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アーカイヴズの課題と中世史料論の状況

アーカイヴスの課題と中世史料論の状況
保立道久
 本報告は、中世史研究の立場から、第一に平安時代以降の中世史料の存在状況や、その編纂にともなう諸問題を確認し、第二に、やはり中世史料を中心に、編纂とアーカイヴス*1のもっている課題を、できるだけそれらの本質にさかのぼって論じ、第三に最近の中世史料論の状況を簡単に紹介したものである。ただ、第三のテーマについては、報告時に提出したレジュメの冒頭部分を一部文章化し、一部は追補したが、全体は時間の関係で文章化する余裕がなかった。しかも、そのレジュメも、1993年、1994年、1995年の史料管理学研修会での「古代中世史料論」の講義のレジュメを抄録したものにすぎないことをお断りしておきたい。
1.中世史料の存在状況と編纂・アーカイヴス
(1)中世文字史料の総点数。
 前近代の日本は、東アジア諸国と比べてもヨーロッパ諸国と比べても、大量の文字史料・文献資料を残したということができる。それは統計的な概算もないままに膨大性が強調される近世史料のみのことではなく、古代・中世史料についてもいえることである。まず正倉院文書の総数は、約10,000点といわれており、最近は、これに木簡・漆紙史料が加算されなければならないのはいうまでもない。さらに、平安時代の文書は、現在のところ唯一の編年文書集である『平安遺文』への収録点数が5,530通(除く金石文編)であり、収録が省略された古記録収載文書、『朝野群載』・『政事要略』などの文例集・法令集収載文書、および欠年の紙背文書などを入れれば、(計算したことはないが)少なくとも10,000通に達することは確実ではないか。また、鎌倉時代の文書については、『鎌倉遺文』の収録総点数が32,934通であり、『平安遺文』と同様の問題があること、また中世文書の翻刻・編纂にとっていまだに最大の問題である東大寺・醍醐寺などの巨大寺院文書の中にはまだまだ鎌倉時代の未紹介の文書が残されていることなどを勘案すると、全体として50,000通を越える文書が残されているといえるのではないか。鎌倉時代は、12世紀後期からの約150年の期間であり、その間に、これだけの文書が存在することは特筆すべきであろう。

 このような文書の増加傾向は、さらに続いたものと思われるが、この後、いわゆる南北朝時代から戦国時代・安土桃山時代の終結、近世社会の開始までの間の文書の総点数を概算する手段を、我々はもっていない。しかし、たとえば、日本における中世文書の相当部分の複本であるとされる東京大学史料編纂所の影写本目録の作成という課題を提起した永村真によれば、同影写本(約6,800冊)収載の「古文書」は総数約20万点におよぶと概算できるという*2。現在、依拠しうる数字は、これのみなのであるが、しかし、1960年代から本格化した同研究所による中世文書の写真による採訪の状況、また各自治体史の成果などからみると、影写本収録文書は、中世文書の内でも、やはり限られた部分であることは明らかであって、おそらく、近世以前の文書の総計は、約30万点を越えるのではないかと思えるのである。そうだとすると、逆算して、南北朝から安土桃山時代までで、24万点の文書が存在することになる。そして、これでも相当少な目の数え方ではないかというのが、おおかたの実感であろう。

 以上は、『平安遺文』・『鎌倉遺文』の通数を除いて、十分な根拠のない数字を並べたものにすぎないが、また、これに加えて、いわゆる「日記」史料が大量に存在することも、日本前近代における史料の存在状況の大きな特徴である。中世の日記の総点数は、約320点といわれており、その内、平安時代、約80点、鎌倉時代、約90点、南北朝から戦国末期、約150と概算することができる。さらに、大寺院に存在してしばしば未紹介・未翻刻のままになっている大量の宗教関係の聖教史料の位置も大きい。そして、多様な内容をもった典籍、さらに文学関係史料の豊富さも特筆すべきことである。

 中世におけるこのような多種多様かつ大量の文字史料の存在は、日本の歴史学とアーカイヴスにとって、どのような意味をもつのか。この点について歴史学界とアーカイヴス関係者の内部で意見の一致を形成することの意味は大きい。アーカイヴスの問題は近代・近世のみの問題なのではなく、歴史学の全体にかかわっているからである。

(2)史料集の編纂と非文字情報

 アーカイヴスの現代的・社会的運動の中で、前近代史料をどう位置づけるかを考える上で、前近代史料に対する営為の基本部分をしめる編纂とは何かを議論しておくことが必要である。編纂が歴史学研究にとっての準備的・補助的・基礎的作業であることはいうまでもない。しかし、そのような「編纂」の客観的性格の問題を離れて、端的にいうならば、編纂とはきわめて一般的な言い方をすれば、まずは史料のもつ情報の活字文字(リーダブルな文字)への変換の作業であり、その中心は史料のもつ文字情報の活字体文字への解読・翻刻作業、テキスト化の作業である。永村真の定式化によれば、それは「史料の記載内容の誤りない伝達を史料集の使命と思い切り、まず史料に記された文字列を正確に活字表現する」作業なのである*3。それ故に、ここでいう編纂とは、本質的に活字以前・以外の史料に対する行為であり、実質上、その相当部分は前近代史料に対する営為を意味する。その意味で、それは本質的に近代的な性格をもつ活字文化の産物なのである。たとえば日本における初めての「近代的な」史料集である『大日本古文書』『大日本史料』が、当時の最高水準の活字技術に依拠していたというのは、よく知られた事実である。

 もとより、後にも関説するように、日本の「編纂」がもっていた近代性とは、まずは近代的技術性ということであって、決して、フランス革命における記録保存制度が示すような、国民の共有物としての記録史料という意味での近代的な歴史文化を意味する訳ではない。しかし、このような問題性をはらんだ「編纂」自身も、それなりに困難な条件をかかえていた。それを規定しているのは、まず先記のような日本前近代史料の量的膨大性であり、さらに重大なのは、その解読の困難性であった。日本前近代の文書史料は、中国文化圏の中で、字種が無数に存在する上に、象形文字としての漢字と表音文字としての仮名の双方を使用している。その上に、筆記具として、毛筆を使用し、その字体が多様で、時代によってしばしば異なっている。これらの事情は、ヨーロッパと比較しても、手書き史料の活字体への翻刻をきわめて困難な仕事にしており、毛筆にもとづく文字文化の伝統が断絶しつつある現在の文化状況は、その難度を増大させている。研究者・編纂者はしばしばいわゆる「崩し字」をよむ職能者として社会から扱われる経験をもっているが、ようするに編纂というのは、まず何よりも文字を読む作業であって、経験的な能力と訓練に支えられた器用仕事・手技なのである。

