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カテゴリー「アーカイヴズ・図書館」の11件の記事

2014年1月 2日 (木)

図書館の機能、マイブックリスト

 昨日から机辺の片付けで尾野善裕氏からいただいた抜き刷り「古代尾張における施釉陶器生産と歴史的背景」(『新修名古屋市史 資料編 考古2』二〇一三年)をしかるべきところに整理するために、もう一度読んでいる。9世紀の淳和院論として屈指のもの。戸田芳実氏が読んだら、本当に喜ばれるだろうと思う。

 考古学はここまで来ているのだということを感じさせる。このレヴェルをふまえて、以前書いた「古代末期の東国と留住貴族」を手直ししないとならない。
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 写真は昨年、夜、京都にいったときにとったもの。まったく予期しておらず、石柱に接して、ここが淳和院かというので驚いた記憶。 

 尾野論文に引用されている論文で未見のものがある。

 研究所の任期がおわって不便なのはやはりすぐに本をみることができないということ、とくに雑誌論文がみにくいということである。そこで、雑誌論文については、国会図書館の複写サービスを使うことにして、今日、申し込んだ。WEB上でNLD-OPACで申し込んでから、到着まで一週間はかかるようだが、一枚24円ということだからやっていける金額である。
 
 歴史は細かな仕事なので、相当数の論文と著書が必要となる。本は必要なものは買わざるをえないが、面倒なのは論文で、研究所にいても、最後は隣の図書館や学部に探しに行くことになった。国会図書館の複写サービスに慣れれば、仕事がやりやすくなるのではないかと期待している。

 研究書(論文集)は、結局、一番使うのは、先輩たちのものなので、これは必須のものとしてそろえている。そして、どうしても必要なものは購入する。また戴くこともあり、差し上げることもあり、これは相互贈与のようなものである。ハードカバーの学術書の印税は差し上げる分で消えてしまい、ほとんど印税は期待できない。その代わりにいただくという関係で、学術書の出版というのは相当部分が専門分野内流通である。専門学術出版というのは学会内の情報流通の補助機能を一つのベースにして成立している業界であると思う。

 ただ、自分の専門を越える著書はさすがにそろえていない。また新しい分野の研究計画を立てる際にも書棚の本では不足する。これは近くの図書館にお願いするほかなく、近くの図書館が充実しているのはありがたいことである。
 
 私は千葉市内に住んでいるので、千葉の市立図書館と県立図書館を利用させてもらって便利をしている。

 最近発見して感心しているのは、市立図書館と県立図書館の両方の図書館で同じシステムになっている「マイブックリスト」という機能である。説明によると、「マイブックリストは、蔵書検索でヒットした資料をピックアップし、あなただけのリストとして保存しておけるサービスです。リストは10個まで作成できます。1つのリストには100件までの資料を登録できます。蔵書検索の画面から、1クリックで資料をリストに登録できます。リストや資料にはメモをつけておくことができます。作成したリストは、図書館のシステムに保存されます。インターネットに接続されていれば、どのパソコンからも、リストを閲覧したり、編集したりすることができます」ということである。

 両方の図書館が同じシステムなのがいい。
 
 参考文献目録、あるいは読まねばならない本のリストをこういう形で作れるのはありがたいことだ。歴史学の作業、資料のなかにもぐり込んで穴をほる作業というのは、頭脳作業としてはもっとも単純なものなので、誰でもできる。ある専門分野や実業のなかにひたって、その骨法をさとった人ならば、5年訓練すれば誰でもできるというのが、私の持論。

 逆にそれを職業にする人は、どういうオリジナリティを発揮できるのかが問われるということであるが、いずれにせよ、そういう作業にもライブラリーが助けてくれる。データをそこにおいておけるというのは新しい時代なのだと思う。

 いわゆる反知性主義がはびこる、この社会の基礎から、水準を上げていくためには、とくに日本ではライブラリーが大事なのだと思う。学術とライブラリーとが強い連携をもつようになることは基礎条件としてどうしても必要だと思う。図書館にいって歴史の書棚をみていると、それが文化学術全体のなかでどう位置付いているのかを考えさせられる。


 近現代史専攻で、一昨年だったか、韓国での任期を終えて帰ってこられた先輩のK・K氏から年賀状をいただく。「じっくりと研究をしている」とのことで、自宅作業をうまく進めるやり方の経験を伝授してくれるということである。遠山茂樹さんの言い方だと我々はみな「職人的研究者」であるので、狭いものでも書斎が工場(こうば)である。
 
 いつか話しを聞けるのを楽しみにしている。以上は、その時のためのメモ、私の最近の経験を御伝えするためのメモである。

2012年3月15日 (木)

読書とネットワーク、リルケの『フィレンツェだより』

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 読書とネットワークということを考えると、若い人は所有するものとしての本に、魅力を感じなくなっているのだろうと思う。それは、所有というよりも、まずは本が消費の対象にもならないということかもしれない。消費はやはり一種の「虚飾」や「流行」を必要としている。現在の「流行」「虚飾」の世界の中では、自分自身の意思で、何かを買おうという場合に、本を買おうという消費意識がでてこないのはやむをえない。
 しかし、本というものは、そもそも所有しなければ話しにならない。「一冊の本、あるいは一枚の絵について、本当にはっきりした見解をもつためには、それを所有しなければならない」のである。これはリルケの『フィレンツェだより』の言い方で、リルケはそれにつづけて

「わたくしが使いなれている一冊の本は、本当に親しく自分の歴史をわたくしに語ってくれる。わたくしがその本を使用すればするほど、今度はわたくしの方がその本に自分の話を聞かせたくなり、本は聞き手に廻るのである。友だちになった本は、喜んでこの楽しい役目の交換を引きうけてくれる。そこから予見できない情況が生まれてくる。時がたつにつれて、本は実際に印刷されているものの十倍もの内容を持つようになる」

といっている。

 こういう本への対し方が大学生の中で消失しつつある。大学にいるとよくわかるが、そもそも知識人世界でも、実際上、そうなっているのだから、これはいわば必然のことである。それにもかかわらず、いわゆる「情報化社会」(あまりいい言葉ではない)にふさわしい親密な知性のあり方が生まれていないのは、おそるべきことだ。同じ『フィレンツェ日記』の言い方だと、

ああ、早く来すぎた人々の痛ましい苦悩。彼らは蝋燭に火が点けられて玩具が輝くより前に、ノエルの木の部屋に入った子供たちのようである。彼らは敷居から立ち去ろうとしながらも、この興ざめた暗闇の前に、彼らの哀れな眼がそれに馴れるまで立ちつくすのである。

 
 ということになるだろうか。情報化の圧倒的な波が形をとる前に、大きな横波にさらされている若い人たちは、本当にたいへんだと思う。彼らは小船を組み立てる前に、突風にさらわれ、薄板にすがって底知れぬ海の上を漂っている。
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 この『フィレンツェだより』は、森有正の訳したもの。仕事の出張なので、ちくま文庫の一冊だけポケットにいれてきた。これを読むことによって『マルテ』や『ドウィノ』がリルケの立場から具体的に理解できるように思う。
子供部屋のたとえなどは『マルテ』そのものである。
 
 リルケが「所有」という言葉によって「本」を語っているのは、『ドウィノの悲歌』の「T・U・タクシス夫人の所有から」という副題の意味を明瞭に物語っている。高校生の頃に読んだ時は、この奇妙な副題の意味がわからなかった。タクシス夫人の『リルケの思い出』を読んでも、何も分からなかった。それが今頃分かるというのは、とうとう「本」を「所有」した。または所有されたということであろうか。
 小さなものの所有、しかも意識と知識と感情に直接にかかわってくる、それとして物質的な効用のないものを所有する親密な意識。リルケの『フィレンツェだより』は、19世紀末期に成立した文化的公衆というものへの批判と位置づけられるのであろうが、公衆の成立、読書の成立の中で、ぎゃくに「本の個人的な所有」、ほとんど身体的な個人的な所有という意識が鮮明になったというのが興味深い。

