(2008/06/16, 17 日に 注 等細かい加筆, 22日にコメントなど加筆。)
山形浩生
要約:松尾『はだかの王様の経済学』は、解説されている疎外論がひがみ屋の責任転嫁論でしかないうえ、それを根拠づける「本来の姿」だの「実感」だのがあまりに恣意的で確認しようがなく、まったく使えない。そして「みんなで決め」ればすべてうまく行くというお花畑な発想は悪質なニュースピークによる詐欺であるばかりか、最後にはポル・ポトまがいの抑圧思想に直結していて戦慄させられる。
松尾筺『はだかの王様の経済学』をもらったんだが、会社で開いてほんの数ページ、「はじめに」を読んでも、やれやれダメな本だなとしか思えなかった。ふだんならそのまま放り出してアマゾンで売り払うところだけれど、今回は折悪しく会社の研修を受けさせられていて、非常に退屈でもあったことだし、そのまま読み進んだのであることだよ。
が……読み進むうちにぼくは戦慄したね。これはすごい本だ。最初のダメさ加減からはまったく想像もつかないほどの恐ろしい本だ。
残念ながら、それは本書がダメな本じゃないという意味ではない。ダメさ加減は相変わらずで、勉強になるからみんなも読みましょうとお薦めできる本ではまったくない。
この本は、マルクス様の疎外論を使って現実経済の各種の現象を説明しよう、そして今後の展望を多少示そうとした本だ。マルクス様はやっぱりえらくていろんな事象の本質を的確に見抜いていてそれを説明する見事な理論を構築されており、これまでのマルクス像はソ連の共産党が歪めたまちがった解釈によるもので(よって社会主義の崩壊はマルクス様の理論の誤りを示すものではないどころか、むしろその無謬性を示すものである)バカな近代経済学などは今頃やっとゲーム理論によってマルクス様の疎外論の足元にたどりついただけの取るに足らぬヘナチョコ理論である、というようなことを言おうとしている (ちょっと誇張あり)。それが全体に説得力皆無であるというところが、本書のダメダメなところだ。本書は本来やろうとした目的を果たせていない。
だが本書のおそろしさは、そのダメな部分と無関係ではないんだけれど、でもそれとは別に存在している。本書は、ポル・ポトの、文革の、そして無数の(原始以来の)共産主義がもたらした、無数の弾圧と抑圧の根拠となってきた恐ろしい思考が、まったく無防備に立ち上がってくる瞬間を記録した希有な本なのだ。
本稿では、研修時間の許す限り、この本のだめなところと、そしてそこから派生する恐ろしい思考を説明しよう。あ、そうだ。もちろん本稿には批判する意図はなく、山形の思ったことをなんとなーく書き連ねただけのものであり、断言しているように見えるところも実は「そんな気がしなくもないがひょっとしたらかんちがいかもしれない」というのを簡略化しただけの記述であり、もちろんそこには山形の誤解やまちがいも多々含まれているはずであり、それについては松尾筺氏をはじめとするみなさまのご寛容を乞う次第である。
「はじめに」で松尾は、最近の景気回復について語るところから始まる。景気が回復しているはずなのに、生活が改善している感じがしない、働き過ぎとかがある(でもどんだけ?)ウダウダ、と述べたあげくに、かれはこう語るのだ。
二〇〇七年までの景気回復は、企業の設備投資と輸出の拡大に主導されて起こっていたことでした。家計最終消費支出はほとんど伸びていません。(中略)つまり、景気回復だとか言って、私たちはたくさん働くようになったのですが、消費財の生産は増えていない。結局、増えた分の労働は、自分の身に帰ってくる財を作っているわけでは全然なく、設備投資する企業のために機械や工場を造ってあげるのに働いていることになるわけですね。(中略)
本来私たちは、豊かで楽しいくらしをするために働いているはずです。機械や工場は元来そのための手段にすぎなかったはずです。(中略)ところが今は、そんなものをふくらませることがいつの間にか自己目的になってしまって、人間のくらしがその手段として犠牲にさせられているのです。今後このまま景気が拡大していったならば、あいかわらず生身の人間のほうはしんどいしんどいとハアハア言ってこき使われる一方で、工場も、オフィスも、私たちの自由にコントロールできないものばかりが、ますます立派になって膨張していくでしょう。(pp. v-vi)
この下りではっきりわかること。この人、設備投資って何だかわかってないんだ。少しでもまともな仕事をやったことがある人ならすぐわかるけど、最終的な財の生産につながらずにひたすら設備投資だけが「自己目的」として増えるなんてことがあるわけないだろ! 設備ってたいがい、何か作るためのものなんだから。
消費支出がのびていないというけど、設備投資は当然ながら同じ財を安く作るのにだって必要だ。さらに設備投資は、何よりその職場で働く人間に影響するものだ。オフィスだって、もう少し広いところに移れば仕事はしやすくなる。職場のエアコンの有無でみんなの寿命は一年以上のびているだろう。コピー機やプリンタを一台足してくれるだけでどんなに助かるか。下水管のスチーム洗浄装置が入って、いかに作業が人間的になったことか。設備投資というのは、そういうのすべて含んだ話なのだ。それで給料は上がらないかもしれない。でもそれは「豊かで楽しい暮らし」に貢献するものだ。だって、仕事だって暮らしのうちなんだから。楽しく快適に仕事ができることが、ぼくたちの福祉に貢献していないとは言わせない。設備投資の多くは、下々の労働者による「ブチョー、最近コピーの調子悪いから買い換えてくださいよー」とか「管にこびりついたウンコをデッキブラシでこするのはあまりにきついっす」という具体的なニーズを反映するものとして行われる。
松尾はこうした設備投資にかかわる具体的な職場を知らず、「機械/設備は労働を置きかえるものであり、失業を生んで人間を疎外するものである」という労組的マルクス主義じみた思いこみをだらしなく垂れ流しているだけだ。
そして設備投資に限らず「今後このまま景気が拡大していったならば、あいかわらず生身の人間のほうはしんどいしんどいとハアハア言ってこき使われる」というへんてこな認識。景気が少し回復したおかげで仕事もとりやすくなったし、営業会議で本部長の眉間のしわもずいぶん改善されたんだぞ。もちろん、世の中完璧じゃない。松尾があげつらっているような過労の場面もある。でも日本のものすごく多くの場面で、人々は以前より楽に働けるようになったし、ストレスも減った。松尾は、「まわりから『勝ち組』と言われたり、何とか『正社員』と呼ばれる身分になれていたりする人たちも、みんな余裕がなくて、朝から晩までこき使われています」(p. iii) と言うけど、何を根拠にこんなことを。だいたい、松尾がそうやってバカにする「正社員」と呼ばれる身分になれた人が、この景気回復のおかげでどれだけ増えたと思ってるんだろう。
