ウインタースポーツ

February 25, 2022

アメリカにおいて進むオリンピック離れ フィギュアスケート(2022年版)

私はこれまでも、米国において五輪離れが起きていると指摘してきた。

 北京冬季五輪のゴールデンタイムの報道は、NBCのテレビプラットフォーム全体で平均1,070万人の視聴者であり、テレビ以外のプラットフォームのストリーミング視聴者数を含めて1,140万人だった。

これは、夏季・冬季の五輪のゴールデンタイムの報道の中で最も低い数字だ。

これまでの最小値は、昨年の東京五輪の1560万人であり、平昌、東京、北京と3大会連続してワーストが続いている。

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冬季五輪だけ見ても北京は平昌(1980万人)から42%、平昌も2014年のソチ(2130万人)から46%減少した。現在、世界的に見たら判らないが、米国内での視聴者数は減少は続いている。

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フィギュアスケートは、冬季五輪の華であり、どの大会でも高い視聴率を稼いできた。

特にナンシー・ケリガンとトーニャ・ハーディングの米国人選手が争った1994年のリレハンメル五輪の女子フィギュアは、米国テレビ史に残る高視聴率を上げている。

私も現場にいた長野五輪の女子フリーは、当時16歳だった荒川静香が13位。米国のタラ・リピンスキーの金メダルが決まったのが日付の変わる少し前の2330分。1998年2月20日金曜日のことだ。

これは米国東海岸の朝9時30分にあたり、米国の熱心なフィギュアファンは金曜日の朝にリピンスキーを応援し、15.8%のまずますの視聴率を取っている。

長野五輪では、同じく米国のミシェル・クワンも銀メダルを獲ったが、この大会以降、米国女子はメダル争いに絡めなくなり、視聴率も芳しくなくなる。

そこで、4年前の平昌五輪は、米国の視聴者に合わせ、韓国時間の昼に行われた。そういえば、羽生結弦やザギトワの演技を、昼休みを延長して観たという人も多いのではないか。

今回の北京五輪は、男子フリーは米国時間に合わせて行われたが、女子は中国の視聴者に合わせた時刻に行われた。

とはいうものの、ドーピング検査で陽性となり、女子シングル4位に終わったフィギュアスケートのカミラ・ワリエワ(ROC)が、世界的な話題となり、視聴率に好影響をもたらすとの見方もあったが、結果は低い数字だった。

北京五輪の放映権は、NBCユニバーサルが2014年に6大会一括で契約した最初の大会だった。

総額は77.5億ドル、つまり1大会あたり13億ドルと言う巨額になり、2032年のブリスベーン夏季五輪まで契約は続く。

が、巨額を支払うNBCは、強気を崩さない。

NBCオリンピックのメディアパートナーは数百万人に達したと胸を張る。

FacebookTwitterInstagramTikTokNBCオリンピックのコンテンツは10億回以上のインプレッションがあり、平昌五輪と比べて、すべてのソーシャルプラットフォームでの動画再生回数は、69%増加した。

 

特に、北京から開始されたTikTokでは、22950万回の動画が再生され、五輪期間中にTikTokNBC五輪アカウントは、37万人以上の新規フォロワーがあったという。

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February 05, 2022

スポーツマフィアに食いつく中国 ANTAのジャケットを着るIOCバッハ会長

下記の画像は20年前の長野五輪の閉会式の模様だ。
サマランチIOC会長(当時・故人)の着ているジャケットの胸には「MIZUNO」のロゴが見える。

ミズノは1995年から2012年までIOCの公式サプライヤーを務めた。
そのため、主に冬季五輪においてIOC委員に防寒のジャケットが必要な際は、必ずミズノのジャケットが用いられた。

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東京の2020年の夏季五輪の招致運動中に、招致委員会の中に、活動の中核を担うNPO法人格の理事会を発足させた。
竹田恒和JOC会長が理事長に、事務総長をミズノの会長だった水野正人氏が務めることになった。

