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日本史における系譜・系図史料ー情報化の展望をふまえて

101225_101129 日本史における系譜・系図史料ーー情報化の展望をふまえて

『東アジアの族譜資料の構造と活用方案の研究』

 2009年7月10日

 韓国江原大学校産学協力団主催シンポジウム

 於韓国学中央研究院

  はじめに
 日本史を対象とした系図学・系譜学の研究を推進したのは、第一に律令国家とその前後を対象とした佐伯有清・阿部武彦・溝口睦子・義江明子などの氏族研究の蓄積であり、第二には一四世紀を「系図の世紀」として取り上げた網野善彦による一連の研究であった(『日本中世史料学の課題』弘文堂、一九九六)。そして、それらに対応する最近の到達点は、義江の『日本古代系譜様式論』(吉川弘文館、二〇〇〇)、『中世武家系図の史料論』(高志書院、二〇〇七)などによって知ることができる。
 また系譜史料論全体の研究史を眺望した論文として飯沼賢司「系譜史料論」があり、すでに一〇年以上前のものとはなるが、現在でも必読のものである(『岩波講座 日本通史別巻3、一九九五)。とくに飯沼が第二次世界大戦前の系図学的な研究の代表として太田亮の仕事をあげ、その包括性を評価しながらも、それが「家系への興味」「ルーツ探し」という基本姿勢から抜け出ておらず、そのために「国家の細胞としての家を重視する時代」において「天皇制を支える家を肯定する研究」とみなされざるをえない側面をもっていたとしていることは重要である。これは系図研究の出発点としてふまえておくべきことであろう。野口実もいうように、日本社会において系図に興味をもつ人々は、現在でも、しばしば著名な武士を先祖とし、彼らを顕彰しようという心意をもつような人々である(野口「千葉氏系図の中の上総氏」(『中世武家系図の史料論』高志書院、二〇〇七)。そのような特定の血統や過去の顕彰ではなく、歴史研究全体の中に系図史料を正確に位置づけて行かねばならないのはいうまでもない。
 さて、私は、平安時代から鎌倉時代にかけての政治史・社会経済史を主な専攻としており、これまで系譜史料について具体的な研究を行ったことはない。それ故に、本稿はあくまでも上記の研究史に依拠して、韓国・中国の同僚に対して、日本の系譜史料について概説的な紹介を行い、それに必要なかぎりで若干の私見を述べることを目的としているにすぎない。ただ知識の不足によって、日本の奈良時代から鎌倉時代における系図史料について筋道のみの話しになってしまうのも逆に意味あることといえるかもしれない。こういう前提で、この報告では、奈良時代の「氏の系図」から鎌倉時代の「武士の系図」までの系図史料の全体的な流れを考えてみようと思う。
 もちろん、これはむずかしい課題であるが、ともあれ、「氏の系図」の理解は天皇制の理解に深く関わり、また「武士の系図」の理解は、日本の社会に今でも根強く残っている武士を美化する傾向に深く関わっている。もし、この両者を歴史的な時間の中に過不足なく位置づけることができれば、飯沼や野口がいうような日本社会がもつ系図への非歴史的な興味の有り様を相対化することが可能となることが予想されるのである。
 なお、議論の前提としておきたいのは、「氏の系図」に現れる「氏」の組織が平安時代以降も、国家・社会の内部に長く継続して存在したいうことである。もちろん、一般には、血縁紐帯の側面からみて、この時代を「古代のウヂーイヘの関係から中世のイヘへと転換する過程」(吉田孝『律令国家と古代の社会』岩波書店、一九八三年、一五頁)、「大きな氏の分解のなかから小さな家」が成立してくる時代と捉えることが多い(石井進「一二~一三世紀の日本」、初出一九九三年、石井進著作集(3))。しかし、このような抽象的な把握は、いわば説明のための形式論理にすぎず、問題の単純化であると考える。むしろ、「氏」組織と「家」組織は形を変えながらも、日本の歴史を通じてつねに併存してきたのではないだろうか。私は、以前、これを「氏的国制」と呼んで簡単な説明を行ったことがあるが(「日本中世の諸身分と王権」(『前近代の天皇』③、1993)、その後、高橋秀樹『日本中世の家と親族』(吉川弘文館、一九九六)も、平安時代以降、「氏的な継承原理」によって構成員中の最高官位者によって継承される「家」、「嫡継承原理」をもった「家」の二種類が存在したと述べている。私は前者を普通の「家」と区別して「一門」というのがわかりやすいと考えるが、基本的な考え方については了解できることが多いように思う。
 未開の時代に源流をもつような「氏」的な奉仕組織とおそらく奈良時代以降に発展を開始した「家」が二重化して存在しているというのは、おそらく日本の歴史の特質に関わることであって、それはたとえば石井紫郎が「わが近世の「家」は、ヨーロッパの私的・自立的なHausとちがって、上位者への奉仕から切り離しては観念されなかった」(『日本人の国家生活』東京大学出版会、一九七頁)と述べるように、江戸時代にまで影響を残している可能性が高い。このような問題が、系図史料によってどこまで明らかになるか、ここで明瞭なことをいうことはできないが、系図史料論は、確実にそのような問題に関係している。
Ⅰ日本の未開国家と柱系図
