日本史研究の名著30冊
日本史研究の分野には、誰でもが「名著」と認める著作は極めて少ない。「大著」はあっても特殊すぎるか、偏っているかというのが実際で、その意味で日本史はまだまだ発展途上の学問である。 まず「Ⅰ読書の初め」の5冊は次の通り。
そこで、ここでは第一に「読書の初め」5冊、第二に「史料の読み」5冊、第三に「学際からの視野」6冊、第四に「研究書の世界」8冊、第五に「研究基礎ー歴史理論」6冊にわけて紹介した。
ただし、以下の内容の基本は著書『日本史学ーー基本の30冊』(人文書院ブックガイドシリーズ)に収録されたので、ここでは30冊の紹介の小見出し、そして冒頭の一節のみを掲げることとした。
また、そののちに、一部から五部のおのおのの導入の文章を掲げた。
これまではすべてオープンにしていたが、出版契約にともなって全文を掲げることは無理となったので、詳しくは著書を参照されたい。
1森浩一『わが青春の考古学』ー歴史学の青春(ちくま文庫、初出2002年)
考古少年として
同志社大学の学生として
本格的な古墳発掘を主催する
考古学というと、私が思い出すのは、『新編日本史研究入門』の冒頭の論文「考古学への招待」で、甘粕健さんが次のように述べていることである。
「考古学の大きな魅力は、美しい野山に散在するさまざまな遺跡を自らの足で訪ね歩き、また自ら汗を流して発掘し、そこに展開された人間の営みを追体験するところから出発する健康な野外の学問であるという点にあるだろう。」
こういう感じ方は、第二次世界大戦後に10代を過ごした、いわゆる考古少年たちの共通の経験であり、共通の立脚点であった。その事情をもっともよく示すものとして、森浩一の『わが青春の考古学』をあげておきたい。森は甘粕より2歳年上であるが、この本は森が14歳の時から遺跡の調査を開始し、23歳の大学を卒業まえに、黄金塚古墳の本格的発掘を遂行したという破天荒な青春の記録である。この年齢で現在でも考古学の学史に残るような発掘調査を主導したというのは信じられないことだが、そういう時代だったらしいのである。
2青木和夫『奈良の都』ー奈良王朝のエネルギーを明確に描き出す(中公文庫、初出1965年)
奈良の好きな人は必読
青木の韜晦と歴史観
歴史の謎への感性
私は、都立大学の修士課程のとき、非常勤で来られた青木先生の授業をうけた。最初の授業で、先生は、自分の夢は、もし奈良時代に時空を超えて行くことができるとして、朝、起きて、官吏の着る服をきちんと着て、奈良の都の大内裏の門を入って役所まで疑われずに行くことだ。それだけの知識と感覚をもちたいと言われた。『奈良の都』は私が最初に読んだ日本史の本の1冊であっただけに、これはたいへんに印象的であったが、正直、歴史学者というのは奇妙な人種だとも思ったことをおぼえている。
『奈良の都』は中央公論社版の『日本の歴史』の1冊である。後に知るようになったことであるが、このシリーズは、戦争から解放されて学問をはじめた世代の歴史家が、戦後二〇年の成果を注ぎ込んだもので名著が多い。そのなかでも、この本は格が高いと思う。政治史が中心だが記述の筋は明瞭に通っていて、しかも文化史も社会史も基本的なことはすべて書いてある。
とくに青木は、この本を出してからちょうど10年後に、もう1冊、今度は小学館からでたシリーズ『日本の歴史』にも『古代豪族』という巻を書いている。時代ごとの概説の巻で、「古代」を通じて「豪族」を論じたものである。これがちょうど『奈良の都』を地域の側から補説するものになっているので、この2冊をまとめて机辺においておくとよいと思う。
3藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』ー飢饉からみる歴史 (朝日選書、2001年)
応仁の乱の底流ーー大飢饉
武装する戦国時代の村
歴史学にとっての藤木の仕事
「七度の餓死に遇うとも、一度の戦いに遇うな」
本書は、戦国時代の「戦争」のベースには「飢餓」があったことを明らかにしている。右にかかげた徳川時代のことわざは、ベースにある飢饉の上に、さらに戦争が重なってきたときの恐ろしさを表現したものということになる。そして、藤木は、その惨酷さを「内戦」という言葉で表現する。現在も世界各地で戦われているような泥沼の「内戦」が日本にも存在したのだという感じ方を読者に要求するのである。
戦国時代は1467年(応仁1)の応仁の乱からはじまるが、その底流には京都が難民の滞留する飢餓の都となっていた事実がある。そしてその飢えは、応仁の乱の四六年前、1420年にはじまった大飢饉、元号でいえば応永の大飢饉から蓄積されたものであるという。
4塚本学『生類をめぐる政治ーー元禄のフォークロア』ー人類と動物の関係史(講談社学術文庫。初出1983年)
鉄砲・鷹・犬
捨子と生類憐み政策の本質
元禄時代のイメージの刷新
『生類をめぐる政治』は、「犬公方」として知られる徳川綱吉の生類憐み政策がけっして将軍の気まぐれというようなものではなく、徳川社会が戦国期の雰囲気を清算して、国家・社会の文明化を推進したという点で必然的なものであったことを論じ、徳川時代史研究の方向を大きく変えた本である。その文明化の方向は、最近の深谷克己の言い方では、東アジアの法文明化であり、中国化の極点ということだろう。当時の東アジアは夷狄(「清」)による中華(「明」)の侵略、清が明にとって変わった、いわゆる華夷変態・華夷逆転の時代である。塚本は、この中で、綱吉政権は、日本こそが「中華」と「儒教」を代表するという抱負の下に体系的な政策をとったという。
塚本の視野は深く長いが、しかし、その叙述はいわゆる蘊蓄をかたむけるというスタイルで、趣味的だといって批判的な研究者も多い。しかし、こういう史癖は、歴史学の研究、とく徳川時代の研究には必要なものだと思う。そもそも徳川時代というのは中国の諸学問を本格的に輸入し、その方法にもとづく膨大で詳細な知識の体系が日本ではじめて生まれた時期である。塚本は、それらに広く目を通し、それをもとに蘊蓄をかたむける。その文明論的な考察は、ときどき塚本の史癖と微妙な不協和音を響かせ、一瞬、著者は何を言っているのだろうと、文脈の流れがみえなくなる。けれども、それも史書を読むことの一つの醍醐味であろうと思う。
5米田佐代子『平塚らいてう――近代日本のデモクラシーとジェンダー』ー女性運動の輝きと挫折(吉川弘文館、2002年)
