グラサンピッチャー ~江崎信二の日常~ 前編
譲れないもの
護るべきもの
すべきこと
何が一番大切か?
何を一番にするべきか?
選べるのは1つ。沢山ある中から、たった1つ。
信念 ~江崎信二の日常~
昔は起こされていた。それから暫くして自分で起きるようになった。更に時が経つと起きなければいけないような歳になった。そして今の場所は起こさなければならないという地点だ。
「ほら、まみ。起きなさい。幼稚園に遅れるよ」
寝起きの悪い娘を泣かさないように起こす、一苦労だ。それでも【家事は出来るだけ分担しましょう。あたしはご飯を作るから、その間まみを起こしてお着替えさせておいてね】という約束(契約?)を一方的に結ばれて、今日もまた暴れまわっている娘をパジャマから幼稚園用の服へと着替えさせる。
壁にかかっているアナログ時計は7時半を指しており、台所からは妻の特製フレンチトーストの匂いが漂ってきていた。日時は6月18日。これからどんどん暑くなり、いつも通りの一日が始まる。テレビに熱中している娘の口にトーストと牛乳を流し込みながら、自分の口へも妻の手料理を叩きこむ。朝起きると紅茶の匂いにトーストのこんがり焼けた匂い、そして優しい妻の笑顔。遥か昔――美咲と付き合い始めた当初はそんな未来を夢見たりもしたが、所詮夢は叶わないから夢なんだなと最近思うようになってきた。所詮現実は現実、妻の怒鳴り声と娘の鳴き声が群雄割拠している世知辛くてなんぼの世界だ。
食後のコーヒーもそこそこにまみへ歯磨きをさせる。昔は嫌がっていてが、イチゴ味の歯磨き粉を与えてから進んでするようになった、良い傾向だ。但し磨いているというより、イチゴを味わっているという気がしないでもない。そこら辺の指導は今後の課題としよう。ここまですればバトンタッチだ。幼稚園への送迎バスは3丁目の角にある広場へ止まる。そこまでの送り迎えは美咲の仕事だ。
美咲は、まみの忘れ物はないかチェックしている。まみは忘れ物の常習犯だ。余りに多すぎるので先生が連絡帳に翌日必要な物を書いた所、翌日はその連絡帳自体を忘れてきた。それ以降美咲が連絡帳片手にまみのチェックをするのが日課になっている。その微笑ましい光景(美咲からしたら全然笑えないそうだが)を見ながら、身だしなみを確認して玄関のドアに手を掛ける。
「それじゃあ、行ってくるよ」
いってらっしゃーい。2人の声がハモり送り出される。愛機の自転車にまたがり片道30分の道を漕ぎ出した。昔は電車で通勤してきたが、最近――特に30を超えてから体の衰えを如実に感じ始めた。これではいかんという事で、定期代の節制とジム料金の節約を兼ねて自転車に乗る事になった。出勤する時間が10分程早くなったのはマイナスだが、今日みたいなポカポカした日は金では得られないものを得た気になる。
雲一つない空から暖かい日差しが降り注いでいた。時期は6月、間もなく梅雨を迎えその後に暑いほどの光が照ってくるだろうが、それまではこのぽかぽか陽気を楽しむようにしよう。そんな事を考えていたらスーツの胸ポケットに入れていた携帯が震えた。この震動の仕方はメールだ。信号待ちで横断歩道の前に止まった際に携帯を開いてみる。そこにはこう書かれていた。
【すいませーん、夏風邪引いたんで病院寄ってから行きまーす。昼までには出社しますから~ 新城】
…はぁ、このあほ部下のせいで数え切れないほどの溜息を吐いてきたが、今日は一日の溜息最高数を記録しそうだ。午前7時45分、まずは1。そして午前8時50分、上司の机の前で小言を聞きながら2。(もちろんバレないように)
「江崎主任、君は部下の管理もろくに出来ないのかね?」
河原崎課長。重役には媚びへつらうくせに、部下にはねちねちと嫌味を言う事で有名だ。もちろん自分では何一つせず、全ての仕事と責任は部下に押し付け、成功だけを横取りするというどこの会社にもいるタイプの上司だ。この男が課長まで昇れたのは仕事の有能さではなく、おべんちゃらと調子の良さのみというのが若い社員の間では定説だ。
