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信念~江崎信二の場合~ 前編


キレイ事だけじゃやってけない
正論だけでもやってけない
正しい?間違ってる?
そんなのは2の次3の次だ
一番大切なのは
良いか、一番に大切なのはな…

信念~江崎信二の場合~



「しかくさいせいしゅじゅつ?何ですかそれは??」
段々と熱くなり始めた6月のある日、手もとのハンカチをで汗を拭きながら取材先へと歩いていると、隣のアホ面がアホそうな声でアホな事を聞いてきた。これだから最近の若い者は…!思わず口に出そうになるが喉元で留める。別に気が長くなったわけでも、こいつに対する優しさでもない。こうしないと部下が付いてこない、ただそれだけだ。そしてまた上司に小言を言われてしまう。

「また君の部下が移動届を出してきたよ。これで何人目だい?もしかして記録更新を狙ってるのかなぁ?」
のうのうと部長の机に座っているデブ&ハゲにニヤニヤと嫌味を言われた。主任という立場はホント言葉だけだ。一見偉そうなポストだが、実際はバカな部下の世話と現場を分かってない上司との板挟みだ。これで僅かばかりの賃金UPでは割に合わない。主任昇進を打診された夜に戻れるのなら、今すぐ戻って過去の自分にこう言ってやるよ。止めとけとな。

それどころかこんな仕事自体を辞めとけと忠告したい。人の粗を探して雑誌で暴露して金を稼ぐ。徹夜や泊まり込みも珍しくない。そこまでして書いた本はキヨスクで缶ビールと共に買われ、結局は電車の網棚に捨てられる運命。心無い読者からはゴシップ雑誌が…!と小馬鹿にされ、書籍扱いすらさせてもらえない。どう考えてもまともな生き方じゃない。今からでも遅くない、真面目に――真っ当に生きるべきだ。

しかし今となっては無理な話という事も痛い位分かっている。再就職がどうこう言うより(実際男一人なら何とでもする事が出来るが)、我が家で待っている家族の事を考えると、ばかな決断は出来ない。時計代わりに携帯を見ると、そこには自分を元気付けてくれるメッセージがあった。
【あなたへ、今日はご馳走だから早く帰ってきてね。ちなみにあなたの大好物なシチューよ】
【パパへ―、はやくかえらないと、まみがぜんぶたべるからー】
よぅし、今日も不出来な相棒や不敵な敵と戦うか。

「教えて下さいよ主任、しかくせいせい…」
隣のあほはまだピーチクパーチク囀っている。全く…分からない事があったらまずは自分で調べる、それが基本だ。どうしても不明な点があった時にだけ先輩に聞く。少なくとも自分達はそう教えられてきた。なのにどうだこいつ等は?聞けば何でも教えてくれる、頼めば何でもしてくれると思っていやがる。熱心に調べているのは、流行の服と眉毛の剃り方だけだ。ああ、後は女の落とし方か。

一回まずは調べてみろよと、半分冗談の半分本気で怒鳴った事があったが、そしたらこいつは検索エンジンに該当文章を打ち込んだだけで「分かりませーん」と言ってきた。あの時ほど呆れて声が出ないという事を実感した事は無い。もう何を言っても無駄だ。あれだ、世代が――住む世界が違うんだ。そう諦めるしかない、最近は達観するレベルになってしまった。。だから今日もこの不出来な部下に一から丁寧に教えてやる。

「良いか?正しくは視覚再生手術だ。一応取材のテーマになる言葉なんだから予め調べておけよな」
一応釘を刺しては見たものの、は~いという間延びした返事が返ってきただけだ。もう駄目だ、諦めよう。がっくりと首を落として続きを話す。
「全盲、つまり完璧に目が見えなくなった人だな。その人を対象にした手術の事を言う。小難しい話をしても理解しにくいと思うから要点だけ言うぞ。脳の奥に電極を埋め込み、そこへビデオカメラで撮った映像を送りこむ。送られた映像は脳へと届き、それを視覚として認識する」
「つまり目にビデオカメラをぶちこんだって事ですか?」
「全然違うよ。第一目にビデオカメラは入らねぇだろ。だからビデオで撮った映像を、脳に埋め込んだ機械に送ってるって言ってんだろ」
「つまり、それが…」
「ああ、噂のグラサンピッチャーの正体という訳だ。と言ってもまだ仮定の域を出ていない。確かめるのはこれからで、確かめるのはこの場所だ」