『青鞜』と夏目漱石
フェミニズムとアナキズム
らいてうの輝きと神智学
らいてうの父、平塚定二郎は、ドイツ遊学をへて会計検査院の基礎を作った明治政府の高級官僚である。第一章「『父の近代』との葛藤」は、らいてうが明治「近代」国家を体現する父との齟齬に傷つき反抗したことを論じている。それは「近代」に対する反抗であった関係で、なかば「反近代の抵抗」であり、女性であることを拒否し、「禅」に帰入して自己に神性を発見したのちに、自分の官能と肉体を発見するというものであったという。らいてうは、そのなかで、いわゆる「禅狂」に走って、文学の師であった森田草平と「心中」事件を起こす。
Ⅱ史料の読み
1岡田精司『古代祭祀の史的研究』ー祭儀神話論の到達点(塙書房、1992年)
折口信夫の学統
伊勢神宮と河内王朝論
神話論の最高の達成
奈良王朝は「法(律令)と制度」が優越した国家のようにみえるが、現実には、倭国の王権は社会の上層から下層までを「神話と系譜(族姓)」によって連結させていくシステムをもっている。これをとらえるには、まずセンスが問題になるので、古代史の研究にこころざす人は、六国史や律令を読む基礎的な訓練と併行して、岡田精司の著作に親しんでおく必要がある。岡田は、古代王権中枢部の「祭祀」と「神話」の史料を精密に読んで、それを復元し、両者の相互関係を解き明かしながら、この時代の歴史と社会を総合的に捉えようとする。
本書は岡田の第二論集であって、第一論文集『古代王権の祭祀と神話』が「祭祀」と「神話」という問題全体のボーリングであるのに対して、祭祀の側面についての専論となっている。残念ながら、神話の側面についてはまだ一書はまとめられていないが、『岩波講座日本歴史』2に発表された雄編「記紀神話の成立」(1975年)があり、問題をとらえるためには、つねにこの講座論文を参照する必要がある。
2笠松宏至『法と言葉の中世史』ー異質で多様な中世の<界>(平凡社ライブラリー、初出1984年)。
人の「界」・物の「界」
笠松法史論のエッセンス
笠松の研究論文集に挑もう
本書の多面的な内容を一言で説明するのはむずかしいが、扉裏の説明によれば、そのテーマは「中世には、現代とは勿論、古代とも近世ともちがう諸々の界があった。<もの>に限らず、人には広狭さまざまな地縁的な界もあれば、血縁的な<親族境界>もあり、さらには当然ながら中世独自の<行為>の界もあった」ということにある。それに対して、現代の世界はすべてが商品として貨幣に還元され、「物」のゴツゴツした触感と明瞭な陰影をもった境界はなく、人間さえも透明で平均化されているようにみえる。
しかし、笠松が描き出した中世社会に特徴的な物の「界」を見つめていると、今でも世界の深層には、<もの>と<ひと>が本来所属する場、その精神的あるいは自然的な秩序があるのかもしれないと感じる。そういう省察を可能にするような異世界の像を提供することは、たしかに歴史学の重要な役割の一つなのである。
3水本邦彦『近世の村社会と国家』ー地域からの国民国家形成(東京大学出版会1987年)
徳川期の古文書の勘定高さ
「村」の読み方ー自治と行政
『徳川社会論の視座』
徳川時代の史料はわかりやすいというが、その文体は読みにくいように感じる。つまり、室町時代までの古文書の文体は変形漢文といわれる倭語化した漢文である。漢文を習っていれば、それなりに読むことはでき、だいたいの意味も漢字から推定できる。これに対して、徳川時代の史料、とくにその前半期の史料は、いわゆる「そうろう文」になり、俗語・口語がふえ、舌足らずな感じが残る。その文体と用語の起源は、おそらく室町時代の地域村落=「惣」の掟書・置文などにあるといってよいだろう。
考えてみれば、老中・年寄・若年寄などという徳川幕府の役職名自体が、律令用語や室町時代までの「執事・管領」などの武家職制の用語とはまったく異なっている。若年寄というのは変わった言葉であるが、それは「老若」などといわれた「惣郷ー惣村」の自治組織の呼称の系譜と対応するらしい。徳川前期の村落関係文書は、支配層から村落に充てられるものもふくめて、そういう田舎のにおいが強くなる。それらは、中国文明の表記法から離れて日本で独自に作られた文体であったといえると思う。その意味では、徳川幕府の形成とは、いわば純粋な国民国家の制度が地域社会の基礎から作りだされていく過程でもあったのである。
4中村政則『労働者と農民』ーオーラルヒストリーによる近代資本主義の暗部(小学館、『日本の歴史』1976年)
言語に絶する社会
日本資本主義を論ずる
「動き出した民衆」と大正デモクラシー
残る巨大な謎
本書は、人々からの聞き取りを歴史学の史料として使った最初の本格的な試みである。著者の中村は「この10年間、私がこの足で歩き、直接に会うことのできた、なかば有名、あるいはまったく無名の人々を主人公としてえらんだ」と述べている。中村は、企業人事書類、地主書類、小作・雇用契約書などの膨大な文献史料の精密な分析の上にたって、多くの人びとに会うために各地を歩き、大量の談話のメモとテープを作成した。中村は、「いまは、明治生まれの人たちの体験談を記録にとどめることのできる最後のチャンスだという判断があった」としている。中村が、これにもとづいて、後年、『昭和の記憶を掘り起こす』というオーラル・ヒストリーの方法と実践の書を書いたことも特筆しておきたい。
5武田清子『天皇観の相剋』ー戦後の天皇制は誰が作ったか(岩波書店現代文庫、2001年、初出1978年)
キリスト者の戦争期経験
アメリカ国務省の知日派ーージョセフ・C・グルー
終戦の経過を正確に認識する意味
現代日本における天皇のあり方は国内的な政治によってきめられたものではない。それは第二次大戦後の国際情勢の中で作られたものであって、それ故に、現憲法における天皇の位置を歴史的に考察するためには大量の外国語史料の蒐集と分析が必要である。
本書は、その初めての試みである。今から40年前にこれが可能だったのは、著者が国際キリスト教大学教授に就任後、1965年から2年間、プリンストン、ハーバートの両大学で過ごす機会をもてたためであった。武田は、このとき、アメリカの対日政策の中心にいたジョセフ・バレンタイン(国務省極東部長)、ユージン・デューマン(戦前のアメリカ大使館顧問)、さらに学者ではヒュー・ボートン(近代日本史、ハーバート大学長)、さらにはエドウィン・O・ライシャワー(駐日大使、ハーバード教授)などにインタビューを重ね、しかも彼らのアドヴァイスによって、多くの史料を蒐集することができた。