 もちろん、詮ずるところ文字の解読とテキスト化こそがすべての要点であるとはいえ、現在、実際に展開されている編纂作業の実際はきわめて多様である。それは、まずは、編纂の主体となる機関・組織のあり方と歴史、編纂の様々な目的・スタイルやその歴史によって規定されている。それは近代日本における「編纂事業」の歴史の検討*4とイコールの問題であって、ここでその全体を議論する用意はないが、大きくいって史料集は①伝来別史料集、②主題別史料集、③編年史料集の三つに分けることができるだろう。もちろん、現実の史料集は、多かれ少なかれ、この三つの側面を組み合わせた形になっていることが多いが、まず伝来別史料集は、特定の所蔵者に伝来してきた史料の特定のまとまりを、そのまま編纂するもので、古文書・古記録・典籍など、史料の形態にそくして、様々な史料集が存在し、様々な意味で編纂作業の基礎に位置づけられるものである。第二の主題別史料集は様々な研究主題に即して編纂される史料集であって、これも第二次大戦前から様々な形で編纂されてきた。この内には、たとえば、東京大学史料編纂所編纂の『花押かがみ』のような特定の史料情報(花押はそれ字体は一種の画像であるが、同時に文字文化の産物である)の体系的収集とテキスト化の事業なども含まれる。第三の編年史料集のスタイルもきわめて多様であって、たとえば『大日本古文書(編年文書)』『平安遺文』『鎌倉遺文』などは、編年文書集であって、また『大日本史料』は「国史編纂」というイデオロギー的企図を歴史的由来にもち、実際上は政治史を中心にするという主題性をもってはいるものの、古文書・古記録・典籍などの様々な史料を収載する、日本独特の一種の総合的な編年史料集の体裁をとっている。また、地域史の総合的史料集を目指す自治体史史料集が、しばしばこの編年的形態をとっていることはいうまでもない。

 実際の編纂の作業は、このような史料集の性格によって異なっているが、問題は、現在のところ、そのすべてが刊本の活字組のすべてを印刷所に依頼するという技術的過程によって制約されていることである。電算写植を導入している場合でも、その事情は基本的に変わらない。これが編纂を「近代活字文化」の産物であるとする一つの理由なのであるが、その作業は、たとえば中世の所蔵者別のフルテキスト文書集の場合、①文字復元、翻字、筆跡、朱、抹消形態の復元、校訂注の付与、②文脈復元、読点付与、③内容解釈、文書名付与、標出、説明注(地名人名など)、④「物」としての形態、料紙、付箋、接続関係など、⑤文字配列指定、改行、排列、本紙、裏紙、封紙、包紙、表裏、端裏、見返、位置指定、⑥図版、写真指定などの多様な作業を含んでいる。

 以上、編纂は、本質的に、また狭い意味では、このような史料の文字情報の解読・翻刻なのであるが、その作業の前提には、多かれ少なかれ、史料のもつ文字情報以外の多様な情報、非文字的、「物」的・画像的情報の調査を前提することなしには成立しえない*5。史料群の構成、保管形態なのを含めて、これらは、しばしば史料学・史料論などといわれる問題領域の一部に属するものであるが、編纂は、このような文化財としての史料現物を相手とする作業、その意味で、編纂はドキュメンテーションの総作業の最終的果実というべき性格をもっているのである。この編纂と史料論の関係、両者の学問的性格についてはすぐにふれるが、文字情報による史料の再現という編纂の基本的性格からして、史料論的情報、非文字情報の調査結果のすべてを刊本史料集の中で報告することはできないことに注意しておきたい*6。編纂にとっては、何よりもテキストを蒐集し、それを正確に読むことが第一義的な問題なのである。

(3)歴史学・アーカイヴス・編纂=史料論

 歴史学は、一般的な言い方をすれば、歴史的社会の構成と運動を総体として具体的かつ論理的に復元し、未来にむけて現在の歴史的位置を確認することを役割としている社会・人文科学である。これに対して、現在確認されるようになったことによれば、アーカイヴスは、様々な「社会的な記憶装置」を記憶と情報の共有という原則の下に発展させ、維持・管理しつつ人類の未来につなげていくという課題をもっている。それは単に個別の学問と等置できるようなものではなく、本来、社会・組織体に不可欠な記憶・記録機能をや担うもの、その意味で社会的分業の体系の特殊な一環を直接に担う組織体・組織活動の形態である。現代的アーカイヴスは、その双子の兄弟である図書館や博物館とはことなって、文化・科学のみでなく、社会経済活動全般に直接につながるより広汎な裾野を有する組織・活動なのである。その中で、現代的アーカイヴスの理論は一種の情報の歴史・社会理論ともいうべき様相をみせているように思われる*7。社会的にみると、歴史学は、このような社会の記憶装置の全体に従属して存在しているものであるということになる。アーカイヴスの理論と実践は、(アーカイヴスにとってはやや問題児ともいうべき)双子の兄=博物館の理論と実践と連動しつつ、それをより広い社会的視座から監督する位置、いわば現代における百科全書派の総監督ともいうべき位置にあるのであり、歴史学はそのようなアーカイヴスにとっては補助学*8の一種なのである。アーカイヴスの問題は、広く、宗教学・日本文学・建築史・美術史などの人文科学、また近年における地震史料や気候関係史料の研究状況からみると、さらに自然科学をも含む日本の学術文化の共有の問題である。それは、河音能平が「各史料学は決して歴史学の下僕なのではなく、すべての文化的いとなみのための科学的基礎作業なのである」と述べている通りであり*9、その意味で、アーカイヴスの側が狭い意味での歴史学との関係にはこだわらないという立場をとっているのは正当な側面があるし、歴史学界は、アーカイヴスを狭い意味での歴史学の論理や利害に抱え込むような態度をとってはならないのは明らかである。

