人には誰でも過去がある
人には誰でも現在がある
でも、未来は誰にでもある訳ではない
だからこそ、今を精一杯生きるべきだが
結局はその日暮らしの毎日だ
しょうがねぇよな、自分が選んだ現在(イマ)なんだから
信念 5話 ~遠藤護の過去、現在、そして…~
「ホントの気持ちをホントに言えない娘って…結構多いんだよ」
またいつもと同じ夢を見た。いつとも同じ相手が出てきて、いつもと同じ顔をする。いつもと同じような泣き顔は、これまたいつもと同じセリフを口にする。そして、そこで目が覚める。
遠藤護はソファに横たわっていた。酒を喉に叩き込んで横になるだけのつもりだったが、いつの間にか眠りについていたらしい。午前2時だと思っていた時刻はとうの昔に朝を通り過ぎ、間もなく午後になろうとしていた。昔はソファで寝る事は何てこと無かった、ところが今となっては腰が、背中が、全身が痛い。俺も歳を取ったのかな…誰に聞かせるでもなくぼそっと呟くと、部屋に備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してうがい兼朝の一飲みをする。
渇いた喉を潤しながらカーテンを開ける。地上15階からの眺めは不動産屋が言っていたように中々爽快だ。この風景を見れただけでもここに引っ越してきた意味があったのだろう。ぐるっと部屋を見回せば、最低限の家具しかない部屋が見える。テレビはあるけど、電子レンジは無い。洗濯機はあるけど、CDコンポは無い。そんな部屋だ。これは遠藤が買ってないという事ではない。そもそも遠藤はこの部屋にあるもの何一つ買っていないのだから。
最近流行りの家具付きマンション、敷金礼金全てが要りません。遠藤の住処はそのタイプに当たる。今でこそ珍しくはないけど、ここに引っ越してきた10年前は珍しいタイプだった。詳しく言えば持ち主がとある事情失踪した部屋を、遠藤が多目の金と共に全て引き継いだという話になるのだが、そこら辺の話を遠藤はあまり語ろうとはしない。失踪させたのが自分なんてまず人には言おうとしない。
人間には2種類のタイプがいる。自分の過去を嬉々として語るタイプと、自分の過去をあまり語りたがらないタイプだ。遠藤は後者に分類される。だからこそ遠藤は故郷からこちらに引っ越してくる際、何一つ持ってこなかった。最低限の生活費と自分の身一つでここに来た。遠藤は水を飲みながら一息付く。視界には殆ど物が入ってない押入れが入っていた。
押入れを掃除していたら昔の卒業文集が出てきて、気が付いたら読みふけっていた。よくある話だ。だけど自分には有り得ない。この街に出て来る際に全ての思い出は捨ててきたし、マンションの押し入れにはスペアの布団以外何も入っていない。自分には何も無い、だからこそ何でも出来る。そう思って、そう勘違いして、十年が過ぎた。
そして11年目となる今日、テーブルに置いていた携帯が震える。着信画面には遠藤の部下である斉藤の名前が写し出されていた。
「兄貴、おはようございます。ターゲットの下調べが終わりましたんで、報告がてらそちらに向かおうと思いますが大丈夫ですか?」
大丈夫と返事をし、朝飯がてらに最寄りのコンビニで適当な弁当を買って来いと命令する。自炊は得意な方ではないし、作ってくれる人などいる筈もない。否、作ってくれる人になりそうな人はいた。しかし、それは過去形であり、過去の話だ。そして遠藤護は過去の話が嫌いなのだ。
玄関に落ちていた新聞をテーブルに広げて読んでいると呼び出しのチャイムが鳴った。インターホンを覗き見ると斉藤の顔がある。暗証番号を打ち込み一階の鍵を解除する。暫くするとドアのチャイムが鳴ってきたのでドアを開ける。
「兄貴、おはようございます」
斉藤はA4サイズの封筒を持っていた。仕事に入る前にまずは仕事の下準備から。遠藤の持論であり、その仕事が表であろうが裏であろうが同じ事だ。今回は裏の仕事になっているが、それでもターゲットへの下準備は怠らない。正確に言えば怠らせない、となるのだろうか。下準備は斉藤の仕事、デカ過ぎる相手や難解な交渉事には自分が当たるが、簡単そうな相手や初歩的な交渉にはこれも斉藤を当たらせる。部下の育成も大切な仕事だ。少しずつ仕事を引き継いでいかなければな、いつ自分がいなくなっても良いように。もちろんそんな事は言わず、仕事の指導という名目で日々斉藤に指示している。斉藤は封筒の中にある書類を出しながら今回の依頼を説明し出した
「今回の依頼主は田中医院の院長――田中総一郎です。依頼内容は弟である田中神のスキャンダルが暴露される事を阻止してくれだろうです」
「田中神?」
遠藤は殆どテレビを見ない。そりゃあ人並みに新聞やニュースに目を通すがバラエティやドラマ等には見向きもしない。よって俳優や歌手の名前も知らない。スキャンダルと聞くと歌手や俳優の事かと思われるが、どうやらその予想は外れたようだ。斉藤が写真を出しながら説明してくれる。
「いくら兄貴でもグラサンピッチャーという名前は知っているでしょ。そいつの本名が田中神って言うんですよ」
ああ、流し見したプロ野球ニュースで見た記憶があるな。サングラスを掛けている豪速球ピッチャー。全てが――本名も出身校もプライベートも謎に包まれて選手名すらグラサンで登録されている男。野球界で今一番注目されている男だ。しかし、そいつの本名如きでスキャンダルになり得るのか?そんな事を考えていると斉藤が答えを教えてくれた。
「問題は…このグラサンピッチャーが実は全盲者――目が見えないって事なんです」
意外な言葉に少々驚いていると斉藤は医学書のコピーを見せながら分かりやすく説明してくれる。
「目が見えないのに、どうして普通にプレイ出来るのか?その答えはこれ、視覚再生装置です。兄貴にとっては聞き慣れない言葉だと思うから、装置の説明から始めますね。まずはサングラスに超小型のビデオカメラと発信器を取り付けます。これは極小の為、テレビで見ている程度では気付けませんし、球場内だとしても田中神はピッチャーマウンドにいる。この距離差により誰にも気付かれません。唯一気付かれそうな可能性があるのが、打席に立った時キャッチャーに見られるという可能性ですが、これも田中神はDHという制度によりにまず発覚しません」
なるほど、上手い事出来てるもんだ。ピッチャーというある程度周りから度距離があるポジション、そしてDH制という制度。この二つがグラサンピッチャーをグラサンピッチャーたらしめているんだな。
「そして撮った映像をどうしてるかと言ったら、田中神の脳内に埋め込まれた受信機に送ります。送りこまれた映像は脳内で視覚として変換されて田中神が見ている風景となるんです。兄貴、ここまでは大丈夫ですか?」
「…SFの世界だな」
人が宇宙に行ける時代、遠く離れた2人が一瞬で話し合える時代。そんな世界に慣れたつもりだったが、やはり世界はまだまだ広く、自分の知らない事は多いらしい。世の中が進歩しているのか自分が遅れていってるのかは知らないが、とりあえず考え込む暇があったら足掻くのが先決だ。そう、まずは目の前にあるお仕事から。
「なるほどな…普段野球を見ない俺でもこのヤバさは分かってきた。高度なカメラを使えば視力2.0なんて余裕だし、スポーツ選手にとって重要な動体視力だって言わずもがなだ。このカメラはもちろんサングラス以外に取り付けることも可能だよな?」
斉藤がうなずいて返事をする。もう、それだけで事の重大さが理解出来た。
「となれば…相手チームのベンチにカメラを仕掛ける事も可能で、そこからの映像を受信する事も不可能ではないという訳だ。なるほど、なるほど…確かにこりゃあヤバいわ。バレたら野球が出来なくなるな」
「でしょう?どんなに田中神が身の潔白を証明しようとしても、ビデオカメラの目という絶対的な事実がある限り疑いは晴れませんよ。そしてグレーのまま出場停止という懲罰は避けられない。ひいては野球選手としての生命を絶たれる事も十分にあり得る」
「1人の男の野球人生を終わらせるネタを…掴まれた。そういう事だな。そして、その口を黙らせてくれと」
「兄貴が相手だと説明が早くて助かります。他の上司だとこうはいきませんよ。同じ事を何度も何度もグダグダと…面倒くさいったらありゃしない。完璧に正解です。依頼者は先程申し上げたように田中神の兄、田中総一郎。黙らせてほしいターゲットは週刊モーラスの記者、江崎信二です」
「週刊モーラスか、たまに読んでるよ。記事の見出しに!?が多いよくある嘘付きゴシップ誌だな」
「所詮は嘘か本当か分からないゴシップ誌、そういう見方も出来ますが、火の無い所に煙は立たないという言葉もありますし、この記事自体は真実ですからね。田中院長からしたら何としても記事になるのを抑えたい所でしょう。それにオールスターだって近い。セリーグの剛腕VSパリーグの豪打。今から楽しみにしている観客だっているのに、こんな記事が出たら間違い無くオールスターは出場停止になる。田中兄弟からしたらそれだけは回避したいそうです。たくっ…都合の良い時だけ頭を下げやがって」
斉藤は憤慨しているが、自分にそんな感情は全く無かった。むしろ逆の――歓喜の気持ちでいっぱいだ。
「まぁ、そう嘆くな。労働は尊いぜ。素直に働く喜びを感じようや。それにだ、せっかく金になりそうなネタをわざわざ提供してくれたんだ。頼みごとの一つや二つ聞いてやっても罰は当たるまい」
「やっぱり…兄貴、後々このネタで脅す気ですね?」
「おいおい、人聞きの悪い事言うなよ。そんなお客様の信頼を損なうようなマネ俺はしないよ。俺は…な♪まぁ、とりあえず今は与えられたお仕事を全うしよう。この江崎信二を黙らせる方法、既に調べているんだよな?」
斉藤は封筒から2枚目の書類を出す。本当に出来た部下だ。人を脅して黙らせる方法はいくつもあるが、大別すれば二つの手段に分けられる。本人か、周りかだ。ターゲット自体に弱みや弱点があるタイプと、ターゲット自体よりもその周りに危害を加えた方が好都合のタイプがいる。封筒から出てきた書類に江崎信二の顔が写っていた。目を見ただけで分かる。こいつは、後者だ。
恐らく江崎信二自体にどんな恫喝をしても利きはしない。暴力に訴えても首を縦に振る事は無いだろう。それならば、周りを盾に脅せば良い。こういう手合いには護るべき者がいる筈だ。それが強みであり、弱点でもある。弱みがあるならそこを突く。外道の常道だ。斉藤も同じ事を考えていたようで、報告がてら自分の考えていたプランを口にする。
「ありきたりな手段ですが、妻を盾に脅そうかと思います。26歳とそこそこ良い年齢だし、顔も悪くないんで、ビデオにあられもない姿を撮ると脅せば、即座にワンとお手をしますよ」
斉藤はニタニタしながら、その妻の名前を言う。江崎美咲。美咲…?ふとした想いと思い出に捕らわれた。斉藤の言葉と昔彼女から言われた言葉が重なって聞こえる。(遠藤君…今日、一緒に帰らない?)
「斉藤、その女の旧姓は分かるか?」
(遠藤君…じゃなくてさ、下の名前で呼んで良い?)
「ええ、分かりますよ。一応親戚の住所まで押さえていますからね。え~と…折田ですね。折田美咲です」
(だからさ…遠藤く…じゃないや。護君も折田さんじゃなくて、美咲って呼んで。美咲でも美咲さんでも良いからさ)
言葉が止まった、何も考えられない。思考が停止して、思い出だけが頭の中で反復する。
「消しゴム…貸してくれない?」
それは授業中小声で囁いた一言だった。声を掛けたのは自分から、声を掛ける口実にわざと忘れ物をするという方法もあるが、この時は純粋に家へ消しゴムを忘れていたのだ。彼女は少し考えた仕草をして自分の消しゴムを物差しで真っ二つにした。悪いよ、そう遠慮しようとしたら意地悪そうな笑顔で囁いてきた。
「良いの。今度、倍返しにしてもらうから」
それが、彼女――折田美咲との初めての会話だった。
最初は消しゴムやシャーペンの芯など他愛もない物を貸し借りしていた。席が隣だという事もあり授業前や授業中のちょっとした空き時間に少しずつ会話を重ねた。そして漫画やCDを貸し借りするような仲になり、お互いの間をメールが行き来するようになる頃にはすっかり彼女に魅かれていた。初めて教えてもらった電話番号はすっかり暗記してしまったし、何百通彼女にメールを送ったか覚えていない。初めて会ったのが高校二年の席替えで、あっという間に時は過ぎ、進路という二文字が自分達に重く大きくのしかかってきた。そんなある日の放課後だった。教室に残って一人自習している彼女を見かけた。邪魔をしないように、そう思っていたが気付いたら心ときめかせ話し掛けていた。
「こんな時間まで自習?真面目なんだね」
「そーでしょー、あたしって真面目っ子なのよ」
言葉だけ聞けば嫌味ったらしいが、彼女の表情はこちらが微笑むくらいの笑顔だ。
「違うだろ、単に居残りさせられてただけだろ」
意地悪を言った所、彼女は何ですって~と怒りながら消しゴムのカスが飛ばしてきた。そこからは後はいつもの会話だ。いつものようにお互いを小馬鹿にし合って、お互いに怒り合って、そしてお互いに笑いあう。
「護君ってT大に行くんだよね」
「まだ決まっちゃいないけどな」
「でもさー、皆言ってるよ。アイツなら確実だって。先生達もわが校から初のT大生って喜んでた」
「先生がそういう格の低い喜び方するから、日本の教育はレベルが低いって言われるんだよ。誰がどんな学校に行こうが自由じゃないか。知名度や偏差値のレベルで選ぶもんじゃない、本当に行きたい学校へ行きべきなんだ。それが当たり前の事なのに、分かってなさすぎな奴等が多すぎだよ」
本音を言ったつもりだったが、彼女はどことなく寂しそうな表情をしていた。本音で話す事が必ずしも良い結果を生まない、そういう常識的な事を彼女との時間を経て学んでいった。
「あんまりそういう事大声で言わない方が良いよ。受けないで良い誤解を招いちゃう」
しかし、この時点ではまだそこまで頭が回らない。自分の考えている事が全て正解で、すべて正しいと思い込んでいた。いずれこの考えは去勢されるのだが、それはまた別のお話だ。
「言いたい事は言う。その結果色んな事を言われたとしても後悔しない。少なくとも言いたい事を言わない方がもっと後悔する」
「あたしはそんな風にはなれないな。こんな感じだけど、肝心な所では口をつぐんじゃう。ねぇ、それなら護君って何でT大に行きたいの?」
「俺が法学部志望ってのは知ってるよね?そこの法学部の教授がとても素晴らしい人なんだ。オープンキャンパスの時に少し話したけど、この人に付いて法律を学びたいと思った」
「ふ~ん、やっぱり頭良い人は色んな事を考えているんだね。あたしは結局自分の偏差値で行ける大学を消去法で選んだよ。学びたい事とか何も無いや。やっぱり護君は弁護士か裁判官を目指しているの?」
「そこまでは分からないよ。ただ法律を使って困った人を助けたいってのは思っているし、それを将来形にしたい。だからさ…美咲も捕まったら言えよ。ちゃんと弁護してやるからさ」
なんですって~?再びシャープペンが飛んでくる。お互いに悪ふざけをしながら、会話が一段落した際にふとした静寂が訪れた。聞こえてくるのは校庭から聞こえてくる運動部の掛声と、音楽室から聞こえてくるブラスバンドの音。それは僕達のテーマソングであり、僕達の全てであった。静かな空気が2人を包んでいる中、明け放たれた窓から風が入りふわっとカーテンが揺れる。揺れたカーテンは彼女の顔を隠し、彼女はそっとあの言葉を呟いた。
「ねぇ、知ってる?ホントの気持ちをホントに言えない娘って…結構多いんだよ」
「き…!兄貴…!!」
気が付いたら斉藤が肩を揺さぶっていた。ふと周りを見回せばそこはマンションの一室だ。同級生達のバカ騒ぎに包まれた教室ではないし、彼女と向かい合って座った机でもない。あるのは無機質なテーブルに、非合法な手段へ使用される書類が並んでいる。斉藤は不安そうな表情で見つめていた。部下に心配されるようじゃ終わりだな、気合いを入れ直して斉藤の報告を聞く。
「とりあえず江崎信二には妻と娘を引き合いに出して脅そうと思います」
いつもなら何てことない会話だった。普段通りなら妻の行動パターンや娘の通学路を調べ、必要とあらば声を掛けたりちょっとした散歩に誘う事だってある。でも、この時だけはブレザーに身を包んだ美咲の姿と声が浮かんできてしょうがなかった。再び斉藤の声と美咲の声が重なって聞こえてくる。聞くだけで心安らぐ美咲の声に比べて、斉藤の声は煩わしくてしょうがなかった。
「妻の買い物先や時間は調べ上げていますから、命令を貰えればいつでもさらえます」
(ねぇ、護君。いつの日かヒーローが現れてガバっと自分をさらってくれる、そんな想像した事無い?)