実は、私は国際キリスト教大学で著者の指導をうけたが、著者の自伝的メモによれば、武田は何人もの男衆をかかえた関西の古い地主の家で、生け花や琴などの生粋の日本文化のなかで育った。しかし、母の薦めで、ミッションスクール神戸女学院に入学し、大学部三年のときに受洗したことが人生の転機となった。浄土真宗の信者であった母は信仰に入る以上、一生涯それを守り抜けるかと質した上で、それを容認したという。
Ⅲ学際からの視野
1ネリー・ナウマン『生の緒』ー海外からの日本神話研究(言叢社、檜枝陽一郎訳、2005年)
ウィーン大学日本研究所で学んで
縄文宗教の中心は「月神」
土偶にとぐろをまく蛇
本書は日本史研究が先史宗教論(神話学)との学際研究を作っていく上で緊要な位置にある著作である。現在、この分野の学際研究はきわめて低調であるが、そのような状況から脱出するためには、ヨーロッパの神話やフォークロアの研究レヴェルをふまえた、ナウマンの明解な日本神話論は是非知っておくべきものである。
現在では、本書のほか、『山の神』『久米歌と久米』『哭きいさちる神』などの著書が翻訳され、ナウマンの仕事はよく知られるようになった。しかし、ナウマンの仕事が知られるようになったのはたいへんに遅れた。たとえば最初の著書『山の神』は「山の神=田の神=祖霊」という柳田のシェーマを詳細な点検によって乗り越え、朝鮮・中国・東南アジアの諸事例を縦横に引証して、日本民俗学のもつ「一国民俗学」といわれる傾向を、きわめて早い時期に批判した仕事である。その原文発表が一九六三年、その趣旨は一九七五年の柳田国男生誕一〇〇年記念国際シンポジウムで報告されたものの日本の学会には受け止められなかった。、訳書によって、その中身が知られるようになったのは一九九四年。約三〇年の差があったのである。
2石橋克彦『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会』ー歴史地震学の到達点(岩波書店、2014年、叢書、震災と社会)
南海トラフ地震の通史
アムールプレート東縁変動帯仮説
地震学からみた核発電所
歴史学・地震学・防災学
本書は南海トラフ巨大地震の歴史についての初めての歴史的・総合的な分析であり、また歴史地震の科学の最良の入門書であり、そして21世紀に相当の確度で発生する南海トラフ地震について、社会はどう考えるべきかについての提言である。本書副題の通り、南海トラフ巨大地震の「歴史・科学・社会」を全面的に論じた書として、この列島で仕事をする歴史学者はかならず読んだほうがよいと思う。
私は、1995年1 月17日の阪神大震災のしばらく後に神戸大学で集中講義を担当した。その翌日、震災に対する国家的な個人補償を要望する市民集会で、平安時代末期の地震についての講演をしたのが、はじめて歴史地震の史料を取り上げた経験である。神戸市内の惨状が記憶に残っていることもあって、この経験によって歴史資料の保存運動に取り組みだした神戸大学の歴史学者たち、そしてそれ以降、災害が起きるたびに、痛んだ歴史資料を修復し、保存する運動を始めた各地の歴史研究者たちには頭が上がらない。
3成沢光『政治のことば』ー政治学からみる歴史の細部(講談社学術文庫、初出1984年)
成功している丸山真男批判
「万機公論に決すべし」とは何だったか
日本社会の集団性をどう見るか
「マツリゴト=政事」とは「祭事」のことで、祭政一致の日本の「国体」をあらわすというのは、古く北畠親房が『神皇正統記』で述べたところである。しかし、これが俗論に過ぎないことは、本居宣長が奉仕を「マツル」と訓読みすることに注目して「政とは奉仕事である」として以降、よく知られたことである。
実際、竹下登という総理大臣さえ、「政治」は「ツカサ々々」を束ねて粛々と「ご奉仕」する仕事であると称していたし、政治学の丸山真男も、同じく本居説にのっかって「政事の構造」を論じた。丸山は、政治家は決定を「マツリゴト=奉仕事」という意識でやるから、最後までは責任を取ろうとせず、また天皇は正統性を保証する象徴にすぎないから、そこも無責任ということになっているとする。丸山は、これをもって日本の政治の特徴が「無責任の体系」にあるという議論を展開したのである。「日本人」はこういう「語源」の説明が好きで「日本文化論」に弱い。そのうえ「無責任だ!」という非難の言葉の呪力も相当のものである。
丸山のいうことに意味がないというのではないが、歴史学者からみると丸山の議論は実証手続きが十分でなく、王権論(天皇制論)としても十分に論理的なものとはいえない。ともかく、この種の言葉、本書のいう「政治のことば」の説明に簡単に納得してしまうのは危ういことが多い。私たちは言葉を使っているつもりであるが、実際には、言葉は私たちの外にあって、私たちの心をしばっているのではないか。
4安藤礼二『場所と産霊』ー国際性の観点に貫かれた思想史(講談社、2010年)
大日本帝国の支配思想はイギリス由来か
アジア主義の系譜と折口信夫
神秘主義は恣意的になる
「戦後派歴史学」においては、日本帝国の支配的な雰囲気にあらがった人々、たとえば哲学でいえば、三木清・戸坂潤・中井正一などの思想を知っておくことは必須の教養であった。その上で、私たちは、「思想史」を民衆意識の深みから捉えなおす視座に立った、安丸良夫や鹿野政直の仕事によって育てられてきた。しかし、最近の歴史学においては、「戦後派」の位置が軽くなっており、それと軌を一にするような形で、これらの哲学者が読まれることが稀になってきている。
こうなった事情の一つは、現在的な思想が、まずその世界性を要件としていることにある。グローバルな資本と情報の動きの中で、思想の説得力は、いよいよそのインターナショナルな実質にかかってきている。その中で、日本の哲学や思想への関心が薄くなるのはやむをえないのかも知れない。しかし、もし国際性の観点に貫かれた思想史というものが成り立つのならば事態は変化するのではないか。「近代日本思想史」という副題をもつ本書は、そういう希望をいだかせるのである。