 私は、中井正一が好きなので、こういう問題を「委員会の論理」その他の、彼の仕事を通じて考えることになるが、中井の議論との関係では、このような「本のあり方」をどう考えるかが問題となる。以前も書いたと思うが、中井の言い方では、紀元前後以降の「経典」の誕生は、世界宗教の信仰集団の共有物として形成されたと説明することができ、それはその背後に直接に教団というネットワークをもっている。日本の宗教史でいう「聖教」というものであって、この聖教と経典の所有は寺院ないし教団の「財」であって、個人が管理するとしても、組織的な所有の対象なのである。そして、中井の言い方では、経典の共同所有に対応するものが「瞑想」であるということになる。一般に瞑想は個人的なものと考えられがちだが、実際には、瞑想のための共通する手段が与えられることで「瞑想」も可能になるというのが、中井の見解の独自なところだろ思う。「瞑想」には共同性が前提になっているというところがキーであると思う。
 中井の見解を敷衍すれば、これに対して、「近世」における中国の宋代に由来するブックの形態の一般化が、ヨーロッパでグーテンベルク革命をへて、近代社会へ向かうということになる。もちろん、ヨーロッパの職能集団、ギルドが共有のアーカイヴズをもっていたことはよく知られている。実際に、ヨーロッパのアーカイヴズは、ギルドによる組織的な文書所有からはじまっている。それは教会のアーカイヴズと共通する側面があるのだろうと思う。しかし、それらは権利にかかわる世俗文書であることが決定的に違っている。それは瞑想の手段でも対象でもない。それは、契約の文書化と技術の記述という手工業から資本主義にむかう社会的・経済的趨勢の中で蓄積される。そして専門職の中での科学技術が大量の手引き書としての本を作り出すのである。こうして知識・技術・情報の私的所有の担保としてのBooKが展開したのだと思う。すぐにそのページにたどり着くことができる「本」。瞑想・記憶・崇拝の対象ではなく、参照する対象としての「本」、小規模な外部記憶装置としての「本」である。
 リルケがいっているのは、その最終局面。19世紀における「公衆」という形での公共圏、読書というものが形成される中で起こったことなのであろう。私は、読書やリテラシーについての研究が全体としてどうなっているのかをしらない。しかし、こういう点では、私たちの世代とリルケは私たちの時代の先頭にいた先輩であって、私たちの世代がリルケの世代に属することは実感的に理解できる。
 いま「情報化」によって起きようとしていることは、こうした「経典=集団所有」というシステムから、「本=個人所有」というシステムへの転換を、ある意味で逆転させること、つまり「サーバー=集団所有」のシステムへの転換である。そこに新たな共同性を獲得することによって、「瞑想」の世界を復権する。外部脳の連携を武器として、新たな連携と連帯を構想する。それを瞑想と内省として形作ることが、必要な時代になっている。
 この場合、決定的なのは、ネットワークの向こう、コンピュータ端末のむこうでむすばれている集団への帰属意識の問題なのであろうと思う。若い人々が、その意味で、本の身体的所有からはなれ、ネットワークの向こうを注視して生きていくのは、きわめて自然なことなのであろう。その場が、その部屋がリルケのいうような、「早すぎた人々」が立ちすくむ小暗い部屋でないことを望むばかりである。そして、そこから、ときどきは戻ってきて、やはり「本」を中心とした日常世界の身体的所有の親密さを大事にしてほしいとも思うのである。
 
 いま、京都出張の帰りの新幹線の中。昨日の夜、何度も目が覚めてしまい。ぼそぼそと、リルケの永遠を語る言葉を読み、こんなことを書いていた。リルケの文章は勁い。
 しかし、それにしても、この『フィレンツェだより』の文庫の森による解説のトーンは懐かしい。私は国際キリスト教大学の卒業だが、晩年の森はしばしばICUに滞在した。カナダハウスという学寮にいた私は、早朝、眼がさめてしまうと、チャペルに行き、二階席の一番後ろの隅で、森がチャペルのパイプオルガンを弾くのを好んで聞いた。チェペルの脇口があいていて、森がやっている時は、途中からキラキラと空間に広がるようなオルガンの音が聞こえてくることを覚えている。寮には、森に気に入られた先輩もいたが、近くで見る、無精ひげを生やした憂鬱さをきわめたような森の顔と姿も、よく覚えている。
 いまの時代は、ほとんど森のものを読むというようなことはないのだろうが、なにしろ、あの時代は、私が受験した時のICUの人文科学の入試問題自身が森の『バビロンの流れのほとりにて』であったような時代である。あまり勉強をしなかった私が、浪人生活を切り上げることができた一つの理由は、その問題はよくわかったためであったように思う。
 ここまで書いてきて、我々の世代を覆っていた奇妙なつながりと、偶然の網の目の中へのとらわれを実感する。それは歴史があたえてくれた保護でもあった。現在は、それらがすべて破砕された時代である。「パット、ハギトラレタアトノ世界」。若い人々の苦闘の稔りのない暗さと、つらそうな軽さのことを思う。

2011年6月27日 (月)

大徳寺文書の重書箱と曝涼

 コンピュータの中を整理していたら、大徳寺文書と「法衣箱・重書箱」という、以前『紫野』に載せた文章がでてきたので、WEBページに載せた。曝涼の時の文書の扱いが室町時代からわかる。

2011年2月24日 (木)

歴史学のミクロ化、筆跡学と考古遺物の顕微鏡分析

 昨日、皆川完一先生がいらっしゃたので、『尊卑分脈』の入力の仕事をしている院生が御挨拶するのに同行する。平安時代・鎌倉時代・南北朝時代を専攻する歴史学者の常用の道具であるが、その編纂は皆川先生のほぼ独力で実現された。昔の史料編纂所の所員の中には、史料編纂所の出版物のみでなく、『尊卑分脈』の入っている『国史大系』など、さまざまな出版事業をになわれる方々がいらした。
 史料編纂所の閲覧室で御挨拶。若手が仕事を継いでいることを喜んでおられる。官職が一覧できれば便利になるでしょうとおっしゃる。
 こんなに偉い学者でも、最近のデジタル化の趨勢もあって、ディスプレイにむかって史料を点検。「馴れました」とおっしゃる。『尊卑分脈』の入力の御願いにご自宅にうかがった時、整理された広い書斎で、悠然と研究をされている御様子をうらやましく思った。それと雰囲気とは違うが、御意欲はかわらず。
 林譲氏の「諏訪大進房円忠とその筆跡」によると、円忠の筆跡論について、すでに皆川さんがデータをためていて、林氏に提供されたという。それは知っていたが、先日、東北学の座談会の関係で必要があって、再読していると、いろいろなことに気づくが、皆川さんの最終講義は、奉行人安富行長の筆跡論であったという。
 古文書の筆跡論は、現在の「中世史研究」の最先端で、この論文はすばらしいものだが、この分野の最先達が皆川さんであったことを再確認する。古文書の編纂を業としながら、こういう最先端の研究ができていないことに忸怩たるものがある。昨日のブログで書いた「最後は体力と感覚」というレヴェルでの自己満足がいかんのだろう。編纂という基礎研究に密着した先端研究のスタイルを考えないと基礎研究の体力がつかないのかもしれない。
 筆跡論は本当に重要だ。歴史学のミクロ化ということを考える場合に、最初にでてくるのが筆跡論である。私は、ひょんなことで、和紙の物理分析を始めたが、これは筆跡論があって、はじめて本格的な意味をもってくるものだと考えている。

 昨日は、夜8時に、千葉市立図書館によって黒崎直『トイレ考古学入門』(吉川弘文館)をかりてくる。昼間、ネットワークから予約しておけば、夜に入り口のカウンターですぐに借りることができるというサービス。しかも夜9時までやっているというありがたいサービスである。図書館さまさまである。
 先日の『東北学』での入間田宣夫・赤坂憲雄、両氏との対談のゲラの関係で話したことについて、この本の情報によったのではないかという記憶があって、あわてて確認のためである。
 該当の記憶は、やはりこの本であったということを確認してほっとして、メモを編集者に送る。
 そのメモは、
「巫女など女性が忌籠りする小屋、「廬」「齋館」については、岡田精司さんの指摘がありますが(岡田「宮廷巫女の実態」『日本女性史』原始古代)、私は黒崎直さんが、考古学者が普通、「水の祭祀」の施設だという木槽樋をトイレだとされ、同時に、「産屋」「神婚儀礼の齋屋」とされるのに賛成です(『水洗トイレは古代にもあった』吉川弘文館)。あるいは「月経小屋」の意味もあったかもしれません」
 というもの。これが座談の場でスラスラでてくるようならばたいしたものであるが、実際には、座談会の場では曖昧な記憶にもとづいて発言。たしかそうだったという記憶が、今回は正しかったことになる。
 これで『東北学』と座談会関係の仕事は終わり。『東北学』の座談会のテーマは「いくつもの日本の神話」というもの。五月には発行。

