グラサンピッチャー ~江崎信二の日常~ 後編
「パパは、ちょっとお手洗いに行ってくる」
テーブルの上にあった食事はあらかた片付き、美咲は食後の紅茶を飲んでいる。まみはデザートのパフェを今か今かと待ち望んでいた。たまには母と娘でのんびり会話をするのも良いだろう。そう思ってトイレに行く事にした。男性用便所で用を足していると真横に人が入ってきた。トイレは空いているのに、変な人だな。そう思っていると、その変な人は独り言を言いだした。だが、その独り言は自分の意識をその男に向けさせるのに十分だった。
「キャンプですか、良いですね。でも気を付けなくちゃ。最近はキャンプでの事故とか多いですもんね。川で溺れ死ぬとか、毎年のようにテレビで流れてますからね~」
こいつは何を言ってるんだ?いきなり横に立って妙な独り言を言っている。否、それは独り言の体裁を成した忠告にも聞こえた。そもそもだ、何故キャンプの事を知っている?周りの席に座っていたならば声が漏れ聞こえる事もあるだろう。
しかし、こんな男は――ブランド物で固めた真っ黒いスーツ。金色に輝きその存在を過大に主張している腕時計。黒々としたオールバックに、猫の目をイメージさせる細目に一重瞼。スーツとは対照的な白い肌は奇麗と言うよりも、不気味という言葉を連想させた。こんな男は周りにいなかった。ならば何故自分達の会話を知っている?結局その疑問は口には出ず、代わりの疑問が口から出た。
「あんた…何者だ?」
用を足し終わった男はチャックを上げて手を洗いだした。そして自分の疑問に疑問で返す。
「良い年した大人が初対面の人をあんた呼ばわりするのはどうかと思いますよ。江崎主任♪」
寒気がする。疑問が巡る。動悸が心を打ち、血液の温度が上がる。何だ、こいつは?先程の会話が漏れ聞こえたのならまだ良かった。しかし先程の会話で主任だと分かるような発言はしていない。家族3人の時に仕事の話はタブー。そう美咲と話し合って決めたからだ。
何故?この男は自分の事を知っている?昔何かの仕事で一緒になったかもしれないが、それなら忘れる筈がない。商売柄会った人の顔と名前は覚えるようにしているし、そもそもこんな男は仕事関係で会ってない。真っ当な仕事じゃない――裏の仕事の匂いがする男だ。こんな男に会う事はまずないし、そもそも会う事すらないだろう。
表と裏は決して向かい合わないからだ。
裏の男は水で手を洗いながらゆっくりと語りかけてきた。
「家族3人で外食も良いでしょう。家族揃ってキャンプも良いでしょう。でも注意してないと思わぬ事故に巻き込まれたり、思わぬケガをするかもしれませんね」
それは忠告であり、脅迫にも聞こえた。だが、脅迫される筋合いなどない。そりゃあ、人様から恨みを全く買ってないとは言えないが、ここまでされる程の事は決してやってない。
そもそもこの男と揉めた記憶がないのだ。今までのトラブルを思い起こしていると、その男は急に話題を変えてきた。
「因果応報ってあるでしょ。酷い事をすると酷い目に合うよって奴です。例えばね、人が書かないでくれと懇願している秘密を、無理やり暴露するようなやり方で書いたとしたら、それ相応の天罰が下ると思うんですよ」
その言葉でやっと理解出来た。こいつが何者か、何故この男はこんな事を言っているのか。全てが判明した。そして答えを口にした。
「あなたが、田中院長の仰っていた銃ですね」
今度はあんたではなく、あなたと言葉遣いを訂正した。
「銃?そんな物騒な物言いは止して下さい。私はただのおせっかいな中年ですよ。ああ、名前をまだ言ってませんでしたね。遠藤護と言います。とにかく私は困っている人を見過ごせないんですよ。田中院長からご相談を受けてこうして余計なおせっかいをしているという訳です。どうぞ、よろしくお願いします」
そう言って差し出された名刺には【ハッピーローン 主任 遠藤護】と書かれていた。会社名からしてサラ金なんだろう。しかし、真っ当な金貸しではない匂いがした。もし自分が金に困ったとしても、ここだけには電話しないだろう。それにしても、同じ主任でも随分差があるな。同じ役職という事にちょっとおかしくなったが、それを話題に笑いあえる2人ではない。今、2人は、敵なのだから。江崎は警戒したまま遠藤に話しかける。
