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カテゴリー「考古学」の13件の記事

2013年9月26日 (木)

日本史研究の基本の30冊、近藤義郎『前方後円墳の時代』

 日本史研究の基本の30冊のうちの「研究を進めるために」の部分におさめる予定。
 今日は庭にむくげを植えるために、以前から自然に生えてきたアオキを掘ってどかす。根っこがすごかった。知らぬ間に生えたものだが、こういうようにして時間が経っていくのかと感慨。
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近藤義郎『前方後円墳の時代』 
 近藤義郎(一九二五~二〇〇九年)は、森浩一とならんで、第二次大戦後の考古学を代表する考古学者である。「はしがき」で近藤は”考古学の独自の資料のみを使って歴史を再構成してみたい」とその執筆の動機を語っている。ただ、この歴史の再構成とは、近藤にとって、まずは歴史的な社会構造論を組み立てることであり、この点の指向は森とは大きく違っている。
 この近藤の試みは見事に成功しており、現在でもこれだけ全面的なものは存在しない。各章を紹介しておくと、(1)弥生農耕の成立と性格、(2)鉄器と農業生産の発達、(3)手工業生産の展開、(4)単位集団と集合体、(5)集団関係の進展、(6)集団墓地から弥生墳丘墓へ、(7)前方後円墳の成立、(8)前方後円墳の変化、(9)部族の構成、(10)生産の発達と性格、(11)大和連合勢力の卓越、(12)横穴式石室の普及と群小墳の築造、(13)前方後円墳の廃絶と制度的身分秩序の形成、以上の一三章編成である。
 論の中心は(4)(5)(9)の各章、つまり社会集団を下から順に、単位集団(三から五戸ほどの竪穴の血縁体)→集合体(氏族共同体)→地域(部族)→部族連合と序列化する点にある。「世帯共同体」「農業共同体」などの歴史理論用語をつかわず、考古学的に確定された事象にもとづいて単純な言葉からはじめるというの近藤のセンスは好ましい。
 もちろん、そこで問題になっているのは集団所有と分割経営の矛盾という原始社会の分析のキー概念であるが、しかし、近藤の議論の特徴は、私有の拡大を中心に論ずるのではなく、早い時期から経営体の自立を認めた上で、家族体・氏族・部族の集団関係自身に焦点をあて、不均等な集団的変化が拡大・重層し、集団が移住・分岐していく様子に注目する点にある。この時代においては集団所有こそが構造的な所有の中心であって、それは下位集団の相互の調整や矛盾の関係を梃子としてそびえ立つ。共同体機能は首長=部族機関によって代表されるが、代表者は下位の代表される集団の構成そのものを否定してかかることはせず、そのまま自己の権威の下に編成していく。その中で、私的所有は、むしろつねに集団構成の規制力を強化する方向で働くという。
 近藤は、こういう弥生時代の部族連合の集団所有の重層化の運動の中から、部族連合権力が人々を支配する古墳時代の社会が成立したと説明している。著者は明言をさけるが、共同体の重層の中から階級的な性格をもった部族連合国家あるいは部族的な貢納王制が形成されたということであろう。都出比呂志が述べたように、古墳時代の権力が賦役、税制、流通支配などの点で国家というべき性格をもっていたことは明らかである(『古代国家はいつ成立したか』岩波新書)。ただ都出はそれを「初期国家」と規定するが、その概念内容は不鮮明なところが多く、学説史の現状では、近藤の議論はまだ有効性が残っている。なお、近藤の学説は石母田正の「首長制論」に相似する(『日本の古代国家』)。しかし、石母田の議論は、実際にはまず「郡」レヴェルで「首長」を措定するところから出発して、古墳時代の首長共同体を一枚岩と捉えがちで、近藤のような集団の重層関係の把握が弱く、奈良時代からみた結果論になっている。国家的・集団的な所有が社会をつらぬき重層化しつつ変化していくという歴史的視点では近藤の議論の方が説得的である(若干の解説をつけくわえると、普通、歴史理論では集団所有というと「無階級的なもの」と考えがちである。しかし二〇世紀に存在した「(自称)社会主義社会」は国家的・集団的な所有にもとづく全体主義社会で、政治官僚という独特な支配階級が存在していた。これを考えると、階級社会の発生時にも相似した集団的な社会構成が存在した蓋然性は高いだろう。いずれにせよ、ミケーネや殷の貢納王制など、血縁的・共同的性格を残しながら明らかに階級国家である事例はきわめて多く確認されており、氏族組織の破砕を国家成立の指標としたモルガンやエンゲルスなどの一九世紀の古典学説は維持できないことは確実になっている)。
 もちろん、近藤の議論は、石母田の仕事を前提としている。石母田説を前提として考古史料を総合する作業の中で整合性が高い議論が作り出されたのであろう。第二次大戦後の考古学的な調査は、この頃までには、弥生住居址、弥生墳丘墓、古墳時代の古墳と首長館址、そして多様な生産遺構、技術遺物にまで及んでおり、近藤の仕事の強みは、その蓄積にもとづいて全体の見取り図を描いたことにあった。弥生末期、吉備・出雲などで集団墓から墳丘墓に地域的な特色をもって変化していく様子、弥生墳丘墓から前方後円墳の形成、大和を中心にした部族連合中枢の首長の卓越化、その中での首長の神霊化と、そこに存在した祭祀的な擬制同族関係のネットワークなどの議論の大枠は現在でも、ほぼそのまま受け継がれている。
 本書はなによりも全体に論理の筋道がよく通っている。いまでもこの本を熟読することが考古学研究の出発点となる事情を十分に理解できる。著者は、この本の後、もっぱら前方後円墳の研究にたずさわった。本書でも各地域の首長の系図を前方後円墳の造営系列の中に探ると、ほぼ三〇〇以上の部族が大和連合に結集していることがわかるなどの興味深い試論を展開しているが、前方後円墳研究会の代表としての努力は特筆すべきものである。同会が編纂した『前方後円墳集成』(山川出版社 一九九一~九四年)は、全国に分布する前方後円墳に関する基礎史料であり、一定の規模をもった自治体図書館には備えられているから、これによって三世紀から六世紀にいたる、この国の古墳時代の基礎情報を誰でもがみることができるようになったのである。
 ここには、著者のよい意味でのアカデミックな姿勢が示されているが、著者は一九五三年、当時のいわゆる国民的歴史学運動の中で、岡山県(吉備)の月輪古墳の発掘に市民とともにとり組むという側面ももっている。この発掘の記録は映画にもなり、市民とともに歩む歴史学のあり方を示すものとして有名になったが、著者は、以降も、一貫して岡山県の遺跡の調査・保存運動に取り組んだ。そして、その実践が近藤の前方後円墳の理解を切りひらいた。
 その成果は、『前方後円墳の成立』(岩波書店一九九八年)、『前方後円墳の起源を考える』(青木書店、二〇〇五年)などの著作で発表されている。とくに重要なのは、著者の下でとり組まれた弥生時代後期(第三期)の岡山県倉敷市の楯築墳丘墓の調査と保存は、前方後円墳の成立の研究に決定的なステップをもたらした。楯築墳丘墓の主墳は直径約四〇メートルで、二つの突出部をもっていた。この突出部は著者らの知らぬ間に破壊されてしまって詳細不明なものの、後の前方後円墳の前方部に相似する先開きの形をとっていた可能性が高い。突出部が二箇所である事情は不明であるが、墳丘が大規模な立石や列石、そして後の葺石の源になるような円礫で覆われていることも前方後円墳に相似している。また何よりも明瞭なのは、一メートル前後もある特殊器台といわれる円柱状の装飾供器と(その上に載る)装飾壺が発見されていることである。これと同型のものが三世紀後半以降の箸中山古墳、西殿塚古墳などの大和の典型的な前方後円墳で発掘されており、これが円筒埴輪になっていく。
 この「特殊器台と特殊壺を作り出した祭祀思想と祭祀行為」が前方後円墳にそのまま引き継がれていることは確実で、今でも謎にみちている前方後円墳の墳形の由来や、その背後にあったイデオロギーの相当部分は吉備由来であること、そして、それに対応して大和南部をセンターとする部族連合は大和と吉備の連合であるということが、考古学界では確定している。この問題をふくめて、本書が、学説史上、根源的な位置をもっていることは明瞭である。
 もちろん、近藤の前方後円墳論がすべて正しいということではない。たとえば、近藤は、前方後円墳の上では「首長霊の継承儀礼」が行われたという。前方後円墳の上で、亡き首長の霊力を次代の首長が引き継ぐための祭式が営まれ、それは初穂祭(後の新嘗祭)にあたる共同飲食儀礼と同じものであったというのである。代替儀式=天皇霊付着=初穂祭というわけであるが、この図式は折口信夫のマドコオウフスマの秘儀を中心とした大嘗祭理解そのものである。しかし、岡田精司は群臣推挙にもとづく即位式こそが就任儀礼であって、大嘗祭の本質は饗宴という形式をもった服従儀礼(極点においては性的オルギーをふくむ)にあったことを明らかにした。江戸期国学は大嘗祭こそが皇位継承儀礼であり、即位儀は唐制の模倣にすぎないとするが、折口説は、昭和の大嘗祭という世情の中でそれを神秘的に繰り返したもので、実証的な根拠を欠くものであるという。その上に立って、岡田は、折口は大嘗祭と葬送儀礼を結びつけるようなことはいっていない。近藤説は、折口のようにエロスに神秘を求める代わりに、古墳におけるタナトス=死に神秘を求めるという結果になっているという趣旨の厳しい批判を行っている(岡田「古墳上の継承儀礼説について」)。
 この批判は正しいといわざるをえないが、しかし、逆に、近藤が学術的方法を異にする折口学説を読み込んでいることには感心する。論文集『日本考古学研究序説』(岩波書店)にみえる近藤の仕事の多様さは刮目すべきものである。また、現代考古学の最先達にあたるイギリスの考古学者、ゴードン・チャイルドの著書や伝記の翻訳も近藤が思想的な視野の広い本格的な学者であったことを物語っている。

2013年9月 1日 (日)

