地震の神オオクニヌシのいる佐田岬に原発をおいてはならない。
大国主は地震の神。その通い路の佐田岬に原発をおいてはならない。オオクニヌシは地震神としたのは湯川秀樹の父、小川琢治。火山神であることを論証したのは日本文学史の益田勝美。『古事記』の特徴は出雲神話=地震火山神話を明瞭にした点にある。その論文の雑誌が届いた。
オオクニヌシの仲間のスクナヒコナは硫黄の神。スクナヒコナが病気になったとき、オオクニヌシは、その治療のために豊後の別府から道後温泉に「樋」を通して温泉を引いた(『風土記』)。神話時代の人びとも豊予海峡海底にエネルギーパイプ=中央構造線を認知していた。
私は『古事記』の地震火山神話の側面を、プレートテクトニクスや断層の知識と同時に、小学生に教えるべきだと思う。その場合、どうしても必要なのが、この道後温泉への温泉引きの起源神話。そのルートが中央構造線だよというのはもっとも分かりやすい。
小学校の授業で教材とせざるをえないのが、全国断層分布図。その四国・九州連絡線の直上に原発があるのは一目瞭然。中央構造線は巨大な活断層である。地震は怖くないよということを教えるに等しい。伊方の設置は神話時代より前に知識水準を戻すことではないか。そういう退廃は許されない。
再稼働を強行する人はオオクニヌシ神話などは教えなくてもよいというのであろう。日本神話では火山噴火の神であるオオクニヌシと硫黄の神である小人神・スクナヒコナが国作りの神である。ようするにそういう不都合な知識は教えるなというのだろうか。
以下は『アリーナ』18号(中部大学、2015年11月)に載せた「石母田正の英雄地代論と神話論を読むーー学史の原点から地震・火山神話をさぐる」のうちの出雲神話の部分です。9万字の大論文はさすがに疲れた。小島さんありがとう。
『日本書紀』の編纂が進む中で倭国神話の全体が想起され、その中から絞り出すようにして神話のエッセンスとしての地震・火山神話が明瞭な姿をもって登場してきたのであろう。それが『古事記』である。
最近、村井康彦『出雲と大和』は、石母田正の仕事を突き詰め、出雲神話に新たな分析を付けくわえることに成功した。村井が注目したのは、斉明天皇が出雲に対して強い強迫観念をもっていた可能性である。つまり村井は、六五九年(斉明五)の出雲杵築神社の大修造は、前年にタケル皇子(建皇子)が死去したことの衝撃のなかで行われたのではないかという。建皇子は天智と遠智娘の間に生まれた第三子で姉に太田皇女と鸕野讃良皇女(後の持統)がいた。本来彼こそが天智の正統な跡継ぎであったが、この皇子は「唖にして語ふこと能はず」という生まれであった。
村井は、この皇子のイメージが同じような生まれつきであった誉津別王と重なり、『古事記』の誉津別王の記事が迫真のものとなったという。誉津別王は大王垂仁の子どもと伝えられ、『古事記』『日本書紀』は、彼が物をいえなかった原因はオオクニヌシからのいわゆる「国譲り」の時、杵築神社の社殿を立派に造営するという約束が曖昧になっていたためであるとしている。彼が(天皇の氏族霊である)白鳥を追って杵築神社に行くことによって言語を発するようになったというのは有名なものがたりである。しかし、タケル皇子は、そのような幸運に恵まれることなく八歳で死去し、孫を溺愛していた斉明は、その衝撃のなかで斉明が杵築神社の「修厳」に全力をあげたのである。
この村井の議論は、邪馬台国は出雲勢力が立てた国であったという鮮明な主張を追求するなかからでてきたものであるという意味でも興味深い。邪馬台国論は、ここでは論ずることはできないが、出雲と大和のあいだには、本来、領域的な一体性があり、オホナムチの信仰は出雲にはじまって、その全域に及んだとされるのである。私も有名な『魏志倭人伝』のいう邪馬台国への行程は日本海ルートで丹後を経過したものとする小路田泰直の新説*1に賛同して、『かぐや姫と王権神話』において、丹後から大和の一帯がヤマト王権膝下の広域地域であったことを論じ、そのなかに丹後奈具社から大和広瀬神社をむすぶ月神・豊受姫の信仰域をみることができると論じた。オホナムチの出雲から大和を覆う信仰域もそれに重なるものであるということになる。