そして以下の認識:
ネットカフェで夜露をしのぐ若者も、午前帰宅続きで過労死寸前の正社員も、私たちはみんな、人間ではないもののために奉仕しているのです。私たちが奉仕している相手は、物理的実体ですらありません。間違いなく人間が作りだしたもののはずなのに、しかし、誰も合意しておらず、誰の陰謀でもなく、いっさいの人間のコントロールを離れて勝手に運動し続ける「法則」というもののために奉仕しているのです。(p. vi)
消費が増えずに設備投資が増えたということを根拠に、松尾は上記のような話をするんだが……
だれのためでもない設備投資なんてものがないように、相手のない取引も、相手のない仕事も存在しない。もちろん、それが見えにくい場合はある。巨大な設備の一工程だけを担当していると、お客さんの顔は見えないかもしれない。でも(ネットカフェで夜露をしのぐ若者は、たぶん何にも奉仕していないけど)それ以外はみんな人間に奉仕している。このぼくだってお客さんに奉仕している。あらゆるミクロな取引は、ちゃんと相手があってその人間に奉仕している。その事実は決して忘れてはいけない。
だいたい具体的に、ぼくが奉仕しているその「法則」とやらって何? 財務の分析をするときに、ある業種では人件費は総売上の 10% くらいという目安があって、経営者もそれを一つの指標として経営をあれこれしたりするし、ぼくもその数字をもとに予測をたてて、事業としての善し悪しが云々と論じたりする。でもそれは、結果としてそのくらいの比率になる、というだけのこと。10% という法則に人が奉仕させられているわけじゃない。さっきの「設備投資」という話も、そういう抽象的でマクロなくくりで理解したからそう見える(かもしれない)だけだ。「設備投資」とか「GDP」とか「経済成長」とかいうマクロなくくりを行うと、それ自体が勝手に運動しているように見えないこともない。数字が一人歩きするように見えることもあるんだし。でもそこで「経済成長 3%という人間のコントロールを離れた『法則』にみんな奉仕している」と考えてしまうのは、倒錯だ。
そして、ここで本書を読む上で気をつけるべきキーワードが出てくる。「コントロールできる/できない」というものだ。これはどういう意味だろうか? 人は、自分のやる設備投資はコントロールできるし、実際にしている。ただ、社会全体の設備投資水準は、自分一人がやることじゃないから、自分では完全にコントロールできないだろう。でもそれは「コントロールできない」というべきか? 完全に自分の思い通りにする、という意味ならコントロールできないかもしれない。でも、自分が自分なりの考えにしたがって設備投資水準を決めて、自分のやったこと――自分の意志――が全体の動向に(微々たるものではあれ)影響を与えているという意味では、自分のコントロールもある程度入っている。
これから見ることだけれど、松尾は本書でこの二つの意味を(おそらくは意図的に)混同してみせる。
まとめよう。松尾はどうも具体的な設備投資のイメージを持っていない(ということは、財やサービスの生産というプロセス自体を具体的には理解していない)ということが一つ。さらにかれが「自由にコントロールできない」というものは、実際にはコントロールできるものも多いし、またコントロールできないように見えるのは単にそれがマクロの事後的なアグリゲートの結果だからという場合も十分にあり得る。「コントロール」ということばを歪曲して何やら理屈を紡ごうとしてるんじゃないか? かれは誤解に基づき、ありもしない観念の抑圧を見ているんじゃないか?
そして、そのありもしない観念の抑圧を、好き勝手なところに見つけ出すための、悪質で便利な概念装置が、この本のメインテーマである「疎外」だ。
本書の題名になっている「はだかの王さま」というのは、みんな実は内心「王さまははだかだ」と思っているのに、お互いの顔色をうかがううちに、だれもそれをきちんと表現できないという状態を指している。そして表現できないために、「お互いの顔色」というどこにも実体のないものが、人々の行動を制限し、抑圧して、だれも自分の本来の状態を実現できなくなってしまう。それが疎外だ。松尾がいいたいのは、経済の多くもそういう面があるということだ。
そして、自分の中にある何らかの性質が観念として外部化されて、それが自分を抑圧されるという図式こそはフォイエルバッハ&マルクスの疎外論なんだそうな。たとえば宗教と国家の場合、それはこんな具合だ。
それぞれの場合に、人間には何か「本質」なるものが存在している。慈愛とか協力とか公共性とかだ。でも人はそれを外部の観念でしかない「神様」とか「国家」といったものに投影する。すると、投影した後に残るその人は、慈愛を持たない利己的な存在になってしまう。そしてそれが神様を見ると「ああ、おれはとてもあんなになれないダメな存在だ」と思って、抑圧されてみじめになる。あるいは国家なら、国家という公共性の権化みたいなものを想定すると、自分はまったく公共心がない私利私欲に満ちた人間のクズに思えてしまう。だから国家に抑圧されて、自分は惨めになってしまうというわけ。
なるほど、いかにもいろんな場面でこの構図は適用できそうだ。今度は労働なんかでこの構図を見てみよう。
がんばって働いて、社会にとって役にたつ仕事をしたので、20 万円くらい対価をもらえると思っていたのに、偉大な貨幣様/市場様が「おまえの労働なんて 7 万円の価値しかない!」と言うので、人はそれに抑圧されてみじめになる、というわけね。
国家、宗教、市場、仕事、そういったあらゆるものが、この構図を使うとすっきり説明できてしまう。かれは実際に、それがいかにいろんな場面で使えるかを表にしてまとめている。
では、習ったものは早速活用してみよう。この図式で分析できるものはいろいろありそうだ。たとえばこないだ、馬鹿な2ちゃんねらーが秋葉原で暴れたそうな。かれは自分がブサイクでもてないことに悩んでいた。それはこんな具合に説明できるだろう。
疎外論でアキバの通り魔も説明できる。すごい。腹が減ったぼくも、髪がのびてそろそろ床屋にいきたいな、と思っているぼくも疎外論で説明だ。
すばらしい。というわけで、確かにこの図式はいろんなことにあてはまるかもしれない。なんでもかんでもこれで説明できる。でも――それに何か意味があるだろうか? どんなものでもあてはまる、ということは何も説明できないに等しい。この疎外というのは単に「欲望」「欲求」「目標」、果ては「ちょっとでも抽象的な思考すべて」といったものを小難しく言い換えただけの代物だからだ。
もっと極端にできる。
そうか、ぼくはノートに抑圧されていたのか! だからみじめなのか! 同じ図式で、電灯も、電卓も、包丁も車もすべてぼくを疎外して抑圧していることになる。さて、あなたがそう考えたければ止めはしないけれど――何の意味があるの?