「相談ね…依頼の間違いじゃないのか?いくらの金をぶん取っているんだか」
「とんでもない、私は善意の第三者という奴ですよ」
「その言葉を遣う人は大抵悪意の当事者たり得るんですよね。別に田中院長の事を書かなくても、遠藤さんの事を書いても良いんですよ。そちらの方が面白い記事が出来そうだ。ご存知とは思いますが、私は週刊誌の記者です。こちらこそ、宜しくお願いします。」
遠藤に名刺を差し出す。相手はそれを受け取ると音もなく近付いてきた。すっと、素早く。気が付けば江崎の目の前に遠藤がいた。遠藤は江崎に顔を近づけ、そっと耳打ちをする。それは恋人同士がするような――甘い甘い言葉を愛している相手以外の人に聞かせたくないの分かるでしょう、そんな耳打ちだった。
「奥さんの名前、美咲さんでしたっけ。確か旧姓は折田、折田美咲さんですよね。気を付けないと、世の中には人の妻だろうが関係無しに嬲りあげる人もいますからね」
瞬間、江崎の血液が煮えたぎった。それでも、まだ何とか耐えた、我慢する事が出来た。拳を握り締めたがすんでの所で自分を止めた。しかし、次の言葉は無理だった
「後、5歳の娘に性的衝動を覚える人もいるらしいですよ。ホントこの世の中、注意してないと大変な目に合うかも」
気が付いたら遠藤の胸ぐらを掴んでいた。今人に見たれたら間違いなく店員ひいては警察を呼ばれるだろう。だが、構いやしない。ここまで言われて何も出来ない程利口ではないし腑抜けでもない。
「貴様…!美咲やまみに指一本でも触れてみろ。その時は社会的にではなく、実質的に抹殺してやる…!!」
遠藤は笑っていた。脅されているというのに、クスクスとほほ笑んでいた。小さな子が大きな子に襲いかかる。大きな子は大きい手で小さな子の頭を押さえる。小さな子は手を振りまわすが大きな手が邪魔して、相手まで拳が届かない。それを大きな子はニヤニヤと眺めている。そんな笑い方だった。余裕を持って遠藤は小さな子――江崎に答える
「何だ?そんな眼も出来るんじゃないですか。正直去勢された犬コロだと思っていましたが、実は牙を隠し持っていた狼だったんですね」
狼の目は怯まない、江崎は遠藤をぐいっと自分の胸元に引きよせ、低い声で脅す。
「俺が狼ならあんたは何だ?ハイエナか??」
「言ったでしょ。私はただのおせっかいな中年ですよ。言うならばちょっと事情通な中年です。確か…記事の締切が2週間後だと言っていましたね」
江崎の動きが止まった。ちょっと待て、今日の会話がこいつに聞かれていたのはまだ説明が付く。もしかしたら自分が気付かないだけで、こいつが周りにいたのかもしれないからだ。しかし、会社での会話は別だ。
江崎の会社はそれほど大きくはないが、それでも部外者が簡単に出入りできるような会社でもない。しかもだ、締め切りの話はあの時――人気の無い会議室でしたはずだ。それなのに何故こいつが会話の内容を知っている?何故?何故?何故?胸ぐらを掴んでいる手に最早力はなかった。遠藤はさっと江崎の手を解くと、ぱっぱっと手で胸元を払った。それは埃を振り払うように。そして動揺している江崎に追い打ちを掛けた。
「2週後が楽しみです。もしもの話、スキャンダルを暴いたら…きっとお互いにとって良くない結末が待っていますよ」
江崎は何も言い返せなかった。最早頭の中に遠藤の姿は無く、脳内で渦巻いているのはたった一つの純粋な疑問だった?誰だ?誰がバラした?盗聴器という可能性も視野に入れるべきだが、それは後日専門の会社を読んで対処してもらおう。それよりももっと最悪なケースは内通者がいた場合だ。今、江崎は会社の同僚を1人1人疑っていた。河原崎課長、安藤部長、そして新城。様々な容疑者が浮かぶが、決め手となる根拠が見つからない。思案していると遠藤の言葉が聞こえてきた。
