PROF.保立・自己評価書と論文リスト(2005年まで)
教授業績自己評価書
二〇〇五年九月 東京大学史料編纂所 教授 保立道久
一経歴
生年
一九四八年一一月
学歴・職歴
一九七三年三月 国際キリスト教大学教養学部卒業
一九七三年四月 東京都立大学人文科学研究科修士課程入学
一九七五年三月 東京都立大学人文科学研究科修士課程修了
一九七五年四月 史料編纂所教務職員採用、古文書部配属、現在にいたる。
一九七六年四月 史料編纂所助手昇任
一九八七年四月 史料編纂所助教授昇任
一九九五年四月 史料編纂所教授昇任
二〇〇五年四月 史料編纂所長
二研究業績一覧
二-一教授昇任後の主要業績
〔著書〕
①『平安王朝』(岩波書店、新書、一九九六年一一月)
②『物語の中世』(東京大学出版会、一九九八年一一月)
③『中世の女の一生』(洋泉社、一九九九年一〇月)
④『平安時代』(岩波書店、ジュニア新書、一九九九年一一月)
⑤『黄金国家ー東アジアと平安日本』青木書店、二〇〇四年一月
⑥『歴史学をみつめ直すーー封建制概念の放棄』校倉書房、二〇〇四年六月。
⑦『義経の登場』日本放送出版協会、二〇〇四年一二月
〔論文〕
①「絵巻に描かれた文書」(『絵巻に中世を読む』吉川弘文館、一九九五年一二月)
②「アーカイヴスの課題と中世史料論の状況」(『特定研究、記録史料の情報資源化と史料管理学の体系化に関する研究、研究レポート№一』国文学研究史料館、史料館、一九九七年三月)
③「平安時代の国際意識」(村井章介ほか編『境界の日本史』山川出版社、一九九七年一一月)
④「中世の年貢と庭物・装束米・竈米」(東寺文書研究会編『東寺文書にみる中世社会』東京堂出版、一九九九年五月)
⑤「米稲年貢の収納と稲堆・斤定」(鎌倉遺文研究会編『鎌倉時代の社会と文化』東京堂出版、一九九九年五月)
⑥「神戸と方丈記の時代」(歴史資料ネットワーク編『歴史の中の神戸と平家』、神戸新聞社、一九九九年一二月)
⑦「現代歴史学と『国民文化』ー社会史・「平安文化」・東アジア」(『歴史学研究』七四二号、二〇〇〇年一〇月」
⑧「女性職能民と繊維生産」(中世都市研究会編『都市と職能民』、新人物往来社、二〇〇一年九月
⑨「都市の葬送と生業」(『中世都市鎌倉と死の世界』、高志書院、二〇〇二年九月)
⑩「稲垣泰彦氏の土地所有論と戦後中世史学」(『人民の歴史学』一五二号、二〇〇二年六月)
⑪「 戦後歴史学と『君が代』――網野善彦氏の最近の発言にふれて」(『宮城歴史科学研究』五二号、二〇〇二年九月
⑫「歴史経済学の方法と自然ーマルクスの前近代社会論を労働論から復元する(上下)(『経済』九〇、九一号、二〇〇三年、三月・四月)。
⑬「『社会構成論と東アジア』再考 -- 石母田ー網野学説の現在から」(『歴史学研究』七八〇号、二〇〇三年一〇月)、
⑭「情報と記憶」(『アーカイヴズの科学』上、国文学研究資料館資料館編、二〇〇三年一〇月)
⑮「院政期の国際関係と東アジア仏教史」(前掲『歴史学を見つめ直す』所収、書き下ろし)
⑯「和歌史料と水田稲作社会」(前掲『歴史学を見つめ直す』所収、書き下ろし)
⑰「平安時代の農村風景と『君が代』和歌群」(『中世文学』四九号、二〇〇四年六月)
⑱「都市王権と貴族範疇」(『日本史の方法』創刊号、奈良女子大学「日本史の方法」研究会、二〇〇五年三月)
⑲「山立と狩人ーー西行の山立の歌について」(『南山経済研究』一九巻三号、二〇〇五年三月)
⑳「創建期の大徳寺と王権ーー開堂前後の時期に視点をおいて」(『禅宗寺院文書の古文書学的研究』、二〇〇二年度~二〇〇四年度科学研究費補助金(基盤研究(A)(二)研究成果報告書、研究代表者保立道久、二〇〇五年三月)
(二一)「大徳寺文書の重書箱の調査と若干の考察」(同上)
(二二)「古文書料紙の物理分析ー技法と試論」(同上)
(二三)「時代区分論の現在ーー世界史上の中世と諸社会構成」(『史海』五二号、東京学芸大学史学会、二〇〇五年六月)
〔外国での授業・講演など〕
①「平安時代史研究の課題」(Concluding Discussion of Synposium "Centers and Peripheries in Heian Japan"、Barker Center、 Harvard University )二〇〇二年六月