もちろん、本書は従来の思想史とはある意味ではまったく逆の方向をむいている。何よりも、取り上げられるのは、鈴木大拙・西田幾多郎・南方熊楠・高楠順次郎・大川周明・折口信夫など、大日本帝国の支配的思想に近い立場の人々である。しかも、安藤の仕事は、これらの人々の生涯の追体験という要素をもち、必然的に若干の共感の色彩さえもっている。しかし、本書が導きだした論点はそれを越えて、あまりに重大である。つまり、本書は大日本帝国の支配思想が、実は一九世紀末期からの帝国主義の時代の国際的な思想のネットワークの中で説得性を確保していることを明かにした。
5福田アジオ『柳田国男の民俗学』ー民俗学に何が可能か(吉川弘文館、1992年)
柳田国男という人
歴史学にとっての柳田の親しさ
柳田国男を超えるために
現在の日本のように学者・政治家・官僚が意思を疎通することのない民主主義国家は珍しいのではないかと思う。明治憲法体制のなかでは、福沢諭吉・吉野作造・美濃部達吉・新渡戸稲造、そして大隈重信・森有礼・石黒忠篤など、学者あるいは学者的な資質をもった政治家・官僚はそれなりの影響力があった。幕藩制国家の解体において「洋学」と「国学」が相当の役割をになった以上、これは当然のことであったろう。それを破壊したのは、昭和の超国家主義であった。もちろん、学術の側にも相当の責任があったとはいえ、しかし戦争は政治の全体から学術を排除するシステムとして、「無謀」なものでもあったのだろうと思う。
柳田国男は、決して豊かではない家から出身しながら、東京帝国大学を卒業の後、農商務省の農政官僚として出発し、すぐに高等文官試験に合格して、法制局参事官、貴族院書記官長(勅任官)、国際連盟委任統治委員、そして第二次世界大戦の終了後に枢密顧問官(親任官)に就任するなど「出世」コースを歩んだ人物である。出発点となった農政経済学では農業の資本主義化と中農の育成、小作料金納制の導入と産業組合の組織などによって分配関係の改良を主張した。また内閣文庫に勤務してその蔵書を読みあさり、さらに早く宮内書記官となり、大正天皇の即位に際しての大嘗祭に奉仕するなど、国家機構内部の伝統・儀式に精通する立場にいて、終生、勤皇を自称していた。
6中井久夫『治療文化論ー精神医学的再構築の試み』ー精神の歴史(岩波書店、同時代ライブラリー、初出1983年)
「個人症候群」と中山ミキ
歴史学と精神医学
歴史家の心
本書の著者は著名な精神医学者であり、治療者であり、詩人である人であって、この本はあくまでも精神医学者へのメッセージであり、一九世紀末ドイツに由来する文化精神医学の伝統を学史的に内省し、日本の精神医学が進むべき方向について論じたモノグラフからなっている。
精神医学は、普通、器質的な心の病としての「普遍症候群」、特定の文化と深く結びついた「文化依存症候群」に分類するが、本書は、さらにその第三の類型として”健常者”とのボーダーラインに「個人症候群」を置いた。これが歴史学に関係してくるのは、本書が、その三つの病相に対応して、おのおのの民族に特有の「治療文化」が存在しているというシェーマをふくんでいるからである。私は、これを読んだ時、「民族」という歴史学にとって扱いに困る問題が、この方法を突きつめることによってみえてくるのではないかという希望をもった。
Ⅳ研究書の世界
1津田左右吉『日本古典の研究』ー実証的『古事記』『日本書紀』研究の出発点(『津田左右吉全集』第一巻、岩波書店、初出1946年)
神話をありのままに読む
道教思想と神話の文芸化
神話学からの津田批判
津田左右吉は近代歴史学の大先達の一人であって、『古事記』『日本書紀』を歴史学的な史料批判の方法によって分析する体系を、まったく独力で最初から作り出した学者である。一九三〇年代、天皇制的な超国家主義が猛威をふるうなかで右翼の攻撃をうけ、その主要著書は発禁となり、早稲田大学を辞任するのみでなく、法廷において神武天皇以下の「実在」を承認させられるところに追い込まれた。その経過を考え、義理から言っても、また先達の苦労を実感するためだけにでも、この本くらいは読んでおきたいものである。柳田国男の文章に似て、センテンスが長いのがとっつきにくいが、覚悟をきめれば、相当のスピードで読める本である。日本史に興味をもったなら、津田と柳田の文章には慣れるほかない。
2平川南『律令国郡里制の実情』ー古代世界の多様性(上下、吉川弘文館、2014年)
国家機構は交通形態から生まれる
郡里レヴェルの役所と交通
石母田「在地首長制論」は有効か
平川は、東北の多賀城の研究所にいたとき、土の中からでてきた皮のようなものを赤外線ビデオでみて文字があるのを発見した。その正体は漆桶の蓋紙に使われて真っ黒になった紙、漆紙。木簡に次ぐ、第二の発掘文字史料の登場である。これは古代史研究のあり方を大きく変えた。つまり、従来の古代史研究は中央集権というイメージの下に、おもに法制度史料の分析が中心で、そのため、国家の地方支配も「国・郡・里(郷)」という地方制度の形式的な枠組にそって論じられてきた。それに対して、著者は、考古学者と協同して、発掘された地域史料を中心に問題を組み立ててきた。本書は、書名が示す通り、古代の「律令国郡里制」の形式的な制度研究に対して、その「実像」を対置したものである。
3黒田俊雄『権門体制論』ー中世国家論のメルクマール(『黒田俊雄著作集』第一巻、法蔵館、1994年)
「武士発達中心史観」への挑戦
権門体制論の問題点
黒田の学説の凄さ
黒田俊雄の仕事は、国家と宗教から身分制度にいたる重厚なもので、中世の研究者の必読書となっている。とくに重要なのは、本書にまとめられている「権門体制論」といわれる国家論であって、ここではそれを解説し、さらに必要な批判も行っておきたい。
新井白石の『読史余論』は、律令時代には天皇が国家を支配したが、柔弱な「公家」が都の実権を握るなかで世の中が乱れ、それを立て直した質実剛健な「武家」が国家を握ったという。いわゆる「武士発達中心史観」である。明治政権も、この枠組を前提として、自分たちのことを果断な草莽の武士が英明な天皇を担いだと理解していた。こうして公家だけが、優柔不断な階級という意味での貴族であって、武家はそれとは違うのだから貴族とはいわないということになったのである。白石のような見方は影響力が強く、「公家=古代的支配階級」、「武家=中世的(封建的)支配階級」などという図式の形で石母田正・松本新八郎などの戦後派歴史学にも残っていた。石母田などの考え方では、平安時代は「古代」であるといい、鎌倉幕府の創建から徳川幕府までの歴史は、そのまま歴史の進歩であるということになる。
