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『竹取物語』と神道

「『竹取物語』と神道」
 『竹取物語』と神道という問題の立て方は、これまでほとんど存在しなかったと思う。これは文学研究においても歴史学研究においても、神道という側面からものごとを考えることが一つのタブーになっていたことの反映ではないだろうか。それは折口信夫の仕事を、彼の神道者としての思想とは別のところで利用するやり方にもあられているように思う。
折口の神道論と「忌み」
 折口は「日本の神道で最大切に考えていたものいみ」とは「ものがなる為には、ぢっとして居なければならぬ時期がある」ことの自覚であると述べたことがある(「霊魂の話」全集三)。この折口の指摘を手がかりとして、『竹取物語』の内部に反映している神話世界の諸相を追っていくと、八世紀から一〇世紀にかけて、つまり奈良時代から平安時代初期にかけて、神話的な心意が折口のいう神道の「忌み」の心意に移行していく様子をたしかに知ることができる。もちろん、そこには「忌み」の外側の世界の無視がある。逆にいえばそこに実現される「清浄」とは、武士ー下人・非人の構成する暴力的なシステムによって「穢」が処理されるという赤裸々な実態があったというべきであろう。『竹取物語』が武士とその家人の姿を描いた最初の物語であることの意味はなまなかなものとは考えられない。
 しかし、そこには明治の国家神道のような強ばった形式性はうすく、歴史学と文学がともに分析の対象とすることが可能な人間性の世界が露頭しているようにも思うのである。私は、このような『竹取物語』の読み直しは、意外と深いところで、平安文学の読み方に影響するのではないかと考えるのであるが、それは最後にふれるとして、まずテキストから論じていきたい。
『竹取』の「不審本文」と「十六所祈祷」
 よく知られているように『竹取物語』には「不審本文」というものがある
が、その中でも理解が困難とされているのは、車持皇子の段に出る二つであろう。その第一は車持皇子が蓬莱島に到着した時に「我が名はうかんるり」といったという部分である。これは、従来、たとえば「宝冠瑠璃」の間違いであるなどといわれてきた。しかし、これは「『我が名は若翁(わかんどうり)』と云ひて、ふと山の中に入りぬ」(「俺は王子」だと名乗ってすぐに山の中に入った)と読むべきであると考える。もしこれが正しいとすれば、これは知られる限りでは若翁という用語の九世紀での唯一の例であって、王権論にとってきわめて重要な発見である。
 難解とされる第二の不審本文は、やはり車持皇子の段、彼が蓬莱の玉枝を偽造しようとして、密かに鍛冶工を集める場面の次の一節であろう。
垣を三重にし籠めて、皇子も同じ所に籠り給ひて、知らせ給ひたる限り十六そをかみにくどをあけて玉の枝を作り給ふ。
 この一節の冒頭の部分は、どの写本でも「かまとを三重にしこめて」とあるが、これでは意味が通らない。これについて、内田順子氏は論文「偽玉の枝作りの工房ーー『竹取物語』の本文と解釈」(『国語国文』六五-一)で、「かまと」は「かき」の誤写であるとする。たしかに「ま」がきわめて細い字で、「と」の下部の屈曲があったとすると「き」でよい。「しこめる」というのは垣根を作って囲むという文脈で使われる(『源氏物語』に他の用例)もので、その目的語として「垣」の方がふさわしく、「三重の垣」という言い方も『宇津保物語』にある。隠れ家のまわりに垣を三重にするというのは、文脈にぴったりである。これは見事な校訂で、鉄案であると思う。
 そうだとすると、問題は後半の傍線の部分で、これまでたとえば、「領知する限りの十六所の荘園を」などと解釈されてきた。しかし、この時代を専攻する歴史家には、「十六」といえば、「十六所祈祷」が思い浮かぶ。「そ」は変体仮名の「所」が使われているので、「十六所」でよい。そして、「十六そをかみに」の「を」を目的格の「を」と読まず、「をかみ」を「拝み」と読めば、「知る限りの十六所拝みに」となり基本的に話が通ずる。そして「くど」は「竈突」。『名語記』は、家の竈神のそばにあける煙出をいうとあるが、ようするに「竈突=煙出」である。神に祈るためには、煙をあげなければならないという考え方は古くからあるので、まさにそれだということになる。
