ソチ2014

February 24, 2014

モスクワ五輪とソチ五輪の閉会式の演出 ロシア人のセンスは34年経っても変わらない

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▲モスクワ五輪(1980年)の閉会式で涙を見せたマスコット こぐまのミーシャ

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▲ソチ五輪(2014年)の閉会式で涙を見せたマスコット ホッキョクグマ(The Polar Bear)

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February 18, 2014

ジャンプ団体も最初から強かった訳じゃない 初採用のカルガリー五輪では最下位だった

スキージャンプの団体が、初めて五輪の正式種目になったのは1988年のカルガリー五輪だ。
日本チームは田尾克史、田中信一、長岡勝、佐藤晃の4人で臨み11か国参加の11位に終わっている。
ところが、ご存知のようにこの6年後のリレハンメル五輪では銀メダルを、10年後の長野五輪では金メダルを獲得している。
その後は5位前後が定位置だったが、長野から16年再びメダルを手にした。

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スピードスケートの結果に関して まだ全て競技が終了したわけではないが。

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February 15, 2014

ソチ五輪の開会式で 北方領土が雲で隠されていたことに関して

ソチ五輪も折り返し地点を過ぎた。
今回は1週間前の開会式のできごとを振り返ってみたい。


7日のロシア・ソチ冬季五輪の開会式で、日本選手団の入場行進の際、地面に映し出された日本地図の北海道東部周辺に雲のようなものがかかり、北方領土が見えない状態になっていた。(共同通信)

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▲日本選手団が入場した際に日本の地図が映し出されたが、北方領土には雲らしきものがかかっていた。

この件に関しては様々な意見があるだろう。
私自身は下記のツイートに同意する。

北方領土はロシアが実効支配しているが、領土問題の相手国の立場も考慮し、曖昧にするものだ。
この根拠には中国が入場してきたときに確信した。

中国にとって台湾問題は国内問題であるという態度をとる。
台湾は中国の一つの省であり、台北にある国民党政府は地方政府であるというもの。

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▲中国選手団が入場した際に映された中国の地図

ところが、中国選手団が入場してきた際に映し出された中国の地図には台湾はない。
実際には台湾があるはずの位置は、選手が通る道が通っており、都合よく隠したかたちだ。

もちろん、ソチ五輪には台湾、中華民国ではなくChinese Taipeiも参加しており、開会式には台湾の地図が映し出された。
言わば、中国、台湾のどちらの面子もつぶすことはなかったのだ。
ロシア人は、お客さんをもてなすことが好きで、寒い中訪ねてきた友人には温かいスープと一杯のウォッカを出すのだ。


かつてユーラシア大陸にまたがるソビエトという国があった。
今から34年前、ソビエトの首都モスクワでは夏季五輪を開催したが、その前年からアフガニスタンに軍事侵攻したことを理由に米国、西ドイツ、日本、韓国、中国、イラン、パキスタンなどの国がボイコットをした。
当時は東西冷戦の最中であり、スポーツが政治の具にされた悲劇である。
なお、多くの西ヨーロッパの国は、開会式のボイコットや国旗ではなく、五輪旗の下に参加するなどの手段を取った。
モスクワ五輪は、ソビエトの国威発揚と社会主義の優位性を世界に見せつけることが目的だったが、その目的が達成されたかは難しい。

ソビエトは1991年に崩壊し、モスクワを首都とする国はロシア連邦となったが、ソチ五輪開催にあたってモスクワ五輪が教訓となっていることは間違いないだろう。

さて、ソチ五輪の4年後は韓国平昌で冬季五輪が開かれる。
平昌の招致活動をしていた際、IOCに提出した開催企画書「PyeongChang 2018 Replies to IOC Questionnaire」に下記のようなページがある。

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▲PyeongChang2018Replies to IOC Questionnaireより 日本海と東海の併記どころか、東海としか記されていない。


地図上で本来「日本海」を表す海を全て「東海 East Sea」としているのだ。
「日本海呼称問題」というのを知っているだろう。
日本海という呼称を快く思わない韓国が、できれば東海、少なくとも日本海・東海の併記に持っていこうとする政治運動のことだ。

現在世界では日本海の名称は、当該海域の国際的に確立した唯一の名称であるとなっている。
これに対し韓国政府は、
韓日両国が共通の名称で合意に達するまでは、両方の名称を併記して使用する事が最も望ましい。
としてきたはずだが、平昌招致にあたって東海の単独表記をしていたのだ。