結論を言って、歩いていた足を止める。目の前に見えたのは看板、看板に書かれていたのは名医者と名高い個人眼科の名前だった。コンタクトの処方からシーレック手術、そして本業の眼科として大忙しの病院だ。そしてこの医者がとんでもない事をしている疑いがある。俺達は今日、それを確かめに来た。ドアをゆっくりと開け受付の看護師に声を掛ける。予め話は通していたので(それでもただの取材と偽ってはいるが)即座に院長室へと通された。豪華だかシンプルな部屋に通され、革張りの椅子には本日の取材対象が座っていた。真っ白な白衣に糖尿病を心配してしまいそうな体格。しかしやせ細った医者より多少ふっくらしていた方が安心感を抱くのは自分だけだろうか。品良く伸ばされた顎髭が、更に患者を安心させる一要素として成立していた。

「初めまして」最初はお互いにそんな言葉から始まり、まずは名刺の交換だ。そして当たり障りのない会話――医者を志したきっかけや最近の眼科事情について尋ねる。看護師が持ってきてくれた一杯目のコーヒーが空になった頃に本題を出す、さぁ、勝負だ。テーブルの上にある新聞に視線を移す。一面には今日の主役がユニフォーム姿でガッツポーズをしている写真が写っていた。静かに、そっと開始のゴングを鳴らす。
「そういえば…グラサンピッチャー大活躍みたいですね」
言葉だけを聞けば単なる世間話にしか聞こえないだろう。スポーツ新聞の一面を見ながら、何気無い会話に花を咲かせる。しかしコーヒーを持っていた院長の手はピタッと止まって、僅かばかりにカップが揺れている。彼が中身を殆ど飲んでいて良かった。コーヒーが零れて取材中断なんて洒落にもならない。

「…ええ、そうですね。これならオールスターも一位確定でしょうね…」
言葉だけを聞けば単なる会話だ。しかし、それがそうで無い事は問われた相手の表情が物語っていたし、何より自分の視線が痛い位鋭く院長を射抜いていた。それは世間話のそれではない、詰問の――尋問のそれだ。ただ1人自体が呑み込めていないアホ新人が、
「ですよねー、ボクもこのピッチャーは大成すると思っていたんですよーそう言えばこの前このグラサンが馴染みのショップに出ていたんで、思わず衝動買いを…」

もう良い、お前黙ってろ。視線で新人を黙らせて、院長へと言葉の刃を向ける。
「ある日突然マウンドに現れて、瞬く間に三振の山を築きあげた、本名も年も出身も全てが謎のピッチャー。トレードマークは瞳を隠している黒いサングラス。それ故にグラサンピッチャーと呼ばれ、【グラー】や【グラさん】などの愛称で親しまれている。選手登録名ですら【グラサン】だからこっけいなもんですよね」
「確かに謎が多いピッチャーですね。しかしヒーローというのは、謎があってこそのヒーローだと思いますよ」
院長は何気ない表情で世間話に付き合ってくる。どら、そろそろ崩すか。

「その通り、ヒーローには謎が付きものだし、主役を陰から支える裏方も必須だ。例えば名医者とかね?」
一瞬院長の瞼がピクッと動いたが、動揺した様子は見られない。さすがは一代でここまで病院を大きくした猛者だ。頑張っていつも通りを演出している。だけどもこちらも百戦錬磨だ。必死に動揺を隠そうとしているのが可哀想な位見え見えだ。だが、遠慮はしない。更なる追い打ちを掛ける。胸元のポケットから一枚の写真を取り出してパサッとテーブルに置く。
「たれこみがね、あったんですよ。グラさんがここの病院に通っているという情報がね」
写真にはサングラスを掛けた青年が、この眼科医の門を潜ろうとしている瞬間が写し出されていた。