奈良へ、ホケノ山古墳と大三輪神社

 昨日でお寺の調査は終わり。早お昼をご馳走になって、奈良へ。地震学の人と考古学の人の相談の場所に立ち会って、天理へ。
お寺の早お昼の時に、テレビでフランスの洞窟に立ち入って撮影した長編映画をやっていた。ホモサピエンスとネアンデルタールが共存・競争していた渓谷であるという。
 7万年前にほぼ現在と変わらないような描画と、音楽と、そして神話が存在したというのが説明。有名な笛の分析にも驚く。考古学では最新の科学分析技術が動員され、1ミリ、1ミリ地層を剥いでいき分子レベルの分析をやっているという説明。
 笛の音は聞こえないが、なんといっても有名な馬の絵は見事であった。そして、ライオンの絵の詳しい説明があり、また祭場のようになっている場所に入った映像には驚愕。祭場の中央の天上からさがる鍾乳石に女体が描かれているが、その頭部はバイソンになっている。その向こうの壁には一面に野獣が描かれている。祭場は有毒ガスが発生しており、まだ詳細の撮影はできないとのこと。鍾乳石の向こう側の画像もえられていないとこのこ。
 無事におわって、夕方は天理泊まり。駅の近くの古本屋で文庫がやすく、高校のころに読んだニーチェの『道徳の系譜』をかう。さらにベルグソンの『創造的進化』(上下)とあわせて300円。
Cimg1357  山辺の道を通る。大学院の頃、田名網宏先生のお宅で行われていた『続日本紀』の読書会にでていた。田名網先生は山辺の道から飛鳥がお好きで、その御話しを何度か聞いたが、点は訪れたことがあるものの、道を辿るのは始めてである。(他の大規模古墳とは違って)ボケノ山古墳の前方部が東南に向かって開いているのを確認。墳頂からの眺望はさすがによい。一番北西には生駒が見えるのを確認。目の前の箸墓はやはり大きい。大和東縁断層帯の上に聳える龍王山系の麓にもう一つ出山を作ったという感じであるということがよくわかる。写真はホケノ山古墳から前方部を振り返って三輪山をとったもの。ヤマやまの辺の道からみると、大三輪神社の大鳥居の向こうに耳成がちょんと飛び出ているようにみえるのにも感心。ようするにいわゆる歴史好きではなく、非常識なのであるが、その分、少しづつても見聞が増えると感心することが多い。
 さすがに暑く、大三輪神社参道の素麺屋で氷を食べて身体を冷やし、以上を記録。いまからにゅうめんをたべて、御山に登る(8月31日)。
 山頂の広い範囲に高さ二尺ほどの大石が奥まで広い範囲にひろがっている。それからさすがにサカキが多い。

2012年5月 7日 (月)

入来院遺跡の保存と稲垣泰彦・石井進

 5月5日(土)。職場で私物を片づけた帰り。総武線の中。
 机の中から下記のような鹿児島県入来院の景観保存問題についての要望書がでてきた。そのころの学会誌をみても記録されていないようなので掲載しておく(以下、子供にいれてもらう。ありがとう)。

入来院史跡保存に関する要望書

鹿児島県薩摩郡入来町一帯は、周知のように中世以来近世まで脈々と続いた在地武士入来院氏の支配の舞台となった場所であり、かつて米国イエール大学教授朝河貫一氏が『ドキュメンツ・オブ・イリキ』として入来院関係文書を翻訳・解説されてから、世界的にも注目を浴びてきました。欧米における日本中世と武士団についての在来の知識は、その主要部分を「入来文書」と朝河氏の研究に負っているといっても決して過言ではありません。
「入来文書」をひもとくならば、われわれはそこに日本武士団の構造や農村支配の様態、農民の村落生活の実態にいたるまでを比類ないまでに詳細に知ることが出来ます。しかしそれにもまして重要なのは、当地に残る領主居館址や家臣団の屋敷・農民の屋敷・寺社・墓地等々のまことに豊富な遺跡・遺構が、生き生きと過去を再現してくれることであります。それらは、「入来文書」とあわせてまさに他に類例を求められぬ貴重な史的価値を有しております。
ところが現在計画中の国道三二八号線の拡張工事にともない、領主居館址・馬場・船着場・家臣団屋敷などをはじめとする主要な遺跡に大がかりな破壊の危険がせまっていると伝えられております。われわれは上述した当地の重要性にかんがみ、このような史跡破壊をともなう計画の進行に強い危惧の念を表明せざるをえません。この計画原案に対し、地元で史跡保存をよびかけている方々の、計画線を「麓」集落の東方に変更するようにとの要望に、われわれも全面的に賛成いたします。この案であれば、貴重な史跡の破壊を最小限にくいとめることが可能だと考えるからであります。
今回の計画原案をみとめて取りかえしのつかぬ史跡破壊の事態を招くことにならぬよう、我々日本史研究に携わる者はこゝに関係当局の責任ある解決を強く要望するものであります。
昭和五十年六月二十三日

東京大学  教授   阿部 善雄
東京大学  助教授  石井  進
東京大学  教授   稲垣 泰彦
東京大学  教授   弥永 貞三
京都大学  助教授  大山 喬平
大阪大学  教授   黒田 俊雄
早稲田大学 教授   竹内 理三
神戸大学  教授   戸田 芳美
一橋大学  教授   永原 慶三
北海道大学 助教授  義江 彰夫
殿

 呼びかけ人の方々のうち、御元気なのは大山さんと義江さんだけだ。
 いままで忘れていたが、このとき、私は史料編纂所に入ったばかりの時で、同室の稲垣泰彦先生から、この保存問題についての声明への賛同署名を集め、文化庁や鹿児島県などに送る作業をする事務局をやれといわれた。その事務局書類一括が袋に入ってでてきた。
 中をみるといろいろ入っていて、署名の集約は稲垣さんに送れということになっているが、署名を送ってくれた人の中には、村井章介・保立道久の連名宛てに送ってくれた人もいるので、そのころ史料編纂所にいた村井章介氏と事務局を一緒にやったらしい。またこの声明を起草したのは石井進さんであったことが、石井さんの几帳面な字でかかれた原案がでてきたことからわかる。また、現地の保存要望の中心となった本田親虎氏から石井さんへの礼状も袋の中に残っている。思い出してみると、この署名運動の代表は稲垣さんだが、実際の実務は石井さんであった。石井さんが古文書の部屋に来て稲垣さんに頼み、その後に、打ち合わせのようなことをしたのを思い出した。このころの稲垣さんは、有名な池田荘の保存問題で重要な経験をされた後で、遺跡保存問題を重視しておられたように記憶する。
 本田さんからの礼状は石井さんあての私信であるが、事務局にまわった公的なものであり、内容も史料的な意味があるので、ここに記録しておきたい。

拝復 先生方は夏休みで、いろいろとご計画もあられることでしたろうに、当地の問題で諸種の雑用に多大の時間と労力とを御費消いただきましたことを、恐縮に存じますと共に、心から感謝申しあげております。第二次二七〇名連記という、すばらしい要望書は二十五日に参りました。この日は当地「麓上」(フモトカミ)の諏訪講の日ですが、一年ごとの廻り神は昨年八月に拙宅に来られましたので、拙宅ではこの日に、諏訪神社の祭典を行ない、講中の人々を呼んで直会をした次第です。要望書包は朝届きましたので、私は早速お諏訪様の御前に備えて拝みました。
 当地の諏訪講は四十年ばかり前までは藩政時代の通りのしきたりを守って
二十三日に注連下し(神官が来て門口と井戸に注連を張り、その祭りをする)、二十四日贄川(にえがわ、入来川で講員全員が鮎を取り神祭に使用する)、二十五日お講(諏訪神社の祭と頭屋での祭、講中の飲食、遷座)となって、三日も要したのでしたが、戦後は簡素化して、二十五日だけになっています。それでも二キロばかりを歩いて高い山中の神社まで供物の米や野菜、果物などを持って登るのは年よりどもには少々重荷になります。
 二十五日は終日このようなことで過ぎましたので、二十六日に当地道路問題での委員会を開き、今次の要望書を見せましたところ一同驚くとともに感激を新たにした次第でした。そして現地のわれわれよりはよその先生方の方がはるかに遺跡保存にご熱意があるようだから、現地の者としては全く恥ずかしいことだと口々にいい、私の方から特に石井さんをはじめ、雑務に当たって頂いた先生方によろしく御礼申し上げてくれとのことでした。
 ほんとうにありがとうございました。この大勢の先生方の御声援がどんなに大きな力を持つものかはこれからはっきりすることと信じます。
 実は数日前、当県議土木委員長原田健二郎氏を訪問しまして道路問題につき善所方お願いしましたところ、原田県議が次のようなことを話して下さいました。
「過日上京、建設省に行ったところ、道路局長から次のようにいわれた。『鹿児島の国道問題につき、大学の先生方など大変まじめな方々から史跡保存についての要望書が来ているから、現地でもよく留意して遺憾な点がないようにして頂きたい』・・・共産党などの反対とはちがうから・・・といわれました」とのことでした。
去る二十三日は文化庁文化財調査官の中野浩氏が来町されましたので、史跡を案内いたしましたが、その折「先日石井君が見えて、入来のことを話してくれましたよ」と話されました。そして
 「要望書や陳情書は上の方に出した方が効力があります。
1. 建設大臣か道路局長
2. 九州地方建設局長(福岡市)
には必ず出した方がいいでしょう」と御注意ありました。
 それで右の件はよろしく願い上げます。
3.文化庁長官  へも
 鹿児島県内のそれぞれの所へは当方で提出することにします。今日は県議会や議長、町議会や議長に提出すべく手配しました。
 去る二日に村井章介さん方八人の東大の方々が城山の藪の中野拙宅に御来訪下さいました。拙宅は入来小学校の裏門前ですから、麓の中でも一番の山の中で、さぞびっくりされただろうと思います。拙宅にはこれまで豊田武先生や本田安次先生などをはじめ義江さん等数多くの著名な方々がおいで下さいましたが、その度に藪中の陋屋は全く汗顔のいたりで、恐縮の連続でした。村井さん方は入来院墓地や黒武者、堂園などを案内しました。黒武者にあった黒武者門の跡家も、当地方では最も代表的な農民の家作りとして保存すべき建物でしたが、これも昨年新しく改築されましたので、石井さん方ごらんの当時よりは大分様子が変わりました。同封の写真は黒武者でのものです。永原先生が黒武者門をとりあげて講じて下さってから、黒武者は中世史のメッカみたいになり、来る人も来る人も、黒武者を見たいと申されます(中略)。
以上雑事を書き並べましたが、このたびの史跡保存運動についての石井さんのお骨折は、とても大変なものだったろうと、改めてここに厚く御礼申しあげます。
 先づは御礼まで、東大の方にもよろしく申し上げて下さいませ。
 残暑尚厳しい折柄ご自愛を祈ります。
敬具
 八月二十七日
本田親虎
石井進様
 玉床下