「そりゃあね、僕だって可愛い部下の言う事を疑いたくはないよ。だけどさ、先々週は鼻炎、先週は腹痛、そして今週は夏風邪で遅刻。さて、来週はどんな病気が発生するのかな?」
何が僕だ、40超えて一人称を僕にするな。聞いていて虫唾が走る。これ以上聞いていたら来週どころか、こっちが病気になりそうだ。病名は【部下があほ過ぎるのと上司がくそ過ぎる病】だ。労災を申請したら降りるのか?総務への手続きを本気で考えていると、聞いてるぅ?と河原崎がぐいっと覗き込んできた。アレな顔を急に近づけないでくれ、心臓に悪い。
「とにかくさー新城クンは君の部下なんだからそこら辺をちゃんとしつけてよ。体調管理も仕事の一貫という事を彼に教えてあげて。じゃないとさ~…」
課長はその続きを言わなかった。別に聞かなくても良い。どうせ自分の査定に響くとかだろう。最悪主任降板って所か、望む所だ。対して給料も上がらないのに、責任とあほな部下を押し付けられたんじゃやってられない。こんな役職こちらから願い下げだよ。
「分かりました、新城にはきちんと指導しときます」
上辺だけの言葉で一応頭を下げ、上司の机から離れる。とりあえず溜まっている記事を片づけないといけない。あほな部下の尻拭いや面倒くさい上司からどのように逃げるかなんてその後に考えよう。
溜まっている記事をあらかた片づけた。時刻は午前11時となっている。もうすぐ昼飯だ。さぁ、もう一頑張りしようと思っている人が殆どの中で、未だに来ていない奴がいるとはどういう事だろうか?ジロッとドアを睨みつけていると、やっとドアが開いて能天気な声が聞こえてきた。
「スイマセン。新城聡、唯今到着しました~」
夏風邪を引いていると言っていた割に随分と顔色が良い。それに声も良く通っている。恐らく職場の皆全員がその嘘に気付いてはいるだろうが、敢えて放っている。怒るのは愛されている証拠、限度を超えれば無視するしかなくなる。そんな言葉を思い出した。新城は自分の方向に寄って来て、
「スイマセン、江崎さん。病院に行っていて遅れました~」
何故か新城はひょこひょこ足を引きずりながら歩いていた。おいおい、風邪という言い訳じゃなかったのかよ。それとも最近の風邪は喉でも鼻でも無く足に来るのか?そんな疑問など知るよしも無く、新城はスイマセンスイマセンと口先だけで連呼している。言葉で謝って遅刻が許されるのなら、俺は今度土下座しながら無断欠勤してやるよ。こういう場合厳しい上司なら領収書を見せろと言うのだろう。部下への情が無い上司ならお大事にねと顔も見ずに言うのだろう。自分は全く別の事を考えていた。それは昔上司から怒鳴られた言葉だった。
【スイマセンじゃねぇんだよ!済みませんなんだよっ!!】その言葉は今でも心に残っていて、自分を戒める格言となっている。新城に言っても良いが、どうせこいつは言葉の意味を理解出来ないだろうから言うのを止めて、
「ほら、遅刻した分記事が溜まってるぞ。手伝ってやるからさっさとやれ」
机の向こうでは河原崎課長が睨んでいた。しょうがない、これが自分の性分なんだから。新城と一緒に溜まっていた記事を片づける。これで今日も昼飯の時間が減りそうだ。はぁ…、午前11時40分、3度目の溜息が口から出た。
午後1時20分、やっと溜まっていた記事が終わった。ちなみに新城は30分ほど前にトイレに行ってきますと言って戻ってきてない。もう良い、あいつは諦めよう。そんな事を決心しながら行きつけの蕎麦屋に行く為にエレベーターへと向かう。一階へと降りて外へと向かおうとすると、後ろから声を掛けられた。
「あの…すいません…」
後ろを振り向くと中々可憐な女性がいた。真新しいスーツに身を包み、ナチュラルメイクでショートカット。新人OLという言葉がよく似合う女性だ。若い女性に声を掛けられるという事実に少なからず気分を盛り上げていると、意外な名前が彼女から聞こえてきた。