「ああ、言い忘れてましたが、もちろん2週間後も記事にするのは厳禁ですよ。そんな事をされたら私は本気にならなくちゃいけなくなる。イヤなんですよ、本気で仕事するの。のらりくらりが私のモットーですからね」
ああ、そうだ。犯人探しも大切だが、こいつという問題もあった。江崎はビジネスマンモードに切り替えると凛とした表情で答えた。
「了解しました、その件は前向きに善処した上でお客様のご要望に答えるよう誠心誠意頑張りたい所存でございます」
遠藤はくっくっくっと笑っていた。それは悪戯した子供の成果を意地悪な笑みで眺めるように。
「それ、日本人の悪い癖ですよ。頑張らなくて良いし、心を込める必要すらない。極論を言えばサボっても良いし、憎しみながら仕事をしても良いんです。要は結果を出す事。それだけですからね。ちなみにあなたの場合は【書かなければ良い】ほら、サボれば良いんだ。簡単な事でしょ」
「一応聞いておきます、もし【書く】と…?」
新城の顔が浮かんでいた。礼儀は無い、仕事は出来ない、無い無い尽くしの後輩だが、それでも自分にとっては大事な部下だ。その部下を救うためには書かなければならない。だが書けば妻と娘の身に何かが起こる可能性が大だ。さぁ、どうする?難問に悩んでいると、遠藤は江崎の質問に答えてきた。
「書いたら…恐らく、不幸が襲いかかります」
会話はここまでだった。トイレに他の人が入ってきた。さすがに無関係な人を巻き込んで出来る会話ではない。遠藤はドアを開けて店内へ戻ろうとする。ドアを閉める際に一言だけ言い残してきた。それは江崎にとって一番聞きたくない一言だった。
「もちろん、貴方自身ではなく…あなたの周りにね」
先程トイレに入ってきた人には何の事か分からなかったろう。しかし江崎には充分過ぎるほど理解出来た。この男は本気だ。世の中には言葉だけは達者で、実際には何一つ行動出来ない口だけ男というのが生息するが、あの男は本物だ。やるといった以上、必ずやる。そう、何があろうとも。最早溜息どころの騒ぎじゃない。
江崎は洗面所の前でぼそっと呟いた。
遠藤は店内に戻る途中ぼそっと呟いた。
2人揃って同じ言葉を口にしていた。
「「全く…やっかいな相手だ」」
テーブルの上にあった食事はあらかた片付き、美咲は食後の紅茶を飲んでいる。まみはデザートのパフェを今か今かと待ち望んでいた。たまには母と娘でのんびり会話をするのも良いだろう。そう思ってトイレに行く事にした。男性用便所で用を足していると真横に人が入ってきた。トイレは空いているのに、変な人だな。そう思っていると、その変な人は独り言を言いだした。だが、その独り言は自分の意識をその男に向けさせるのに十分だった。
「キャンプですか、良いですね。でも気を付けなくちゃ。最近はキャンプでの事故とか多いですもんね。川で溺れ死ぬとか、毎年のようにテレビで流れてますからね~」
こいつは何を言ってるんだ?いきなり横に立って妙な独り言を言っている。否、それは独り言の体裁を成した忠告にも聞こえた。そもそもだ、何故キャンプの事を知っている?周りの席に座っていたならば声が漏れ聞こえる事もあるだろう。
しかし、こんな男は――ブランド物で固めた真っ黒いスーツ。金色に輝きその存在を過大に主張している腕時計。黒々としたオールバックに、猫の目をイメージさせる細目に一重瞼。スーツとは対照的な白い肌は奇麗と言うよりも、不気味という言葉を連想させた。こんな男は周りにいなかった。ならば何故自分達の会話を知っている?結局その疑問は口には出ず、代わりの疑問が口から出た。
「あんた…何者だ?」
用を足し終わった男はチャックを上げて手を洗いだした。そして自分の疑問に疑問で返す。
「良い年した大人が初対面の人をあんた呼ばわりするのはどうかと思いますよ。江崎主任♪」
寒気がする。疑問が巡る。動悸が心を打ち、血液の温度が上がる。何だ、こいつは?先程の会話が漏れ聞こえたのならまだ良かった。しかし先程の会話で主任だと分かるような発言はしていない。家族3人の時に仕事の話はタブー。そう美咲と話し合って決めたからだ。
