仏、スペイン、ロシア語を操った。
 *金雲龍氏は2017年10月3日老衰のため亡くなりました。86歳でした。

●瀬島龍三
 1981年伊藤忠商事相談役、1987年同社特別顧問。中曽根政権のブレーンとして、中曽根康弘首相の訪韓や全斗煥大統領の来日や昭和天皇との会見の実現の裏舞台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。
 山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正のモデル。
 2005年に95歳で死去。

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