平安時代もまずい。山城時代にしよう。
平安時代という時代呼称はどう考えてもまずい。奈良時代と対比して山城時代にするのがいいのではないかと考えている。
平安時代という歴史用語がいつどのように一般化したのかを調査してみる必要があるが、桓武による「平安遷都」の時の希望の歌に「平安」とあるのをそのままとった訳で、これはその時代の主観的希望にもとづいて時代名を命名するという学術的には最悪の方法である。人の客観的な姿をその自称から分析することはできないように、時代の主観によって時代の客観的な歴史像を描くことはできない。
たしかに、「平安時代」の「王権」は、王統間の軍事闘争が「保元の乱」までなかったという点では「平安」なのではある。しかし王権内部の矛盾が一貫して政治史を動かしてきたこと、そしてそれが徐々に確実に強化されてきたことを、この時代呼称はまったく曖昧にしてしまう。「平安」時代のどこが平安なのか、「平安京」のどこが平安なのかというのが歴史家の常識的な実態認識であろうと思う。この言葉に流されて、疑問を抱かないのは、実際上は、歴史的無知の表現でしかないのである。
つまり、平安時代史における王権内部の矛盾はその前期においては兄弟間矛盾という形態をとり、それが後期においては父子間矛盾にまで展開してしまう。王権内部の兄弟間矛盾はまだ調停可能であるが、父子間矛盾というのはどういう場合でも深刻になる。兄弟間矛盾には摂関による調停が対応し、父子間矛盾は院による「専制」によって処理されるというのが、『平安王朝』で提出した私説である。平安時代の政治史は王権内部の矛盾の法則的な強烈化によっていろどられている(なお、小著『平安王朝』の題名は編集者がつけてくれたものだが、これは読んでいただければわかるように、一種の逆説的な表現のつもり)。
この「平安時代」という言葉は、あまりに日本の歴史常識にしみついていて、すぐに解消できるとは思えない。しかし、いつまでも桓武の主観的な希望に一般の歴史意識のみでなく歴史学がとらわれていてよいとは思わない。
それではこの用語をどうするかだが、問題が通史認識の全体をどうするかに関わってくるので容易な問題ではない。つまり、それは「平安時代」に先行する「奈良時代」をどういう意味で「奈良時代」というかということに関わってくる。そして、それはその前の「白鳳時代」とか「飛鳥時代」という言葉をどうするかに関わってきて、(私などには)きわめて難しい問題となるのである。
ただ、若干の私見だけを書いておくと、私は昨年出版した『中世の国土高権と天皇・武家』の序論で、8世紀から13世紀初頭(承久の乱まで)を王朝国家、それ以降を武臣国家としたらいいという試論をだしている。これは8世紀以降を王朝時代、13世紀初期以降を武臣時代という形で大区分してしまおうという意見である。この王朝時代というものをどう考えるかといえば、私見では、これは広い意味での「西国国家」であると考えている。
西国・東国矛盾が日本の国家史における国家形態転換のもっとも重要な導因となったという網野さんの説に私は賛成なのであるが、より長期的な視点でいえば、西国国家という意味では、この時代まで邪馬台国以来の伝統が続いているということである。つまり、『かぐや姫と王権神話』を執筆するなかで、私は、邪馬台国を西国国家、すなわち、筑紫(宗像)→出雲→大和国を含む広域国家であったと考えるようになった。その点では村井康彦『出雲と大和』に賛同する。そして、私は、直木孝次郎・岡田精司両氏の「河内王朝論」が正しいという仮説的立場で勉強してきたので、邪馬台国→河内王朝という移行をどう考えるか、そしてその後を、どのように奈良時代につなげていくかというのが問題であるということになる。こういう視野で「白鳳時代」とか「飛鳥時代」という時代範疇を考え、その延長で「奈良時代」という時代範疇の意義を確定していきたいと思う(ただ、これはまだしばらく定見をうることはできないだろうと思う)。
しかし、以上は、当面、定見をもつことはできないので問題を戻すと、ともかく、西国国家としての奈良王朝は、桓武段階で、西国の中央部に拠点をうつしたというように考えている。つまり、山城への拠点移動である。普通、桓武の遷都構想は、長岡京遷都→平安遷都という形で段階的に考えられているが、これは大和国から山城国への遷都という形で全体として整理できると思う。桓武は祖の天智の近江京ー難波京枢軸を山城国遷都という形で実現したのである。