 日本における系譜史料の成立において最初に注目すべきなのは、いうまでもなく『日本書紀』『古事記』に引用された「帝記」、つまり大王の即位・宮号・妃・子その他の記事をふくむ記録である。これらは従来は六世紀半ばころの成立と考えられていたが、有名な稲荷山鉄剣の銘文が登場するに至って、五世紀半ばには、少なくともその一部が存在していたと考えられるようになっている。つまり、この金象眼銘文は鉄剣の表五七文字、裏五八文字からなるものであるが、辛亥年(四七一年)に、オワケが「杖刀人の首」として祖先のオホヒコから八代にわたって奉仕し、自身もワカタケル大王に近侍してきたことを述べたものである。
 しかし、もう一つ重要なのは、渡来系の人々の系譜意識である。倭王家が「姓」をもっていたかどうかについては議論があるが、渡来系の人々が早くから「姓」をもっていたのは確実で、帝記と同様の時代に、彼らの系譜意識を表現する文字による系譜史料が存在していたと考えることに無理はない。『日本書紀』『古事記』編纂の前提となった『百済本紀』の存在はよく知られているが、少なくとも『百済本紀』などの到来と同じ時期に渡来系の人々の系譜が作られていたであろう。
 もちろん、それを語る史料の存在を確認できるのは遅い。つまり、『新選姓氏録』序文によれば、「勝宝年中、時に恩旨あり、諸蕃に聴許して願いのままにこれを賜う。遂に前姓後姓をして文字これ同じく、蕃俗和俗をして氏族相疑い、万方の庶氏をして高貴の枝葉に陳なり、三韓蕃賓をして日本の神胤と称せしむ」とあるように、天平勝宝年中(七四九ー七五七)以降、渡来系氏族が新たな賜姓をうけることが多く、その系譜の中で、「三韓蕃賓」などの渡来系氏族が「日本の神胤」に連なったという。そして、八世紀末の史料にみえる「諸司官人等の所蔵」するところであった「倭漢惣歴帝譜図」なる系図は、この文脈で存在したものであるに違いない。
 それは、「天御中主尊を標して始祖となり、魯王・呉王・高麗王・漢高祖の命などの如きにいたり、その後裔に接す。倭漢雑あえて天宗を垢す」という内容のものであったという(『日本後紀』大同四年二月五日条)。この「倭漢惣歴帝譜図」なるものがどのようなものであったかはまったく不明であるが、その由来は、古くにさかのぼるのではないだろうか。なお、一四世紀の『尊卑分脈』の段階でも医家として知られる丹波氏が後漢霊帝の後胤とされているように、このような渡来人の系譜が長く影響を残したことは歴史の問題として軽視できない。
 次ぎに問題になるのが、一般の豪族の系譜である。これについては右にもふれた稲荷山鉄剣の銘文が、オホヒコからオワケにいたる八代が「杖刀人の首」として「奉事」してきたという系譜が最初の事例である。このような「奉事」「仕奉」を表現する系譜は、いわゆる氏姓制度にもとづくものであって、大伴・物部・中臣・蘇我・平群などの「氏」と臣・連などの「姓」によって、氏族の王権への奉仕が表現されるシステムである(吉村武彦『日本古代の社会と国家』岩波書店、一九九六)。大伴は王宮随従の職制、物部は刑罰呪術の職制、中臣は神との中媒の職制を表現している。8世紀末期の史料では「大倭国は、行事をもって名に負う国なり」(「高橋氏文」)といわれているが、このような「名負いの氏」が王権に「仕奉」するシステムが後々まで大きな影響をあたえたことは前述の通りである。
 この豪族系譜の形式については、かって太田亮は、口承系譜ー文章系譜ー竪系図ー横系図という順序で成立したとし、現在でも基本的にはそれが維持されているが、しかし稲荷山鉄剣の登場によって、その見直しが必要となっているように思う。つまり、その八代を「ーー、其児ーー、其児ーー」と記しているのはたしかに太田のいう文章系譜の形式であって、この鉄剣銘は、そのもっとも古い事例ということもできる。しかし、このような形で最古の文章系譜が確認されると、その形態が竪系図=柱系図と酷似することに注目せざるをえないのではないだろうか。
 柱系図の例としては、これも有名な「海部系図」がある(丹後一宮籠神社宮司家所蔵)。これは九世紀に成立したものであるが、その縦線は系譜記事を貫いており、後のような親子を結ぶ記号としての系線ではない。義江明子「系譜様式論からみた大王と氏」(『日本史研究』四七四号)のいうように、この二つは「縦線の有無を別とすれば『児ーー』で人名を記し、代々の奉仕を主張する点ではまったく同形式」の継承次第系譜というべきものである。そして、このような柱系図はきわめて一般的に存在したもので、私はそれは一般には「譜第図」と呼ばれていたものと考える。
 つまり、『朝野群載』(巻二二)の国務条々事に新任国司が前任国司からひきつぐべき書類として「田図・戸籍・詔書・勅符・官符・省符・譜第図・風俗記文・代々勘判」などがあげられている。この内の「譜第図」について、石井進は、これを「国内の有力豪族の家系を国衙に登録したもの」と想定し、一一世紀頃にも実際的な意味をもったものとしている(「中世成立期の軍制」、同著作集五)。しかし、この「譜第図」は「田図」以下の文書と並ぶような律令制の伝統を引く文書であり、おそらくは「譜第郡司」に関わる文書、あるいは軍毅の勘定に関係して『延喜式』(巻二八、兵部)にみえる「譜図・譜牒」に類するものであったろう。そして、この「譜第図」の本来の形態はおそらく前述の海部氏系図のようなものであったに相違ない。同系図に丹後国印が捺されているのは、この点で重要で、国衙に保存される「譜第図」にも国印が捺されていたのではないだろうか。