 7/8年ほど前に、私も入来をたずねたが、そのころには稲垣さんはもちろん、石井さんも、本田さんもなくなっていた。

 いま、月曜日、総武線の車中。石井さんの声明(案)、署名の御願い(案)は小学館の原稿用紙に書かれていた。石井さんが小学館の『中世武士団』を書いたのは、ちょうど、私が史料編纂所に入ったしばらく後であるから、この原稿用紙は、『中世武士団』執筆のためのものであろう。
 『中世武士団』については、戸田芳実氏の批判的コメントを聞いていたこともあって、ずっと批判的であった。そもそも戸田さんはこの小学館のシリーズの「社会集団」というくくりそれ自身に批判的であった。戸田さんのいう「歴史学は社会学的になってはならない」という議論である。この戸田さんの言葉は網野さんが「社会学的というのみで悪いかのような言い方は社会学の人の前でいえる言葉ではない」と批判し、学界では、一般にも評判が悪い。しかし、私は、歴史学は、その方法を社会学に借りるわけにはいかないと思う。

 それ以来、この本をどう位置づけるかということが頭の隅に懸かっていたのだが、二・三年前、ようやくその『曾我物語』の読みに賛成できないという意見を固めた。その趣旨にそって、先日、『歴史地理教育』に院政期における東国の平氏についての文章を書いたところである。石井さんを意識することは、そのほか今でも多い。
 研究者同士の関係では、ようするにほとんど時間はたっていないのだと思う。そこでは、往事茫々ということは本質的に存在しない。これはいわゆる「永遠の今」であるが、それは「生の哲学」的なロマンではなく、直接的な「生」の感覚の経験では、頭の中に古い物が、そして未処理のものごとがそのまま滞留しているということである。人間もかわらない(私の慌て者のところもかわらず。その文章でもうっかり「大宮」を忻子としたが、東洋文庫の解説通り多子であるのにうっかり早とちりをした)。
 ほぼ30年以上経って、やっと処理できそうな気になっているが、「頭の中にこそ執拗に古いものが残る」というのは、冷厳な事実なのだと思う。研究史から受け継いだ古いものを破砕すること。

 閑話休題。
 その深層レヴェルで考えると「意識変革」を先行させるということは人間にとって本質的に無理なのだと思う。社会全体によるすり込み、新生児のころからのすり込みの力はすさまじい。そこから抜け出すためにはなによりも現実と挫折の経験が必要である。これを考えると、我々の世代までなら通じた言い方だと、「生の哲学」ではなく、マテリアリズムということを考えざるをえないのである。

2011年8月23日 (火)

上行寺東遺跡の保存うんどうパンフレットに書いたもの。

 昨日、久しぶりに、部屋で、下記の遺跡保存運動の提起者であったT先生にあう。なつかしい。いま朝。いまから、撮影だが、職場のPCのデスクトップに、この小文が貼り付けてあったのをみて、ここにアップし、データを削除。ブログはデータ整理にも便利だと思う。ここに全部まとえmてしまえばよい。

 この文章は上行寺東遺跡の保存運動パンフレットに書いたもので、もうどこでもみられない。なつかしい。こういう種類の文章を書いたはじめだと思う。最後の方、文章がみだれていたので、もしかすると、入校原稿そのものではないかもしれない。

 追記。撮影の仕事の昼休み。パンを食べながら。

 もう25年くらい前のことか。Tさんが問題提起をしてくれたことの意味をいま実感している。私は、その提起に賛同したことで学び、自分の意見を変えた部分が多い。歴史学者の役割論と保守ということへの考え方。

 Tさんと私が関わった保存運動は遺跡保存という形では身を結ばず、遺跡は破壊された。いろいろな迷惑をかけた。しかし、運動ということになって、文献史学と考古学の間の関係の議論をせざるをえなかったのが、「中世史」学界にとってはよいことであったと思う。

 先週の歴史教育の関係の講演で、昼食を食べながら、なぜ、例の旧石器のねつ造のような問題が起きたと思うかとある先生に真顔で尋ねられた。それは、結局、旧石器の遺跡の保存運動をやらなかったからだというのが私の意見。遺跡の保存という形で社会資源と土地を使用するようにという真剣な訴えなしには、異なる分野の学会・研究者が本気で議論することはないのだと思う。上行寺・一の谷の保存運動の時は、行政の責任のある立場の人が、「あなた方そんなことをいったって、旧石器の遺跡は壊され放題ですよ」といっていた。それらの遺跡がねつ造されたものであることが20年経って知れたのである。その時、我々が思ったのが上記のようなことであった。

 学者は最後は学者の責務に関わることでは社会的行動をしないと、あるいは、最低、問題の社会的側面を確実に認識しておかないと、結局、責任のとりようのないところに追い込まれるのだと思う。それは政治や市民としての個人的な立場よりも前の、職業倫理の問題である。学者は職をえた場合は、どのような場合も一種の特権を意味するので、職業倫理の問いはきびしくなる。原子力工学も同じことである。

六浦の津と上行寺遺跡ーーー書状を読む
       参考文献ーー『中世の六浦と上行寺遺跡』(上行寺遺跡を考える会)
             『瀬戸神社』佐野大和
         座談会「六浦の文化と上行寺東やぐら群遺跡」(『有鄰』二一四号
                             一九八五、九、一0)
Ⅰ上行寺遺跡と律宗
 マンション建設にともなう遺跡保存が問題になっている上行寺遺跡は、東国における律宗寺院の遺構としてまた六浦の港湾遺跡の不可欠の一部として極めて重要な遺跡である。その重要性は、六月三0日からの三週間という短期間で二五九三人の全国の歴史研究者が、署名を集中したことに現れている(地域住民、学生などを入れると全体で四四七五人に上る)。この遺跡は横浜市によって六月二四日には破壊されることになっていたが、市議会への請願は否決されたものの、粘り強い保存運動によって、一0月県議会文教委員会で継続審議が決まり、次の県議会の開かれる一二月までは残される可能性が高くなった。ただし、県文教委員会に懸けられた理由は、建設予定地内の急斜面が県によって危険地域に指定されており、その開発は県の指定解除の認可が必要なためであるが、市および建設会社は遺跡部分の工事はこの認可なしにもできるという姿勢を維持しており、事態を楽観することはできない。
 この遺跡の発掘調査の結果は市に対する中間報告(公表されていない)以外にはなく、口頭および保存運動側の調査・見学による他ないが、調査されたやぐら四一基、建築物遺構六棟、墓壙一四基、発見された五輪塔四00個以上、宝篋印塔・板碑各一0個程度、人骨一00体以上、陶磁器類多量という概数を見ても一般のやぐら遺構との相違を知ることができる。中でも注目されるのは、従来知られていた京浜急行の線路の上方に並ぶやぐらでなく、頂上部分で発掘された五輪塔レリーフを刻んだ一九号「やぐら」と「阿弥陀如来」(?)のある二二号「やぐら」およびその前の平坦部に発見された阿弥陀と一体の御堂跡の柱穴である。柱間は二間三間の南北五、五㍍・東西三、五㍍であり、西には張出縁が付いている。そして、この御堂の南西には洲浜と中島をもつ小さな池がある。
 保存で問題になったのは、まずはこの遺跡が寺か「やぐら」かという点である。それは、①池の遺構の評価(単なる土壙か)、②やぐらの前の建物をどう評価するか(仮設的なものかどうか)③六浦の宗教的環境と律宗の問題などを巡るものであった。特異性のない、破壊もひどいやぐら群にすぎないという横浜市側に対して、保存運動の側は、寺院跡であると評価し、現在では県議会の答弁でも①②については保存運動側の見解が認められるに至っている。
 問題は③であるが、これについてはさらに文献史学の側からも研究を深めていく必要がある。上行寺の地にはもと龍華寺という寺があり、この寺はもと浄願寺といった。その縁起は、「山高からずといえども。奇岩霊窟あり、或いは壇場を構え、或いは□字五輪の塔を彫刻せり」と語っている。そして重要なのは、東国における律宗の祖、忍性上人が正嘉年中(一二五七ーー五九)、鎌倉に入る前に、この寺に住んだとされていることである。この正嘉年中は、忍性の師叡尊が北条時頼の招きで鎌倉に下向した際に、忍性が常陸三村寺から駆けつけた弘長二年(一二六二年)の三ー五年前にあたる。忍性が初めて鎌倉に拠点として新清涼寺釈迦堂を得た同年の直前に鎌倉の外港・六浦で着々と鎌倉入りの準備を進めていたということは十分有りうることである。そしてこの時、叡尊を招く動きの中心にいた北条氏の一流金沢氏の実時による称名寺の建設が進行しており、金沢に程近い六浦に忍性が住持する寺があることも理解できることなのである。
 ところで、六浦の津の情景は、既に平潟湾の埋め立てによって失われているが、深い入江と島を持つ天然の良港である。このような地理的条件によって、六浦は鎌倉の重要な外港であり、しかもよく知られているように、六浦は鎌倉の堺であり、元仁一(一二二四)年には、由比浜、江ノ島などとともに、祈雨のための霊所七所のはらいを行っている(疫病のこともある。『吾妻鏡』)。そして律宗の僧侶が、港湾の建設・管理や架橋などの社会事業を活発に行ったことは近年の研究によって明らかにされたところである。
 しかし、このような鎌倉時代の六浦の港湾としての様子については、まだ研究が少なく、保存運動の側からも早急に研究を深めることが要請されている。
Ⅱ六浦の港と称名寺
 次の『金沢文庫古文書』の中に収められた一通の書状は、恐らく鎌倉時代の六浦の港湾、海上交通の要衝としての姿を最もよく語っている史料であろう。
『金沢文庫古文書』④三一三一、写真帳三七の七七㌻
 畏令啓候、便船を相尋て候間、』令進下部十三郎男候、彼船人之方へ』任請取、材木出 候て可預候、但やう々々に』申(?)候て、賃も候はて入候て可下之由、或以□』あつ らへ申て候之間、船人かまいり候て、材□□(木を?)』請取申候事は、定よもと相存 候、しか□□(るに?)』六浦之西面に在所者候之由申候、せとの』橋下より小船なん どにつみ候てそ、よく』候ぬと相存候、一向御寺の御下部をた』のみまいらせ候、能様 に被仰付候者、□』相存候、        』彼まさにも御寺のこくいをうた』
 差出人は、恐らく東国のどこかの国の称名寺末寺の僧侶であろうか。文書の宛先の部分は切れて残っていないが、この文書が、称名寺の聖教の裏文書として現在に伝えられていることから見て、称名寺に充てられたものであろう。内容を最初から解釈していくと、彼は、まず、便船を尋ね求めることができたので、それに下部の「十三郎男」を乗せ、(恐らくこの書状を持たせて)称名寺まで遣わしますという事情を述べている。
 そして、彼は、同時に彼の署判を加えた請取状を船人に渡したらしく、その請取と引き換えに、この便船の「船人」(船頭)に材木を出し渡すように称名寺に依頼している。たとえばこの材木を末寺の建築に使うというようなことであったのであろう。ただし、色々なだめすかして船賃も支払わずに材木を載せて戻り下ってくるように「誂えた」(委嘱した)ので、船人自身に称名寺まで行って材木を請取れといっても了承することは、「定めてよも(あらじ)」と思ったようである。
 ところが、丁度よいことに船人と知り合いの「在所者」、つまりこの僧侶や船人の住んでいる地方の人が、「六浦の西面」に家を構えており、(船人とも懇意なためであろうか)近くの「瀬戸の橋下」から「小船」を出させて称名寺から運ばれてきた材木を船に積みかえる位のことは、世話させることができるということであったようである。つまり彼は船持ちであったのである.そして,ここで小船といっているのは,要するに港で動く一種のハシケ船であったのであろう.とすると「船人」の船は,さしずめ大船ということになり,「在所者」と「船人」の関係は,この手紙の差出人の住む在所の荷物の積載を一括して世話する荷揚げ業者と東京湾航路の船頭との関係ということになるであろうか.
 さてそうすると、称名寺の下部が瀬戸橋まで材木を運んで来てくれれば、(それは丁度称名寺から直線の道を通ることになる)あとはこの「六浦之西面」の住人に任せられるということになり、面倒だろうが、橋までの輸送については「一向御寺の下部をたのみまいらせ候」ということになったのである。勿論,材木を小船に載せる時,あるいは小船から大船に載せ替える時にも人手はいったろうから,それを手伝うことも「御寺の下部」には期待されたかもしれない.
 以上、六浦の海上交通の在り方の一端を見てみたが、また、『金沢文庫古文書』五二六九にあるように、瀬戸橋の内海は殺生禁断の場であり、ということは、外海では漁業が行われていたであろうから、ここは、漁船の行き来も盛んな場所であったであろうということも追加しておきたいと思う。たとえば,『枕草子』(第306段)には「船に乗りてありく人ばかり,あさましうゆゆしきものこそなけれ」として,「ものをいと多く積み入れたれば,水際はただ一尺ばかりだになきに,下衆どものいささかおそろしとも思わで走りありき,つゆあしうもせば沈みやせんと思ふを,大きなる松の木などの二三尺にてまろなる,五つ六つ,ほうほうと投げ入れなどするこそいみじけれ」
                                         興味深いのは、東京湾の海上交通が、地方(たとえば千葉)の僧と船人と「在所者」の間での私的な縁が情報回路となって動いていることである。顔見知りで無理がきくというような関係がなければ、これは動かなかったのである。そして、「在所者」と称名寺の下部も知り合いで、「お、お前か」というようことで材木の受け渡しがあったのではないだろうか。しかし、そういう縁にのみ頼っている訳ではなく、輸送する「柾」に御寺の「刻印」を打って、他の材木と混同されることのないようにと依頼したところで、この書状が中絶していることは、船人は、全面的に信頼されていたのではないのである。たとえば、この船人は地方の特産物を、朝比奈の切り通しを越えて鎌倉に運び込んだのであろう。商品関係が半ばは縁に取りもたれて展開する様相をここに見ても良いことになるであろうか。