そしてこれを見るうちに、たぶんみんな思うはずのことがある。この人、いちいち抑圧されて惨めにならなくてもいいと思わない? ノートだって、いろいろ記録しておけるのはすごいけど、別にそれに抑圧されることはないわな。それを言うなら労働の例だって、ぼくは 100 円分働いたと思っていて、でも市場価値は 80 円だと言われたら、どうしてそこで「抑圧→みじめ!」とならなきゃいけないの? 思ってたのよりは少ないけど、でもまあ八割くらいの評価はされてるのか、という考え方はできないもんかね。価格での評価がすべてだと思ってしまうのは、受け手の側の偏狭な思いこみでしょ? 給料は低くても、お客さんの喜ぶ顔や社会的使命感で働いている人はたくさんいる。
宗教だって、神様はすごいかもしれないけれど、そう思った瞬間に残されたのは利己的で身勝手で惨めな虫けらのような存在たる自分だけ、というのは明らかに変だ。神様は 1,000 くらいえらいし、あたしはもちろんそれには及ばないにしても、10 くらい行ってるからなかなかのもんじゃないかしら、と得意になって「抑圧→みじめ!」にならない道だってあるだろうに。重力だってお日様だってみみずだってニンジンだって、みんなみんなぼくを抑圧している、おれを惨めにしている、と思いこみたけれれば思いこめる。でも、それって単にひがみっぽいだけでしょ。この図式は、ひがみっぽいやつが責任を外部に転嫁してウジウジするのに都合がいいだけの図式じゃないの?
それを担保するのがこの図式で出てくる「本質」というやつなんだが……それを次の節では考えよう。
ちょうど研修で、いかに付加価値の高い(つまり単価の高い)仕事をするか、なんていう話をしている。さて先日ぼくは、お義理もあって七日働いて 50 万円というセコいプロジェクトを受けた。一日 7 万円くらい。それを見て室長はものすごく怒って、山形のランクなら一日 20 万は取れる仕事をやってくれ、と文句を言われた。いやおっしゃる通り。ぼくもまったく気が進まなかったんだけど、すいませんね、去年の続き仕事なんで今年だけ断わるわけにいかないんですよ)
松尾/マルクス的疎外論の図式でいえばぼくは自分が一日 20 万円稼げるべきだと思っているのに、冷酷な市場は「おまえの働きの価値なんざ一日 7 万がいいとこだ!」という。市場がぼくを抑圧→みじめ、というわけだ。
さてこれを解決するにはどうしたらいいだろうか?
山形の仕事ぶりを知っている人ならば、ここでだれもが思うことがある。山形が一日 20 万に値すると思うのがそもそも図々しいんじゃないか、ということ。研修もまじめに受けずにこんな駄文を書いてるやつに何が期待できるもんか。そんなグウタラな山形の労働なんざしょせん一日 7 万の市場価値しかないのだ、と山形当人や室長が納得すればいい。世に言う「身の程を知れ」というやつだ。会社的には、山形を降格させればいい。おまえはしょせん、万年平研究員程度の能力しかないのだ、といって。
ところが不思議なことに、松尾の図式にはこれが出てこない。
なぜかというと、松尾の図式ではこの一日 20 万円というのは単なる願望ではない。かれによれば疎外というのは「本来の姿」、あるいは前の節の図でいえば「本質」からずれていることなのだ。
言っていることをわかりやすく理解するには、マルクスはいつも疎外されていない本来の姿と対比させて考えていると思えばいいです。つまり、人々のニーズをみんながお互いに把握し合っていて、それに基づいて社会全体で意識的に仕事を分担しあっている社会を念頭においているわけです。(p.113)
ここでの例では一日 20 万円というのは山形の本質であり本来の姿であって、もちろんそれは本来の姿である以上、定義からして正しいモノであり、山形を降格させるなどもってのほか、ということになる。
さて降格しないですむ山形としてはありがたい話なんだが、でもちゃんとプロジェクトを受注して稼いでいるぼくの同僚たちや、室の予算未達に苦しむ室長は、やってらんねーと思うだろう。かれらは当然思うはずだ。その「本来の姿」ってどうやって決まったんだ! だれが決めた? どこを見れば出ている?
松尾はそれを明示的には書かない。当然だ。そんなのわかりっこないもの。でも、それがわからないのであれば、松尾の(そしてマルクスの)理論には抽象的な概念のお遊び(それもできの悪い)以上の意味はまったくなくなってしまう。
そこで出てくるのが、ぼくに言わせれば本書の鍵となる詐術の一つだ。かれがしばしば「本来の姿」とほとんど同じ意味で使う別の表現がある。「人々の現実の生身の事情に素直に基づく自然な実感」(p.20, 強調引用者)。実感である以上、ちがうと言われても否定しようのないものだ。よって、それが高望みだなどということはあり得ない!
というわけで松尾理論の折伏を受けた山形は室長に反論する。いやいや、20 万円というのはぼくの、生身の事情に基づく自然な実感なのです。ぐうたらして仕事がとれなくても、ぼくが(自分の実感としては)いっしょーけんめー働いているという事実には変わりないので、一日 20 万円相当の稼ぎであるべきだ、と身体的実感として感じるのでございます。ボーナスはいまの倍くらいもらうべきだと実感として感じるのです。ついでに、朝はふとんから出たくないナー、とも実感するし、営業会議はめんどうくさいから出たくないとも実感しているので、善処していただければ、と。
もちろん、こんなことを言ったら室長はぼくを絞め殺すことだろう。どこだろうと(一部の左翼チックな得たいのしれない「弱者」支援団体などをのぞけば)こんな話が通るわけはない。だれが何かを本当に実感しているかどうかなんて、わかるわけないだろ! そいつが口先だけでそう言ってるんじゃないってどうしてわかる? そして本気だとしたって、単に分不相応なないものねだりだってあるだろうに。それをどう否定するの?