 問題は、系譜を竪に記すという、この記述形式それ自身の根拠であろう。これについては義江も特に論じていないが、私は日本の未開国家において神や貴人を「一柱」などと呼び、大柱・巨柱が一つの身分標識であったことと関係していたと考えている。つまり、『日本書紀』推古天皇二十八年冬十月条には桧隈陵(欽明天皇陵)の周囲に氏毎に「大柱」が立てられたという記事がある。全文を引用しておくと次のようなものである。
「冬十月に砂礫をもって桧隈陵の上に葺く。即ち域外に土を積みて山を成す。仍りて氏毎に科せて、大柱を土の山の上に建てしむ。時に倭漢坂上直が樹てたる柱、勝れて太だ高し。故、時の人号して大柱直と曰ふ」
 この年には諸氏族の「本記」が編纂されており、この大柱が「氏」の天皇に対する忠誠を現すものであったことは疑いない。そして、この柱には、その氏の大王への奉仕の由来・世系が柱系図のように書かれたのではないだろうか。この王陵とそれを取り巻く「氏の柱」という情景は、日本の未開国家の構造が王の「天柱」とその周囲を取り巻く古代氏族の祖神・祖先の「大柱」の集合体として観念されていたことをよく示しているように思う。
 ただし、この推論は、以前、平安時代の氏神祭を論ずる中で述べたことの繰り返しであって(「巨柱神話と天道花」『物語の中世』東京大学出版会、一九九八年)、相当の時日が経ちながら、私説は、それを傍証する事実を提示しえないレヴェルのものにとどまっている。しかし、柳田国男が、この「氏柱」との連想の下に、氏神祭に諏訪社の御柱の祭その他、「柱」「ほで」「盆伝」を立てる風俗や神社儀礼にう注目しておきたい(「大柱直」『定本柳田国男集』第一一巻)。「氏」の組織がその系譜を文字通り「柱」、あるいは稲荷山鉄剣のような垂直の形状のものに記録するということはしばしばあったことなのではないだろうか。義江が強調する海部氏系図のヴィジュアルな形式は、それを前提にした方が理解しやすいと考えるのである。
 以上、日本の奈良時代までの国家における氏姓制度と系譜史料について若干のことを述べた。もちろん、このような議論を進めるためには、『新撰姓氏録』を読み抜き、氏族の国家的システムが九世紀においてどのように展開したかを論じなければならない。『新撰姓氏録』は、いわば、右にふれた渡来人と豪族の系譜史料を統合する営為であり、約一二〇〇にも上る畿内氏族の始祖と由来を「皇別(三三五氏)、神別(四〇四氏)、諸蕃(三二六氏)」などに区別して書き上げることによって、前代の氏族制度を整理・再編するフィルターのようなものが形成されたものと思われる。これはたしかに支配層内部の氏姓を整理し、それを統合していく上で大きな役割をはたしたものと思われる。
 とはいえ、これだけの氏姓を上からのフィルターによってどこまで整理できたか、とくに民衆内部の氏姓をどれだけ整理できたかについては疑問が多い。普通、平安時代の民衆は「ウヂ」をもっていないようにいわれるが、ここまで進展した「ウヂ」の普及は、少なくとも地域社会においては、半ば地名名字に類似したものになっていたとしても、一定部分が継続したのではないか。鎌倉時代の庶民史料の中には渡来系をふくめて相当多様な「ウヂ」が登場し、その意味で、彼らはまさに「百姓」であったということもいえるのではないか。それなしに地域社会における「氏神」の持続は説明できないのではないかなどと考えるのである。
 しかし、これらについて論じることは現在の私には荷に余る課題であり、以下、地域と民衆社会における「氏」とそれに対応する支配の問題については前稿「日本中世の諸身分と王権」における粗い見通しにゆずり、平安時代以降の概説に移ることとする。
Ⅱ平安国家の官僚組織と網状複線系図
 平安時代において、現実に存在した系図、とくに貴族の系図の実態は残念ながらほとんど分からない。それのみでなく、東京大学史料編纂所の充実した平安時代の日記・文書のフルテキストによっても、この時代の原史料の中にほとんど「系図」という言葉を発見することはできない。つまり、系図が、現実にどのような形で存在し、また誰によってどの程度の精度をもって作成されていたかを想定させる史料さえもきわめて少ないのである。
 もちろん、この時代、すでに系図は活発に作成されていたはずである。それにも関わらず、その史料が少ない理由はよく分からないが、おそらく系図を扱う氏族の実務組織の史料の残りがきわめて悪いことが一つの理由であろうか。各氏族は氏長者のほかに、たとえば勧学院(藤原氏)・奨学院(源氏、淳和院を別当)・学館院(橘氏)などの氏院、あるいは氏寺など、氏族組織を支える施設を維持していたのであるが(竹内理三「氏長者」同著作集五)、それらに関係する史料はほとんど残っていないのである。
 慌ただしい作業であったために多くを見逃していることを怖れるが、管見のかぎりで貴族官人の「系図」について言及している史料は、ただの二つであった。一つは大江匡房の『江談抄』(三、雑事)に「伴大納言者、先祖被知乎。答云、伴氏文大略見候歟」という一節である。これは「伴氏文」なるものが存在したということを示す史料であると評価することができる。第二は、ほとんど唯一の実質的な史料というべきもので、堀河天皇に仕えた右大臣藤原宗忠が、堀河の死去後、堀河が文書を沙汰している場所に侍った夢をみたという話しで、そこで堀河が「藤氏氏文を給い、閑に見るべき由、勅語あり」といったというのである(『中右記』嘉承二年一二月一九日)。
