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2014年10月

2014年10月28日 (火)

国立大学法人はいつまで子ども扱いなのか?(3)

3に、出資対象の拡大については、多様なケースが考えられるので、適宜拡大していくことが望ましい。最近、産業競争力強化の一環で、法改正が行われたが、実態としては、国から巨額の出資を受けた東京大学・京都大学・大阪大学・東北大学に限って、当該資金を使える仕組みを整える措置が採られただけで、大学関係者の一部には期待感があっただけに拍子抜けだった。あえて4大学にだけ国からの出資金を支出した理由は定かではなく、かりに利益が出れば法人が自由に使えるのか、損失が出れば法人が負担し理事が責任を取るのか、裏事情がつまびらかではない。他大学は不可解に感じているが、羨むほどの話なのかよく分からないので、我が方にも出資金をもらいたいという声はあまり聞かない。素直に考えれば、JSTNEDOのような独立行政法人に国から出資して、資金の活用を希望する大学が私学も含めて自由に応募できる仕組みにしてもらった方が、はるかに公平であり効率も良かったと思う。あえて財務省及び文部科学省が、4大学だけに出資する施策を採ったのは、よほど4大学のイノベーション創出力が飛び抜けていると判断したのだろうが、そうした根拠がどこにあるのだろうか?不可解な施策として記憶しておこう。

 

出資対象の拡大を検討する際には、私学の事例が参考になる。最もあり得るケースは、大学の業務の一部をアウトソーシングする受け皿会社を作ることである。「大学におけるアウトソーシング先進事例集」(平成213月、株式会社工業市場研究所)には、明治大学や法政大学などの事例が紹介されている。一部の私学では、外部委託によって人件費を削減するだけでなく、技術的知識が必要な業務を処理し、さらに、会社の利益を母体の私学に寄付の形でバックしている。こうした経営合理化策は、国立大学法人でも実施すべきであろう。出資の禁止を回避するために、理事らが自らの資金で会社を設立することも考えられるが、会社と大学との結合が私人の兼務によってなされることで、社会に不明朗な印象を与えることが懸念される。

 

また、別の可能性として、一定の都市開発に不動産を出資する形を取ることができれば、ハイリターンが期待できる民間との共同事業に参加する可能性が生まれる。国立大学法人は、寄付金くらいしか内部資金の蓄積がないので、不動産の活用で定期的に収益が入る事業に参加できることは魅力的である。単に不動産を貸し付けるだけでは、リターンが少ない。PFI事業を立てることも考えられるが、事業の採算というリスクがある。集客がうまく行かないと、赤字を背負うことがあり得る。したがって、不動産を出資する選択肢も加えて、それぞれの利害得失を検討できる余地を与えることが望ましい。

さらに、寄付金などの内部蓄積から、大学発ベンチャーへの出資を可能とすれば、イノベーションの創出を支援するとともに、上場による利益を享受することもできる。今は、そうしたことが禁止されているので、何らかの形で門戸を開くことが望ましい。大学がむやみとリスクを取ることは考えられないが、リスクを取らなければ、ハイリターンはなく、イノベーションも創出されないのである。

 

以上のように、経営の柔軟性を拡大することで、厳しい国際競争にさらされている国立大学法人が早く幼年期を卒業することを期待している。国にも、子離れを切に勧めたい。財務面で国に頼れなくなっている状況に鑑みれば、政策的後押しなくして国際競争に勝ち抜けない。それでなくても、我が国は世界大学ランキングで苦戦が続くに違いない。その責任は、結局、国及び国民が負わなければならないのである。

国立大学法人はいつまで子ども扱いなのか?(2)

いずれにせよ、法改正しなければ、何も実現しないことではあるが、3つの項目ごとに、論点の整理をしてみたい。

 

1に、収益事業について、私学並み(日本標準産業分類に基づく18事業を告示)に広く認めるとすれば、現在、私学で行われているような種々の事業が実施されると考えられる。しかし、法人財務に貢献するほどの収益を上げることは、なかなか難しかろう。収益事業といっても、国立大学が本来業務とは関係がない事業を立ち上げて、独立採算で利益を得ることは想定しにくい。本来業務に関連した事業を、比較的小規模に行うのであれば、附帯事業という位置づけを活用することで、現行法制度の下でも実施可能である。現に行われている附帯事業の範囲は意外に広いからである。不動産・知財の活用、学生に対するサービス、特色ある専門分野を生かした事業など、教育研究活動との関連を想定すれば、応用範囲はかなり広がるだろう。これまで、社会連携事業として無料で行っていたようなものを、附帯事業として明確に位置づけて、適切な料金を徴収すればよい。それで、大きな収益が上がるとは思えないが、事業を自ら維持するくらいの収益を上げることはできる。実際に、利益を上げるまでにビジネスモデルを洗練することができるかどうかが問題だが、長期借り入れでもしない限り、特段の許認可も必要ない。したがって、収益事業を可能にする制度改正が、喫緊の課題だとは言えないだろう。

 

