グラサンピッチャー~江崎信二の日常~ 中編
「江崎…今、ちょっと良いか?」
声の主は河原崎課長でなければ新城でも無かった。安藤部長、若手社員の間で一番人望を集めている上司だ。普通上司というのは嫌われてなんぼの生き物だ。しかしこの江崎部長は違う。もちろん他の上司同様厳しい一面もある。むしろ河原崎課長なんかより、よっぽど厳しいし怖い。だけどこの厳しさには愛がある。部下の事を思う故に怒り、叱責し、そして必要とあらば自分の身も顧みずに部下を庇う。
だからこそこの人は皆から慕われていた。もしこの人が会社のトップになれば大勢の社員が喜ぶだろうし、この人が独立して会社を興せば沢山の社員が付いて行くだろう。そんな安藤部長が一体何のようだ?用件を予想していると、
「電話じゃ何だから」
部長はそう言って、使われてない会議室を指名してきた。
5分後、無人の会議室に椅子を引く音が二つ響く、僅かながら緊張していると安藤部長はゆっくりと語りかけてきた。
「どうだ?結婚生活は上手くやっているか?」
「こういう場合は上手くいっていても、いってなくても、はい、順風満帆ですと答えるもんでしょ」
「確かに、違いないな」
お互いに笑いあった。安藤部長は自分達の結婚の際仲人をしてくれた人だ。仲人には二つのタイプがある。義理で仲人を頼まれた人と、本当の意味で仲人となってくれた人。安藤部長は後者だった。元々自分と美咲は同じ部署にいた。いわゆる社内恋愛&社内結婚という奴だ。その時に(それこそ甘い思い出やケンカのメモリーもあるがそれはまた後述で)公私ともに相談に乗ってくれたのが、当時主任の地位にいた安藤さんだったという訳だ。
自分と美咲は結婚して美咲は会社を退職した。それからも安藤さんは自分達の世話を焼いてくれ、時たま家へ遊びに来てくれる。人生での恩師は?と聞かれたら間違い泣く安藤さんの名前を挙げるだろう。別に先生ではないが、仕事でも私生活でも大切な事を沢山教わったからだ。安藤部長と何気ない会話をしていると急に深刻な顔付きになってきた。そして重いトーンの口調で質問をしてくる。
「河原崎部長から…何か聞いてるか?」
「いえ、何も」
「そうか、全く…あの男は…」
安藤部長は苛立ち紛れに呟いた。そして急にクイズを出題してくる。
「なぁ、上司をやってて辛いなと思う瞬間が二つある、何か分かるか?」
「昔、行きつけの飲み屋で教えてくれたじゃないですか。【ばかな部下の尻拭いをする時】と【そんな部下でも、そいつの首を切らないといけない時】って、まさか…」
充分だった。それだけで、安藤部長の用件や何故人気のない会議室を指名してきたかが分かり過ぎるほど分かった。安藤部長も自分の顔を見て察してくれたのだろう。会話の内容は本題に入り始めた。
「会社がこの不景気のあおりを受けて、大幅な人員削減を始めたのはお前も知ってると思う。あくまで予定の段階だった。だが、それがここ最近で実行され始めた」
その言葉を聞いて思い浮かべたのは、再就職先とか退職金とかローンとかでは無かった。美咲とまみの顔だった。
「ああ、先に言っておくぞ。お前じゃない、心配するな。該当者は…新城だ」
ああ、納得した。遅刻早退欠勤当たり前、真面目に出勤していたら珍しいと揶揄される男だ。コネでもないのに、どうして入社試験をパス出来たのか?それは会社の7不思議の一つに数えられている。そりゃあリストラの対象にもされるわな。なるほど…納得は出来る。でも理解は出来ない。そりゃあお世辞にも仕事が出来るとは言えないし、勤務態度も真面目とは言えない。でも…でもだ…!