「しっかし、これは本当に良い女ですね。旦那だけの穴にするのはもったいない」
(好きな人にね、好きって思ってもらえるのが一番の幸せだと思うんだ。それ以上は何もいらないの)
「脅しじゃなくて、本当にビデオで撮ろうかな…あっ、もちろん一番は兄貴ですよ。俺は2番目で良いですから」
(護君って手を繋いだだけで赤くなるんだね、可愛い~)
「娘も中々見れる顔をしてやがる。今は5歳児だって需要はありますからね。さすがに5歳ともなれば初物でしょう。初の貫通式だ。これはこれで、楽しみですよ」
(もしもの話、子供が出来たら真実って名付けるんだ。しんじつって書いてまみと読むの。良い読み方でしょ)
「親子どんぶりってのも良いな~子の前で犯して、親の前で犯す。最終的には親子同士でアレを舐めさせたり…」
気が付いたら斉藤の首根っこを片手で掴んでいた。ガタンとテーブルが揺れる音がし、卓上のコップが音を立ててふらつく。斉藤の首は太く自分の手は小さいが、ギリギリと斉藤の首を締め上げていた。斉藤が、あ…兄貴…かすれそうな声で抵抗してくるが一向に力を緩める気はない。低く、ドスの利いた声で部下にアドバイスをしてあげた。
「良いか?斉藤。俺はお前を気にいっている。頭も回るし腕っ節だって強い、最近の若い者みたいに口だけって事も無い。俺はな、お前が部下で良かったと思っているんだ。だがな…今俺は酷くお前にムカついている。頼むよ、これ以上俺を苛立たせないでくれ」
爪が皮膚に喰い込み、指先が骨の感触を感じる。もう少し力を込めればポキッと折れてしまいそうだ。まぁ、それでも構わないがな。パッと手を離すと斉藤は咳き込みながら謝ってきた。
「…兄貴、すいませんでした。調子、乗ってました」
「いや、良い。こちらこそ悪かったな」
まるで女子中学生同士が喧嘩したようだ。後味の悪い空気が周りに充満している。この雰囲気を変える為に仕事の話を再開した。
「斉藤、江崎信二のこれからの予定は分かるか?」
「はい、自宅へ仕掛けた盗聴器によると、今日は夕方から近所のファミレスで家族揃っての食事のようです」
「…挨拶にはちょうど良いか。正確な時間は分かるか?」
「はい、夜の7時に待ち合わせだと電話で言っていました。これから出陣ですか?」
「そんな仰々しいもんじゃない、ちょっとした顔合わせだよ。単に挨拶をしてくるだけだからお前は来なくて良い」
挨拶と言いながら頭には美咲の顔が浮かんでいた。用意の為自室へ戻ろうとすると斉藤の声が追いかけてくる。その顔は部下の物では無く、先程の弱々しい顔でもない。男が男に問いかける顔付きだった。
「兄貴…昔自分が初めて仕事を成功させた時に言ってくれましたよね。これでお前も一人前だと。そして頼み事をしてくれました、覚えていますか?」
「歳を取ると忘れっぽくなっていけねぇや、何と言ったかな?」
「【一人前のお前に頼む、もしもこれから先俺が道を誤ったり、踏み外したりした時はお前が止めてくれ】そう言ったんです」
「ああ、そんな事もあったな」
そして斉藤は力強く、自分が言っていた言葉を口にした。覚悟を決めて。
「そして兄貴はこうも言ってくれました。【良いか?所詮俺達は外道に生きるものだ。外道とは読んで字の如く外の道。外の道こそが俺達にとっての正道だ】そんな兄貴がまさか俺達の道を誤ったり、踏み外したりしないですよね?」
斉藤はじっと見つめていた。道を踏み外し掛けている遠藤を。違う意味で道を誤り掛けている遠藤を。
「俺が道を間違えたり踏み外したと思ったのなら、お前のしたい様にすれば良い。言ったろ?お前はもう一人前だ。そんなお前が下した判断や結論なら誰も文句は言わないさ。でもだ…」
一気に、部下へ――否、1人の男へ忠告した。
「覚えておけ、この世界に於いて止めるという事は、力づくという事だ。そして、俺はまだお前に力で負ける気はないぜ」
クスッと笑って斉藤は答える。
「ええ、今の所はね…」
傑作だ。いつまでも部下扱いしていたが、こりゃあ追い越される日もそう遠くないな。生意気な部下に労いの言葉を掛けてあげる。
「全く…子生意気なガキが…」
「兄貴の指導のたまものですよ」
お互いに笑いあって別れる。時計の針は午前11時を過ぎていた。これからもうひと眠りして江崎さんにご挨拶へ行こう。手土産でも持って行こうかな?そんな事を考えつつ自室の布団に潜り込んだ。眠る前に見た時計の針は間もなく午後12時になろうとしていた。昼根をするには早いがまぁ良いだろう。そのまま遠藤は眠りに付いた。時刻、午後11時54分。
午後7時35分。携帯が震える。画面には部長と表示されていた。内容の見当を付けながら電話に出る。
「はい、遠藤でございます」
電話の向こうからは爽やかな部長の声が聞こえてきた。
「おお、調子はどうだ?もうターゲットと会ってきたんだろ?」
「グッドタイミングですね、本当に先程名刺交換をしてきたばかりです。まだ件のファミレスにいます」
「ありゃ、もしかしてお邪魔だったかな?」
「そんな事は無いですよ。先程挨拶は済ませましたし、これから帰ろうとしていた所です」
「そうか、ところで相手はどうだ?面倒くさそうか?」
「…何て事ないですね」
それは本心からの言葉だった。そこら辺の有象無象な中年に比べたらやっかいな相手だが、所詮はそこまでの相手だ。警戒をしておくにこした事は無いが、勝てない相手では無い。むしろ負ける根拠が見つからない。根拠は妻と娘の名を出した時の反応だ。掴みかかる事しか出来なかった、その程度の相手だ。自分なら愛する者と守るべき者の名前を出された瞬間に【おいた】をした口を塞いでいる。
無理やり閉じさせて二度とその名前を呼べないようにしている。脅しに対して脅してくるなんて半人前もいい所だ。俺ならそもそも脅させすらしない。脅されるという事は舐められてるという事だ。そんなふざけた態度はとらせない。断固として、力づくで。
「そうか、お前がそう言ってくれるなら安心出来る。遠藤、良いか?俺はお前を信頼してこの仕事を任せたんだ、この信頼を…裏切るなよ」
何が信頼だ、よく言うよ。あんたが信じているのはあんただけ。信頼という字が信じて頼るという意味ならば、あんたは誰も信頼しちゃいない。あんたがしているのは利用だ。この仕事を通じて田中医院とパイプを作る。その為に俺へ仕事を振っただけだ。別に信じている訳でも頼っている訳でもない。単に手駒の1つとして利用しているだけ。だが、それでも良い。いずれあんたよりも上に行ってあんたを顎で使ってやるよ。その日まで精々殿様気分を味わってろや。もちろんそんな事は言わずに余所行き用の言葉を口にする。
「もちろんですよ、自分が部長を裏切る訳ないじゃないですか。安心して待ってて下さい、きっとご期待に添える結果を出しますから」
おべんちゃらを言いながら電話を切る。さて、こんな所に長居は無用だ。いつまでもだらだらしていたら、また江崎に会ってしまうだろうし、仕事が終わったのにその場でうろうろしていたらろくな事にならない。携帯を胸のポケットに入れて店の出口に向かおうとしたら、四つ角の通路で人とぶつかりそうになった。お互い同じ言葉を発する。
「あっ…ごめんなさい…」
そして、お互いに目を見つめあい、お互いに驚愕し、お互いに相手の名を呼ぶ。
「…遠藤…クン…」
「よぉ…美咲」
ほらな、だから言った通りだ。仕事が終わったのにうろうろしていたらろくな事にならないってよ。午後7時45分、まだまだ夜は長く、どうも今夜は終わりそうにない。
「いらっしゃいませ~」
午後8時3分、能天気なウェイトレスの声が店内に響く。先程までの仕事場であるファミレスから徒歩10分程度の所に2人はいた。喫煙なさいますか?という店員の言葉に禁煙席を選んで2人は座った。1人なら喫煙席に座っているのだろうが、美咲と2人でいる時はいつも喫煙席だった。そして、今日もそう。
「夫は、大丈夫なのかよ?」
「…うん、大丈夫。友達と再会したからちょっとお茶飲んでくるって言ってきた。あれ?そう言えば結婚してる事言ったっけ?」
「薬指を見れば分かるよ。その程度には大人になったんだぜ」
大学時代には出来なかったであろう会話を2人して楽しむ。学生には学生の、大人には大人のお喋りというものがある。そして今日は後者の会話だ。
「ああ、そうか。そりゃ分かるよね」
美咲はそう言いながら――はにかみながら優しく薬指の指輪を撫でた。幸せそうに、愛おしそうに。そして再開した2人は思い出話に花を咲かせる。
「だけど…本当に久しぶりだね。急に大学を辞めたから心配してたんだよ」
「ああ、色々あってな」
「それに音沙汰も無しに連絡不能になるし、あたしやゼミの皆がどんなに心配したと思ってるの?」
「ああ、色々…あってな」
それは一日で語るには膨大すぎる昔話だったし、それは余り話したくない事でもあった。少なくとも、過去、体と心を重ねた女には知られたくない過去だった。だから曖昧な言葉で誤魔化した。
「ほら、昔言ったろ。あの頃親に不幸があってな。のんびりと大学生活を続ける事が出来なくなったんだ。だから自分が働かなきゃいけなくなった。それだけだよ」
それは前半部分は本当だった。しかし後半部分については嘘八百だ。あれを仕事と呼ぶならば、世の中の労働者は皆刑務所行きだ。
「あっ…ゴメン。そうだよね、人には人の事情があるんだから、何も知らないのに一々口を出しちゃいけないって昔護君に言われたもんね」
「よく覚えてるな、でも覚えてくれてありがと。」
「好きだった人に言われた言葉は忘れないもんだよ」
「好きだった…人か…」
それは嫌いと言われるよりも辛い言葉だった。極端な話、嫌われたならその部分を治せば済む。だけど、好きだったと言われたならば、最早どうしようもない。それは過去の話であり、過去は巻き戻せないからだ。後悔先に立たず、人生においても恋愛においても同じ事だ。美咲は今の幸せを語ってくれる。
「うん、今は好きな人がいるし、大好きな娘がいる」
美咲の言葉に冗談めかして茶々を入れる。
「夫より娘の方が大事なのかよ、お父さんが聞いたら寂しがるぞ」
「あら?世の中の夫婦ってのは皆そんなもんなのよ。夫婦よりもまずは子供」
お互いに冗談を言い合い、2杯目のコーヒーが空になった頃、美咲が僅かながら真剣な顔で提案をしてきた。
「ねぇ、良かったらまた時間を作って話さない?色々とお喋りしたいんだ」
「人妻からデートのお誘いか、魅力的なお話だ」
「ゼミの皆も誘っていくからさ、皆で思い出に花を咲かせようよ」
皆か…それは便利な言葉であり、残酷な言葉でもある。でも当たり前だ。最早俺達は恋人同士ではない。精々が元恋人というレベルであり、今は単なる大学の同級生だ。そうしたのは自分なんだからしょうがない。美咲の提案に頷きながら返事をする。
「同窓会みたいだな」
「だね、それならいっその事同窓会で。場所は…いっつも待ち合わせしていたあの喫茶店でどう?」
何だ、美咲は知らないのか?時の経つのは早いもので、昔からあった店が今もあるとは限らない。それは思い出の喫茶店といえど例外ではないのだ。
「…お前、最近あの店に行かなかったのか?あの店はもう潰れて今は眼科医が出来てるぞ」
美咲は行きつけの店が潰れている事に僅かながらショックを感じていた。だけどすぐに立ち直って、それでもそこで集まろうと主張する。
「え~、そうなの?知らなかった。う~、無くなる前にもう一度行きたかったな~。…でもさ、良いよ。思い出の場所だからそこで集まろう。んで、適当な場所に移動しようよ」
自分勝手に計画を決めて、自分勝手に計画を実行しようとする。嫌いではあったが、美咲のそんな部分にも魅かれたのも事実だ。美咲は集まる日を決めてそれを口に出す。もちろんこっちの都合など聞いちゃいない。
「んじゃ2週間後の7月1日午後2時、その田中医院の前へ集合ね。皆に伝えておくから」
それだけ言って美咲は席を立つ。送って行くと言おうとしたが、それは最早自分の役目では無い。黙って視線で美咲を見送った。ドアの外で手を振っている美咲が見える。手を振り返しているとウェイトレスが3杯目のコーヒーを持ってきた。それを飲み干しながらぼそっと独り言をつぶやく。
「ホントの気持ちをホントに言えない男ってのも…結構多いんだぜ」
時刻は午後8時46分。間も無く夜が、闇が――遠藤達の時間が、始まろうとしていた。
譲れないもの
護るべきもの
すべきこと
何が一番大切か?
何を一番にするべきか?