 もちろん、歴史学が思想的・学問的に相対的に独自な意味と位置を有していることはいうまでもなく、それはアーカイヴス・社会の記憶装置という役割の中のみに局限できる存在ではない。歴史学固有の立場からすれば、アーカイヴスこそが補助学なのであり、たとえば歴史学と言語学が相互にとって補助学となるように、学問の分野・形態の間での学際的協力関係は、常にそのような相互的関係なのである。学際的関係は、言語・経済・政治などとその歴史が、客体的な全体の一部であるからこそ必要なのであるが、その全体性の中に、言語・経済・政治などの客観的諸側面が存在し、その相互的関係によって全体が構成されているからこそ、言語・経済・政治などが学問の客観的な分野として存在するのであり、根拠となる学なしに、それを離れて「全体の学」「学際的領域」なるものが先験的に存在するというのは単なる幻想である。百科全書派が新たな思想を生み出したことは事実であり、同じようなことが、アーカイヴス・ミューゼアムの運動の中からもたらされる可能性は現実に存在しているが、しかし、それが学問の客観的な諸分野の解体を意味するかのように幻想するのは、現実にはおのおのの根拠となる学への失望と無力の表現であるか、学問の安易なジャーナリズム化の表現であるにすぎないというのが実際であろう。

 このような歴史学とアーカイヴスの関係の中で、「編纂」は、特別の位置を有している。前述のように、それはアーカイヴス的なドキュメンテーションの総過程の最終的成果という側面をもっている。と同時に、編纂は歴史学の基礎研究の成果に直接に依拠することなしには遂行不能な作業であり、それは実際上は歴史学の基礎研究の重要な一環という側面をもっている。そもそも歴史学の基礎研究は、その作業の対象となる様々な史料を可読の形態に翻訳することなしには成立しえない。この意味で、「編纂」は機能的・一般的にいえば、歴史学研究とアーカイヴスを媒介する位置に発生する作業領域を意味するということができる。問題は、このような境界領域の性格を両側面から過不足なく見極めることにあるのであるが、ここで参考になるのは、安藤正人が歴史学とアーカイヴスに固有の記録史料学との重なりの部分、境界の領域を「記録史料認識論」となずけて、歴史学とアーカイヴスの関係を論じていることである*10。つまり、ここでいう編纂は論の趣旨としては、安藤のいう「史料認識論」と重なることになるのである。編纂と史料論が深い関係をもって存在していることは確実である。もちろん、繰り返すが、編纂は、狭い意味、厳密な意味では、史料情報の活字テキスト形態への変換作業そのものであり、「史料認識論」あるいは「史料論」に解消することはできない。しかし、史料論が編纂作業にとって欠くことのできない存在であることも事実である。このような意味で歴史学とアーカイヴスの境界領域には編纂と史料論が存在しているのである。

 アーカイヴスの側にとっては、歴史学との間で成立する編纂・史料論の研究は、諸学との境界領域で営む一つの研究形態にすぎないのであって、アーカイヴスは、まさにその全体を統括する知の形態たらんとする方向性をもつことになるのであろうが、しかし、アーカイヴスにとっても、それは最大の出発点であるはずである。歴史学は、境界領域を通じて、そのような位置に存在することを自己評価しなければならないのだろう。

(4)編纂とアーカイヴスの現状

 以上のような点からみた場合、日本の近代歴史学、特に戦前の歴史学が、大きな偏りをもった存在であったことは明らかである。日本近代の歴史イデオロギーの特徴は、周知のように、歴史の神話化にあり、それは、史料や情報の一般的秘匿を体制化し、必然的に近代的な記録管理とアーカイヴスの発展とは逆行するものであったことはいうまでもない。それに根本的に規定されていた戦前歴史学は、本質的にアーカイヴスの問題、より一般的な言い方をすれば、文化財・史料の公開・保存問題を根本的に考える力も意思ももっていなかった。もちろん、様々な努力は行われたが、全体としては、その取り組みは限られたものであり、歴史学は、史料管理体制の特権的独占の上に、国家的イデオロギーを支える役割を果たしていたのである*11。この中で、日本国家は、前近代から受け継がれた大量の史料の相当部分の消滅を促進・黙認するという、とりかえしのつかない文化破壊行為を行った。日本の近代歴史学は、それに抵抗する力をほとんどもっていなかったどころか、史料の公開や保存というかけがえのない仕事よりも「編纂」や「古文書学」の方をプレステイージが高いものとして位置づけるという倒錯的誤りの中で自足していたのである*12。このような古文書学や「編纂」の偏重は、本質的にいって、それが前近代的な訓古学と変わらない野蛮な「学問」であったことの証明であったといわざるをえない。もちろん、この時期の「編纂」の(多くの破壊の犠牲の上に立った)「成果」自身を否定する必要はないが、アーカイヴスの思想を前提にした現代的な「編纂」は、このような「編纂」からは完全に決別した地点から出発しなければならない。

 前述の日本前近代史料の多量性とは、日本国家と(その補完者・黙認者としての)戦前歴史学による、史料の大量消滅・破壊を乗り越えて残ったという性格のものであることを確認しておかなかればならない。いわゆる戦後歴史学、現代歴史学が、この問題にどう立ち向かい、どのような成果を上げたか、またどのような弱点があったかを考えることは、本稿の課題ではないが、こういう状況に対して、たとえば中世史料の編纂という点をとってみれば、ともかく戦後歴史学は、営々として自らの基礎を固めてきたし、戦後の近世史学が、史料の保存・公開問題を最大のテーマとしてきたことはよく知られている通りである。これに対する過小評価は自己の存立の根を崩すものであろう。

 現在は、以上のような状況が全体として眺望可能になった時期であるということができるが、われわれの前に残されている「編纂」問題、史料の保存問題などは、依然としてきわめて重い内容をもっている。アーカイヴス・アーキヴィスト問題が、その象徴であることはことわるまでもないが、ここでは、中世史研究の立場から、「史料」をめぐる問題状況について確認し、編纂と史料論のもつ学問的課題の性格について考えてみたい。

 第一には、編纂とアーカイヴスの動きが、相当の到達点に達したことである。中世史料にとっては、竹内理三氏によって、『平安遺文』に引き続いて、1971年、『鎌倉遺文』が開始され、1991年に完結したこと(本編42冊)、60年代末期以降、各自治体史が充実した史料集の編纂に取り組んだことの意味が大きい*13。また文化庁による文献資料の指定・保護作業の進展はいうまでもないこととして、各地の博物館・文書館において中世史の研究者が活動を始め、『東寺百合文書』の史料論的研究や公開などの成果が生まれていることも特筆される。問題は、この中で、編纂が顕著に厳密化しはじめたことである。特に自治体史史料集が広汎な調査を展開し、傍注、校訂注を充実させ、さらに花押集の掲載が一般化したことなどの影響は大きかった。