「週刊ジャーナルの新城さんって、こちらの会社にお勤めですよね?」
週刊ジャーナルとはもちろん自分が関わっている雑誌の名前だし、新城とは顔を思い出すのも嫌なあほ部下の名前だ。意外そうな顔をしていると、彼女はそれを肯定の態度と思ったらしく、続きを話し出した。
「ここで詳しい話をするのはちょっと…」
彼女にそう言われ、行きつけの喫茶店で昼食を取りつつ話を聞く事になった。さすがにこの時間になるとひともまばらになってくる。まぁ、彼女にはその方が都合良かったんだろう。さすがに周りに人がいる状況で話せる話題じゃない。事情を聴きながらランチメニューを口に運ぶ。彼女はケーキセットを頬張っていた。
「これが昼飯代わりです」
満面の笑みでそう答える彼女は、スーツに身を包んでいてもまだまだ少女らしさを感じさせてどことなくほっとした。
それから暫く経ち話しも終わる。彼女と別れたのが午後2時、そして3度目の溜息を吐いたのが午後2時5分。溜息を吐きながら思わず言葉が口から出た。
「…っのばかが…」
しかし、この溜息は今までの2回とは意味が異なっていた。最初の2回が失望や落胆という意味ならば、この3回目は感心という内容が含まれていたと思う。最近流行りの言葉で言うとこんな感じだ、「バカが…無茶しやがって…」ってな。
会社のロビーからエレベーターに乗り込み、仕事場の階数を押そうとすると、どたばたと走り寄ってくる足音が聞こえた。誰かは見なくても分かる。【閉】のボタンを16連射したい勢いに駆られたが、4度目の溜息と共に【開】のボタンを押す。そしてその本人は息を切らせながらエレベーターに飛び乗ってきた。
「はぁはぁ…間に合った~、あれ?江崎先輩、お疲れ様です」
「風邪気味にしては中々良いダッシュだな。もう病気は治ったのか?」
河原崎部長並の嫌味たらしい笑顔で離し掛ける。新城は慌てふためいた顔で弁解を始めた。嘘付きおばかさんの言葉と、先程の女性との言葉が重なる。
「あっ!え~と…もう治りました。医者の先生もそこまでは酷くないと言っていたんですよ」
(今朝、あの人が助けてくれたんです。電車に乗っていたらスカートの中を携帯で撮られて…)
「元々、そんなに酷い風邪じゃなかったんですよ」
(気付いたんですけど、ドアが開いた瞬間にそいつが逃げ出して追いつけなかったんです)
「ちょっと調子が悪いなって程度だったんです。でも、風邪は引き始めが肝心って言うじゃないですか」
(でもあの人が追い掛けてくれて、捕まえてくれたんです。でもその際に縺れ合いになって倒れ、足を挫いたようで…)
「だから病院に行って点滴を打ってもらってきたんです。もう大丈夫、バリバリ仕事しますよ~」
(お礼をしようと思ったけど、あの人は大丈夫と言って聞かないし…名刺だけ頂いて、こうしてお礼に来た訳です)
さて、どうしたものか…5度目の溜息を吐く。ここで嘘を暴くのは簡単だ。彼女から名刺を預かってきたんで、それを渡して恋のキューピット役を演じる事も出来る。だが、結局は…
「そうか、あまり無理するなよ」
それだけ言ってエレベーターに無言の空間を召喚した。嘘を言うのが礼儀なら、嘘に付き合うのも礼儀だろ。エレベーターが目的の階に着く。降りようとすると新城が思い出したように鞄の中をゴソゴソやり始めた。
「あっ、これ新発売の板チョコです。下のコンビニで売ってました。先輩チョコ好きでしょ?良かったらどうぞ」
ああ、チョコは好きだ。自分も好きだし、今年5歳になるまみも大好きだ。美咲は「もーまた甘い物を与えて~」とお冠になるだろうが、そこは新発売のカクテルでも与えて宥める事にしよう。良い土産が出来た。
「ありがとな」
それだけ言って自分の机へと戻る。ああ、言い忘れた事があった。くるっと振り向いて新城に忠告する。
「こんなので遅刻の件を帳消しに出来ると思うなよ」
新城はえへへ~と笑っていた。全く…本当にあほな部下だ。6度目の溜息を吐こうとした時に女子社員から内線を回された。