選べるのは1つ。沢山ある中から、たった1つ。
信念 ~江崎信二の日常~
昔は起こされていた。それから暫くして自分で起きるようになった。更に時が経つと起きなければいけないような歳になった。そして今の場所は起こさなければならないという地点だ。
「ほら、まみ。起きなさい。幼稚園に遅れるよ」
寝起きの悪い娘を泣かさないように起こす、一苦労だ。それでも【家事は出来るだけ分担しましょう。あたしはご飯を作るから、その間まみを起こしてお着替えさせておいてね】という約束(契約?)を一方的に結ばれて、今日もまた暴れまわっている娘をパジャマから幼稚園用の服へと着替えさせる。
壁にかかっているアナログ時計は7時半を指しており、台所からは妻の特製フレンチトーストの匂いが漂ってきていた。日時は6月18日。これからどんどん暑くなり、いつも通りの一日が始まる。テレビに熱中している娘の口にトーストと牛乳を流し込みながら、自分の口へも妻の手料理を叩きこむ。朝起きると紅茶の匂いにトーストのこんがり焼けた匂い、そして優しい妻の笑顔。遥か昔――美咲と付き合い始めた当初はそんな未来を夢見たりもしたが、所詮夢は叶わないから夢なんだなと最近思うようになってきた。所詮現実は現実、妻の怒鳴り声と娘の鳴き声が群雄割拠している世知辛くてなんぼの世界だ。
食後のコーヒーもそこそこにまみへ歯磨きをさせる。昔は嫌がっていてが、イチゴ味の歯磨き粉を与えてから進んでするようになった、良い傾向だ。但し磨いているというより、イチゴを味わっているという気がしないでもない。そこら辺の指導は今後の課題としよう。ここまですればバトンタッチだ。幼稚園への送迎バスは3丁目の角にある広場へ止まる。そこまでの送り迎えは美咲の仕事だ。
美咲は、まみの忘れ物はないかチェックしている。まみは忘れ物の常習犯だ。余りに多すぎるので先生が連絡帳に翌日必要な物を書いた所、翌日はその連絡帳自体を忘れてきた。それ以降美咲が連絡帳片手にまみのチェックをするのが日課になっている。その微笑ましい光景(美咲からしたら全然笑えないそうだが)を見ながら、身だしなみを確認して玄関のドアに手を掛ける。
「それじゃあ、行ってくるよ」
いってらっしゃーい。2人の声がハモり送り出される。愛機の自転車にまたがり片道30分の道を漕ぎ出した。昔は電車で通勤してきたが、最近――特に30を超えてから体の衰えを如実に感じ始めた。これではいかんという事で、定期代の節制とジム料金の節約を兼ねて自転車に乗る事になった。出勤する時間が10分程早くなったのはマイナスだが、今日みたいなポカポカした日は金では得られないものを得た気になる。
雲一つない空から暖かい日差しが降り注いでいた。時期は6月、間もなく梅雨を迎えその後に暑いほどの光が照ってくるだろうが、それまではこのぽかぽか陽気を楽しむようにしよう。そんな事を考えていたらスーツの胸ポケットに入れていた携帯が震えた。この震動の仕方はメールだ。信号待ちで横断歩道の前に止まった際に携帯を開いてみる。そこにはこう書かれていた。
【すいませーん、夏風邪引いたんで病院寄ってから行きまーす。昼までには出社しますから~ 新城】
…はぁ、このあほ部下のせいで数え切れないほどの溜息を吐いてきたが、今日は一日の溜息最高数を記録しそうだ。午前7時45分、まずは1。そして午前8時50分、上司の机の前で小言を聞きながら2。(もちろんバレないように)
「江崎主任、君は部下の管理もろくに出来ないのかね?」
河原崎課長。重役には媚びへつらうくせに、部下にはねちねちと嫌味を言う事で有名だ。もちろん自分では何一つせず、全ての仕事と責任は部下に押し付け、成功だけを横取りするというどこの会社にもいるタイプの上司だ。この男が課長まで昇れたのは仕事の有能さではなく、おべんちゃらと調子の良さのみというのが若い社員の間では定説だ。
「そりゃあね、僕だって可愛い部下の言う事を疑いたくはないよ。だけどさ、先々週は鼻炎、先週は腹痛、そして今週は夏風邪で遅刻。さて、来週はどんな病気が発生するのかな?」
何が僕だ、40超えて一人称を僕にするな。聞いていて虫唾が走る。これ以上聞いていたら来週どころか、こっちが病気になりそうだ。病名は【部下があほ過ぎるのと上司がくそ過ぎる病】だ。労災を申請したら降りるのか?総務への手続きを本気で考えていると、聞いてるぅ?と河原崎がぐいっと覗き込んできた。アレな顔を急に近づけないでくれ、心臓に悪い。
「とにかくさー新城クンは君の部下なんだからそこら辺をちゃんとしつけてよ。体調管理も仕事の一貫という事を彼に教えてあげて。じゃないとさ~…」
課長はその続きを言わなかった。別に聞かなくても良い。どうせ自分の査定に響くとかだろう。最悪主任降板って所か、望む所だ。対して給料も上がらないのに、責任とあほな部下を押し付けられたんじゃやってられない。こんな役職こちらから願い下げだよ。
「分かりました、新城にはきちんと指導しときます」
上辺だけの言葉で一応頭を下げ、上司の机から離れる。とりあえず溜まっている記事を片づけないといけない。あほな部下の尻拭いや面倒くさい上司からどのように逃げるかなんてその後に考えよう。
溜まっている記事をあらかた片づけた。時刻は午前11時となっている。もうすぐ昼飯だ。さぁ、もう一頑張りしようと思っている人が殆どの中で、未だに来ていない奴がいるとはどういう事だろうか?ジロッとドアを睨みつけていると、やっとドアが開いて能天気な声が聞こえてきた。
「スイマセン。新城聡、唯今到着しました~」
夏風邪を引いていると言っていた割に随分と顔色が良い。それに声も良く通っている。恐らく職場の皆全員がその嘘に気付いてはいるだろうが、敢えて放っている。怒るのは愛されている証拠、限度を超えれば無視するしかなくなる。そんな言葉を思い出した。新城は自分の方向に寄って来て、
「スイマセン、江崎さん。病院に行っていて遅れました~」
何故か新城はひょこひょこ足を引きずりながら歩いていた。おいおい、風邪という言い訳じゃなかったのかよ。それとも最近の風邪は喉でも鼻でも無く足に来るのか?そんな疑問など知るよしも無く、新城はスイマセンスイマセンと口先だけで連呼している。言葉で謝って遅刻が許されるのなら、俺は今度土下座しながら無断欠勤してやるよ。こういう場合厳しい上司なら領収書を見せろと言うのだろう。部下への情が無い上司ならお大事にねと顔も見ずに言うのだろう。自分は全く別の事を考えていた。それは昔上司から怒鳴られた言葉だった。
【スイマセンじゃねぇんだよ!済みませんなんだよっ!!】その言葉は今でも心に残っていて、自分を戒める格言となっている。新城に言っても良いが、どうせこいつは言葉の意味を理解出来ないだろうから言うのを止めて、
「ほら、遅刻した分記事が溜まってるぞ。手伝ってやるからさっさとやれ」
机の向こうでは河原崎課長が睨んでいた。しょうがない、これが自分の性分なんだから。新城と一緒に溜まっていた記事を片づける。これで今日も昼飯の時間が減りそうだ。はぁ…、午前11時40分、3度目の溜息が口から出た。
午後1時20分、やっと溜まっていた記事が終わった。ちなみに新城は30分ほど前にトイレに行ってきますと言って戻ってきてない。もう良い、あいつは諦めよう。そんな事を決心しながら行きつけの蕎麦屋に行く為にエレベーターへと向かう。一階へと降りて外へと向かおうとすると、後ろから声を掛けられた。
「あの…すいません…」
後ろを振り向くと中々可憐な女性がいた。真新しいスーツに身を包み、ナチュラルメイクでショートカット。新人OLという言葉がよく似合う女性だ。若い女性に声を掛けられるという事実に少なからず気分を盛り上げていると、意外な名前が彼女から聞こえてきた。
「週刊ジャーナルの新城さんって、こちらの会社にお勤めですよね?」
週刊ジャーナルとはもちろん自分が関わっている雑誌の名前だし、新城とは顔を思い出すのも嫌なあほ部下の名前だ。意外そうな顔をしていると、彼女はそれを肯定の態度と思ったらしく、続きを話し出した。
「ここで詳しい話をするのはちょっと…」
彼女にそう言われ、行きつけの喫茶店で昼食を取りつつ話を聞く事になった。さすがにこの時間になるとひともまばらになってくる。まぁ、彼女にはその方が都合良かったんだろう。さすがに周りに人がいる状況で話せる話題じゃない。事情を聴きながらランチメニューを口に運ぶ。彼女はケーキセットを頬張っていた。
「これが昼飯代わりです」
満面の笑みでそう答える彼女は、スーツに身を包んでいてもまだまだ少女らしさを感じさせてどことなくほっとした。
それから暫く経ち話しも終わる。彼女と別れたのが午後2時、そして3度目の溜息を吐いたのが午後2時5分。溜息を吐きながら思わず言葉が口から出た。
「…っのばかが…」
しかし、この溜息は今までの2回とは意味が異なっていた。最初の2回が失望や落胆という意味ならば、この3回目は感心という内容が含まれていたと思う。最近流行りの言葉で言うとこんな感じだ、「バカが…無茶しやがって…」ってな。
会社のロビーからエレベーターに乗り込み、仕事場の階数を押そうとすると、どたばたと走り寄ってくる足音が聞こえた。誰かは見なくても分かる。【閉】のボタンを16連射したい勢いに駆られたが、4度目の溜息と共に【開】のボタンを押す。そしてその本人は息を切らせながらエレベーターに飛び乗ってきた。
「はぁはぁ…間に合った~、あれ?江崎先輩、お疲れ様です」
「風邪気味にしては中々良いダッシュだな。もう病気は治ったのか?」
河原崎部長並の嫌味たらしい笑顔で離し掛ける。新城は慌てふためいた顔で弁解を始めた。嘘付きおばかさんの言葉と、先程の女性との言葉が重なる。
「あっ!え~と…もう治りました。医者の先生もそこまでは酷くないと言っていたんですよ」
(今朝、あの人が助けてくれたんです。電車に乗っていたらスカートの中を携帯で撮られて…)
「元々、そんなに酷い風邪じゃなかったんですよ」
(気付いたんですけど、ドアが開いた瞬間にそいつが逃げ出して追いつけなかったんです)
「ちょっと調子が悪いなって程度だったんです。でも、風邪は引き始めが肝心って言うじゃないですか」
(でもあの人が追い掛けてくれて、捕まえてくれたんです。でもその際に縺れ合いになって倒れ、足を挫いたようで…)
「だから病院に行って点滴を打ってもらってきたんです。もう大丈夫、バリバリ仕事しますよ~」
(お礼をしようと思ったけど、あの人は大丈夫と言って聞かないし…名刺だけ頂いて、こうしてお礼に来た訳です)
さて、どうしたものか…5度目の溜息を吐く。ここで嘘を暴くのは簡単だ。彼女から名刺を預かってきたんで、それを渡して恋のキューピット役を演じる事も出来る。だが、結局は…
「そうか、あまり無理するなよ」
それだけ言ってエレベーターに無言の空間を召喚した。嘘を言うのが礼儀なら、嘘に付き合うのも礼儀だろ。エレベーターが目的の階に着く。降りようとすると新城が思い出したように鞄の中をゴソゴソやり始めた。
「あっ、これ新発売の板チョコです。下のコンビニで売ってました。先輩チョコ好きでしょ?良かったらどうぞ」
ああ、チョコは好きだ。自分も好きだし、今年5歳になるまみも大好きだ。美咲は「もーまた甘い物を与えて~」とお冠になるだろうが、そこは新発売のカクテルでも与えて宥める事にしよう。良い土産が出来た。
「ありがとな」
それだけ言って自分の机へと戻る。ああ、言い忘れた事があった。くるっと振り向いて新城に忠告する。
「こんなので遅刻の件を帳消しに出来ると思うなよ」
新城はえへへ~と笑っていた。全く…本当にあほな部下だ。6度目の溜息を吐こうとした時に女子社員から内線を回された。
「江崎…今、ちょっと良いか?」
声の主は河原崎課長でなければ新城でも無かった。安藤部長、若手社員の間で一番人望を集めている上司だ。普通上司というのは嫌われてなんぼの生き物だ。しかしこの江崎部長は違う。もちろん他の上司同様厳しい一面もある。むしろ河原崎課長なんかより、よっぽど厳しいし怖い。だけどこの厳しさには愛がある。部下の事を思う故に怒り、叱責し、そして必要とあらば自分の身も顧みずに部下を庇う。
だからこそこの人は皆から慕われていた。もしこの人が会社のトップになれば大勢の社員が喜ぶだろうし、この人が独立して会社を興せば沢山の社員が付いて行くだろう。そんな安藤部長が一体何のようだ?用件を予想していると、
「電話じゃ何だから」
部長はそう言って、使われてない会議室を指名してきた。
5分後、無人の会議室に椅子を引く音が二つ響く、僅かながら緊張していると安藤部長はゆっくりと語りかけてきた。
「どうだ?結婚生活は上手くやっているか?」
「こういう場合は上手くいっていても、いってなくても、はい、順風満帆ですと答えるもんでしょ」
「確かに、違いないな」
お互いに笑いあった。安藤部長は自分達の結婚の際仲人をしてくれた人だ。仲人には二つのタイプがある。義理で仲人を頼まれた人と、本当の意味で仲人となってくれた人。安藤部長は後者だった。元々自分と美咲は同じ部署にいた。いわゆる社内恋愛&社内結婚という奴だ。その時に(それこそ甘い思い出やケンカのメモリーもあるがそれはまた後述で)公私ともに相談に乗ってくれたのが、当時主任の地位にいた安藤さんだったという訳だ。
自分と美咲は結婚して美咲は会社を退職した。それからも安藤さんは自分達の世話を焼いてくれ、時たま家へ遊びに来てくれる。人生での恩師は?と聞かれたら間違い泣く安藤さんの名前を挙げるだろう。別に先生ではないが、仕事でも私生活でも大切な事を沢山教わったからだ。安藤部長と何気ない会話をしていると急に深刻な顔付きになってきた。そして重いトーンの口調で質問をしてくる。
「河原崎部長から…何か聞いてるか?」
「いえ、何も」
「そうか、全く…あの男は…」
安藤部長は苛立ち紛れに呟いた。そして急にクイズを出題してくる。
「なぁ、上司をやってて辛いなと思う瞬間が二つある、何か分かるか?」
「昔、行きつけの飲み屋で教えてくれたじゃないですか。【ばかな部下の尻拭いをする時】と【そんな部下でも、そいつの首を切らないといけない時】って、まさか…」
充分だった。それだけで、安藤部長の用件や何故人気のない会議室を指名してきたかが分かり過ぎるほど分かった。安藤部長も自分の顔を見て察してくれたのだろう。会話の内容は本題に入り始めた。
「会社がこの不景気のあおりを受けて、大幅な人員削減を始めたのはお前も知ってると思う。あくまで予定の段階だった。だが、それがここ最近で実行され始めた」
その言葉を聞いて思い浮かべたのは、再就職先とか退職金とかローンとかでは無かった。美咲とまみの顔だった。
「ああ、先に言っておくぞ。お前じゃない、心配するな。該当者は…新城だ」
ああ、納得した。遅刻早退欠勤当たり前、真面目に出勤していたら珍しいと揶揄される男だ。コネでもないのに、どうして入社試験をパス出来たのか?それは会社の7不思議の一つに数えられている。そりゃあリストラの対象にもされるわな。なるほど…納得は出来る。でも理解は出来ない。そりゃあお世辞にも仕事が出来るとは言えないし、勤務態度も真面目とは言えない。でも…でもだ…!
風邪引いちゃって遅れました~
あの人が、助けてくれたんです
主任チョコ好きでしょ、良かったらどうぞ
今朝の下手な嘘、女性の感謝している顔、そして何気ない気遣いが脳裏に浮かぶ。そして気付いたら安藤部長に詰め寄っていた。
「何とか…なりませんか?」
「それは厳しいな。入社以来ろくなスクープも取れちゃいないし、勤務態度だってあれだ。よっぽど逆転の一手でもないと難しいよ」
ふとした考えが浮かぶ、それは常識というフィルターに通せば決して通過しない考えであった。バカ、止めろ。自分の中のかしこな部分が抵抗する。しかし、かしこじゃない部分が勝ち、結局安藤部長にとある提案をしていた。
「あいつが、スクープを取れたとしたら…問題無いんですよね?」
ネタがあるのか?と部長が詰め寄ってくる。それは部長としての質問ではなく、1人の記者としての質問だった。
「巷で話題のグラサンピッチャーに関するスクープです。これなら逆転の一手になるでしょ」
「…逆転満塁サヨナラホームランだ。しかし…そのネタは確か且つデカいんだろうな?」
「場外級です」
かしこな部分は既に消えさっている。ああ、普段から新城の事をバカだあほだと言っているが、一番のあほは自分だな。
「その話、河原崎課長には話したか?」
「いえ、現時点では自分と新城のみであり、それに安藤部長がプラスされただけです」
「分かった、裏取れたら直接俺のトコに持ってこい。お前の望むようにしてやる。しかしだ、時間ってのは無限にあるようで実は有限だ。意味…分かるな?」
そう言って部長は期限を提示してきた。
「来月号の締切――つまり2週間後の今日がデッドラインだ。」
男と男の密約だった。黙って部屋を出ようとする際、安藤部長がもう一つ質問してきた。
「昔よく行った飲み屋で、お前に主任としての心構えを言った記憶がある。どうだ、覚えているか?」
昨日のように思い出される言葉だ。安藤部長に背中を向けたまま答える。
「【上司の小言に耐えて結果を出す、部下の我儘を聞き流して護る。両方しないといけないのが主任の辛い所だ。覚悟はあるか?俺は出来てる】ですよね?」
「よく覚えてたな、正解だ。まぁ、好きな漫画の受け売り&改編だがな。…しかし、それらしい顔付きになったじゃないか、江崎主任」
江崎主任、今まで江崎呼ばわりだったのに初めて主任と呼んでくれた、認めてくれた。くるっと思わず振り向いた。安藤部長は窓を見つめたままこちらに背中を向けている。顔は見えない。だけど、見えた気がした。感じた気がした。ぺこっと頭を下げて会議室のドアを閉める。部長1人となった会議室から煙草の煙と共にぼそっと呟きが発せられた。
「ガキだガキだと思っていたら、いつの間にか大きくなりやがって…」