院長の体は緊張の余り固まっている。それは取材モードに入っている自分だけでは無く、素人同然の新人にすらも分かったらしく、緊張の面持ちで院長の動向を窺っていた。
「そりゃあ、ここは病院ですからね。スポーツ選手ともなれば体が資本だ。病院に行くのは当然でしょ。ましてや野球選手にとって目は肩や腰並に重要ですから、通院するのもそれほど不思議じゃないと思うんですが…」

確かに院長の言っている事に間違いはない。スポーツを軽んじている人からは、片や腰に比べてたかが目と言われるかもしれないが、されど目だ。動体視力が運動能力に大きな影響を与えている事は万人が認めている事だが、その肝心の動体視力が裸眼の視力に影響を受ける以上、スポーツ選手にとって眼科は行きつけの飲み屋並みに重要な場所となる。しかしそれは通常の場合に於いてだ、この場合は普通ではない。

「でも毎週毎週来るのは珍しいでしょ。しかもそれを数ヶ月も続けているんですよ。ただの診察にしては長すぎますよね。これじゃあ何かの病気を疑ってしまいますよ。しかし当人をテレビで見る以上病気の兆候は見られない。もしかして診察ではなく、整備ですかな。つまり――メンテナンスって奴ですかね?」
院長もこちらを見据えてきた。こちらが院長の僅かな動揺を見逃さないように、向こうもこちらの様子を観察し始めている。院長自身は何も語ってはいないが、その眼は十分過ぎるほど叫んでいた。お前、知っているのか?知っているのなら、何を?どこまで?そしてどうする気だ?

「私には、何を言っているのか分かりかねますな」
そうとうな狸のようだ。しかしこの位ではないと、こちらも張り合いが無い。このレベルの相手とは飽きるほど対峙してきたし、この程度の相手を攻略する事は、日常と同じ位有り触れた事だ。
「少し…昔話をしましょうか…」
煙草でも吸いながら過去の話を始めたいところだが、さすがに病院内でタバコに火を付けるわけにはいかず、空になったコーヒーカップを口元にそっと運びこんで、調査した内容を院長に教えてあげる。

「昔々、とある所に1人の野球少年がいました。とても才能溢れたピッチャーで、将来はプロ入り間違い無しと言われていました。しかしそんな少年に悲劇が訪れます。少年野球の練習中に、ピッチャーライナーを顔面へと受けてしまったのです」
「それで、どうなったんですか?」
隣のアホが勢いよく聞いてきた。取材陣というより、気分は完全に観客のようだ。お前は今日何しに来たんだ?答えを教えながら院長に続きを話す。
「哀れ、少年は失明してしまいました。しかも両方ともです。少年は可哀想に光を失ってしまったのでした」

隣のアホは可哀想に…と呟いている。院長は緊張の面持ちでこちらを見つめていた。その視線はこの話がまだ終わってなく、途中という事を指し示していた。そう、本番は――本当に伝えたい事はここからだ。
「それから10年後程経ったある日の事です。突然グラサンを掛けた正体不明のピッチャーがプロのマウンドに現れ、高低内外角を160キロで投げ分けながら、完全試合を成し遂げました」
「グラサンピッチャー誕生の瞬間ですよね、ボクもテレビで見て興奮してましたよ」

嘘吐け、どうせ動画投稿サイト等で見たってだけだろ。それをテレビで見たように言うなよな。
「ほう、それなら質問だ。その時は【グラさん】なんて愛称じゃなく本名で出ていたんだが、テレビで見てたんなら知っているよな?」
後輩は「あっ…えーと…」と答えに詰まっている。「見てたのに思い出せないなー」詰まらない言い訳も忘れない。こういう所が可愛い奴だ。でも一緒には仕事したくないがな。
「田中だよ、鮮烈なデビューの割に余りにありふれた名前だったんで、次以降の登板からグラさんに変更されたんだ。そういえば…同じですね」
そう言って、机の上に差し出された名刺の名前を――院長の胸にある名札の名前を――眼前にいる男の名前を読み上げる。
「そう言えば…同じですね。ねぇ、田中さん?」