この本にはその説明はまったくない。「あるべき姿」をどう判断するか、「実感」なるものをどう評価判断するのか――何一つ書かれていない。だってどう考えても、それってまともな形で確認しようがないものだもん。ちなみにそれは、疎外論的にいえば「世間的にはこのくらいが最低限の生活水準だからこんなあたりだよねー」という合意ではいけないはずだ。何かそういう外的な基準を設けたらそれはもはや自分の外にあり、人を抑圧疎外しかねないおそろしい観念として暴走しかねないからだ。相場とは関係ない、内的・絶対的に決まらないと話にならないシロモノであるはずじゃないの? そしてそんなものが(最低摂取カロリー数でも使わない限り)あるわけがないでしょうに。
でも、この疎外論って、松尾の話をまともに理解する限りその「あるべき姿」だの「実感」だのがわからないとまったく成り立たないのよね。あるものが疎外がどうかは、それが「あるべき姿」からずれているかどうかで決まってくるからだ。
ちなみに現実の世界ではぼくはどうやってこの疎外を解消するか? それはもちろん降格人事……はやっぱ避けたいので、当然ながら何はともあれ、まずは努力して生産性をあげるんだろうねえ。これから営業努力をしてもっと高いプロジェクトを取ることもできる。あるいは、能率をあげて、七日かかる予定の仕事を三日であげてもいい。松尾の疎外図式の人は、抑圧されてみじめになっていじけるだけだ。そして何もかも世の中のせいにするばかり。人間のコントロールを離れた観念がぼくを抑圧するのが悪い、というわけ。でも、その分析がまずおかしいでしょう。自分で努力してその疎外を解消するってのをまず考えなさいよ。それですべては解決できないかもしれないけど、でも多少は何とかなる。が、もちろん本書にはそういう話は出てこない。だって、本質だもん。あるべき姿だもん。それは人間の努力と関係ないんだから。ついでに、こういうことを言うと「それは強者の理論だ!」とかいきりたつ人が多いんだけど。
でもそれってずいぶんムシのいい話でしょう。そしてもしそれで解決できないなら、他に解決方法ってあるの? ぼくはないと思うんだが、松尾はあるという。それがコミュニケーションなんだって。これを次の節で考える。
さて疎外があったことにしよう。人々がお互いの顔色をうかがうことで、だれもが本意でない状況が出てしまった。本来あるべき姿からはずれ、物欲しげなぜいたくではない真の正しい実感にあわない状態が続いてしまった。どうすればいいか?
松尾の答えは「話し合う」ことだ。コミュニケーションをよくして、みんなが本当の希望をちゃんと伝えあえばいい。本書で松尾は「みんなで決めよう」「みんなで決めればいい」をいとも簡単に連発してくれるのだ。ちなみに研修は次のコマに移って、まさにコミュニケーションの大切さなんてことをやっている。上司、部下との密なコミュニケーション、および顧客との密接な(だが癒着しない)コミュニケーションこそが成功の鍵、なんだって。だからコミュニケーションが重要なのは、ぼくも異論がないんだが……問題はそれをどうやるか、でしょう。でも本書は、それについて何一つまともに考えようとしない。
たとえば、市場や価格(お金)は、みんながお互いの欲望やニーズを明確に知ることができないために生まれた粗雑な手段であり、ネットやケータイによってみんながお互いに求めているものをきちんと伝えられるようになれば、もっと正確なニーズが伝えられて、結果として正しい価格水準や生産水準が実現するようになるのだ、と。
すなわち、依存関係を縮小しなくても人々が合意可能になる条件は、一九世紀では機械化がもたらした単純労働化でしたが、今日では、発達した情報通信手段でお互いにつながりあうという方法もあるのだというわけなのです。 (p.264)
世の中のニーズをお互い知らずに見込み生産することが商品生産社会の本質でした。ここから、貨幣が一人歩きしたり、市場変動に人々が振り回されたりする疎外が生じるのでした。人々のニーズに基づく注文生産の連鎖が広がっていくことは、こうした疎外もまた薄まっていくことを意味します。 (p.264)
人が価格のシグナルに頼らずに直接自分のニーズを話し合うことで、疎外が解決される、というわけね。でも人が話し合えば、本来あるべき姿が常に実現されるような価格水準やら生産水準が実現できるのか? そんなわけないだろうに (注1)。
まずさっきの例でいえば、ぼくにとっての本来あるべき稼ぎは一日 20 万円だ。それに対して、市場は 7 万円しか払えないよ、と言っている。さて、ぼくが世間と(ってだれと?)話し合うと、それを 20 万円にしてもらえるのか? そんなムシのいい話はない。
あるいは生産。「この iPod がほしい人は手をあげてくださーい」と言おう。その数だけ作ればいい、と思うかもしれない。でも、世の中そんな白黒では切れない。「なんとなくオレは iPod がほしいような気がしなくもないがなくても困るわけじゃないし、さてどうしたもんか」という状態の人はたくさんいる。一台 1 万円ならほしいけど、2 万ならいらない、一万五千円なら、雨の日で気分がブルーならいらないけれど晴れた日には欲しいような気もしなくもない今日この頃である、というような人もいる。さて、それで何台作ればいいの? 「ニーズ」というのは「いる/いらない」でデジタルに決まってるものじゃない。いろんな条件の組み合わせだ。それは注文生産では絶対に埋まらない。注文したけど見込みより高くなってしまっていやだとか、勢いで注文してあとから気が変わって後悔している人とかは必ず出てくる。注文したときのニーズはわかっても、それが実際にできてくるときのニーズまではわからない。要するにそれは、生産者側が見込み生産するかわりに、注文者側が見込み注文させられるだけの話だ。何も変わらない。
さらに、だ。関係者が何百何千何万人となったら、そいつらがみんなで話し合って決めたりするのは実質的に不可能だ。2ちゃんねるで何か合意を得てごらん。そもそも、だれが話し合うべきなの? 何を? そしてそんな世界になったら、ぼくはどれほど大量の話し合いを強制されるわけ? 今飲んでいるペットボトルの水を作るのですら、ぼくはいったい誰と話をしたらいいのかさえわからない。水の精製業者に PET 生産者に射出成形業者にラベル業者に…… やってられませんって。お金を通じた市場のよさは、情報のチャネルをしぼることで多くの人々の協力関係と合意を得やすくできること、なんだけれど。
そしてその一方で、値段なんて一つの数字でしかないと思うかもしれない。確かにそれは完璧じゃない。でも、それはみんなが集会を開いて学級会のまねごとをするよりもはるかに豊かな情報量を持っている。
不動産の世界では、物件の値段を分析するとき、それが鑑定価格か取引価格か、というのをすごく気にする。鑑定価格は、鑑定士さんがやってきて、いろんな人の話やまわりの取引の状況やらを聞いてはじきだす、お話し合いの結果の値段だ。一方取引価格は、だれかが実際に身銭を切って売買したときのお値段だ。
そして分析においては、取引価格が圧倒的に重視される。鑑定価格なんて参考程度でしかない。なぜか? お話し合いはどうしても、場の空気や人の期待に流される。その人なりの偏見もあるだろう。ついでに、それがまちがってたところで、それがすぐに自分の生活に響くわけじゃない。でも身銭を切るとなったら、人はきれいごとは言わない。本当に自分にとっての価値をきちんと判断してお金を出す。その価格がまちがっていたら、自分は大損して樹海行きになるかもしれない。そこにこめられている真剣さがまったくちがうのだ。もちろん、それは「話し合い」なんかでは絶対に出てこない。
それに話し合えば、コミュニケーションをとれば、というのは人が自分のニーズや欲望を明示的にきちんと把握しており、それを言語的に表現できるということだ。でも人はそんなことはできない。人は自分のほしいものがはっきりわかっているわけではない。同じ人の中にさえ、葛藤する欲望がうずまいているのはエインズリー『誘惑する意志』で述べられているとおり。
さらにここらで冒頭で指摘した「コントロールできる」ということばの意味合いが効いてくる。市場や市場の価格は、「自分の思い通りの結果にならない」という意味ではコントロールできない。でも、話し合うと常に自分の思い通りの結果が得られるだろうか?