他の国の気持ちを慮ることのできない国は五輪ホスト国にふさわしいだろうか。
もちろん、このことは夏季五輪開催の決まった日本にも言えることだ。


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February 11, 2014

女子500m 無敗のまま金メダルなるか李相花(イサンファ)

五輪スピードスケート女子500mのメダリスト
2回の滑走の合計で争うようになった長野五輪以降。
Lady500m

バンクーバー五輪金メダルの李相花。
韓国では「氷速女帝」と呼ばれる。
今季、500mではW杯7連勝中。
3レース連続で、世界新記録のおまけも付く。
W杯は通算27勝。
自他ともに認める金メダル候補だ。

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February 10, 2014

葛西紀明だけじゃない ソチ五輪が7回・6回・5回目の五輪だった選手たち

ソチ五輪が、4回以上の五輪となる選手の一覧を作ってみた。
日本人選手は全員。
海外の選手は有名な選手だけ。まだまだ何人もいる。

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今朝未明、スキージャンプのNHが行われ、日本勢は葛西紀明が8位に入ったのが最高だった。
ご存知のように葛西は今回で7回目の冬季五輪出場を果たし、史上最多となった。
初めて出場した五倫は1992年のアルベールビル大会。
選手寿命が大幅に伸びていることに伴って、以前に比べて連続出場は随分増えてはいるが、恐れ入る体力と精神力だろう。

7大会連続五輪出場は、開催国ロシアにもいる。
アリベルト・デムチェンコ42歳。男子リュージュの選手だ。
葛西と同じく昨日競技があり、一人乗りで2006年トリノ五輪以来の銀メダルを獲った。

昨日はもうひとりすごい選手の出番があった。
ドイツのスピードスケート選手、クラウディア・ペヒシュタインが女子3000mに出場、4位に入った。
彼女の五輪デビューは、1994年のリレハンメル大会。
このときから連続出場していたら6回目の五輪だったのだが、2010年のバンクーバー五輪は、ドーピング検査に引っかかって出場停止。今大会が5度目の五輪となる。
ドーピングについては『遺伝的なもの』ということで現在は競技に復帰している。
1972年に当時の東ベルリンに生まれた彼女は、当時世界最強を誇った東ドイツのスポーツ英才システムで育てられた最後の選手だ。
1994年から2006年までに獲った五輪メダルは、金6、銀2、銅2。
40歳を超えて、8年間のブランクを抱えてさらにメダルの数を増やせるだろうか。

ソチ大会が6大会連続になるという選手もいる。
韓国のスピードスケート選手、李奎ヒョク。(ヒョクという字はパソコンでは出てこない)
今大会の開会式では韓国選手団の旗手を務めた36歳。
世界スプリントでは4回優勝、常に金メダル候補と言われながらなかなか五輪ではメダルが獲れていない。
今夜行われる500mには3組目に出てくる。
スピードスケートは後半に強い選手が出てくるので、3組目くらいだと気楽に好成績を残すかもしれない。
ほかにも6大会連続五輪出場の選手には、アメリカのノルディック複合のトッド・ロドウィック、フィンランドのジャンプ選手ヤンネ・アホネンがいる。
アホネンは昨夜のNHにも出場、28位に終わった。
葛西同様、五輪の個人メダルを未だ手にしておらず、引退と復帰を繰り返している。

日本のスピードスケートの田畑真紀は、出場は5回目ながら五輪代表選出は6回目となる。
というのも地元開催だった1998年の長野五輪は、選出されながら骨折、出場辞退したという経緯がある。バンクーバー五輪で銀メダルを獲った女子パシュートチームの一人と言えば分るだろう。
昨年11月に39歳になった。

連続出場ではないが、16年ぶりに五輪に帰ってきたのが女子アイスホッケーの近藤陽子。
長野五輪に開催国枠で出場し、今回堂々予選突破を果たし五輪の舞台に帰ってきた。
長野五輪の大会期間中に19歳の誕生日を迎えたが、ソチ五輪の大会期間中に35歳の誕生日を迎える。

最後に、カナダの女子アイスホッケー選手ヘイリー・ウィッケンハイザー。
長野の銀メダルを皮切りに、ソルトレーク、トリノ、バンクーバーで3個の金メダルを獲得。
今大会も金メダルの有力候補だが、もう一つすごいのは2000年のシドニー五輪に、ソフトボールのカナダ代表で出場していること。
夏冬合わせて6大会出場という強者だ。


