日本史の時代名と時代区分(再論)
日本史の時代名と時代区分(再論)
歴史科学協議会編の『歴史学が挑んだ課題』(大月書店)に「前近代日本の国家と天皇」という論文を書いて以降、日本史の時代名、つまり「古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」という時代名がおかしいという感じがきえない。
これらの言葉を見るたびに違和感である。だいたい、時代名の付け方が、時代名を作ってきた成り行きまかせで恣意的すぎる。下手に専門知識のある人は、そんなことにこだわってもしょうがない。もっと細かいこと、高級なことに興味があるのだなどという気分の人もいるだろう。所詮、時代名などというのは符丁であって議論してもしょうがないなどというのっては、話はすべて無駄。
これらのうち、おそらく学術的にいって問題がないのは、古墳時代くらいではないだろうか。そこで、容易に賛同をえられないであろうことは分かっているが、それらとはまったく異なったコンセプトで、「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」という用語を、右の論文で提案した。
提案した時代名の性格は、大きく二つに分かれる。つまり前の方から言えば、「古墳時代、大和時代、山城時代」は西国国家の時代である。この時代、日本には国家は九州から近畿地方、つまり西国を中心とする国家が一つしかなかった。あず古墳時代からいけば、私は、古墳=壺型墳説にたっているので、王の魂は壺口から天に飛翔すると考えている。それにからまる神話を「前方後円墳」は表現しているのだ。前方後円墳は東北中部まで分布しているが、これは当時、神話が各地で共有されていたことを示している。この時代の国家なので、「古墳時代」でよいと思う。
しかし、その後の「大和時代、山城時代」の二つは、西国国家の中心地域で表現するのがよい。西国国家の王都がある場所を時代名としたい。これは大王・天皇中心の国家である。王家が日本の文明化を大きく進めたことは疑いがない。そして、この時代は地方にとっては総体的に自由でいい時代であったと思う。
山城時代(あるいは山城京時代)というのは評判が悪いが、しかし、こうすれば、長岡京以降をすべて同じ時代にできる。これはいつ奈良時代が終わるのかということがわかりにくいが、これは分かりやすい。また私は、石井進説をとって、院政時代は承久の乱(正確には後鳥羽クーデター)まで続いていると思う。たしかに、源平合戦の中で東国国家が成立するが、それが名実ともに明瞭となるのは、北条氏が後鳥羽クーデターを粉砕した後だ。その前は清盛も頼朝も性格としては変わりない。二人を基本的に区別しない。どちらも相当な「ワル」であって同じ穴のムジナというのは、研究を始めたとき以来の信念である。
それ以降は武家国家の時代になる。これは覇権を握った武家の氏族名、つまり北条・足利・織豊で行くのがよい。もちろん、だからといって王権がすべて覇王家に移るわけではない。旧王家は長く残った。これは結局、長い西国国家の伝統に左右された事態だと思う。ともかく「鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」というのは基本的には地名主義だが、その基準は不明で恣意的すぎる。
一つ一つ「結鎮」(けち)をつけると、まず「飛鳥時代、奈良時代」というのは、きわめて困る、理解しにくい時代名で研究者ごとに定義は違うだろう。これは欽明大王の時期に王家の血統の世襲性が明瞭になり、大和に拠点を移し、前方後円墳を作らなくなった六世紀半ばから後半以降を「大和時代」として、神話時代をおえた文明化の時代として一括するのがわかりやすい。
次に平安時代というのはまったく無意味な言葉で、たしかに桓武が愛宕に遷都とした時の歌にあるが、これは桓武の夢におわり、すぐに激しい政争が展開し、地震と怨霊の時代にはいったことを無視する言葉だ。こういう言葉を使い続けるのは余計な言葉と偏った印象を子供にあたえる。歴史家はよく考えれば、誰でもそう考えるに違いないが、慣れというものは恐ろしい。馬鹿な言葉を歴史意識から追放するのは歴史家の役割である。
鎌倉時代とか室町時代、あるいは江戸時代というのも地域からみれば、実に偏見に満ちた言葉だ。地名で時代を区切るのが、この時代に必要とはとても思えない。鎌倉と江戸を強調するのは、ようするに徳川将軍家から、明治国家が受け継いだ歴史イデオロギーである。これに封建制は東国からという明治の学者の考え方が化学反応してできた言葉で、現在では、これは野蛮な東京史観以外のなにものでもない。そして室町時代というのは、一種の京都史観であろうと思う。東京都と京都で時代名を2対1でわけて手打ちしましょうというようなことだ。
井上章一氏から、こういう時代名は大阪無視ですよといわれた。これは正論だと思う。最近の大阪の政治はあまりに文化を無視しているが、これを取り戻すには、歴史観から変えていく必要があるのかもしれない。徳川・明治時代は大阪はもっとも文化の高い都市であった。
さて、問題は、もちろん、こういう大ざっぱなことではなく、時代のより具体的なイメージをどう捉えるかということであり、それは、これらの時代の中での小区分をどうするかという問題に関わってくる。しかし、これについては、上記の論文を参照願いたいと思う。『歴史学が挑んだ課題』は専門的な歴史書にはめずらしく急速に売れているようで、三刷りになったという連絡が出版社からあった。私のものだけでなく、渡辺治氏の論文など、有益なものが多いので、ぜひ、お求めください。
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