風邪引いちゃって遅れました~
あの人が、助けてくれたんです
主任チョコ好きでしょ、良かったらどうぞ
今朝の下手な嘘、女性の感謝している顔、そして何気ない気遣いが脳裏に浮かぶ。そして気付いたら安藤部長に詰め寄っていた。
「何とか…なりませんか?」
「それは厳しいな。入社以来ろくなスクープも取れちゃいないし、勤務態度だってあれだ。よっぽど逆転の一手でもないと難しいよ」
ふとした考えが浮かぶ、それは常識というフィルターに通せば決して通過しない考えであった。バカ、止めろ。自分の中のかしこな部分が抵抗する。しかし、かしこじゃない部分が勝ち、結局安藤部長にとある提案をしていた。
「あいつが、スクープを取れたとしたら…問題無いんですよね?」
ネタがあるのか?と部長が詰め寄ってくる。それは部長としての質問ではなく、1人の記者としての質問だった。
「巷で話題のグラサンピッチャーに関するスクープです。これなら逆転の一手になるでしょ」
「…逆転満塁サヨナラホームランだ。しかし…そのネタは確か且つデカいんだろうな?」
「場外級です」
かしこな部分は既に消えさっている。ああ、普段から新城の事をバカだあほだと言っているが、一番のあほは自分だな。
「その話、河原崎課長には話したか?」
「いえ、現時点では自分と新城のみであり、それに安藤部長がプラスされただけです」
「分かった、裏取れたら直接俺のトコに持ってこい。お前の望むようにしてやる。しかしだ、時間ってのは無限にあるようで実は有限だ。意味…分かるな?」
そう言って部長は期限を提示してきた。
「来月号の締切――つまり2週間後の今日がデッドラインだ。」
男と男の密約だった。黙って部屋を出ようとする際、安藤部長がもう一つ質問してきた。
「昔よく行った飲み屋で、お前に主任としての心構えを言った記憶がある。どうだ、覚えているか?」
昨日のように思い出される言葉だ。安藤部長に背中を向けたまま答える。
「【上司の小言に耐えて結果を出す、部下の我儘を聞き流して護る。両方しないといけないのが主任の辛い所だ。覚悟はあるか?俺は出来てる】ですよね?」
「よく覚えてたな、正解だ。まぁ、好きな漫画の受け売り&改編だがな。…しかし、それらしい顔付きになったじゃないか、江崎主任」
江崎主任、今まで江崎呼ばわりだったのに初めて主任と呼んでくれた、認めてくれた。くるっと思わず振り向いた。安藤部長は窓を見つめたままこちらに背中を向けている。顔は見えない。だけど、見えた気がした。感じた気がした。ぺこっと頭を下げて会議室のドアを閉める。部長1人となった会議室から煙草の煙と共にぼそっと呟きが発せられた。
「ガキだガキだと思っていたら、いつの間にか大きくなりやがって…」
会議室から自分の部署へと戻り、仕事を再開する。パソコンに記事をカタカタと打ち込む。ふと新城の方を見たら一応はパソコンに向かっていた。しかしディスプレイには何故かファッションの画像が映し出されている。今アイツに割り振った仕事は解散総選挙に対する市民の反応だから、ファッションのファの字すら存在しないはず。つまり…毎度恒例のサボりだ。先程会議室で宣言した決意が思わず揺らぐ。何でこんなあほの為に俺が苦労しないといけないんだ?たくっ…。
でも最終的にはそうしてしまうのが分かっているから、自分もとことんかしこじゃない。とりあえず7度目の溜息を吐きながら、新城に注意しに行こうとすると携帯がメールの着信を知らせてくれた。手紙の送信者は自分が一番愛する人とその娘だった。
【今日の夕方まみを連れて夏物の服を買いに行こうと思ってるの。それで夜合流して、たまには外食しませんか?あたしが楽したいだけってのは秘密ですよ 美咲】
【いつものれすとらんにいくの~まってるの~はやくこないと、まみがぱぱのぶんまでたべちゃうからなの~ まみ】
【了解、仕事が終わったら連絡するよ。早く行かないと、小さな姫様に全部食われちゃうからな】そう返信し、昼からの仕事に取り掛かる。対象を調べる、記事を書く、チェックする。いつもと同じ仕事内容なのにいつもより仕事に張りが出ている感じがした。やっぱり御褒美があるとやる気も違ってくるんだな。そうだ。新城も今夜の食事に誘ってみようかな?そんな事を考えながらワープロのキーをペチペチ叩いた。もう、溜息は出てこなかった。
「今夜ですか?申し訳ないです。今日は先約があって…また誘ってくださいよ~」
新城は忙しそうに帰りの準備をしていた。全く…仕事はトロトロしているのに、帰るのだけは神速なんだからな。そんな事は言わずに先約とはデートか?と冷やかしたら、