このとき、ミズノとIOCの関係が余りに密であったため、敢えて水野正人氏は、ミズノの会長を退任、ミズノもIOCの公式サプライヤーの座を降りることになった。

ご承知の通り、2013年9月のブエノスアイレスのIOC総会で、東京がイスタンブールとマドリードを破り、2020年五輪招致を決めたが、水野正人氏は五輪招致成功の〝陰の立て役者〟と言われている。

 

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▲2010年バンクーバー五輪のロゲ会長 MIZUNOを着ている。

一方、ミズノが退いたあとの公式サプライヤーは2013~2016年までNIKEが務めた。
画像はソチ五輪のバッハ会長。

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2018年2月、平昌五輪の開会式で、バッハ会長。

見慣れないロゴのジャケットを着ている。

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よく見ると、ANTAとある。

ANTA(安踏)は1991年に創業された中国のスポーツウエアメーカーだ。
中国のスポーツウエアメーカーといえば李寧(Lining)や361°などが知られているが、このブランドのことはあまり知られていない。
が、売り上げ規模でNike、adidasに次いで世界3位にあると言う。

平昌五輪では、次の冬季五輪開催国ながら、ほとんど存在感を示せなかった中国。
だが、裏方ではしっかりと世界のスポーツマフィアに食い込んでいたということらしい。
2019年にIOCと公式サプライヤーの契約をし、2022年まで続くと言う。

一方、世界35か国200団体が支援する世界最大のウイグル人権支援団体が、新疆綿を使用し続けると宣言したANTAの北京五輪公式ウェアについて強制労働の関与が無かったか、IOCへ調査依頼をした。
これに対して、バッハ会長率いるIOCは「強制労働は無かった」と回答。
この言葉を信じる人がどれだけいるのだろうか。

 

 

 

 

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January 07, 2022

小林陵侑 ジャンプ週間総合優勝

ジャンプ週間というスキージャンプのシリーズをご存知だろうか。
年末年始の1週間にドイツとオーストリアで4戦して「世界最強のジャンパー」を決めるシリーズである。
W杯創設前から開催されている伝統を誇る大会で、既に半世紀以上に渡って行われている。
欧州の選手、観客にとってはシーズン最高のイベントであり、1週間で20万人を超える観客を集め、五輪とはまた別の「最高のステータス」を持つ。

この最高のステータスを掴んだのが25歳の小林陵侑
オーベルストドルフ、ガルミッシュパルテンキルヘン、インスブルックとジャンプ週間で4戦3勝。
2度目の総合優勝を果たした。

ジャンプ週間は、1953年1月、ドイツとオーストリアの対抗戦から始まり、第2回大会(53~54年)から、年末年始を挟んで行うようになり、79 ~80年大会からは、各4戦がW杯を兼ねるようになった。

4戦4勝した選手が過去に3人いる。
2001–02年 スヴェン・ハンナワルド(ドイツ)
2017–18年 カミル・ストッフ(ポーランド)
2018-19年 小林陵侑(日本) 

ジャンプの五輪金メダリストは、4年ごとに確実に現れるが、ジャンプ週間の4勝は今後出ないかもしれないくらいの価値がある。

特にカミル・ストッフは、ソチ五輪でNH,LHの2冠。
平昌五輪でもLH金、団体で銅メダルを獲った、歴代最高のジャンパーの一人だ。

間もなく北京冬季五輪。

4戦の内3勝して冬季五輪を迎えた日本人が2人いる。


一人は札幌五輪の金メダリスト笠谷幸生氏である。
札幌五輪を28歳という円熟期に迎えた笠谷は、1971年~72年のジャンプ週間に3勝を挙げるという離れ業をやってのけた。
史上初の4戦4勝に欧州中が期待する中、笠谷は、「札幌五輪のための調整」を理由に帰国。
4戦目のビショフスホーフェンを飛ばなかった。