信念~江崎信二の場合~ 後編


田中さんは黙っていた。無言で俯き、肘を机に付き、うなだれていた。それは頭を下げているようにも見えた。降参にも、謝罪にも、降伏にも。そして田中はぼそっと一言呟いた。
「この写真…偽物だろ」
「ありゃ、やっぱり分かりました」
隣の新人だけが話の展開に付いていけず、顔全体に?マークを浮かべていた。

「実はこれ、背格好が似てるウチの若い者にサングラスを掛けさせて、ここの前で写真を撮っただけなんですよ」
「カマ掛けの方法としては中々だと思います。だけど、私の弟はこんなに不細工じゃないですよ」
「これは手厳しい、次からはもっと良いモデルを使いますよ」
「モデルなら目の前に適任がいるじゃないですか?」
院長の視線は隣のアホ面ではなく、自分を差し示していた。
「御冗談を。このビール腹では掲載した瞬間に、即座の苦情が来てしまいますよ。」
「ならば隣の…」
「無理です」

きっぱりと言い切った、隣のアホ面だけがネタにされて不満そうだ。お互いの間に笑い声が漏れる、初めて2人が笑いあった気がした。だがそれは分かり合えたゆえの笑いではなくもっと別の――苦笑が漏れたと言った方が正しかった。トントンとドアがノックされ看護師が二杯目のコーヒーを持ってくる。薄ピンク色の白衣に身を包んだ看護師がぺこっと頭を下げながら扉を閉めると、院長は観念したように柔らかく言い切った。
「なるほど、全てをご存知なんですね…」
それは最も聞きたかった言葉であり、勝利を確信させる言葉だった。
「ええ、そちらが人の目を治す事のプロなら、こちらは調べる事にかけてのプロですからね」
「プロか…ならばあの子は、投げる事に関するプロなんでしょうな」
「人は皆何かのプロですよ」

自分は記者としてのプロだし、目の前の男は眼に関するプロだ。隣のアホ面は…まぁ、アホのプロだ。
「色々調べましたよ。弟の目を治したい一心で、眼科医を目指し、保険が利かないような高額の手術を経て、再び弟の眼に光を取り戻させた。本人は最初手術代を払えないと言ってたが、そこは兄貴が出世払いで良いと、全てを自分の持ち出しで弟を救った。そして兄は弟の両目に、再び景色を映したのであった」
「美談ですね~美しい兄弟魂だ」
隣のアホ面が小学生の感想みたいな事を言っている。事はそう単純ではない、事実誉められた院長は苦虫を噛み潰したような顔をしている。辛そうな顔で謙遜を始めた

「美談なんかじゃないですよ。これはただの…」
言い難そうにしている。しょうがない、介錯してやろう。
「そう、償いだ。弟に景色を蘇らせたのが兄貴なら、弟から景色を奪ったのも兄貴なだけだ」
こういうのは妙にはぐらかせるよりも、きっぱりと言った方が良い。こちらの為にも、あちらの為にも。
「償い?どういう意味ですか?」
隣のアホ面はまたもやアホな声でアホな事をアホな口調で質問している。お前なぁ…仮にも記者になるんだから、少しは言葉尻から真実を見抜く訓練をしろよ。

「弟が投げるプロだったように、お兄さんもプロを熱望されていたんだよ。ただしピッチャーでは無く、打つ方のな」
「驚いた…そこまで知っているんですか…」
「だから言ってるでしょ。私は調べるプロだって」
そう言いきって胸元からもう一枚のプリントを取り出す。それはとあるブログの記事をプリントアウトしたものであり、内容は当人の思い出をつづった日記となっていた。ただそれは当人自身というより、その人が小学生時代に在籍していた少年野球チームでの出来事を、思い出して書き上げたものだった。