②「日本史入門」(モスクワ大学授業、二〇〇三年九月、国際交流基金)
二-二教授昇任以前の主要業績
〔著書〕
『中世の愛と従属ーー絵巻の中の肉体』(平凡社、一九八六年)
〔論文〕
「庄園制支配と都市・農村関係」(『歴史学研究』、七八年大会別冊。一九七八年一一月)/「律令制支配と都鄙交通」(『歴史学研究』四六八号、一九七九年五月)/「中世前期の漁業と庄園制」(『歴史評論』三七六号、一九八一年八月)/「海からみた川・山からみた川」(『月刊百科』平凡社、一九八四年五月)/「中世民衆経済の展開」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本歴史三中世Ⅰ』、東京大学出版会、一九八四年一二月)/「宿と市町の景観」(『自然と文化』一三号、日本ナショナルトラスト、一九八六年六月)/「旅する商人と護衛の下人」(『歴史と地理』三八五号、一九八七年九月)/「酒と徳政」(『月刊百科』三〇〇号、平凡社、一九八七年一〇月)/「中世における山野河海の領有と支配」(『日本の社会史二境界領域と交通』、岩波書店、一九八七年一一月)/「古代末期の東国と留住貴族」(中世東国史研究会編『中世東国史の研究』、東京大学出版会、一九八八年二月)/「町場の墓所の宗教と文化」(石井進・網野善彦編『中世の都市と墳墓』、日本エディタースクール出版部、一九八八年八月)/「呪詛の立願・訴訟の立願」(『週刊朝日百科、日本の歴史別冊、歴史の読み方一〇、史実と架空の世界』朝日新聞社、一九八九年一一月)/「町の中世的展開と支配」(『日本都市史入門 Ⅱ町』、東京大学出版会、一九九〇年二月)/「日蓮聖教紙背文書、二通」(『中世をひろげる』吉川弘文館、一九九一年一一月)/「日本中世社会史研究の方法と展望」『歴史評論』五〇〇号、一九九一年一二月)/「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」(『国立歴史民俗博物館研究紀要』三九集、一九九二年三月)/「中世初期の国家と庄園制」(『日本史研究』三六七号、一九九三年三月)/「日本中世の身分と王権」(『講座前近代の天皇』三、青木書店。一九九三年六月)/「切物と切銭」(『三浦古文化』五三号、一九九三年一二月)
三編纂・研究事業実績一覧。
三-一史料編纂(教授昇任以前の業績もふくむ)
〔『大徳寺文書』の編纂〕
『大日本古文書 大徳寺文書十一』 一九七七年三月
『大日本古文書 大徳寺文書十二』 一九八〇年三月
『大日本古文書 大徳寺文書十三』 一九八二年三月
『大日本古文書 大徳寺文書十四』 一九八五年三月
『大日本古文書 大徳寺文書別集 真珠庵文書一』 一九八九年三月
『大日本古文書 大徳寺文書別集 真珠庵文書二』 一九九二年三月
『大日本古文書 大徳寺文書別集 真珠庵文書三』 一九九四年三月
『大日本古文書 大徳寺文書別集 真珠庵文書四』 一九九八年三月
『大日本古文書 大徳寺文書別集 真珠庵文書五』 二〇〇二年三月
『大日本古文書 大徳寺文書別集 真珠庵文書六』 二〇〇五年三月
〔編纂共同研究〕
この間、大徳寺、真珠庵、徳禪寺、東寺、東大寺、醍醐寺、東福寺など、古文書部による史料調査に継続的に参加している。また科学研究費補助金による研究所内外の共同研究「禅宗寺院文書の古文書学的研究」(基盤研究(A)(二)、二〇〇二年~二〇〇四年)の研究代表者として大徳寺文書・鹿王院文書などの共同的研究を組織した。
三-二歴史情報学の研究とデータベース作成事業
〔『大日本古文書』のデータベース化〕
『大日本古文書』大徳寺文書、同別集真珠庵文書のフルテキストデータベース化を行った。
〔科学研究費によるデータベースの作成〕
①「古文書聖教データベース」科学研究費(研究成果公開促進費・データベース)研究代表者(一九九三年度~一九九七年度、一九九六年度より「古文書目録データベース」と改称)。
史料編纂所の影写本の目録データベースである。
②「日本中世古文書フルテキストデータベースの構築方法に関する研究」研究代表者(一九九四年度~一九九七年度科学研究費補助金基盤研究(A)(二))