Ⅲ瀬戸橋の造営
 寺の下部は、恐らく車で材木を運んだのであろう。六浦およびその金沢との堺に掛かる瀬戸橋は、陸上交通の要衝でもあったのである。ところで、この瀬戸橋は、嘉元三(一三0五)年、北条氏によって造営されたものである。『金沢文庫古文書』五三0三は、その暫く後の史料であるが、鎌倉時代の瀬戸橋の様子が解る。五六という槫板(橋板)四二0丁と桁と柱という材木の種類や石を使用する大規模な橋であったことが知れよう。しかも、この瀬戸橋造営は実際には、称名寺の僧侶が中心になったもので、先にふれたような律宗の僧侶による社会事業の東国における好例なのである。さきに触れた瀬戸の内海の殺生禁断も,この瀬戸橋の造営の一環として称名寺のために行われたものなのである.
 この点で興味深いのは、元□元年に「武州瀬戸護摩堂」で「馬頭観音法」の経典が書写されたことが分かり(『金沢文庫古文書』識語一九七六)、このような馬頭観音法の写経は律宗の僧侶にふさわしいものであったといえよう。そして、瀬戸橋は当然牛馬の交通も頻繁なところであったと思われるのである。
 史料に掲げたもう一つの書状は、女の書状であり、文意を取りにくいところもあるが、興味深いのは傍線部である。つまり、一人の子供は、無実の罪の下におり、別の子供は、「親取」、つまり、誰かに養子にして貰うために「瀬戸橋の橋柱(ランカンの柱のことか)」にしてしまおうという意味と理解したい。さんしょう大夫の物語で直江津の橋に宿った母子が人買いに取られる話は有名であるが、橋は子捨ての場であったのであろう。鎌倉から東国に下る旅人たちが、ここで子供を拾っていく様子を考えても、大きな問題はないであろう。
Ⅳ景観保存と中世考古学
 さて、以上の検討によるだけでも、鎌倉時代の六浦は港湾としての意味が高かったことは解ろう。そして、このような調査の中から上行寺遺跡の評価と保存の方法に関わる論点を蓄積していくことが課題になるのであるが、少なくとも東国には、中世港湾の遺構がめぼしいものがなく、金沢八景と六浦の景観自身そしてそれを見下ろす上行寺の景観全体が重要であることを了解頂けたであろうか。港湾自体の景観の相当部分は既に破壊されているが、しかし、周辺の寺院の様子は残されており、その調査の中で、今後何らかの港湾遺構が発見される可能性も皆無とはいえないのである。
 もう一度提示した史料に戻れば、まず海上交通の面では、先の「在所者」は船持ちであり、ハシケの業務を行っていることから、一種の問であると考えられることを指摘しておきたい。中世の海運業者・倉庫業者として問、特に地方の問の研究は今後重要な研究分野となると思われるが、六浦における問の史料は、南北朝時代以降について知られているだけであり、この史料は、一種の問の存在を示すデータとして貴重である。そして、実は、上行寺は、南北朝時代に千葉の中山法華経寺に六浦の豪商、問の六浦(荒井)妙法が帰依して自分の屋敷付近に堂を建て、それが発展して上行寺となったものなのである。私は、このような関係は、大規模なものではないとしても既に鎌倉時代の浄願寺と六浦住民の間にもあったのではないかと考えと思う。(千葉と縁の深いところであるという印象)
 また、瀬戸橋の史料では、特に注目されるのは、石切がいたことである。瀬戸速瀬といわれる様にここは潮流が速く、この石は橋柱を守るために橋脚の下に石を置いたものであろう(『石山寺縁起』)。周知のように律宗は例えば、現在上行寺に残されている宝篋印塔(日蓮宗の寺には宝篋印塔があることはないので、どこかから移動したものとされている)のような独特な石造美術を発展させており、またその土木事業のためにも石工を編成していたといわれている。忍性らは、畿内に発達した石造美術を東国に持ち込んだのであり、彼らは東国石造美術の上でも逸することのできない位置を持っているのである。その律宗の僧侶が造営の中心になった瀬戸橋の石工は恐らく、上行寺遺跡の多量の石造彫刻にも関わっていたのではないかというのが、私の想定である。そして右の宝篋印塔に「牛馬六畜平等利益」という特徴的な銘が刻まれていることは,それがあるいは瀬戸橋のたもと,あるいは旧浄願寺に置かれていたことを示すのではないか,と思うのである.
          

2011年3月21日 (月)

地震火山(11)寒川旭『地震考古学』と地盤液状化

110319_144537_3    一昨日、本当に久しぶりに自転車で花見川ルートへ。梅の花が咲いている。そして今年はじめてのモンシロチョウをみた。小学生のころ、春、蝶が飛び始めるのを心待ちにしていたが、そのころの東京では、最初のモンシロチョウは3月12日・13日頃だったと思う。昨日は3月19日だから、そんなに遅れている訳ではない。


 公園の道路にひびが入っている。そして谷戸に入って国道に上がってくる坂道にもヒビが入っている。崖を被覆するコンクリの破片が落ちているから、これは地震にともなうヒビであることは確実。
Ekijouk10316_095415  わが家は、その谷戸から東南へ、いくつか丘を越えた、別の水系の谷戸にあるが、谷戸の入り口あたりでは、3月11日には液状化が起きた。三軒並びの住宅がかしぎ、その真ん中のラーメン屋さんは閉店の掲示がでている。写真はその横の道の液状化のあと。黄砂の部分。地震後、しばらく経ってからだから明瞭ではないが、直後は相当のものであった。

 地震にともなう液状化は、地盤の深部にある砂礫層の構造が崩れると同時に、内部の水の圧力が一挙に増大することによって、上の土地を突き破って液状になった砂が噴出する現象である。

 この液状化の痕跡が各地の遺跡で確認されたのは、1986年、滋賀県高島町今津の北仰西海道遺跡が始めて。寒川旭『地震考古学』によれば、寒川氏が町史編纂室で、遺跡の発掘を担当している葛原秀雄氏を紹介され、「遺跡で地震の跡がでるとしたら、どんな形になりますか」と質問され、しばらく前の日本海中部地震の水田の風景を思い出して「砂のつまった割れ目がたくさん見つかるはずです」と答えたところ、「それらしいものが、今掘っている現場にある」といわれて見に行ったとのこと。これが「地震考古学」という分野の実質上の出発点になったという。

 これは日本の考古学の新しい社会的役割が発見されたということでもあるように思う。それまでも、考古学は地面と地盤を調査するという意味では地質学と深く関係するものではあったが、これによって地震の痕跡を調査し記録するという新しい役割が生まれた。これを系統的に蓄積して、地域の人々にも見やすい形にしていくというのは、地震学の研究のために、そして地域の安全のために必要なことである。

 国家や各自治体は、それを十分に認識してほしい。遺跡調査がなぜ必要かということを自治体や市民に説明することはおうおうにして困難をともなうが、これは絶対的な必要であるように思う。考古学の位置づけを考え直さないとならないし、調査体制の強化が実際上の必要であることが強調されてよいと思う。

