信念 5話 ~遠藤護の過去、現在、そして…~ 後編
「き…!兄貴…!!」
気が付いたら斉藤が肩を揺さぶっていた。ふと周りを見回せばそこはマンションの一室だ。同級生達のバカ騒ぎに包まれた教室ではないし、彼女と向かい合って座った机でもない。あるのは無機質なテーブルに、非合法な手段へ使用される書類が並んでいる。斉藤は不安そうな表情で見つめていた。部下に心配されるようじゃ終わりだな、気合いを入れ直して斉藤の報告を聞く。
「とりあえず江崎信二には妻と娘を引き合いに出して脅そうと思います」
いつもなら何てことない会話だった。普段通りなら妻の行動パターンや娘の通学路を調べ、必要とあらば声を掛けたりちょっとした散歩に誘う事だってある。でも、この時だけはブレザーに身を包んだ美咲の姿と声が浮かんできてしょうがなかった。再び斉藤の声と美咲の声が重なって聞こえてくる。聞くだけで心安らぐ美咲の声に比べて、斉藤の声は煩わしくてしょうがなかった。
「妻の買い物先や時間は調べ上げていますから、命令を貰えればいつでもさらえます」
(ねぇ、護君。いつの日かヒーローが現れてガバっと自分をさらってくれる、そんな想像した事無い?)
「しっかし、これは本当に良い女ですね。旦那だけの穴にするのはもったいない」
(好きな人にね、好きって思ってもらえるのが一番の幸せだと思うんだ。それ以上は何もいらないの)
「脅しじゃなくて、本当にビデオで撮ろうかな…あっ、もちろん一番は兄貴ですよ。俺は2番目で良いですから」
(護君って手を繋いだだけで赤くなるんだね、可愛い~)
「娘も中々見れる顔をしてやがる。今は5歳児だって需要はありますからね。さすがに5歳ともなれば初物でしょう。初の貫通式だ。これはこれで、楽しみですよ」
(もしもの話、子供が出来たら真実って名付けるんだ。しんじつって書いてまみと読むの。良い読み方でしょ)
「親子どんぶりってのも良いな~子の前で犯して、親の前で犯す。最終的には親子同士でアレを舐めさせたり…」
気が付いたら斉藤の首根っこを片手で掴んでいた。ガタンとテーブルが揺れる音がし、卓上のコップが音を立ててふらつく。斉藤の首は太く自分の手は小さいが、ギリギリと斉藤の首を締め上げていた。斉藤が、あ…兄貴…かすれそうな声で抵抗してくるが一向に力を緩める気はない。低く、ドスの利いた声で部下にアドバイスをしてあげた。
「良いか?斉藤。俺はお前を気にいっている。頭も回るし腕っ節だって強い、最近の若い者みたいに口だけって事も無い。俺はな、お前が部下で良かったと思っているんだ。だがな…今俺は酷くお前にムカついている。頼むよ、これ以上俺を苛立たせないでくれ」
爪が皮膚に喰い込み、指先が骨の感触を感じる。もう少し力を込めればポキッと折れてしまいそうだ。まぁ、それでも構わないがな。パッと手を離すと斉藤は咳き込みながら謝ってきた。
「…兄貴、すいませんでした。調子、乗ってました」
「いや、良い。こちらこそ悪かったな」
まるで女子中学生同士が喧嘩したようだ。後味の悪い空気が周りに充満している。この雰囲気を変える為に仕事の話を再開した。
「斉藤、江崎信二のこれからの予定は分かるか?」
「はい、自宅へ仕掛けた盗聴器によると、今日は夕方から近所のファミレスで家族揃っての食事のようです」
「…挨拶にはちょうど良いか。正確な時間は分かるか?」
「はい、夜の7時に待ち合わせだと電話で言っていました。これから出陣ですか?」
「そんな仰々しいもんじゃない、ちょっとした顔合わせだよ。単に挨拶をしてくるだけだからお前は来なくて良い」
挨拶と言いながら頭には美咲の顔が浮かんでいた。用意の為自室へ戻ろうとすると斉藤の声が追いかけてくる。その顔は部下の物では無く、先程の弱々しい顔でもない。男が男に問いかける顔付きだった。
「兄貴…昔自分が初めて仕事を成功させた時に言ってくれましたよね。これでお前も一人前だと。そして頼み事をしてくれました、覚えていますか?」
「歳を取ると忘れっぽくなっていけねぇや、何と言ったかな?」
「【一人前のお前に頼む、もしもこれから先俺が道を誤ったり、踏み外したりした時はお前が止めてくれ】そう言ったんです」
「ああ、そんな事もあったな」
そして斉藤は力強く、自分が言っていた言葉を口にした。覚悟を決めて。
「そして兄貴はこうも言ってくれました。【良いか?所詮俺達は外道に生きるものだ。外道とは読んで字の如く外の道。外の道こそが俺達にとっての正道だ】そんな兄貴がまさか俺達の道を誤ったり、踏み外したりしないですよね?」