3戦のみでの帰国は当初の予定通りだったそうだが、SAJ(全日本スキー連盟)や笠谷自身のジャンプ週間に対する認識は、現在とはかなり異なっていたと思われる。
笠谷帰国後のジャンプ週間は、ノルウェーのモルクが総合優勝となるが、モルクは札幌五輪でメダルに届くことはなかった。
札幌五輪での笠谷は、70m級(現NH)で金メダル。日本勢日の丸飛行隊によるメダル独占はあまりにも有名だが、90m級は7位に終わっている。

2人目は、97~98年のシーズン、そう長野五輪直前の船木和喜だ。

1997-98年 ジャンプ週間
第1戦 12/29 オーベルストドルフ(ドイツ)
①船木和喜
②斎藤浩哉
③A・ニッコラ(フィンランド)

第2戦 1/1 ガルミッシュ・パルテンキルヘン(ドイツ)
①船木和喜
②原田雅彦
③斎藤浩哉

第3戦 1/4 インスブルック(オーストリア)
①船木和喜
②S・ハンナバルト(ドイツ)
③J・アホネン(フィンランド)

第4戦 1/ 6 ビショフスホーフェン(オーストリア)
①S・ハンナバルト(ドイツ)
②H・イェックル(ドイツ)
③J・アホネン(フィンランド)
⑧船木和喜

◆総合成績
①船木和喜 
②スベン・ハンナバルト(ドイツ)
③ヤンネ・アホネン(フィンランド)
 
地元の五輪開催年のジャンプ週間で3戦3勝と、笠谷幸生と同じ結果を出してきた船木だったが、4戦目、ビショフスホーフェンでは、緩やかでダラダラと続くアプローチにスピードに乗れず8位に終わった。
笠谷氏が、4戦目のビショフスホーフェンを飛ばずに帰国したことは前述の通りだが、このことに腹を立てたジャンプの神様が、以後日本人選手をこのジャンプ台で勝てなくしたという話が、小林が4戦4勝するまでは、まことしやかにされていた。

 

しかし、4戦の総合成績では、ハンナバルト、ゴルトベルガーを抑え、圧倒的な勝利だった。
この時点で長野では船木には勝てないと誰しもが思った。
長野五輪での日本勢は、NHで船木が銀メダル。LHで船木が金、原田が銅、団体で日本チーム(岡部、斎藤、原田、船木)が金メダルを獲っている。

冬季五輪の年のジャンプ週間に、ビショッフスホーフェンを除く3戦に勝った3人目の男。
五輪金メダルの最右翼にいる。

 

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March 24, 2020

アメリカにおいて進むオリンピック離れ ② フィギュアスケート

私はこれまでも、米国において五輪離れが起きていると指摘してきた。

2年前に行われた2018年平昌冬季五輪は、テレビ放送、ケーブル、ストリーミングで同時に利用できる最初の冬季五輪であったにもかかわらず、米国において史上最も視聴者の少なかった五輪だ。

平昌冬季五輪のゴールデンタイムの報道は、NBCNBC Sports Network、およびNBC Sports Digitalのストリーミング放送で1晩に平均1980万人の視聴者を記録したが、これは、NBC Sports Networkで放映されず、同時ストリーミングがなかった2014年のソチ五輪から約7%も減少している。

2014年のソチ五輪の視聴者は平均で2130万人。

過去最高の視聴者数は、2002年のソルトレークシティ五輪で、平均3190万人の視聴者を擁した。

米国から見て、平昌と同じ時差である1998年の長野五輪の平均視聴者数は2530万人、2010年のバンクーバー五輪が2440万人、2006年のトリノ五輪が2020万人と続く中で、2000万人を割った平昌の視聴者の少なさが判るだろう。

Joshi

フィギュアスケートは、冬季五輪の華であり、どの大会でも高い視聴率を稼いできた。特にナンシー・ケリガンとトーニャ・ハーディングの米国人選手が争ったリレハンメル五輪の女子フィギュアは、米国テレビ史に残る高視聴率を上げている。

私も見に行った長野五輪の女子フリーは、当時16歳だった荒川静香が13位。米国のタラ・リピンスキーの金メダルが決まったのが日付の変わる少し前の2330分。1998年2月20日金曜日のことだ。