 千葉では幕張と美浜町で液状化が起きているが、自宅近くをみても各地で液状化が起きているに相違ない。現代の通常の生活では、地盤というものを意識することがないように思うが、これは地域で共有しなければならないものなのかもしれないと思う。表面の利用・占有は私的に行われるものだが、地盤それ自身は共通するものだから、何らかの意味での共有を考えざるをえない。いわゆるコモンズ(社会的共通財)であるということの意味を正確に考える必要があるのだと思う。コモンズとしての土地・大地というと、ことあたらしいが、従来からの歴史学では、大塚久雄先生の「共同態」、あるいは網野善彦さんが強調した「無縁」の問題が、これにあたる。

 地盤に対する意識というものが、平安時代から鎌倉時代にどのようなものであったかというのが、最近の研究テーマの一つであった。どうも下地という言葉が土地の占有される表層部、地本というのが地盤自体を示すらしい。こういう迂遠にみえる問題も、実際には、きわめて現実的・現代的な問題であることを、液状化の跡をみながら、考えている。

 寒川旭『地震考古学』(中公新書、1992年)は、その意味でも重要な本である。御一読を。

 わが家は生協の生活クラブに入っているが、「さつまあげ」などの練り物は、石巻市の高橋徳治商店からきている。高橋商店の練り物はおいしいと地震前に食卓の話題になったばかり。
 連れ合いが、生協のHPで掲示をみつけた。


 ◆宮城県石巻市の高橋徳治商店の状況
(1)社員のHさんからの情報(16日20時):「社長は牧山社務所に避難中、従業員は7割ぐらいが安否確認できているが、先に帰宅した従業員との安否確認ができていない。工場は第一工場は残っているが瓦礫の山で近づけない。第二工場は流失。」
(2)高橋さんは生きている(3月18日00:42)
生きていたよ。昨日までいろいろ探したけどわからず、ヤキモキしてたけど、現地に行けば開ける。比較的に元気だった。そして(避難村の)村長の役割をきちんと果たしている。明日、重茂に行けば、また開ける。米の支援10トンを水沢に入れる。東京から支援の2人が明日来る。明日の積み込みは満載だ。今日とは大違い。積みきれない。 。


 高橋徳治さんの顔写真が載っていて、はじめて(写真で)お目にかかる。お元気で御活躍を!

2011年3月 1日 (火)

武人のハニワ像ーー奈良茅原大墓古墳

 110301_092005 朝、総武線の中。2月25日の朝日新聞朝刊によると、四世紀の埴輪像で、武人を形容したものが出土したという。奈良県桜井市の茅原大墓古墳(全長86メートル)。古墳の東側のくびれ部で数百の埴輪片が見つかったのを組み合わせたところ、高さ67センチ、幅50センチの武人と判明。いわゆる「盾持人埴輪」である。顔の部分は縦17センチ、横16センチ。目やほおの周りに赤い顔料が残っていた(これは酒を呑んだというしるしだろうか)。一緒に置かれていた円筒埴輪から、古墳時代中期初め(4世紀末)の製作と推定されるという。これまで、このような埴輪の事例は5世紀初めから前半の拝塚古墳(福岡市)や墓山古墳(大坂羽曳野)。関東地方を中心に50箇所近くから100体以上が出土しているが、これはこれまででもっとも古い武人像の埴輪であるという。
 武士の埴輪についての研究がどうなっているのかはまったく知らないが、やはり気になるのは、伊豆国神津島の噴火関係史料に次のようにみえることである。

 また山岑に一院一門あり。その頂に人の坐する形の如き石あり。高さ十許丈、右手に剣を把み、左手に桙をもつ。その後ろに侍者あり。跪き貴主を瞻る(見る)。その辺、嵯峨にして通達すべからず。

 

 ようするに火山山頂部分に「院」、つまり建物の区間らしきものがあり、門がある。そしてその中でもひときわ高いところに、人が座っているようにみえる石がある。その石の高さは30メートル以上、武人は右手に剣をつかみ、左手には鉾をもっている。そしてその後ろに従者がいて、跪いて主人の武人を見守っているようにみえる、ということである。
 火山幻想の中に、武人の像が登場することは、前方後円墳の埴輪に武人像があることと対応しているのではないだろうか。普通に考えれば、埴輪で武人の像を造るというのは、古墳の被葬者に現世でつかえていた武士の姿を模造したもので、それは現世の延長ということになる。たしかに、人間の幻想が作り出したものという意味では、神話世界は現世の延長である。しかし、この幻想には特定の根拠があるはずであって、神話は、現世の姿と生活をそのまま映し出すという訳ではなく、幻想を通じて変形し、かつ転倒された姿をもつことはいうまでもないだろう。
 そこには、神話世界をあたかも現実であるかのように考えたり、感じたりする現実があったに違いない。その場合、火山の噴火の中で造られた磐の形が幻想の種となるというのは、十分にありうることだと思う。
 私見によれば、列島社会の山の神話は、磐座の神話という性格をもっているが、さらにその先には、火山神話がある。磐座にはさまざまな形をしたものがあるから、磐座の信仰のレヴェルで、怪異な姿をした磐を武人と観念したということはあってもよい。しかし、火山の噴火によって、そのような姿ものが作り出されたという神秘感ほど説得的なものはないだろう。人は、その生成の現場をみることなしに、幻想を固定することはないのではないか。そして、そういう記憶は個人の中のみではなく、集団の内部に蓄積され、一つの幻想の体系となっていくのではないだろうか。
 先日の座談会で赤坂憲雄氏に野本寛一氏の磐座についての分析が参考になるのではないか。民俗学で火山論に関係する仕事をしているのは野本さんであろうと教えられる。さっそく野本さんの『石の民俗』を見てみるつもりが、諸事にまぎれてまだになっている。山と磐座の幻想が火山幻想に展開する諸様相を考えてみたい。

2011年2月24日 (木)

歴史学のミクロ化、筆跡学と考古遺物の顕微鏡分析

 昨日、皆川完一先生がいらっしゃたので、『尊卑分脈』の入力の仕事をしている院生が御挨拶するのに同行する。平安時代・鎌倉時代・南北朝時代を専攻する歴史学者の常用の道具であるが、その編纂は皆川先生のほぼ独力で実現された。昔の史料編纂所の所員の中には、史料編纂所の出版物のみでなく、『尊卑分脈』の入っている『国史大系』など、さまざまな出版事業をになわれる方々がいらした。
 史料編纂所の閲覧室で御挨拶。若手が仕事を継いでいることを喜んでおられる。官職が一覧できれば便利になるでしょうとおっしゃる。
 こんなに偉い学者でも、最近のデジタル化の趨勢もあって、ディスプレイにむかって史料を点検。「馴れました」とおっしゃる。『尊卑分脈』の入力の御願いにご自宅にうかがった時、整理された広い書斎で、悠然と研究をされている御様子をうらやましく思った。それと雰囲気とは違うが、御意欲はかわらず。
 林譲氏の「諏訪大進房円忠とその筆跡」によると、円忠の筆跡論について、すでに皆川さんがデータをためていて、林氏に提供されたという。それは知っていたが、先日、東北学の座談会の関係で必要があって、再読していると、いろいろなことに気づくが、皆川さんの最終講義は、奉行人安富行長の筆跡論であったという。
 古文書の筆跡論は、現在の「中世史研究」の最先端で、この論文はすばらしいものだが、この分野の最先達が皆川さんであったことを再確認する。古文書の編纂を業としながら、こういう最先端の研究ができていないことに忸怩たるものがある。昨日のブログで書いた「最後は体力と感覚」というレヴェルでの自己満足がいかんのだろう。編纂という基礎研究に密着した先端研究のスタイルを考えないと基礎研究の体力がつかないのかもしれない。
 筆跡論は本当に重要だ。歴史学のミクロ化ということを考える場合に、最初にでてくるのが筆跡論である。私は、ひょんなことで、和紙の物理分析を始めたが、これは筆跡論があって、はじめて本格的な意味をもってくるものだと考えている。

 昨日は、夜8時に、千葉市立図書館によって黒崎直『トイレ考古学入門』(吉川弘文館)をかりてくる。昼間、ネットワークから予約しておけば、夜に入り口のカウンターですぐに借りることができるというサービス。しかも夜9時までやっているというありがたいサービスである。図書館さまさまである。
 先日の『東北学』での入間田宣夫・赤坂憲雄、両氏との対談のゲラの関係で話したことについて、この本の情報によったのではないかという記憶があって、あわてて確認のためである。
 該当の記憶は、やはりこの本であったということを確認してほっとして、メモを編集者に送る。
 そのメモは、
「巫女など女性が忌籠りする小屋、「廬」「齋館」については、岡田精司さんの指摘がありますが(岡田「宮廷巫女の実態」『日本女性史』原始古代)、私は黒崎直さんが、考古学者が普通、「水の祭祀」の施設だという木槽樋をトイレだとされ、同時に、「産屋」「神婚儀礼の齋屋」とされるのに賛成です(『水洗トイレは古代にもあった』吉川弘文館)。あるいは「月経小屋」の意味もあったかもしれません」
 というもの。これが座談の場でスラスラでてくるようならばたいしたものであるが、実際には、座談会の場では曖昧な記憶にもとづいて発言。たしかそうだったという記憶が、今回は正しかったことになる。
 これで『東北学』と座談会関係の仕事は終わり。『東北学』の座談会のテーマは「いくつもの日本の神話」というもの。五月には発行。