●参考記事
20年ぶり五輪出場 アイスホッケー チェコ代表ペトル・ネドベド

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February 08, 2014

1980年モスクワオリンピックと2014年ソチオリンピックを比較してみた

第22回冬季五輪ソチ大会は7日午後8時14分からロシア南部の黒海沿岸にあるソチで開会式が行われ、4年に1度の冬の祭典が幕を開けた。

冬季五輪では史上最多の88か国・地域から選手約2800人以上(未だ未確定)が参加し、23日まで7競技98種目で熱戦を繰り広げられる。
日本選手団は総勢248人(選手は113人)で、海外で開催される冬季大会では史上最多。
女子選手は65人で、冬季五輪では初めて48人の男子を上回った。

ロシアでの五輪開催はソビエト時代の1980年モスクワ五輪以来。
当時は東西冷戦の最中で、米国、日本、西独などがボイコットしたこともあり、参加国は81か国。
ソチ五輪には88カ国が参加、モスクワ五輪を上回った。 

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〈参考〉2013年にロシアで開催されたスポーツイベント
Moscowseriku


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February 07, 2014

モーグル上村愛子 メダルを獲るまであと3回滑る

フリースタイルスキー女子モーグルの予選1回目があり、5度目の五輪出場で初のメダル獲得を目指す上村愛子が21・01点で7位となり、上位10人に入って決勝進出を決めた。
4年前のバンクーバー五輪の際にも書いたのだが、上村はこれまでの4回の五輪本番でほぼ予選と同等の滑りを決勝でも見せる。
すると今回も予選の7位が目安になるのか?

いや、これまでモーグルは予選と決勝が同一日に行われていた。
しかし今回は決勝は日本時間9日午前3時から。
しかも1回目を20人で行い、2回目は12人、3回目は6人で競うことになっている。
時間が開くことは、上村にとっては良いことだろう。
ただ、メダルを獲るにはあと3回滑ることになり、34歳とずいぶん年齢の高くなった上村にはきついかもしれない。

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▲上村愛子のこれまでの競技結果

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February 04, 2014

ソチオリンピックにロシア代表で出場する 元韓国代表安賢洙(アンヒョンス)

ソチ五輪のショートトラック競技に出場するロシアの選手にビクトル・アンという選手がいる。先に行われた欧州選手権でも500m優勝、1000m優勝、3000m優勝、1500mでは9位に終わったが、5000mリレーでもロシアの優勝に貢献、文字通り欧州NO.1の実力を見せつけた。
プロフィールを見てみよう。
1985年11月23日 韓国ソウル生まれの28歳 韓国体育大学卒業
えっと驚かれるかもしれない。そう。元々韓国人なのだ。

韓国時代の名前は安賢洙だったといえば思い出す方もあるかもしれない。
16歳で2002年のソルトレークシティ五輪に参加。
この時は無冠に終わるも20歳で出場したトリノ五輪では、1000m、1500m、5000mリレーで金メダルを、500mでは銅メダルを獲得した大選手だ。

韓国では五輪金メダリストに対して破格の待遇を用意する。
金3銅1の安賢洙には、
報奨金2億5950万ウォン(約3140万円=当時の換算レート)
生涯年金毎月100万ウォン(約12万円・同上)
さらに兵役免除が付け加わった。

ところがトリノ五輪直後からトラブルに巻き込まれていく。

2006年4月にこんな記事を筆者は書いている。
 
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それでも競技は続けていたが、バンクーバー五輪の前年に、所属していた城南市庁チームが解散し、所属チームなしの状態になり、韓国代表からも漏れた。
25歳で引退の決意をしようとしていたとき、そんな安賢洙にロシアスケート連盟が声をかけてきた。

ロシア人にならないか。

ロシアはソチ五輪を控えるも、ショートトラックには人材がいない。
安賢洙だったらロシア代表として十分にやっていける。

当初、安賢洙は露韓の二重国籍を想定していたらしい。
が、韓国側は韓国籍の離脱を求めた。
トリノ五輪の活躍で手にしていた生涯年金を捨ててまでロシアに行くべきか。

ところがロシア側も破格の条件を出していたらしい。
ロシアでかかる費用すべてをロシアスケート連盟側が負担する。またそれとは別に生活費として毎月1万ドルを別に得ているという。
さらに、ソチ五輪でメダルを獲れば、金メダルに400万ルーブル(約1240万円)、銀メダルに250万ルーブル(約775万円)、銅メダルに170万ルーブル(約527万円)の報奨金が得られる。
ロシアは前回のバンクーバー五輪は金メダル3個で国別では11位と、ソ連崩壊後のロシア単独参加で最低の成績に終わった。自国開催のソチ五輪では金メダル数でトップ3に入ることが至上命令なのだ。