これは米国東海岸の朝9時30分にあたり、米国の熱心なフィギュアファンは金曜日の朝にリピンスキーを応援し、15.8%のまずますの視聴率を取っている。

長野五輪では、米国のミシェル・クワンが銀メダルを獲ったが、この大会以降米国女子はメダル争いに絡めなくなり、視聴率も芳しくなくなる。そこで、2年前の平昌五輪は、米国の視聴者に合わせ、韓国時間の昼に行われた。そういえば、羽生結弦やザギトワの演技を昼休みを延長して観たという人も多いのではないか。

それでもフィギュア女子フリーの米国の視聴率は9.0%、ネット配信を含めても10.4%と史上最低に終わっているのだ。

米国における視聴率の目安

昨年のMLBワールドシリーズ Nationals-Astros 第7戦は、FOXテレビで平均8.1%、1391万人の視聴者を記録している。 

参考 アメリカにおいて進むオリンピック離れ ① 逃げ出すスポンサー

 

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March 04, 2019

高木美帆2位 世界スピードスケート選手権とある選手の訃報

スピードスケートの世界選手権。
ディフェンディングチャンピオンとして出場した高木美帆は、500mと1500mで1位だったが、3000mは10位、5000mは8人中8位の総合2位。
3000m、5000mともに世界新記録を出したマルティナ・サーブリコワに競い負けた。

●高木美帆のタイム 500m、3000m、1500m、5000mの記録 ( )内は順位
2018年総合優勝
39.01 (1) 4:19.78 (2) 1:58.82 (1) 7:29.12 (4) 合計166.905 (1)
2019年総合2位
37.22 (1) 4:00.16(10) 1:52.08 (1) 7:02.72 (8) 合計156.878 (2)

スピードスケートのオールラウンド選手権は、500m、1500m、3000m、5000mを1回ずつ滑って、その合計ポイントで優勝を決める大会である。
昨年は、オランダ・アムステルダムで行われていた世界スピードスケート選手権に高木美帆が日本人選手として初めて優勝した。

高木の優勝はもちろん快挙だったが、試合会場のリンクが1928年のアムステルダム五輪のメイン会場のオリンピス・スタディオンだったことに何よりも驚いた。
こういうのを五輪のレガシーという。

今年の大会は1988年カルガリー五輪のスケート会場だったオリンピックオーバル。
高地にあり、世界記録が出やすいリンクとして知られている。

●歴代優勝者(女子
2007年:イレイン・ブスト
2008年:パウリーン・ファン・デートコム
2009年:マルティナ・サブリコワ
2010年:マルティナ・サブリコワ
2011年:イレイン・ブスト
2012年:イレイン・ブスト
2013年:イレイン・ブスト
2014年:イレイン・ブスト
2015年:マルティナ・サブリコワ
2016年:マルティナ・サブリコワ
2017年:イレイン・ブスト
2018年:高木美帆
2019年:マルティナ・サブリコワ

2007年から2019年までの女子の総合優勝者を並べてみた。
今年の総合優勝者で、五輪でも3つの金メダルを持つサブリコワ。
平昌の1500mで高木美帆に勝つなど、五輪の5つの金メダルを獲ったブスト。
この二人が交互に優勝している中、間を縫うように1回ずつ優勝しているのが高木美帆とオランダのパウリーン・ファン・デートコムだ。

平昌で金銀銅のメダルを一つずつ獲った高木美保に比べて、パウリーン・ファン・デートコムには、輝かしい実績はない。
2006年トリノ五輪に出場してはいるが、メダルは獲っていない。
オランダ語は発音が難しく、なんとなく名前を覚えているといった選手だった。
2012年引退したと言うことだったが、消息を調べていると・・・
今年の1月に亡くなっていた。

37歳。

昨年の夏に肺がんが見つかり半年持たなかったと言う。
ご主人と娘さん(Lynnちゃん)が残されたと言うが、娘さんは2017年生まれの1歳。
何とも気の毒でならない。