 黒崎さんの本が面白く、夜、就寝前、そして何となく朝、目覚めてしまって読む。私のトイレ論も各所で利用されていて(後に『中世の女の一生』におさめたもの)、その関係では、「小便壺」を特定するために科学分析をされているのに驚く。この部分、『中世の女の一生』の新版で修正した部分と関係しており、そのうち詳しく再チェックをしなければならないかもしれない。
 静岡の一の谷遺跡や平泉の柳御所の保存運動に関わったころ、平泉の糞ベラの話がでてきていた。考古学の保存運動に関わっていたころのことなので、この本を読んでいても、どうしても、その時、考古の中枢部の人たちが何をしていたかという目でみてしまう。考古学が一種のミクロ化の道を歩んでいたのだということがわかる。遺物の顕微鏡分析によって、寄生虫の卵を発見して、それによってトイレ遺構を確定するという手法は、考えてみれば、和紙の顕微鏡分析ということを考えるのと同じ発想である。遺物の壺が小便壺かどうかを確定するのに、「フーリエ変換赤外分光分析」を使用するというのは、和紙分析の手法と一緒なので、笑ってしまう。
 一の谷の保存運動の最後の段階で、山村宏さんが、遺跡の一画だけでも残したい、顕微鏡分析をすればなにがでてくるか分からない、そのためにだった妥協的なことでも何でもするといっていた痛切な記憶がよみがえる。一の谷遺跡は、石でできた遺跡なので、分析がむずかしいと苦闘していた彼が、将来の科学の発展に期待したいと切歯扼腕していた。
 東北学の座談会の関係で、久しぶりに藤森栄一氏の本を読んで、諏訪と天竜川流域のことを論じた。その部分も下記に引用しておくが、しかし、下記にでる「さなぎ池」のそばに「蜆塚貝塚」があったのだと思う。歴史学の道に進もうと考えて、歴史学研究会古代史部会に出始めたとき、伊庭遺跡の保存問題があって、私も荒木敏夫氏につれられて見学にでかけた。その時、対応をしてくれたのが、山村宏さんだった。そして、彼はその時、「蜆塚貝塚」
の発掘を担当していたという記憶がある。考古学と遺跡の保存のために奮闘してきつい目にあった彼の遺志を無にしないためにも頑張らねばならないというのが、年来の意思であるが、何の研究をしていても、考古学との関係で活動した時期の経験に自分の学問が戻っていくという気持ちがする。
 歴史学のような面倒くさい学問を業としている学者にとって戻っていく場所があるというのはありがたいことである。
 

以下東北学座談会事前メモ
 「桓武との関係では、最近、『諏訪大明神絵詞』に開成皇子の話がでるのに気づてびっくりしました。この皇子は桓武の息子で摂津の勝尾寺で出家するのですが、その前にしばしば諏訪明神が示現したというのです。実在の人物とは思えないのですが、勝尾寺文書にもでてきますので、早くからの伝承されていたようです。この例も、東国に広がった桓武神話の一つなのかもしれません。
 実は、石井進さんや網野善彦さんを担いで保存運動があった静岡県磐田市の一の谷墳墓遺跡の南西の天竜川沿いに、この皇子の塚と称するものがあるのです。東国に流された皇子が、この塚の上に立って、京都を懐かしんだといいます。
 遠江国は、西国と東国のちょうど境界に位置しますので、保存運動の最中は、この塚も一の谷墳墓も、東国と西国の境界を象徴すると立論したのですが、むしろ諏訪神社との関係で残った伝承なのかもしれないとと考え直しました。
 諏訪と遠江の関係についての神話には、後三条天皇の時に、諏訪湖の神渡をみようとして、諏訪湖の氷りの上で待ちかまえていた修行者が、ちょっと寝た間に、「この汚きものをどけろ」という声を聞いたと思ったら、遠江まではね飛ばされた。浜名の辺のさなぎ池まではね飛ばされたというのです。
 こういう伝説は多いのだろうと思います。それは王権との関係で出てくるのですが、面白いのは藤森栄一さんによると諏訪社周辺の銅鐸は三遠式銅鐸というもので、浜名湖の側の「さなぎ池」「さなぎ神社」との関係がきわめて深いということです。諏訪信仰が天竜川沿いに広がって、遠江まで広がっている様子を示すように思います。王権神話というべきものをはぎ取っていくと、神社信仰の広域的な実態が確認できるのではないか。
 私は、ここにはおそらく領主制あるいは領国制を基礎にもった諸関係があって、神話的な関係が維持されているというような関係をみるべきであろうと思います。ともかく諏訪円忠の身分からいっても室町時代の国制に対応している側面があることは当然だと思います。歴史学としては、続いているということのみでなく、基礎となる実態の変化をおさえたいところですが、すべて今後の課題として残っているというとこです。

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2011年1月27日 (木)

草の実会、YS先生、平塚らいてう、かぐや姫、原始、女性は月神であった。

 今日は自宅で仕事。明日、大坂の民博で人間文化研究情報資源と知識ベース」という人間文化研究機構主催の研究会があり、そこでの報告を、さっき、つまり本日正午までに送付せねばならず、職場にでている余裕なく、朝早くからパワーポイント書き。
 締め切りは先週だったが、遅れていた。今日正午まで締め切りを延ばしてもらっていたので、必至である。11時30分にパワーポイントを送って、どうにかセーフ。「疲労困憊、思いを明日日帰りの新幹線のビールに馳す」というところである。しかし、今から、原稿化とパワーポイントの再整理をせねばならず、夜まで一日消える。
 慌ただしい日は慌ただしいもので、朝、出身の高校の後輩のお母さん、Nさんから電話。その後輩と共通する高校時代の恩師、小説家の右遠俊郎先生の容態が、二・三年前から良くなく、その関係で何度か連絡をとったので、右遠先生のことかと緊張する。しかし、Nさんの相談は、ご自身が参加されていた「草の実会」の会誌の復刻版の話。復刻版が完成したが、しかるべき歴史の研究機関で、段ボール三箱分ほどの復刻版の寄贈をうけるところがないかという御相談。歴史の研究材料として生かし、永久保存してほしいということ。
 草の実会という名前で相方が反応し、それは朝日新聞の投書欄からはじまった戦後の市民的な女性のサークルのことで、杉並を中心に原水爆禁止運動や、後には60年安保の時の「声なき声の会」につながっていった動きのことだと教えられる。私たちもよく知っている杉並の家永訴訟の主婦の会の人たちとも関係があったはず。私は、そこにNさんが関わられていたとは知らなかった。そうすると共通の知人があったに違いない。スモールワールド現象という訳だ。
 Nさんには、国立の近現代の歴史の研究機関が存在しないこと、アーカイヴズが存在しないこととの関係でなかなかむずかしいのではないかと思うと申し上げる。日本国家の中枢に存在する健忘症症候群、あるいは過去忘却願望の話になる。高校時代以来、もう40年以上。5年、10年、15年に一度ほど御会いしたり、電話で話したことがあったかという御つき合いのNさんと、過去忘却症候群について話すというのは、考えてみれば不思議なこと。個人は個人の過去は忘れられないものである。
 戦後史には登場する組織の一つ。大事なことなので、大学院時代の恩師の御一人、女性史のYS先生に久しぶりに電話して御意見をお聞きすると、「保立さんね。そういう記録が沢山でているけれども、どこも寄贈を受け付けない。本当にむずかしいのよ」といわれる。先生の声音には「あなたは昔から夢見がちだったからわからないかもしれないけど、本当に難しいのよ」という感じがただよう。
 先生のお宅の近くの図書館が『日本歴史』(歴史学の学術雑誌)を一年で断裁してしまい、過去のものが読めないということがわかり、強くいって、一定期間は倉庫に保存するようにもっていけたが、どこもそういう状態だ。昔と違って、学術書の蒐書が貧困化し、入架を要請しても対応ははかばかしくない。さらに相当の貴重書を寄贈しようとしても、あまりよい顔をせず、「処分してもかまいません」という一筆を要請される。本当にどうしようもない。釈迦に説法だろうが、ここ10年の「新自由主義改革」のせいよといわれる。
 けっして釈迦に説法ではありませんと申し上げる。歴史の学術雑誌の図書館による断裁というのは初めて聞いたことで驚くべきことである。それから先生は平塚らいてうのアーカイヴの整理をされているが、その苦労話もうかがう。
らいてうの自伝は、昨年、『かぐや姫と王権神話』を書く時に読んで感動したので、他人事ではない。
 この本では、かぐや姫を月の女神と論定した。『竹取物語』のタイムスケジュール、「かぐや姫年表」を作成した結果によると、天皇によるかぐや姫の呼び出しが秋十月になる。これは新嘗祭の五節舞姫としての呼び出しを意味するはずであり、五節舞姫は月の女神の従者という位置づけであるという形で論じたもの。その部分を引用すると、

 日本における冬至の祭は新嘗祭である。この新嘗祭の後の豊明節会で天女、月の仙女の格好をして舞った舞姫たちが、しばしば天皇と共寝したことも同じことであろう。そこに、中国と同様、月の力によって太陽の力を復活するという考え方が潜んでいたことを示唆するのは、最初の人臣摂政として有名な藤原基経が、清和天皇の大嘗祭の五節舞姫に出仕した妹の高子についてみた夢である。彼女は、五節舞姫として出仕した後、若干の事情はあったが、結局、清和のキサキとして陽成天皇を産んでいる。その夢というのは、高子が庭にはだかで仰向になって、大きく膨らんだおなかお腹を抱えて苦しんでいたところ(「庭中に露臥して、腹の脹満に苦しむ」)、腹部がつぶれて、その「気」が天に届いて「日」となったという生々しいものである(『三代実録』)。それは高子が清和のところに参上する前のことであるから、ちょうど大嘗祭の五節舞姫となった前後のことであったろう。つまり五節舞姫=月の仙女が、地上で裸体となって新しい太陽を産んだという訳である。