【あの日は凄く大変だったなー、俺は外野で球拾いをしていたのよ。そしたら急にTの叫び声が聞こえてきたの。あいつはピッチャーで俺はフェンス際にいたのにそれでも届いてきたんだぜ。それ位大きな声だった訳。んで、急いで行ってみたらTが顔面を押さえて蹲っているの。両手は両目を押さえていたけど、その指の間からぽたぽたと血と涙が流れ落ちていたんだ。交互に、ぽたぽたと、ぽたぽたと。んでさー、打球を打ったのはなんとこいつの兄貴だったんだよなー。

弟はエースピッチャーで、兄は4番バッター。2人とも我がチームの名物選手だったのに、ホント酷い事故だったなー。んで、ここまでだと単なる酷い話にしか聞こえないけど、本題はここからなんだよ。この兄貴、このまま練習していたらプロのバッターすらの夢じゃなかったのに、鬼のように勉強して医者になったんだってよ。しかも眼科医。目的はもちろん弟の目を治すため。すげぇ美談だよな~】

プリントアウトされた紙を見ながら種明かしをする。
「最近は本当に便利な時代になりましたよ。昔は図書館、学校、アパート、方々を探してネタや答えを探していたのに、今では検索語一つで回答が出てくるんですからね」
「これは俺の手柄でしょ~何自分のように言ってんすかー」
隣で邪魔をしてくるアホがいる。無言で足を踏みつけたいところだが、こいつのおかげである事も確かだ。このやり方を完全に認めるわけにはいかないが、認める余地はあるらしい。感謝の印だ、よぅし、今度酒でも奢ってやるよ。だけど、割り勘な。
「ただ、所詮はどこの馬の骨が書いたか分からない文章ですからね。こういう未確認情報は裏付けをしっかり取らないといけない。という事で、今日こちらにお邪魔した訳ですよ」

来訪の目的と、手品の種明かしをされた院長は黙っていた。そして、最も重要な一言を告げる。
「…書くんですか?」
もしかしたら今までのは単なる前哨戦に過ぎなかったのかもしれない。否、そもそも戦いですからなかった。戦闘はこれからだ。結末は至ってシンプル――倒すか倒されるかなどでは無い。単純に、書くか、書かざるか。ただ、それだけ。

院長の質問には答えなかった。答えられなかったという方が正しいのかもしれない。院長自身、この来訪者が書くためにここに来たという事は分かり切っているはずだ。止めても無駄だ、何を言われようと書く。鬼と蔑まされようと書きあげる。それが自分の仕事であり、それが自分を――家族を守る術なのだから。携帯が震えた気がした。薬指に嵌めた指輪がキュッと締まった気がした。

次にくる言葉は懇願だと思っていた。次にくる言葉は相談だと思っていた。次にくる言葉は命令だと思っていた。「お願いします、書かないで下さい」「書くのを止めて下されば、それなりにお礼をしますから」「書くな、記者風情が人のプライバシーを暴くんじゃない」それらの言葉が放たれると予想していた。しかし全ての予想は尽く裏切られ、結局彼の口から出てきた言葉は疑問だった。
「記者さん、あなたに信念ってのはありますか?」
自分が呆気に取られていたのを見て、医者はもう一度同じ言葉を口にする。
「信念というよりも…そう、大切なものと言うべきかな。何があっても――何に代えても、守るべきものです」

「ちなみにボクはお金が一番大切ですねーもちろん大好きな人も愛すべき人もいますけど、その人を幸せにするにはやっぱりお金が必要だと思うんですよ。そりゃあ…」
黙ってろ、視線で訴えるが新人の茶々は止まらない。
「それに田中さん、大丈夫ですって。プライバシーの保護は最優先事項ですから。誰の記事だか分からないように書き上げますから…」
「お前、もう喋るな」