権門体制論は、この歴史常識に対して挑戦し、公家も武家も両方とも貴族であることに変わりはないとした。
4網野善彦『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と資本主義』ー網野史学の全体像(洋泉社新書、初出、1997年)
網野の所有論ー「無縁」
資本主義と無縁
網野の宗教論と「神道」
本書は網野善彦の歴史学の全体像を知るのにもっとも適した本である。網野は、本書の「あとがき」で、二一世紀の人類社会が成熟の道を歩むためには、人類社会の経験を総括する役割をもった歴史学の責任は重いとし、「十三世紀に(親鸞・日蓮など)すぐれた宗教家が輩出したように、いまこそ強靱な思想に裏づけられた傑出した歴史家が輩出しなければならない時代である」と述べている。私には、ここまでいう自信はないが、しかし、たしかに、現在、歴史家の果たすべき役割はきわめて大きい。
この網野のメッセージは、人類史における「無縁」の原理というものについての歴史学的な追究を根拠としていた。それはまず、人間にとって自然は「無縁・無用」な存在であるという確認から始まる。私たちは、普通、人間と自然の関係について、どうしても「有縁・有用」な側面に注目しがちであるが、網野は、そうではなく、むしろこの自然の「無縁・無用」な性格が人間にとってきわめて重大な意味をもっているとする。人間は自然を所有・支配するのみでなく、動物として自然の一部である。だから、自己をそのようなものとして相対化し、無所有の自然が人間社会に影響している様子に目を注いで、社会の歴史的な限界を超越することが重要だというのである。
5朝尾直弘『将軍権力の創出』ー兵農分離にもとづく近世(岩波書店、1994年)
兵農分離と「小領主」
朝尾政治史の画期性
朝尾の都市論と「幕藩制都城」
本書を読むには、まず補論「天正十二年の羽柴秀吉検地」から読むのがいい。天正十二年というのは、本能寺の変の翌々年であるが、この検地の目的は武士の家来(給人=「兵」)が村人の土地と個別に関係することの禁止にあった。そして「兵」の土地からの分離のためには、まず村自身が年貢の収納に責任をとり、政権の側にも年貢を集中的に管理して給人に配分するシステムが必要になる。
さらには田畠の面積・等級・年貢額などを統一的に計算するための度量衡の変更が強行される。従来は地域や領主のみでなく収升と払升でも異なっていた升の大きさを統一し、一反を三六〇歩ではなく、計算しやすい三〇〇歩にあらため、大・小などの面積表示もなくして合理的な反・畝・歩制に変更する作業である。秀吉が「損益に暁く侍る君」(計数に強い主君)といわれていたことは、これに無関係ではないということになる。
有名な安良城盛昭の学説は、太閤検地は「小農民保護」を実現した進歩的な変革であって、それまでの「奴隷制社会」を「封建制」に切り替えたとしたものである。朝尾は、この学説を正面から検討している訳ではないが、しかし、右のような即物的な説明によって、違和感をあらわした。
6安田浩『天皇の政治史』ー明治・大正・昭和の三代の天皇(青木書店、1998年)
明治・大正・昭和ーー三代の天皇
丸山真男のシェーマを超えて
絶対主義範疇の放棄は必要か
日本の天皇家は20世紀をこえて珍しく残存した王家の一つであるが、憲法第1条が規定するように、その地位は、主権者としての国民の総意に依存するものである。そして憲法の規定では、実際のところ、天皇は内閣の通告のもとに10項目の国事行為のみを行う国家の儀礼要員である。ここに現憲法の天皇規定の最大の特徴がある。
つまり現在の天皇は厳密にいえば、「王」ではあっても「王権」はもたず、「君」ではあっても君「主」ではない。天皇に残っているのは、その王としての身分のみである。その身分は「法の下の平等、貴族制度、身分または門地による差別の禁止」(14条)の唯一の例外的存在として、宮内庁などの儀礼部局や特権的な財産などによって支えられている。しかし、歴史学にとっては、その身分が、そこに付着する歴史文化によってできあがっていることが大事だろう。過去の王についての記憶、歴史文化と歴史意識が現在の王の姿の陰影となっているのである。
最近の歴史学は、このような現代天皇制のあり方を前にして王権論を組み直す努力を重ねてきた。安田浩の本書は、その動きを代表する位置にある。対象は、明治・大正・昭和の三代の天皇。安田は、彼らの言動を詳細に追跡しており、このような通史的な分析の試みは現在でも本書のほかにはない。
7吉見義明『草の根のファシズム』ー従軍・戦闘回想記録の精細な読み込み(東京大学出版会、1987年)
「昭和史」論争と本書の意味
ファシズムと民衆の戦争体験
天皇制ファシズムとは何か
アジア太平洋戦争ののち、だいたい三〇年が経過した一九七〇年代。多数の従軍・戦闘体験の記録が刊行され始めた。本書は、それらを戦争の時代状況のなかで丁寧に読みとき、戦争体験のもつ意味を構造的に論じている。
この国の歴史学にとって重大なのは、本書が「昭和史論争」といわれた歴史認識論争に対する回答となっていることである。この論争のきっかけは、アジア太平洋戦争の時代を描いた通史、『昭和史』がベストセラーとなったことであった。戦争中も反戦の姿勢を維持していた遠山茂樹が中心となった叙述には相当の迫力があり、『昭和史』は人々が自己の戦争体験を内省する「よすが」として大きな役割を発揮したのである。
とはいえ、研究方法や史料の量と種類の限界もあって、『昭和史』は政治史を中心とした「骨組み」が目立ち、積極的に民衆個人の意識状況に踏み込むことはできなかった。これが「人間が描けていない」という、やや「ないものねだり」な批判を招いたのである。これらの批判には、歴史教育の目的は(国や共同体のための)「自己放棄」であるというような、どうかと思うものもあったが、『昭和史』の執筆者は誠実な姿勢をとって、叙述を全面的に練り直して『昭和史(新版)』を刊行した。今、この経過を見直してみると見事なものだと思う。