 というもの。本来、原稿では、その後に次の文章が続いていた。

 

 「元始、女性は実に太陽であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く」とは、平塚らいてうの起草した『青鞜』発刊の辞、冒頭の有名な一節である。しかし、考えてみると、月が「他の光」、つまり太陽の光をうけて輝くというのは近代の天動説にもとづく知識である。それ故に、平塚らいてうの真意を受けとめた上で、高子の横臥の姿から、さらにトヨウケ姫ーワカウカ姫ーイザナミとさかのぼっていくと、東アジアにおける日月の観念としては、むしろ「元始、女性は月であった。しかし、太陽を産む月であった」というのが正しいように思われてくるのである。

 これを書くのに、らいてうの自伝3冊を読んだ。第一冊目だけは、以前、読んでいたが、全冊を読むのは初めてであった。『かぐや姫と王権神話』は、難しくなってしまったが、本来、高校生に読ませたい。歴史の細部に興味をもってほしい。らいてうを身近に感じて欲しいなどということを考えたので、上記の文章を作ったが、新書版のぺージ数の制約があって、削除したのは残念だった。
 歴史文化の見直しというのは、過去から近代まで連鎖反応のようにして、さまざまな見直しと再評価を必要とするものだと思う。そのようにして文化は豊かになっていくはずであるが、しかし、らいてうの遺品のなかのアーカイヴが尊重されないような社会というのは何という社会であろう。
 
 週末にはNさんに電話して意見を御伝えすることになっているが、難しい問題だということを御伝えするだけになりそうで、憂鬱である。

2010年11月24日 (水)

函館の街、アカデミーとライブラリー

101123_071747  函館の講演が終わり。無事に済んで、いま羽田からのモノレールの中。写真はホテルの窓から陸よりを映したもの。両側は海。
 テーマは「史料の編纂と歴史情報の共有」。編纂という自分の仕事について、それがどういうことかなどということを講演したのは初めてである。なにしろ函館市、函館の商工会議所と函館みらい大学、図書館・博物館などが一緒に昨年度からはじめた講演会シリーズの名前が「文化と編纂」ということなので、「編纂」についてどう考えるかというところから議論をはじめるほかなかった。なぜ、こういう講演会シリーズの題名を選択したのかは聞き逃した。よい題だと思うというのは手前みそか。
 編纂というのは、史料の群れ、史料群、大量の史料を正確に読み解いていくことだが、史料の向こう側には歴史社会それ自身が存在する。編纂は、その史料群にのみ注意を集中し、向こう側の歴史社会の把握を急がない、あるいは禁欲する方法態度ということになる。
 私は、これは歴史学の別の言葉でいえば、「考証」という作業になるのだと考えてきた。「考証」というとあまりに古い言葉に感じる人が多いかも知れない。中国の清の「考証学」という言葉を思い出すかもしれない。しかし、この言葉は(そして考証学という言葉も)それ自身としてはプラスの意味をもっているのだというのが、黒田俊雄氏がどこかでしていた断言。「考証学」などということをもっとも鋭く批判しそうな黒田氏の断言だけに印象に残っている。これは自然科学でいえば「実験」などにあたる学術の基礎、事実確認なので、歴史学のベースになるというのが持論。
 けれども、講演会の大テーマは「文化と編纂」なので、「編纂」が「文化」の基礎をつちかうものであるということを、どのように論じ、わかっていただこうかという点が、話の組み立ての基本となった。講演を用意していて、この点が一番困った。
 一字の読みの違いで、文化的な理解の巨大な相違がでてくるということで、最近の『竹取物語』の本文校訂の仕事の報告をしたのだが、それが、もう一つの情報学・データベース・知識ベースによる「歴史情報の共有」という話とうまくつながらない。
 前日、懇親会の後、その点を組み立て直し、『竹取物語』に登場する中国貿易の話を中心にして、函館が、ユーラシア東端の南からの日本海航路、北からのサハリン航路の交差点にあたるという話につなげることにした。函館で、『竹取物語』を読む場合には、『竹取物語』の段階でも、つまり九世紀にもラッコなどの海獣の毛皮交易は中国市場への輸出・貿易との連携があったのではないか。11世紀になれば昆布の交易は確実と思うという形で『竹取物語』を函館につなげることにした。
 函館はそれ以降も、国際的な貿易港としての性格を持ち続けた。それは、函館の東で発見された、一四世紀後半の三八万枚といわれる日本最大量の中国銭の出土に明らかである。前日の函館市立博物館での越前・珠洲の大甕の現物はやはり印象的であった。休館日に館長ご自身に案内していただき臨場感がます。あれはどれだけ大きな富が函館から中国に向けて積み出されたかの証明であり、その意味で日本における近代初期の国際貿易港函館の繁栄につながる遺物であることを実感。田原館長のご意見では、あれだけの銭を道内で流通させる条件はなかったということなのだろうということで、近辺にはもっと銭甕が埋まっている可能性もあるということであった。

 そして、それらの史料を編纂し、さらにデジタルデータとして公開し、函館に関する知識データとして組み上げていくことができるはずだと、「歴史情報の共有」という話の後半につなげた。
 綱渡りのような話の組み立てであったが、熱心に聞いていただき感謝。北海道史=アイヌ民族の歴史はこれまで勉強したことがなかったが、PCの中の読書メモ、榎森進さんの「アイヌ民族の去就」(『北から見直す日本史』大和書房、2001年)の読書メモによって、急遽、話を組み立て直した。これはやはり見事な論文である。もう一度考えてみようと思う。先日の日韓強制併合100年の姜徳相さんの報告レジュメには、併合後の日本国家を「天皇制民族複合国家」と規定した一節があったが、私の律令国家=民族複合国家論では、北海道と擦文文化、アイヌの問題が欠落している。
 長尾真国会図書館長の講演があった後、対談ということになったが、期せずして、情報化の時代だからこそ、人の力、ライブラリアンの専門性が重要になっているということになる。ネットワークに蓄積された知識から「デ・ファクト」を取り出すことはやはりできない。それはライブラリアンによるガイダンスがいるということであった。これは「編纂」論からいえば、ライブラリアンは一種の「編集者」であるということになるのだろうと思う。編纂=ドキュメンテーションに対して、生産された学術書のうちで、何を蒐書に、何を開架書庫に並べるかは、ようするにエディターの職能に類似してくる。その意味では、ライブラリアンはアカデミーとエディターの間にいる職能であるということではないかと思う。情報化の大波の中で、出版業界と図書館の間にいろいろな問題が起きていることを側聞するが、このような職能の類似性のレヴェルでの議論が生産的なのだと思う。

 もう一つ見学した函館市立中央図書館は素晴らしいもの。稼働書庫20連前後の郷土史料は、明治末年に、この図書館が私設の組織として発足した時以来の方針で蓄積されたものという。新聞・ビラ・ポスターなどにおよぶ膨大な近代アーカイヴズとなっている。

 函館のベイエリアにそびえるホテルから、両側の海と山をみたことを含めて、文化的な街のたたずまいはさすがであった。講演では『箱館奉行所日記』を編纂された稲垣敏子さんは、私たちの仲人。そのような私的関係をふくめたネットワークは、函館市民からは目に見えなかったかもしれないが、そのようなアカデミー・ライブラリをつなぐネットワークが地域の文化財を支えているのだと述べた。これは、私の目にもみえていなかったという意味で、何よりも私の実感であった。

 「編纂=現象学」というのは、直接に史料の向こう側の実態を求めることを急がずに、まず大量の史料世界の相互関係のみに、注意を集中する方法態度ということになる。ハイデッカー的にいえば、「世界・内・存在」の現象世界をある意味で没価値的に操作するということになる。情報学の人が、ハイデッカーのオントロジーという言葉を使うので、ハイデッカーを読んでみて、いろいろなことがわかった。一番大きかったのは、三木清がふたたび読めるようになったこと。
 「世界・内・存在」とは日常性の世界であるが事物の相互的な関係を有用性というレヴェルで処理しているのが、目についた。これはマルクスをふくむ古典派経済学に対するベーム・パヴェルク以降の効用経済学が、使用価値・効用の世界に自己を局限するのと、照応した動向であると私は考えている。ハイデッカーを読んでいると、所詮、あたりまえのことを下手に言っているという印象が強いが、しかし、ともかく、そういう意味での「現象学」が、学問的な操作の方法論として意味をもったこと、もっていることは確認できることではある。もちろん、その有効性は、結局、学問研究の技術的方法論だから、学者の技術的必要(あるいは自問自答)をこえた世界観的な意味をハイデッカーがもっているとは思えない。所詮、学者の読み物である。
 ただ、行く飛行機の中で読んでいた井筒俊彦氏の『意識と本質』の言い方をかりると、事物それ自身を固定的に「本質」として見るのではなく、その向こう側にある絶対世界に飛躍するのでもなく、事物=史料の連鎖(「縁起」「依他起性」)をそれ自身として認識する態度という東洋思想一般の論理。事物の向こうにあるものを「無」とするか「真如」とするかは別として、現象界を深層意識のレヴェルから突き放して観照する心的態度ということになると、議論の外貌は、ハイデッカーと似てくることを知った。こういうのは、哲学では当然のことなのだろうが、私には、三木清を考える上でも、収穫だったし、ハイデッカーを読んでいるより、歴史家としては勉強になる。
 歴史学の立場からいえば、個々の「史料」は歴史社会という実態あるいは運動が、自己を文字あるいは史料という形で表現したもの、「現象」ということになるが、この現象としての現象にあくまでも執着する態度が編纂ということになるだろう。その向こうにある「無」「真如」とは何かというのは、なかなか一致することは難しい。