会議室から自分の部署へと戻り、仕事を再開する。パソコンに記事をカタカタと打ち込む。ふと新城の方を見たら一応はパソコンに向かっていた。しかしディスプレイには何故かファッションの画像が映し出されている。今アイツに割り振った仕事は解散総選挙に対する市民の反応だから、ファッションのファの字すら存在しないはず。つまり…毎度恒例のサボりだ。先程会議室で宣言した決意が思わず揺らぐ。何でこんなあほの為に俺が苦労しないといけないんだ?たくっ…。
でも最終的にはそうしてしまうのが分かっているから、自分もとことんかしこじゃない。とりあえず7度目の溜息を吐きながら、新城に注意しに行こうとすると携帯がメールの着信を知らせてくれた。手紙の送信者は自分が一番愛する人とその娘だった。
【今日の夕方まみを連れて夏物の服を買いに行こうと思ってるの。それで夜合流して、たまには外食しませんか?あたしが楽したいだけってのは秘密ですよ 美咲】
【いつものれすとらんにいくの~まってるの~はやくこないと、まみがぱぱのぶんまでたべちゃうからなの~ まみ】
【了解、仕事が終わったら連絡するよ。早く行かないと、小さな姫様に全部食われちゃうからな】そう返信し、昼からの仕事に取り掛かる。対象を調べる、記事を書く、チェックする。いつもと同じ仕事内容なのにいつもより仕事に張りが出ている感じがした。やっぱり御褒美があるとやる気も違ってくるんだな。そうだ。新城も今夜の食事に誘ってみようかな?そんな事を考えながらワープロのキーをペチペチ叩いた。もう、溜息は出てこなかった。
「今夜ですか?申し訳ないです。今日は先約があって…また誘ってくださいよ~」
新城は忙しそうに帰りの準備をしていた。全く…仕事はトロトロしているのに、帰るのだけは神速なんだからな。そんな事は言わずに先約とはデートか?と冷やかしたら、
「ちょ…主任、自分なら問題無いですが、女性が相手だとセクハラ呼ばわりされますよ」
なるほど、自分もセクハラをするような年齢になったのか。今度から気を付けないといけないな。新城と別れの挨拶をして美咲との待ち合わせ場所に向かった。
「いらっしゃいませ~」
駅裏の交差点沿いにあるファミリーレストラン【ガセト】の自動ドアを開くと店員の間延びした挨拶が聞こえてきた。おひとり様ですか?と聞いてくる店員に妻の名を言い、待ち合わせだと告げる。窓際の禁煙席に通されるとそこには妻と娘がちょこんと座っていた。
「あっ、やっと来た」
「ぱぱー、おそ~い。もうおなかぺこぺこなの~」
2人の前には水だけがある。何だ、先に食べてても良かったのに。そう言うと、
「ダメです、食事は家族全員で。それが家族のルールです」
「るーるです、なの~」
先に食べてても良かったのにと思う反面、待っててくれて嬉しいという気持ちもある。3人揃って仲良く座り(妻の隣に自分、反対側にはお姫様が1人で2人分の席を陣取っている)ボタンを押してウェイトレスを呼ぶ。
「お待たせしました、注文をお伺いします」
「ハンバーグセット2つと…まみはオムライスセットで良いよな」
ハンバーグは自分と美咲のお気に入りだ。昔、自分と美咲がまだ高校のクラスメイト止まりだった頃、文化祭の打ち上げで入ったファミレスで同じハンバーグセットを頼んだ。そこから会話が始まり、そしてクラスメイトから掛け替えのない人へと変わって行った。ちなみにまみはオムライスが大のお気に入りだ。母親が子供の良く聞く言葉の1つ――今日の夕飯何にする?と聞いたら200%の確率(2回叫ぶ)でオムライスと言う。前日に食べていようが関係無い。まみはいつでもオムライスを食べたいのだ。
もちろん今回もそうだと思っていたのだが、
「う~…なの~…」
まみがうぐぅと唸っている。これは言いたい事があるけど、どういって良いのか分からない。そんなサインだ。
「どうした?まみはオムライスが大好きじゃなかったのか?」
「すきなの~、でも…うぐぅ…」
まみ以上に店員が困っていた、伝票を持ってじっと突っ立っている。迷っていると美咲が助け船を出してきた。
「オムライスで良いんじゃない?今はうだうだ言っているけど、実物が目の前に来たら喜んで食べるわよ。それにもしダメだったら、あたしらのハンバーグセットと交換すれば良いだけだしね」
美咲の提案に賛成し、店員に当初の注文で言いと言う。まみはまだ何か言いたそうだったが、先に運ばれてきたオレンジジュースを飲むとにこっとした顔になっていた。数分後、ハンバーグセットとオムライスセットが運ばれてきた。まみはにこっとした顔のままでオムライスをスプーンで口に運ぶが、やっぱり顔色が優れない。
「どうした、まみ?調子が悪いのか?」
「…このオムライス、…なの~」
まみは最初口の中でもごもご言っているだけだったが、やっと言葉を口にした。
「…このオムライス、うまくないなの~」
じろっと美咲がまみを睨んだ。スプーンでまみのオムライスをすくって一口食べる。暫く味わった後、静かな声でまみに言い聞かせた。
「まみ、普通に美味しいわよ。ママ言ったでしょ、人が作った物を美味しくないとか言ってはいけませんって。ママと約束したわよね?」
美咲の中には独自のルールがある。それは法律とか常識とかではなくて、美咲個人のルールという奴だ。その中の一つに【人が作った物に対する批判は許さない】というのがある。美咲自身料理が好きという事もあるのだが、美咲は料理にケチを付けるという事はまずしない。作った人に敬意と尊敬の念を抱いているのだ。しかし、明らかな手抜きやどうみても美味しくないというものに関しては文句を言う。むしろ聞いているこっちがハラハラする位のクレーマーとなる。
「だってさぁ、人の体内に入るものなのよ。それなのに、このレベルは無いでしょ。しかもこれでお金を取ってるのよ。よくこのレベルで商売できると思う。ある意味尊敬するわ」
以前美咲と行ったラーメン屋で美咲が言った一言だ。もちろん今後このラーメン屋に行く事はなくなった。というよりも行けなくなったと言う方が正解かもしれない。事実こうして出入り禁止となった飲食店は一軒二軒ではない。美咲からしたら、
「何よ?あたしは当たり前の事を当たり前に言っているだけだからね」
と、断固として自分の非を認めようとはしない。
美味いものには賞賛を、不味いものには批判を。それが美咲のルールだ。横からスプーンを伸ばして問題のオムライスを食べてみる。味わってみた所別に不味くはない。そりゃあ雑誌で紹介されているような名店のオムライスには及ばないが(後輩の女性社員にせがまれて奢らされた事があるがあれは絶品だった、もちろん美咲には言ってない)、ファミリーレストランという場所柄では十分に合格点が貰えるだろう。
なら何故まみは美味しくないと言ったのか?美咲はまみをじっと睨んでいた、こりゃあまみがごめんなさいするまで美咲は睨み続ける気だ。助け船を出そうものなら、あなたは黙っててと一喝されてお終いだ。早いとこ謝った方が良い。まみの為にも、美咲の為にも。そしてもちろん自分の為にも。
「まみ、パパも食べてみたけど、十分に美味しいよ。何で不味いなんて言うんだい?」
助け船というよりもフォローを出したが、いかんせんまみの反応は乏しい。
家族3人でファミリーレストラン。普通なら楽しい雰囲気だが、ここの空気は修羅場のそれだ。こうなった以上結末は二つだ、まみが謝るか、まみが泣くか。しかしまみが謝るというのは無さそうだから(美咲は否定するだろうが、まみと美咲はよく似ている)まみが泣いて美咲が怒って自分が宥めるというパターンになるだろうな。
しかし、その予想は多少外れた。まみは泣きそうな声で言葉を紡ぎ出す。
「おむらいすが、まずいんじゃないなの~」
どういう事?美咲と自分が同時に聞いていた。そしてまみは泣き声で答える。
「ままのおむらいすにくらべて、おいしくないなの~。ままの…ままのおむらいすのほうがいいなの~…」
言葉として認識できたのはここまでだった。後聞こえてきたのは泣き声、わんわんと、わんわんと。もちろん自分はまみを宥めた。そして美咲は怒らなかった、予想が外れた。美咲は黙ってまみの横に座り、そっと肩を抱く。そして2人でお手洗いに行った。きっと今頃抱きしめているんだろうな、そう思った。そしてこの予想は的中したという事を、戻ってきた美咲から聞いた。
仲直りした3人家族がテーブルで楽しそうに食べている。結局まみのオムライスと自分のハンバーグセットを交換した。まみは美味しそうにハンバーグを食べ、自分もオムライスを味わっていた。美咲がスプーンを置いて、反省の面持ちで置いて語り出す。
「トイレで聞いたんだけどね…あたし、この子に気を遣わせちゃったみたい…」
美咲の言い分を要約するとこうなる。美咲自身食事は家で摂るのが基本だと考えているが、たまには外食をするのも良いと考えている。その理由は家族揃っての食事同様、家族揃ってのお出かけが重要であるという考えに基づいているし、まみに外食のマナーを学ばせるという事もあるし、純粋に外の味を楽しみにしているという事もある。ただそれだけではなく、美咲自身楽出来るからというのもある。たまには調理せずに食事をしてみたいし、後片づけから解放されたい時だってある。それらの理由が重なって我が家では2週間に1度外食をするようにしていた。
だけど、まみは美咲の料理が食べたかった。2週間に1度の外食よりも、美咲の作った物が食べたかった。
まみはトイレで泣きながらこう言っていた。
「ままのおむらいすがたべたいなの~」
だけど、言えなかった。美咲は毎晩調理している。美咲は毎晩料理している。その大変さが分かるからこそ、美咲の2週間に1度の休みを妨害するようなことは言いたくなかったらしい。美咲の笑顔がそこにあるから、本音は言えなかったらしい。でも、それでも、ままのオムライスの方が美味しい。その事を言いたいけど言えない、それジレンマがまみに涙を流させた。
美咲は黙っていた。
まみも黙っていた。
自分も黙っていた。でも、こういう時に声を出すのが父親の役目だ。ふと思いついた事があって、それを口にする。
「今度、キャンプ行こうか?」
美咲もまみも?という顔をしていた。言葉を付けくわえて説明を続ける。
「のんびりとした山奥に行ってさ、コテージを借りるの。そこでのんびりするんだ。他のキャンプに来ている人達とご飯食べたり遊んだりもする。きっと楽しいぞ。もちろんママには料理を休んでもらう。食事は俺とまみで作るんだ。でもずっと俺達の食事じゃ胃袋が満足しないだろうから、1回くらいはママにオムライスを作ってもらおう。なぁ、どうだ?」
家族揃ってのお出かけ、外での食事マナー、美咲の休暇、全ての案件を満たす答えはこれしか浮かばなかった。さぁて、答えはどうだ?
美咲は笑っていた。
まみも笑っていた。
自分も笑っていた、つられて。答えはそれで十分だった。
「パパは、ちょっとお手洗いに行ってくる」
テーブルの上にあった食事はあらかた片付き、美咲は食後の紅茶を飲んでいる。まみはデザートのパフェを今か今かと待ち望んでいた。たまには母と娘でのんびり会話をするのも良いだろう。そう思ってトイレに行く事にした。男性用便所で用を足していると真横に人が入ってきた。トイレは空いているのに、変な人だな。そう思っていると、その変な人は独り言を言いだした。だが、その独り言は自分の意識をその男に向けさせるのに十分だった。
「キャンプですか、良いですね。でも気を付けなくちゃ。最近はキャンプでの事故とか多いですもんね。川で溺れ死ぬとか、毎年のようにテレビで流れてますからね~」
こいつは何を言ってるんだ?いきなり横に立って妙な独り言を言っている。否、それは独り言の体裁を成した忠告にも聞こえた。そもそもだ、何故キャンプの事を知っている?周りの席に座っていたならば声が漏れ聞こえる事もあるだろう。
しかし、こんな男は――ブランド物で固めた真っ黒いスーツ。金色に輝きその存在を過大に主張している腕時計。黒々としたオールバックに、猫の目をイメージさせる細目に一重瞼。スーツとは対照的な白い肌は奇麗と言うよりも、不気味という言葉を連想させた。こんな男は周りにいなかった。ならば何故自分達の会話を知っている?結局その疑問は口には出ず、代わりの疑問が口から出た。
「あんた…何者だ?」
用を足し終わった男はチャックを上げて手を洗いだした。そして自分の疑問に疑問で返す。
「良い年した大人が初対面の人をあんた呼ばわりするのはどうかと思いますよ。江崎主任♪」
寒気がする。疑問が巡る。動悸が心を打ち、血液の温度が上がる。何だ、こいつは?先程の会話が漏れ聞こえたのならまだ良かった。しかし先程の会話で主任だと分かるような発言はしていない。家族3人の時に仕事の話はタブー。そう美咲と話し合って決めたからだ。
何故?この男は自分の事を知っている?昔何かの仕事で一緒になったかもしれないが、それなら忘れる筈がない。商売柄会った人の顔と名前は覚えるようにしているし、そもそもこんな男は仕事関係で会ってない。真っ当な仕事じゃない――裏の仕事の匂いがする男だ。こんな男に会う事はまずないし、そもそも会う事すらないだろう。
表と裏は決して向かい合わないからだ。
裏の男は水で手を洗いながらゆっくりと語りかけてきた。
「家族3人で外食も良いでしょう。家族揃ってキャンプも良いでしょう。でも注意してないと思わぬ事故に巻き込まれたり、思わぬケガをするかもしれませんね」
それは忠告であり、脅迫にも聞こえた。だが、脅迫される筋合いなどない。そりゃあ、人様から恨みを全く買ってないとは言えないが、ここまでされる程の事は決してやってない。
そもそもこの男と揉めた記憶がないのだ。今までのトラブルを思い起こしていると、その男は急に話題を変えてきた。
「因果応報ってあるでしょ。酷い事をすると酷い目に合うよって奴です。例えばね、人が書かないでくれと懇願している秘密を、無理やり暴露するようなやり方で書いたとしたら、それ相応の天罰が下ると思うんですよ」
その言葉でやっと理解出来た。こいつが何者か、何故この男はこんな事を言っているのか。全てが判明した。そして答えを口にした。
「あなたが、田中院長の仰っていた銃ですね」
今度はあんたではなく、あなたと言葉遣いを訂正した。
「銃?そんな物騒な物言いは止して下さい。私はただのおせっかいな中年ですよ。ああ、名前をまだ言ってませんでしたね。遠藤護と言います。とにかく私は困っている人を見過ごせないんですよ。田中院長からご相談を受けてこうして余計なおせっかいをしているという訳です。どうぞ、よろしくお願いします」
そう言って差し出された名刺には【ハッピーローン 主任 遠藤護】と書かれていた。会社名からしてサラ金なんだろう。しかし、真っ当な金貸しではない匂いがした。もし自分が金に困ったとしても、ここだけには電話しないだろう。それにしても、同じ主任でも随分差があるな。同じ役職という事にちょっとおかしくなったが、それを話題に笑いあえる2人ではない。今、2人は、敵なのだから。江崎は警戒したまま遠藤に話しかける。
「相談ね…依頼の間違いじゃないのか?いくらの金をぶん取っているんだか」
「とんでもない、私は善意の第三者という奴ですよ」
「その言葉を遣う人は大抵悪意の当事者たり得るんですよね。別に田中院長の事を書かなくても、遠藤さんの事を書いても良いんですよ。そちらの方が面白い記事が出来そうだ。ご存知とは思いますが、私は週刊誌の記者です。こちらこそ、宜しくお願いします。」
遠藤に名刺を差し出す。相手はそれを受け取ると音もなく近付いてきた。すっと、素早く。気が付けば江崎の目の前に遠藤がいた。遠藤は江崎に顔を近づけ、そっと耳打ちをする。それは恋人同士がするような――甘い甘い言葉を愛している相手以外の人に聞かせたくないの分かるでしょう、そんな耳打ちだった。
「奥さんの名前、美咲さんでしたっけ。確か旧姓は折田、折田美咲さんですよね。気を付けないと、世の中には人の妻だろうが関係無しに嬲りあげる人もいますからね」
瞬間、江崎の血液が煮えたぎった。それでも、まだ何とか耐えた、我慢する事が出来た。拳を握り締めたがすんでの所で自分を止めた。しかし、次の言葉は無理だった
「後、5歳の娘に性的衝動を覚える人もいるらしいですよ。ホントこの世の中、注意してないと大変な目に合うかも」
気が付いたら遠藤の胸ぐらを掴んでいた。今人に見たれたら間違いなく店員ひいては警察を呼ばれるだろう。だが、構いやしない。ここまで言われて何も出来ない程利口ではないし腑抜けでもない。
「貴様…!美咲やまみに指一本でも触れてみろ。その時は社会的にではなく、実質的に抹殺してやる…!!」
遠藤は笑っていた。脅されているというのに、クスクスとほほ笑んでいた。小さな子が大きな子に襲いかかる。大きな子は大きい手で小さな子の頭を押さえる。小さな子は手を振りまわすが大きな手が邪魔して、相手まで拳が届かない。それを大きな子はニヤニヤと眺めている。そんな笑い方だった。余裕を持って遠藤は小さな子――江崎に答える
「何だ?そんな眼も出来るんじゃないですか。正直去勢された犬コロだと思っていましたが、実は牙を隠し持っていた狼だったんですね」
狼の目は怯まない、江崎は遠藤をぐいっと自分の胸元に引きよせ、低い声で脅す。
「俺が狼ならあんたは何だ?ハイエナか??」
「言ったでしょ。私はただのおせっかいな中年ですよ。言うならばちょっと事情通な中年です。確か…記事の締切が2週間後だと言っていましたね」
江崎の動きが止まった。ちょっと待て、今日の会話がこいつに聞かれていたのはまだ説明が付く。もしかしたら自分が気付かないだけで、こいつが周りにいたのかもしれないからだ。しかし、会社での会話は別だ。
江崎の会社はそれほど大きくはないが、それでも部外者が簡単に出入りできるような会社でもない。しかもだ、締め切りの話はあの時――人気の無い会議室でしたはずだ。それなのに何故こいつが会話の内容を知っている?何故?何故?何故?胸ぐらを掴んでいる手に最早力はなかった。遠藤はさっと江崎の手を解くと、ぱっぱっと手で胸元を払った。それは埃を振り払うように。そして動揺している江崎に追い打ちを掛けた。