 この中で、可能な限り完全な確定テキスト、安定的なテキストを追求するという編纂姿勢が一般化してきた。逆にいえば、同一の文書について、各種の史料集でいくつものテキストが形成されるようになってきており、その中で、テキスト確定、校正テキストを蓄積することが独自の重要性をもちだしてきたのである。これは編纂作業の全体的高度化の要求であり、編纂自身のあり方の中から新たな研究・調査の必要が提起されてきたことを意味する。

 第二は、研究の発展である。戦前の編纂物と現在の編纂物の精度を一般的に比較してみるならば、何といっても現在の編纂物の精度が高い。それは何よりも各方面における歴史研究自身の発展によっているのである。個別の事件や制度などなどの膨大な研究の蓄積の恩恵に浴しながら編纂が遂行されていることは確実である。もちろん、編纂者の力量には個人的側面があるし、相対的に史料のうぶな形にふれているなどの点でも、戦前の編纂物は独自の意味をもっている場合がある。しかし、総体としては、そこにはやはり訂正すべき点が多いのは確実である。さらに、一般論のみでなく、強調すべきなのは、まず、先述のように、編纂の基礎過程は文字読解の作業であり、その意味で、テキストの確定には歴史的言語に対する研究の蓄積が大きな意味をもっていることである。中世史料の編纂者にとっては、古くは『日葡辞書』、そして1972年より刊行が開始された膨大な『日本国語大辞典』(小学館)の発行は一つの衝撃であった。中世史の分野においては、それ以降、歴史的言語に対する興味に支えられた研究が登場することになったのである*14。また、最近では中世文書の筆跡についての本格的な研究論文が登場したことも注目される*15。これは編纂が歴史学の基礎研究とアーカイヴスの間の境界領域であるのみでなく、歴史言語学・文字学と歴史学・アーカイヴスの間の境界領域であることをも示しているといえよう。

 このような動向の中で、もっとも注意すべきことはアーカイヴスと歴史学研究の双方に関わる形で、いわゆる史料論的研究が進展したことである。前述のように、史料論と編纂は、アーカイヴスと歴史学の境界領域という共通する場に半ば同一化したような形で存在し、史料論は、従来は、古文書学・古記録学などの実用的な分科をなして存在していたのであるが、ここに、史料の存在形態全体を論じ、「物、物の一種としての文書・記録」という視点を基本として、史料の物件的管理の体系、文書の運搬と伝達などの諸領域を扱う研究分野として再編される様相をみせたのである。この事態は、史料論が編纂とは異なる形での自己の有効性を主張し、編纂から自立しはじめたというように表現することもできるであろう。そして、たとえば紙の物質的組成、時代と産地の同定などということになれば、自然史研究と自然科学との共同作業になり、さらに言語学・文学・宗教学・美術史などの人文諸科学に共通する必要を担うという点では、狭い意味での歴史学の領域に属する問題ではなくなる。むしろアーカイヴスの領域、学際的領域に存在する研究の形態というにふさわしいものである。史料論の展開にアーカイヴスの動きが根強い地盤を与え、その中で従来の編纂のあり方(それに関わる知識のあり方)が問われるに至っていることは明らかである。

 しかし、ここで注意しておかなければならないのは、上記のような意味での史料論は、けっして、たとえば「史料学」という言葉でややもすれば印象されがちな独自の学問体系や固定された領域を構成するものではないことである*16。そのような種類の議論は、先述のような学際領域が「全体の学」を僣称するのと論理的には同じ種類の誤りとなるであろう。もちろん、史料学という言葉の使用自体を拒否しようという訳ではないが、「史料学」にせよ、「史料論」にせよ、それは分解していけば諸学の共同の形態であることが明らかになるのであり、そのようなものとして意味があるのである。歴史学にとっても、それはいわば仮の詞であって、歴史学の独自の研究分野・研究対象としては、「史料論」の相当部分は、広い意味での「交通」「コミュニケーション論」、社会的記憶論・情報形態論を構成するというのが正確である。私は、それは歴史的意識論・社会的意識の上部構造論を確実な基礎から積み上げていく上で、大きな意味をもつ研究分野であると思う。このような研究分野の学問的意味を重視する立場からいえば、上記のような史料論は、同時に研究にとっての前提的・補助的作業でもあるのである。また、編纂という立場からみても、あたかも史料学が独自のディシプリンをもった学問であり、編纂はそれに解消されるかのような議論には問題が多い。それは実際上は戦前的な意味での「編纂」への自足と同じものになりかねない。編纂は要するに文字史料を収集し、解読する作業であるが、それは必ずしも「史料学」を媒介とせずに、直接に歴史学の基礎研究の広範な諸分野に連続しているのである。

 私は、以上のように、歴史学の基礎研究とアーカイヴスの関係をとらえ、両者を媒介する位置にある編纂(および史料論)をあわせた三者が相対的な独自性をもっていることを確認したいと思う。しかし、いうまでもなく、そのことは三者の間の連携と統一を否定するものではない。むしろその上にたって、歴史学の研究とアーカイヴスを統一的に捉えることこそが重要である。ヨーロッパ型のアーカイヴス体制においては、アーカイヴス・編纂と研究の分離・分業が一般的であって、それは歴史学研究のあり方に対して少なくない影響を与えているともいわれている。河音能平が「私はヨーロッパ諸国にみられるような歴史学者と史料学者との安易な分業には反対であり」としたのは、この点で正当であり、日本におけるアーカイヴスが、その轍をふまないようにすることは重要であろう*17。また、従来、歴史学の社会的責務や機能を問題にする場合、歴史の研究と教育の相対的な独立と統一という原則が確認されてきたが、最近では、この研究とアーカイヴス、あるいは研究と史料の保存・公開の統一という問題をあわせて、この三者の間での統一を問題にするべきであるという議論が提出されている*18。そもそも歴史教育は、「人類の経験と記憶・知的遺産」を次代に引き継ぐ営為であり、その意味で、教育とアーカイヴスの提起する問題は、単に研究を媒介とするのみでなく、直接に共通する側面も有しているといわねばならないだろう。

(5)コンピュータと編纂・アーカイヴス

 さて、全体的な展望が永村真の論文であたえられているように*19、近年、コンピュータの歴史学・アーカイヴスにおける利用が発展しつつある。ここ十年ほどは、コンピュータはおもに目録情報の処理を中心に、いわば大規模な文房具・カード装置として利用される場合がほとんどであった、しかし、最近は、「編纂」とアーカイヴス自身の仕事にコンピュータによる大きな変化が生まれることが予想されるに至っている。それは、電子的形態・非刊本形態における文字情報の復元・公開が大きな可能性をもつことを事実として明らかにしつつあるのである。