しかし、それでも『昭和史(新版)』にはさまざまな限界があった。それを明瞭に示したのは松沢弘陽の懇切な批判であって、松沢は「新版」がなお抱えている欠陥として(1)多様に分化している民衆の存在を「国民という単一の概念」でくくったこと、(2)国民の絶対多数が積極的に戦争協力の道を歩んだことの内因分析が弱いこと、(3)被害体験にくらべて加害の歴史が描かれていないことなどを指摘した。これがその後の現代史研究の最大のテーマとなった事情については、大門正克編『昭和史論争を問う』が、右の松沢論文などの関係文献を収録しつつ、詳細にあとづけている。
この松沢の指摘に対して、冒頭にふれた多数の従軍・戦闘回想記録の精細な読み込みによって、初めて真っ正面から答えたのが、吉見の本書であるということができるだろう。
8曽根ひろみ『娼婦と近世社会』ー売春社会の歴史的な根(吉川弘文館、2003年)
哀しいほどの安値
梅毒研究ワークショップに参加して
徳川「売春社会」から大正「大衆買春社会」
買売春の研究は、女性史研究のなかで、大きく研究の進んだ分野である。その全体の状況は本書第一章「売春の歴史をめぐって」によって知ることができるが、とくに近年、本書や服藤早苗『古代中世の芸能と買売春』、小野沢あかね『近代日本社会と公娼制度』などの本格的な研究が出版され、売春史の通史的な把握が可能になってきた。
その歴史学研究にとっての意味は後にふれるとして、まず本書の概略を説明していくと、第二章「売女」では、「『客二つ潰して夜鷹三つ食い』の句にみられるごとく、二人の客をとっても一六文の夜なきそば三杯分にしか値しないような哀しいほどの安値でからだを売り、生命をつなぐ女たち」の実態がたどられる。史料にみえるのは女自身の夫、生活に崩れた男、そしてヤクザなどが、一人から数人の女を使う零細な売春である。これは非合法であるが、裏社会での奉公契約と意識される。それ故に、徳川期の奉公契約の一類型とみることもできるが、それは正確には「身売的奉公契約」であって、実態は奴婢(奴隷)所有、奴隷売買であるという。
Ⅴ研究基礎ー歴史理論
1石母田正『中世的世界の形成』ー現代歴史学の出発点(岩波文庫、初出1944年)
石母田正という人
この本を読むコツ
石母田国家論と「社会主義」
本書の題材は、現在の三重県、伊賀名張郡にあった東大寺領の荘園という小さな地域の歴史に過ぎない。しかし、実は、本書は、第二次大戦後の歴史学の研究者のほとんどが熟読したというものであって、ここにはこの国の現代歴史学の源流がある。
この本を読むために断片的な歴史知識は必要ない。むしろ、古典的な哲学や社会科学の勉強をしてあることの方が大事だろう。そもそも、石母田はニーチェ好きであったため、大学は哲学科で四年を過ごし、その後に歴史学に転科したという経歴で、日本の哲学者だと三木清の影響が強かった。三木の文体を読み慣れれば、石母田のものは読やすくなる。
卒業後、七年ほど出版社関係につとめながら勉強し、七年目に一月休暇をとって本書を執筆した。第二次大戦の終戦一年前、一九四四年の一〇月のことで、空襲にそなえて暗幕をおろした部屋に籠もって、七〇〇枚の原稿を一気に書き上げたというのは有名な話である。哲学科在籍のときには非合法の日本労働組合全国協議会の活動に参加して二度検挙されており、監視付きの身であったから必死だっただろう。
この本を読むコツは、第一章「藤原実遠」を徹底的に読むことである。
2峰岸純夫『日本中世の社会構成・階級と身分』ー奴隷論をこえて(校倉書房、2010年)
問題の『資本論』の注記
峰岸の近世史研究批判ー下人論
「アジアの共通分母としての地主制」
太閤検地論で有名な安良城盛昭などは、徳川社会が「純粋(=本来の)封建制」である以上、それ以前は「奴隷制社会=古代社会」であると主張した。(中略)たしかにマルクスは偉い学者であるが、その片言隻句にとらわれていては歴史学の仕事はできないというほかないだろう。(中略)このような安良城の見解は、いまでも多くの徳川時代史の研究者に支持されているが、峰岸は、それを正面から批判した。手みじかに紹介すると、まず安良城が戦国期以前の社会を奴隷制社会であり、中世の下人は奴隷そのものであると論じたことについて、第四論文「中世社会の階級構成ーとくに‘下人’を中心に」が実証的な反論をしている。峰岸は鎌倉時代の領主の譲状など、代表的な下人史料を取り上げ、これらの史料に登場する「相伝」下人はたしかに資財の一部として譲与されており、身分的には奴婢(奴隷)と理解することができる。しかし、その大多数は、家族・屋敷・耕地を占有している人びとであることは動かし難い。峰岸によれば、彼らはむしろ「農奴」とすべき存在、つまり「農」という生業を自分たちの意思において営なんでいながら、「奴」として強い人身支配をうけている人びとであるという(なお「奴」は和訓では「つぶね」と読むが、それは主人の前でかしこまって「粒」のように丸く畏まるという意味)。
3佐々木潤之介『江戸時代論』ー江戸時代研究の到達点(吉川弘文館、2005年)
東アジアの中の徳川国家
幕藩制の構造的特質
一揆・騒動・世直し
本書は佐々木潤之介が「一生をかけて最後に行き着いた」著作であるが、書き直しと再構成の余裕のないまま、佐々木が死去したため、遺稿を門下生がまとめたものである。そこで本書については、現状の編別構成にこだわらず、私の理解したところにそって述べていくことにしたい。
佐々木は本書執筆に先だって「東アジア世界と幕藩制」という論文で、15世紀から始まったグローバル化の時代のユーラシアを概観し、東アジア文明・イスラム世界・ヨーロッパが対抗する状況を説明し、東南アジアをふくむ広範な地域で大小の専制国家が競合するなかで、日本が「宗主国的地位」にまで進み出たことを活写している。本書は、ヨーロッパが徳川日本を世界の「七帝国の一つ」とみなしていたという近年の新説に賛同しているが(平川新『開国への道』など)、その趣旨は、この論文を引き継いだものである。
「宗主国=帝国」のイメージが、秀吉の覇権的行動から幕藩制初期にさかのぼることは疑いない。佐々木は、従来、ヨーロッパ諸国との関係で考えられがちであった「鎖国(=海禁)」も、この延長で論じようとする。つまり「明」が「清(夷狄=女真)」により滅亡の運命におかれる事態のなかで、日本は「華夷レジーム」の中軸を握ろうとした。幕府はヨーロッパ勢力と「清(夷狄=女真)」を「夷」と位置づけて国際貿易を管理しようとしたということになる。