「2週後が楽しみです。もしもの話、スキャンダルを暴いたら…きっとお互いにとって良くない結末が待っていますよ」
江崎は何も言い返せなかった。最早頭の中に遠藤の姿は無く、脳内で渦巻いているのはたった一つの純粋な疑問だった?誰だ?誰がバラした?盗聴器という可能性も視野に入れるべきだが、それは後日専門の会社を読んで対処してもらおう。それよりももっと最悪なケースは内通者がいた場合だ。今、江崎は会社の同僚を1人1人疑っていた。河原崎課長、安藤部長、そして新城。様々な容疑者が浮かぶが、決め手となる根拠が見つからない。思案していると遠藤の言葉が聞こえてきた。
「ああ、言い忘れてましたが、もちろん2週間後も記事にするのは厳禁ですよ。そんな事をされたら私は本気にならなくちゃいけなくなる。イヤなんですよ、本気で仕事するの。のらりくらりが私のモットーですからね」
ああ、そうだ。犯人探しも大切だが、こいつという問題もあった。江崎はビジネスマンモードに切り替えると凛とした表情で答えた。
「了解しました、その件は前向きに善処した上でお客様のご要望に答えるよう誠心誠意頑張りたい所存でございます」
遠藤はくっくっくっと笑っていた。それは悪戯した子供の成果を意地悪な笑みで眺めるように。
「それ、日本人の悪い癖ですよ。頑張らなくて良いし、心を込める必要すらない。極論を言えばサボっても良いし、憎しみながら仕事をしても良いんです。要は結果を出す事。それだけですからね。ちなみにあなたの場合は【書かなければ良い】ほら、サボれば良いんだ。簡単な事でしょ」
「一応聞いておきます、もし【書く】と…?」
新城の顔が浮かんでいた。礼儀は無い、仕事は出来ない、無い無い尽くしの後輩だが、それでも自分にとっては大事な部下だ。その部下を救うためには書かなければならない。だが書けば妻と娘の身に何かが起こる可能性が大だ。さぁ、どうする?難問に悩んでいると、遠藤は江崎の質問に答えてきた。
「書いたら…恐らく、不幸が襲いかかります」
会話はここまでだった。トイレに他の人が入ってきた。さすがに無関係な人を巻き込んで出来る会話ではない。遠藤はドアを開けて店内へ戻ろうとする。ドアを閉める際に一言だけ言い残してきた。それは江崎にとって一番聞きたくない一言だった。
「もちろん、貴方自身ではなく…あなたの周りにね」
先程トイレに入ってきた人には何の事か分からなかったろう。しかし江崎には充分過ぎるほど理解出来た。この男は本気だ。世の中には言葉だけは達者で、実際には何一つ行動出来ない口だけ男というのが生息するが、あの男は本物だ。やるといった以上、必ずやる。そう、何があろうとも。最早溜息どころの騒ぎじゃない。
江崎は洗面所の前でぼそっと呟いた。
遠藤は店内に戻る途中ぼそっと呟いた。
2人揃って同じ言葉を口にしていた。
「「全く…やっかいな相手だ」」
護るべきものとか
ゆずれないものとか
そんなのどーでもいいじゃん
今が楽しければそれでいいっしょ
人生にはノリが大切だよ、ノリが。
もっとさ、パーッとテキトーにいってみようよ
信念~新城聡の場合~
もし自分に座右の銘があるとしたら、「出る杭は打たれる」という格言だと思う。プラスの意味でもマイナスの意味でも突出した奴ってのは、はじき出されるもんなんだよ。一旦はみ出てしまったら、周りから疎外されて更に飛び出る羽目になってしまう。そんなのは損じゃん。だからさ、俺は昔っから気を付けてる――心掛けてる事があるのよね。
あほの振りをしろ。
人生には様々な注意事があるけど(法律とか常識とかね)俺が守ってるのはこれだけ。偉い所を見せてもろくな事は無いよ。異性にモテるという利点は確かにあるかもしれないけど、そんなメリットはデメリットに比べればほんの些細な事。ちなみにデメリットは「頼られる」「振られる」「任される」とか挙げていけばキリがない。
だってさぁ、会社で仕事が出来る奴と出来ない奴がほぼ同じ給料貰っているのに、仕事の内容に差があるっておかしな話じゃない。それなら出来ない振りをして怠けるよ。んで、てきとーに仕事してそれなりの給料をもらった方がお得でしょ。そのせいか江崎というあほ上司からあほ呼ばわりされているけど、別に構いやしない。変に期待されて面倒くさい仕事を振られるより、小馬鹿にされてたほうがよっぽどマシだ。あほの振り万歳。メリットはあってもデメリットは無い。そう思っていたけど、どうも世の中そう上手くはいかないみたい。午前11時、街中のスクランブル交差点で信号を見つめていると、急に声を掛けられた。
「おい、テメェ。さっき俺にガン付けてたろ」
あ~あ、こんな格好――茶髪にピアスにカラコン、スーツの下に着るシャツはピンクや青の原色、こんな格好をしていたら上司からの受けは悪いし、ケンカを売られる事もある。そりゃあこのスタイルが好きという頭が軽い女の子がいるけど、好かれるより疎まれる(もしくは絡まれる)方が圧倒的に多い。現に今だってダボダボの服に黒人みたいなアフロヘアーをしている兄ちゃんに声を掛けられている。ジロジロと威圧的な眼光や最初の言葉を推測するに、どうやらナンパとかではなさそうだ。
「え~と、何の事でしょうか?」
「何スカしてんだよ、さっき俺を睨んでたろうが」
こっちは丁寧に答えているのに、この言葉遣いは何だ?出たよ、こいつ等の悪い癖。何かにつけ自意識過剰だ、見てませんっての。何かあれば俺は~俺は~のオンパレード。酒を飲めば自慢話で、女を傍に置けば自分史を語り出す。ちょっと見ているだけなのにガンを付けただの付けられただの、自分から事を大きくする。そして舐められたとか叫びつつ、むやみやたらに拳を振るう。全く、こんなのがこれからの日本を支えるんだから世も末だな。ま、俺も人の事言えないか。現在の情勢と日本の行く末を案じていると、ぐいっと首元のネクタイを掴まれた。
「おい、てめぇ。舐めてんのかぁ?」
何をどうしたらそういう結論になるんだろう。全く持って意味不明だ。自分はあほの振りをしているけど、こいつは純度100%のそれだな。さて、どうする?さすがにここで始末するのは人目に付く。どうにかして路地裏にでも誘いこめないかな。そう思案していると、純度100%の仲間らしき奴らが集まってきた。
「おいおい、どうした?」「トラブルかい、てっちゃん」「手ぇ貸すぜ。俺達チームだろ」
全く、ゴキブリを一匹見たら五匹いると思えという格言があるが、それを思い出したよ。
害虫共はぞろぞろと集まってくる。睨みつけてくる者、後ろに回って軽くこづいてくる者、ガムをクチャクチャ噛みながら「やっちゃう?やっちゃう?」と連呼する者と実に様々な害虫共だ。ここら辺はゴキブリと違うところだな。奴等は人間を見つけたら早足で逃げやがる。周囲の通行人がチラチラ見て心配そうな視線を投げ掛けてくるが、助けに来る人は誰もいないし、警察を呼ぼうとする者もいない。それで良い。余計な事はしないでくれ。
「おい、お前。ちょっとそこまで来いよ」
現れた害虫の内、体格の良さそうなリーダー格が肩を組みながら囁いてきた。何も知らない一般人が見たら肩を組んで仲良く会話しているように見えるのだろうか。前も、後ろも、右も、左も、害虫共に囲まれて路地裏へと連れ込まれる。路地裏か…お前らにはお似合いだよ。もちろんそんな事は言わず「勘弁して下さいよ~」と蚊の鳴きそうな声で抵抗する。奴等はそんな反応すらを楽しむようにターゲットを引きずって行った。だが、奴等は数分後知る事になる。ターゲットは自分達であり、引きずられたのも自分達であると言う事に。
リーダー格の害虫である男の名前は内藤と言った。この街を根城にして楽しく遊び、気ままに暴れる。そんなチームの一員だった。気の弱そうな男がいたら路地裏に連れ込んで金を巻き上げ、お高くとまっている女がいたらカラオケボックスに連れ込んで弄び、裸のまま放置する事もあった。その日も単なる遊びのつもりだった。仲間の一人が若い兄ちゃんに因縁を付けている。見るとチャラチャラしたサラリーマンだ。身に付けている物を見るにつけ、少しは金を持ってそうだ。近頃は女を釣るにも金が掛かる。内藤はちょっとした小づかい稼ぎのつもりだった。
チャラい兄ちゃんを路地裏の壁に押し付けてジロジロ睨む。大抵の男はここで「お金を払いますから…」と泣きついてくるはずだ。それなら手間が省ける、頂ける物は頂く。それが俺達のモットーだ。まぁ、それで許すつもりもないがな。数分程パンチングマシーンの代わりになってもらってそれで終わりだ。ちょっとしたストレス解消って奴かな。昨日もそれをした、今日もそのつもりだった。ほら、口を開くぞ。だが、その兄ちゃんから聞こえてきた言葉は予想とは全く違っていた。
「ありがとう」
内藤は戸惑っていた。許しを乞う言葉なら聞き飽きた。逆ギレする言葉もたまにはあった(その度に3割増で袋叩きにしていたが)。だが、謝礼の言葉は初めてだった。自分の耳がおかしくなったのか?内藤が自分の感覚を疑っていると、その男は同じ言葉を口にした。
「ありがとう。5人で来てくれて助かったよ」
その言葉にチーム内で一番の年少者が突っかかる。坂崎という男だ。気が短く手が早い。チーム内では切りこみ役として重宝していた男だ。
「おい、こら。助かったとはどういう意味だぁ?」
首元のネクタイを引っ張りながら因縁を付ける。否、付けようとしていた。ネクタイに手が触れるよりも早く、その男の拳が坂崎の鼻にめり込んだ。鈍い音がして坂崎が鼻を押さえる。その瞬間、黒々とした皮靴が坂崎の横っ面をはたいていた。回し蹴りだ。内藤が気付いた頃には坂崎は地面に横たわって意識を失っていた。そしてその男は心からの笑顔でこう呟いた。
「1対1じゃ警察に駆け込まれる心配があったからね。でも、1対5でボコボコにされましたなんて、恥ずかしくて誰にも言えないでしょ。だから、純粋に嬉しいんだ。後さ、1対5なら手加減はいらないでしょ。僕って手加減は苦手なんだよね」
それが内藤達5人が聞いた最後の言葉だった。次の瞬間、内藤は見る事になる。凄まじいスピードで自分達をなぎ倒す男を。次の瞬間、内藤は聞く事になる。拳が、蹴りが、自分達を破壊する音を。次の瞬間、内藤達は知る事になる。人は見掛けで判断してはいけないと。
しかし、全ては後の祭りだった。
新城はスカッとした顔で路地裏から出てくる。もちろんその顔に傷一つ付いてない。誰にも聞こえないような声でぼそっと呟いた。
「ああ、良いストレス解消になった」
正直、さっきまでムカムカしていた。江崎という無能な上司に付き合わされてぐだぐだと小言を言われていたからだ。あほの振りをするのは良い。小馬鹿にされるのもまぁ我慢しよう。ただ1つ問題があるとするならば、あほと思われる故にチマチマと注意される事だ。先程迄がまさにそれだった。
無能な上司にチクチクチクチク重箱の隅をつつくような説教を受ける。分かってるての。一々言わなくて良いよ。もちろんそんな事は言えないから、ストレスが溜まってしょうがない。まぁ、こうして発散出来たから良いけどさ。ハンカチで赤く染まった拳を拭き取る。ああ、もうこのハンカチ使えないな。まぁ、良いや。臨時収入が入ったし近くのパルコでちょっと見て行こう。内藤の財布を取り出しながら中身を確かめていると、胸元にある携帯電話が歌を歌い出した。画面を見ると部長と表示されている。もちろん江崎や自分が勤めている会社の部長ではない。別の意味での【部長】だ。
「はい、新城でございます」
もちろん、これは携帯の画面に表示された相手を見たうえでの応答。江崎何たらとかいう上司相手だと、「はい、もしもし~」なんて言ってるよ。世の中には【振り】を見抜ける人ってのがいるらしい。そりゃあ、上司の顔とOLのお尻しか眺めてないような同僚には何も分からないだろうけど、そういうのを見抜ける人には簡単に見抜けちゃうみたい。お前のそれは振りだと、お前は偽物の仮面をかぶっているなと。
部長は今話せる状態か確認してくる。ちなみに今話せる状況というのは「今声を上げれる状況」や「今喋れる状況」とかそういう意味じゃない。「今周りに同僚や上司はいないか?」という意味だ。今は1人ですという言葉を伝えると相手が本題に入ってきた。
「どうだ?ネタは確定なのか?」
「確実な証拠を取れた訳じゃありませんが、院長の話を察するに限りなく黒に近い灰色という感じです。【衝撃!グラサンピッチャーの秘密にストライク!?】という見出しですかね」
「【!?】かー、何とか【!!】まで持ってこれないのか?」
「それは江崎次第だと思います。彼が院長をどこまで追い込めるかどうかに掛かっていますね。ところでそれについてご相談したい事があるんですが」
何だ?という相手の声に、少々の緊張を持って答える。
「院長が脅しを掛けてきました」
電話口を手で押さえながら話をする。これからの話は知りあいどころか通行人にすら聞かれたくない。
「なるほど、暴力団を使って脅しを掛けてきたか…」
「はっきりとそう言った訳ではありませんが、口ぶりからして確実かと思われます」
「グラサンピッチャーの嫌疑と似たようなもんだな」
「はい、有名外科医と暴力団。黒いバッテリー!?って感じです」
電話口でしばし笑いあってこれからの対応を話し合う。
「ともかくだ、脅されたのはお前の上司であってお前ではない。その点はお前にとってアドバンテージだ」
「はい、せっかくの上司ですから有効利用させてもらいますよ。盾としても、抜け穴としても」
「しかしだ、お前なら脅し自体もそう怖くないだろ。そんなのは切り抜けれる力と知恵を持っているはずだかな」
「言ったでしょ。俺は本気を出すのが苦手なんですよ」
「そうだったな。しかし…こちらは本気で頼むよ。じゃないと報酬が払えないからな」
「本気かどうかは知りませんが、少なくとも報酬分の働きは致しますよ。きっちりとネタを掴んで、そちらに横流ししますから」
「頼むよ、出版業界も最近は不況でな。スクープを求めて皆が皆走り回ってるのさ、スクープというのが有限である以上、新しいそれが発掘できない場合は…」
「奪い取るしかない、だからこそ俺の出番があると」
「その通りだ、期待しているよ」
「椅子に座ってでんと待ってて下さいよ、それではこれから仕事なんで切りますね」
電話を切って暫く歩く、そして目の前にあるビルを見上げる。そこは先日立ち寄った場所であり、ビルの看板には田中眼科と書かれていた。ちなみに今日は江崎はいないし、彼には本日風邪でお休みしますと言ってある。それはこれからの行動を邪魔して欲しくないと言うのと、上司のやり方ではネタを押さえられないと言う事が分かっているからだ。あんたのやり方はヌル過ぎる。本当のやり方って奴を教えてやるよ。まぁ、それが分かる頃には既にあんたの下から去ってるけどね。
田中医院のドアを潜る。薬の匂いがするロビーをきょろきょろしていると、受付の看護師が声を掛けてきた。
「先日診療したものですが、実は忘れ物をしちゃって…」
あほの顔をしながらそう嘘を付く。もちろん取材の許可など取ってはいない。当然だ。これから行うのは取材活動ではなく単なる違法活動なんだから。
「そうですか、何時頃診察されましたかね?」
看護師の言葉に出鱈目な日時を言うと看護師は、確認いたしますので少々お待ち下さいという言葉と共に受付の奥へと消えた。なるほどなるほど、教科書通りの対応だ。でもさ、受付を無人にするのはマズイと思うよ。世の中どんな悪いお兄さんがいるか分からないからね。新城はさっと受付を通り抜け、院内の廊下を音も無くすっと歩いて行く。途中他の看護師や先生と出会うが、何食わぬ顔で会釈をする。彼らの目には診察を受けている患者にしか映らないだろう。間違っても今から院長室に忍び込もうとする賊には見えないはずだ。
院長室の前に辿り着く。本日ここに院長がいない事は確認済みだ。どうやら学会に出席していて、午前中は戻らないらしい。その情報源は当てにならない上司などではなく、今自分が契約している会社だ。自分はその会社にスクープを横流しする事を約束し、その会社は自分に対してのサポートを約束する。約束と言うよりも金と金で繋がった契約と言った方が正しいのかもしれないな。
信頼や絆なんてものはそこにはなく、あるのは一万円札の束だけだ。キョロキョロ周りを見回す。さすがにここで医者や看護師に見られるのは不味い。周囲に誰もいない事を確認すると、ポケットから会社より支給された合鍵(もちろん不法な手段で作成されたものだ)を取り出してガチャッと鍵穴に差し込む。カチャリとシリンダーが回る音が耳に――心に響く。
そしてドアをそっと開けて中を覗き見る。一番緊張する瞬間だ。鍵がかかっているという事は中に誰もいないという事だが、それでもいくばくかのイレギュラーはあるし、予想外の事が起こるのが人生って奴だ。中が無人である事を視認するとさっと部屋の中に入ってドアを閉める。もちろん鍵を掛けるのは忘れない。さぁ、これで前科一犯だ。但し累計でいえば数え切れないほどの罪をおかしてきたので、一々正確な数は覚えちゃいない。とりあえず今日は一犯という事だけだ。
無人の院長室は静かだった。人がいないから当たり前の事だが、周りの部屋から聞こえてくる音すらここには存在しない。きっと高くて厚い壁が防音の役目を果たしているのだろう。好都合だ、それなら多少ゴチャゴチャやっても周りが怪しむ事は無い。外から自分の姿が見られないように窓のカーテンをさっと閉めて、さっさと行動を開始する。
院長室にある大きなソファを掴んで持ち上げる。会社の研修ではこういうソファとかに取り付けるのがベターだと教えられた。漫画やドラマだと花瓶や受話器に取り付けられているが、それだと掃除やちょっと持った際に発見されてしまう恐れがある。結局ベストとしては、まず持たないめったな事では動かさないものに付けるのだと教えられた。
そして、それ――盗聴器をアタッシュケースから取り出して、ソファの裏側に取り付ける。裏側に付ける為多少音声の精度は落ちるが、それでも電話や話し声くらいは十分に採取できる。盗聴器を付けた後はそこに発信器を付属させてドライバーでネジを締める。こうしている間も周りへの警戒は怠らない。院長は戻らないとはいえ、他の医師や看護師が入ってくる可能性も否定できないからだ。