 この史料は「氏文」を閲読するということが実際にあったことを示している。そして宗忠が、これに感激したというのは、右大臣宗忠が天皇によって「藤氏氏文」の全体を鳥瞰する権限をあたえられたというような意味であろう。あるいは摂関家の氏長者のみでなく、天皇の許にも実際に「藤氏氏文」が存在していたのではないだろうか。ともあれ、これは院政期に入ってしまう史料ではあるが、確かに藤原氏全体の「氏文」なるものが当時の宮廷に重みをもって存在していたことがわかるのである。しかし、結局、これはこれだけの史料であって、これがどのように作成され、管理されていたかを考えるためには、別の道、つまり平安時代の国家と氏族組織について検討するほかない。
 さて、「はじめに」で述べたように、氏姓制度を平安国家も基本的には引き継いだと考えられる。しかし、もっとも大きな変化は、奈良時代以前までは臣系・連系などをあわせて、主なものでも五〇ほどは存在した上級氏族が、激しい政争の中で再編成され、平安時代初期には、王家に近い姻戚氏族=藤原氏と臣籍降下した王族(源氏)がほとんどの公卿をしめ、国家中枢の氏族編成を独占してしまったことであろう。こうして、長い奈良平安時代をつうじて王権と貴族階級の中枢部が(相互に姻戚関係を形成しつつ)同一の系譜意識、同族意識を持ち続けるという、東アジアにおいてきわめて珍しい現象が発生した。私は、このことに何よりも注目しておきたい。
 たしかに、この中で氏族組織は奈良時代以前よりはるかに目立たなくなったということができる。藤原氏などの少数の宮廷氏族の組織の内部には、複数の「家」が発生しており、かつ藤原という氏姓をもつ貴族は全体として様々な職務を遂行することになるから、そこには伝統的な「名負い」の職掌を示す「ウヂ」の現象はなくなっていく。そして、政治史における氏族間闘争の契機もほとんど喪失することになる。このような事情によって、一般的な見方では、平安時代に入るとウヂは解体していくされるのであるが、しかし、それは何よりもこの時期の政治史に規定された事態であることを忘れてはならない。それをウヂからイヘという社会状況の変化によって説明することは歴史社会を具体的に捉える方法ではないだろう。もちろん、藤原氏は「南・北・式・京」という初祖不比等の四人の子供がおのおの王家と結合することによって起こした四つの家門(一門)に分かれ、賜姓源氏は天皇の歴代ごとに別の一門を起こすという形となっている。つまり、大きな氏族としての藤原氏や源氏の内部に小さな氏族としての一門が存在し、さらにその内部に実際に実力体として動いた「家」が存在するという構造となっている。藤原氏のような大ウジの場合を勘案すると、その構造は、国家ーウヂ(大ウヂ・小ウヂ)ーイヘという形でウヂの部分が複線化しているということになる。
 このようにして国家組織をいくつかの氏族が独占した結果、逆に「氏」の組織が現象として目立たなくなっていったのである。特に一一世紀頃まで、いわゆる摂関期には、「南・式・京」の藤原氏の小ウヂ・一門は存続しているものの、王家と藤原氏の北家一門が緊密に結合し、賜姓源氏をふくめて支配層中枢の同族意識はきわめて強くなる。しかも、その緊密さは、王家の兄弟間闘争と摂関家の兄弟間闘争が複雑に絡み合った陰湿な宮廷闘争の反面だったから(保立『平安王朝』岩波新書、一九九六)、支配層の動きにおいてもっぱら最終単位としての「家」のみが目立ってしまう結果となった。しかし、氏族組織はけっして解消したのではない。つまり、ここでは氏族組織は国家と二重化してしまったというべきなのである。
 この事態をよく示すのは、何よりも国家の官僚組織の身分的な基礎をなす叙爵と氏族の関係である。平安時代の叙爵において基礎をなすのは元服叙爵制による官職の父子継承であるが、それをシステムとして補完していた氏長者による「氏爵」推挙の制度が問題である。氏爵には二つの類型があり、その第一は、天皇の代替りに際して伴・佐伯・和気・百済王などの諸氏に同じく叙爵を許すことをいう(田島公「氏爵の成立」『史林』七一ー一)。八世紀半ばから九世紀前半までは必ず公卿の中に、伴・佐伯・百済王などの氏族を代表するメンバーがいたのであるが、一〇世紀以降、彼らは貴族官人としての現実の力を喪失している。それでも氏爵を受ける機会を残していたのは、国家の氏的国制を象徴している。氏爵の第二の類型は、毎年正月叙位に、王および源氏・藤氏・橘氏などの諸氏の中で、正六位上まで進んで五位になっていないものの中から、一人づつ推挙して叙爵の恩典に浴させることにあった。たとえば、このうち藤原氏の氏爵推挙は長者が「南・北・式・京」の藤原氏の四門(初祖不比等の四人の子供が起こした四つの家門)から推挙することになっている(『西宮記』正月叙位議)。