斉藤はじっと見つめていた。道を踏み外し掛けている遠藤を。違う意味で道を誤り掛けている遠藤を。
「俺が道を間違えたり踏み外したと思ったのなら、お前のしたい様にすれば良い。言ったろ?お前はもう一人前だ。そんなお前が下した判断や結論なら誰も文句は言わないさ。でもだ…」
一気に、部下へ――否、1人の男へ忠告した。
「覚えておけ、この世界に於いて止めるという事は、力づくという事だ。そして、俺はまだお前に力で負ける気はないぜ」
クスッと笑って斉藤は答える。
「ええ、今の所はね…」
傑作だ。いつまでも部下扱いしていたが、こりゃあ追い越される日もそう遠くないな。生意気な部下に労いの言葉を掛けてあげる。
「全く…子生意気なガキが…」
「兄貴の指導のたまものですよ」
お互いに笑いあって別れる。時計の針は午前11時を過ぎていた。これからもうひと眠りして江崎さんにご挨拶へ行こう。手土産でも持って行こうかな?そんな事を考えつつ自室の布団に潜り込んだ。眠る前に見た時計の針は間もなく午後12時になろうとしていた。昼根をするには早いがまぁ良いだろう。そのまま遠藤は眠りに付いた。時刻、午後11時54分。
午後7時35分。携帯が震える。画面には部長と表示されていた。内容の見当を付けながら電話に出る。
「はい、遠藤でございます」
電話の向こうからは爽やかな部長の声が聞こえてきた。
「おお、調子はどうだ?もうターゲットと会ってきたんだろ?」
「グッドタイミングですね、本当に先程名刺交換をしてきたばかりです。まだ件のファミレスにいます」
「ありゃ、もしかしてお邪魔だったかな?」
「そんな事は無いですよ。先程挨拶は済ませましたし、これから帰ろうとしていた所です」
「そうか、ところで相手はどうだ?面倒くさそうか?」
「…何て事ないですね」
それは本心からの言葉だった。そこら辺の有象無象な中年に比べたらやっかいな相手だが、所詮はそこまでの相手だ。警戒をしておくにこした事は無いが、勝てない相手では無い。むしろ負ける根拠が見つからない。根拠は妻と娘の名を出した時の反応だ。掴みかかる事しか出来なかった、その程度の相手だ。自分なら愛する者と守るべき者の名前を出された瞬間に【おいた】をした口を塞いでいる。
無理やり閉じさせて二度とその名前を呼べないようにしている。脅しに対して脅してくるなんて半人前もいい所だ。俺ならそもそも脅させすらしない。脅されるという事は舐められてるという事だ。そんなふざけた態度はとらせない。断固として、力づくで。
「そうか、お前がそう言ってくれるなら安心出来る。遠藤、良いか?俺はお前を信頼してこの仕事を任せたんだ、この信頼を…裏切るなよ」
何が信頼だ、よく言うよ。あんたが信じているのはあんただけ。信頼という字が信じて頼るという意味ならば、あんたは誰も信頼しちゃいない。あんたがしているのは利用だ。この仕事を通じて田中医院とパイプを作る。その為に俺へ仕事を振っただけだ。別に信じている訳でも頼っている訳でもない。単に手駒の1つとして利用しているだけ。だが、それでも良い。いずれあんたよりも上に行ってあんたを顎で使ってやるよ。その日まで精々殿様気分を味わってろや。もちろんそんな事は言わずに余所行き用の言葉を口にする。
「もちろんですよ、自分が部長を裏切る訳ないじゃないですか。安心して待ってて下さい、きっとご期待に添える結果を出しますから」
おべんちゃらを言いながら電話を切る。さて、こんな所に長居は無用だ。いつまでもだらだらしていたら、また江崎に会ってしまうだろうし、仕事が終わったのにその場でうろうろしていたらろくな事にならない。携帯を胸のポケットに入れて店の出口に向かおうとしたら、四つ角の通路で人とぶつかりそうになった。お互い同じ言葉を発する。
「あっ…ごめんなさい…」
そして、お互いに目を見つめあい、お互いに驚愕し、お互いに相手の名を呼ぶ。
「…遠藤…クン…」
「よぉ…美咲」
ほらな、だから言った通りだ。仕事が終わったのにうろうろしていたらろくな事にならないってよ。午後7時45分、まだまだ夜は長く、どうも今夜は終わりそうにない。
「いらっしゃいませ~」
午後8時3分、能天気なウェイトレスの声が店内に響く。先程までの仕事場であるファミレスから徒歩10分程度の所に2人はいた。喫煙なさいますか?という店員の言葉に禁煙席を選んで2人は座った。1人なら喫煙席に座っているのだろうが、美咲と2人でいる時はいつも喫煙席だった。そして、今日もそう。