どうやら目線では無理なようなので、直接言葉で新人の口調を遮る。止められた新人は顔全体で不満を表していた。そりゃそうだ、新人は何も間違った事はしていない。取材相手から書くなといわれた時の対処マニュアルを正確に再現していただけだ。「大丈夫です、プライバシー保護は最重要事項ですからね。誰の記事だか分かりませんって」とりあえずその場はそう言って、後は保留という名の逃げの一手で良い。

後々相手は週刊誌を見た瞬間に、その言葉が嘘だと分かるが、そんなのは後の祭りだ。もちろんその状態で怒鳴りこんでくる相手もいるにはいるが、その時はその時で謝罪マニュアルというのもあるし、万一こじれた際も、我が社には荒事専門の部署だってあるのだから。通常なら何も問題は無い。そう、通常ならばだ。

だがこのケースをそれに当てはめてはいけない気がした。ありきたりな言葉で煙に巻き、騙し打ちみたいな手段でスクープにしたくは無い。どうせなら正々堂々だ。何故かそんな気がした。そうさせたのは先程の質問があったからかもしれない。同じ守るべきものを持つ男と男。相手を認めているからこそ、きちんとケリだけは付けたかった。だから彼の質問には正直に答える。

彼の質問には黙って左手の指輪を見せた。それが答えだ、それが守るべきものであり、それが今自分が生きている理由だ。医者はくすっとほほ笑んで、優しい表情を向けてきた。そして彼は彼の答えを口にする
「同じですよ。突き詰めて言えば家族です。あなたはあなたの家族を守るために仕事をし、私は私の弟――家族を守るために生きている。その邪魔をするならば…容赦しませんよ」
「容赦しないとは…どういう意味ですか?」
不敵そうに尋ねてみたら、相手はそれ以上に不敵な態度で答えてくれた
「その通りの意味ですよ。医者という商売をしているとね、色々な人脈が出来るんですよ。人に言って羨ましがれるような知り合いから、人には言えない知り合いとかね…つまりは、そういう意味ですよ」

場の雰囲気が急にきな臭くなってきた。静寂が場を支配して、呼吸する音すら聞こえてくる。きっと西部劇だったら腰のピストルを抜く寸前だし、時代劇だったらお互い刀に手を掛けていた。こういう時の静けさを破るのはおばかさんと相場が決まっている。そら、あほが口を開いた。
「ちょっと待って下さいよ。何もそこまで言う事無いじゃないですか、豪速球を投げるピッチャーが実は全盲だったっていうだけの話ですよ。美談でしょ、そんなスキャンダルみたいな拒絶反応をしなくても…」

「スキャンダルなんだよ」
新人の言葉を途中で止める。どうやらこのアホだけが、この記事の持つ意味を理解して無いらしい。確かに何も知らない素人が見たら、目の見えない選手が奇跡の手術を経て、名ピッチャーへと変貌したお涙頂戴の話と読めるかも知れないが、事はそう単純でもないのだ。しょうがない、不出来な後輩を指導するのも先輩の役目だ。その為に後輩より多めの給料を貰っているのだから。どら、出来るだけ丁寧に教えてやるか。

「おい、新人。視覚再生手術の要点は理解したな」
「はい、ビデオから目で撮った映像の脳の電極に流し込み、それを視覚として再現します」
「その通り、それなら肝心のビデオカメラをグラサンピッチャーはどこに隠しているんだろうな?」
「え~と…もしかして…」
「恐らくお前の想像で当たりだ。サングラスに超小型CCDカメラをセットしてそれを脳へと送っている。そうですよね?田中院長」
田中院長は何も答えなかった。だがその行為自体が、何よりも答えを指し示していた。
「そこで新人にもう一つ質問だ。このビデオカメラをサングラスじゃなくて、別の場所にセットしたらどうなると思う?例えば相手キャッチャーのサインが見えるセンタースタンド側や、敵の様子を知る為に相手ベンチ内に隠したとしたら…」
「それって…」