そんなことはない。話し合いは妥協の産物だ。自分の意見をひっこめなきゃならないこともあるし、意に沿わぬ決定であってもしたがわなくてはならないことも多々ある。つまりそれについて話し合うからといって、それがこの意味で「コントロールできる」ことにはまるでならない。松尾はここのところをほぼ完全に無視する。
でも、市場や価格は、その決定に自分の需要や供給が少しは反映されている。自分はわずかながらその決定に参加し、自分の意志はわずかとはいえそこに影響している。その意味では、市場や価格は一人一人に「コントロール」されているし、人々はその決定に参与している。松尾はこの部分も完全に無視して、市場や価格が人間のコントロールを完全に逃れていると主張する。
でも話し合いだとどうだろう? ネットでも携帯でも何でもいい。千人いたとき、その連中の話し合いやコミュニケーションの中であなたの意志はどのくらい反映される? 下手すりゃゼロだ。話し合いをしたところで、結局だれか一人の――少数の――意志しか反映されないのだ、というのはアローの不可能性定理だ。その意味で、話し合いだと市場がコントロールできると思うのはまったくまちがっている。話しあったところで、人々のわがままがすべて反映されて実現でき、だれも文句のない結果になるなんてことは、とにかくあり得ないのだ。
だが……この最後の部分が、ぼくが冒頭に言った本書のおそろしさとなる。松尾は、話し合っても万人の思い通りにはなるわけがない、ということを理解していない。かれはみんなで決めれば万人の希望が完璧に反映されてだれも不満のない状態が実現すると本気で思っている。少なくとも、そう理解しないと意味が通らないことを平気で述べている。その話を次にしよう。
ぼくは小学校、いやそれ以前から「話し合って決める」「みんなで決める」というのが自分の思い通りになるという意味ではないというのを知っていたと思う。大学おとしをやろうとして、女子が「男子ばっかりボールで遊んでずるーい」と言うと、そこで先生が「ではみんなで話し合って決めましょう」と言う。それはまちがいなく、ぼくたちが大学おとしで遊べなくなるということだった。話し合いとはおおむね、自分の意に沿わぬことをやらされるということだ。話し合うとかみんなで決めるというのは、結局だれかが妥協し、自分にとっての最大の望ましい状態ではないところで我慢する、ということだ。
だが、本書ではちがうのだ。ここが本書をきわめておそろしいものにしている発想だ。本書においては、「みんなで決める」というのは多くの人がいろいろ妥協をするということではない。決まりごとでがんじがらめで不自由でいやだけれど、自分の好き勝手を言ったら世の中まわらないのでしょうがないから我慢する、という話ではない。本書では、みんなで決めればあらゆる人が何の不満もなくなる、と想定されているのだ。
それがきわめて異様にあらわれているのは、「私的所有」の話の部分だ。かれは個人的所有と私的所有がちがうのだ、という話をする。マルクスは、個人的所有はオッケーだけれど、私的所有はダメだと言ったそうだ。そして松尾は、ここの部分の解釈が昔からみんな首を傾げてきたところだ、と述べたうえで、疎外論さえわかっていればこれはすぐに理解できる、という。
「個人的所有」というのは、使いみちを個人が自由にコントロールできることです。すなわち疎外がないことです。それに対して、「私的所有」とは、一部の人だけの排他的な判断で、他から口出しされずに使いみちを決めることです。(p.148)
資本蓄積が人間の手を離れて進んでいって、機械や工場が膨らみ、労働者たちの協業の規模も巨大なものになります。(中略)そんな大事なことの判断が、一部の人の排他的な判断に任されていることは、深刻な問題をもたらします。(中略)そうするとその極限で生産手段の「私的所有」のほうが否定されます。大勢の人に影響を与える決定は一部の人だけで勝手にするのではなくて、みんなで決めようということになるわけです。すると、労働者個々人みんなが合意によって、納得ずくで働けるようになります。すなわち、個々人が合意によって、生産手段の使いみちを自由にコントロールできるようになります。「個人的所有」の復活です。(p.149)
この一文は「自由にコントロールできる」「合意によって」「納得ずくで」といった用語の意味を微妙に変えるニュースピークで成立しているのがおわかりだろうか。
ぼくがあるものを所有して「自由にコントロールできる」と言ったら、それは自分が思ったとおりどんなことでもできる、ということだ。ぼくは自分の家を改装もできる。宴会にも使える。女の子をつれこめる。自分でゴロゴロすることもできる。いないときに人にも貸せるし、またどう使うかまったく決めずに放置することもできる。
でもこれは「一部の人だけの排他的な判断で、他から口出しされずに使いみちを決める」というのと同義だ。ここでの「一部の人」ってのはぼく一人ね。つまりここでは「個人的所有」と「私的所有」には何のちがいもない。
これは財産の性質かもしれない。じゃあ生産財は? うちの会社のコピー機は、一応本部長決裁マターだったと思うけれど (注2)、これをみんながカクメーを起こして本部長による搾取と疎外を排除し、私的所有をやめさせて労働者みんなで所有することにした。そしてその使い方をみんなで決めることにした。さて、これでぼくは(まだ組合員だったとして)このコピーの使いみちを自由にコントロールできるだろうか?