この科学研究費によってフルテキストシステムを構築し、同時に『平安遺文』のデータベース化・CDーROM化を行った。
③「日本中世古文書フルテキストデータベース」(科学研究費、研究成果公開促進費・データベース)研究代表者(一九九七年度)
この科学研究費によって『大日本古文書』のフルテキストデータベース化のための研究成果公開促進費である。
④「前近代日本史の構造と情報資源化の研究」(中核的研究拠点形成プログラム・特別推進研究(COE)、研究代表者、石上英一)、研究分担者(双方向グループ責任者、二〇〇〇年度~二〇〇四年度)
この科学研究費の事業として『鎌倉遺文』『中世法制史料集』のフルテキストデータベースの構築が行われた。
三-三教育
東京大学大学院人文社会系研究科、特殊研究(一九九五年より現在に至る)
神戸大学講師(集中講義、一九九五年)
新潟大学講師(集中講義、一九九五年)
成蹊大学講師(一九九五年)
京都大学講師(集中講義、一九九七年)
三-四研究所および大学・学会の運営参加(主要なものにとどめた)
史料編纂所情報処理主幹 一九九九年度~二〇〇〇年度
東京大学情報政策専門委員会委員 一九九九年度~二〇〇一年度
史料編纂所図書部長 二〇〇一年度~二〇〇二年度
東京大学図書行政商議会委員 二〇〇一年度~二〇〇二年度
東京大学総合図書館運営委員会委員 二〇〇一年度~二〇〇二年度
東京大学付属図書館サービス特別委員会委員
二〇〇一年度~二〇〇二年度
史料編纂所予算委員会委員長 二〇〇三年度
史料編纂所歴史情報処理委員会委員長 二〇〇三年度
東京大学人文社会系研究科委員会委員 二〇〇三年度~二〇〇四年度
史料編纂所研究企画委員会委員 二〇〇四年度
史料編纂所長 二〇〇五年度~
日本学士院国際学士院連合関係事業特別委員会委員
二〇〇五年度~
四自己評価
四-一 編纂とデータベース構築の共同研究
これまで編纂してきた『大日本古文書、家わけ第十七 大徳寺文書』は総計一〇冊にのぼる。一九七三年に史料編纂所に入所後、そのころほぼ確立した三年に一冊というペースにしたがって、これまで約三〇年の間、編纂に従事してきたことになる。
『大徳寺文書』本編の編纂の時期、約一〇年の間、私は、諸先輩の懇切な指導の下に編纂してきた。とくに当時の古文書部長稲垣泰彦氏からは、専門として研究する対象の時代を全面的に室町時代に移すようにアドヴァイスされた。それにしたがわなかったのは、一面で、専門の時代を変更する余裕がなかったということではあるが、実際には、本格的な研究者養成課程に属した経験をもたず、自己の研究の方法と方向を確立していなかったためであった。専攻の時代を変えるといってもどうするべきかも皆目わからなかったというのが正直なところである。
その上、編纂対象史料から直接に学んだ問題はできる限り史料集の利用者の利用にゆだね、編纂者はその利用に抑制的であることが望ましいという原則に対する私の理解にも大きな問題があった。この時期の古文書部の諸先輩は編纂事業の仕事と自己の個人研究を区別しても、悠然と編纂・研究に従事することができる顕著な蓄積と能力があった。それだけに、私にとって、上記のような編纂者の倫理原則と編纂者としての不熟という条件は大きなプレッシャーであった。私は、それを寺院史の研究に踏み込み、大徳寺文書の史料群としての性格について着実に知識を蓄積して行くという形で解決することができなかった。私もそれなりに精励した積もりであるが、『大徳寺文書十三』におさめた墨跡・規式・遺戒などを中心とする本坊別置の宗教文書の編纂を諸般の事情から二年で処理しなければならなかったこと、徳禪寺の襖内文書の発見にともなう処理や真珠庵文書への編纂対象の変更に忙殺されたこと、『大徳寺文書十四』の総編年目録において旧文書名の錯誤を指摘する仕事がかかってきたことなどの仕事をこなすことのみで編纂に精励していると考えてしまった。今から考えると、実際には、そのような自己認識は、解読しがたい文字・文書の処理を諸先輩の力をかりてともかくも乗り切ることができたという条件があったからこそであり、事実にそくしたものではなかった。