「そんな事はしてないっ!!」
今回新人の言葉を中断させたのは院長だった。院長の言っている事はおそらく真実だ。本当の真実など当事者以外の誰にも分かりはしないが、自分の記者としての勘が言っている。こいつらは白だと。こいつらは純粋に野球の為だけに手術を行っている。そこに不正や不義が入り込む余地はない。だが自分がこの兄弟を盲信的に信じているのと同様のレベルで、この話を聞いた他の野球選手や選手の上――理事会や連盟がそう思うとは限らない。むしろ信じない。むしろ疑う。結論として拒絶する。

皆が皆自分の目でプレイしているのに、
1人だけ、機械仕掛けの目でプレイしている。

この純然たる事実にどんな評価が下されるかは分からない。だがどんな結果にしろ、新人が抱いたようなポジティブな結果にはならない。間違い無く今まで通りのプレイは出来なくなるはずだ。だからこそグラサン本人はこの事実を言わなかったし、この医者だって真実を隠そうとした。言えば終わる事が分かっているからだ。

野球人生が。
それはすなわち、
自分の人生が。

よって、この医者は記事になる事を恐れている。そして止めようとしている。そう、どんな手段を使っても。だけどさ、その程度の妨害はこちらも慣れっこなんですよ。相手の脅しをクスッと笑い飛ばしながら、医者の言葉に反抗する。
「言いましたよね?私は記者だって。取材相手にそんな事を言って良いんですか?」
「書くならどうぞ。この事も、あの事も、書くのならご自由に。但し書いた後の事までは保証しませんよ」

こう言う時に怒声を上げて脅す相手は怖くない。キャンキャン吠える犬が実は臆病なのと一緒だ。真に恐るべきなのはどんな時も冷静に事へ対処する奴だ。この男はやる、いざとなったら冷静に沈着に人を殺せる。きっと目の手術をしながら、当たり前のように患者の眼球へとそのメスを突き刺すだろう。だけどここで引くわけにはいかない。向こうに引けない理由があるとしたら、こちらにも引けない理由があるのだから。それは仕事として、夫として、父親として――男として。だから引かない、よって立ち向かう。
「ご存知ないですか?ペンは剣よりも強しって言うでしょ」
「それはペンが強いんじゃない、剣が弱かっただけですよ」
「見てみたいものですね、強い剣とやらを」
「ご期待には沿えますよ。いずれ、きっと、会える日が来ますから」
院長は静かにそう言って、机の電話機に手を掛ける。掛ける相手は誰だ?人には言えない知り合いか。人には言えない相手に、人には言えない頼みごとをして、人には言えない行為を命令するのか。

相手は、銃を抜こうとしていた。
さぁ、自分はどうする?

トントンとドアがノックされる。コーヒーを持ってきた看護師が、
「先生、患者の○○さんが呼んでいます」
と、尋ねてきた。
「分かった、すぐ行きますよ」
刀を抜こうとしていた院長は、素晴らしい笑顔で看護師に返事を返した。そしてこちらにも微笑みながら言葉を投げてくる。
「もっとお話ししたい所ですが、生憎今日はここまでという事で」
「分かりました、それでは日を改めてまたお邪魔します」
「ええ、楽しみにしていますよ」
「はい、こちらこそ」

隣の新人に「行くぞ」と言い放ち、院長室を後にする。長い長い廊下を出て玄関のドアを潜るまで2人は無言だった。そして出入り口の自動ドアを飛び出してやっと新人が一言話しかけてきた。
「また、来るんですか?」
「ああ、またな」
それは隣の男に向けて言った言葉であり、後ろにそびえる病院に向けて言った言葉でもあった。外は仕事をするのがもったいない位晴れていて、地面は太陽の熱が照り返されて灼熱のアスファルトと化していた。これからどんどん厳しくなる。暑さも、何もかも。終わらねえなぁ、誰に言うでもなくぼそっと呟いた。

当然だ、今始まったばかりなんだから。

後ろからそう聞こえた気がした。
病院から、院長から、そして全てから。

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ぺにーと

Author:ぺにーと
仕事くれと思ったり、仕事辞めてぇと思ったり、ニート最強と思ったり、そんな有意義な事を考えつつちまちま更新(?)していくブログです。

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