 黒崎さんの本が面白く、夜、就寝前、そして何となく朝、目覚めてしまって読む。私のトイレ論も各所で利用されていて(後に『中世の女の一生』におさめたもの)、その関係では、「小便壺」を特定するために科学分析をされているのに驚く。この部分、『中世の女の一生』の新版で修正した部分と関係しており、そのうち詳しく再チェックをしなければならないかもしれない。
 静岡の一の谷遺跡や平泉の柳御所の保存運動に関わったころ、平泉の糞ベラの話がでてきていた。考古学の保存運動に関わっていたころのことなので、この本を読んでいても、どうしても、その時、考古の中枢部の人たちが何をしていたかという目でみてしまう。考古学が一種のミクロ化の道を歩んでいたのだということがわかる。遺物の顕微鏡分析によって、寄生虫の卵を発見して、それによってトイレ遺構を確定するという手法は、考えてみれば、和紙の顕微鏡分析ということを考えるのと同じ発想である。遺物の壺が小便壺かどうかを確定するのに、「フーリエ変換赤外分光分析」を使用するというのは、和紙分析の手法と一緒なので、笑ってしまう。
 一の谷の保存運動の最後の段階で、山村宏さんが、遺跡の一画だけでも残したい、顕微鏡分析をすればなにがでてくるか分からない、そのためにだった妥協的なことでも何でもするといっていた痛切な記憶がよみがえる。一の谷遺跡は、石でできた遺跡なので、分析がむずかしいと苦闘していた彼が、将来の科学の発展に期待したいと切歯扼腕していた。
 東北学の座談会の関係で、久しぶりに藤森栄一氏の本を読んで、諏訪と天竜川流域のことを論じた。その部分も下記に引用しておくが、しかし、下記にでる「さなぎ池」のそばに「蜆塚貝塚」があったのだと思う。歴史学の道に進もうと考えて、歴史学研究会古代史部会に出始めたとき、伊庭遺跡の保存問題があって、私も荒木敏夫氏につれられて見学にでかけた。その時、対応をしてくれたのが、山村宏さんだった。そして、彼はその時、「蜆塚貝塚」
の発掘を担当していたという記憶がある。考古学と遺跡の保存のために奮闘してきつい目にあった彼の遺志を無にしないためにも頑張らねばならないというのが、年来の意思であるが、何の研究をしていても、考古学との関係で活動した時期の経験に自分の学問が戻っていくという気持ちがする。
 歴史学のような面倒くさい学問を業としている学者にとって戻っていく場所があるというのはありがたいことである。
 

以下東北学座談会事前メモ
 「桓武との関係では、最近、『諏訪大明神絵詞』に開成皇子の話がでるのに気づてびっくりしました。この皇子は桓武の息子で摂津の勝尾寺で出家するのですが、その前にしばしば諏訪明神が示現したというのです。実在の人物とは思えないのですが、勝尾寺文書にもでてきますので、早くからの伝承されていたようです。この例も、東国に広がった桓武神話の一つなのかもしれません。
 実は、石井進さんや網野善彦さんを担いで保存運動があった静岡県磐田市の一の谷墳墓遺跡の南西の天竜川沿いに、この皇子の塚と称するものがあるのです。東国に流された皇子が、この塚の上に立って、京都を懐かしんだといいます。
 遠江国は、西国と東国のちょうど境界に位置しますので、保存運動の最中は、この塚も一の谷墳墓も、東国と西国の境界を象徴すると立論したのですが、むしろ諏訪神社との関係で残った伝承なのかもしれないとと考え直しました。
 諏訪と遠江の関係についての神話には、後三条天皇の時に、諏訪湖の神渡をみようとして、諏訪湖の氷りの上で待ちかまえていた修行者が、ちょっと寝た間に、「この汚きものをどけろ」という声を聞いたと思ったら、遠江まではね飛ばされた。浜名の辺のさなぎ池まではね飛ばされたというのです。
 こういう伝説は多いのだろうと思います。それは王権との関係で出てくるのですが、面白いのは藤森栄一さんによると諏訪社周辺の銅鐸は三遠式銅鐸というもので、浜名湖の側の「さなぎ池」「さなぎ神社」との関係がきわめて深いということです。諏訪信仰が天竜川沿いに広がって、遠江まで広がっている様子を示すように思います。王権神話というべきものをはぎ取っていくと、神社信仰の広域的な実態が確認できるのではないか。
 私は、ここにはおそらく領主制あるいは領国制を基礎にもった諸関係があって、神話的な関係が維持されているというような関係をみるべきであろうと思います。ともかく諏訪円忠の身分からいっても室町時代の国制に対応している側面があることは当然だと思います。歴史学としては、続いているということのみでなく、基礎となる実態の変化をおさえたいところですが、すべて今後の課題として残っているというとこです。

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2011年2月19日 (土)

魂をはこぶ白鳥の骨

  2011年2月18日の朝日新聞夕刊に白鳥の翼の骨が8世紀後半の男性の骨の入った蔵骨器の中に入っていたという記事。「魂をはこぶ白鳥の骨」という見出しである。白鳥の翼の指にあたる部分であるという。蔵骨器は土師器製で蓋がついており、白鳥の骨は、男性と一緒に火葬・埋葬された。
 佐倉市の高岡新山遺跡から出土したもので、歴史民俗博物館の西本豊弘氏の鑑定である。奈良文化財研究所松井章氏が「非常に珍しい。ヤマトタケルが死んで白鳥になって飛び去ったなど、現世と冥界をつなぐ存在としての白鳥の観念を示すか」というコメントをしている。

 一昨年だったか、「藤原教通と武家源氏ーー『古事談』の説話から」(浅見編『古事談を読み解く』笠間書房)という論文で『古事談』(一巻五一話)の白鳥の話しにふれたことがある。後朱雀天皇の霊が白鳥になったと考えられるという話で、それは下記のような短い話である。

寛徳二年二月の比、白鳥有り。<羽長四尺計り、身長三尺>、侍従池<西七条と云々>に来たり住む。件の鳥の鳴く詞に、「有飯、無菜」と云々。
                  (『古事談』一巻五一話)

 これについての謎解きは次の通り。

 寛徳二年二月、つまり一〇四五年の二月は、後朱雀院の死去の翌月にあたる。危篤状態に入った後朱雀は一月一六日に皇太子親仁親王(後冷泉)に譲位し、その翌々日、一八日に死去し、二一日に火葬にふされている。この時間経過からして、この白鳥の恠異が、後朱雀の死に関わる噂話をあらわしていることは疑いない。
 まず重要なのは、白鳥であろう。白鳥とは一般に白い鳥を示すが、「羽長四尺計り、身長三尺」というから、これは大白鳥である。鶴ではないし、コウノトリはなかない。白鳥はヤマトタケルのことを想起するまでもなく、高貴なる身分のものの聖霊を示す。それ故に、この白鳥は後朱雀の化身であったということになり、この白鳥の鳴き声が後朱雀の言葉であると考えられたといってよいだろう。白鳥の鳴き声は大きく騒がしいが、聞きようによって「ウーハン、ムーサイ」などと聞こえたのであろうか。
 問題は、この「有飯、無菜」という鳴き声の意味であるが、これは天皇の死去・譲位に関わる慣例あるいは儀礼の調査によって、意外と簡単に知ることができる。『皇室制度史料』(太上天皇一)の第二章「太上天皇の待遇」には「太上天皇の勅旨田」という項目が立項されており、そこには、次のような記事が蒐集・掲載されている。
「上皇脱屣之後、(中略)別納供御飯<勅旨田地子>、御菜<御封物>」
             (『西宮記』巻八院宮事)
 つまり、天皇が譲位して太上天皇の尊号をうるとともに、上皇の封戸と勅旨田が設定される。『皇室制度史料』の解説によれば、ほぼ一〇世紀には、このような封戸と勅旨田の設定が慣例となっているという。これによって白鳥の鳴き声は、「飯(勅旨田)はあるが、菜(封物)をもっていない」という後朱雀の嘆きを表現するものであったことがわかる。
もちろん、これは『古事談』の伝える伝承であって、それが歴史的な事実であるかどうかはわからない。そもそも後朱雀は、譲位と同時に太上天皇の尊号をうけたとはいえ、その直後に死去しており、実際に勅旨田の設定が行われたかどうかは明証がなく、「後朱雀院勅旨田」の存在を示す史料も知られていない(中略)。
 本稿ではむしろ、『新日本古典文学大系』の解説が述べるように、白鳥が来住した「侍従池」が、この時、内大臣藤原教通の所領であったことを論じたい。この池は、右京七条にあったが、『朝野群載』(巻廿一)に載る一〇四四年(長久五)六月十一日の「権中納言藤原信家家牒」(侍従池領地紛失状)によれば、侍従池の地は「八条大将家」(藤原保忠)ー「三条太政大臣家」(藤原頼忠)ー「入道大納言家」(藤原公任)ー「内大臣家」(藤原教通)ー「権中納言家」(藤原信家)と伝領されたものである。藤原保忠(時平子)ー藤原頼忠(母が時平娘)ー藤原公任(頼忠子)という伝領の経過は、時平流や実頼流など、一時隆盛しながらも摂関家の傍流となっていった家系の所領が、教通の許に流れ込んでいったことを示す点で興味深い。教通の実力を考える上では無視できない問題である。
 後朱雀と教通の関係は深かった。つまり一〇一七年(寛仁元)八月九日、後朱雀が皇太子となった時に、教通はその東宮大夫となっている(治安元年七月廿五日、任大臣により退任。『東宮坊官補任』)。両者の関係は、たとえば後朱雀が、その晩年、頼通の愁悶を無視して教通の娘の生子を女御にむかえたことにも現れている(『藤原資房日記』長暦三年十二月)。後朱雀と教通の関係についてはさらに考証すべきことも多いが、ともかくも、以上を勘案すると、後朱雀の霊を象徴する白鳥が侍従池に降り立ったというのは、教通が後朱雀の没後、その関係者を支持する立場にあったことを示唆しているといってよい。もちろん、勅旨田などは後朱雀の子孫に分譲されるのであるが、その経営などにも教通が必要な援助をしたと考えてよいであろう。
 

 この論文の本来の趣旨は、平安時代の源氏が藤原教通と深い関係をもっていたことを示し、源氏と王家・摂関家の関係を考えるという点にあった。その意味をとるために、白鳥を論ずるのが必要となったという経過である。
 それ故に白鳥自身について論ずることが目的であった訳ではないが、この史料は、貴人の死と葬送の関係で平安時代になっても、白鳥伝説が生きていたことを示す、管見の限りでは唯一の史料である。
 神話が『古事談』という物語の中に再生していくにあたって依然として王権中枢の物語創造力の位置が大きかったことを示すといってよいのかもしれない。もちろん、神話が物語となっていくプロセスは、三宅和郎氏の『時間の古代史』によっても、きわめて普遍的で、王権中枢のみがその場となったということではないだろう。『かぐや姫と王権神話』で論じたことからしても、神話から物語という系譜はより広く正確に引いてみる必要があると思う。
 しかし、ともかく、少なくともヤマトタケルから後朱雀という王権中枢における観念の系譜の線が引けることは確実である。その意味では、この『古事談』の説話の謎解きは重要だと思っている。