当然できない。ぼくが使いたいと思っても、隣の人が先に大量コピーしているかもしれない。話し合ったって、コピーは進行中なので割り込むわけにはいかない。明日の 10 時に使いたくても先約が入っているかもしれない。予約を入れても急ぎのコピーだとかで割り込まれることもある。つまり、ぼく(やその他個々人)は全然自由になんか使えない。みんな一日 5 分ずつ使えることにしましょう、という合意をみんなでするかもしれない。そして物理的制約からそのくらいが現実的な上限だということをみんな納得するかもしれない。でもそれが「個々人がコピー機の使いみちを自由にコントロール」とはほど遠い状態なのは当然でしょう (注3)。
松尾は驚いたことにそれが「個々人が自由にコントロール」というのと矛盾しないつもりでいる。事前に決まったことを一切変えられない、使い方を決めずに後から考え直すこともできない、自分が使いたいと思っても「みんな」の決定で使えなくなるかも知れない――それが松尾の「自由」だ。が、それはあなたの考える自由だろうか? 少なくともぼくは、それを自由とは呼ばない。個人事業主が自分の機材を自由に使えるのが個人的所有だというのはわかる。でも、この共有方式がその「個人的所有」の復活だなんて詭弁以外のなんでもない。はやい話が、そのもともとの個人事業主は、他人が「その機械使わせてくれ」と言ったときに決してイヤと言わなかったのか? 他人を排除しなかったのか? そんなバカな。
だが松尾的には、それは「みんな」で決めた以上、それは「みんな」の一員である自分の意志でもあり、従って「みんな」のだれ一人としてそれに反対することはあり得ない。つまり松尾の「みんな」は無謬である。松尾の世界では、コミュニケーションは完璧であり、「みんなで決める」段階で、あらゆる意志は完全に反映済みであり、決まってしまえばだれもそれに対して不満は持ち得ない。したがっておまえは自由だ! みんなが自由だと決めたから自由だ!――これが松尾の理屈だ。少なくとも、ぼくは他の解釈を思いつかない。
理想的「みんな」による、万人が納得ずくのだれも反対しない(はずの)決定。個人の意志と矛盾することがあり得ない集団の決定、いっさいの気まぐれの余地もなく決められたスケジュールからまったく逸脱できない「自由」。正気ですか?
これは、幾多のマルクス主義(いやマルクス主義に限らないけれど)政権の立場でもあった。かれらはみな、自分たちこそはその、表現はされていないけれど、実はみんなが内心願っている状態とやらを知っている、と確信し、それをカクメーで一気に実現しようとした。あるいは、「みんな」が党集会やセクトごとの反省会で意見を述べて話し合うことで、そうした「本来の状態」をきちんと反映できるものと思っていた。
でも……かれらの思った「みんなが内心願っている本来の状態」というのは、実はまるっきりまちがっていた。集会はしょせん、アローの不可能性定理そのままの結果となり、声の大きい権力者だけが自分の欲望を通し、他の人の意見はまったく反映されなかった。そして結果として、だれも望まないものが万人に押しつけられる結果となり、みんなすごく不幸になった。
たとえば私有制は疎外の結果だ、と松尾は言う。つまりだれも私有なんか望んでいないんだけれど、他のみんながそうするから、やむを得ず私有するんだ、と。ポルポトたちもそう言った。そして、私有制を廃止することにした。それが招いた不幸は、筆舌にはつくしがたい。
でも、ここで疎外論の非常に困った性質が出てくる。疎外論的にいうなら、みんながそれで不幸になるのは疎外が続いている証拠であって、なぜ続いているかといえばだれかがその「内心願っている状態」を裏切る形で動いているからだ、ということになる。みんな「王さまははだかだ」と言いたいんだけれど、どっかで悪いヤツが「いいやはだかじゃないぞー」と陰に陽に言っているから、みんなその内心願っている状態を表に出せずにいるんだ、という理屈。だからそいつを見つけて粛正しましょう、労改に入れて再教育しましょう、というわけ。フォイエルバッハは疎外の解決策として、外部に偉大な神様とかいうのを設けるのがだめで、それを再び自分の中のものとして取り戻さなくてはならないと言ったとか。再教育キャンプはまさにそれをやるところだ。この理屈には歯止めがかからない。
だから来る松尾政権でも、下放先のつるしあげ集会で「みんな」の決定が行われ、「みんな」が必要としているとして強制労働が行われるだろう。「みんな」で決めたんだからそれは人間の本来あるべき姿であり、そしてそれに対して不満を述べるやつは「みんな」のコントロールできない観念の奴隷なんだと言われて再教育キャンプに送られるだろう。「みんな」はポル・ポト政権では「アンカ」と呼ばれ、他のところでは「党」と呼ばれたけれど、松尾の「みんな」とそういう場面の「党」とに何かちがいはあるだろうか? じつはまさにこの「みんな」をスローガンにした、全体主義戯画化小説がある。ザミャーチン『われら』だ。でも、松尾はそれを戯画として描いているのではない。かれは大まじめだ。どうしよう。
松尾は本書で、ポル・ポトや文革などこれまでの共産主義政権の失策にふれて、共産党公式見解がマルクス疎外論をわかってなかったせいだと言わんばかりだ。でも、わかっているはずの松尾は同じ落とし穴にはまっている。そしてまったくそれに気がつかず、それを喜々としてすばらしい仕組みとして称揚している——この不思議な盲点こそが、本書のいちばん恐ろしいところだ。
ここまできて、ぼくはその後のアソシエーションがどうしたこうしたとか、身近な云々というのをまったく読む気がなくなってしまったよ。アソシエーションって、あの柄谷行人が教祖様をやってた NAM とかいう宗教団体もそうだったでしょ? 見事に内ゲバ起こしてつぶれてる。それが希望だとか言われましても。たぶん NPO とかが落ち穂拾い的に活躍する場はあるんだろう。でもそれで資本主義がひっくり返るの疎外がなくなるの言われても、なかなか信じられないのは人情だろう。
ただこう書いていて、ぼくは非常に不可解な思いをしている。というのも……松尾だってバカじゃないどころか結構頭がいい人間だから、ここに書いたようなことがわかっていないはずがない。設備投資の何たるかも、知らないわけがない。価格の伝える情報についてだって、もっとちゃんとした話を十分に知っているはずなんだ。小学校の学級会くらい経験してるんだろうし「みんなで決める」がそんな簡単な話じゃないことくらい知ってるだろう。ましてそれが、万人の身勝手な思いを完璧に反映してだれもがハッピーになるような代物じゃないことくらい、当然知っているはずじゃないか?