他方、『真珠庵文書』の編纂に取りかかってから以降は、古文書目録データベース・古文書フルテキストデータベースの構築という別種の共同研究作業にとりくむことになった。これらのデータベースの仕事は古文書部による『大日本古文書』各冊全体の編纂・共同研究用のデータベースとして取り組まれたものであり、編纂・研究のためには有用なものであることは実証されていると思う。私の担当分については、その精度については容赦を願うという観点で取り組んだといわざるをえないが、さいわい大徳寺執行部の御理解をいただき、『大徳寺文書』はフルテキストと影写本画像の双方について、早くより史料編纂所のWeb-siteからオープンをすることが可能となった。しかし、編纂とデータベースの精度を高めるためには、よりじっくりとした編纂と研究が必要なことは明かである。これについては責任を残していることを承知している。
このような問題を強く感じざるをえなかったのは、二〇〇二年度より、『大徳寺文書』の重要文化財指定事業に協力するために、研究代表者として科学研究費「禅宗寺院文書の研究」を申請することとなり、大徳寺文書の原本による再調査を行う中でのことであった(なお『大徳寺文書』の重要文化財指定は、二〇〇五年度に無事指定が終了した)。この中で、大徳寺執行部の御理解と好意に御答えするためにも、遅すぎたとはいえ、大徳寺文書と寺史の研究に取り組むことを決めた。そして、二〇〇五年三月発刊の科学研究費報告書に「創建期の大徳寺と王権」「大徳寺文書の重書箱の調査と若干の考察」「古文書料紙の物理分析ー技法と試論」などをまとめることができた。また『大徳寺文書』の本編についての一定数の正誤データもまとめることができた。
以上の反省をふまえて、今後、在職中は、まだ残っている『徳禪寺文書』の目録化、公開、編纂をはじめ、大徳寺文書の編纂と研究に関わる宿題をできる限り処理することにつとめたいと考えている。また、二〇〇五年度より、所長として前近代日本史情報国際センターの二〇〇六年度概算要求にとりくみ、さいわい東京大学および文部科学省・同科学技術学術審議会の御理解をいただいた。データベースの構築と精密化については、このセンター事業を通じても責任をとりたいと考えている。
四-二 個人研究
次ぎに私の個人研究の課題と現在の中間的総括を述べたい。
私は大学・大学院時代、平安時代初期の勉強から歴史学に取り組んだ。幸運にも史料編纂所に就職することができ、古文書部に配属された後に、徐々に院政期から鎌倉時代の史料を読むことが多くなったが、それでも平安時代初期、さらに奈良時代の研究には強い興味をいだきつづけた。私は前述のように編纂と研究の矛盾をかかえながら、自己の研究を室町期以降に移すことがなかった。これは現在から考えると、無能の表現であり、また先輩・同僚に対して自分勝手であったともいわざるをえないが、しかし、他方で、平安時代初期の研究は長く私にとって捨て去ることのできない研究分野でありつづけた。私の研究は以下に述べるように、①歴史理論、②社会構成論と経済史、③社会史、④王権論と政治史、⑤対外関係論の五分野にわかれているが、このどれも、最初の発想やイメージは平安時代初期・前期に置かれているのが実際である。
私の研究活動の第一の課題は前近代社会の歴史理論の研究である。これについてのこれまでの研究の基本部分は、二〇〇四年に発刊した著書『歴史学をみつめ直すーー封建制概念の放棄』に収録した。この興味は大学時代における大塚久雄氏、そして大学院時代における戸田芳実氏、太田秀通氏などの直接的な影響によるものである。史料編纂所のような研究所において、この種の、成果の予測できない研究を続けることができたのは、同室の先輩・同僚の暖かい理解によるものであった。とくに一九九八年秋より一〇ヶ月間、ベルギーのルーヴァン大学に留学することができ、その研究時間の相当部分を理論研究と理論論文の草稿執筆に使用することができた。受け入れていただいた同大学教授W・ヴァンデワーレ氏、さらに御理解いただいた史料編纂所の同室の同僚諸氏には深く感謝している。その留学期の草稿をもとに、二〇〇二年年末に論文「歴史経済学の方法と自然」をともかくも執筆・完成することができた。