一通りの機材をセットする。盗聴機材のスイッチを入れて受信機のスイッチを入れる。イヤホンを片耳に当て、そっとテーブルをコンコンとこづく。耳元のイヤホンからコンコンと音が聞こえてくる。よし、成功だ。とりあえず、これで今日の仕事は終わった。後はここから無事に逃げきるだけ。だけどさ、これじゃあ物足りないだろ、そう思って新城は院長の机へと向かう。江崎も、田中院長も、グラサンピッチャーに関連する決定的な証拠は見つけられなかったし、見せなかった。
しかしだ、それはこの部屋のどこかにあるのではないか?本来会社からここまでの指示は受けてない。会議では然るべき機材を然るべき場所に設置したら、速やかに撤収しろと言われた。極端な話、設置を失敗しても良いという事だ。それよりも恐れている事態がある。行為の発見だ。そこまで露呈する位なら行為自体失敗しても良いから、無事に逃げおおせろというのが会社の意見だった。
バレる位ならするな。それが会社の結論である。リスク回避を第一に考える会社の指針としては間違っては無いが、それじゃあもったいないだろ。せっかくこんなお宝の山に来てるんだ。財宝を目の前にして背を向けるほど俺は無欲じゃない。新城は希望に目をギラつかせ、院長の机の引出しへと手を伸ばす。
結果からしたらこの行為は失敗だった。
会社が盗聴器を仕掛ける以上の行為を禁止した理由は、余計な事をした事により行為の露呈につながると言う懸念があったからだ。新城がいかにバレないように家探しをしようが、院長がその痕跡に気付く可能性が1%でもある以上、行為自体を禁止すると言うのはそれほど厳しい考え方ではない。ただ新城自身としては、「バレなきゃいいんでしょ」「大丈夫、絶対に分かりゃしないよ」という甘い考えがあったのも事実で、これ以降新庄は反省し、慎重な行動を取るようになる。
そして会社が盗聴器を仕掛ける以上の行為を禁止したもう一つの理由は至ってシンプルだった。時間が掛かるから。それは単純にして絶対的な理由だ。時間を掛ければ掛けるほど破綻の可能性は加速度的に増していく。目的の物があると確信出来、その物を短時間で奪取出来るなら会社もその行為を禁止はしなかった。証拠が欲しいのは新城も会社も同じだからだ。しかし、あるかないかも分からない証拠の捜索に時間を掛けるくらいなら、さっさと目的を達成して何事も無かったかのように脱出すべきというのが会社の方針だった。だからこそ会社は機材の設置以上の行為を禁止したのだ。
その点を新城は見誤っていた。せっかく盗聴器を仕掛ける為に部屋に入ったんだ。何もしないのはもったいないだろ。何かしら手土産がないとやってらんないじゃん。そう勘違いしていた。そりゃ確かに家探しすればバレる確率が高くなるし、時間の浪費に比例して露呈の可能性も出てくる。でも俺なら大丈夫。パパッと探してガバッと見つける、そしてササッと退却ってなもんよ。だーいじょうぶ。へマなんてしないさ。俺なら大丈夫。
俺なら大丈夫。交通事故を起こした大部分の者がこう言い訳していた事を、この時新城は知らなかった。そして、俺なら大丈夫という言葉は【実は大丈夫ではない】と知る事になるのだが、それはもう少し後の話になる。
新城は院長の机に近づいて引き出しに手を掛ける。引き出しには鍵の付いている所と鍵の付いてない部分があった。鍵の付いてない部分は予想通り大したものが無く、文房具やメモ帳、キーホルダー等が散乱していた。手帳等の証拠物件は中々見つからない。鍵の付いている引き出しに手を掛けるが当然のごとく開かない。さて、こじ開けたらさすがにバレるし、どうにかして開けられないか。針金でも探してカチャカチャやってみるか。そう決心した所に耳元へ聞こえる筈のない声が聞こえてきた。それはターゲットの――田中院長の声であった。
「まいったよ。せっかく会場まで行ったのに、受付嬢に今日の予約は入っておりませんなんて言われた。間違い無く痴呆の気があると思われたぞ」
「しかし学会の日付を間違えるなんて兄貴らしくないミスだな」
「俺もびっくりだ。こんな事は生まれて初めてだよ」
「そういえばそうだな。兄貴のそんな失敗は今まで聞いた事無いや。良かったじゃねぇか。初体験だ」
「齢30を超えて初体験か、乙なもんだな。どうだ、コーヒーでも飲んでゆっくりしてけよ」
2人の声は院長室のドアの前で聞こえてくる。間違い無く後数秒もすればあのドアは開かれる。
ここからの時間経過は秒単位で数えればほんの数秒にも満たない出来事であったが、新城にしたら何分にも及ぶ出来事に感じられた。どうする?どうする?選択肢は無限にあるが、大まかに分けると二つに分離する。
1 この部屋から逃げる
2 この部屋に残る(隠れる)
新城の頭が高速回転し、二つの選択肢のメリットとデメリットを比較考慮する。まず1だ。メリットとしては上手く逃げおおせれば万事解決という点だ。しかしデメリットとしてはそれが非常に困難という一点に尽きる。逃げるとしたら窓しかないが、この窓には今現在鍵がかかっている。そして窓から脱出した後に鍵を掛ける手段は今のところ頭に存在しない。それでは泥棒が入りましたよという事をむざむざ教えてしまう事に繋がるし、被害を確認している最中に、芋づる式で盗聴器の事も発見される可能性がある。となると1はバツだ。そうなると2か。しかし、2なら2で問題が残る。どこに隠れるかという初歩的にして最大の問題だ。
候補はいくつかある。ソファの下、クローゼットの中、もしくは机の陰に潜む。どれにするべきか思案していると、ガチャガチャ鍵が鍵穴に差し込まれる音がした。そしてカチャっと鍵が外れる。当たり前だが自分の時のように、その音へ遠慮は無い。当然だ、持ち主なんだから。そしてすっとドアが開く。
「コーヒーはブラックか?それとも砂糖やミルクがいるか?」
「正直コーヒーよりも紅茶を頼めるかな」
「洒落た奴だ。分かった、今看護師に持ってこさせるよ」
田中院長は机にある受話器を取り上げて内線のボタンを押す。コールして出た看護師にコーヒーと紅茶を頼むと電話を切った。その際田中院長はちらっと机の下を見ていた。
「おっ、あったあった」
田中院長は机の下に潜り込むと、そこからボールペンを取り出した。
「無くしたと思ってたらここにあったんだな」
「そういうのは良くある事だ」
もう1人の男がソファに音を立てて座る。それなりに重い体重でソファが沈んでいた。
良かった、机の下やソファに座らなくて。新城はクローゼットの中でホッとしていた。木製のクローゼットが視界を遮断して、全てを見渡す事は出来ないが、物音や喋り声から大体の様子は推測できる。今部屋の中にいるのは2人。1人は勿論田中院長。そして問題はもう1人だ。顔を見る事は出来ないが、先程の会話からある程度予想できる。ほら、また会話が聞こえてきた。
「良くある事か、神(ジン)もそういう経験あるのか?」
「ああ、兄貴みたいにボールペンとかじゃないけどさ。身近な物程無くしやすかったり、そういうものほど見付け難かったりな」
ビンゴだ。田中院長に対して兄貴という言葉、そして神という名前。この件を資料で呼んでいる時にグラサンピッチャーの本名を見た記憶がある。確か、田中神だ。新城は体温が上がって行くのを感じていた。これは思わぬ収穫があるかもしれない。期待に胸を躍らせてクローゼットに耳をくっ付ける。もちろん一言一句聞き逃さない為だ。耳に全神経を集中しているとドアがノックされる音が聞こえた。看護師が飲み物を持ってきたようだ。院長と看護師は一言二言仕事の確認をして、看護師が部屋を出る。そして再び2人の会話が始まった。
「神、頭痛は大丈夫か?」
「ああ、最近は大分治まってきたよ。兄貴が処方してくれた薬のおかげだな」
「あの薬は痛みを和らげるもので、それ以上でもそれ以下でもない。根本的な対策をしなきゃ意味がないと言ってるだろ」
最初、新城は何についての会話か把握できていなかった。単なる頭痛の話だと思っていた。しかし、事はそう単純ではないと言う事を、神の次に出てきた言葉で知る事になる。
「根本的な対策ってのは…機械を止めろって事か」
「ああ、何度も説明したろ。お前の目と頭の中にある機械――視覚再生装置がお前の脳に悪影響を与えている。そのまま使い続ければどうなっても…知らんぞ」
新城はクローゼットに聞き耳を立てながら携帯電話に関する話を思い出した。今や世の中の殆どの物が電磁波を発している。携帯電話だって例外ではない。そして電磁波が人体に及ぼす影響は多々あると言われている。その電磁波を発生する装置を耳元にくっつけて通話をする。どんな影響があるものか分かったものじゃない。事実携帯電話が原因と思われる異変が人体に発生していると何かの雑誌で読んだ事があった。耳にくっ付けるだけで何かしらの異変が起こると言われているのだ。脳内に機械を直接埋め込めば、それこそ何が起こっても不思議じゃない。
しかも神に埋め込まれている機械は通話中だけではなく、常に起動しているのだ。それはまさに四六時中。それこそ何が起こっても不思議ではない。だがしかし、ここまでとは…!!新城は体の血液が沸騰するのを感じていた。声を思うように出せるのなら喝采を上げていたところだろう。しかしそれはここでは出来ない行為。口元をじっと抑えて2人の会話を見守る。
「どうなっても…とは、どういう事だ?」
「以前俺の知り合いである脳医者に診てもらったよな。結果が出たよ。脳内に悪性腫瘍がある。十中八九その機械が原因だ。しかもその腫瘍は今尚成長しているらしい。今すぐ機械の使用を止めないと命に関わるとさえ言われた」
「つまりだ、俺の脳内からこれを取り除くと言う訳か」
神は自分の指でコンコンと自分の頭を触れていたが、その光景は新城には見えない。
「ああ、機械を外して脳の腫瘍を取り除く。今なら手術で腫瘍を取り除く事もそう難しくない」
「1つだけ聞いて良いか?」
何だと返事する院長に神は慎重な表情で聞いた
「腫瘍を取り除くのは良い、その為に機械を外すのもまぁ良いとしよう。しかしだ、その後装置は再び取り付けてもらえるんだろうな?」
「神、お前バカだろ。その機械が腫瘍の原因だとほぼ断定出来ているのに、再び脳内に戻すと言う事をすると思うか?後だ、言っておくが、腫瘍を取り除く手術をしたら、どの道暫くは機械とお別れだ。脳ってのはデリケートな部分だからな。一旦弄くったら暫くは異物を入れないようにしないといけない。少なくとも半年は装置とはお別れだ。もちろんその間はお前は全盲者になるわけだからな。だが、安心しろ。ケアは万全にする。球団やマスコミには急病だと説明して、半年ほど知り合いに病院でゆっくりと骨休みしとけ」
グラサンピッチャー、衝撃の真実!そして突然の休養!!新城の頭の中で見出しが次々と紡ぎだされていく。しかしそれらの見出しは使われる事無かった。ありきたりの見出しは神の次の言葉によって吹き飛んだ。
「ありがとう、兄貴…そして、ゴメンな」
神はうつむいていた。黙ってソファの側にあるテーブルに視線を落としている。その後悔は頭を下げているようにも見えた。それは自分を心配してくれる兄貴への感謝であり、謝罪でもあった。そして神が謝の言葉を口にする。
「結論だ、手術は拒否する」
新城は自分の耳を疑った。それは院長も同様であるらしく、大きな声で聞き返している。当然だ、死ぬから手術しろと言われれば、誰だって医者に体を預ける。それをこの男は拒絶した。神は一言一句ゆっくりと、手術は拒否すると言い直した。何故?そう思ったのは新城だけじゃない。院長が説教するような口調で弟を説得する。
「分かってるのか?お前、このままじゃ死ぬんだぜ」
新城もそう問いたい気持ちで一杯だった。だが、神はくすっと笑って兄貴へと逆に問いかけた。
「なぁ、兄貴。鳥ってのはどうやったら死ぬと思う」
そりゃあ、生命活動が…と医学的な事を言い始めた院長を、神が止める。
「違うよ。鳥はさ、飛べなくなったら死ぬんだぜ」
その瞬間、新城は確かに見た。大空を縦横無尽に駆け回る大鷲を。その鷲は翼をもぎ取られ地へと落ちる。もしかしたら鷲は地面に落ちたとしても、足の爪で地面を掴み、歩く事を選ぶ事も出来たのかもしれないが、鷲が選んだのは爪で自分の喉を掻っ切る事だった。新城は悩んでいた。先程までならセンセーショナルな見出しや記事が頭に浮かんでいたが、ここまでの尋常ならざる覚悟を見るとそれを何と表現して良いか分からなくなった。飛べなくなった鷲の話でも載せるか、間違い無く上司から書き直しを命じられそうだがな。そんな事を考えていると、電話が鳴り院長が話し出す。どうやら受付からのようだ。
「はい、もしもし。ああ、来られたか。うん、第一会議室に通ししておいてくれ。私も今からすぐに行く」
電話を切ると院長は神の側に寄って、眼鏡に手を伸ばす。
「最近視界がおかしいって言ってたろ」
「ああ、時たま霧が掛かったような感じになるんだ」
「それがカメラの影響なのか、脳内にある再生装置の影響なのかが分からない。とりあえずカメラの技術者が先程見えたようだからちょっと借りてくぞ。お前を連れてっても良いんだが、相手はお前の事を知らないから、色々説明するのが面倒だ」
そう言って院長は神のサングラスをすっと取る。
「良いか、分かってるとは思うが大人しくしてろよ。メガネを取った今のお前は目が見えないんだからな。歩く事すらままならない状況だ。そこに座って大人しくしてろ。看護師や医者もここには立ち寄らないように言ってある。のんびりソファで横になってろ」
分かったという神の返事を聞くと、院長はドアを開けて廊下へと出ていった。新城の脳内で葛藤が始まる。
どうする?願っても無いチャンスがやってきた。この薄い壁の向こうに、謎で包まれたグラサンピッチャーの素顔がある。誰1人としてサングラスを取った本当の表情を撮る事が出来なかった。しかし、今なら容易く出来る。クローゼットを飛び出してデジカメのシャッターを押すだけだ。鞄に手を伸ばし、愛要のデジカメを確認する。これに比べれば、盗聴や会話の盗み聞きなんて些細な事だ。
百の言葉より一つの写真という言葉がある様に、絵や写真のインパクトは絶大だ。例えバレたとしても決定的瞬間――グラサンピッチャーの素顔を撮れば万々歳だろう。デジカメを取り出して、消音モードに設定する。これで神にバレる事無く素顔を激写する事が出来る。万一バレたとしても所詮全盲の人間だ。逃げるのは容易な事だし、掴まれても叩き伏せるのは難しい事じゃない。
新城は決意を固めてクローゼットの扉を開ける。院長室のカギを開けるよりも、院長室への扉を開くよりも、今までの人生で一番緊張した瞬間だった。先程までとは次元が違う。扉の向こうには人がいる。ターゲットである田中神がいる。音を立てないようにそっとクローゼットを開くと、そこには1人の男がソファに鎮座していた。
グラサンピッチャーがそこにいた。否、グラサンピッチャーではない、田中神がそこにはいた。そこにいたのはトレードマークのサングラスを取ったどこにでもいそうな青年だった。確かプロフィールには田中院長の5つ年下で27歳と書いていたはずだ。年相応の若い青年という感じがする。短く刈られた髪はスポーツマンらしいし、日焼けした顔も、遊んでいるというより元気が良いと印象付ける。
ただ1つ27歳の青年らしくない部分を挙げるとすれば、じっと眼を瞑っていたという点だろうか。これは全盲である以上しょうがない事かも知れない。でも目を瞑っていてもらった助かった。これで思う存分写真が撮れる。モデルみたいに指示は出来ないが、最高の一枚を撮ってやるよ。新城はカメラのレンズをそっと神に向ける。その時、神の口が開いた。
「写真撮影は、ご遠慮願います」
新城は驚きのあまり動きが固まった。目の前にいる神は目が見えないはずだ。現に目をつむったままだし、カメラとなっているサングラスは院長が持っている。にも関わらずこの男は今、自分がしようとしている行動を理解し、尚且つそれを止めてきた。何故だ?疑問符が頭の中で暴れまわり、動く事すらままならない。追い打ちを掛けるように神が言葉を投げかけてきた。
「取材なら、広報を通してからにしてもらえませんかね?」
淡々と紡がれる神の言葉、それに対して新城が言えたのはたった一言だった。
「いつから…いつから気付いてた?」
さも当然のように――それはピッチャーが狙ったコースに投げられるように、神は新城の質問に答えた。
「この部屋に入った時からです。クローゼットから妙な気配がしましたからね」
そんなバカな…!新城は呟くと同時に心の中で叫んでいた。少なくとも院長と神がこの部屋に入ってからは物音など立ててない。微動だにしてないのだ。それならば、何故この男に気配が悟られたのだ?もしかして院長にもバレているのか?神は自分の考えを読んだかのようにクスッと微笑んで答える。目をつむったまま笑う姿は神々しさすら感じられた。
「大丈夫。兄貴なら気付いてないでしょうね。でも、一つ良い事を教えてあげますよ。自分達みたいに感覚の一部分を遮断されている者は、他の器官が得てして発達するものなんです。目が見えないから耳で周りの状況を知る。周りが見えないから触感で周囲の状況を悟る。こうして無理やりに鍛えられた自分の五感は通常の人々のそれを遙かに凌駕します。クローゼットに隠れたネズミを察知する位朝飯前ですよ」
新城は神の言葉が信じられなかった。確かに神の言っている事は聞いた事がある。全盲者は通常の人に比べて他の五感が発達している事は確かに知識としてあった。しかし、だからといって物音一つ立ててないはずの自分を察知できるものなのか?神の言葉を信じられないでいると、もう一つ神が証拠となる言葉を投げかけてきた。
「ネズミを見つけるのは簡単な事だし、このソファに仕掛けられた盗聴器を探り当てるのも容易な事なんですよ」
そんな馬鹿な…!驚きの余り新城は思わず息を飲んだ。その単純な行為こそが、神に新城の今いる場所を完全に確定させる事になるのだが、今の新城にはその事まで頭が回る余裕がない。新城の脳内で更に疑問符が暴れまわる。何故だ?何故だ?何故、盗聴器の事まで知っている?