一つの可能性は、実は知らない、というものだ。実はかれは、こういうお花畑なことを本気で信じているのかもしれない。一部の大学の教員がおどろくほど非常識なのは公然の秘密だ。でも、かれのウェブページなどを見る限り、松尾はそういう非常識さには陥っていないとは思うのだ。
あるいは別の可能性として、もちろんこのくらいのことは知っていて、実はそれは松尾を旗手とするヌエバ○経の世界ではすでに理論的解決を見ているのかも知れない。その世界ではみんなで決めれば、アローの不可能制定理を蹴倒して万人の満足のいく決定が可能となるような方策があるのかもしれない。本稿を読んだ松尾筺は、「いやそういう話は入門書ということで割愛しただけなんですよ」というのかもしれない。
もしそうなら、無知をお詫びする。でも、ぼくは無知なりにそんなことはあり得ない、と思う。こういう素人が一見してわかる程度の大穴がボコボコ開いている話が、細やかな理論で修復できる可能性はゼロだからだ。
可能性として――ぼくはマルクス主義がある種の内容に盲点を作ってしまうんじゃないかと思っている。トンデモ科学分野ではよくあることだけれど、他のあらゆることにはきわめて理性的で、科学も道理もわかった人が、ある特定の(自分が信じている)話になると、まったくそうした道理が通用しなくなってしまうことがある。○経がトンデモとは言わないにしても、それに近いココロの作用があるんじゃないだろうか? わからないけど。
そしてもう一つ、否定しきれない可能性はある。ぼくが何か大きな誤解をしているのかもしれないということ。たとえば冒頭で設備投資の変な理解について書いたけれど、どうもマルクス経済学は設備とか資本についてずいぶん面妖な理解をしているようだ。資本による付加価値というのをまるっきり認めていないんじゃないかと思えることが多々ある。また、設備投資のおかげで仕事が楽になって人生も生きやすくなる、なんてことも考えないんでしょ? ○経では、労働というのは必ず資本家に搾取されることなので、それが楽になったり楽しくなったりすることはあり得ず、労働環境の改善が暮らしの改善につながるなどということもあり得ず、それは単に資本家に懐柔されて仲間の労働者を裏切っているだけ、なんでしょ? それ以外にも、ここであげつらったいろんな概念がマルクス経済学の中ではぜんぜんべつの意味を持っていて、ちがった解釈ができる可能性があるのかもしれない。もしそうだとしたらすまんこってす。でも、一応シロウト向けの入門書で、そこまで独特な用語の使い方をするわけはないと思うんだがどうだろう。
でもいずれにしても、ぼくは本書を読んでもう今後、マルクスとか○経とかをこれ以上勉強する気はまったくなくなってしまった。疎外論とやらを勉強しても何の御利益もなさそうどころか、それでまたもやポル・ポトと同じ論理に陥るのでは何の甲斐もないじゃないか。それに、そこで言われていたようなことは、ゲーム理論のナッシュ均衡でおおむね説明できてしまうんなら――何の意味がある?
さ、そろそろ一泊二日の長い研修も終わりだ。研修なんて退屈なだけのことが多いけれど、今回は一応、本書のおかげで有意義な時間が過ごせたとは思うな。その点ではありがとう。でも、次回の研修では、ゲーム理論の本を勉強することにしよう。そして家にあるマルクス系の本も、全部処分してしまおう。本書を読む限り、それは何らぼくにも社会にも役にたちそうにないどころか、むしろ変な瘴気を放って人の目を狂わせてしまうようだから。本書を読むことで、そのおかしな理屈にはたと気がつき、その瘴気から目ざめてくれる人が少しでもいるといいのだけれど、どうだろう。
1 ちょっと考えて、可能性がないわけではないかもしれない、と思い至った。コンピュータが発達すれば、すさまじいデータマイニング(「絶対計算」ですな)を行うことで、万人の「真の」ニーズが価格システムより精密に計算できるようになるかもしれない。あらゆる人、あらゆる企業のあらゆる購買嗜好その他を巨大コンピュータにぶちこんで分析することにより、ひょっとしたら——いや無理か。これは社会主義計算論争だな。しかしあの論争は、いまの計算能力を前提にすると多少変わってこないんだろうか。だがこれは余談。 (戻る)
2 使用が、ではなーい! 購入が、ということ。つまりは実質的な所有が、ということだと思っておくれ。さすがにコピー一枚とるのに本部長申請なんかしませんわ。 (戻る)
3 これは程度問題ではある。「みんな」が五人ほどで、自分がどんな気まぐれで使いたいと思ったときでも 9 割くらいは思った通りに使える、というのであれば「自由に使える」を名乗ってもいいだろう。しかしながら、ここで松尾は協業の規模がきわめて大きくなった場合の話をしており、しかも多くの場合は稼働率 90% 以上の生産設備の話だ。全員の意志を過不足なく反映する合意はまず無理だ。5 人ほどで共同所有するリゾートマンションでも、自由に使えないという不満は続出なのだ。
さらによく考えると、そもそも「みんなで決める」余地はあるんだろうか。松尾ワールドではすばらしいコミュニケーション手段(または「本来の姿」)によって、あらゆるニーズは的確に把握されており、よっていつどのくらいの生産量が必要か完全に決まってしまっているはずだ。だったらそこで生産設備の稼動についてだれ一人として「自由に使いみちを決める」余地はないのでは? 労働者たちは外部で決められた生産ノルマにあわせて奴隷のように(『鉄の男』のように!)働く以外のことはできないのでは? 結局疎外論があろうとなかろうと、やることは懐かしい計画経済と同じということだ。 (戻る)
いくつか反響がきている。整理としては、以下の二つのどちらかを見ておけばよろしいかと。ところで、右に何か見えるかもしれないが、憑き物の一種なのでクリックしないように。
議論としてはだいたい出尽くした感じだと思う。この中で松尾のコメントについてだけちょっとコメント。といっても、メインの部分にはあまり異論はないようなので(!!!)、周辺的な部分についての苦言についてだけ少し。
まず、設備投資だけが増える状態は理論的にあり得るので、山形は経済学に無知である、という話。はあそうですか。ぼくは経済学は基本的なところしか知らないで、無知なところはあるだろう。そしてぼくはもともと不動産畑の人間だから、設備投資が先行したり暴走したりすることがあるのは知っているつもりだ。でも理論的に可能だということと、それが実際に起こるということ、さらには現在起きているのがそれだということは、それぞれべつの話。その説明をすっとばして、理論的に可能だから現在がその状態だと主張するのは不用意だろう。