 このようなシステムはそれが『西宮記』に記載されていることからいって一〇世紀半ばにはできあがっていたといってよいだろう。そしてそれは、平安国家の官僚組織を担った三善・坂上・清原・中原・小槻などの諸氏族についても同じことであったと考えられる。官衙の業務は、これらの明経道・明法道・陰陽道その他の「道々」の官人が請け負い、半ば世襲することによって担われていたのである。彼らは、宮廷貴族よりも格下の家格・家職が成立したが、佐藤進一が「家格の序列はもともと氏の尊卑を制度化したカバネ制が律令制の中で生き続けて、家業の体系と結びついて新しい形で開花した」というように(佐藤進一『日本の中世国家』岩波書店、一九八三)、この「家業」なるものが氏族の枠組みの下に営まれていたことを軽視してはならない。そして、このうち、三善と坂上が渡来系の氏姓であることによってわかるように、平安国家の官人組織の中には渡来系氏族の行政・技術能力が流れ込んでいた。この点で前述の「倭漢惣歴帝譜図」が「諸司官人等の所蔵」であったというのはきわめて示唆的である。
 このようにして、国家の官僚組織の基礎としての位階制において氏族組織のもった意味はきわめて大きく、それは国家組織と氏族組織の二重化というにふさわしい。そして、本稿にとって問題なのは、系図の作成・管理は、氏族組織の下で、官職位階の昇進・推挙との関係において、機会あるごとに行われたと考えられることである。たとえば、康和三年(一一〇一)の藤原守信の式家叙爵分の申文は、今春の氏爵は「式家の巡」にあたるとして、不比等からみれば二世にあたる式家の祖の宇合、その男・清成、その男・種継、その男・山人と、以下、十二世にあたる自身までの直系系譜を(各々の極官などと合わせて)列挙している(『朝野群載』巻四、朝議上、史料(3))。そして、この守信申文の記事が官職などをふくめて、一四世紀に作られた『尊卑分脈』という系図集の記載と基本的に合致している。もちろん、『尊卑分脈』には、しばしば極官のみでない複数の官職、養子関係や生母の記載が記録されており、平安時代、それらがどのように集成・記録されていたのかは、残念ながら、現在のところ明らかにすることはできない。
 しかし、以上から、氏長者の側でも、候補者の側でも系図情報が管理され、それが後代に引き継がれていたことは明かであろう。そして、この守信申文でさらに興味深いのは、守信が「被叙式家氏爵、将知氏族之不絶矣」と述べていることである。つまり、ここでは式家一門が藤原氏の大氏族の中における一つの「氏族」と考えられていることになる。さらには守信申文の描く式家系譜で注意すべきなのは、それが必ずしも長子の嫡々の順序にはなっていないことである。詳しくみると、まず宇合の長男広嗣・二男良継とその子孫ではなく、宇合の三男の清成が三世に数えられ、その後、九世の後世(『尊卑分脈』には後生)までは長男の筋が辿られているものの、十世には後世の三男にあたる惟信が上げられている。式家の多数のメンバーは、四年に一度、氏爵に選抜され推挙される機会をもつのであるが、それは長男のみが推挙されるということではなかった。少なくとも氏爵の推挙の実務の中で、庶流と兄弟をふくむ、末広がりの式家系図の全体が印象されていたことがわかる。
 このような兄弟線=横線をふくむ系図情報が氏族組織の中で蓄積されることによって、いわば網状複線系図とでもいうべき長大な系図ができあがり、いくつかの氏族の系図によって、平安国家の貴族官人のすべての人々の出自がおおわれるかのような系譜意識ができあがっていったに違いない。
 このようにして作成される網状系図は「柱系図」に典型的に現れるような職掌「仕奉」の継承を中心とした一系系図と大きくことなっている。もちろん、一系的柱系図も網状複線系図も国家的な性格をもっているという点では同様であり、また網状複線系図から親子関係を無視した一系的柱系図を作成することが可能であることもいうまでもない。しかし、奈良時代以前の一系的柱系図が「氏」の内部までは記録しないのに対して、網状複線系図によって、国家による貴族官人の身分編成・叙爵が「氏と家」の内部の管理まで入り込んだことは明かであろう。
Ⅲ院政期における「一門」の形成と武士系図
 院政期において、系図の作成・管理が摂関期と同様の氏爵などの制度を通じて行われていたとは思われない。そもそも、院政期、一二世紀以降、従来の氏族(大ウヂと小ウヂ・一門)に代わって、多くの門流が独自の位置をもち始めた(高橋秀樹前掲書)。摂関家は基本的に王家との婚姻関係をもたなくなり、摂関期における王家と摂関家の同族的結合を中核とする国制の破綻が明瞭となった。こういう中で、従来の氏爵などのシステムは形式は残ったとしても実質的な意味を喪失していったはずである。
 それ故に、系図は、実質上、個々の一門・門流のレヴェルで作成・管理されるようになったに相違ない。公家社会においても、門流の伝領において「家日記・文書」の譲与が重要な意味をもっていたとされるが、その文書の中に系図が含まれていたことは確実である。残念ながら、この点を明示する史料を提示することはできないが、とくに鎌倉時代になれば訴訟の場に文書と系図が対となって証拠として提出されることは一般的となり、系図が裁判法上においても、その作成を促進されたことは明かである。院政期においても、たとえば春日社権預祐宗と東大寺大仏殿司の間での白米免をめぐる相論において、左中弁藤原顕業が「系図を造り、両方の申状を大略注付候」と述べているのは注目される(『平』二三九〇)。しかしここでは判断者の側が「系図」を作成しているということになるから、厳密な意味で裁判において文書と系図がセットとして副進されるのはやや遅れるようにも考えられる。しかし、やはり裁判の中でメモとしての系図が作成されること自身は、珍しいことではなく、かつ必然的なことであったに相違ない。
