8月15日リオデジャネイロオリンピック、女子体操種目別跳馬をご覧になった方は驚かれるだろう。
その舞台には、7回目のオリンピック出場を果たした41歳の選手が出場しているのだ。
彼女の名前はオクサナ・チュソビチナ。
国籍はウズベキスタンとあるが、ここに至るまでひと口では語れないドラマがあった。
かつて、欧州大陸からアジア大陸の東までまたがるソビエト連邦という国があった。
1991年に消滅したこの国は、オリンピックのメダルを多く獲得することで、国威発揚を諮り、それを西側諸国に見せつけることで社会主義の優越性を見出そうとした。
オリンピックで獲得したメダルの総数はおよそ1200個にも達する。
得意とする競技はたくさんあったが、中でも女子の体操は群を抜いて強く、ソ連が初参加した1952年大会からソ連消滅後にEUN=旧ソ連の合同チーム として参加した1992年大会までの内、自らがボイコットしたロサンゼルス大会以外は団体で金メダルを獲った。
バルセロナオリンピックを前年に控えた1991年、ソ連共産党守旧派によるクーデターが勃発した。
この首謀者が、しペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行、東欧の民主化革命を支持し冷戦を終結させたゴルバチョフ氏の直接の部下であったため、ソ連共産党とゴルバチョフの権威は失墜した。
ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任し、ソ連は解体に追い込まれた。
ソ連解体後は、先に独立を果たしていたバルト3国を除く、ソ連を構成していた12の共和国は、合同チーム(EUN)を作り、1992年の冬季・夏季オリンピックに限りEUNとして参加することになった。
各共和国のスポーツ組織が整うのはまだまだ先のことだ。
ソ連として参加したオリンピックの全てに大量の金メダルを獲ったソ連だ。
国が例え崩壊しても、半年程度で競技力が急激に落ちることはない。
体操女子団体総合では、EUNが旧ソ連時代のソウルオリンピックに続いて2連覇を達成した。
旧ソ連時代を含めると10度目の団体金メダルである。
ボギンスカヤを中心に正確さと優美さを兼ね備えた演技で確実に得点を重ねた。
表彰式では、ソ連国旗と国歌に代わってオリンピック旗が掲げられ、オリンピック賛歌が場内に流れた。
ソ連国歌を諳んじられるほど馴染んでいたオリンピック関係者には、戸惑いも見られた。
とはいうものの、ルーマニアとアメリカの追い上げを、正確な演技と見事な団結力で振り切ったEUN。
表彰台には、晴れやかな笑顔が六つ並んだ。
以下のようなメンバーである。
スベトラーナ・ボギンスカヤ19歳 ウクライナ 個人総合5位
オクサナ・チュソビチナ17歳 ウズベキスタン 個人総合30位
ロザリア・ガリエワ 15歳 ウズベキスタン 個人総合8位
エレーナ・グルドネバ 18歳 ロシア 個人総合22位
タチアナ・グツー 15歳 ウクライナ 個人総合1位
タチアナ・リセンコ 17歳 ウクライナ 個人総合7位 平均台金 跳馬銅
長い栄光の歴史を持ったソ連の女子体操も、この大会でピリオドが打たれた。
この後、6人がさらに大きな花を付けて、オリンピック会場に戻ってくるのか、あるいはソ連の消滅とともに彼女たちも体操をやめてしまうのか、この時点では誰も予想できなかった。
バルセロナオリンピックが閉幕し、6人の金メダリストは、それぞれが新たな母国に帰国した。
ソ連時代には、2万5000人のステートアマと呼ばれる国家マル抱えのソ連代表選手がいた。
彼等にはその競技成績応じて、連邦スポーツ委員会から報酬が支払われ、その合計は年間1億5000万ルーブルにもなったと言われている。
海外遠征も連邦スポーツ委員会の資金で行われた。
だが、ソ連が崩壊して共和国が独立すると、選手派遣や強化費は共和国のスポーツ組織か自分で調達しなければならない。
その一方で、母国の旗の下参加する意義は大きいと誰もが考えた。
新しい祖国への熱い思いが、必ずしもよくない練習環境を跳ね返す原動力になったのはもちろんだが、それが5年も10年も続くとは思われなかった。
オクサナ・チュソビチナの母国であるウズベキスタンは、バラ色の天国ではなかった。
カリモフ大統領による独裁主義。野党は認めない、政府系以外のメディアの存在は認めない、そしてスポーツに回す予算はない。