 技術的に重要なのは、第一に、出版済みの活字情報のフルテキスト電子情報化が進展していることである。これは出版形態そのものの変化をもたらす。現状では、基準外文字・文字サイズおよび活字版組などを、そのままコンピュータ上で再現することには、一定の困難があって、出版物が良好なテキストを目指していればいるほど、いわゆる前処理の手を加えざるをえないという問題があるが、その状況は電算写植技術のPCレヴェルへの解放(当面は、傍注文字列のハイパーテキスト化などの形態をとると考えられる)によって、遅かれ早かれ解決されることは確実である。意外と早い時期に、フルテキスト化が必要な史料集はすべてフルテキスト化されるのみでなく、出版物の完成とともに、それが電子情報化されるのは、常識となっていくだろう。それはあ、研究のあり方に大きな変化をもたらし、さらに次の史料画像の提供の問題とあわせてアーカイヴスの仕事の変化をももたらす可能性がある。

 第二は、史料画像のCDなどを利用したコンピュータによる蓄積・公開の可能性である。もちろん、そのためには史料の整理と撮影自身の組織が必要になるが、これによって、マイクロフィルムと焼付という媒体と比較して、より簡単迅速な検索が可能となる。さらにそれは史料の原本保護、画像情報による管理、目録業務の変化と合理化をもたらすだろう。またCDの頒布という形で史料の公開が進展することも期待される。この画像情報が充実するならば、いわばどの史料刊本にも、全史料の良好な写真版を用意するのと同じことになるのである。このような写真版の提供は、これまでも望ましいこととはされてきたが、実質上は、活字化の体制をもたない場合の擬似的手段か、そうでない場合も、中世史料の総量を考えると、一般的手段としては到底採用不可能なプランであると考えられていた。コンピュータによる史料画像の提供はその隘路を突破することを可能にし、永村真の定式にしたがえば、「原本・複本と活字本の間の隔壁の一部は、文字列・画像情報の連結を実現した史料DBによって崩されることになろう」*20。しかも、これは編纂が本質的には対象外におかざるをえなかった非文字情報の一定部分を、非文字情報のまま提供することを可能にする。それは、先述のような編纂の有する複雑な諸側面を合理化する上でまったく新たな手段を与える可能性がある。また研究面でも史料画像の提供の意味が大きいことはいうまでもなく、特に研究者にとっては、ある意味で編纂を媒介とせずに史料原本にアクセスする道を開くことになることが重要だろう。

 このような中で、先述のような歴史学の研究とアーカイヴスの統一の展望は、コンピュータという技術的基礎によって、新しい展開を見せるのではないだろうか。それは永村真が指摘するように、本来は、コンピュータの思考支援用具としての側面、たとえば文書名の付与を規則化し、システム化するエキスパートシステムの構築のようなコンピュータの高次元の利用の可能性*21を含めて議論しなければならないが、ここでは初歩的な予測にとどめざるをえない。まず、現代的アーカイヴスにおいては、コンピュータの記録装置としての利用の一般化は、「現代記録の管理と保存および公開の問題」におけるキーポイントとなっているといわれる*22。前述のように、現代的アーカイヴスは情報の社会理論の展開を試みる様相を示しており、コンピュータ利用の本格化とともに、それはアーカイヴスの活動の全領域に及んでいくに違いない。おそらくそれは、これまでのアーカイヴスの作業の中心となっていた目録の形式そのものの変化をもたらすであろう。現状では、日本のアーカイヴスにおいては本格的なコンピュータ化の方向はいまだに十分な実験がなく、合意も存在しないようであるが、今後の最大の問題であることは確実であろう。アーカイヴスが、将来、現代における百科全書派的総合の推進者となるというような見通しは、アーカイヴスにおけるコンピュータの全面的活用と国際的連携を発展させることなしにはありえないように思う。

 また、歴史学研究においては、フルテキストと史料画像の導入は、何といっても手工業的な性格を有していた研究のあり方を本格的に現代化することになるであろう。レオポール・ジェニコ*23が指摘しているように、フルテキストを対象としたコンコーダンス検索は歴史的語義の使用方法の確定に大きな力を発揮する。コンコーダンス検索とは、キーワードを含む史料を選び出し、それらの史料の原文を共通するキーワードを中央におき、その前後に一定数の文字を並べて一覧することができるようにしたシステムであるが、たとえば、1997年2月、史料編纂所からインターネット経由で公開されたフルテキストシステムは、そのような構成になっている。これによって、研究テーマに即した史料の収集とカード化という基礎作業が合理化され、新たな総合的研究が生まれることが期待されるのである。

 そして、何よりも問題なのは、コンピュータという同じ技術的基礎の上で、アーカイヴスと歴史学研究が展開することによって、相互の独立は保持しながらも、研究の進展にともなって、必然的に一種の融合的現象が生まれるであろうことである。それは、まず、現代的なアーカイヴスの展開する情報の歴史社会理論と「史料論」の領域に対応する歴史学研究の独自の研究分野、情報形態論・社会的記憶論の間で展開するにちがいない。そして、これによって、両者の境界領域に位置する「編纂」の分野は大きな変貌をとげるであろう。前述のように、「編纂」がテキストの刊本による活字化という枠組みに様々な意味でしばられてきたとすれば、それが大きな変化を遂げるのは当然のことである。もちろん、固有の意味での編纂、つまり活字本によるテキストの復元が、少なくとも当分の間、より具体的には相当量の確定すべきテキストが残っている間は*24、その独自の価値を失うことはあり得ない。文化財としての史料現物に直接にふれつつ展開する作業においては、(その形態が全面的なコンピュータ化を遂げたとしても)このような物質的な活字版組の完成を目的とする器用仕事の位置がなくなることはありえないからである。しかし、編纂におけるコンピュータ利用は、①大量の史料を操作することによって、たとえば人名地名などの傍注の精度などをはじめとして、テキスト確定の作業の武器となるだあろう。②さらにそれは所蔵別史料集、主題的史料集、編年的史料集という史料集の形態相互の関係を変化させるだろう。後二者の基礎をなす史料の収集と割裂類聚は現在のような形ではなくなり、これによって伝統的な編纂のスタイルの基礎が変化することは確実である。