カルガリーで高木美帆選手はパウリーン・ファン・デートコム財団にサイン入りのユニフォームを贈った。オークションに出されて金額は財団に寄付されるようだ。



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平成のスポーツの記憶⑧ 荻原健司最後の金メダル 1997年世界ノルディック

ノルディックスキーの世界選手権は、日本勢がなかなか波に乗れないうちに終わってしまった。
今大会は、ジャンプの小林陵侑に世界のスキー関係者が注目していたが、獲得できたのは団体の銅メダルのみ。
シーズンを通じて優勝者を決めるW杯とは異なる、一発勝負の世界選手権。
雪、雨、温度といった自然の中で競い合うというスキー競技の醍醐味が味わえた大会だったのではないか。

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過去の世界ノルディックで日本チームが獲得したメダル

世界ノルディックは、2年に一度開催されているが、ほとんど欧州選手権に日本が招待されているかのような、参加国に偏りがある。
そんな中、長野五輪の前後は対等以上に欧州勢と渡り合ってきた。
1993年のファルン大会。
日本チームはノルディック複合個人の荻原健司、ノルディック複合団体(河野孝典・阿部雅司・荻原健司)、ジャンプNH原田雅彦と3つの金メダルを獲得している。

世界ノルディックというと荻原健司を思い出す。

ogiwara1990年代 W杯個人19勝、五輪団体2連覇などジャンプを含む日本のスキー界に残した記録は他を圧倒する。
この荻原が最後に表彰台の真ん中に立ったのが1997年の世界ノルディック選手権トロンハイム大会であった。

ジャンプで先行して、距離で逃げ切るという常勝パターンが崩れ、なかなかW杯でも勝てなくなってきていた荻原。
早大の先輩で、リレハンメル五輪複合個人銀メダルの河野孝典が引退。
長野五輪を1年後に控え、トロンハイムの世界選手権を迎えた。

この個人戦でメダルをとの思いは強かったが、海外メディアにとって荻原は既に下馬評に挙がることはなく、ビャルテエンゲン・ビーク(ノルウェー)、サンパ・ラユネン(フィンランド)の一騎打ちと見られていた。

複合のピークは20歳と言い切るラユネンはこのとき17歳。怖いもの知らずの勢いで、ジャンプで首位に立つ。
荻原はそれまで苦しんでいたことを振り払うようにジャンプをまとめ、2位で距離を迎えることになる。
15秒差でスタートした荻原健はワックスが合い、1キロ過ぎで首位のサンパ・ラユネンに並ぶ。
その後、4位から追い上げてきたビャルテエンゲン・ビークとのマッチレースになる。

3周目に入ったばかりの10キロ過ぎ、一度は抜かれたビークに先頭を譲られる形で首位に立つ。
勝負どころは残り2キロの上り。距離の猛者ビークを、一気に突き放し、そのままゴールした。
このとき荻原健司27歳、ビャルテエンゲン・ビーク25歳、3位入ったアルベールビル五輪金メダルのギーは28歳。
「20歳がピーク」といわれたベテランが意地を見せた。
 
その後2002年まで競技生活を続けた荻原だったが、優勝はこれが最後。
W杯の勝利も19を超えることはなかった。

翌年の長野五輪の複合個人は、ビークが優勝、荻原は4位。
地元での金メダルをさらわれたビークが、逆に荻原を抑える形になった。

●世界ノルディック選手権 トロンハイム(ノルウェー)複合個人1997年2月23日
(1)荻原健司(北野建設)(ジャンプ(2)232・0、距離(12)43分43秒1)
(2)ビーク(ノルウェー)タイム差30秒8((4)227・0、(13)43分43秒9)
(3)ギー(フランス)1分19秒4((10)217・0、(9)43分32秒5)
(34)荻原次晴(北野建設)
(40)大竹太志(専大)
(55)上野隆(東京美装)