 このような訴訟法上で必要とされる権利の相伝系図が、本来の血縁系図作成の条件となったことは確実であるが、問題は、院政期国家において、血縁系図がどのように作成され、管理されたかにあることはいうまでもない。そして、実は、これについては、院政期の史料は摂関時代よりも貧困といわざるをえないのが実際である。
 しかし、鎌倉時代の和歌集に「もののふの八十氏文はかたかたにゆきわかれぬる跡ぞみえける」(『新撰六帖』ー五、寛元元年一二四三年頃成立)と歌われていることからすると、院政時代後期、とくに平家の執権から一一八〇年代内乱にかけての時代、「もののふ」=武士の系図が大きな位置を持ち始めたことは確実であろう。そしてそこに「かたかたにゆきわかれぬる」とあるように、それは地方社会における武士の諸流派をカバーしていたはずであり、それによって、平安国家の中で拡大してきた網状複線系図はいよいよ広がっていき、その祖先に源氏・平家という賜姓王族がいる以上、天皇を頂点とする網状複線系図によってあたかも全国民がおおわれるような日本の系譜史料の大きな特徴が形成されていったのではないかと思われるのである。
 そして、このような系図の拡大を推し進めたのが、源氏・平氏などの軍事貴族であったことは疑いない。ここではその実相を『愚昧記』紙背文書に残る散位源行真申詞記(『平安遺文』二四六七)と『尊卑分脈』に残された宇多源氏の一流、近江源氏の佐々木氏の系譜を対照することで考えてみたい。
 さて、『尊卑分脈』によると、宇多天皇の皇子・敦実親王の血統は、その子・源雅信から、扶義ー成頼ー義経ー経方ー季定と続いて近江源氏の佐々木秀義、佐々木定綱の親子につながる。この二人が頼朝の近くで活動した著名な武士であることはいうまでもない。これに対して「佐々木宮神主」と注記された、季定の弟の行定の系列は「本佐々木」と呼ばれて、佐々木秀義・定綱とは「一族にあらず」とされている(『吾妻鏡』文治一年一〇月一一日条)。後者の系列は本来は宇多源氏ではなく、古来よりの在地の豪族・佐々貴山氏の系列に属する人々である可能性が高いのである(上横手雅敬「院政期の源氏」『御家人制の研究』吉川弘文館、一九八一)。つまり、宇多源氏の血統をひく近江源氏が在地の土豪を系図上で編成してしまったということになる。
 これに対して、散位源行真申詞記は、「字名新六郎友員」という近江国の武士の殺害容疑事件に関わって、検非違使が友員の叔父の行真を尋問した調書として著名なものである。ここに登場する人物の親子姻戚関係に着目して書き出してみると、『尊卑分脈』と共通する人物が登場しているのがわかる。両者をくらべると、文字はちがうものの、訓読みでは同じになるものがあるのである(「行真=行実=ゆきざね」「道正=道政=みちまさ」「守真=守実=もりざね」「行正=行方=ゆきまさ」)。日本史の史料では、文書史料と系図史料で名前や親族関係が対応し、系図史料の信憑性が確認できることはしばしばあるが、これだけぴったりと当たるのはやはり珍しい。
 しかも興味深いのは、行真が友員を殺害していないことを弁解する中で、自分は藤原忠実を主人とし、四人の息子のうち、長男は死去したが、次男は左大臣(源有仁)、三男は佐渡国司、四男は源為義を主人としていると、家族の主人筋を誇らしげに語っていることである。これだけの主人筋をもつ行真が武士の世界では相当の著名人であったことは疑いない。『尊卑分脈』が、ここで語られている血統と付合することは、系譜情報が事実を反映しており、それが主人筋をふくめて、相互に確認されることによって系図が形成されていった事情をよく示している。たとえば四男の行正は、陸奥判官源為義(頼朝の祖父)が、佐々木庄を訪問した際に、行真に対して「名簿」を提出して家礼となれといわれたのに対して、自分は主人持ちの身であるからといって代わりに進めたものであると説明されている。
 こういう状況をみると、名簿奉呈などの主従関係の設定にあたって、名簿を管理する侍所が一族関係をふくめて記録していったったことは確実ではないだろうか。もちろん、それは最初から文字化された訳ではないだろう。しかし、様々な事件や世代の交代の中で、主人の側のおそらく侍所などの諸機関との関係において、記憶の文字化、系図化が進展したであろう。保元・平治の乱から一一八〇年代内乱(治承寿永内乱)へという状況の中で軍功と忠勲が問題になった以上、系図化は意外と早く進展したのではないだろうか。この時代を描いた軍記物語において、たとえば義経が「諸家の系図」をみて自分の素性を知ったとか(『平治物語』)、大和国奥郡の源氏、宇野親治が「身不肖に候へ共、其如形系図なきにしも候はず」(『保元物語』)などと系図が登場するのも不思議ではないだろう。