「ちょ…主任、自分なら問題無いですが、女性が相手だとセクハラ呼ばわりされますよ」
なるほど、自分もセクハラをするような年齢になったのか。今度から気を付けないといけないな。新城と別れの挨拶をして美咲との待ち合わせ場所に向かった。
「いらっしゃいませ~」
駅裏の交差点沿いにあるファミリーレストラン【ガセト】の自動ドアを開くと店員の間延びした挨拶が聞こえてきた。おひとり様ですか?と聞いてくる店員に妻の名を言い、待ち合わせだと告げる。窓際の禁煙席に通されるとそこには妻と娘がちょこんと座っていた。
「あっ、やっと来た」
「ぱぱー、おそ~い。もうおなかぺこぺこなの~」
2人の前には水だけがある。何だ、先に食べてても良かったのに。そう言うと、
「ダメです、食事は家族全員で。それが家族のルールです」
「るーるです、なの~」
先に食べてても良かったのにと思う反面、待っててくれて嬉しいという気持ちもある。3人揃って仲良く座り(妻の隣に自分、反対側にはお姫様が1人で2人分の席を陣取っている)ボタンを押してウェイトレスを呼ぶ。
「お待たせしました、注文をお伺いします」
「ハンバーグセット2つと…まみはオムライスセットで良いよな」
ハンバーグは自分と美咲のお気に入りだ。昔、自分と美咲がまだ高校のクラスメイト止まりだった頃、文化祭の打ち上げで入ったファミレスで同じハンバーグセットを頼んだ。そこから会話が始まり、そしてクラスメイトから掛け替えのない人へと変わって行った。ちなみにまみはオムライスが大のお気に入りだ。母親が子供の良く聞く言葉の1つ――今日の夕飯何にする?と聞いたら200%の確率(2回叫ぶ)でオムライスと言う。前日に食べていようが関係無い。まみはいつでもオムライスを食べたいのだ。
もちろん今回もそうだと思っていたのだが、
「う~…なの~…」
まみがうぐぅと唸っている。これは言いたい事があるけど、どういって良いのか分からない。そんなサインだ。
「どうした?まみはオムライスが大好きじゃなかったのか?」
「すきなの~、でも…うぐぅ…」
まみ以上に店員が困っていた、伝票を持ってじっと突っ立っている。迷っていると美咲が助け船を出してきた。
「オムライスで良いんじゃない?今はうだうだ言っているけど、実物が目の前に来たら喜んで食べるわよ。それにもしダメだったら、あたしらのハンバーグセットと交換すれば良いだけだしね」
美咲の提案に賛成し、店員に当初の注文で言いと言う。まみはまだ何か言いたそうだったが、先に運ばれてきたオレンジジュースを飲むとにこっとした顔になっていた。数分後、ハンバーグセットとオムライスセットが運ばれてきた。まみはにこっとした顔のままでオムライスをスプーンで口に運ぶが、やっぱり顔色が優れない。
「どうした、まみ?調子が悪いのか?」
「…このオムライス、…なの~」
まみは最初口の中でもごもご言っているだけだったが、やっと言葉を口にした。
「…このオムライス、うまくないなの~」
じろっと美咲がまみを睨んだ。スプーンでまみのオムライスをすくって一口食べる。暫く味わった後、静かな声でまみに言い聞かせた。
「まみ、普通に美味しいわよ。ママ言ったでしょ、人が作った物を美味しくないとか言ってはいけませんって。ママと約束したわよね?」
美咲の中には独自のルールがある。それは法律とか常識とかではなくて、美咲個人のルールという奴だ。その中の一つに【人が作った物に対する批判は許さない】というのがある。美咲自身料理が好きという事もあるのだが、美咲は料理にケチを付けるという事はまずしない。作った人に敬意と尊敬の念を抱いているのだ。しかし、明らかな手抜きやどうみても美味しくないというものに関しては文句を言う。むしろ聞いているこっちがハラハラする位のクレーマーとなる。
「だってさぁ、人の体内に入るものなのよ。それなのに、このレベルは無いでしょ。しかもこれでお金を取ってるのよ。よくこのレベルで商売できると思う。ある意味尊敬するわ」
以前美咲と行ったラーメン屋で美咲が言った一言だ。もちろん今後このラーメン屋に行く事はなくなった。というよりも行けなくなったと言う方が正解かもしれない。事実こうして出入り禁止となった飲食店は一軒二軒ではない。美咲からしたら、
「何よ?あたしは当たり前の事を当たり前に言っているだけだからね」
と、断固として自分の非を認めようとはしない。