●荻原健司の戦績
1992年アルベールビル五輪
個人7位、団体1位

1994年リレハンメル五輪
個人4位、団体1位

1998年長野五輪
個人4位、団体5位

2002年ソルトレークシティ五輪
個人11位、団体8位、スプリント33位

世界選手権
93年個人1位、団体1位
95年個人5位、団体1位
97年個人1位、団体9位
99年個人6位、スプリント3位、団体5位

W杯92~93 7勝
93~94 5勝
94~95 6勝
95~96 1勝

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March 01, 2019

小林陵侑 スキージャンプ5大タイトルに挑む

現在、アーストリアで世界ノルディック選手権が開催されている。
注目はジャンプの小林陵侑。

 

スキージャンプの世界には5つのタイトルがある。
五輪
世界選手権
世界フライイング選手権
W杯総合優勝
ジャンプ週間(4Hills)

 

22歳の小林陵侑は、昨年末から今年年始にかけてのジャンプ週間に4戦4勝、史上3人目の快挙をやってのけた。
今季11勝を挙げているW杯の総合優勝もまず間違いない位置にいる。

 

●ジャンプW杯2018~19ランキング
①小林陵侑(日本)1620
②ストッフ(ポーランド)1145
③クラフト(アーストリア)1017
④ジワ(ポーランド)963
⑤クバツキ(ポーランド)834
⑥ヨハンソン(ノルウェー)707
⑦フォーファン(ノルウェー)673
⑧ザイツ(スロベニア)664
⑨アイゼンビヒラー(ドイツ)661
⑩ガイガー(ドイツ)634
世界ノルディック開幕前までの成績。小林陵侑が2位以下を圧倒しており、総合優勝は間違いない。

 

すると5大タイトルのうち今季狙うことができるのは世界選手権の金メダル。
既にLHは終了(小林は4位)、残すはNLになる。

 

長野五輪のLHと団体の金メダリスト船木和喜は、1998年長野五輪LH個人、団体で2つの金メダル獲得。
1999年ラムソーの世界選手権NH金メダル。97~98年ジャンプ週間総合優勝。1998年FISスキーフライング選手権大会(オーベルストドルフ)優勝。
ジャンプ界にある5大タイトルの内、4タイトルを若くして獲得した。
だが、W杯総合だけは、最高が2位(97~98年)止まり、このタイトルだけは手にできなかった。

 

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ハンナバルト、ストッフ、小林陵侑の3人がジャンプ週間4戦4勝を達成している。

 

では、歴代の大選手の中で5大タイトルすべてを獲った選手が何人いるのか。
一人は、先日55歳で亡くなったマッチ・ニッカネン
まだV字ジャンプになる以前の選手だが、
・五輪個人金メダル
1984年90m級 1988年70m級、90m級
・世界ノルディック金メダル
1982年オスロ大会90m級
・フライイング選手権金メダル
1985年プラニツァ大会
・W杯総合優勝
4回(1982/83、1984/85、1985/86、1987/88)
・ジャンプ週間
総合優勝2回(1982/83、1987/88)

 

ほかには、いないのではないか。
シュリーレンツァウアー(オーストリア)は、五輪金メダルが団体はあるが、個人がない。
シモン・アマン(スイス)はジャンプ週間の優勝がない。
アダム・マリシュ(ポーランド)は五輪とフライイングの優勝がない。
カミル・ストッフ(ポーランド)はフライイングの優勝がない。

 

ドイツが東西に分かれていた時代に、東ドイツにゲオルク・アッシェンバッハという選手がいた。
1976年のインスブルック五輪70m級金メダリストだが、1974年のファルンの世界選手権では70m級、90m級の両方を制し、1973-1974年のジャンプ週間では総合優勝もしている。
が、この時代にはまだW杯が行われておらず、4冠に終わっている。

 

この人、本職は医師で、東ドイツチームのドクターを務めていたが、1988年西ドイツへ遠征中に政治亡命を果たす。そして翌年、自らの現役時代にドーピングをしていたことを公表している。

 

 

 

 