 もちろん、侍の側では戦闘開始にあたっての「氏文」読みが示すように、それはすぐに「音声」となって発露するような忘却しがたい記憶に属するものであったろう。軍記物語において、この氏文読みの事例はきわめて多いが、だからといってその背後にすべて文字化された系図が存在したとは断言できない。しかし、「氏文読み」が戦闘の代表者による行為であることからすると、その行為自身の中にも、氏族系譜の文字化による管理の動きが生まれることは必然であろう。地域の武士団の惣領・族長にとっては、それは必須のことであったに違いない。
 この点で、近江源氏の佐々木秀義・定綱と、本佐々木氏の関係にもどれば、近江源氏の佐々木氏の側が「佐々木庄惣管領」=「惣領」の位置にあったことが重要な意味をもってくる。彼らにとっては、宇多源氏の系譜と在地の神官領主であった佐々貴山氏の系譜を結びつけて、一貫した系図を作りだし、自分たちの惣領の位置を確定することが重要な意味をもったに相違ない。この意味では、院政期後期から鎌倉時代初期にかけての系図の地方社会への拡大は、やはり個別の「家」をこえた惣領に表現される氏族組織の形成に対応していたということができるのである。
 現在残されている佐々木系図(『続群書類従』系図部二八)の最後に正応五年(一三九二)の日付で、「諸家被定置披見当家之系図等之処、曩祖散位従五位下源朝臣経方以前之次第、無相違歟。而経方之子孫(人名省略)等、各十二人、当家人々所持本等、或有父子嫡庶之前後、或有仮名・実名之相違」という識語が書かれている。この(人名省略)部分には、前述の本佐々木氏(佐々貴氏)と佐々木氏の分岐点にいる人々が列挙されていることはいうまでもない。識語の形式からいって、この正応五年という日付を信ずることはできないが、しかし、早い段階から、系図の問題の部分に混乱があったことは事実であろう。そしてそれは惣領としての佐々木氏の困惑を表現しているということはできるだろう。佐々木氏の氏族組織にとって、この問題は鎌倉時代以降も根深く続くものだったはずである。
 そして、現在野田文書に残っている「□□奉公初日記」なる鎌倉時代のものと考えられる佐々木氏の覚書は、すでに紹介する余裕がないが、興味深いものである。この覚書は、前述したような宇多天皇以来の系譜を冒頭におき、その後に、為義・義朝・頼朝への奉仕、とくに頼朝への奉仕を延々と説いている。同じような形で、鎌倉時代以降に作成された多くの系図は、自分たちの歴史を頼朝と源家への忠節というイデオロギーにもとづいて描き出すようになるのである。
 おわりに ー「一四世紀ー系図の時代」
 以上、日本の社会における系譜意識と系図のあり方にとって奈良時代から鎌倉時代初期までの時期はきわめて大きな意味をもったということができる。天皇を中心としてすべての人々をおおうような網状の複線的な系図に表現される系譜意識が、この時代に一般化したのである。以前述べたように、このような氏族的な編成は支配層のみの問題でもなく、地域社会にまで深く食い込んでいたことも注意しておきたい点である(前掲「日本中世の諸身分と王権」)。
 私は、今後、保元平治の内乱から一一八〇年代内乱にいたる政治的・軍事的過程を、このような側面から検討することが必要であると考えている。その場合、かって青山幹哉が述べたように、鎌倉幕府も「『源氏』カリスマとでも称すべき氏族カリスマ」をイデオロギー的根拠とし、国家体制との接着点を有していたことを確認することが出発点となるであろう(青山「王朝官職からみる鎌倉幕府の秩序」『年報中世史研究』一〇号、一九八八)。ここでも「ウヂ」は、古代以来の「名負の氏」と同様、武士という職能奉仕を表現しており、将軍は氏長者であると同時に「関東」という地域の惣領・棟梁であることを意味する「関東長者」の地位にいたのである(保立「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」『国立歴史民俗博物館研究報告』三九集。一九九二)。
 従来、一般には、鎌倉幕府の成立をもって「封建制」と理解する見解が一般的であったが、しかし、日本国惣地頭源頼朝の下に統括される御家人=惣領の組織が氏族組織の本質をもっていたことは前記の通りである。それ故に、この側面では、ここに成立した関係は、むしろ氏族的な諸関係と軍事的関係が二重化したような関係であったということになる。鎌倉時代には、地頭御家人の身分がしばしば「品秩」という用語で表現されるが、『沙汰未練書』が「本秩トハ、地頭御家人の先祖の俗姓なり」としているように、それは「俗姓」=系譜の如何ということであったのである。
 もちろん、このような連続性の面のみでなく、変化の側面も十分に考慮されなければならないことはいうまでもない。実際に、平安時代末期の社会変化、そしてそれに対応する系譜意識や系図のあり方の変化はきわめて大きい。支配層の中枢が複数氏族化したことは天皇制王権の国家的な位置を半ば形式化することになったし、貴族社会における「一門」や地域の武士の「惣領」は、氏族組織ではあっても、従来とは異なる新しい「ウヂ」であるといってよい。とくにこの武士の新しい氏族組織が、その開発地名称を由来とする「字」「名字」という、従来の氏とは本質的に異なる系譜意識をもたらしたことの意味はけっして軽いものではない。
 しかし、氏族組織が、奈良時代以来の形式を離れるのは、やはり南北朝内乱を待たなければならなかったというのが事実であろう。この時代を経過することによって、日本国家は未開時代以来の天皇制王権を「旧王」の位置に相対化し、社会の本格的な近世化の時期に入ったのである。