2010年11月10日 (水)

古文書学は補助学か

 「アーカイヴズの課題と中世史料論の状況」という、20年近く前に国文学研究資料館・史料館での特定研究の論集に載せてもらった文章を、WEBPAGEに載せた。
 昨日、夜、帰宅しようとしたら、職場の玄関で、Y氏に会い、本郷まで歩いていったら、角のスタンドで飲まないかと誘われた。久しぶりに入って、マスターに歓迎される。
 基礎研究とは何かという話になり、古文書学は独立の学問分野や補助学かと聞かれて、独立の分野で重要な基礎研究分野だよといったら、意外な顔をされる。先日もある人が、僕とその人とは別のある人がこの問題をめぐって激論し、その人との関係では、いかにも逆なように思えるが、僕が独立の分野だといったので、驚いたといっていた。保立は、いかにも、テーマ研究、方法学問第一という印象らしい。というよりも、僕は古文書学にコンプレクスがあるので、古文書学に対してどうしても斜めに構えた感じが伝わるのだろうと反省。
 「独立」かどうかというのは、学問の成立規則、訓練、目的、ディスシプリンに独自なものがあるのかどうかという問題であろう。この場合だと、それらが本質的に歴史学の必要によって左右されるものかどうかということであろう。歴史学はその意味での優先性をもつかどうかということだろう。
 もちろん、「補助学」かどうかという言い方をすれば、どんな学問も相互に補助学である。和紙などの特殊紙を研究する製紙科学にとっては、歴史学や古文書学は補助学であり、こちらからいったら、製紙科学は補助学である。相互に利用しあい、啓発しあうという意味では、学問はどういう場合も、相互に補助学である。そして、補助学が補助学である所以は、Aという学問がBという学問にとっては、一種の技術学になるということであって、これは自己を他の学問のための学と心得るという心的な態度を意味する。私としては、そう思わないような学問分野とはつき合いたくないし、奉仕ということを忘れたら、その学問なり、研究者なりは終わりだと思う。たとえば人文情報学と歴史学は、相互が相互にとって技術学となるという意味で、相互にそういう関係にあることはいうまでもない。
 なにしろ、歴史学などは「諸学の下男あるいは婢女」といわれるのだから、全面補助学であって、他の学問に奉仕することを生き甲斐としているはずである(閑話休題。「諸学の婢女(はしため)」というのはジェンダー論からいって言葉に問題があるので、「諸学の下男」といってみたが、こちらもやや引いてしまう言葉であるのは否定できない)。
 そういう意味では、独立かどうかというのは、第一に、その学問とのつき合い方で、こちらが補助学になることがあるかどうかということだろう。そして、古文書学の背後には、アーカイヴズや情報学という、歴史学からは独立した大分野がある以上、歴史学こそが補助学であるということになるのは、いうをまたないのである。この事情は、右の「アーカイヴズの課題と中世史料論の状況」でも同じような趣旨を述べたので、その部分を、この文章の最後に載せておいた(閑話休題。20年前に言っている意見をいまでも基本部分を維持しているというのを確認すると、自分が執拗な人間、偏屈な人間、オブスティナートな人間であることを自覚する。だから年取った歴史学者というのは嫌われるのだろう)。
 しかし、それだけではなく、古文書学が歴史学内部の分化を越えた意味をもつ学問、そういう意味での基礎研究であるというのも、その独立性の理由だろうと思う。これは語彙の研究が、歴史学者の専攻の時代や分野を越えて研究され、言語学との関係において、その知識が精査され、蓄積されるべき基礎研究分野であるのと同じことである。
 たとえば、いま、古文書学で問題となるのは、いわゆる中世、室町時代から、いわゆる近世、江戸時代への古文書のあり方の変化の全体を描きだすことだろう。以前、早川庄八氏の奈良時代古文書学の仕事が古文書学の展開にとって旋回点になったのと同じことである。これままさに古文書学が独立した基礎研究であり、補助学などという言い方を越えて虚心で取り組まなければならない学問分野であることをよく示している。
 和紙研究との関係でなんとなく重要だと思うようになったのは、まず越前奉書紙は、室町幕府奉行人奉書の竪紙のものの料紙をうけているということである。幕府奉行人奉書の竪紙のものは、澱粉が60%以上も入っており、白く、厚く、やや柔らかい高級な感じのする紙である。これが簀目がつまり、糸目が細くなり、澱粉の量が若干減り、人工的・大量生産的な感じになると、越前奉書になるように思う。ようするに、室町幕府の基本上級事務文書の系譜を引いて、江戸幕府の上級事務用紙はできるのである。
 そして、権利者に権利をあたえるような文書、つまり身分的な意味、儀礼的な意味をもった決定文書については、室町幕府が将軍の安堵御教書や公帖に使用する強杉原が、秀吉の朱印状の文書料紙として引き継がれ、それが近世のシボの入った大高檀紙などといわれる紙に流れていく。
 この過程で、雁皮紙あるいはほとんど雁皮紙と見分けがつかないような大型の楮紙が大きな意味をもつようであるが、それをふくめて、文書の縦横が巨大化するのが、古文書の形が変化する上で、実際には非常に大きな意味をもった。この過程で、極端に儀式張って、異様なほど大きい江戸時代の文書ができあがるのである。以前、水戸黄門などの映画で、封紙に「上」という一字をかいた「上意」を表現する巨大な手紙が登場することがあったが(いまもそうかどうかは知らない)、ああいう感じの仰々しい文書になっていくのである(だから江戸時代は嫌だ、というのが、もっと「素朴?」な時代をやっているものの感じ方)。
 ずっと以前、佐藤進一先生の明治大学での古文書学の授業に、テンプラで(先生の許可はいただいたが)聞きに行った時に、もっとも印象的なことの一つが、佐藤さんは、つねに話の最後を江戸時代の文書体系の話でしめることだった。Y氏からは、高木昭作氏が、江戸時代の文書や儀礼体系の淵源が室町にあることを強調していたことを聞く。
 さて、マスターは相当の年になったはずだが、元気である。この店はともかく本郷の角にあるので、私にとっては、娘の友達の床屋さん、Kくんのお父さんと並ぶ、長い間、もっとも定期的に会い、挨拶する人である。以前、マスターには木下順二氏の噂を聞いた。僕も姿をみかけたことがあるが、本郷は木下順二氏のスペース。先日は、ユーラシアしの鬚の大先生が、昼間にきて1時間以上、いろいろな雑談をしていったという話しも聞く。さすがに、マスターはいろいろな人を知っている。
 いま、昼休みで、朝の電車で書いたものに、追加して、アップする。今日は、お弁当。パンよりは安いし、おいしい。先日、家でとっている市民生協の宣伝紙に、パンやおにぎりは高い。米を食べろ。そして、それが如何に安いか、農業はこれでよいかを考えろという熊本大学の先生の座談がでていて、それに影響されて、御願い。感謝。

 歴史学は、一般的な言い方をすれば、歴史的社会の構成と運動を総体として具体的かつ論理的に復元し、未来にむけて現在の歴史的位置を確認することを役割としている社会・人文科学である。これに対して、現在確認されるようになったことによれば、アーカイヴスは、様々な「社会的な記憶装置」を記憶と情報の共有という原則の下に発展させ、維持・管理しつつ人類の未来につなげていくという課題をもっている。それは単に個別の学問と等置できるようなものではなく、本来、社会・組織体に不可欠な記憶・記録機能をや担うもの、その意味で社会的分業の体系の特殊な一環を直接に担う組織体・組織活動の形態である。現代的アーカイヴスは、その双子の兄弟である図書館や博物館とはことなって、文化・科学のみでなく、社会経済活動全般に直接につながるより広汎な裾野を有する組織・活動なのである。その中で、現代的アーカイヴスの理論は一種の情報の歴史・社会理論ともいうべき様相をみせているように思われる*7。社会的にみると、歴史学は、このような社会の記憶装置の全体に従属して存在しているものであるということになる。アーカイヴスの理論と実践は、(アーカイヴスにとってはやや問題児ともいうべき)双子の兄=博物館の理論と実践と連動しつつ、それをより広い社会的視座から監督する位置、いわば現代における百科全書派の総監督ともいうべき位置にあるのであり、歴史学はそのようなアーカイヴスにとっては補助学*8の一種なのである。アーカイヴスの問題は、広く、宗教学・日本文学・建築史・美術史などの人文科学、また近年における地震史料や気候関係史料の研究状況からみると、さらに自然科学をも含む日本の学術文化の共有の問題である。それは、河音能平が「各史料学は決して歴史学の下僕なのではなく、すべての文化的いとなみのための科学的基礎作業なのである」と述べている通りであり*9、その意味で、アーカイヴスの側が狭い意味での歴史学との関係にはこだわらないという立場をとっているのは正当な側面があるし、歴史学界は、アーカイヴスを狭い意味での歴史学の論理や利害に抱え込むような態度をとってはならないのは明らかである。