 以上は、昨年出版した『かぐや姫と王権神話』(洋泉社)という新書の巻末に『竹取物語』の全文翻刻を乗せる作業をする中で考えたことである。その当否について御検討願えれば幸いであるが、もし、これでよいとすると、これは、平安時代の宮廷神道の成立にかかわるたいへんに重要な発見となる。「十六社祈祷」とは伊勢を除くと大和・山城の有名神社に対して行われた一種の集合祈祷のやり方である。ところが、従来、十六所祈祷の初見は昌泰・延喜年間(八九八から九二三年)とされているので、もし『竹取物語』の成立を現在の通説通り、九世紀の末と考えてよいとすれば、この史料は、十六所祈祷の初見史料になるのである。
 しかも、それは単に一つの歴史用語の「初見」の発見というレヴェルの問題ではない。つまり、「若翁=王子」という地位にある人物が、この十六社祈祷をするという物語のプロットからすると、これは九世紀末には、宮廷社会あるいは王権の中枢で、一定度、安定したやり方であったということになる。そして、成立過程からいうと、十六社とは、宮廷が様々な祈祷に際して九世紀に広がった名神という神格をもつ諸社の中から選抜した神社である。その意味で、これは律令制下の奉幣を中心とした官社制度から平安時代的な宮廷神道への変化が、すでに九世紀末には文学素材となるほどに発展していたということを意味するのである。そして、これが後に「二十二社」に展開する宮廷神道の基本組織となることはいうまでもない。
広瀬神社ー『竹取物語』の舞台
 問題は、このような神道に関わる用語が『竹取物語』に登場することを単なる偶然とみるか、あるいは『竹取物語』と神道との間に何らかの内在的な関係があると考えるかであるが、私は後者の立場に立ち、上記の著書で、『竹取物語』は、ある意味で神話から宮廷神道への移行を象徴する物語であると考えた。
 それはまず第一に『竹取物語』の舞台をどう考えるかに関わっている。つまり、『竹取物語』の舞台は、様々な徴表からいって、生駒と金剛山の連なる大和国の西側、より具体的には、広瀬神社の境域であると考えることができる。広瀬神社の南に広がる広瀬野は『春日権現験記絵』の一説話によっても、月の神話、「月に光る竹」の神話をもち、その東南には式内の讃岐神社がある。そして、広瀬神社には「物忌女」がいたことが八〇一年(延暦二〇)の法令によって分かるが何よりも重要であろう(『類聚三代格』巻一)。もちろん、物忌女は他の神社にもいたが、天武の時代に広瀬大忌祭が特別に重視されたことはよく知られている。かぐや姫はすべてをはぎ取ってしまえば、広瀬神社の物忌女なのである。この時代、女性たちは、厳粛な物忌に際して、竹珠の環飾りを身にまとった。カグヤ姫は竹の精であったから、その意味では広瀬大社の物忌女の霊力を象徴する存在であったということもできるだろう。
 かぐや姫が「月の顔見るは、忌むこと」といわれるというのは、かぐや姫が長期の「忌み」の中にいたことを示している。カグヤ姫の眺める月が、広瀬野にかかる月である以上、彼女の忌みの背景には広瀬神社の大忌祭がある。広瀬の大忌祭は、四月と七月の二回にわたって行われるが、その大忌みに奉仕する女性は、かぐや姫と同じように、その年の「春のはじめ」から物忌を始め、立夏四月から、立秋七月にかけて厳粛な物忌みの中におかれたはずである。つまりカグヤ姫と広瀬の物忌女の忌みの長さは、ほぼ同じなのである。
 女性史家の関口裕子氏が鋭く論じたように(関口裕子「日本古代における姦について」『日本古代婚姻史の研究』)、「物忌女の奸」は「采女の奸」と同様に厳しく制限されていた。『竹取物語』は、王はそのタブーを犯す権利があるという物語であったということもできようか。王が狩猟にことよせて女に手をかけるという点で、『竹取物語』が『伊勢物語』と同じ物語であることはいうまでもない。『竹取物語』も『伊勢物語』もかって『平安時代』(岩波ジュニア新書)で簡単に論じたように、九世紀に盛行した王権と貴族の狩猟とその場での女性獲得をベースとした物語の一種なのである。
 広瀬神社は、もちろん、右の十六社にも入る著名神社であるが、『竹取物語』は、その周辺に存在した「月の神話」を母胎としたものと考えることができる。神話の時代は、まだ遠くはなっていないとはいえ、宮廷が神社を尊崇することによって宗教の主体となるという脈絡においては、宮廷の側で宗教を受容する地盤として物語が必要となる。そのような文脈において、神話から物語への転換が起こり、それは神話から神道が分離してくる過程のパラレルであったというのが私見である。
宮廷神道の文学化