「夫は、大丈夫なのかよ?」
「…うん、大丈夫。友達と再会したからちょっとお茶飲んでくるって言ってきた。あれ?そう言えば結婚してる事言ったっけ?」
「薬指を見れば分かるよ。その程度には大人になったんだぜ」
大学時代には出来なかったであろう会話を2人して楽しむ。学生には学生の、大人には大人のお喋りというものがある。そして今日は後者の会話だ。
「ああ、そうか。そりゃ分かるよね」
美咲はそう言いながら――はにかみながら優しく薬指の指輪を撫でた。幸せそうに、愛おしそうに。そして再開した2人は思い出話に花を咲かせる。
「だけど…本当に久しぶりだね。急に大学を辞めたから心配してたんだよ」
「ああ、色々あってな」
「それに音沙汰も無しに連絡不能になるし、あたしやゼミの皆がどんなに心配したと思ってるの?」
「ああ、色々…あってな」
それは一日で語るには膨大すぎる昔話だったし、それは余り話したくない事でもあった。少なくとも、過去、体と心を重ねた女には知られたくない過去だった。だから曖昧な言葉で誤魔化した。
「ほら、昔言ったろ。あの頃親に不幸があってな。のんびりと大学生活を続ける事が出来なくなったんだ。だから自分が働かなきゃいけなくなった。それだけだよ」
それは前半部分は本当だった。しかし後半部分については嘘八百だ。あれを仕事と呼ぶならば、世の中の労働者は皆刑務所行きだ。
「あっ…ゴメン。そうだよね、人には人の事情があるんだから、何も知らないのに一々口を出しちゃいけないって昔護君に言われたもんね」
「よく覚えてるな、でも覚えてくれてありがと。」
「好きだった人に言われた言葉は忘れないもんだよ」
「好きだった…人か…」
それは嫌いと言われるよりも辛い言葉だった。極端な話、嫌われたならその部分を治せば済む。だけど、好きだったと言われたならば、最早どうしようもない。それは過去の話であり、過去は巻き戻せないからだ。後悔先に立たず、人生においても恋愛においても同じ事だ。美咲は今の幸せを語ってくれる。
「うん、今は好きな人がいるし、大好きな娘がいる」
美咲の言葉に冗談めかして茶々を入れる。
「夫より娘の方が大事なのかよ、お父さんが聞いたら寂しがるぞ」
「あら?世の中の夫婦ってのは皆そんなもんなのよ。夫婦よりもまずは子供」
お互いに冗談を言い合い、2杯目のコーヒーが空になった頃、美咲が僅かながら真剣な顔で提案をしてきた。
「ねぇ、良かったらまた時間を作って話さない?色々とお喋りしたいんだ」
「人妻からデートのお誘いか、魅力的なお話だ」
「ゼミの皆も誘っていくからさ、皆で思い出に花を咲かせようよ」
皆か…それは便利な言葉であり、残酷な言葉でもある。でも当たり前だ。最早俺達は恋人同士ではない。精々が元恋人というレベルであり、今は単なる大学の同級生だ。そうしたのは自分なんだからしょうがない。美咲の提案に頷きながら返事をする。
「同窓会みたいだな」
「だね、それならいっその事同窓会で。場所は…いっつも待ち合わせしていたあの喫茶店でどう?」
何だ、美咲は知らないのか?時の経つのは早いもので、昔からあった店が今もあるとは限らない。それは思い出の喫茶店といえど例外ではないのだ。
「…お前、最近あの店に行かなかったのか?あの店はもう潰れて今は眼科医が出来てるぞ」
美咲は行きつけの店が潰れている事に僅かながらショックを感じていた。だけどすぐに立ち直って、それでもそこで集まろうと主張する。
「え~、そうなの?知らなかった。う~、無くなる前にもう一度行きたかったな~。…でもさ、良いよ。思い出の場所だからそこで集まろう。んで、適当な場所に移動しようよ」
自分勝手に計画を決めて、自分勝手に計画を実行しようとする。嫌いではあったが、美咲のそんな部分にも魅かれたのも事実だ。美咲は集まる日を決めてそれを口に出す。もちろんこっちの都合など聞いちゃいない。
「んじゃ2週間後の7月1日午後2時、その田中医院の前へ集合ね。皆に伝えておくから」
それだけ言って美咲は席を立つ。送って行くと言おうとしたが、それは最早自分の役目では無い。黙って視線で美咲を見送った。ドアの外で手を振っている美咲が見える。手を振り返しているとウェイトレスが3杯目のコーヒーを持ってきた。それを飲み干しながらぼそっと独り言をつぶやく。
「ホントの気持ちをホントに言えない男ってのも…結構多いんだぜ」
時刻は午後8時46分。間も無く夜が、闇が――遠藤達の時間が、始まろうとしていた。