 もちろん、歴史学が思想的・学問的に相対的に独自な意味と位置を有していることはいうまでもなく、それはアーカイヴス・社会の記憶装置という役割の中のみに局限できる存在ではない。歴史学固有の立場からすれば、アーカイヴスこそが補助学なのであり、たとえば歴史学と言語学が相互にとって補助学となるように、学問の分野・形態の間での学際的協力関係は、常にそのような相互的関係なのである。学際的関係は、言語・経済・政治などとその歴史が、客体的な全体の一部であるからこそ必要なのであるが、その全体性の中に、言語・経済・政治などの客観的諸側面が存在し、その相互的関係によって全体が構成されているからこそ、言語・経済・政治などが学問の客観的な分野として存在するのであり、根拠となる学なしに、それを離れて「全体の学」「学際的領域」なるものが先験的に存在するというのは単なる幻想である。百科全書派が新たな思想を生み出したことは事実であり、同じようなことが、アーカイヴス・ミューゼアムの運動の中からもたらされる可能性は現実に存在しているが、しかし、それが学問の客観的な諸分野の解体を意味するかのように幻想するのは、現実にはおのおのの根拠となる学への失望と無力の表現であるか、学問の安易なジャーナリズム化の表現であるにすぎないというのが実際であろう。

 このような歴史学とアーカイヴスの関係の中で、「編纂」は、特別の位置を有している。前述のように、それはアーカイヴス的なドキュメンテーションの総過程の最終的成果という側面をもっている。と同時に、編纂は歴史学の基礎研究の成果に直接に依拠することなしには遂行不能な作業であり、それは実際上は歴史学の基礎研究の重要な一環という側面をもっている。そもそも歴史学の基礎研究は、その作業の対象となる様々な史料を可読の形態に翻訳することなしには成立しえない。この意味で、「編纂」は機能的・一般的にいえば、歴史学研究とアーカイヴスを媒介する位置に発生する作業領域を意味するということができる。問題は、このような境界領域の性格を両側面から過不足なく見極めることにあるのであるが、ここで参考になるのは、安藤正人が歴史学とアーカイヴスに固有の記録史料学との重なりの部分、境界の領域を「記録史料認識論」となずけて、歴史学とアーカイヴスの関係を論じていることである*10。つまり、ここでいう編纂は論の趣旨としては、安藤のいう「史料認識論」と重なることになるのである。編纂と史料論が深い関係をもって存在していることは確実である。もちろん、繰り返すが、編纂は、狭い意味、厳密な意味では、史料情報の活字テキスト形態への変換作業そのものであり、「史料認識論」あるいは「史料論」に解消することはできない。しかし、史料論が編纂作業にとって欠くことのできない存在であることも事実である。このような意味で歴史学とアーカイヴスの境界領域には編纂と史料論が存在しているのである。

 アーカイヴスの側にとっては、歴史学との間で成立する編纂・史料論の研究は、諸学との境界領域で営む一つの研究形態にすぎないのであって、アーカイヴスは、まさにその全体を統括する知の形態たらんとする方向性をもつことになるのであろうが、しかし、アーカイヴスにとっても、それは最大の出発点であるはずである。歴史学は、境界領域を通じて、そのような位置に存在することを自己評価しなければならないのだろう。

2010年10月24日 (日)

歴史学の「共同研究」は可能か-ー見果てぬ夢

 今、朝6時30分。

  歴史学にとって「共同研究は可能か」というのが、長い間の問題であった。20代の頃の歴史学研究会中世史部会での活動では、共同研究を目ざしてというのが合い言葉であった。それは歴史学のもつ社会的責務についての意見の親近性や、歴史学方法論の親近性、そして研究史のとらえ方の親近性を条件としていたのだと思う。そして何よりも自分たち自身が形成途上の研究者であったということである。研究を広げていく上で、研究仲間がいるかどうかは決定的である。
 私は、そのあと、共同研究は難しい、個人個人で担うほかないというように流れてきたが、かぎられた人間をこえて親近性を広げることが実際上は難しい以上、これはやむをえないことであったと思う。「共同」を意識した世代の仲間意識は残ったが、各々が自己の信じる方向へ進むほかなかった。
 とくに研究史のとらえ方の親近性のレヴェルの維持は難しかったと思う。あの頃の中世史部会には永原説、戸田説から安良城説、そして懐疑説まですべてがいたが、それでも研究史のとらえ方の親近性は成立していた。それはようするに、永原・戸田・安良城・黒田・稲垣そして網野・石井などの「戦後歴史学」のリーダーたちが、目の前にいて、彼ら自身が相互に密度の濃い親近性をもっているのが、我々にもよくみえたからである。こう並べてみれば、みんな亡くなっている。
 それでも「共同研究」という言葉はキーワードであり、アポリアでありつづけた。そこからの走り方の一つとして、私はともかくも歴史的遺産の共有、文化財の保護と歴史情報の共有ということをメインにおいて行動してきた。とくに歴史情報学による歴史情報の共有と、その上に広がる「共同研究」ということは、職場の関係もあって、まわりに迷惑をかけながら動いてきた。

 上記は、さっき、遺跡保存運動の古い友人の宮瀧交二氏が「パソコンに向かうことが研究だと勘違いしてはならない。歴史学という学問が、人と人との交流を基礎とする共同研究でもある」といっているのを読んで、考えたことである。今度あったら、彼には、「パソコンの向こう側に蓄積されるデータをどう作るかも、共同研究の条件なのだが」といってみよう。しかし、それにしても、現在の歴史学は、どのような「人と人との交流」を提供しているのだろうか。これが根本問題であることは宮瀧氏のいう通りである。

 さて、ブログは、私の外部脳としてのPCデータの内の即時公開部分の一つである。PC外部脳の構造性・統合性は、現在のところ、ファイル構造としてしか存在しないが、これはデータインテグレーションのソフトウェアが発達し、PC内データの相互関連性がキーワードのコンテキストを含んで形成されることになれば、PCの研究データを半分は自律的に統合することが可能になるだろう。PCを前に仕事の全領域を眺望しやすくし、仕事の連続性を補助するソフトウェアはかならず発達するはずである。いつか情報学のA石先生がみせてくれた、大量の文章をアップすると、そのキーワードとキーワードのコンテキストを、糸で結ばれた群雲の刺繍のように画面一杯に表示し、そこを入り口としてテキストそのものの処理に移行できる、データインテグレーションのソフトウェアである。
 私は10年ほど前にPCのデータ移行に失敗し、フロッピー(懐かしい言葉)が読めなくなって、その前までの研究データと研究メモを失った。それでもPC内データは膨大なものがあってすべては覚えていない。現在の若い研究者が60過ぎまで研究を続けることができた場合には、さらに膨大なものとなるに違いない。歴史学はともかく扱うデータが膨大になる。しかもゴミデータが多い。そういうPCを誰でもが、上手に扱えるように、データの維持とインテグレーションのソフトウェアが発達するのは確実だと思う。
 一般に研究者のPCには、公開部分(BLOG部分)、蒐集領域(ダウンロードデータ)、そしてクローズドなメモ領域、そしてすでにBookとして社会的に公表された論文領域の四つの領域がある。これらをインテグレートする補助ソフトが高度化すれば、次ぎは、外部的なデータインテグレートが課題に上るはずである。つまり、BLOG部分をつなぐネットワークを1stNETWORKとすると、各PCの深いデータ領域、論文領域やさらには

クローズドなメモ領域をふくむネットワーク、いわば2ndNETWORKとしてよりディープなネットワークを一時的に作りだし、そのネットワークの中で、各PCでのインテグレーションとゴミの排除を前提して、インテグレートソフトウェアを動かすことも可能になるはずである。