 現在の段階で、これ以上細かな予測をすることは適当ではないが、いずれにせよ、コンピュータ利用は、研究・編纂・アーカイヴスの関係を大きく変えていくだろう。それは、歴史的情報の提供の形態を、よりアクセスしやすい平等なものにしていく上でも、決定的な意味をもっている。そして、日本における大量の歴史史料の存在という状況をふまえるならば、コンピュータが、何よりも、史料の公開・保存・「編纂」を進めていく上で有効な役割を発揮することが期待されるのである。

 私は、中世史料において、最近進展しているコンピュータの利用の実験は、その角度から評価するべきであると考える。いくら中世史料が大量とはいえ、近世・近代史料の量はさらに図抜けたものであり、近世・近代においては実験の方式自身に合意を得ること自体が、相当に困難な部分があるというのが実際であろう。アーカイヴスにおいてコンピュータ利用をめぐる合意を形成するのが困難な理由が、そこにあったことは確実である*25。そういう中で、中世史研究者は、コンピュータ利用の実験場として、自己の研究分野を提供する用意をもたねばならないと思う。私は、それが、中世史研究の側にとっても、隣接する諸時代との新たな形での「史料情報の共有」をもたらし、たとえば社会構成体論争のような歴史学研究の進展自身にはねかえることを期待したいと思う。

2.最近の中世史料論の状況

(1)中世史料論をめぐる諸研究

 「中世史料論」は近年の中世史研究の中でも活発な議論が展開している分野である。最近では、特に、松井輝昭「古代・中世における文書の管理と保存」*26、黒川直則「中世東寺における文書の管理と保存」*27、および大村拓生・高橋一樹・春田直紀・廣田浩治「中世門序論の現状と課題」*28など、アーカイヴスの側からの問題提起を正面から意識した諸研究が発表されていることが興味深い。しかし、ここでは、前記のような立場から、「中世史料論」をめぐる諸議論を、中世史研究の固有の研究課題としての、情報形態論・社会的記憶論の視角から紹介してみたい。

 前記のように、中世史料論の展開の起点をなした仕事は、河音の論文*29であるが、現在の諸議論の直接の前提をなしたのは、佐藤進一の論文「中世史料論」*30であった。それは、黒板・相田以来、一般的であった古文書とは、意思関係の表現、「差し出し者と受け取り者の間に授受されるもの」*31という種類の「定義」に対する自己批判的な立論にもとづいて、史料論の実質をもつ全体的議論を展開しただけに、大きな反響を呼んだのである。従来の定義なるものは、ほとんど意味をなさない飾り、あるいは形式論理にすぎなかったから、これは考えてみれば当然のことなのであるが、これによって、いわゆる「様式論的研究」に対する批判が決定的になった。様式論的研究とは、ようするに古文書の分類であり、その直接の必要性は、まずは文書の目録化と編纂のために文書名の付与が必要であるという事情にあった。編纂作業ににおいては、文書名を付与することは、その文書の内容と機能の理解ができているかどうかの試金石として重視される。このような形式分類が絶対に必要なことはいうまでもないが、従来は、形式分類の細密化に比して古文書の「定義」は形式的・抽象的で実質的意味はないものであった。あるいはより厳しくいえば、従来の議論は共通して実務的な形式論理にすぎず、古文書の「定義」の形式性は、古文書の様式分類の形式性に照応していたともいえるだろう。

 もちろん、これにはある種の事情があった。つまり、従来の古文書学は、おもに下達文書を中心に構成されており、そこでは、差し出し者と受け取り者の制度的・権力的な意思関係は文書様式にもっともよく表現される。そこに古文書を意思関係、授受関係によって定義する感じ方は根を置いていたのである。佐藤の古文書の再定義が甚大な影響を及ぼした理由は、このような狭い意味で古文書学の枠組み、十分に編纂からの自立を遂げていない枠組みから、史料論が自由になる過程を先導したのである。

 佐藤が、このような批判の上に立って、積極的に展開したのは、第一に文書機能重視の立場であった。佐藤は異なる様式の文書の間にも機能的共通性をみとめるべきこと、また文書の様式上の充所と実施の受給者の乖離などの諸問題を提出したのである。佐藤は、従来から「文書史の目的は文書の機能の歴史を明らかにすることにある」「機能を軸にして、各時代の文書体系とその史的展開を明らかにする」*32と主張していたが、この論文は、その具体的な展開の第一歩となったのである。これは、実質上は、前記のようなコミュニケーション論、情報形態論という研究分野の必要性の指摘と同じことである。もちろん、佐藤の立論は、機能論の立場から様式論の歴史的生成・変遷を明らかにするという正統的なものであったが、逆にそれだけに史料論の新たな展開を担保する結果となったといえよう。

 第二に佐藤の見解において重要であったのは、記録の概念の拡張であった。黒板は、受け取り者をもたず、他者に対する効力をもたない備忘書類を「記録」といい、そのうち、日に懸けるものを「日記」、事件に懸けるものを「実録」というとしたのであるが*33、佐藤は、記録であると同時に、単なる備忘のメモであるのではなく、他者に対して一定の効力を及ぼすような文書が存在することを指摘したのである。それは佐藤の定式化によれば、物・事物・言説などに関する照合・証拠・同定などの「意識の表出の手段として記載」ということになる。これも考えてみれば当然のことであって、黒板の記録という用語の使用の仕方ががあまりに偏ったものであったのである。黒板以降に生まれた、「国史研究の実際面からして、記録と称して専ら日記を指すことになるのは極めて自然」というような慣習的な見方は、論者自身が認めるように「無益な概説」にすぎないことになる。

 このような佐藤の立論は、前記の言い方をすれば、史料論の立場から社会的記憶論を展開する基礎と出発点を提起したことになるというべきではないだろうか。これによって、少なくとも中世史研究についていえば、諸形態の史料を全体として議論する地盤が生まれたのである。

 佐藤の議論の第三の特徴は、もう一つ、文書の世界に「もの」を持ち込んできたことにある。人間と人間の意識関係は、その外部に「物」の世界をもつことなしには存在しないことはいうまでもない。そして、文字と文書の発生は、本来的に「識別・同定」の世界から発生したというのは、佐藤の言うとおりであろう。この点で、照合点検用の原簿として作成された目録、帳簿の類など」「引付」「事発日記」「問注申詞記」「(贄)木簡の付け札」などへの注目の意味は、右の記録論・記憶論との関係のみでなく、たいへんに大きい。直接には、文書の作成・発給・伝達などをめぐる物質的環境の復元という課題が、ここから生まれるのであり、逆に言えば、文書の世界の中に「物」を位置づけるということは、「文書」をも「一つの物」としてとらえるということである。