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December 25, 2018

8年後に五輪復帰した銀盤の女王カタリーナ・ビット

全日本フィギュアで2位に入った高橋大輔が世界選手権を辞退するそうだ。
32歳になった高橋の姿を見たいファンも世界中にいるだろうと思うと残念な気もする。

かつての五輪金メダリストがアマチュアを引退後、時を経て復帰、再び五輪の舞台に戻ってきたケースもある。

2018年の冬季五輪の開催地を平昌と争ったのがドイツのミュンヘン。
韓国は、平昌の顔に金妍児を前面に押し出したのに対し、ミュンヘンはカタリーナ・ビットで対抗。
招致争いは、新旧フィギュアの女王対決と呼ばれた。

カタリーナ・ビットは、1965年12月3日 旧東ドイツ・シュターケン生まれのフィギュアスケート選手である。
五輪2連覇、世界選手権4回優勝など、史上最も成功したスケーターの一人だ。

●カタリーナ・ビットの主な戦績
1984年サラエボ五輪   フィギュアスケート女子 金メダル
1988年カルガリー五輪  フィギュアスケート女子 金メダル
1994年リレハンメル五輪 フィギュアスケート女子 7位
世界選手権金メダル   1984・85・87・88年
世界選手権銀メダル   1982・86年

冬季五輪の女子フィギュアは、五輪の全ての競技の中でも、最も注目を集める種目といっても過言ではない。
 
五輪のフィギュアスケートは、1908年から正式種目に加えられている。
といっても、冬季五輪の第1回・シャモニー大会は1924年であり、初期は、夏季五輪の種目だった。
この長い歴史の中で、女子で連続優勝したのは、ビット以外には1928年から3連覇したノルウェーのソニア・へニーしかいない。
連覇が難しいのは、この競技の特殊性にある。
五輪の金メダルは、プロ入りのまたとない格付けになるからである。
五輪2連覇を果たし、プロ転向後再び五輪の銀盤に現れた、それがビットであった。

1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊するまで、カタリーナ・ビットは東ドイツの「顔」だった。
ミスのない演技。
サイボーグのように鍛え上げられた肉体。
端正な顔に浮かべられた勝つことを疑わない笑み。
西側のメディアはビットを「社会主義の最も美しい顔」と呼んだ。

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1998年 PlayBoy誌に登場したときのカタリーナ・ビット

カルガリー五輪金メダルの後、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長は、祖国功労大勲章でビットを迎え、彼女は東ドイツ選手として初の「プロ」になった。
サラエボ、カルガリーと五輪2連覇の実績、妖艶にして聡明さもうかがわせる容姿。
東ドイツのスポーツ界だけでなく、ホーネッカー議長に気に入られ、プロパガンダとして政治の舞台に上がることも多くなっていった。

東ドイツは五輪を、社会主義国家の優位性を示す国際舞台と位置付けていたのはご存知の通りだ。
金メダルを獲得した者には、報奨金などの多くの恩恵が与えられていた。
事実、ビットもいくつかの特別待遇を受けた。
月々の手当に、勝てばボーナスが加わった。
18歳で運転免許をとると、すぐに車が購入できた。 
国際大会は食物持参で参加をした。
競技会の主催者から支給される食費をため、東ベルリンの外貨用高級デパートで買い物をした。
ささやかではあるが、物々交換が当たり前の庶民には、民主化によって批判の対象となっていったのである。

1990年、東西ドイツが統一された。
スパイ疑惑、ドーピング(禁止薬物使用)疑惑、大衆紙による男性関係の話題。
気がつけば、元「特権階級」のビットはスキャンダルとゴシップにおぼれそうだった。
自らの真情を繰り返し訴えるしか、対する道はないと思われた。
そんな中「プロ転向後も1回だけ、五輪出場を許可する」というISUの決定が、ビットを五輪に戻した。
 
1994年リレハンメル五輪、金メダルはウクライナの16歳、オクサナ・バイウルに決まっていた中、ビットはフリー最後の選手として銀盤に立った。
鮮やかな赤いコスチュームは血の色を表す。
曲は「花はどこへいった」。ヒトラーを嫌って米国へ逃れたドイツ女優マルレーネ・ディートリヒが歌った反戦歌である。
3回転ジャンプは2回しかない。
代わりに、舞う指先の1本1本へ、戦禍に苦しむサラエボへ平和の祈りを込めた。
この1994年当時は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の真っ只中であった。
ユーゴスラビアからの独立を宣言し、新しく組織されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ政府の軍に対して、ボスニアのセルビア人の武装勢力が、丘の上に陣取ってサラエボを包囲していたのだ。
1984年 サラエボで最初の金メダルを獲ったビットにとって、思いでの地が血にそまっていることに耐えられなかったのだろう。

