人は一人でも狂えるのか? 二人ならどうか? 三人だといけるか?

寄稿いたしました。

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ちょっと前にネットで話題になっていた「45歳独身男性狂う説」について、45歳のおれが自分の例で考えてみたものです。よろしければお読み下さい。

 

……で、最後の方に「書いていて気付いた」みたいなことを書いていて、それは本当なんですが、そのせいで書きたかったことを一つ書き忘れたので、ここに書きます。

 

人は一人でも狂えるのか?

人は一人でも狂えるのか? これです。ここからは思考実験というか、極端なケースでの話です。だから、ここでいう「一人」は、「あの人は天涯孤独で社会とつながりがないよね」とかいう「一人」ではなく、「真に一人」という仮定の存在です。

 

して、人が真に一人の場合、「狂う」ことはありうるのか? 他者が不在の状況で、なにが狂気でなにが狂気ではないかという基準は存在しえない。観察者がいなくては、正気も狂気もありえない。

 

しかしながら、真に一人の人間に過去の記憶や知識というものが存在したらどうだろう。過去の自分と照らし合わせて判断することは可能かもしれない。とはいえ、壊れたOSが自己診断するようなもので、果たしてその状況で正気や狂気を判断したところで、正しいといえるのかどうか。そしてまた、それを判定するものもいない。

 

人間が自分自身を対象化できる存在であったとしても、一人の世界では狂いようがないもののように思える。

 

二人なら狂えるのか?

そこで、観察者を一人用意しよう。いや、あくまで対等なもう一人の人間だ。これによって狂気は誕生するのだろうか。

 

どうも、しなような気がする。仮に神の視点から見て(この場合、仮であっても神、あるいは科学の視点を想定しえるのかどうか検討の余地はあるが)、どちらかが正気で、どちらかが狂気である場合があったとしても、互いに「おまえは狂っている」と言い合って、その判断を下すものがいない。

 

もちろん、感応精神病(「フォリ・ア・ドゥ(folie à deux)」)みたいな場合もある。そうなったら、互いに正気と認め合って、狂気は発生しない。神の視点から見て二人とも正気であったとしても、狂気は発生しない。

 

結局、二人でもだめなんじゃないだろうか。一人ではありえなかった世界ができたが、それが閉じている限り狂うことはできない。お互いに過去の記憶や知識があったとしても、それを保証するものはなにもない。

 

三人なら狂えるのか?

では、さらに一人足してみよう。三人だ。「社会は三人から始まる」と言われる。「狂気」とは社会が規定するものと考えるならば、ここに狂気が始まる可能性はある。

 

二対一の構図ができあがればどうだろう。そこでは「一」が狂っていると判断されうる。ここに狂気の生まれる下地が見えた。客観的に二つのものを観察できるものがいる。そこで正気と狂気の判断が生まれる。

 

とはいえ、三人全員が「フォリ・ア・トロワ(folie à trois)」で狂っている場合もあるかもしれないし、三者三様にそっぽを向いて全く違うことを主張しているパターンもある。

 

三人には狂気を定める最低限の要素はありそうだ。だが、それだけではまだ足りない。

 

社会なら狂気を作れるのか?

さて、三人から四人、四人から五人……と足していったらどうなるのか。「三人から社会が始まる」といったが、現実的な社会は何人からなのだろう。よくわからない。ただ、たとえば百人でもいれば、あくまでその百人の閉じた世界のなかで正気と狂気はあるていどの客観性をもって判断されうるような感じはある。百人が百家争鳴でまったくバラバラのものを見て、考えているというのは想像しにくい。むろん、この人数なら二人、三人の、その者たちだけの間での正気を抱いた少数カルトも生まれるかもしれない。

 

そして、その先には十万人、百万人、一千万人の社会がある。ここまでくると、狂気はほぼ明確な形で指し示されることになるだろう。無論、「狂気」の定義が時代背景、たとえば宗教観や医学のレベルなどによって変化していく。とはいえ、「狂気」は社会が作る。社会が作るものにすぎない。そして、一千万人の社会で九百九十九万九千九百九十九人が狂っていると、べつの一千万人の社会や、のちの歴史から指摘されることもありうるだろう。

 

というわけで……なんだろう? その先になにか言いたいことがあるわけではない。自分のなかの確認作業みたいなものだ。この件についてもっと知識をえるためには、なにか本を読まなくてはならないだろう。

 

 

こんな難しいの読めるわけねえだろ。

 

以上。

 

関係ないけど脳みそです、羊の

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