 このような物質的・客観的世界への通路を措定することなしには、社会的記憶論・情報形態論は、他の研究諸分野と連携することはできないだろう。たとえば、富沢清人が明らかにしたように*34、検注帳(検注取帳)は検注使と諸庄官が立ち会って行う「読合」という行為の記録であるが、それは佐藤の言い方を借りれば、照合行為の台帳ということになる。これは経済史の研究に影響を与えるところが大きい。また中世の土地売券には、しばしば「合田地三反」などという記述が頻出するが、この「合」は「アハス」と読むようである(『鎌倉遺文』23708)。本稿では、論じることができないが、このような観点から明らかにすべきことは多い。

(2)「物」としての文書論

A文書の書き方。二枚一組。田中稔「絵巻に見える書状の書き方」『中世史料論考』吉川弘文館)。「われらは,机すなわちテーブルの上で書簡をしたためる.日本人は,左手の指(を拡げた掌)の上でしたためる」(『日欧文化比較』「日本人の書法,その書物,紙,インク,および書状について」)。

B文書の折り方。「われらの書簡は折り畳む.日本の書状は巻く」(『日欧文化比較』)。①立文。イ、本紙、第一紙目、中世の用語なし、仮に本紙という。ロ、裏紙、第二紙目、本紙の裏にある紙(百瀬今朝雄「重紙と裏紙」『日本歴史』479号)、③懸紙(礼紙もいう)、本紙・裏紙の二枚の上を巻いた。二枚の場合もある、④立紙、立文、封紙のこと。中世では普通は立紙・立文といっている(紙を立てて使用したから)。同時にこのような文書それ自体のことも立文という(なお、ふつうの古文書学で一紙の料紙のことを竪紙というのは正しくない用語法である)。②腰文。イ、本紙、ロ、裏紙の二枚を畳んで、切り封を施したもの。封の位置が書状の腰のあたりにある。③折紙。一紙を横に折って使用したもの。「横折」ということもある。第一面を折紙の表、第二面を見返し。略式だが、二紙を使用していると観念。その上に封紙。文書の面が外にでるように横に折った後、字面の書き出し部分を内にしてまず二つに折り、それをもう一度二つ折りにした上で三つ折りにする。略式の文書、音声の代わり。④切紙、さまざまな大きさに料紙を切断して使用したもの。特に配符、切符、返抄、請取状などに多い。小さな文書。二枚一組みという紙の使用方法から完全に外れる。

C料紙の大きさ。中世前期の絵巻に現れた文使の持つ書状の封式は捻封が多い。本紙の上下にはみ出る封紙の部分は相当に長く描かれている。実際に、それだけのものを作成しようとすると、文書の料紙は中世後期の文書よりもはるかに横長でなければならない。これは上島有「古文書の料紙について(上)―料紙の縦横の比率をめぐって」(『古文書研究』第27、1987年)が、中世前期の料紙は全体として横長(鎌倉初期までは縦横比、1対1.7、くらい、鎌倉中期から南北朝・室町時代は1対1.6くらい、それより以降は1対1.4以下)であったと指摘することに適合的。

 

 以下、レジュメの編別構成のみを摘記する。

(3)文書管理論。

A文書の大量性。B文書保管の形態。C文書複本の作成。D不知行文書の発生。E文書の廃棄と紙背文書化。

(4)文書の伝達。

A文書の運搬。C文書掲示。

(5)「中世的文書主義」の再検討

A印・花押とレタリング、①印章。②花押。B書札礼①弘安礼節、書札礼と身分の係わり。②家人と書札礼。

C文書フェティシズム、文書と人間個人の身体の密接な関係。

おわりに ―識字率と大仮名―

 

 

 

 

*1 本稿におけるアーカイヴスの理論・歴史・現状の理解は、おもに安藤正人・青山英幸編『記録史料の管理と文書館』(北海道大学図書刊行会、1996年)に依拠している。なお、安沢秀一『史料館・文書館学への道』(吉川弘文館、1985年)、大藤修・安藤正人『史料保存と文書館学』(吉川弘文館、1986年)も参照した。

*2 『東京大学史料編纂所所蔵影写本収載古文書の検索システムの開発』(1987年度科学研究費研究成果報告書、研究代表者笠松宏至、報告書執筆永村真)

*3 永村真「コンピュータと歴史学」(『岩波講座日本通史』別巻③、1995年)

*4 当面、宮地正人「近代天皇制イデオロギーと歴史学」(同『天皇制の政治史的研究』校倉書房、1981年)を参照。

*5 中世文書を例として、このような非文字情報を「様式的情報、形態的情報、機能的情報、構成的情報、関係的情報などと類別した試みとして、富田正弘「中世史料論」(『岩波講座日本通史』別巻③、1995年)がある。

*6 この点も、永村真の注3論文を参照。

*7 前掲『記録史料の管理と文書館』、10章(石原一則執筆)、11章(安藤正人執筆)。なお梅棹忠夫『情報管理論』(岩波書店、1990年)にも、学術文化の基礎にすわるドキュメンテーションの意味を強調する興味深い論点がある。

*8 なお、本論で補助学というのは、価値評価を含まず、研究作業の客観的な階梯性をいうのみである。だからどのような学問・研究分野が補助学になるかは、時と場合により、逆転することになる。このような意味での補助学という言葉の使用を否定するのは、研究作業のゆうする客観的な階梯性を否定する結果をもたらす。

*9 河音能平「歴史科学運動と史料学の課題」、1974年発表、後に、同『世界史のなかの日本中世文書』(文理閣、1996年)に収載。

*10 「記録史料学とアーキヴィスト」『岩波講座日本通史』別巻③、1995年。

*11 なお、私は、日本の「近代」歴史学は、全体として、語の正しい意味での近代性も市民性ももっていなかったと考えている。それは単に日本「近代」歴史学の偏向性・イデオロギー性を問題にするからではなく、それらの「学問」が歴史学の職能的役割や史料保存・アーカイヴスの問題に特権的な立場で臨むか、無自覚であるかのどちらかであったと考えるからである。なお、黒板勝美『更訂国史乃研究総説』などの「史料学」的文言が「絵に画いた餅」「お題目」にすぎなかったとされる(河音能平前掲論文)のは、それと裏腹の関係にある。また石井進は「史料学」という視点からいうと、戦前の歴史学はなかなかの「壮観」を呈しており、それに対して戦後の歴史学においては、「史料学」は「学界におけるもっとも暗い一隅」「もっともおくれた側面」をなしているとしている(「史料論まえがき」、『岩波講座日本歴史』別巻②、1976年)。しかし、以上のような観点からいうと、戦前の「壮観」なるものは、全体としては高く評価すべきものではない。