 第二には、『竹取物語』がそもそも宮廷の神道儀礼の文学化であったということである。『竹取物語』が新嘗祭五節舞姫の儀礼と関係することについては多くの指摘があるが、それは九世紀に成立した宮廷神道の儀式をいち早く文学化したものであるという宗教論的あるいはイデオロギー論的な視点も必要であろう。五節舞姫の舞踏が月の女神「豊岡姫」への奉仕であることは、『源氏物語』少女の「あめにます豊岡姫の宮人もわが心ざすしめをわするな」という和歌に明らかであるが、それは単なる宮廷儀礼ではない。少女たちの中には月神への信仰心理が深く根づいていたのであって、五節舞の場で月神の導きによって天皇あるいは尊貴な貴族と出会うというファンタジーが巣くっていた。これが宮廷奉仕のイデオロギーの内面化であり、少女たちにとって最大の緊張のもとであったことは、彼女らの五節舞の際の振る舞いをしめす諸史料に明らかである。歴史研究の一つの出発点が儀礼研究にあることは制度研究と同じであるが、儀礼と制度の現象形態のレヴェルに自足するのではなく、その内側に入り込むためには、宮廷史研究において神道論を踏まえたイデオロギー論的視野が必要であろう。
 このような女性の神道儀礼への参加の延長線上に、宇多の時、神鏡を他の二神器と引き離して温明殿において内侍所として女官の管理の下におくという動きがあった。私は松前健氏の仕事に依拠して、宮廷神道の制度的な成立は、この神鏡の別置の時点に求めることができると考える(参照、松前健「内侍所神楽の成立」『平安博物館研究紀要四号)。これに対して、平安期の宮廷神道の解体は、堀河天皇の死去に際して、後三条院の祟りや崇徳の魔王化という院政期の状況によってみちびかれたと考えることができる。後三条の祟りがささやかれた堀河は「心神迷乱、言語能わず」という危篤状態の中で、「せめてくるしく覚ゆるに、かくして心みん」と称して、天皇位の象徴である八坂瓊勾曲玉の入った「しるしの箱」を胸の上におかせた。そして、その堀河を最後まで看病した讃岐典侍・藤原長子が、「前朝の御霊」が乗り移ったと称して、堀河の子・鳥羽守護のために内裏に常在することを許され、さらに中宮璋子に侍って、「内侍所」に皇子誕生の祈請を行っていたが、崇徳の誕生後に、「邪気」におちいり「大事」をいいだして「上皇御気色」によって院から「参内」を停止されたという(保立『平安王朝』)。
『更級日記』と内侍所
 内侍所が女房世界の奧に存在する空間であることは、『更級日記』の重要な主題が内侍所との関わりにあったことに明らかである。つまり、「天照御神(あまてるおんかみ)を念じ申せ」といわれて、「いづこにおはします。神か仏か」と聞き返したという記主の軽々しさが、内侍所の博士の命婦との出会い、初瀬詣での命婦の夢などの中で内省を遂げるというのが『更級日記』をみちびくもっとも重要なプロットなのである。このエピソードが示すように、普通の貴族女性にとっては、宮廷神道の儀式神は月神のトヨウケだったのであるが、宮廷神道の格式化は、内侍所守宮神=アマテラスの正統性を高めた。私は、こういう女房たちの要求をうけて初瀬長谷寺の本尊の十一面観音の脇侍にアマテラスの両性具有の姿態としての雨宝童子が立ったものと考えている。私は以前、「秘面の女と鉢かづきのテーマ」という論文を書いたことがあるが(保立『物語の中世』東京大学出版会)、その観点は「中世」に極限されており、鉢かづきが長谷観音の申し子であったことの意味にさかのぼってテーマを解釈することができていなかったと考えてる。この問題は西郷信綱「長谷寺の夢」(『古代人と夢』)のレヴェルにさかのぼり、平安期の宮廷神道の内実を考える中で再度論じなければならない。
 ともあれ、平安女房文学は神道によって深くしばられているのであるが、それは神道が、都市宮廷の清浄を維持するための都市的な宗教システムとして成立したものである以上、当然のことであった。とくに九世紀の後半になると、女性の生理的な周期と月経そのものを穢とする習俗が、神社神事(伊勢と賀茂)や朝廷儀式から始まって(西山良平「王朝都市と<女性の穢>『日本女性生活史Ⅰ』)、さらに徐々に地方社会にまで一般化していったことである。それが貴族社会の女性たちに染み通り、いわば通俗道徳として身体化されていたことは、たとえば、『蜻蛉日記』(一一六段)は、月経があけることを「清まはる」と記し、立春の忌月である正月早々に女性が「不浄」(月経)に入ることは「人忌むといふ」というと述べていることなどに現れている(一三九段)。
神道と身体暦・農事暦