この論文は自己の研究履歴の関係では大塚氏の『共同体の基礎理論』に対する批判の基礎を作ることを目的とするものであった。いうまでもなく、この大塚の著作は、いわゆる戦後歴史学における最大の理論業績とされている。そして、戦後歴史学に対する批判なるものは、多くの場合は歴史学の没理論化の表現でしかないというのが実際であって、部分的な批判はあるものの、いまだに対案構想の前提となる本格的批判は行われていない。もちろん、拙論で議論しえたのも一部にとどまるが、しかし、前近代における具体的有用労働と抽象的人間労働の二重性と自然の有用性・無用性(無縁性)という照応する概念を整序することによって、大塚理論の最大の弱点(労働論の欠落)を指摘しえたと考えている。ただし、労働の二重性の発展形態としての精神労働と肉体労働の対立を中軸とする社会的分業論の解明は依然として残されており、これが大塚理論の実際的な中核である以上、まとまった研究時間をえることができれば、この課題に取り組みたいと考えている。
前記著書『歴史学をみつめ直すーー封建制概念の放棄』は、この歴史経済学に関する論文を前提としてまとめることができたものである。その中心的論点は封建制概念の放棄という提言であるが、これはそれ自身としてはマルクスやウェーバーの従来の理解を文献学的に再検討した結果にすぎない。しかし、一応は、上記のような歴史経済学の刷新への取り組みを前提にしていると理解いただければ幸いである。なお、本書は以下に述べる諸研究の中で蓄積してきた方法論的考察や、それと密接に結びついたいわゆる「戦後歴史学」に関する研究史的考察をも含んでいる(ただし右の「歴史経済学の方法と自然」は社会的分業に関する続論を必要としているので、本書には収めていない)。
第二の研究課題は、いわゆる社会構成論と経済史の具体的解明に関わる研究分野である。この研究分野は戸田芳実氏の直接的影響の下に最初の論文として執筆した「荘園制支配と都市・農村関係」「律令制支配と都鄙交通」を起点として追求してきたものである。その時点から、問題の中心は①領主論を基礎とする社会構成論、②交通と社会的分業に関する研究という二つの側面をもっていた。
前者は「荘園制支配と都市・農村関係」「律令制支配と都鄙交通」において提示した都市貴族範疇を中軸として、「古代末期の東国と留住貴族」「中世初期の国家と庄園制」「町の中世的展開と支配」などの論文で、個々の論点を追究してきた問題である。そして、これについては、最近、「都市王権と貴族範疇ーー平安時代の国家と領主諸権力」において、一応の全体像を提示した。それは石母田・黒田俊雄・河音能平・戸田芳実らの議論に依拠して、都市貴族的土地所有(いわゆる荘園制的土地所有)を集団的・国家的土地所有の形態としてとらえ返し、九・一〇世紀の過程に都市貴族(京都権門貴族)と地方貴族(地方留住貴族)の範疇的成立を想定した試論である。それは研究史的には、網野善彦のいう王権の非農業支配なるものを都市貴族集団の固有の基礎としての都市と都市住民に対する支配としてとらえ返そうとするものであるといってよい。そして、そのような都市をベースとした都鄙の交通様式の発展、そして開発と文明化の過程の中に社会構成の全国的な対抗軸の形成を想定するものである。そこでは都市貴族的土地所有に対応するものとして、留住領主的土地所有という範疇を措定したが、この二つの土地所有形態の全体的な複合関係、そこにおける集団的所有と私的所有の絡み合いをどのように具体的に描くかという問題にはまったく手がついていない。しかし、ともかく、この仮説の上に、機会をえて、石母田正以来の問題となっている平安時代領主論の再検討に挑みたいと考えている。
後者の交通と社会的分業に関する研究については、まず「中世民衆経済の展開」において総論的な見通しを自分なりに示すことを出発点として、漁業史の研究(「中世前期の漁業と荘園制」)、山野史の研究(「中世における山野河海の領有と支配」)、都市史の研究(「町場の墓所の宗教と文化」「町の中世的展開と支配」)などとして取り組んできた。これは次に述べる社会史的研究の中でも様々な形で追求してきたものであるが、最近では、「中世の年貢と庭物・装束米・竈米」「米稲年貢の収納と稲堆・斤定」「和歌史料と水田稲作社会」などの論文で、農業史的諸問題についての検討を進めることとなった。とくに「和歌史料と水田稲作社会」では自己の経済史的見解の最大の前提となっていた戸田芳実の水田農耕論を再検討することになった。その中で、水田稲作の農耕儀礼の中に「君が代」和歌群を発見したことは、都市王権と都市貴族的土地所有の本質にかかわる問題に突き当たったと考えている。