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▲ロシアのショートトラック選手 左がビクトル・アン

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February 03, 2014

20年ぶり五輪出場 アイスホッケー チェコ代表ペトル・ネドベド

チェコ人のネドベドというと多くの人はサッカーのパベル・ネドベドを思い起こすだろう。
ラツィオやユベントスで活躍したあのネドベドだ。
とこころが、ソチ五輪のチェコ選手団に同じネドベドという名前の選手がいて、密かに注目が集まっている。

彼の名前はペトル・ネドベド。チェコスロバキア時代の1971年12月9日リベレツに生まれたアイスホッケーの選手。
42歳、サッカーのネドベドよりも1歳年上になる。
1989年1月 17歳だったネドベド少年はカナダ・カルガリーで行われた国際試合Mac's Midget AAA World Invitational Tournamentに参加した。
アイスホッケーの非常に盛んなカナダではこうしたジュニアを対象にした大会は頻繁に行われている。

大会開催中だった1989年1月2日、ペトル・ネドベドは、夜中に彼のホテルの部屋を出てからカルガリー警察署に入り言った。

『亡命したい』

東西冷戦時代、東側のスポーツ選手が西側に遠征に行った際に亡命するケースが多々あった。
ただ、1989年というのは、冷戦末期であり、ポーランドではポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代し、ハンガリーやチェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れている。
東ドイツ国民が西ドイツへ大量脱出し、11月9日には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴とも言うべきベルリンの壁が崩壊しているのも1989年だ。
ネドベドが亡命するひと月前の1989年11月には、体操のナディア・コマネチがルーマニア革命の直前にハンガリー、オーストリア経由でアメリカに亡命している。

ネドベドは、亡命する意思を両親にも伝えていなかった。
そして、カルガリー警察に出頭した際の所持金は僅かに20ドルだった。
10カ月後、チェコスロバキアの共産主義体制はビロード革命により崩壊した。
彼の両親は母国に戻るように説得にあたったが、ネドベドが戻ることはなかった。

1シーズンマイナーリーグでプレーしたネドベドは、翌年からNHLのカナックスに移籍、その後はNHLのスター選手の一人となる。
3年間のカナックス時代にカナダの市民権を取得、1994年のリレハンメル五輪にカナダ代表として出場することになった。

五輪のアイスホッケーにNHLのスター選手が出場してくるようになったのは1998年の長野五輪からで、リレハンメル五輪に参加したカナダ代表は、若手のNHL選手が中心だった。
このチームには日系三世のポール・カリヤがおり、ネドベドとともに中心選手として活躍した。
年齢は二人とも22歳だった。
スウェーデンとの決勝戦は2-2から延長戦でも決着が付かず、PS戦になる。
7人目のカリヤのショットは、スェーデンのゴーリー、トミー・サロに止められ金メダルはスェーデンが手にした。

リレハンメルの銀メダルのから8年後、NHLのオールスターで固めたカナダ代表は決勝で米国を下し、金メダルを獲得した。
アイスホッケー大国で知られるカナダだが、トッププロが出場できなかった五輪では金メダルが遠く、1952年のオスロ五輪以来50年ぶりの金メダルだった。
このカナダ代表の中にポール・カリヤの名前はあるが、ペトル・ネドベドの名前はない。

それから12年

2014年1月6日 ソチ五輪に出場するアイスホッケーチェコ代表が発表されると世界中のホッケーファンが驚いた。
チェコの長野五輪金メダルの立役者であるヤロミール・ヤーガーが41歳にして5度目の五輪出場を決めたことと、ヤーガーよりも1歳上のペトル・ネドベドがチェコ代表に名前を連ねたからだ。



ネドベドは2007年にチェコに戻り、2008年からは故郷のホワイトタイガースリベレツに所属している。

ネドベドがカナダ亡命後もずっとチェコ国籍を所持していたのか、あるいは再取得したのかは不明だが、IIHE国際アイスホッケー連盟の規則では4年以上の間隔があれば、かつての代表チーム以外の代表チームでプレーすることができるとある。
20年のブランクを経て五輪の舞台に再び立つのは、アイスホッケーにおいては初となる。

(*注)日本の馬術選手 法華津寛は、1964年の東京五輪に出場から44年後の2008年北京五輪に出場、史上最長記録である44年ぶりの五輪出場を果たした。
チェコスロバキア(現チェコ)から亡命したスポーツ選手として、恐らくもっとも有名なマルチナ・ナブラチロワは、1975年に米国に亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得し、現在は二重国籍である。

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