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  将来は、Book形式をとった生産物=論文はすべておのおのの研究者のPCにも公開用テキストが装備されるであろうが、それらの生産物、論文によって明らかになった事柄が専門領域ごとの大規模な知識ベースに反映されるはずである。論文を書いたならば、研究者はそれによって明らかになったことをその分野の知識ベースに書き込み、データベースそのものにもテキストクリティークや脚注を書き込むことになる。

 それのみでなく、共同研究の中では、Closedな部分をふくむ外部脳同士を接合し、接合し、照合し、インテグレートし、それによって、いわゆるブレインストーミングを補助するということが可能になるはずである。そういう半ば公開された領域、協同領域というものは、そのためのブログを作れば現在でもできるが、それを個々人のデータ領域に内部におくこともできるだろう。

 このような動きは、まずはおそらく企業のレヴェルで、いわゆるクラウド・コンピューティングのサーバレヴェルのクラウドの中でのブレインストーミングのシステムとして動き出すのだろう。企業の内部情報管理にブログを使うところもふえているというから。しかし、学術の世界でも、とくに通常の研究のレヴェルを越えた広範囲な議論や、広域的な知識総合など、歴史学でいえば、ゴリゴリの個別論文、考証論文ではなく、分野史・地域史・通史や世界史など、一般的叙述を必要とする分野と、歴史理論の構想のための共同研究には、やはりそのような補助がほしい。

 これだけ詳細な新しい論文が、毎年毎月、生産される時代には、そのようなものがなければ若い人々はやっていけないのではないか。先をゆくものと後からついていくものの格差が広がるのではないか。

 ともかくも、学者の生産物は公共的費用によって生成されたものであるから、公的なものである。それは原則としては、政治家の日記が社会に公開されなけれなならないというアーカイヴズの常識の適用をうけるべき対象であるはずである。もちろん、歴史家のPCの中味などは、それとしては価値がない挫折した他人には意味不明のメモばかりだが。

 少なくとも、このような外部脳としてのPCを社会を構成する全員が、おのおのの社会的機能・職能・専門にあわせてもつようになることが、学術の普遍化の最大の条件であるはずである。人々の頭脳のキャパシティには自然的な限界があるから、これが可能になるためには、歴史的な知識体系の知識ベースとしての蓄積が前提になる。誰も、膨大な歴史知識を自分の頭の中にためておくことはできない。それはいわばゴミを頭の中においておくのと同じである。しかし、それらを処理した上で、情報学的なインテグレーションとネットワークの円環の中に社会の構成員のすべてが入ることが諸個人の全面的な発展とその専門性ごとのアソシエーションにとっては必須の条件であるはずである。

 もちろん、この情報学的なインテグレーションとネットワークはオートメーションではなく、それを動かすのは人間である。というよりも、それを支えるのは特定の職能集団であって、これらの情報の入り口、Documentの真理性を判断し、受け入れてアーカイヴするアーキヴィスト、それらを使用して学術情報を作り出すのはアカデミー、そしてその学術情報の最終生産物としての「本」を管理し、そのレヴェルにおいて確認された知識ベースを維持管理するのはライブラリアン。アーカイヴズ・アカデミー・ライブラリアンが、このネットワークを取り囲むということになるのだろう。
 もちろん、ここでいうアーカイヴズ・アカデミー・ライブラリアンが、将来においても、現在と同じような社会的・職能的性格をもつものとは考えられず、相互浸透の局面が大きくなるだろう。また博物館がこのようなシステムの中で、どこに位置付くかという問題もある。しかし、それらを現実に決定するのは、現実社会におけるアソシエーションがどのように動くか、再編されるかに懸かってくることはいうまでもない。

 昨日も市立図書館で半日を過ごし、必要があって歴史学・人類学関係の開架書棚をみまわった。私のように個別の専攻の中でのみ本を読んできたものにとっては、その広さ・深さは、ほとんど海のようにみえる。しかも、それらは開架書棚に過ぎず、それに倍する自動書庫が図書館の階下には潜んでいる。この市立図書館一つでも、そこに蓄積された知識量は、おそらく有名なアレクサンドリアの図書館より大規模で豊かなものである。
 これだけの施設は、やはり社会にとって根本的に重要なものであることを実感する。ライブラリアンにとっては、どのような本を蒐書し、さらに自動書庫から開架に何を選書するか。そして、物理形態をとった「本」と電子形態をとった「本」、さらには「本」の形態をとらないデータベースそれ自体という三つの情報形態をどのように、内容・形式の双方においてインテグレートとするかという問題があるはずである。そして、これらはすべて学術の知識ベースというものをどのようなものとして作り出すかという問題にかかわってくるはずである。
 歴史学というのは、本当に細かなデータを処理するのが本分である。歴史が重要なデータ、みればわかるデータを残すことは希有であるから、それが当然である。そして、そのような細かな無限の作業であるからこそ、「共同研究」が必要になるのだが、そのような職能における「協同」、アソシエーションというのもはどのように可能になるのか。狭い意味での「共同」と親近性ではなく、それがどのように可能になるのか。それはまずは実際の研究と方法の問題であるが、しかし、石母田さんの「国民的歴史学覚え書き」の言い方だと「社会的分業の発達した社会での科学の複雑なあり方の中に自分たちの限られた活動をどう位置づけるのか」ということにもなるはずである。今でいえば、情報化社会という社会的分業の新たな発展の中でどう位置づけるのかということになるはずである。

 さて、今から宮瀧くんに彼の文章の感想を書いたぞ、というメールだし、そして義経にとりかかろう。

2010年10月 7日 (木)