 私は、網野善彦がこの時代を「系図の時代」と呼ぶほどに、一四世紀、『尊卑分脈』を代表とし、その他、武士系図をふくむ大量の系図が作成されたのは、それ以前の氏族的権威を歴史として相対化する営為と評価できると考えている。この時代に作られた大量の系図は、その意味では九世紀における『新撰姓氏録』に照応するものであったということができるだろう。『尊卑分脈』を編纂した洞院公定が、南北朝内乱において、両朝と連絡を保ち、両天秤をかけるような生き方をしながら、長大な系譜史料を編纂したことの意味も、このような点から理解できるのかもしれない。彼にとって問題なのは、現実の王権であると同時に、その過去につらなる系図と系譜の歴史性であったのであろう。
 さて、このような系譜意識の捉え直しと、それにともなう系図史料の再編成は日本の歴史において、何度か行われたが、『尊卑分脈』の次ぎに来るのが、江戸幕府がおこなった系図編纂、『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』の編纂事業であり、さらにその次ぎに来たのが「封建の制」であるとして復古的にくつがえした明治政府の「イエ制度」導入にあったことはいうまでもない。現代の歴史家は、『新撰姓氏録』ー『尊卑分脈』ー『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』ー明治イエ制度に表現されたすべての系譜意識を相対化し、歴史に由来するものをすべて歴史に戻す作業に取り組まなければならないのである。
 私は、最後に、このような仕事が、事柄の性格上、東アジアの歴史家相互の共同と協力を必要としていることを述べたいと思う。これは日本の系譜意識や「氏姓制度」の基本部分が東アジア文明から移植されたものであり、そのコンテキストの中ではじめて理解可能になることによっているのはいうまでもない。また日本の歴史家としては、韓国に対する軍事的・植民地的支配において、明治の「イエ」制度が韓国国民を「天皇を中心とする国体の本義に徹せしめる趣旨の下に」(「朝鮮総督」南次郎「朝鮮も一生懸命だ」『キング』一九四〇年一〇月号)に強行された「創氏改名」なる政策を想起せざるをえない(水野直樹『創氏改名』岩波新書)。それは、それ自身野蛮な行動であるという以上に、東アジア文明に対する無知を背景としていた。その意味でも、過去の系譜意識を歴史的に相対化し、現代日本社会の日常性にねづいたイエ意識を批判することと、東アジア的視野を確保することは同じことであるはずなのである。
 そして、私は、このような東アジアにおける系譜研究を各国の研究者の協調と共同の下で急速に進展させ、歴史事実に依拠する圧倒的な説得性を確保するためには、前述のような系譜史料の定義の拡大とそれに対応する全面的な情報学的技術の導入が必要であろうと考える。つまり、冒頭にふれた飯沼論文は、「系譜史料」の定義を「系譜を探ることができるあらゆる史料」としている。飯沼は「系図・家譜・由緒書」という系譜の記録を目的として作成された狭い意味での系図史料のみでなく、「姓名や名」それ自身、そして「祖先祭祀、墓、形質人類学で扱う人間の骨」などまでをも広い意味での系譜史料としたのである。
 これまで系譜史料はもっぱら記録史料を中心にとらえられていたが、そうではなく、それ自身として血縁・系譜の記録を目的としたものでない古文書などの諸史料、あるいは花押のような史料の部分表現を系譜史料として扱っていくということになる。日本史研究においては、よく知られているように佐藤進一が、従来はもっぱら個人・組織間の意思伝達を表現するものと定義されていた「文書」の中に、必ずしも人と人の意思関係を表現するのではない記録史料・叙述史料に類するものを入れるべき場合があるとした。それとはある意味で逆の方向において、本来、記録・叙述史料を中心とする系譜史料の中に、必要な場合、意識的に記録・叙述を目的としたのではない「文書」などを入れてしまおうというのが、飯沼の提言ということになるであろう。
 私は、これは今後の系譜史料研究においてきわめて大きな意味をもった提言であると考える。つまり、歴史史料はつねに何らかの意味において個人史史料である。そしてそれはそこには何らかの意味での系譜意識が反映されていることを意味する。しかも、そこでは系譜を意識的に述べようとしたものでないだけに客観的な系譜事実を反映されている。こうして史料を個人史史料ととらえ、さらにその中に無意識的に表現された系譜意識を摘出していくということが系譜史料研究にとって大きな意味をもつことは明かであろう。
 そして、それは現実に存在する史料の大量性、複雑性からいっても、また共同的研究の国際的体制が要求する諸問題からいっても、系譜史料、個人史史料の情報学的なデータベース化を必要としているのではないだろうか。そこで東アジア各国の情報学研究者と連携と協力が前提となることもいうまでもない。史料編纂所では、現在、情報学研究者との協力の下に、このような研究方向を進めるための議論を行っている。その中で、『尊卑分脈』などをデータベース化し、さらに系譜・人名の史料分析のために必須なオントロジーシステムを実現したいと考えているところである。