稲作文化の侵入、自炊生活のはじまり

 今さらながら思うのだけれど、自炊の炊の字は「米を炊く」の「炊」だ。もっとも、広辞苑などをひくと「たく」は「焚く」の字の方がメーンになっており、意味的にはもうちょっと広い。米に限る場合は「炊ぐ」(かしぐ)という言葉を使うようだが、最近では使われないように思う。いずれにせよ、自炊といえば米を炊くことが第一に想起される。
 振り返るに、自炊生活をはじめてから八割近くはお好み焼きを食べていた。自炊ではなく、自燃生活である。しかし、炊飯器「ローエングリンとプリサイスマシーン、あるいは栄光の阪神マイル号」を買ったことにより、私の食文化に大きな変革が訪れることになった。これは、あまりにも大きな変化である。米ばかり食べている日本をイタリアが占領して、今日からパスタを食え、というようなものである。自分で書いておいていまいち想像できないが。
 とにもかくにも、とりあえず問題になるのがおかずだ。お好み焼きはそれのみで主食とおかずを内包する完全食だ。小麦粉、卵、野菜、肉。これだけで事足りるのだ。さすがに朝と昼はお好み焼きではなかったけれど、毎晩お好み焼きでも栄養の偏りは感じなかった。大きく体調を崩したのも、ノロウイルスにやられたと思しき一回のみだ。それ以外は一人暮らし以前よりも好調になったような気もする。もちろん、諸要因あってのことだけれど、お好み焼きがマイナスになったわけではないのは確かだ。
 しかし、米主体の食事となると、おかずが必要である。私は本来ご飯を偏愛する者なので、味覚的な満足だけを問題にするならば、炊きたてのご飯に塩だけふって幾らでも食える。しかし、哀れな肉体のことを考えれば、自ずからおかずが必要となるのは当然だ。しかし、ご飯のおかずとは何であろう。お好み焼きの具の変化と比べものにならない広がりを持っている。毎晩、そう、毎晩私はその広がりと対峙し、克服しなければいけない。無駄な金を使わず、栄養を摂取できる方法を考えなければならない。これは大変なことだ。しかもそれは、私が料理を嫌うのではなく、基本的に好いているところから来る大変さなのだからたちが悪い。
 さらには、おかずばかりが問題になるのではない。ご飯そのものへの加工への意欲だって湧いてくる。意外なものを一緒に炊き込んでみるアイディアなどに気を配らなければならない。「ナメタケの炊き込みご飯」(http://spica.tdiary.net/20050411.html#p01)などという記事を見たら、今まではちょっと味を想像するだけで終えていたのを、きちんとメモするようにしなくてはならない。これは大きなパースペクティヴの変化だ。汽車からのパースペクティヴがあって、はじめてターナーはあの風景画を描けた。私は炊飯器を得てナメタケの炊き込みご飯の存在に気がつくのである。私の汽車である「ローエン以下略」がどこへ走っていくのか知らないが。
 とはいえ、当面の問題は白米をきちんと炊きあげることである。いくら全自動マイコン的な炊飯器であっても、私の好みを反映する機能は付いていない。私はかための米が好きだ。やわらかすぎる米は、全食物の中の最も忌避すべき一群に加えられているくらいだ。かといって、かたすぎてガビガビのご飯も歓迎せざる存在には違いない。季節ごとにも変わるであろう水加減を極めてこそ、次の段階へと登れるのである。今のところ三回の炊飯行為を行い、出来上がりの満足度は一勝一敗一分けだ。私のジャッジは相当に厳しい。
 私が炊飯器を買ったというと、私のお好み焼きの生活を知る人は口を揃えて「そちらの方がよろしい」と言った。私は疑問に思う。はたしてそうなのか? かつて東北を襲った飢餓と貧困は、稲作文化の強制が引き起こしたものであった。そんなことを、司馬遼太郎は書いていた。イネはそもそも南方の植物だ。我々は米を信じすぎてはいないか? お好み焼きを主食とするのが明確な幸福への道ではないと、誰が言えるのか?