間違いなくスポーツをするにも、人間らしい生活をするにも、かつてのソ連を下回る環境だった。
そのため、チュソビチナと同じバルセロナオリンピックの団体金メダルのメンバーで、ウズベキスタンが母国だったロザリア・ガリエアは逃げるようにロシアに市民権を移し、アトランタオリンピックをロシア代表として目指すことになった。
ロシアの体操関係者は、チュソビチナにも接触してきた。
オリンピックの体操団体は12カ国で争われる。
ウズベキスタンのような小国では団体のオリンピック出場権を得ることは不可能だ。
ロシア代表であれば、団体も、個人総合も、種目別も狙える。
世話になったコーチや友人もモスクワには多くいる。
モスクワに帰ったガリエワからも一緒にやろうという手紙をもらった。
が、踏みとどまったのは、結婚の約束をしているレスリングのウズベキスタン代表のクルバノフの存在だ。
ロシアのレスリング界にはクルバノフと同じ階級にマルティノフという強豪がおり、彼を倒さない限りはアトランタに行くことはできない。
2度目のオリンピック アトランタ 1996年
ウズベキスタンとして初参加したアトランタオリンピック、女子の体操に出場したのはチュソビチナともうひとりのみ。
ウズベキスタンは、団体の出場権はもちろん得られなかった。
チュソビチナは、個人総合では10位と健闘したが、種目別ではいずれも上位には進めなかった。
一方、ロザリア・ガリエワが加入したロシアは、地元アメリカには適わなかったが団体で銀メダルを獲得。
ロシアの17歳スベトラーナ・ホルキナが、段違い平行棒で金メダルを獲った。
そして、チュソビチナの恋人 クルバノフはレスリング・グレコローマン・フェザー級で16位に終わった。
自身2回目のオリンピックが終わり、チュソビチナは引退を考え始めた。
年齢的には19歳だが、体操選手の選手寿命は短い。
もういつ辞めてもおかしくない、そう考えた。
1997年に正式に引退、1998年クルバノフと結婚。
翌年には、長男アリーシャが誕生した。
2000年のシドニーオリンピックには、自身は出場するつもりはなかった。
が、カリモフ大統領から直々にオリンピック参加要請が来たため、出場するに至った。
というのも、ウズベキスタンに有能な後輩は全く育っていなかったのだ。
アリーシャが1歳のこの年、十分な練習を詰めるはずもなく、散々な結果に終わった。
夫のクルバノフは5位に入賞。
4年後のアテネオリンピックではメダルが獲れるかもしれないと思った。
やがて2002年 予想外の出来事が、このスポーツマン一家を襲うことになる。
4歳になったアリーシャが、急性リンパ性白血病に罹っていると判ったのだ。
この病気は、白血球の一種であるリンパ球ががん化し、骨髄で無制限に増えていく病気だ。
抗がん剤やステロイド剤による化学療法により、10年以上の生存率は8割に達する。
が、それは先進国の医療水準での話だ。
ウズベキスタンの医療水準は、日本の30年前のレベルにある。
タシケントの病院では治癒は難しい。
もしも患者全体の5%を占める悪性であったら、骨髄移植が必要になる。
アリーシャに適切な医療を受けさせるためには、海外に出るしかない。
治療のためには15万ドルを超える費用が必要になる。
チュソビチナがお金を稼ぐための手段は、体操しかない。
既に27歳になっていた。
10代でピークを迎えるといわれる女子の体操界にあって、27歳の選手は他にはいない。
が、愛息アリーシャを助けるために、練習を再開した。
この年になると、4種目の全てに練習することはきつい。
最も得意な跳馬に注力して練習するようにした。
この年ハンガリーのデブレツェンで開催された世界体操選手権跳馬で銀メダル、翌年アナハイムで開催された世界選手権跳馬では金メダルを獲った。
世界選手権には賞金が出される。
金メダルの場合3000ユーロ。
有難かったが、あまりに高額な医療費の足しにはなかなかならない。
むしろ、このときの様子がアメリカのメディアに乗り、多くのカンパが寄せられ、チュソビチナ基金ができた。
これでオリンピックのメダルさえ手にできれば、大きなスポンサーが付き、アリーシャの命は救われる、そう思っていた。
4度目のオリンピック アテネ2004年
重病の息子を抱え、オリンピックに帰ってきた29歳の元ソ連代表選手は、メディアの注目を一身に集めた。
体操女子予選の種目別・跳馬に挑んだオクサナ・チュソビチナ。