何故?この男は自分の事を知っている?昔何かの仕事で一緒になったかもしれないが、それなら忘れる筈がない。商売柄会った人の顔と名前は覚えるようにしているし、そもそもこんな男は仕事関係で会ってない。真っ当な仕事じゃない――裏の仕事の匂いがする男だ。こんな男に会う事はまずないし、そもそも会う事すらないだろう。
表と裏は決して向かい合わないからだ。
裏の男は水で手を洗いながらゆっくりと語りかけてきた。
「家族3人で外食も良いでしょう。家族揃ってキャンプも良いでしょう。でも注意してないと思わぬ事故に巻き込まれたり、思わぬケガをするかもしれませんね」
それは忠告であり、脅迫にも聞こえた。だが、脅迫される筋合いなどない。そりゃあ、人様から恨みを全く買ってないとは言えないが、ここまでされる程の事は決してやってない。
そもそもこの男と揉めた記憶がないのだ。今までのトラブルを思い起こしていると、その男は急に話題を変えてきた。
「因果応報ってあるでしょ。酷い事をすると酷い目に合うよって奴です。例えばね、人が書かないでくれと懇願している秘密を、無理やり暴露するようなやり方で書いたとしたら、それ相応の天罰が下ると思うんですよ」
その言葉でやっと理解出来た。こいつが何者か、何故この男はこんな事を言っているのか。全てが判明した。そして答えを口にした。
「あなたが、田中院長の仰っていた銃ですね」
今度はあんたではなく、あなたと言葉遣いを訂正した。
「銃?そんな物騒な物言いは止して下さい。私はただのおせっかいな中年ですよ。ああ、名前をまだ言ってませんでしたね。遠藤護と言います。とにかく私は困っている人を見過ごせないんですよ。田中院長からご相談を受けてこうして余計なおせっかいをしているという訳です。どうぞ、よろしくお願いします」
そう言って差し出された名刺には【ハッピーローン 主任 遠藤護】と書かれていた。会社名からしてサラ金なんだろう。しかし、真っ当な金貸しではない匂いがした。もし自分が金に困ったとしても、ここだけには電話しないだろう。それにしても、同じ主任でも随分差があるな。同じ役職という事にちょっとおかしくなったが、それを話題に笑いあえる2人ではない。今、2人は、敵なのだから。江崎は警戒したまま遠藤に話しかける。
「相談ね…依頼の間違いじゃないのか?いくらの金をぶん取っているんだか」
「とんでもない、私は善意の第三者という奴ですよ」
「その言葉を遣う人は大抵悪意の当事者たり得るんですよね。別に田中院長の事を書かなくても、遠藤さんの事を書いても良いんですよ。そちらの方が面白い記事が出来そうだ。ご存知とは思いますが、私は週刊誌の記者です。こちらこそ、宜しくお願いします。」
遠藤に名刺を差し出す。相手はそれを受け取ると音もなく近付いてきた。すっと、素早く。気が付けば江崎の目の前に遠藤がいた。遠藤は江崎に顔を近づけ、そっと耳打ちをする。それは恋人同士がするような――甘い甘い言葉を愛している相手以外の人に聞かせたくないの分かるでしょう、そんな耳打ちだった。
「奥さんの名前、美咲さんでしたっけ。確か旧姓は折田、折田美咲さんですよね。気を付けないと、世の中には人の妻だろうが関係無しに嬲りあげる人もいますからね」
瞬間、江崎の血液が煮えたぎった。それでも、まだ何とか耐えた、我慢する事が出来た。拳を握り締めたがすんでの所で自分を止めた。しかし、次の言葉は無理だった
「後、5歳の娘に性的衝動を覚える人もいるらしいですよ。ホントこの世の中、注意してないと大変な目に合うかも」
気が付いたら遠藤の胸ぐらを掴んでいた。今人に見たれたら間違いなく店員ひいては警察を呼ばれるだろう。だが、構いやしない。ここまで言われて何も出来ない程利口ではないし腑抜けでもない。
「貴様…!美咲やまみに指一本でも触れてみろ。その時は社会的にではなく、実質的に抹殺してやる…!!」
遠藤は笑っていた。脅されているというのに、クスクスとほほ笑んでいた。小さな子が大きな子に襲いかかる。大きな子は大きい手で小さな子の頭を押さえる。小さな子は手を振りまわすが大きな手が邪魔して、相手まで拳が届かない。それを大きな子はニヤニヤと眺めている。そんな笑い方だった。余裕を持って遠藤は小さな子――江崎に答える