私は、この村井の意見に、さらに七世紀にしばしば大和飛鳥を襲った地震の影響を付け加えることができると思う。オホナムチ神話の本質が地震火山神話にあるというすでにみた事実からすると、これによってはじめて『古事記』におけるオホナムチ神話の記載を内在的に理解することが可能になると思う。
つまり、七世紀に入る直前、五九九年(推古七)四月、「地動りて舎屋ことごとくに破たれぬ。則ち四方に令して地震の神を祭らしむ」(『日本書紀』)とあることに注目したい。この段階の『日本書紀』にあまりに遠くの地震が記され伝承されたとは考えにくいから、この地震は大和あるいは畿内で起きたものと考えることは許されるであろう。「舎屋」(建物)がすべて倒壊したというのが事実であるとすると、相当規模の地震であったことになる。残念ながら、この時期の地震痕跡は考古学的には確定しておらず、『日本書紀』の史料を(地質学的な)地震史料として利用していいかどうかは問題が残っている。しかし、少なくとも、六世紀の末ころに「地震神」を祭ったこと自体は事実として認めてよいだろう。そして、すでに述べてきたことからして、この神の実態はオホナムチであったことはほぼ確実であろう。
さらに注意しておきたいのは、出雲における地震の発生である。総理府、地震調査研究推進本部のデータベース「都道府県ごとの地震活動」によれば、出雲は局地地震のほか、南海トラフ地震と日本海東縁変動帯で発生する大規模地震によって大きく揺れたり、津波におそわれる地域である。石橋克彦も一七〇七年(宝永4)、一八五四年(安政)、一九四六年(昭和)の南海地震が出雲を大きく揺らしたことに注意していることで(石橋『南海トラフ巨大地震』岩波書店四六頁)、南海トラフ地震は出雲を揺らす特徴をもっていた可能性がある。
このようにして、この列島の神話における出雲神話の位置という、長い間の難問に、これまでとはまったく別の側面から、つまり自然史研究との学際領域から、一つの新しい光を当てることができたことになる。
神話時代の人々は、出雲が火山噴火と地震の多発地域であるという認識のもとに神話的な地域像を作りだしていた。『古事記』が出雲国を「根の鍛す国」としたのは、そこに根拠があった。先に見たように、「根の堅州の国」の語義は「地下の鍛冶の国」ということにあったが、それは「磐根が火によって焼き固められる国」であり、具体的には、火山の地下に存在する鍛冶場ということであった。まさにローマ神話において、火山Volcanoの地下に鍛冶の神ヴァルカンVulcanが活動しているというのと同じ世界観である。
火山の山頂の磐座の磐根には巨大な火が宿っており、そこではしばしば地震が発生するというのは、今も昔も、この列島に棲むものがよく知っている事実である。『古事記』は、この火山神話の枠組をきわめて有効に使用して、イザナキの黄泉国訪問の物語、スサノヲの地震神としての天界上昇と降臨の物語、オホナムチの根の堅州国訪問と脱出の物語などの物語を流れるような筋をもって語りだした。それが『古事記』の叙述に不思議な魅力と臨場感をもたらしているのだと思う。『古事記』の叙述の文学的な創造性のベースにある自然観を見のがしてはならない。
これによって、『古事記』の独自性の謎がどこにあったかという問題についても新たな見通しをうることができる。つまり、このような地震・火山のイメージは『古事記』独自の物語である。地震や火山というものが物語のキーとして語られるのが『古事記』であるといってもよい。それに対して『日本書紀』は出雲神話をかたらず、そもそも地震・火山についてほとんど触れることがない。しかし、『日本書紀』の編纂が進む中で倭国神話の全体が想起され、その中から絞り出すようにして神話のエッセンスとしての地震・火山神話が明瞭な姿をもって登場してきたのであろう。