第三の研究分野は、いわゆる社会史研究である。「日本中世社会史研究の方法と展望」という方法論的展望を論じた論文でふれたように、社会史研究は、いわば歴史学的な現象学ともいえる性格をもつ研究分野である。実際上は、私の研究スタイルにおいては、この分野の仕事がもっとも多く、『中世の愛と従属』『物語の中世』『中世の女の一生』という三冊の著書をまとめることができた。社会史研究の手法は、私の場合は、研究者としての養成過程が本格的でなかったという条件の下で、編纂作業の初歩で必要な多種多様な知識蓄積とも通い合うところがあった。よりはっきりといえば、私には、社会史研究のもつ、いわば無手勝流の素人的研究手法が身に合っていたということであったかと思う。しかし、この分野の仕事を励みをもって行うことができたのは、歴史教育との関係、そして研究者の社会的責務、学界活動の一環として行った遺跡保存運動の中での考古学研究との交流が大きな刺激となったことも事実である。
このような社会史研究のテーマとしてもっとも重視してきたのは、平安時代・鎌倉時代の社会における人身的従属関係、身分諸関係の実態的側面を照らし出すことであった。この問題の追究は、後にふれる「日本中世の諸身分と王権」において身分論として一応の概括に到達したと考えているが、それのみでなく、歴史理論から王権論・対外関係論にいたる私の研究全体の実際上の推進力となったものである。
しかし、以上のような社会史研究は私にとってはやはり過去のことである。もちろん、近年の論文でも「中世の年貢と庭物・装束米・竈米」「米稲年貢の収納と稲堆・斤定」「神戸と方丈記の時代」「現代歴史学と『国民文化』ー社会史・「平安文化」・東アジア」「女性職能民と繊維生産」「都市の葬送と生業」「和歌史料と水田稲作社会」「山立と狩人」などは広い意味での社会的手法を利用している。ただ、これらの近年の論文の内容的特徴は、社会史的研究それ自身というよりも、経済史の研究に社会史的手法を導入しようということにある。それは「中世の年貢と庭物・装束米・竈米」「米稲年貢の収納と稲堆・斤定」「女性職能民と繊維生産」「和歌史料と水田稲作社会」などの論文にあらわれている。
また、方法の問題としては「社会史的手法」から「歴史知識学的手法」へという切り替えを意図している積もりである。ここで「歴史知識学的手法」というのは、論文「情報と記憶」で、黒田俊雄の見解を前提にのべたような、歴史的な社会意識を知識学的に取り扱う手法を意味する。社会史的手法は歴史史料のもつイデオロギー性や時勢粧に対する相対化を必須としており、それは意識的に歴史知識学によって補われなければならないと考えている。なお、これが職場の史料編纂の仕事や史料論にもふかく関わる問題であることはいうまでもない。社会史研究が史料論を固有の地盤として発生したことは周知の通りであるが、私も若干の絵画史料・文学史料の利用について訓練をした。しかし、歴史学本来の文献史料論については、教授昇任直後に「絵巻に描かれた文書」「アーカイヴスの課題と中世史料論の状況」などを執筆したものの、それ以降、十分な仕事をしていないと自覚している。
ただし、二〇〇三年以降、『大徳寺文書』の重要文化財指定事業に協力することとなり、その原本による再調査を行う中で、「大徳寺文書の重書箱の調査と若干の考察」「古文書料紙の物理分析ー技法と試論」などをまとめることができた。これをふまえて今後も努力を続けたいと考える。
第四の研究分野は王権論とそれを視座とする政治史研究である。その起点となったのは、「酒と徳政」「中世における山野河海の領有と支配」において徳政・新制論に挑んだことであった。それは『石母田正著作集』の中に収められた講演「歴史学と日本人論」における法意識論を読み、さらに同室の先輩であった笠松宏至氏の示唆とその圧倒的な影響の下で自己の課題とすることができたものである。この新制論が「町の中世的展開と支配」「中世初期の国家と庄園制」「日本中世の身分と王権」などの(私にとっては一応論文らしい)一連の諸論文の直接の前提となった。