*12 この点については横山伊徳氏との討論で教示を受けた。

*13 このような史料のテキスト化が研究に与えた影響については、たとえば社会史研究についてふれたことがある。保立「日本中世社会史研究の方法と展望」『歴史評論』500号、1991年。

*14 開拓的な研究として、笠松宏至『法と言葉の中世史』(平凡社、1984年)がある。またシリーズ『ことばの文化史』[中世①―④](佐藤進一・笠松宏至など編、平凡社、1988-1989年)は、そのような研究動向の象徴である。

*15 林譲「源頼朝の花押について」『東京大学史料編纂所研究紀要』⑥、1996年

*16 「史料学」という言葉を使用して、はじめて積極的な問題を提起したのは、河音能平「歴史科学運動と史料学の課題」(1974年発表、後に収載、同『世界史のなかの日本中世文書』文理閣、1996年)である。同論文が、その後の史料論的諸見解の祖型となり、大きな意義をもったことは明らかであるが、私は、史料学という用語の採用の一点に関しては賛成できない。それは、同論文で河音が実際に提起した「中世文書の動態」に関する提言を、むしろ本文で述べたような情報形態論の問題として受け止めたからである。また、河音の問題提起の後に提出された石井進の短文(前掲「史料論まえがき」)は、史料学を「史料をいかに蒐集・整理・分類」するかという問題を「一般化」して捉える歴史学の中核的研究方法と規定したが、現在からみるならば、これはアーカイヴス・「編纂」・歴史学研究などの諸局面を区別と連関抜きに一括した整理にすぎず、「史料学」という用語をどう理解するかという本文で述べた問題には直接の関わりはない。むしろ石井の問題提起で重要なのは、考古学・民俗学との関わりで史料論的視角が必要となっているという指摘であり、これは同じ時期に発表された戸田芳実「文化財保存と歴史学」(1976年発表、後に『歴史と古道』人文書院、1992年所収)と共通する。なお、戸田は、この論文で「史料学」を「文献、遺物・遺構、民俗資料、歴史的風土を含む広範囲の文化財=史料そのものを、その固有の物的性格・形態・機能にそくして、歴史との関連で個別的かつ総合的に研究するところの、広義の歴史科学の実証領域」と規定している。現在のところ、史料学という用語の規定としては、これがもっとも安定したものであろうが、所詮、これも暫定的なものにすぎず、問題の今後は、たとえば考古学的発掘史料が、単に史料論というにとどまらない、どのような歴史学的=考古学的研究分野を新たに展開するかにかかっているというのが、本稿の立場である。

*17 河音前掲論文。なお、フランスにおけるアーキヴィスト(高等研究院―国立古文書学校系)とアカデミーの関係が微妙な問題をはらむこと、戦後の研究史の中で両者の関係が「敵対的」とまでいわれる部分があることについては、「フランスにおける中世古文書学の現在」(『史学雑誌』102編-1,1993年)を参照。なお、この問題は、日本におけるいわゆるアーキヴィスト養成問題に直結してくる問題である。この問題は、何よりも日本の行政組織の「体質」、そこにおけるレコード管理や情報公開全体の問題の全体にかかわっており、ここは、この困難な問題にふれる場所ではないが、私は、河音のいう意味での「分業」をさけるためにも、学芸員制度を見直し、各地域の大学院と地域博物館・文書館の連合による、アーカイヴァルサイエンスや「博物館学」を中心とした単位付与によって、学芸員資格における分野的専門性を強化することが望ましいと考えている。そして、そのような「学芸員=アーキヴィスト資格」は、歴史専攻の全マスター院生の必修単位とすべきであろう。歴史の研究者が、自己の狭い範囲の研究の中に閉じこもり、たとえば近現代史料の公開・管理問題に関する常識をもちえないような制度的現状は混乱のもとだろうと思う。

*18 1995年度歴史学研究会総会委員会活動報告(『歴史学研究』675,1995年)、松尾尊允「近現代史料論」『岩波講座日本歴史』別巻③、1995年

*19 永村真前掲論文。

*20 永村真前掲論文。

*21 永村真前掲論文。

*22 『記録史料の管理と文書館』、序章6頁(安藤正人執筆)

*23 レオポール・ジェニコ『歴史学の伝統と革新』九州大学出版会、1996年

*24 もちろん、解読作業の必要な手書き史料は近現代にも存在し、それに対しては、やはり多かれ少なかれ編纂という作業が必要である。しかし、現代のアーカイヴスが未来にむけて提起しているレコードマネージメントとは、情報の合理的・公開的蓄積によって、少なくとも今後は、時代を超えた情報の伝達コストを下げよう、そしてその意味で編纂対象史料が有限なものになることを展望しようというものであるといえるだろう。

*25 それは最近の歴史情報資源研究センターをめぐる議論に現れている。

*26 前掲『記録史料の管理と文書館』第1章

*27 前掲『記録史料の管理と文書館』第2章

*28 河音能平編『中世文書論の視座』東京堂出版、1995年

*29 前掲「歴史科学運動と史料学の課題」

*30 佐藤進一「中世史料論」、『岩波講座日本歴史』別巻②、1976年

*31 相田二郎『日本の古文書』上、岩波書店

*32 佐藤進一『古文書学入門』法政大学出版会、1971年

*33 黒板勝美「日本古文書様式論」、『虚心文集』所収

*34 富沢清人「中世検注の特質」『日本史研究』233

 

(追記)なお、本論で述べたことからすると、史料論の重要な部分として、組織体の意志決定過程や、口頭コミュニケーションとの関係、身体的記憶と文字記録などの諸問題をレジュメの構成の中に入れるべきであるが、それらの研究課題のサーヴェイは、今後の課題としたい。

 

 

 

 

 

 

 

『記録史料の情報資源化と史料管理学の体系化に関する研究』
(国文学研究資料館史料館の特定研究、研究レポートNo.1収録)