「何だ?そんな眼も出来るんじゃないですか。正直去勢された犬コロだと思っていましたが、実は牙を隠し持っていた狼だったんですね」
狼の目は怯まない、江崎は遠藤をぐいっと自分の胸元に引きよせ、低い声で脅す。
「俺が狼ならあんたは何だ?ハイエナか??」
「言ったでしょ。私はただのおせっかいな中年ですよ。言うならばちょっと事情通な中年です。確か…記事の締切が2週間後だと言っていましたね」
江崎の動きが止まった。ちょっと待て、今日の会話がこいつに聞かれていたのはまだ説明が付く。もしかしたら自分が気付かないだけで、こいつが周りにいたのかもしれないからだ。しかし、会社での会話は別だ。
江崎の会社はそれほど大きくはないが、それでも部外者が簡単に出入りできるような会社でもない。しかもだ、締め切りの話はあの時――人気の無い会議室でしたはずだ。それなのに何故こいつが会話の内容を知っている?何故?何故?何故?胸ぐらを掴んでいる手に最早力はなかった。遠藤はさっと江崎の手を解くと、ぱっぱっと手で胸元を払った。それは埃を振り払うように。そして動揺している江崎に追い打ちを掛けた。
「2週後が楽しみです。もしもの話、スキャンダルを暴いたら…きっとお互いにとって良くない結末が待っていますよ」
江崎は何も言い返せなかった。最早頭の中に遠藤の姿は無く、脳内で渦巻いているのはたった一つの純粋な疑問だった?誰だ?誰がバラした?盗聴器という可能性も視野に入れるべきだが、それは後日専門の会社を読んで対処してもらおう。それよりももっと最悪なケースは内通者がいた場合だ。今、江崎は会社の同僚を1人1人疑っていた。河原崎課長、安藤部長、そして新城。様々な容疑者が浮かぶが、決め手となる根拠が見つからない。思案していると遠藤の言葉が聞こえてきた。
「ああ、言い忘れてましたが、もちろん2週間後も記事にするのは厳禁ですよ。そんな事をされたら私は本気にならなくちゃいけなくなる。イヤなんですよ、本気で仕事するの。のらりくらりが私のモットーですからね」
ああ、そうだ。犯人探しも大切だが、こいつという問題もあった。江崎はビジネスマンモードに切り替えると凛とした表情で答えた。
「了解しました、その件は前向きに善処した上でお客様のご要望に答えるよう誠心誠意頑張りたい所存でございます」
遠藤はくっくっくっと笑っていた。それは悪戯した子供の成果を意地悪な笑みで眺めるように。
「それ、日本人の悪い癖ですよ。頑張らなくて良いし、心を込める必要すらない。極論を言えばサボっても良いし、憎しみながら仕事をしても良いんです。要は結果を出す事。それだけですからね。ちなみにあなたの場合は【書かなければ良い】ほら、サボれば良いんだ。簡単な事でしょ」
「一応聞いておきます、もし【書く】と…?」
新城の顔が浮かんでいた。礼儀は無い、仕事は出来ない、無い無い尽くしの後輩だが、それでも自分にとっては大事な部下だ。その部下を救うためには書かなければならない。だが書けば妻と娘の身に何かが起こる可能性が大だ。さぁ、どうする?難問に悩んでいると、遠藤は江崎の質問に答えてきた。
「書いたら…恐らく、不幸が襲いかかります」
会話はここまでだった。トイレに他の人が入ってきた。さすがに無関係な人を巻き込んで出来る会話ではない。遠藤はドアを開けて店内へ戻ろうとする。ドアを閉める際に一言だけ言い残してきた。それは江崎にとって一番聞きたくない一言だった。
「もちろん、貴方自身ではなく…あなたの周りにね」
先程トイレに入ってきた人には何の事か分からなかったろう。しかし江崎には充分過ぎるほど理解出来た。この男は本気だ。世の中には言葉だけは達者で、実際には何一つ行動出来ない口だけ男というのが生息するが、あの男は本物だ。やるといった以上、必ずやる。そう、何があろうとも。最早溜息どころの騒ぎじゃない。
江崎は洗面所の前でぼそっと呟いた。
遠藤は店内に戻る途中ぼそっと呟いた。
2人揃って同じ言葉を口にしていた。
「「全く…やっかいな相手だ」」