7位

順位を示す得点表示板へ、ハーマル円形競技場を埋めた6,000人の観客席からブーイングが飛んだ。
銀盤を渦巻いたファンの声はそのまま、ビットの演技をたたえる声に変わった。
この瞬間は、サラエボの犠牲者に対する祈りによる開会式で始まったリレハンメル五輪の、ハイライトだったと記憶している。

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December 19, 2018

小平奈緒は25勝 高木美帆は9勝 スピードスケート W杯に挑む

W杯を冠したウィンタースポーツの競技会は多く存在する。
アルペンスキーが最も古く、1966年~67年のシーズンに始まった。
他種目に比べても随分と古い。
その後、他種目でも生まれたウィンタースポーツのW杯は、いずれもシーズンを通してチャンピオンを決めようとするもので、ジャンプが1980年から、クロスカントリーが1982年から、ノルディック複合が1983年のシーズンから始まった。
一方スケートは、スピードスケートが1985年と最も古く、ショートトラックは1997年と随分遅い。

スピードスケートのW杯の日本人初の優勝は、黒岩彰さん。
カルガリー五輪の銅メダリストだが、1986年12月6日、オランダ・アッセンで行われた500mに優勝している。
黒岩さんは1988年に引退したので、通算6勝。
日本勢で最も優勝回数が多いのは長野五輪金メダリストの清水宏保さんで通算35勝を挙げた。

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平昌五輪スピードスケート500m金メダルの小平奈緒は、今季も好調で、12月15日のW杯第4戦、オランダ・ヘーレンフェインで行われた女子500mに37秒17で優勝。
W杯は25勝目。
500mは、出場した国内外のレースで34連勝、W杯に限っても20連勝となった。

W杯は、2016年11月12日 中国のハルビンで行われた500mに優勝、それから平昌五輪も含めて丸2年以上負けていない。

2013年に引退した岡崎朋美は、5回の冬季五輪に出場した息の長い選手だったが、W杯は1996年から2005年にかけて10勝している。
ちなみに長野五輪で銅メダルを獲ったときは26歳、引退した時は42歳だった。
 1996年 500m4勝、1000m1勝
 1997年 500m1勝
 1999年 500m3勝
 2000年 500m2勝
 2005年 500m1勝

高木美帆はご存じのように中距離を得意としているが、1500mに7勝、3000mに1勝と日本人女子としては勝てないと言われていた種目で優勝している。
平昌五輪マススタート金メダリストの高木菜那は、今季マススタートで2勝を挙げている。


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December 04, 2017

世界歴代2位、3位、5位 小平奈緒、高木美帆W杯で連勝中

スピードスケートのW杯カルガリー大会が12月1~3日、カナダ・カルガリーであり、小平奈緒は女子500mで、高木美帆は、女子1500m、3000mでともに日本新記録を出し優勝した。

小平の500mは世界歴代2位、高木の1500mは歴代3位、3000mは歴代5位の好記録である。
カルガリーでは転倒したが、小平の1000mの持ちタイムも世界歴代3位。
女子のチームパシュートは、2戦連続世界新達成、おそらく史上最強チームで平昌五輪に向かうことになるだろう。

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小平のメダルを占う上でやはり気になるのが、韓国の李相愛。
ご存知、バンクーバー、ソチと500m2連覇中の女王だが、ここ数年は小平に及んでいなかった。
が、カルガリーの500mでは小平の36秒53に次いで36秒86を出し2位に入っている。

そろそろ本番モードに入ってきたか?
次週のW杯はソルトレークシティ。
また、好記録の出るリンクだ。
 
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