そして、この王権論を政治史の問題としても追求することになったのは、「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」の執筆の経験であった。この研究は、必要があって石母田氏の国地頭関係論文を通読し、その意味を実感したこと、また静岡県磐田市の一ノ谷中世墳墓群の諸学会による保存運動の事務局を担当する中で、ほぼはじめて鎌倉時代の政治史に関わる史料を扱う必要にせまられたことなどを契機としていた。ここで鎌倉期にむけての政治史のイメージを自分なりにもったこと、そしてちょうど河内祥輔の『古代政治史における天皇制の論理』『頼朝の時代』によって切り開かれた視野から刺激をうけたことが、『平安王朝』『平安時代』『義経の登場ー王権論の視座から』などの政治史分析につながっていった。
この研究分野に関しては、政治史のイメージ的な叙述に走っているという批判がありうることは自覚している。私としても、まずは右の諸論文に必要な追補を行い、一書にまとめるべきであると感じている。その場合の出発点は中途半端になっている「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」についての点検であり、最近、『義経の登場』を執筆することによって若干の新たな見通しもえたので、機会をえて再度挑戦してみたいと考えている。しかし、王権論の分野における最大の問題は、これらの王権論関係の論文の前提には網野善彦氏・黒田俊雄氏の諸業績からうけた大きな影響があり、この二人の仕事の意義と限界を私なりに確認することなしには、研究としてまとめることができないことである。また基礎研究・制度史的研究も不足しており、その意味でも、この王権論の分野の仕事はまったく未完となっていることを認めざるをえない。
第五の研究分野は、いわゆる対外関係史、東アジアの国際的環境の中から「日本」をとらえようとする研究であり、二〇〇四年に『黄金国家ーー東アジアと平安日本』をまとめた。この問題にはじめて取り組んだのは『物語の中世』におさめた「『彦火々出見尊絵巻』と御厨的世界」「虎・鬼ヶ島と日本海海域史」の二本の論文であったが、民族と対外関係の問題について議論をすることになったのは、歴史学研究会が企画した『シリーズ 民族を問う』の一冊の執筆を担当することになったためである。そして、その前提として、史学会での報告をもとにして「平安時代の国際意識」を執筆した。この報告は、黒田俊雄の議論を再検討するという問題意識から出発したが、これについては別に「黒田俊雄氏の学説の位相」を執筆している(『歴史学をみつめ直す』)。
『黄金国家』の具体的なテーマは、外交史と王権の動きを中心とした国内政治史の総合的理解、民族複合国家論、ナショナリズムと国制イデオロギー論の三点にあった。これまでの研究課題とあまりに相違しているようにもみえるが、自己の研究の流れからすると、王権の政治過程論の中に対外関係の問題が入ってくることは自然なことであった。また日本前近代社会における社会意識を社会史研究の中で追究してきた延長線上にナショナリズムの問題にふみこむことになったのも自然な流れであったように思う。しかし、私にとっては、初心にもどってはじめて奈良時代に踏み込んだ仕事をおおやけにしたことの意味が大きい。その結果、東アジア社会論と世界史の問題についての議論を展開したことは意外な経過ではあったが、これについては、その責任を今後とも引き継がざるをえないと考えている。
以上、様々な問題にふれたが、史料編纂所においておっている仕事との関係では、今後しばらくの間は、大徳寺文書の史料論、大徳寺の寺史と経済史の研究を進めることを優先するつもりである。もちろん、経済史の分野の仕事、王権論の分野の仕事を論文集にまとめる仕事が残っているが、これについては、それを論ずる上で必須と考えている理論的な研究、つまり社会的分業論、そしてそれを前提とした社会的・階級的な支配構造の議論にとりくむことをまずは優先したいと考えている。