滑り止めを手のひらにすり込み跳馬台へ、だが1本目は転倒してしまった。
2本目は着地が乱れ、2本の平均得点は8・800にとどまった。
得意の跳馬に絞り込んで臨んだアテネオリンピックで、8位までの決勝進出の夢は断たれてしまった。
チュソビチナはここで大きな決意をする。
『ドイツの企業の支援を受けるために、ドイツ国籍を申請しました。4年後の北京オリンピックをめざしています』
まだ競技への意欲は満々だったのである。
2007年10月 ドイツへの国籍変更が認められた。
これを国際体操連盟も承認、晴れてドイツ代表として競技会へ参加できるようになった。
そして北京オリンピック 2008
金メダルを獲ったバルセロナオリンピックから16年。
オクサナ・チュソビチナ33歳になり、5回目のオリンピックを迎えていた。
最初は旧ソ連のEUN、そしてウズベキスタンから3回、今回はドイツ代表。
ケルンのスポーツクラブの施設は充実しており、今回は個人総合をも見据えて4種目の練習を十分に積んできた。
個人総合では9位に入った。
入賞には一歩及ばなかったが、バルセロナの30位、アトランタの10位を上回る自己最高順位だ。
そして、最もメダルに近いと自他共に認めていた跳馬の種目別が始まった。
1本目 前転跳び 前方伸身宙返り1回半ひねり 15.575
2本目 前転跳び 前方屈身宙返り1回ひねり 15.725
平均 15.425
北朝鮮の選手に次いで銀メダルを獲った。
オクサナ・チュソビチナの挑戦はこれで終わらなかった。
2012年ロンドンオリンピックにも出場し、跳馬で5位入賞する。
2013年になり、またも転機が訪れる。
ウズベキスタンの体操協会から復帰を請われたのだ。
これに対し、ドイツ体操連盟は彼女の偉業をたたえ、ドイツ国籍を保有したまま、ウズベキスタン代表として競技会に出場することを特例として認めた。
2016年4月 リオデジャネイロで開かれたオリンピック最終予選で、チュソビチナは、個人の出場権を獲得した。もちろんウズベキスタン代表として。
そして15日 自身3個目のメダルをめざして7回目の五輪の舞台を踏む。
1992年に旧ソ連代表として金メダルを獲得した女子体操選手が、24年後にもオリンピックに挑んでいる。
体操界にデビューしたのは1988年、13歳のときにソ連のジュニア選手権を制した。
100年を超えるオリンピックの歴史の中で、7回のオリンピックに参加し、3つの異なる代表になった唯一の選手だ。
息子のアリーシャは病気を克服した。
16歳になり、バスケットボールに夢中だという。
バルセロナオリンピックでEUN代表として体操団体で金メダルを獲った6人のその後を簡単にご紹介しよう。
スベトラーナ・ボギンスカヤ 当時19歳
1988年ソ連代表 92年EUN代表 96年ベラルーシ代表で3回のオリンピックに出場した。
92年に一度引退するもカタリーナ・ビットに触発されて現役復帰。
アトランタオリンピックに出場し、1997年引退した。
ロザリア・ガリエワ 当時15歳
ウズベキスタンからロシアに国籍を移しアトランタオリンピック出場。
1997年引退。
体操の国際審判をしている。
エレーナ・グルドネバ 当時18歳
ロシア国籍だが、その後競技会で見たことはない。
タチアナ・グツー 当時15歳
その後オリンピック出場はない。
2003年に米国籍を取得 アテネオリンピックで現役復帰を試みるが失敗。
離婚経験あり。
タチアナ・リセンコ 17歳 ウクライナ
ウクライナ国籍だがその後のオリンピック出場はない。
米国在住。サンフランシスコ大学(USF)ロースクール卒業。
オクサナ・チュソビチナ 当時17歳
ウズベキスタンからドイツに国籍を変更し、再びウズベキスタン代表として7回目のオリンピック出場を果たす。
まだ現役。
●オクサナ・チュソビチナのオリンピック
1992年 17歳 EUN代表 団体金 床7位 個人総合30位(予選)
1996年 21歳 ウズベキスタン代表 個人総合10位
2000年 25歳 ウズベキスタン代表
2004年 29歳 ウズベキスタン代表 跳馬予選23位
2008年 33歳 ドイツ代表 団体12位 個人総合9位 跳馬銀
2012年 37歳 ドイツ代表 跳馬5位
2016年 41歳 ウズベキスタン代表
体操世界選手権では、16歳と26歳で跳馬に銀メダル、28歳で金メダルを獲っている。