「あら、やっぱり当たりでしたか。予想を付けてカマ掛けてみたんですが、どうやら正解のようですね」
神は悪戯っ子のように舌を出すと種明かしを始めた。
「この部屋に無断で入る人は二種類。だけど大元を辿れば一種類になります。それはこの部屋から何かを盗もうとする人だ。1人目は物質を――つまりは泥棒だ。そしてもう1人は情報を――つまりは記者だ。まぁ自分から言わせれば両者共薄汚いネズミですがね。そしてこの部屋に盗まれる程価値のある物質は無い。となると、情報を盗もうとする輩しかいない事になる。
更に言いましょうか。このソファに座った時の事です。位置がね、いつもよりズレていたんですよ。ほんの3ミリ程。通常の人間なら気付かないでしょうが、自分には模様替えをしたかの如く分かってしまう。いつも動かないソファが移動していた、いつもはいない侵入者がこの部屋にいた。それらの事から考えれば答えはなんとなく想像出来るんです。それは予想にしか過ぎなかったが、ネズミの反応で正解だと分かりましたよ。さて、このおもちゃを取ってくれますかね?」
神はそう言ってソファを指さす。その指は盗聴器を指し示しているんだろう。神はすっと立ち上がった。ソファをめくって盗聴器取り出せと言う事なんだろう。新城はソファに近づく。神の顔がすぐそこにあった、手を伸ばせば触れる事が出来る位置だ。今なら超至近距離で神の顔を撮る事が出来る。これなら会社もボーナスをくれるだろう。さっと神の顔を撮って即座に逃げ去る。そう、難しい事じゃない。万一手を掴まれたとしても振り払い、排除するだけの力位は自分に備わっている。カメラを握っている手に力を込める。今だ、今こそ押せよ。自分に自分に喝を入れる。ようぃスタート。その合図さえあればシャッターを押していただろう。そして、合図の代わりに神から忠告が聞こえてきた。
「その指を押せば…宣戦布告と見なしますよ」
まただ…何故分かる?サングラスは取られている。目の代わりになるカメラはもうない。なのに。何故俺の行動が分かる。新城は恐怖していた。恐ろしいものが怖いのでは無い。理解出来ないものこそが怖いのだ。昔部長から立ち飲み屋で言われた言葉を思い出した。その時は酔っぱらいの戯言だと無視していたが、なるほど、今となっては意味がよく分かる。本当に恐ろしいものは目の前にいた。そして、それはすっと一歩踏み出してきて、ぎゅっと新城の手を握ってきた。それは握手と呼ばれる行為だった。意味を辞書で調べれば友情の印として出てくるだろう。だが、新城にはもっと恐ろしいものに感じられた。触れた手から神の体温が伝わってくる。それは冷たく、死を感じさせた。まるで死神だ。新城はここに至って方針の変更をしていた。どう倒すかではなく、どう逃げるかに。そして死神が口を開く。
「目が見えなくても、感じる事は出来るんですよ。視界が無くとも、世界は視えるんですよ」
新城は神の手から逃れられなかった。普段ならする事は決まっている。その手を振りほどき、鳩尾に拳をめり込ませる。相手がうずくまった所に膝蹴りを顔面に叩き込んで終わり。いつもならそうしていた。数秒も掛からない作業だ。しかし、それが出来ない。神の手がそれをさせない。神の手を離せば、その手が――拳が、頬に、鼻に、顎に、腹に、喉に、全身に叩き込まれそうな気がしたからだ。
2人は握手をしたまま動かず、永遠とも思える時が過ぎていく。最初に手を離したのは神だった。
「さぁ、盗聴器を取ってくれますね」
神はそう言って一歩後ろに下がる。ソファをめくりやすくする為だ。新城は黙ってソファをめくった。そして先程付けた盗聴器を取り出そうとする。取り出す為にはしゃがまなければならない。新城は神の迄で膝まづいている形になった。ぱっと見土下座をしている光景であり、降服の印でもあった。僅か数分の命となった盗聴器を取り出す。
「それ、渡してもらえますよね?」
もちろん否定する言葉などあろうはずもない。新城は膝まづいた姿勢のままで神に盗聴器を渡す。事ここに至って格付けは済んだ。神が上で、自分が下だ。そして上から見下ろしていた神がため息を付きながら呟く。
「しかし、負けた振りが上手いですね」
新城は後に語る。今日程驚愕し続けたした日は無いが、一番息を呑んだ瞬間はこの瞬間だったと。気配で動きが分かるというのはまだ理解出来る。自分にもある程度は出来る事だからだ。しかし、気配で自分の【振り】を見破られたのは生まれて初めての経験だった。確かに自分の【振り】を見破った人達はいた。部長がそれであり、過去に1人だけ初見で見破った男もいた。しかしそれは見て看破したという形であり、気配で見破ったのは神が初めてだった
「何故、本気を出さないんですか?」
神がうずくまったままに新城に声を掛ける。それは非難でも無く、説教でも無い。純粋なる疑問だった。新城はありのままの気持ちを答えた。
「苦手なんですよ、本気を出すのがね」
神は新城に向けて一歩踏み出す。足が目の前に来ていた。神は何故何故~?と聞く子供のように、新城へ問いかけた。
「例えばです。今すぐこの足をあなたの顎先に向けて振り上げたら、あなたは本気を出してくれますか?」
「降りかかる火の粉を払う為なら…ね」
神の動きが止まる。新城の動きが止まる。どちらかが動けば、それが始まりの合図だった。新城はため息を吐く。しょうがない、久々に本気を出すか…手に、足に、全身に喝を入れる。点火し、今にも爆発しようとしていた。
「止めましょう」
先に言葉を発したのは神だった。神は一歩下がって新城に背中を向ける。そしてそこにあるのが分かっているかのようにソファへと腰をおろした。そして安らぎながら新城に語りかける。
「私はプロです。プロは活躍の場があってこそのプロだと思います。そしてここはその場所じゃない。スポットライトも満員の観客もいない。こんな場所では役不足。もっとふさわしい場所があるはずですよ。私にも、あなたにも。そこでまた、お会いしましょう」
新城はほっとした顔で呟く。
「見逃してくれるって事か…」
神は意地悪そうな笑顔で返事をした。
「オープン戦ってあるでしょ。そういう事です」
新城は神に背を向けてドアへと一歩踏み出す。先程までならそれは死を意味する行為だったが、今となってはそれがベストの選択だ。ドアノブに手を掛けた新城に神が声を掛ける。
「次会う時は、本戦ですから…」
新城は何も答えなかった。会釈で返事をし、ドアをそっと閉めた。神1人になった部屋に呟きがそっと漏れる。
「もしかしたら…見逃してもらったのは私かもしれませんね…」
そう言った神の手は赤く腫れていた。先程の握手の際にやられた。それは新城の握力が成した業であった。新城の手も同じように赤く腫れていたのだが、それを神が知るのはもう少し後の事になる。
新城は何事もなかったように受付を通り過ぎ、田中医院の外へと脱出する。さぁて、盗聴器は取られた。ターゲットに自分の存在を知られた。文句無しの大失敗だ。部長の激昂する顔が眼に浮かぶ。今から始末書を書く用意でもしておくかな。日差しの強い中、アスファルトを踏みしめる新城の顔はどことなく嬉しそうだった。灼熱の6月のある日、新城の呟きがそっと宙へと吸い込まれた。
「どうしてくれるんだ。本気…出ちゃうじゃねぇか…」
友情?愛情?
何だそりゃ、食えるのか?
そんな一円にもならないものはいらねぇんだよ
欲しいのはたった一つ、全部を塗りつぶす力だ。
全てを一色に。全てを黒色に。そして、全てを俺色に。
信念~遠藤護の場合~
ドアがドンドンとノックされている。比喩的な意味じゃなくて、本当にドアを拳で叩いていた。もしもドアが生きているならば「そんなに叩かないでよ、そこまで大きな音を出さなくても中の当人には聞こえてるよ」と泣き言を言っていた事だろう。だがそんな事はノックしている本人も百も承知だ。このノックにはそれ以上の意味がある。相手の来訪の目的を知らせるためと、威圧だ。
「鈴木さーん、いるんでしょー。出てきてくださいよ~」
更にドアを叩きながら中の本人に向かって声を張る。安い木製のドアはぎしぎしを悲鳴を上げ、今にも叩き破られそうだ。木造建ての2階建てアパート、「ハイツ鈴が峰」名前こそは立派だが実際には地震が来たら即座に倒壊しそうな建物だ。ハイツと銘打っている割にはアパートの壁はネズミ色に変色しており、部屋の中は壁で遮られているのに、その装甲の薄さ故に隣の部屋の声が普通に聞き漏れてくる。そんな状態だから、ドアの外で叫んでいる男の声はもちろん部屋の中まで聞こえていた。鈴木真一はドアの外から聞こえる声におびえながら必死に「帰ってくれよ、帰ってくれよ…」と念じ続けていた。
しかしその祈りは届かない。人は絶体絶命のピンチにおいて普段信じない神様に祈りを捧げるものだが、そんな時だけ頼られても神様もきっとお困りだ。そんな暇があるならこの危機を脱出する方法でも考えた方がよっぽど為になるのだが、そこまでは知恵が回らず、大抵の人間は頭を抱えてうずくまっているだけだ。そしてより最悪な状況へと追い込まれていく。ドアを叩いていた男が一際声を張り上げる。
「いないんですかー、いないなら両親のところにお邪魔しますよ~もちろん事情はすべて説明したうえでねー」
この言葉は効果てきめんだった。今までどんなにドアを叩かれても居留守を決め込んでいた男は、即座に玄関へと向かいドアの鍵を解除した。固く固く閉ざされていたドアはいとも簡単に開かれて、真っ赤になりながらあせっている男がそこにはいた。
「ありゃ、鈴木さん。こんにちは。いるならいるで早く出てきてくださいよーいないかと思って帰る所でしたよ」
ノックというより拳を叩きつけていた男は、白々しくも笑顔で挨拶をしてきた。
冷や汗をかきながらドアを開けた鈴木が見たものは、ドアの前に立ちはだかっている2人の男だった。意外だった、1人分の声しか聞こえなかったから、1人だと思っていたからだ。先程から声を張り上げていたのはこの男だろう。1人はリーゼントに白いスーツという完璧に本職という格好をしていたチンピラ。白いスーツは暑い胸板で盛り上がっていて不格好という言葉を連想させたが、それを言わせない体格をしている男だった。もう1人はその男の後ろで静かに佇んでいた。格好こそ普通の白いシャツに黒いスーツ。短めにカットした髪にノンフレームのメガネを掛けている。
取り巻きの男がいなかったらとても取立人とは見えないだろう。どこにでもいそうなサラリーマン。初見はそんな印象を受けた。しかし青年は動物として直感でこの男の危険性を認識する。この男は危険だ。先程からドア越しに吠えていたこの男はまだ安全な方だ。そりゃあこっちの男も危険という事には変わりはないが、この男は格が違う。キャンキャン吠えている犬ころと、じっと待ち伏せながら獲物を物色している獰猛な狼。そんな印象を受けた。
2人の男にそれぞれ異なる印象を抱きながら、こういう借金の取り立ては2人で行うのがルールだと本に書いていたを思い出した。1人よりも2人で、人数上で有利に立とうとする考えだ。だが有利とか不利とか言ってられない。親に知られるのだけは何としても阻止しないといけないからだ。鈴木は断固として抗議する。
「ちょっと…!親に言うのは卑怯でしょ…!!」
しかし言われた相手は動じない。
「だって子の不始末は親が被るもんでしょ。それなら親に借金を肩代わりしてもらうのもアリだと思うんですけどねー」
「そんな事は認められていない。法律上でも保証人でもない限り、子供の借金を親が肩代わりする必要は無いと、きちんと明記されている!君等も金貸しならその程度の常識はわきまえて欲しい。あぁ、闇金如きに常識は無いのか」
「何だとこの野郎…!」
さすがに頭に来たのだろう。犬ころがぐいっと鈴木の胸ぐらを掴んだ。鈴木の体が宙に浮く。絶体絶命のピンチなのに鈴木は心の中でほくそ笑んでいた。先に手を出した方の負け、これは幼稚園でも教わる人間世界での絶対的ルールだ。殴れよ。さぁ、殴れ。痛いのは嫌だが、それでこの状況を覆せるのならいくらでも耐えてやる。だからこそ敢えて無礼な事を言ったのだからな。チンピラの握り拳が鈴木の顔面に突撃しようとしていた瞬間、後ろで見守っていた男が声を掛ける。
「おい、止めとけ」
キャンキャン吠えていた男はピタッと動きを止める。腕力という面で言えば間違い無くこの男がボスなのだが、どうやらこの男ははやり犬ころで、飼い主は後ろで見守っていたメガネの男らしい。
「失礼しました、うちの若い者は礼儀知らずで、どうかご容赦下さい。だけど、その闇金如きから金を借りたのはどこの鈴木さんですかね?」
それを言われると言葉は出ない。鈴木はぐっと黙り込む。飼い主はペットの無礼を詫びながら、これからの踏み込み方を考える。この男の言っている事は本当だ。だてに大学で法学部に在籍していない。確かに親の所に行ったって、借金を払ってもらえる道理や当ては無い。しかし、親の元に行って事情を説明すると言えばこの男は確実に金を払う。その道理や当てだけは充分過ぎるほどあるのだ。
法学部に通っている男が出会い系サイトで女子中学生を捕まえて猥らな行為を行った。一体大学で何を勉強しているのかと考えてしまう行動だ。故郷の田舎で農業を頑張りつつ、都会で法律を学んでいる息子に仕送りを続ける健気な両親。そんな2人の親が息子のしでかした事を知ったらどんなに嘆き悲しむだろう。しかも息子はその行為を生で行った。その軽はずみな行為の結果、相手から中絶費用を請求され、困った学生は我がローン会社の門をくぐる事になった。それが地獄の1丁目とは知らずにだ。ちなみに補足するならば、その女子中学生と我が社は繋がっているのだが、それはこの青年に言うべき事実ではない。だって手品の種明かしなんかするもんじゃないだろ?飼い主は明るい表情で、真っ青になっている青年へと語りかける。
「鈴木さん。お金、返してくれますね?」
ぐっと鈴木が黙っていると、もう一歩飼い主が踏み出した。そして低く重い声で、ゆっくりと鈴木に問いかける。それは鈴木が聞いた、その男の本気の言葉であり、鈴木にとって止めの言葉でもあった。
「どっちが良い?親が払うか、君が払うか」
「だけど…お金が…他にも払うべき場所があるんです…」
「そんなのは関係無いんです。あなたがどこから借りてようが、いくら借りてようが我々には何も関係無い。最早子供の借金は親が払うべき~とかそういう問題でもない。今問題なのはあなたが私にお金を返してくれるかどうか、その一点だけですよ」
。飼い主は鈴木に問いかけながら胸元のポケットから携帯電話を取り出す。男は数字を口にしながらゆっくりと、電話の表面に刻まれた数字のボタンを押していく、それは鈴木に見せつけるように。そして鈴木に言い聞かせるように1つずつ数字を読み上げながら。
「879-○○…」
それは鈴木にとって見覚えのある数字、それは鈴木にとって聞き覚えのある数字、それは鈴木にとって慣れ親しんだ数字、それは鈴木の実家の番号だった。
即座に鈴木が止めようとするがチンピラがそれを許さない、チンピラの体は重戦車のように動かなく、筋肉に包まれた体は一ミリたりとも後退しなかった。ダイヤルを押している指はゆっくりと、しかし確実に鈴木の家に辿り付こうとしていた。鈴木は死に物狂いで抵抗するがチンピラから肩を掴まれて思うように動けない。そうしている内にもどんどん数字が呼ばれていき、押されていく。実家の番号である7桁の番号、その6個目の数字が押された所で指が止まる。鈴木が安堵したのもつかの間、飼い主は、ニコッと商談用のスマイルを向けながら、もう一度同じ趣旨の言葉を繰り返した。
「お金、払ってもらえますね?」
鈴木は黙って部屋の中に入った。逃げるためではない、なけなしの金をかき集めてこの男に払う為だ。
「しっかし、兄貴はやりますね~簡単に金を払わせちゃうんだもんなー」
鈴木から全ての金を徴収した2人は事務所への帰り道を歩いていた。兄貴と呼ばれた男は鈴木の家から二つ目の角を曲がった瞬間に、ぐいっと部下の首元を掴んだ。そして小さな声で恫喝する。
「斉藤、お前は馬鹿か、手を出したら負けっていつも言ってるだろ」
「だけど兄貴…俺達の商売は力を見せつけてなんぼだって…」
斉藤は怯えていた。兄貴に対してお世辞を言ったつもりだったのに、いきなり首根っこを掴まれて凄まれたからだ。もちろん純粋なる力という意味では兄貴など怖くは無い。今まで自分と素手で戦って勝った男は誰一人としていないし、その腕っ節を買われてこの会社に職を得る事が出来たからだ。しかしこの兄貴の怖さは暴力とは無縁のところにある。それは力という意味とは別の意味での暴力だ。そして、その暴力という意味において、自分を打ち負かせる男はこの世に1人しか存在しない。だからこそ、斉藤は怯えていた。兄貴と呼ばれた男は襟元から手を離して斉藤に説教を始める。
「斉藤、確かに俺は言ったよ。暴力というのはな、見せつけるものであって行使するもんじゃない。それでも、どうしても、使わないいけない時ってのは必ずやってくるが、その時は俺が言う。お前の判断でお前の拳を使うな。言ったろ、お前に対する支持は俺が出す。力にしろ、何にしろ――全てだ」