4遠山茂樹『明治維新』ー現在でも通用する総合的な維新論(岩波現代文庫、初出1951年)。
維新の開始は「兵農分離」の動揺から
維新が王政復古となった理由
西南雄藩の開明性・買弁性
自由民権運動の背景に何を見るか。
第二次大戦前の支配層にとっては、先祖が維新にどう関わったかは家柄の序列に関わるため、その所蔵史料を閲覧すること自体がむずかしかった。厳密な学術研究は明治国家に距離を置く立場を必要としていたこともいうまでもない。そのため、明治維新研究は、まず大正デモクラシーの時期、吉野作造によって開始され、さらに戦争に向かう世相に抗して展開された「日本資本主義論争」に引き継がれた。この論争が、天皇制に表現されるような「封建的要素」を日本資本主義の構造的な基底とみるか(講座派)、単なる封建遺制とみるか(労農派)をめぐって展開されたことはよく知られている。
しかし、この論争の当事者は仕事に時間のかかる歴史学者ではなく、経済学者・法学者たちであった。この論争に対する歴史学の本格的な解答は、敗戦後に公刊された本書をまたねばならなかったのである。遠山は、講座派は「型=範疇」の固定的構造論におちいりがちであり、労農派は資本関係の「発展の現象」に目を奪われがちであるとして、両者に公平な態度をとった。いわば歴史学の立場からの論争の仕切直しの宣言であり、そのような立場から、遠山は経済や法に局限されない明治維新の全体的な歴史像を、その鍵となる政治史を中心に構築した。
5豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』ー「日本史」を揺るがす琉球史(吉川弘文館、2003年)
「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さ」
琉球王国の歴史
「日本人」という言葉のワナ
1963年に刊行された『沖縄』(岩波新書)は、現在でも読むにたえる沖縄史論の古典である。その第一節「日本人の民族意識と沖縄」は、「本土」の沖縄についての「異常な無関心」を伝えるところからはじまり、「沖縄にたいするこうした無理解、国民的な連帯意識の弱さは、とうぜん沖縄返還運動を全国民的なものとするうえに大きな障害となっている」「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さについては、すでに多くの学者の論及がある。むしろその問題は、戦後の日本の論壇での、最も主要な継続的なテーマであった。そこには、たんに日本人の一般的な民族意識の弱さという問題だけでなく、沖縄に対する一種の差別意識の問題がある」と続く。そして、その差別意識の根拠は「琉球という一種の異民族、異質の 文化圏にぞくする僻地としてのイメージが、日本人の意識に歴史的にうえつけられている」ことに求められる。
6榎森進『アイヌ民族の歴史』ーアイヌ民族1600年の歴史(草風館、2007年)
考古学・ユーカラとオホーツク海
大名松前氏の「蝦夷地」支配
現在の問題
待望のアイヌ民族の通史。約1600年間を追跡した大冊であるから、事前に明治時代の北海道にふれた大河小説、池澤夏樹『静かな大地』と、登別のアイヌ民族の豪家に出身した知里幸恵の『アイヌ神謡集』を読まれるのがよいかもしれない。池澤がアイヌ語について指導をうけた萱野茂は金田一京助の学統をうけている。金田一は知里幸恵『神謡集』の出版を世話した当人でもあり、幸恵の弟の知里真志保も指導している。そして真志保はアイヌ学を創成した人物であり、そのユーカラ論は本書を読む上でも必読のものである(『アイヌ神謡集』岩波文庫、巻末付載)。
Ⅰ「読書の初め」の導入部。
歴史学に入っていくためにはどうしても読書の習慣が必要である。史料はデータベースである程度は代用できるが、研究書の熟読なしに歴史学はありえない。歴史家の読書は同じ本を繰り返し読むことが必要である。私が大学時代に指導をうけたのはヨーロッパ史の大塚久雄先生であるが、その伝記『大塚久雄ーー人と学問』(石崎津義男、みすず書房)には、大塚さんが「自分の読んだ本はせいぜい100冊だろう」といったとある。たしかに専門分野の本で徹底的に読むのは、人間のキャパシティからいって100冊を越えることはできないと思う。
ここで「読書入門」として挙げた五冊は、まずは読みやすい本という意味である。これらが100冊のうちになるかどうかは後の経過にかかるが、ともかく、歴史学に入門するためには、どうしてもそういう本が必要である。それは、やはり学者の書いたもの、歴史専門書を出版している出版社のものになっていく。そういうなかで駅の本屋などに満ちあふれている「歴史本」を自然におかしいと感じるようになるのが、歴史学の初めの一歩である。
なお、この中には二冊、考古学の森浩一氏の自伝と『青鞜』の創刊者、平塚らいてうについての伝記的研究がふくまれている。歴史家の作業は孤独な作業なので、ときに憂鬱におそわれることもある。そういう時には自叙伝を読むのが、歴史家にとって最良の元気回復法である。とくに、複雑なことの多かった日本近代の自叙伝は気持ちを静め、深いところから我々を励ましてくれる。私の場合の特効薬は、河上肇『自叙伝』(岩波文庫)、光成秀子『戸坂潤と私――常とはなる愛と形見と』(戸坂潤の愛人の自叙伝、晩聲社)であるが、私のような年になると、先に逝った先輩や仲間の追悼文集も同じ位置をもつことになる。
どうぞ、気に入った本を発見されますように。
Ⅱ「史料の読み」の導入部
歴史家が歴史書を読むのは当然だが、同時に何よりも史料を読むのが好きでなければ始まらない。それは研究のためだけではない。歴史家は歴史文化財の保護・保存、アーキヴィストの役割をもたねばならないから、史料を読むことが好きでなければ仕事がつらくなる。
しかし、現代日本の学校教育では歴史学の位置が決して高くない。そもそも伝統文化の理解に必須の漢文や書道さえ隅に追いやって英語を教えようという没義道な国柄である。右翼ならばせめて伝統文化を実際に大事にしてほしいものだ。歴史家としてはそれで右翼かといいたくなることは多い。
話がずれたが、そういうなかで、歴史学者があつかうようなナマの史料を高校までの間にみることはほとんどないだろう。それだけにハードルは高いが、史料というものがどういう感じのものかを知るためだけにも、興味のある時代の史料集はほしいところである。歴史学研究会編の『日本史史料』(古代・中世・近世・近代・現代)が手頃だが、もちろん、現在では、相当数の史料の写真やテキストをネットワークの上で読むことができる。