2に、余裕金の運用先の拡大については、法人化直後から指摘されてきた課題である。、危ない金融商品に手を出してやけどをしないようにとの親心からか、一向に実現の気配がなかった。年金資金まで株式運用を進めている今日、大学への寄付金など公金以外の余裕資金まで運用先を限定することには、最早理屈がなくなっている。長期に保有することが可能な資金は、広範な運用先を認めることが可能な環境は整っている。上場企業の株を購入することが可能になれば、大学発ベンチャーなどに関して、未公開の段階で出資ができないかという課題が浮上してくる。ロボットスーツで有名な山海教授が立ち上げたサイバーダイン社の設立の際に筑波大学が出資していたら、今ごろ大きな利益を得ることができたであろう。リスクとの兼ね合いもあるが、こうした可能性を全面的に閉ざしているのがよいのか、大学の国際競争の観点からよく考えた方がよい。資金力が低ければ、大学ランキングを巡る競争に勝てない時代になっている。勝たせたいならば、資金力強化に政策的後押しが要る。

国立大学法人はいつまで子ども扱いなのか?(1)

国立大学法人制度ができて10年になる。それ以前は国立大学に法人格はなく、人事・会計的には文部科学省に属する組織と扱われていたので、自立していないのが当たり前だった。今日、法人の経営は、責任者たる学長のリーダーシップの下で、自立・自律的に行われるべきだとされている。しかし、未だに子ども扱いの制約を受けている部分が残っている。例を挙げれば、収益事業の禁止、余裕金の運用先の限定、出資の原則禁止である。これらは、法律による制約なので、改正法案が国会を通らない限り、変わることはない。

 

こうした経営手段の制約は、運営費交付金が従前通りに安定的に確保されていれば、あまり問題にはならなかっただろう。誕生して10年になるといっても、企業のような経営力は望めず、半人前扱いで仕方がないという声があるかもしれない。古手の私学でさえも余裕金の運用で手痛い失敗をしたことがある、収益事業で大きく稼ぐことは公務員気質が抜けない連中には難しい、武士の商法に終わるのは目に見えているなどといった悪口も陰で言われているかもしれない。それならば、運営費交付金の水準を元に戻せばよい。それができず、国が法人に自立を期待するのであれば、制度を見直して自立を高める方向に誘導するべきではないか?世界と競争する研究大学については、近い将来、余裕金の運用範囲を拡大する可能性が検討されるという噂もあるが、それだけでは不十分である。国立大学法人が財務面で自立しなければならないのであれば、リスクを負ってでも、収入支出の抜本的改革に取り組まざるを得ない。

 

以前から指摘してきたとおり、制度的制約は、少なくとも世界と競争する研究大学については、競争条件を整えるために、撤廃せざるを得ない。平成28年度からの第3期の中期計画期間には、タイミングを見ながら、授業料の値上げ(標準額+20%)に踏み切る動きが間違いなく起こるだろう。これは、国立大学法人側が選んだと言うよりは、国の運営費交付金の削減の帰結として、やむなく選択せざるを得なくなったのである。大学の費用負担に関する我が国の政策は、北欧のような社会福祉型でも、アングロサクソン系の個人負担型でもなく、家計負担型を究極まで進めるということなのだろう。既に家計の格差が拡大しているために、国立大学の授業料が上がれば、給付型の奨学金の実現を急がなければなければならないかもしれない。ただし、その場合、国立大学の授業料免除枠の予算は、給付型の財源に転換されるおそれが強い。結局、苦しい家計負担が軽くなる見込みは薄い。

 

 

2014年10月16日 (木)

21世紀の大学教育のカギを握るのはARTなのか?(3)

しかし、DYENS氏の指摘は、大学という社会的存在が文明史的転換点に立っていることを、わかりやすく浮かび上がらせている。もともと、体系化された専門知を伝承することが大学の本質的役割だったが、単に知識量を増やす教育を提供する意味は薄れている。我が国に目を転じれば、文部科学省の施策である「博士課程リーディングプログラム」において、トップレベルの研究大学が意識的に取り組んだのが、多様な分野の学生が切磋琢磨する道場を作ることであった。学生寮に合宿するというような手段を使って、旧制高校のような濃密な人間関係の中で若者を精神的に成長させようとする例もある。いずれも、読書やインターネットでは経験できない、生身の体を使った教育の機会を設けて、教育プログラムのアウトプットとしての博士の質を変えようとする試みである。一定の成果は出ていると思うが、こうした博士課程の在り方が、世界で広く通用するのかは未知数である。道場という古めかしい名称の下で行われている新しい試みが、DYENS氏の指摘する右脳の活性化としてのARTの活用と通底しているのではないかとも思う。我が国の試行錯誤の中から、新しい教育理論が確立できれば、半ば忘れかけられている博士課程リーディングプログラムも投資効果があったことになる。しかし、知の技法、応用の知恵を身につける支援をする道場のような実践的な場は、大学の外にでも作れそうである。

 