私は、このように考えるので、長岡遷都後を一括して「山城時代」としていいのではないかと考えるのである。おそらく容易に賛同はえられず、顰蹙を買うであろうが、まずはこういう意味で、時代名称を「平安時代」ではなく、「山城時代」という用語を採用しては如何かと思う。ともかく、平安時代という歴史用語は「日本人」の歴史知識のオブスキュランティズム、曖昧主義を象徴するような言葉であって、私説の対案が採用可能かどうかを別として、この言葉への疑念を養うことができるかどうかは、歴史像の刷新における試金石のような位置があると思う。
この時代呼称のメリットは、第一に長岡京と平安京を連続的に捉え、政治史の大区分を長岡京遷都で区切ってしまうことそれ自体である。歴史教育では、長岡京遷都→平安遷都を区別して教えるのが普通であるが、これは長岡京遷都に重点をおいて解説した方が実態に近くなると思う。
これは政治史的には、ようするに桓武による弟殺し(早良=崇道天皇処断)を山城時代史のトップにおくことであり、これは山城時代の終末期が、後白川による弟殺し(崇徳天皇の処断)によって切っておとされることに対応するということがきわめて明瞭になる。これは『平安王朝』で述べたことであるが、この時代は天皇による二つの弟殺しによって始まりと終末を画期づけられる時代なのである。「崇道」「崇徳」という二人の強力な天皇怨霊による大規模な政治危機をこれによって明瞭に認識できることである。そもそも教科書には桓武の弟殺しがふれられないが、このタブーがそもそも、どうしようもない無駄であって、間違った歴史イメージを振りまく根底にある。崇道・崇徳の対応関係をしらずにいては平安時代史は闇の中である。
第二のメリットは、より実体的な問題である。つまり、「平安時代」という呼称は「平安京」というものが実態として存在したという虚偽意識を作り出してしまう。平安京というと綺麗な寝殿造り住宅と美しい貴族社会などという虚像をもつのは愚の骨頂である。少なくとも「平安京」に住む大多数の庶民にとっては、治安が悪く、危険であぶないだけでなく、汚らしく不衛生な都市であったというのが実態である。暴力と汚穢の都市であるからこそ、検非違使が治安と掃除の両方を担当しているのである。
右京左京のそろった中華的「都城」というものは、いうまでもなく、見果てぬ夢であったのであって、右京というものは実現することはなかった。右京は第一は比叡山ー賀茂ー松尾というルートの下で、丹波そして摂津につらなる領域であり、第二には北野の西京神人が活動する場であったと考える。そもそも平安京という存在は、大山崎・宇治・鳥羽・伏見・大江山(松尾)・近江大津という首都連接の諸街区、洛外の諸街区と左京の町場の連接関係を実態としていたのであって、それが山城盆地という盆地地形によって守られるという構造であったのである。
日本の都城に城壁がないという特徴をどう考えるかは戸田芳実が問題提起をしているが、これは盆地都市であると考えればよいのだと思う。つまり、山城国遷都とは、考古学の側でいわれるようになったように、まず平城京を北西に平行移動して長岡京を作り、さらにそれを東北に平行移動したものと処理した方がよいということである。これは奈良盆地から山城盆地への移動なのである。中国のような平原国家とは日本列島の地形条件はまったく異なっている。
『平安王朝』で論じたように、そもそも王朝国家は、上層貴族の中央都市居住を義務化したが、八九五年(寛平七)の法は、五位以上の王族や貴族の居住と行動の範囲を「東は会坂関、南は山崎・与渡の辺り、西は摂津・丹波との境、北は大兄山」という範囲、つまり、京都盆地から賀茂河・桂河・淀川などの合流地域にいたる近畿地方中枢の首都圏というべき範囲に限ったのである。まさに山城国家である。それは近江ー山城ー摂津というライン上に拠点をもつ国家であったと思う(平家の福原京はその延長にできた鬼子)。
八世紀までの支配階級は基本的には畿内各地に本来の居住地をもつ豪族層であったが、寛平国制改革は、そのようなあり方を法的にも清算し、平安時代の支配層は都市貴族でなければならないとしたのであるが、彼らの生活様式は山城国に展開する諸街区の網の目によって支えられていた。
12世紀内戦期における武闘の決着がつねに、首都近郊(勢多や宇治)になるのは、その時代が山城時代の終末に当たることと見事に対応している。
繰り返すが山城時代は本質的には西国国家であろうと思う。この時代までは王朝時代=西国国家と考えている。この西国国家の時代には、時代名に地名を使うのは十分な理由があるのである。
しかし、鎌倉期、全国支配が軍事化するなかで、国家形態は西国国家とはいえなくなる。全国各地に広域権力が展開し、それを武臣が統括する時代になる。この時代は支配的な武臣=武王の名前で時代を区切るのが適当である。北条は東に拠点をおいて西を支配し、足利は東から出ながら、西を拠点として全国を支配する。
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