しかし、史料の扱いや読みとなると、さまざまな技術的な問題が多く、大学などの授業やゼミで学べれば最高である。ただ私の場合は、母校には日本前近代史の先生はいなかったので、史料の読み方は研究書を読んでそこで引用・参照されている史料を探して自分で学んだ。そして研究会で教えてもらった。歴史史料の読みの訓練は、そういう形でもできることであり、むしろそれが基本だと居直るのも大事だと思う。
ともかく強い興味があれば史料は読めるものである。以下の五冊をすべて読むのはたいへんだろうが、自分の興味のある時代の史料というものを考えるために、最初の経験としてお奨めである。
Ⅲ「学際からの視野」の導入部
歴史家は、矛盾する史料と史料が同じ確実性を持つ時の決定に、非常な努力ーー精神衛生にとくに悪い質の努力ーーを払う。いくら足を伸ばしても着底しない泥沼を進む思いが、歴史家には、あるのではないだろうか。また史料がない時の歴史家は空想の禁欲をみずからに強いて苦悶することがあるようだ(中井久夫『治療文化論』)。
歴史学は学術のなかでもっとも非実用的な学問である。対象が歴史である以上は、現在史(Contemporary History)であっても、それはすでに動かせないものである。歴史家はそれに耐えなければならない。それはどのような場合も過去にむかう内省の組織であって、直接には現実を動かさない。あるいは動かしてはならない。過去は理解されるべきものであるが、現在はかならず理解できない部分をふくみ、本質的に実践と投企の対象だからである。
それ故に、歴史学が現実に関わるのは、他のより実用的な学問を通じてのみである。私は2011年3月11日の東北東海岸地震の後に地震学・火山学の人々と議論をする機会がふえ、その中で、文理融合の研究がいかに重要かを実感した。歴史学が社会に開かれていなければならないということは、まずは諸学との学際的な関係を要請されているということだというのが実感である。
そして私などは、それは歴史学と歴史学者の精神の健康のためにもどうしても必要なことだと思う。もちろん、一種の真面目さのあまり、狭い場所で耐え、学際的な場に出ていかない強さをもっている歴史学者も立派だとは思う。しかし、その場合は、歴史学の最大の喜び、つまり他の学問にまったく新しい方法を教えられ、また他の学問を支えているという実感の中で生きていくことはできない。上に引用した中井久夫の言葉にあるように、歴史学はなかなか辛い部分もふくむだけに、凡百の歴史家には、他分野の研究者からの啓発が必要だと思う。
Ⅳ「研究書の世界」の導入部
歴史学の研究は研究書を読むことによって始まる。そして研究書は1冊ではすまない。研究を続けることになると、同じ著者の別の本、さらにその歴史家が前提としている他の歴史家の仕事も見えてくるので、そこを芋づるのように掘っていく。こうして地下茎のような研究史というものが目に入るようになると、歴史学の大地ともいうべきものの雰囲気が分かってくる。
以下の8冊は各時代から撰んだもので、全体を読めば、ある種の「通史」のイメージがわくように工夫したつもりである。「通史」というよりも時代ごとの基礎的な歴史像といった方がふさわしいだろうか。その時代のもっとも大きな特徴というものはどういうものかについての具体性をもったイメージのようなものである。歴史学の仕事は、結局、これを前提として過去を見通していくための足場のようなものを作り、歴史の全体を本格的に考え、人類史の未来についての参照基準を作り出すことにある。現代の世界がもつ問題は深刻で複雑なものであるから、こういう仕事がどういう全体像に結果するか、まだ十分にはわからないが、しかし、歴史家は必死になって仕事をしており、私は、10年立てば、方向が見えてくるだろうと楽観している。
なお、歴史学は、所詮、歴史家がつくるものである。それゆえに、研究を続ける上では、研究史の概説のような本を読むよりは、個々の歴史家の肉声を知っておくことの方が、ずっと力になると思う。たとえば、『証言戦後歴史学への道』(青木書店、2012年)は、歴史学研究会という在野学会が、その会誌『歴史学研究』の復刻版を出版した際の月報に載った歴史家の随想をあつめたもので、重複をのぞくと、九四人の各分野での代表的な歴史家の文章が集まっている。なまな研究のエピソード、学会の運営の実情をかたる裏話などからなる読み切りの文章なので、臨場感もあってたいへん読みやすい。強くお奨めする。
Ⅴ「研究基礎ー歴史理論」の導入部
これまでの「読書の初め」「史料の読み方」「学際からの接近」「研究書の世界」とは違って、ここで研究基礎というのは研究を行うための入口や方法よりも、その基礎の基礎、足場のようなもので、ようするに理論のことをいう。
理論は骨組みだから、小難しいのは勘弁してもらうほかない。しかし、理論の根拠は「心」だ。そういうと変に感じるかもしれないが、研究というのは研究者の側からいえば、「心」に根拠がある。そして「理をもって論ずる」のは「心」である。だから、これは研究者個々人の心の奥底にどういう足場が組み立てられているかという問題でもあって、その意味では経験によって、また個々人によって違う。私の場合は世代的にいって、どうしても「戦後派歴史学」の理論ということになる。
「戦後」というのは第二次世界大戦後という意味だから、古すぎることのように感じられるかも知れない。しかし、たとえば野間宏・堀田善衛などの「戦後派文学」は、その世界のなかに入っていけば、決して古いというだけでは片づけられないと思う。それと同じことである。ここでは代表として石母田正・峰岸純夫・佐々木潤之介・遠山茂樹の四氏の本を選んだが、私は、ここを足場として仕事をしてきた。
もちろん、研究は、もう「戦後派歴史学」では間に合わないところにまで進んできた。とくに歴史学は「日本史」という枠組みのなかに自足してはいられない。つまり「琉球史」と「アイヌ史」の問題であり、そこではまったく異なる史料の扱い方と仕事のやり方が必要になっている。これから歴史学に進む人は、最初からこの足場も確保しておかねばならない。ここでは「戦後派歴史学」は無力である。