長崎『革命の哲学』:左翼過激派運動の思想を、過去のものとしつつ思想史的にふりかえろうとするまじめな本。

革命の哲学――1968叛乱への胎動

革命の哲学――1968叛乱への胎動

60年代安保から70年代に至る学生運動というのは、人によっては大仰にまつりあげてしまうし、人によってはまったく笑止と切り捨てる。自分がその末席(あるいは上席でもいいけど)に名を連ねていただけで、実践闘争の荒波にもまれた革命の闘士気取りになっちゃってるお調子者も多い一方で、その挫折をあまりに真摯に受け止めすぎて、こもってしまう人もいる。もちろん、実際にはそのお調子者ほど「頼むから黙ってて」的な泡沫で、黙っている人ほどもう少しあの時代の話をしてほしい人々だったりする、というのもいろんな場面で見られることではある。そしてそのお調子者どもは、最近のジャズミン動乱だの反原発デモだので、ついに自分の時代がきたと思ってツイッターで駄弁を弄したりしている。

本書は、そのどっちにもならずに、当時の学生その他闘争を過去のものであり歴史的な興味しかないものとしつつ、そうした闘争や運動の背景にあった思想をたどりなおしている。そして純粋な思想史として見るのではなく、それが当時の自分たちに与えた影響をベースに記述することで、当時のある一派が何を考えていたかについても、ある程度は明らかにできていると思う。

それが「革命の哲学」と言うべきものなのか、ぼくはわからない。当時の人々のどこまでにこれが共有されていたのかも、知るよしもない。そしてまた、この「哲学」をいまのぼくたちが読む意義がどこまであるのか、といわれれば、あまりないかもしれない。が、どうだろう。あるのかもしれない。

この本の一つの核は、ルカーチの議論であり、そして何よりも「プロレタリアート」って何、という話。マルクス主義系の本を読むと、プロレタリアートというのがずいぶんえらいものとして出てくるんだが、それって具体的にだれのことなのよ、というのがさっぱりわからない。低賃金工場労働者のことだったり、何だか心の持ちようだったり。そしてそれは長崎も本書できちんと指摘していて、プロレタリアのスペクトル分析なるものを第九章でやっている。彼はそこで、「これぞ正しいプロレタリアート像!」というのをやるわけじゃない。ただ、そのばらつきは、ある種の革命思想のあいまいなところの吸収装置ともなっていて、一方でそれがまたほころびのもとでもあったことを指摘する。それにともない「理論と実践」の一致とか疎外論とかも、一歩下がった広い視点で見直されている。そしてそこから出てくるのは、最終的には当時の学生運動のつらさであり、最終的にはその(明示的ではないにしても)批判ではある。

いまや松尾や小熊などマルクス主義の旗を振ったり学生運動の分析をしたりする論者がまた出てきているけれど、本書を読むとかれらのアプローチは一方的、一面的かもしれないという認識も得られる。そういう認識をしてどうなる、というのはやはりあるんだけれど。それが当時の活動の当事者から、ある程度冷静な形で出てきてくれたというのは、歓迎すべきことだろう。朝日新聞の紙面で紹介するような本ではないと思うけれど、でも最終章くらい立ち読みしても、バチは当たらないんじゃないか。



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