兄貴の説教も終わり、2人は再び事務所への帰路へと向かう。この沈んで雰囲気を変えたくて斉藤はわざと明るい調子で兄貴に話しかけた。
「しっかし、今回の奴も払うには払ったが金払いが悪かったですねー。金は返すものという常識が通用しないんでしょうか?借りる時だけバッタのようにヘコヘコして、いざ返す段になったらぐだぐだとごねやがるきっと奴らにとっちゃ金は返すもんじゃなくて、借りるもんとして認識されているんでしょうね」
兄貴はくすっと笑って斉藤の言葉を訂正した。
「それは違うぞ。金は返すものでもなければ、借りるものでもない。金は、奪うものだ」
「そう、正解。そして、奪われるものだ」
「そう、正解。そして、奪われるものだ」
その声は2人の後ろから聞こえてきた。2人が歩いていた帰り道から聞こえてきた。2人は鈴木の家から事務所へと向かい、5つ目の角を曲がっている所だった。その声は4つ目の角から聞こえてきた。ガバッと2人は振り向く。
ブランド物で固めた真っ黒いスーツ。金色に輝きその存在を過大に主張している腕時計。黒々としたオールバックに、猫の目をイメージさせる細目に一重瞼。スーツとは対照的な白い肌は奇麗と言うよりも、不気味という言葉を連想させた。そして、その男はゆっくりと口を開く。
「金、渡してもらおうか」
「はぁ?何を言ってんだ?」
斉藤と喋っていた男は思わず聞き返してしまった。今までそんな事を自分達に向けて言えた奴は誰一人としていなかったからだ。厳密に言えば【言った男】はいた。だが、言った瞬間に斉藤に拳を叩きつけられて沈黙した。結論としてそんな生意気な言葉を自分達に向け切った奴は今まで存在しなかった。だが、その男はもう一度、正確な言葉を付けくわえて言い切った。
「これは失礼、説明が足りなかったな。あの鈴木って男が言ってたでしょ。他にも金を払う場所があるってね。それがうちなわけ。だからさ、お金を渡してもらおうか」
言葉こそは丁寧であったが、言っている内容は完全に理不尽そのものであった。要求された兄貴は思わず笑いだす。
「あんた…中々ジョークのセンスがあるよ。漫才師やコメディアンになったら売れるかもね。だけどさ…1つだけ聞かせてくれよ。あんた…俺達が鈴木から取り立てをしていた時に近くにいなかったか?」
「あなたは中々推理のセンスがあるようだ。探偵や刑事になったら繁盛するよ。どうしてお分かりに?」
「確かに鈴木は【他にも金を払う場所がある】って言ったさ。あんたの言った通りに言った。良いか?その通り過ぎなんだよ。推測だけじゃそこまでピタリと当てられない。あんた、俺達が取り立てをしていた時に近くでそれを見てたろ」
「ご名答、ホームズさん。鈴木さんがドアを開けた頃ですかね、その頃あたしも到着して、お2方の商談を邪魔しちゃ悪いと思って見物していたんですよ。ちなみにもう一つ理由を言えば、あなた達のやり方は不味過ぎだ」
「それは俺も思ってた所だ。次回からは気を付けるし、気を付けさせるよ」
じろっと斉藤を睨みながら言う。斉藤は大きな体をしゅんと縮めているように見えた。
「敵を追いつめるのは良いんです。しかし窮鼠猫をかむという言葉がある様に、追い詰め過ぎは厳禁なんですよ。あなた達のは明らかにやり過ぎてた。あのままじゃ警察を呼ばれる可能性があったし、万一呼ばれた際に自分も聴取されるのはお断りですからね。だからこそ静観していた訳です」
「なるほどなるほど。つまりだ、あんたは取り立ての現場にはいたけど、警察が怖いので隠れていて、無事俺達が金を回収した後に、のこにこ現れてその金をよこせと。そういう事なのかな?」
「その通りです、理解が早くて助かりますよ」
斉藤は見ていた。兄貴が再び笑い出し、そしてピタッと笑い声を止めた。次に聞こえてきたのは笑い声とは真逆である、ドスの利いた低い声だった。
「ふざけるな、そこまで来ると笑えねぇよ」
斉藤は思った。ああ、兄貴はキレたな。兄貴は一歩踏み出して、男に攻撃の視線を向ける。
「周りを見て物を言えよ。今1対2という状況だ。そしてこの斉藤、力ずくで相手を屈服させる事に関しちゃ右に出る者はいないぜ」
斉藤は聞いた。兄貴の許可を、兄貴の許しを。
「斉藤…許可する。思う存分拳を振るいな」
笑い声が再び聞こえてきた。その声は兄貴のものではなく、斉藤のでもない。兄貴から脅され、暴力の行使を受けようとしている男からだった。
「なるほどなるほど。君の言っている事は、一つは正解で、もう一つは不正解だ。まず正解から――1対2というのは確かに合っている」
男はニヤッと斉藤を見ながら言っていた。その視線は余裕という意味でなく、不敵という意味でもない。もっと別の――「もう良いんだよ」そう言っているように見える視線だった。兄貴はくるっと斉藤を振り向く。自分は斉藤に指示を出したはずだ。この男をやれと、なのに何故斉藤は動かない?相手の言葉が急に思い出される「確かに1対2だ」その言葉の意味を考えていると、次の声が聞こえてきた。
「そして不正解――その力自慢に許可を出すのは君じゃない、俺だ。なぁ、斉藤」
その声が兄貴に聞こえてきた最後の声だった。「どういう事だ?」口はそう問おうとしたが、言葉が喉元から発射される前に鳩尾へと斉藤の拳がめり込んだ。鈍い音がする。内臓を拳が圧迫していた。胃液が、食物が、逆流しようとしていた。口を慌てて手で塞ぐと、斉藤が自分の襟元をガバッと掴む。いとも簡単に自分の体は斉藤に持ち上げられる。斉藤の片手で宙に浮き、もう片方の手は自分の顔面に向けて放たれようとしていた。その瞬間、観戦していた男から声が掛かる。
「斉藤、ここじゃ人目に付く。そこの路地裏でやれよ」
「はい、分かりました。遠藤の兄貴」
遠藤は顎で薄暗い路地裏を指し示す。ゴミと腐臭が充ち溢れた路地裏に遠藤を男を引きずって行く。臭く、暗く、腐った匂いがする細い道は、自分の未来を暗示しているようだと男は思った。次に男が思ったのは純粋な後悔だった。そうか…こいつが遠藤なのか…男は、薄れゆく意識の中やっと相手の名を知った。それは【絶対に関わってないけない男】【絶対に手を出してはいけない男】【絶対に目を合わしてはいけない男】としてこちらの世界では有名な男の名前だった。そして部下だと思っていた斉藤が言っていた事がある。
「自分には絶対勝てない相手というのがいますね」
こちらに向けて言っていた為。答えは自分だと思い込んでいたが、それはどうやら違うらしい。ようやく真の答えに気付いたが、それは後の祭りという奴だった。もう遅ぇよ。首根っこを引きずられながら男は思ったが、既にゲームオーバー。次に見えてきたのは、部下だと思い込んでいた斉藤の拳だった。
そして拳が顔面にめり込む。何度も、何度も。
遠藤はじっと道端で待っていた。聞こえてくるのは車道を走る車のエンジン音や道端を歩く人々の話し声だが、耳を澄ませばすぐそこの路地裏で、鼻が曲がる音や歯が折れる音が聞こえてきそうだ。3本目のタバコを吸い終わった頃、斉藤が路地裏から出てきた。遠藤は何も言う事無く、黙ってハンカチを斉藤に差し出す。斉藤も黙ってハンカチで手を吹いた。薄青色のハンカチは瞬時にしてどす黒いほどの赤色に変色していた。
そして口を開いたのは斉藤の方からだった。
「兄貴、お久しぶりです」
「ああ、半年ぶりくらいか。ちょっと田舎へ出張してたよ。しかしお前は相変わらず馬鹿な奴の手下に付いてるな。ああ、訂正。【付いてた】だな」
「これは手厳しい、あれでも会社内では部長候補と呼ばれていましたのに」
「あんなのが部長になったら会社がこけるぞ」
「兄貴が部長になったら良いじゃないですか」
「嫌だね、俺は元々主任になるのも嫌だったんだ。1人でのんびりやってくのが性に合っているんだよ。それを課長がやれやれ言うからしょうがなくやっているだけなんだ。本音を言うなら今すぐお前にこの立場を譲って、名も無い平社員に戻りたいよ」
「それこそ願い下げですよ。俺は主任になりたいんじゃない。望むのは昇進ではなく、兄貴の下です」
「それこそ願い下げだ」
歩きながら、2人は笑いあった。それは数年来の親友のように、それは長く寄り添った2人のように。自然な、見ていて気持の良い笑い声だった。そんな2人の遥か後方――暗く、汚い、路地裏では1人の男が鼻や口から血を流してポリバケツの中へと顔をうずめられていた。後数10分もしたら、残り物を探しに来たホームレスの発見されるのだが、それはまた別のお話だ。
遠藤は斉藤と喋りながら歩いていた為、前方への注意が甘かったのかもしれない。いつもなら曲がり角を直進する時は少しでも注意するものだが、その時はたまたま意識がお喋りの方に富んでいた。もしかしたら交通事故ってのはこういう要因で発生するのかもしれないなと後々遠藤は考えたものだ。曲がり角を真っ直ぐ歩いていると、目の前へ急に人が現れた。斉藤だったら間一髪避けられたかも知れないが、遠藤自身にそこまでの肉体的な能力は存在しない。それは目の前に現れた相手も同様らしく、結論として2人は曲り角で正面衝突した。前方不注意による出会い頭の事故って奴だ。
最初に分かったのはぶつかった衝撃。
次に分かったのは相手の小さな叫び声。
その次に分かったのは、バシャッとスーツに飲み物が掛かる感触。
最後に分かったのは、
「あー!ボクのバニラクリームフラペチーノがー!!」
という叫びだった。
黒いスーツに真っ白なクリームがべったりとついている。ぶつかったには連れがいるらしく、
「おいおい、前を見て歩かないからこうなるんだよ」
そう注意をし、こちらに向けて頭を下げてきた。当の本人はと言えば地面とスーツに落ちたシェイクを恨めしそうに眺めていた。その表情が余りにも可哀想なので、遠藤は怒るべきなのか謝るべきなのかすら分からなくなった。迷っていると斉藤が先に結論を出してきた。
「おい、お前。ぶつかっておいて謝罪の言葉一つ無いとはどういう事だ!」
怒鳴るが、相手は怯む事無く、
「すいませんでしたー。でもそれはお互いさまじゃないですかぁ?」
言葉こそ謝罪しているが、口調にはその意思がまったく見られない。本人自身謝罪の気持よりも地面に落ちたシェイクの方が気がかりのようで、チラチラ惜しそうに見ている。
さすがにその言葉には遠藤もカチンと来た。だが、それ以上に頭に来た男がいたようだ。斉藤はぶつかって謝りもしない男の首根っこを掴んで引き寄せる。ここは先程の路地裏ではないが、今にもさっきの光景が再現されそうだった。
「ちょっ…ちょっと何してるんすか…」
男は金魚のように口をパクパクさせながら、掴まれた手を振りほどこうとしている。しかしそのひょろひょろしてえる体格では、両手を使った所で斉藤の片手すら振りほどけない。いつもの遠藤なら「ここじゃ止めろ」や「路地裏でやれ」とか言っていただろうが別に構わない気がした。斉藤も先程のレベル迄はしないだろうし、一発や二発位ならこの場所でも大丈夫だろうと思っていたからだ。
斉藤は握り拳を固めている。その手は目標に向けて発射される寸前だった。慌てているのはひょろひょろしている男と、連れの男だけだった。特に連れの男は当人以上にあたふたしていた。
「ちょっと…暴力沙汰は止めてもらえませんか。確かに悪いのはこちらですが、そこまでする事は無いでしょ」
ひょろひょろしている男は目に涙を浮かべていた。飲み物如きでぎゃあぎゃあ騒いだり、人に飲み物を掛けても謝らないし、この段階になったら泣きそうになる。まるで子供だな、遠藤は思っていた。子供相手にここまでするのも大人気無いかもしれない。そう思って斉藤の手を止めようとしたら、その手は既に止まっていた。ひょろひょろしていた男の連れが斉藤の手を掴んでいたのだ。
「お願いします。説教程度ならこいつの為にもなるでしょうが、殴るのは勘弁してもらえませんか。もちろんクリーニング代はお支払いします。だから、勘弁して下さい」
不思議な光景だ。ぶつかった当人は何も言わず、連れが謝っている。更に慰謝料まで払うと言う。その男は謝りながら名刺を差し出してきた。
「この男は私の部下なんです。確かに見ての通り不出来な部下ですが、それでも私の部下なんです。何とぞここは一つご容赦願えませんでしょうか?」
差し出された名刺には江崎信二と書かれている。会社名は中堅所の出版社が書かれていて、役職名は主任と書かれていた。ほう、絞ればそれなりに金を生みそうだな。それにしても中々出来た上司だ。それに比べてこの不出来な部下はどうだ。泣きそうな顔で金魚のように口をパクパクさせていたから、何も言えないと言うのが正解かもしれないが、この状況で何も言わないというのは最低だろ。斉藤が男の首根っこを掴んだままこちらを振り向く。何も言っては無いが、その眼が語っていた。「兄貴、どうします?」
もちろん会話の主題は許すとか許さないではない。いくらで許すのかという事だ。そりゃあこれしきの事で帯が必要な程の札束は奪い取れないが、少なくとも焼き肉に行って、その後お姉ちゃんのいる店で飲む位の金を手にする事は出来る。いつもならそうしていたろう。江崎からも「お前も不注意だからこうなった」と、2人して金を払わせる事だって出来だろう。だけど、遠藤にその気は起きなかった。
「もう良い、行けよ」
遠藤はぼそっと呟いた。ぶつかった相手も、江崎も、斉藤も、そして何よりも自分自身がその言葉にびっくりしていた。それは男の目を見たからかもしれない。その目は見た事がある目だ。見た事があると言うよりも自分がかつてしていた眼だ。
護るべきものがある男の瞳だ。
敢えて理由をもう一つ上げるとすればちゃんと部下を庇う先輩。当たり前の事と言えば当たり前なのだが、世の中当たり前の事が出来てない奴が多すぎる。だからこそ下らないニュースが毎晩テレビで放映されているのだ。
「斉藤、手を離してやれ」
斉藤は渋々ながら襟元を掴んでいた手を離す。斉藤自身はこの結論――せっかく魚が掛かったのにわざわざ離してしまう事に納得していなかったようだが、兄貴の結論だからしょうがない。手を離すと掴まれていた男は喉元を押さえながら咳をしていた。
そして、解放されたその男は、小さく舌打ちをした。
それが見えたのは遠藤だけだった。斉藤にも、江崎にも分らないほどの小さな仕草だった。常人ならばその意味は決して分からなかっただろう。殴られる、金を取られる、絶体絶命のピンチから救われたはずなのに何故舌打ちをするのか?まともな人なら決して答えは分からなかったろう。そして見間違いと言う誤答に辿り着くのが関の山だ。だが、遠藤は正解に辿り着いた。何故ならば…
遠藤も、また、まともではないから。
「本当に申し訳ありませんでした。このお詫びはいつか必ず…」
この言葉はぶつかった当人のものではない。江崎のセリフだ。ぶつかった本人と言えば、「ほら、お前も謝るんだ」という言葉も無視して、不貞腐れている。まるで悪戯をした子供とそれを謝る親だ。その2人と別れてまた斉藤と歩く。
斉藤が道端の小石を蹴りながら尋ねてきた。
「何でさっきの奴ら、何もせずに帰したんですか?もったいない」
何もしてない訳じゃないだろ、現に名刺は貰った。これを有効利用すれば小遣い程度は稼げるんだよ。遠藤はそう言おうと思ったが、それをする気はなかったし、斉藤に向けて先に言うべき事があったので、そちらを優先した。
「斉藤、さっきの男がいたろ。江崎とやらじゃなくて、ぶつかった方な」
「ああ、あのあほですね」
斉藤は笑いながらそう言った。
「言っておく。ありゃあほじゃねぇぞ。あほに見せかけたあほだ」
「何だ、結局あほなんじゃないですか」
「俺に比べたらって意味だ。お前よりは遙かに格上だ。これは命令ではない、純粋に忠告だ。今後あの男に会った時にちょっかいは出すなよ。お前一人だとやられるぞ。間違い無く返り討ちにされる」
斉藤は冗談だと思った。ここは笑うべきところかとも思った。しかし兄貴の真剣な顔を見ると本気という事がよく分かった。兄貴の言った言葉に間違いはない。もし間違った結果になったとしても、それは結果の方が間違っているだけだ。だから斉藤は兄貴の言葉を信用する事にした。「はい、分かりました」斉藤が肯定の返事をしようとすると、遠藤の携帯が鳴った。斉藤は喋りかけた言葉を喉元に押し込め、じっと宙を仰ぐ。そして遠藤の会話が始まる。
「はい、もしもし。ああ、これは田中先生。お久しぶりです。最近の調子はどうですか?いえいえ、こちらは相変わらず大変ですよ。ところで今日はどんなご用件でしょうか?……はぁはぁ、なるほど。つまりその記者に余計な事をさせなければ良いのですね。え?そこまでする必要はない。黙らせるだけで良い。分かりました。そのように致します。その代わり、またお願いしますね。それでは、打ち合せはそちらで」
ピッと携帯の通話ボタンを押して話を終了する。斉藤は先程の言葉を言うのを止めて新たなる疑問を口にする。
「兄貴、仕事ですか?」
遠藤は笑って答えた。
「ああ、ブンブン煩い小蠅を叩き落としてお金を貰うお仕事だ」
労働は尊いからな。遠藤はそう言い切って、田中医院への道を歩き出した。
時は6月の終わり、これからどんどん暑くなる。そんな夏が近づいている日の出来事だった。