 しかし、白鳥論にとってより根本的な問題、研究者にとっては解析が困難であるという意味でより高級な問題は、経済史と民衆史に関わる白鳥=穀霊問題である。この穀霊としての白鳥という問題は、大林太良氏が体系的に論じた問題(大林太良「穂落神」『稲作の神話』)である。この穀霊としての白鳥は、コメントで松井氏が『常陸国風土記』の鹿島郡白鳥里の白鳥童女にふれているように、白鳥天女という形式をとることが多い。かぐや姫伝説の中心になった『丹後風土記』の白鳥天女もこれに関わることはいうまでもない。
 柳田国男が論じているように、長者が自身の富みにおごり高ぶり、戯れに餅を矢で射ると、餅が白鳥になって飛び去り、長者は没落するという長者伝説がある。これは白鳥が餅=穀霊であることを別の側面から示す伝説であるが、この長者伝説を彷彿させつ史料がないかというのを昔から捜してきた。しかし、結局、探し当てたのは、上の『古事談』だけで、それは天皇に関わることで役に立たなかったという経過である。
 それにしても朝日の記事は興味深い。これをきっかけにまた別の迂回路をさがすことができればと思う。

 また考えるのは、このところ新聞にでる記事のうちで、歴史家からも議論を提供すべき問題が連続していること。深刻な問題と文化に関わる問題の双方。これまでは新聞を切り抜いて保存するだけだったが、その意味でも、ともかく日記ブログに書いておくというのは研究者にとってはよい習慣。

2011年1月29日 (土)

火山・地震(1)霧島新燃岳ー前方後円墳は火山の幻想。

 人間文化研究機構の報告準備で霧島新燃岳の噴火のことを知らず、帰りの新幹線のニューステロップで知って驚く。報告のため朝六時半に家を出て、日帰り夜11時前に帰宅。疲れ切る。
 朝も、ばてていたが、入間田宣夫さんから電話。来月の『東北学』の座談会の件である。入間田さんの明るい声に励まされる。
 東北学の座談会にむけて霧島火山帯のイメージについて、ちょうど検討中のところであった。

Kirishima_from_north_j1_5   

 この霧島火山の画像はウィキペディアの「霧島山」から(English: Kirishima Mountains in Kyūshū, Japan. Taken from Kirino-ohashi Bridge on Route 221.日本語: 九州南部の霧島山。霧島山の北方、国道221号「霧の大橋」より撮影。日付 2009年5月(2009-05)。原典 投稿者自身による作品。作者 Ray_go)。
 新燃岳は左手奥。同じ方向にある高千穂岳も、この画像ではみえないが、この画像のよいのは、霧島火山帯の成層火山の様子、いわゆるコニーデ型の富士山のような山容がよくわかること。
 この鉢を伏せたような形が前方後円墳の後円部の原型にあり、前方部は、伏鉢のような主体部に近づく副山を表現しているというのが、私見。
 中国の神秘思想に、「天円地方」つまり、天は丸く、地は四角いという観念があるが、その観念にそって、こういう霧島連山のような火山地帯を図案化すると、前方後円墳になる。
 「前方後円墳は火山の幻想」というのが私見

 問題は、これが「天孫降臨神話」と対になることで、日本神話論の重大問題に連続するのではないかというのが、入間田さん、赤坂憲雄さんとの座談会にむけて用意している原稿の一つの中身である。
 霧島火山帯は、高千穂への「天孫降臨神話」との関係で、火山幻想の原点にあるというのが私見。

 前方後円墳が火山祭祀を表現しているというのは、日本史上、もっとも火山活動が活発であった八・九世紀の歴史史料の解釈を根拠としたものである。
 そのもっともよい例が、九世紀の伊豆神津島の噴火の例。

 八三八年(承和五)のこの大噴火の爆裂音は京都にまで響き、降灰が関東から近畿地方におよんだ。神津島では巨大な「伏鉢」のような四つの「壟」(つか)を中心にした「神院」に様々な石室・閣室の石組みができあがったという(院とは建造物の区画のこと)。
 「其嶋の東北角、新造の神院あり、其中に壟あり、高さ五百許丈、その周りは、八百許丈、其形は伏鉢のごとし」という訳である。

 壟とは九世紀の漢字字典、『新撰字鏡』に「壟<塚なり、つかなり>」、『和名抄』に「墳墓<つか>」とある。『字訓』もいうように、大きな塚をいって「陵・墓」と同義の文字である。神のこもる墓ということになる。
 この「つか」、つまり「伏鉢」のような山は高さ五百許丈(1500メートル)、周囲が八百許丈(2400メートル)というが、これがコニーデ型の火山を表現していることは明らかであろう。
 ただ、これはやや誇大な数字である。神津島中央の天上山も五七四メートルしかないから。上記の記事は、現在、東北隅にある砂糖山にあたるだろうが、これはもっと低い。

 さらに問題なのは、この「伏鉢」のような火山に「切岸」、つまり「片方が高く切り立って崖になったような所」が付属していることで、これを図案化したのが「前方部」であろうということになる。
 この切岸に「階四重」があるというのが重要で、前方後円墳には、しばしば三段ほど段築があるのはよく知られている。そして、そこには「砂礫」が敷き詰められているというのは、前方後円墳の「葺き石」にあたる。

 さらに、神津島噴火の記事には、家型埴輪を連想させる石室、また円筒埴輪列を彷彿させる「周垣」さらには、頂上の平なところに石の武人がいて、そのうしろには従者がいて、跪いているようにみえるなどというのは人形埴輪のイメージであろう。
 これらを「新作」したのは炬をもって天から降った十二人の童子たちで、彼らは海に火を放ち、地に潜り込み、大石を震い上げて一〇日ほども活動したという(『続日本後紀』)。

 『かぐや姫と王権神話』で述べたように、タカミムスビが火山神としての性格をもつとすれば、その系譜をひく王の墓が火山の山巓と噴火丘の様相を帯びるのは自然なことであろう。考古学の近藤義郎さんの前方後円墳の墳形は、前方部は階段・墓道であり、後円部がきわめて強い禁忌におかれているという研究の到達点とも、これはうまく一致する(『前方後円墳観察への招待』)。
 これまで、火山神話と火山への禁忌の思想が、史料にもとづいて検討されたことはなかった。これは非常に奇妙なことである。
 そもそも、前方後円墳は「磐構へ作れる塚」(『万葉集』一八〇一)といわれます。『日本書紀』『古事記』に頻出する、天の磐船、磐座、磐戸などの表現は、「磐石飛び乱る」などといわれる火山爆発の記憶を核とした幻想ではないでしょうか。「磐」という言葉を追跡してみる必要があるように思います。

火山神話の原型は霧島火山
 前方後円墳は墳丘の形態などの可視的部分でいえばほとんどが近畿以外の外部要素で、ヤマトに突然登場したものといわれます(北条芳隆「前方後円墳と倭王権」)。
 つまり、崇神のしばらく前の段階で火山信仰が古墳というヴィジュアルな形でヤマトに持ち込まれた。初期のヤマト王権のアイデンティティの内部に火山神話=タカミムスヒ神話があったということになります。
 広瀬和雄氏は、この時期の国家について「前方後円墳国家」という定義をあたえていますが、その中枢にはいわば「火山王権」があったことになります。
 しかも、それは西かららしいということになると、この時代の前後、だいたい二世紀後半に九州から畿内地方へ列島の政治センターが移動したといわれる事態(吉村武彦『ヤマト王権』)に関係するものであった可能性が高くなります。
 つまり「天孫降臨神話」に登場する日向高千穂峰は霧島火山帯の中枢ですから、この火山神話が九州で共有されており、それが何らかの経過で畿内へ持ち込まれたと考えるのが素直であろうと思います。
 とはいっても、それに対応するイワレヒコ神話、「神武東征」神話自身は、創作されたものです。さきほど使用した言葉でいえば、まずはユナイテッドチーフダムの中での幻想と創話と伝承の側面が優越するものと考えるべきであると思います。
 その同盟には早くから九州勢力も参加していたはずです。創話能力を評価せず、直接に氏族の移動や征服に根拠を求めてしまうのは、一種の軍事史観になりかねません。それは何といっても歴史学の取るべき立場ではありません。
 ただ、問題は畿内が列島内部においては火山活動が微弱な地域であることで、火山神話の中央波及は、何らかの形で九州地方に所縁のある集団の活躍を考えざるをえないのではないかということです。
 いずれにせよ、畿内を中心とした前方後円墳の全国的な拡大は、火山神話の全国的な普及と統合の過程の物的証拠であると考えます。
 そこで九州の大火山、霧島火山帯と中央構造性より東の富士火山帯の火山爆発の記憶が合成され、その最終的結果が、かぐや姫の富士山頂からの帰天であるということになるでしょうか。

 以上、ほとんどは、『かぐや姫と王権神話』に書いたことです。ただ、最後の部分(急にですます調になっている部分)は、ここではじめて述べることですが、上記、座談会のための素稿の一部で、三月には発刊されるので、ブログでの一部発表は許されると考えました。

 宮崎の方々は、口蹄疫からいろいろたいへんではないかと思いますが、神話では、火山は日本の自然の「豊かさ・富み」の原型であると考えられていたふしがあります。新燃岳の噴火が人畜の事故をもたらしませんように。

なお、文中の『続日本後紀』の史料は、古代中世地震史料研究会(代表 石橋 克彦、神戸大学教授)の 作成した古代・中世地震噴火史料データベースからコピーしました。ありがとうございました。この研究会には御誘いをうけながら、当時、職場の編纂や図書・コンピュータ関係業務などの多忙のために失礼をしてしまいました。こういう形で、自分の研究が火山に関わってくるとは、当時は思いもしませんでした。歴史学からの火山研究は永原慶二先生の『富士山宝永大爆発』(集英社新書)がありますが、この列島の歴史を考える歴史学の社会的義務の一つであることを、今になって実感しています。

2011年1月24日 (月)

纏向遺跡の桃の種

 纏向遺跡の発掘は現場の雰囲気を知りたくて、昨日のNHKをみる。

 纏向遺跡の建造物の脇の土壙から、魚類を中心とし、猪なども含む供物の堆積が出土したという話である。猪の奥歯。木製の祭剣。竹籠が出土。竹籠はなかなか出土しにくいときいたことがあり、出土したなまの画像は興味深い。話は重要な問題で、発掘担当者のご苦労もよくわかった。番組の「3世紀の王国、邪馬台国」というキャプションも面白かった。
 ものの種は2765コ。野性の桃で直系約4センチのものである。辰巳さんが山で野性の桃を見つけるところは、私も野性の桃はみたことがなく、面白かった。考古学の方で、「桃」の出土状況の集成をいつかしていただけないかと思う。考古学は(特に歴史考古学)は、本当にたいへんな状況にあるように見えるから無理は御願いできないが。

 というのは、相当前、『物語の中世』に桃太郎論を書いた時に、「ところで、このような「桃」の呪力に関係して興味深いのは、中世の遺跡、特に水溝遺構から相当数の桃の核が出土するという事実である」と書いたことがあるからである。これははるか昔に考古学の方にきいた話で、考古の方はよく知っていることだと思う。この論文では、話を聞いた方に確認をとる余裕がなく、ただきいた話としてしまって失礼をしたが、これは民話論にとっては重要な話だと思う。