美味いものには賞賛を、不味いものには批判を。それが美咲のルールだ。横からスプーンを伸ばして問題のオムライスを食べてみる。味わってみた所別に不味くはない。そりゃあ雑誌で紹介されているような名店のオムライスには及ばないが(後輩の女性社員にせがまれて奢らされた事があるがあれは絶品だった、もちろん美咲には言ってない)、ファミリーレストランという場所柄では十分に合格点が貰えるだろう。
なら何故まみは美味しくないと言ったのか?美咲はまみをじっと睨んでいた、こりゃあまみがごめんなさいするまで美咲は睨み続ける気だ。助け船を出そうものなら、あなたは黙っててと一喝されてお終いだ。早いとこ謝った方が良い。まみの為にも、美咲の為にも。そしてもちろん自分の為にも。
「まみ、パパも食べてみたけど、十分に美味しいよ。何で不味いなんて言うんだい?」
助け船というよりもフォローを出したが、いかんせんまみの反応は乏しい。
家族3人でファミリーレストラン。普通なら楽しい雰囲気だが、ここの空気は修羅場のそれだ。こうなった以上結末は二つだ、まみが謝るか、まみが泣くか。しかしまみが謝るというのは無さそうだから(美咲は否定するだろうが、まみと美咲はよく似ている)まみが泣いて美咲が怒って自分が宥めるというパターンになるだろうな。
しかし、その予想は多少外れた。まみは泣きそうな声で言葉を紡ぎ出す。
「おむらいすが、まずいんじゃないなの~」
どういう事?美咲と自分が同時に聞いていた。そしてまみは泣き声で答える。
「ままのおむらいすにくらべて、おいしくないなの~。ままの…ままのおむらいすのほうがいいなの~…」
言葉として認識できたのはここまでだった。後聞こえてきたのは泣き声、わんわんと、わんわんと。もちろん自分はまみを宥めた。そして美咲は怒らなかった、予想が外れた。美咲は黙ってまみの横に座り、そっと肩を抱く。そして2人でお手洗いに行った。きっと今頃抱きしめているんだろうな、そう思った。そしてこの予想は的中したという事を、戻ってきた美咲から聞いた。
仲直りした3人家族がテーブルで楽しそうに食べている。結局まみのオムライスと自分のハンバーグセットを交換した。まみは美味しそうにハンバーグを食べ、自分もオムライスを味わっていた。美咲がスプーンを置いて、反省の面持ちで置いて語り出す。
「トイレで聞いたんだけどね…あたし、この子に気を遣わせちゃったみたい…」
美咲の言い分を要約するとこうなる。美咲自身食事は家で摂るのが基本だと考えているが、たまには外食をするのも良いと考えている。その理由は家族揃っての食事同様、家族揃ってのお出かけが重要であるという考えに基づいているし、まみに外食のマナーを学ばせるという事もあるし、純粋に外の味を楽しみにしているという事もある。ただそれだけではなく、美咲自身楽出来るからというのもある。たまには調理せずに食事をしてみたいし、後片づけから解放されたい時だってある。それらの理由が重なって我が家では2週間に1度外食をするようにしていた。
だけど、まみは美咲の料理が食べたかった。2週間に1度の外食よりも、美咲の作った物が食べたかった。
まみはトイレで泣きながらこう言っていた。
「ままのおむらいすがたべたいなの~」
だけど、言えなかった。美咲は毎晩調理している。美咲は毎晩料理している。その大変さが分かるからこそ、美咲の2週間に1度の休みを妨害するようなことは言いたくなかったらしい。美咲の笑顔がそこにあるから、本音は言えなかったらしい。でも、それでも、ままのオムライスの方が美味しい。その事を言いたいけど言えない、それジレンマがまみに涙を流させた。
美咲は黙っていた。
まみも黙っていた。
自分も黙っていた。でも、こういう時に声を出すのが父親の役目だ。ふと思いついた事があって、それを口にする。
「今度、キャンプ行こうか?」
美咲もまみも?という顔をしていた。言葉を付けくわえて説明を続ける。
「のんびりとした山奥に行ってさ、コテージを借りるの。そこでのんびりするんだ。他のキャンプに来ている人達とご飯食べたり遊んだりもする。きっと楽しいぞ。もちろんママには料理を休んでもらう。食事は俺とまみで作るんだ。でもずっと俺達の食事じゃ胃袋が満足しないだろうから、1回くらいはママにオムライスを作ってもらおう。なぁ、どうだ?」
家族揃ってのお出かけ、外での食事マナー、美咲の休暇、全ての案件を満たす答えはこれしか浮かばなかった。さぁて、答えはどうだ?
美咲は笑っていた。
まみも笑っていた。
自分も笑っていた、つられて。答えはそれで十分だった。