鈴木大拙全集の古書価格への怒り

 昨日、御寺の史料の目録を作っていて「仏国禅師観音懺法図讃」というものがでてきた。仏国禅師といえば、私が知っているのは、後嵯峨の息子で、有名な建長寺の高峰顕日のことであるが、この図讃は宋版の木活字本で、しかも見事な竹紙で作られている。私が目にしたこと、調査したことのある竹紙の中では保存もよく、新品の時はどんなに見事なものだったろうと思える。新品をみてみたい。よくみる江戸期の竹紙は相対的に薄手だが、これは少し厚い。厚いとはいっても、さらに古い宋版一切経でみたことのある、何となく荒々しい感じのする紙とは違って、簀目もほそく、糸目は1センチあるかないかというものである。
 これが宋版の御経であるとなると、仏国は鎌倉末期の日本の僧侶であるから、時代は別として話があわない。無教養を曝露するが、私は中国仏教史がまったくわからないので、こまってしまった。
 こういう時はネットワークを引くにかぎるので引いてみると、「仏国禅師観音懺法図讃」というものがドンピシャででてきた。他に論文もあったが、鈴木大拙全集35巻にも関係する記述がある。大拙全集を見るのが手早いということで、書庫に行ったが後補分の31巻以降はない。昼休みに総合図書館にいって、検索すると、総合図書館などの近辺にはないというのが検索結果、書誌情報の入力に癖もあるということなので、書庫に入ってみたが、やはり存在しない。
 結局、午後は別の仕事が目白押しで、そのままにしていたが、帰宅間際になって、帰り道の千葉市図書館によってみようと思いつき、ネットワークで、本があるかどうかを確認したところ、「あるある」。しかも平日は夜九時まで空いているというので、八時頃に図書館によった。
 検索して、それを印刷して、カウンターにもっていくと2分ほどで書庫から出てきた。夜だから早いということもあるが、我が大学よりも、我が自治体図書館の方がはるかに優秀である。我が大学、一般に大学図書館は政府にいじめられているから仕方がない部分があるとはいっても、しかし、こういう対照を実感すると、たいへんにお寒いものを感じる。
 鈴木大拙の解説は短いが、仏国禅師は「仏国惟白禅師」であり、「趙宋の名匠で頗る文藻に富んでいた。善哉童子南方遍歴の跡を図して、それに自ら賛を加えた。無尽居士張商英は、これに序して『人境交参、事理倶顕、則意詳文簡』とした」ということであった。
 以上。さらに感想を三つ。
(1)実は、昨日は財布を家にわすれたことに東京駅で気づいて、朝、地下鉄に乗れずに立ち往生。改札口の人に頼んで、本郷までの仮切符をだしてもらい(ありがとうございました)、帰宅の時に返却した。図書館のカードは財布の中で、もっておらず、本を借りるのは無理かと思ったが、聞いてみたら、名前のわかるものと、住所などの記入で確認できるということで、大拙全集を借りることもできた。
 日本の社会は基本的なところで親切さというのがある社会で、Well-organizedであると思う。これをシステム的な協同社会に組み上げていくことができれば、そしてもう少し自由と寛容のレヴェルが高ければ、この社会はよい社会であると思う。
(2)しばらく前、鈴木大拙の全集を買って勉強をしようと考えたことがあり、古書を調べてみたら、全巻で2万円を切るものもあった。鈴木大拙といえば、何といっても、二〇世紀の日本の思想家の中では大きな存在で、私などの高校時代には、大拙の本は読むべき本の一冊であった。それが2万円。つまり、一冊1000円以下というのは何ということだろう。ようするにそういうものを読まない時代になっているのだ。
 それ以外にも、津田左右吉全集も同じような値段で、先週末に行った近くの古本屋では三木清全集が全巻、8000円だった。いつか岩波書店の編集者に話したら、変なことで怒る人だという顔をして、岩波の思想大系、古典文学大系などもほとんど値がないに等しいといっていた。これは日本の文化の基礎崩壊とでもいえるような事態なのではないだろうか。大学にそろっていないことも、その一環ということになり、他人事ではない。
 しかし、若い人々は、本格的な勉強をしようと思えば、今が機会なのかもしれない。私の若い時は、とても津田左右吉を揃えようという余裕はなかったが、古典著作をそろえることができるのである。なかなか置き場所も問題で、この前はやはり時間がないと考えたが、私だって、定年になって、退職金を使う余裕があれば、津田、鈴木は是非買っておきたいと思う。おのおのを2ヶ月かけて読めば、頭の中が変わるだろうと思う。
 必要なところをみていたら、すぐそばの、大拙の短文の下記に惹かれた。
「本願の根源。人間は思うたより余計に、本能的心理というもので動作しているかのごとくみえる。これが業である。しかして、自分等は皆論理的に行動しているのだと考えている。これも業である。/////「人」が「心」を通して「物」に働きかける。「物」がその心を映して「人」に響応する。「物」は「物」だけでなくなって、「物」の「心」が人の心と相交わる。一つになる。/////業苦は業苦でついにのがれられぬものか。どうもそうらしい。それで、それら一切をひっかついだままで、弥陀の誓願海へ飛び込む。ここに宗教的安住の世界がある。<親鸞上人七百回大遠忌記念講演会パンフレット>」
 立派なものだと思う。「欲求と自己意識」「物の対象性と呪物性。物の親和力」「業苦と安住」。こういうことを、こういう風に語るのが東アジア宗教なのだと思う。
(3)私は『平安王朝』という本のあとがきで、平安時代の政治史や制度史は相対的に簡単で、しつこくやっていれば誰でも研究論文を書くことができるので、読者にも、是非、挑んでみて欲しいと書いたことがある。人には、「そんなことはない」「研究者を馬鹿にしているようだ」といわれたことがある。
 しかし、歴史学というのは、開かれたもので、多くの人が作業に参加することができる物だと思う。ヨーロッパでは日曜歴史家といわれたアリエスがいる。社会的・人生的経験をつんだ人々が、自分の仕事に関係する特定の分野の歴史の研究を行えば相当の成果をあげることができる。たとえば林業の研究はきわめて少ないが、林業に従事したことのある人が研究に入れば、現在より、具体的な問題がわかってくる可能性は高い。
 とくに江戸時代以降の歴史の研究などは、とても専門研究者だけでは人数がたりない。少なくとも将来の社会では、趣味としては歴史学は非常によいものになると思う。もちろん、どの分野にもかならずいる一言居士のような人が歴史好きの人には多いかも知れないし、学問外的なこだわりがあっては困る。また、基礎作業としての史料検索の便宜がデータベース・知識ベースの形で整っていることも条件だろう。歴史理論と通史的な概説がつねに洗練された形で用意されていること、研究が全体として明らかにしたことが、細かな点まで知識ベースの形で一覧可能になっていることも重要だろう。
 それらの条件があれば、自分たちの社会を省察する上で歴史学は本当によいもので、宗教的観想にも替えることができるものだと思う。ようするに宗教というのは永遠の時間、通常の人生より、長い時間の観想の仕方だから。
 昨日読んだ『「日本」とは何か』で、網野さんは「学問は決して歴史家だけの専売特許ではない。未知の問題は沢山あり、社会全体にそういう探求の意欲が広がり、多くの人が参加するようになれば、学問の質も根本的に変わる。夢のようなことをいうと思われるかも知れないが」といっていた。
 図書館の話にもどれば、研究のためには、個別論文などは電子情報があればすむが、古典や広汎な仮説を含んだ学説史をしるためには、やはり本が必要である。昨日の経験は、そのレヴェルの図書館をつくる条件も、それなりに整いつつあるのかもしれないという感じであった。

2010年9月21日 (火)

考古学協会が発掘報告書を国外へー東京新聞インタビゥ

 先週、東京新聞文化部の岩岡千景さんからインタビゥがあった。日本考古学協会がこれまで蓄積した大量の発掘報告書(56200冊余)をイギリスのセインズベリー研究所(日本文化の研究センター)にすべて寄贈してしまうという話しをどう思うかという話しである。

 この五月の日本考古学協会の総会で決定されたということだが、これに異議を申し立てる会員が臨時総会の開催をもとめている(森浩一代表)。

 今日、この問題についての特集が掲載された東京新聞(2010(平成22)年9月13日)が送られてきた。正確に事態を伝えているよい記事だと思う。新聞は、発掘情報に紙面を割くだけでなく、こういう基本問題を提起するのが役割のはずである。

 インタビゥーの電話は、ちょうど、和紙の顕微鏡データの整理をしていた時で、エイヤと頭を和紙の顕微鏡画像から切り離したが、脳細胞が画像にくっついて向こういってしまったようで、すぐには頭がまわらず、しどろもどろになる。

 それらしいことをいったように、記事を書いてくれた記者に感謝であるが、それにしても、日考協はどうしたのだろう。

 いまでもそうなのだと思うが、日考協は一種の同職団体のはずで、日考協の会員でなければ遺跡の発掘はできないという性格があるはずだと思う。そして、それを保証するのが、発掘した遺跡の報告書はかならず日考協に提出するということであったはずだと思う。発掘が学術的に行われたかどうかは、この報告書によって検証されるということであったと思う。だから、これは職能団体にとってはいっしゅの個人毎の身分証明書のようなものだと思う。

 それを国外に出してしまうというのは職能団体としては自殺行為にならないのだろうか。団体の中核をなす文書というのは、やはり現物でもっていないとならないと思う。セインズベリー研究所が電子化するからというのだが、電子化の権利、それを修正・編集する権利、それを著作物に利用する権利などがどうなるのか、民間基金によっているというセインズベリー研究所が、万が一破綻をしたらどうなるのか、電子媒体の著作権の状況がどうなるのかということがビッグイッシュウになっている時代に無警戒ではないかと思う。

 もう一つ気になるのは、日考協は国立考古学博物館を建てるべきであるという戦略をもっているのではなかったのかということである。

 上行寺・一ノ谷・柳御所などの調査体制や保存問題で、実質上、そして主張や運動が終わってしまった後にも、役割を果たすという役割を負われた石井進さんは、その過程で、、「国立考古学博物館の構想は、日考協が出しているが、これはしばらくは無理なのだよ。保立君。ともかく、佐倉の歴史民俗博物館の後は、まず九州国立博物館を立てようという合意があって(九州財界の後押しもあって)、それで進んでいるのだから、国立考古学博物館というのは次の次になっている」と説明してくれた。日考協も、今の段階ではどこまで本気かどうかといわれたように思う。

 もし国立考古学博物館(それはこれだけの規模の発掘調査をしている国には、当然にあってよいものだが)が立てられたすれば、その中心的な収蔵物の一つが、発掘報告書になるはずである。セットとして残っているのは、何といっても日考協のセットのはずである。こう考えると、日考協は、もう考古学博物館構想を実質上は放棄しているのかと思う。

 政府の多数や民主党・自民党などの多数政党が、文化的資産を大事にしないのは、日本社会が骨の髄までかかっている病気であり、この病気を治さないと、どうにもならないという感情は、研究者には親しいものである。その上、今ではジャーナリズムは第三権力であるという見方も一般的になっている。それはそうであろうが、しかし、新聞に記事がのり、問題が広く知られれば、議論の出発点となるというのは、以前、遺跡の保存運動に関わった時の経験である。

 私が日考協と関わったのは、その時、つまり、上行寺東遺跡と一ノ谷中世墳墓群の保存問題に学界側の事務局として関わった時のことで、はるか昔のことだが、日考協の文化財保存問題特別委員会には世話になったという記憶がある。かならずしもすぐに答えてくれるということではないが、ともかくもあそこを説得すれば、問題は動き出す部分があるということはわかった。考古学者の中での職業的な問題の扱いには慣れており、必要なことはするという感じをうけた。それは平泉の柳御所の保存問題の最初の段階でも、日考協メンバーの意向はこちらに伝わってきた記憶がある。あれからも様々な変化があったに違いないが、この問題は、日考協の試金石になりそうな気がする。

 インタビゥーをうけたこともあって、上記の経験を思い起こし、先週、遅れていた『見付の町に一ノ谷があったー一ノ谷遺跡の保存運動の記録』のPDF化の作業を開始した。自分の講演の記録は、しばらく前にHPに載せたが、「考える会」の仲間には九月にはアップするといってあるので、おそくも一〇月にはすべてをアップする積もり。

 以上、昼休み終わり。

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