21世紀の大学教育を考えるに当たって、避けられないのでは、英語によるプログラムの充実である。人口減の我が国で大学教育のサービスの対象を外国に求めるには、精度の高い自動翻訳装置が普及するまでは、英語を使用言語にするのが有利だからである。しかし、外国人留学生の受入には、家計の経済的な負担による制約がある。本格的に外国人を対象にするならば、海外に分校を作る戦略を持たなければならない。もちろん、我が国の国立大学には、法的制約がある上に、そもそも海外に分校を設置する内部蓄積がない。したがって、進出先の国や地方政府が自ら施設建設を行うなど、資金を供与してくれることが前提条件になる。それでも、財政的に豊かな新興国から、我が国に大学づくりの協力を求める例はある。ある意味で絶好のチャンスなのだが、多くの国立大学では、少数の教員派遣には意義を認めて協力姿勢を取るが、経営的にリスクを取って教育サービスの提供に責任を持つという分校設置型の協力には躊躇してきた。これでは、グローバルな研究大学としてパワーアップする海外経験、海外進出にはならない。

 

これまでの経験に照らせば、我が国の政府による大学への財政的支援には、あまり大きな期待は持てない。世界の大学と伍してやって行くには、海外での大学経営の経験値を上げて、じっと機会を待つしかない状態である。もっとも、ビジネスパートナーとして期待されているうちが華である。このまま推移すれば、世界大学ランキングも下がり、新興国からも見向きもされなくなるのではないか?グルノーブルでは、米国コーネル大学の工科大学をニューヨークの一等地に創設するのに際して、イスラエルのハイファにあるTECHNIONがパートナー大学に選ばれた経緯を、その副学長から聞いた。もちろん政治的な思惑が絡んだ選定なのではないかと感じるが、真に成果を上げている大学でなければ、こうした好条件の機会をつかむことができないのも事実である。国立大学法人第3期(平成28年度からの6年間)には、外国政府からの要請に応じて、実質的に海外で学位授与を行うシステム(海外分校を含む。)を稼働させながら、グローバル大学としての経験値を高める目標を掲げて打って出る大学に対して、文部科学省のみならず政府を挙げて支援する政策を打ち出すことが強く望まれる。

 

21世紀の大学教育のカギを握るのはARTなのか?(2)

講演後の討議の際には、単に知識を与える形式の教育はICTによる代替が可能になっているので、学生間の討議をファシリテーターとしての教員が誘導するとか、プロジェクトベースの学習を企画・実施するとか、従来型の大学教育を超える取り組みの重要性を指摘する声があった。ただ、DYENS氏の指摘は、既存の大学教育の改善としての能動的学習の範疇を超えて、人材育成の目的自体を問い直そうという根源的な問題提起である。ARTというキーワードは、コンピュータが人間の左脳の働き(SCIENCE)を拡張して人間の能力を凌駕しつつあるのに対して、人間の右脳の働きとされる広義のARTを対置して、人工知能に代表される新しい環境への主導権を人間に取り戻そうとしているのだろう。仮に、この指摘に沿って教育システムを改革するとして、例えば、理工系学士のカリキュラムは、右脳を鍛えるARTの要素を取り入れてどのように変化するのか、詳細な設計原理が示されれば、議論が進みやすい。

 

このフォーラムの参加者には、既にMOOCによる大学教育の変化は織り込み済みで、従来型の教育に何らかの付加価値を持たせてMOOCのような学習プログラムに対抗すべきという意識は明確に共有されていた。MOOCは今後有料化が進み、更にサービスが向上する余地が十分にある。大学教育のサービスの質を保ちながら価格破壊の道が開けて、非エリート型の大学が顧客を奪われる可能性も否定できない。欧米の大学関係者に共有された危機感が、ICTのインパクトというテーマの中で大学教育の変革を取り上げる動機になっているようだ。MOOCによって地理的・経済的格差が大幅に緩和され、プログラムの開放性によって教育の質の面でも「標準」が引き上げられたと言える。その影響が、我が国では言語の障壁に守られて未だ深刻に受け取られていないために、上記の指摘も哲学的な階層の議論に過ぎないと、見逃されてしまいそうである。

21世紀の大学教育のカギを握るのはARTなのか?(1)

20149月末に、フランスのグルノーブルで行われたGIANT主催のHIGH LEVEL FORUMに出席する機会を得た。その際に、カナダのマギル大学のDYENS副学長から、Higher Education in the 21st Centuryと題して講演がなされた。興味深い指摘があったので、私が最近考えていることと併せて、紹介したい。

 

DYENS氏の指摘を、私なりにまとめると次のとおりである。 

21世紀には人工知能が高度に発達するので、人間と機械の新しい関係を踏まえて、大学教育もシステム・方法・構造の点で根源的に見直す必要がある。例えば、手術・診療、法務、税務、通訳を始め、多くの専門的サービス業務がコンピュータに置き換え可能となっている。人工知能は道具ではなく、人間にとって新たな環境のような存在である。創造力を発揮できる人材(イノベーター)を育成する上で、カギを握るのはARTである。それは、ARTこそが、人間の生み出した最も効率の良いサバイバルの仕組みであり、重要な問題への潜在的解決策を効率的に導き出すからである。ARTを根本原理として教育システムに組み込むことで、機械に支配された世界に人間性のタネをまくことができる。21世紀のイノベーション創出に適合的な教育システムを目指して、枠組みの再構築を急ぐことが必要である。

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