 神道は本来的に農村的なものとされがちであるが、むしろ都市から農村に展開していったものである。この点に注意しながら、この女性の忌籠の様子をみていくと、まず上記のように『蜻蛉日記』に記された正月のタブーは、全国各地の郷村で農事慣行と連動して行われた二月氏神祭りにむけての齋であったろう。そして次の忌籠は、立夏、旧暦四月の忌籠であって、それは、旧暦四月一五日を中心とする初夏の氏神祭りにむけてのものであった。『蜻蛉日記』の記主も四月から忌みに入って五月に忌みをぬけており、これは立夏の忌籠といえよう。
 そしてかぐや姫が「七月十五日の月にゐでいて、せちに物思へる気色なり」という状態に落ち込んだのは、七月立秋の忌籠に対応するものと考えられよう。この立秋の忌籠が翌八月稲作の収穫の開始という秋の農繁期の前の忌籠であったことはいうまでもない。この時期はお盆にあたることもあり、性的な交わりには禁忌が強かった。また八月始めに妊娠するとすると、その子は、だいたい翌年四月末あるいは五月初めに誕生ということになる。平安時代の歴史物語として有名な『大鏡』に、「五月にさえ生まれてむつかしき」といわれているように、当時、五月生まれの子供は父母を害するなどという禁忌が強く、人々は五月に子供が生まれるような妊娠をさけていたフシがある。この立秋の忌籠の様相は、御盆や夏安居などの仏教行事のかげに隠れて、民俗行事として十分な形跡を残していないが、盆釜や盆小屋などといって女や子供が煮炊きをしたり、籠もったりする風習が注目される。また、この季節は海から夏の御霊がやってくるため、人々は水浴をし、様々な眠り流しの儀礼を営み、八月一日の八朔以降は昼寝の季節が終わるともいわれている(以上、氏神祭りにおける身体暦と農事暦の重層については保立「巨柱神話と天道花」『物語の中世』を参照)。
 平安女房文学の研究が都市とそこに棲む貴族女性に視野を局限するのではなく、広く地方と農村の深部にまで視野を広げていくためにも、むしろ神道の都市的正確を正確にふまえ、その地方拡散を視野に入れていった方がよいのではないだろうか。
益田勝実『火山列島の思想』
 以上、『かぐや姫と王権神話』での述べた論点をさらに敷衍して、平安時代の宮廷神道の都市的性格と「清浄」価値という側面から平安女房文学を考えるという試論を述べてきた。ある文学研究者からは、このような『竹取物語』論は、いわば身も蓋もないという感想をいただいたが、私としても、『竹取物語』をそのような社会論的諸問題の中に極限しようというのではない。
 そして、それは神道のもつより本源的な性格とも関係をしている。かって、
益田勝実『火山列島の思想』は神道の普遍的な根源には、この列島における火山の猛威に対する絶対的な「忌み」の信条があると述べた。私も、『竹取物語』には、その意味での火山列島の思想が籠められていると考える。その意味で神道にせよ、『竹取物語』にせよ、そこにはその時代的な制約をこえて受けとめるべき中身があると考えている。
 しかし、『竹取物語』の最後が、富士山頂における不死の薬の焼き上げにおわっていることは王権と国家による火山との絶縁の意思を象徴するものでもあったことは否定できない。私は、この部分の『竹取物語』の「かの奉る不死の藥に又壺ぐして御使にたまはす」という原文をやはり「かの奉る不死の藥の文、壺具して、御使に賜はす」と校訂し、ここで不死の壺と同時に、かぐや姫の天皇あての手紙が焼かれたと解釈して、それによって国土と自然に対する超越的な姿勢を示すという趣旨をより明瞭にとらえることができると考えた。
 九世紀は、大地動乱の時代であって、とくに淳和天皇以降、噴火と地震の日常化は都市宮廷に大きな不安をあたえた。とくに九世紀半ば、八六四年(貞観六)の富士の大噴火、さらに今回の東日本太平洋岸地震と同型といわれる八六九年(貞観一一)の貞観津波(マグニチュード八、三)、さらに光孝天皇が内裏の庭に避難して夜を明かした八八七年(仁和三)の東海・南海のプレート間地震(マグニチュード八、0ー八、五)のみでなく、京都での有感地震がきわめて多かった。光孝天皇は仁和地震の直後に死去しており、清和天皇の退位期は「天火」と噂された大極殿の炎上によって暗いものとなった。そういう中で、宮廷文学としての『竹取物語』が自然からの超越を描き出し、宮廷社会が、その文学的カタルシスを歓迎したことは想像にかたくない。
 このような評価はやはり身も蓋もないものであるかもしれないが、しかし、『竹取物語』をどう相対化するかを考えた場合に、この大地動乱の時代を前提として問題を再検討することも必要ではないだろうか。とくに、文学的に昇華しやすく、王権との親和性も高いテーマとして火山が選択され、現実の神話としては大きな位置のあったはずの地震と地霊の神とは離れた世界が描かれることを無視することはできないと思う。