 以下、『物語の中世』の関係部分を引用しておく。

 さて、桃太郎民話の第三の要素は、「桃」である。桃太郎は「桃」から生まれたという民話の形式もあり、老婆が「桃」を食べたことによって若返ったという民話の形式もあるが、いずれにせよ、「桃」は桃太郎民話と一体的な関係にある。
 「桃」に特殊な意味をもとめる幻想的な観念の淵源が、さかのぼれば中国の民俗的な思想に由来することはよく知られている。これはいわばヨーロッパのリンゴにあたる聖果・聖樹の観念ということができるであろうが、中国の道教には、桃は不老長寿や多産をもたらし、魔物を退ける力をもった仙果であるという観念が存在したのである。特に昆崙山にすむという西王母が漢の武帝に与えたという巨大な世界樹の桃、蟠桃の伝説は有名で、たとえば日本でも、平安時代初期、仁明天皇の大嘗会の標には「王母の仙桃を偸む童子」の像が飾られていたという(『続日本後紀』天長一〇年一一月一六日条)。また平安時代中期、藤原師通が金峯山に捧げた願文にも「王母の桃、子を結ぶ」という一節が残されており(『平安遺文』⑪補遺二八〇。藤原師通願文)、大江匡房の漢詩序にも「昆崙万歳三宝之桃」という一節があるように(『本朝続文粋』八、『古今著聞集』(第五ー一三)、これは広く普及した観念であった。もちろん、「桃」の幻想の根拠のすべてを「西王母」伝説と中国的な道教思想に帰すべきかどうかについては疑問もあり、たとえば、記紀神話の黄泉比良坂に生えているという桃の木の伝説は、日本古代社会の中で独自に形成されてきた側面も認めなければならないだろう。『日本書紀』(神代上、第五段)には「時に、道の辺に大きなる桃の樹有り、故、イザナギ尊、其の樹の下に隠れて、因りて其の実を採りて、雷に投げしかば、雷等、皆退走きぬ、此れ、桃を用て鬼を避く縁なり、時にイザナギ尊、乃ち其の杖を投てて曰はく、「此より以還、雷敢来じ」とあり、『古事記』には「黄泉比良坂の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子三箇を取りて、待ち撃ちたまへば」とある。要するに桃の実は鬼=雷神にぶつけ、桃の木の枝は雷神に対する結界をはるための「杖」となったというのであるが、ここで呪力をもった「桃」の観念が、雷神信仰との関係で語られていることは注目すべきであろう。あるいはここには、「桃」の幻想的観念の古層をみとめるべきなのかもしれない。
 このような「桃幻想」は中世社会の中にも広く存在していた。たとえば、『今昔物語集』(巻二七ー二三)には、ある占い師=陰陽師が「此の家に鬼来たらむとす。ゆめゆめ慎み給ふべし」と予言し、「門に物忌の札を立て、桃の木を切り塞ぎて□法をしたり」という記事がみえる。また鎌倉時代の『沙石集』には、ある坊主が、貧乏神を家から追い払うために、「十二月晦日の夜、桃木の枝を我も持ちて、弟子にも小法師にも持たせて、呪を誦し」たという説話がみえる(『沙石集』巻七ー二二)。また『三国相伝陰陽■轄■■内伝金烏玉兔集』には、午頭天王の、守り札として「桃木札」がみえ*1、最近、しばしば中世遺跡から出土する「蘇民将来子孫也」という疫病除けの護符も、桃木で作成されていた可能性が高いと思われる*2。そして、さらに決定的なのは、図(23)の『病草紙』の「小法師の幻覚に悩む男」の場面に描かれた桃である。
 絵巻に痛みもあって、図が若干見にくいかもしれないが、女が病臥する男の方をむいて手に捧げている果物が、桃である。その証拠は、この果実の尻がとがっており、また女の膝の前においてある同じ果物をみると、枝についた葉も長いことである(拡大図(24)参照)。もちろん、葉の長さのみに注目すると、枇杷という考え方もなりたち、そういう解釈もあるが*3、しかし、枇杷ならば、逆に果実の尻は引っ込んでいる筈である。それに対してこの果実の尻はとがっている。中世には「桃尻」という言葉があるが、それは桃の果実の尻がとがってすわりの悪いことから、乗馬が下手で鞍に落ち着かないこと、いわゆる尻軽のことをいうのである。なお、今の桃をイメージすると、この絵の果物は小さすぎるようであるが、もちろん、この場合、今の水蜜桃を想像してはならない。現在、我々が食べる桃は、普通のもので重さ二五〇グラムにもなるが,江戸時代以前の日本原産の桃はきわめて小粒で、重さは20ー70グラムほどであったといわれるのである*4。
 そして、この女が桃を差し出している理由は、単に、それを病人に食べさせようというのではない。病臥する男は詞書きに「やまひおこらむとては、たけ五寸ばかりある法師のかみぎぬきたる、あまたつれだちて、まくらにありとみえけり」とあるように、小法師が登場する幻覚神経症に悩んでいる。女が桃を差し出しているのは、その魔を払うためであった。
 ところで、このような「桃」の呪力に関係して興味深いのは、中世の遺跡、特に水溝遺構から相当数の桃の核が出土するという事実である。これは「桃」によって水を浄化しようとする呪術を意味していたのではないかというが、中世において「桃」と「水」の連想関係が現実に存在したことを明示しているのである。柳田国男は論文「桃太郎の誕生」において、桃太郎民話論を追求する上で、「無闇に子供のように桃というただ一つの特徴を把えて、桃の話ばかり捜してみよう」としてはならないと述べている*1。これは、当時の好事家的な興味関心に対する批判として傾聴するべき面があるが、しかし、桃太郎民話を実際の史料にそくして考えるという立場からすると、この考古学的事実は、川上から「桃」が流れてきたという民話の語り口の背景をなすものとして無視することはできない。柳田国男自身が、同じ論文で、次のように述べていることは、やはり重要である。
      元は恐らくは桃の中から,又は瓜の中から出るほどの小さな姫もしくは男の子,即ち人間の腹からは生まれなかったといふことと,それが急速に成長して人になったといふこと,私たちの名付けて「小さ子」物語と言はうとするものが,この昔話(「桃太郎譚」)の骨子であったかと思ふ.後世の所謂一寸法師,古くは竹取の翁の伝へにもそれは既に見えて居るのみならず,諸社根元記の載録する倭姫古伝の破片にも,姫が玉虫の形をして筥の中に姿を現じたまふといふことがあるのである。それから今一つは水上に浮かんで来て,岸に臨む老女の手に達したといふこと,是が又大切なる点ではなかったかと思ふ.海から次第に遠ざかって,山々の間に入って住んだ日本人は,天から直接に高い嶺の上へ,それから更に麓に降りたまふ神々を迎へ祭る習はしになって居た.だから又谷水の流れに沿うて、人界に近よろうとする精霊を信じたのであった.
 つまり、柳田は桃太郎民話の直接の背景には「天から直接に高い嶺の上へ、それから更に麓へ降りたまう神々」が、さらに「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」となって訪れるという観念があるというのである。中世遺跡における「桃と水」の関係という事実を前提として、この柳田の見解をうけとめようとすると、最大の問題は、人々が「桃」とかかわって、「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」の姿を何時、どのような場で身近なものとして感じたかにあるだろう。
 和歌森太郎が「三月三日の行事全体が水の精霊祭」であると述べているように*2、おそらくそれは季節的には、三月三日の桃の節句の時期であったのではないだろうか。貴族の年中行事でこの節句が「上巳の祓」と「曲水宴」、つまり、川面に出ての祓えや川遊びの宴を内容としていたのは、この節句の水祭としての性格を示している。それは伊勢神宮の『皇太神宮儀式帳』や『皇太神宮年中行事』などによれば、古くから桃の花びらを浮かべた酒を飲み、草餅を食べるという風雅な節句であった。そして史料は少ないものの、庶民の間でも、その草餅をつくるための草摘みの野遊びも古くから行われていた(『文徳天皇実録』嘉祥三年五月五日条)。この春の野遊びは貴族の「曲水宴」に対応するような川遊びや潮干狩りを含んでいただろう。史料に頻出する三月三日の節料は、上記の草餅などの他、この海川の初穂を含んでいたに違いない。特に海は、この日ちょうど一年で最大の大潮の時であり、『延喜式』(内膳職)などに知ることのできる漁民の三月の節料は、引潮で現れた広大な砂洲・磯をあさった貝や海藻などからなっていた筈である。
 そして、三月は、水ぬるむ季節になるにしたがって、潅漑用水路の整備・修復が本格的に開始される季節である。この節句は潅漑労働の事始めの農休みだったのである。戸田芳実氏が解明したように、先だって二月には「二月田の神祭」が行われているが、その実態は「あらをだのなはしろみづのみなかみを かえるがえるもいのるけふかな」という和歌などが示すように、やはり山から降る流水を祭る「苗代祭り」「水口祭り」であったという*1。そして、この田の神は「右兵衛督忠公月令屏風」に、「仲春たかへする所あり、柳のもとに人々あまたいてみる、たのかみまつる」とあるように、柳の下に勧請されたものであったらしく、また、田の神の依代としての「石」が丸石から道祖神の石像や夷・大黒の像などにいたる多様な形を取り、それが民俗社会における「石」の呪力の基底に存在していたことはよくよく知られているから、おそらくそれは『信貴山縁起』に描かれた、図(25)のような「丸石」を神体とするものであったのであろう。『信貴山縁起』の石の上に立つ木が明らかに柳であることも、この想定に適合的である*2。
 そしてこの『信貴山縁起』の場面で興味深いのは、近くの人家の垣根にピンクの桃の花が咲いていることである。田の神を祭って本格的な農作業の季節に入った人々は、桃の花の開花をみながら、本格的に灌漑労働にとりかかっていったのではないだろうか。そして、人々は、桃の実の成る旧暦六月頃まで、自己自身の労働によって「水」と深く関わり合うのである。近世の神祇書によれば、「桃の守り」とは、厄病よけのために桃の若実を五月五日にとって乾燥させたものというが*3、「桃」は、そのような水の季節を連想させる果花樹であったのである。
 
 最後に一言。しかし、NHKの番組の組み立て方は、面白いテーマを聞きやすいように「作る」という感じは残る。具体的データを具体的に紹介してほしい。もう少し素直な感じにならないものか。