遠大な夢想 価値の極点へ
2007/02/02/Fri
404 Blog Not Foundさん「働かなくても生きて行ける煉獄」
『我々は「働かなくても生きていける社会」で生きていけるほど慎ましくなれるのだろうか?残りの99人は「ごくつぶし」であることを従容するのだろうか?そして選ばれた1人は社会を食わせ続けることに飽きずにいられるのだろうか?』
『日本という国にはユートピスト、というか、ほとんどユートピストの猿みたいな人がいっぱいいる。建築家以上に、土木建設業者や政治家に多いでしょう。ユートピスト猿のはびこっている社会、時代だともいえます。』
巌谷國士「シュルレアリスムとは何か」
『‥多くのユートピアンが現実に対して抗議する社会的弱者であり、自己の弱さの保証を空想世界に求めていたということは、ほとんど疑いの余地がない。逆ユートピアの悲惨がそのまま彼らの裏返された権力意志、隠された怨恨の結果でもあろう。プラトンは弱年のころ詩作に耽っていて、自作の詩をディオニュソスの競演に持って行く道すがら、ソクラテスに会い、これを焼き捨てたと伝えられるが、その伝説の真偽はともかく、後年の「理想国」における詩人の地位とを考え合わせて、そこにアドラー的なコンプレックス、偽装された復讐感情を読みとることは容易である。すなわち、プラトンは「国家篇」を書いたとき、弱年の自己があらわす人間のタイプを追放に処し、現在の自己があらわす人間のタイプに全能を与えたのであった。』
澁澤龍彦「ユートピアの恐怖と幻想」
「ユートピアのひとつの特徴として、人間のための技術が、技術のための人間に変わる、というのがあるんですよね。制度の機構と人間道徳によって人は支配できるって素朴な信仰があって、これはローマ皇帝ユリアヌスやナポレオン、ヒトラーの例を思えばわかりやすいかな。ユートピアというのは結局抽象的な価値概念の体系であって、現実的なヴィジョンというのは大概無視されるのです。そしてそんなユートピア的夢想に権力政治家がとりつかれると、前述の人々のように政治と美学が渾然としちゃって、修辞学と詭弁の極点までいっちゃうのです。」
「途方もなく遠大で耽美的な想像力があるのよね。彼らは現実には生きていなかったといいうるかしら。」
「その計画性の巨大さのために挫折することになったのかはともかくね‥。とりあえずある種のイデオロギー‥資本主義だね‥による全体的統一が昨今幅をきかせてるような気はします。効率と増殖を掲げた労働の過剰な賛美っていうのかな。‥なかなか難しいけど。」
「労働という概念、か。そーいうのって資本的効果に反するものは断罪する傾向があるから厄介よね。」
「利他的であることは合理性とはぜんぜんちがうからね‥。たとえば私たちはみずからを犠牲にしても他人を助けたいって思うことがあります。でもそれって利己主義からでは決してわからないことで、そんな無駄なことなんでするの?ってな感じなんだよね。情けは人のためならずっていうけど、現実では人のために尽くす人が報われるとは限らない。それでそんな世界いやだなってことで、宗教や道徳が発達するのです。いつか報われるんだよ、ってね。」
「人間の悲劇よねー‥。こればかりはどうしても説明がつかない。」
「人間性の崇高な矛盾、かな。倫理的な愛情って打算性からはぜったいに理解できないもので、でも私はすごく大切なものだって信じてる。それは世界に神秘な力があることを思うこと。この体験はたぶん、何よりも貴い価値じゃないかな。」
「有限と無限を統一したところに人間性がある、か。それもまた遠大な夢想ね‥」
『余は君たちに隣人愛を勧めるだろうか。むしろ、余は隣人逃避と遠人愛を勧める。隣人愛よりは、もっとも遠い未来の者への愛の方が高い。余は人間への愛よりも、事物と幻影への愛を高きに置く。』
ニーチェ「ツァラトゥストラ」
『我々は「働かなくても生きていける社会」で生きていけるほど慎ましくなれるのだろうか?残りの99人は「ごくつぶし」であることを従容するのだろうか?そして選ばれた1人は社会を食わせ続けることに飽きずにいられるのだろうか?』
『日本という国にはユートピスト、というか、ほとんどユートピストの猿みたいな人がいっぱいいる。建築家以上に、土木建設業者や政治家に多いでしょう。ユートピスト猿のはびこっている社会、時代だともいえます。』
巌谷國士「シュルレアリスムとは何か」
『‥多くのユートピアンが現実に対して抗議する社会的弱者であり、自己の弱さの保証を空想世界に求めていたということは、ほとんど疑いの余地がない。逆ユートピアの悲惨がそのまま彼らの裏返された権力意志、隠された怨恨の結果でもあろう。プラトンは弱年のころ詩作に耽っていて、自作の詩をディオニュソスの競演に持って行く道すがら、ソクラテスに会い、これを焼き捨てたと伝えられるが、その伝説の真偽はともかく、後年の「理想国」における詩人の地位とを考え合わせて、そこにアドラー的なコンプレックス、偽装された復讐感情を読みとることは容易である。すなわち、プラトンは「国家篇」を書いたとき、弱年の自己があらわす人間のタイプを追放に処し、現在の自己があらわす人間のタイプに全能を与えたのであった。』
澁澤龍彦「ユートピアの恐怖と幻想」
「ユートピアのひとつの特徴として、人間のための技術が、技術のための人間に変わる、というのがあるんですよね。制度の機構と人間道徳によって人は支配できるって素朴な信仰があって、これはローマ皇帝ユリアヌスやナポレオン、ヒトラーの例を思えばわかりやすいかな。ユートピアというのは結局抽象的な価値概念の体系であって、現実的なヴィジョンというのは大概無視されるのです。そしてそんなユートピア的夢想に権力政治家がとりつかれると、前述の人々のように政治と美学が渾然としちゃって、修辞学と詭弁の極点までいっちゃうのです。」
「途方もなく遠大で耽美的な想像力があるのよね。彼らは現実には生きていなかったといいうるかしら。」
「その計画性の巨大さのために挫折することになったのかはともかくね‥。とりあえずある種のイデオロギー‥資本主義だね‥による全体的統一が昨今幅をきかせてるような気はします。効率と増殖を掲げた労働の過剰な賛美っていうのかな。‥なかなか難しいけど。」
「労働という概念、か。そーいうのって資本的効果に反するものは断罪する傾向があるから厄介よね。」
「利他的であることは合理性とはぜんぜんちがうからね‥。たとえば私たちはみずからを犠牲にしても他人を助けたいって思うことがあります。でもそれって利己主義からでは決してわからないことで、そんな無駄なことなんでするの?ってな感じなんだよね。情けは人のためならずっていうけど、現実では人のために尽くす人が報われるとは限らない。それでそんな世界いやだなってことで、宗教や道徳が発達するのです。いつか報われるんだよ、ってね。」
「人間の悲劇よねー‥。こればかりはどうしても説明がつかない。」
「人間性の崇高な矛盾、かな。倫理的な愛情って打算性からはぜったいに理解できないもので、でも私はすごく大切なものだって信じてる。それは世界に神秘な力があることを思うこと。この体験はたぶん、何よりも貴い価値じゃないかな。」
「有限と無限を統一したところに人間性がある、か。それもまた遠大な夢想ね‥」
『余は君たちに隣人愛を勧めるだろうか。むしろ、余は隣人逃避と遠人愛を勧める。隣人愛よりは、もっとも遠い未来の者への愛の方が高い。余は人間への愛よりも、事物と幻影への愛を高きに置く。』
ニーチェ「ツァラトゥストラ」