もし松尾が正しいとすると、その自己目的化して作られてしまった工場やオフィスは、どこで何をしているんだろうか、という疑問は当然起きる。どこかにまったく稼働していない無人の工場とか、果てしなく続く無人のオフィスがあるのか? ここ数年でオフィス空室率が著しく上がったという話はきかない(今年に入ってからは、特に新築はあがり気味だけれど)。実際、ミクロなレベルでは、だれも使わない設備に投資をしようとは思わない。何らかの使うあてがあって投資をする。それを考えたとき、ぼくは松尾の記述はそのままでは説得力があるものではないと思う。もう何段かきちんと検証と説明をしないと、いまの景気回復がそうした自己目的化した設備投資の結果だといっても多くの人は納得しないし、ましてこの本のつかみとしては有効に機能しない。
そして、松尾は、山形の書きぶりでは自分が景気回復に反対しているように見えてしまうと苦言を述べる。はい、ぼくはまさにそういうふうに読みました。だから驚きました。松尾のウェブページでの記述を見る限り、そういうまちがいをしそうな人には見えなかったから。でも、本は一応はその本の中で完結して成立し、評価されるべきものだと思う。引用を再掲しよう。
二〇〇七年までの景気回復は、企業の設備投資と輸出の拡大に主導されて起こっていたことでした。家計最終消費支出はほとんど伸びていません。(中略)つまり、景気回復だとか言って、私たちはたくさん働くようになったのですが、消費財の生産は増えていない。結局、増えた分の労働は、自分の身に帰ってくる財を作っているわけでは全然なく、設備投資する企業のために機械や工場を造ってあげるのに働いていることになるわけですね。(中略)
本来私たちは、豊かで楽しいくらしをするために働いているはずです。機械や工場は元来そのための手段にすぎなかったはずです。(中略)ところが今は、そんなものをふくらませることがいつの間にか自己目的になってしまって、人間のくらしがその手段として犠牲にさせられているのです。今後このまま景気が拡大していったならば、あいかわらず生身の人間のほうはしんどいしんどいとハアハア言ってこき使われる一方で、工場も、オフィスも、私たちの自由にコントロールできないものばかりが、ますます立派になって膨張していくでしょう。(pp. v-vi)
「人間のくらしがその手段として犠牲にさせられている」「このまま景気が拡大していったならば、あいかわらず生身の人間のほうは(中略)こき使われる」これを読んで、「松尾は景気回復がありがたいことだと思っているのだ」と考えるか? 人それぞれかもしれないけれど、ぼくはそうは読めなかった。景気回復なんて数字のうえだけの話で、実際には人々の生活向上にまったく貢献していないと松尾が主張しているのだと思った。いま読んでもそう思う。だって……そう書いてあるもの。景気回復に多少肯定的なことといえば、引用部分の少しあとに「これでもまだましなほう」と書いてあるくらい。いや、どう見ても景気回復を多少なりとも喜んでいるようには見えない。ぼくが本書にこれほどむかついたのは、ここのところで「ウラギリモノー!」と思ったせいなのかもしれない。
さて次に疎外の話。山形は、疎外と葛藤の区別ができていないのでダメ、という。でも、それがまさに疎外論の問題ではないの?
つまり、その疎外と葛藤というのはそんなにカンタンに見分けがつくんだろうか、ということだ。
たとえばリフレ論争でおなじみの、構造改革論の是非。リフレ派的な見地からすると、構造改革論のほとんどは、まさに疎外論的に説明できる。どっかに定義されない理想の「構造」があって、それが参照され続けて現状に対するシバキが生じる、という具合に。ところが、構造改革論者は、それが疎外だとは思っていない。どうにかなる葛藤だと思っている。
そしてそれは、あらゆる「疎外」についていえることだ。ポル・ポトもスターリンも、いまから見れば明らかに疎外っぽい状況で、どう見ても無理な話をしていたけれど、当人たち(の一部、またはかなりの部分)はそう思っていなかった。だからみんな(文字通り死ぬほど)がんばったんでしょ。たぶん実際の抑圧というのは、疎外が生じたために起きるのではなく、疎外かどうかわからないが故に無茶をさせられるところで生じる部分が大きい。ぼくは松尾が言うほどその両者がきれいに判別可能だとは思わないし、判別可能だと考えること自体も抑圧に荷担しかねないので注意する必要があると思う。
そして疎外と葛藤のちがいは? 結局のところ、それは実現可能性の評価しだいだ。
だとしたら、単純に、実現可能性をきちんと検討しましょうと言うだけですむのでは? 実現性のないことをがんばるとつらい、といえばすむ話では? そこに「疎外」という新しいジャーゴンを持ち込むことの御利益は? ぼくは皆無だと思う。
稲葉大人のコメントだといくつかのポイントは日本での(世界的な?)マルクス主義の歴史でも課題になっていた話だとのこと。おれってすげー。「山形は疎外論的マルクス主義と正統派スターリニズムとの違いに無知か、『五十歩百歩』と退けているかのどちらか」との話は、当然ながらまったく無知です。あとかれのコメントでぼくに理解できないこと。マルクス主義者、というのとマルクス経済学理論の支持者、というのとはちがうのか? でも入門書を読むのに(そしてそれの善し悪しを議論するのに)そこまでの背景知識が要求されるべきではないと思う。また、買いかぶってもらったのはうれしいんだけれど、別にぼくはマルクスの副作用が大きいから(メリットはあるのに)いらね、と思っているのではない。ぼくはむしろ、マルクスの理屈を認めたらいったいどんな御利益があるか、ということが本書を読んでもまったくわからないのだ。
松尾もまとめページを作っている (webcite)。まあ後は、読んだ人がそれぞれに判断すればいいんだけれど、その中で「誰のためでもない仕事などあるはずがないと批判なさる山形さんは的をはずしている」とのこと。いや、ぼくはそんなことを書いたおぼえはまったくありませんが。こういう歪曲はやめてほしいな。それと、あの導入分の 1-2 ページほどの現在の(終わりかけた)景気回復に関するつかみは、本当にそんなに深く複雑なことを表現しようとしていたんですか? ぼくはとても信じられない。
それと、べつの人もこの本についてコメントしていて (webcite)、松尾についてこんなことを言っている:
著者は、山形浩生氏と私の論争(?)に割り込んで、「平均賃金は平均生産性で決まる」という当たり前のことを一生懸命「論証」していた。こんな頭の悪いやつがよく助教授なんかやってるなと思ったら、何とマル経だった。
いやまったくだ。そんなあたりまえのことをわざわざ説明していい気になってるなんて、頭悪いにもほどがある……でも待てよ、その「当たり前のこと」が一向にわからずに大騒ぎしてた人が約一名いたような。松尾筺はそれを見かねてコメントしてくれたのであって、その約一名はその件では松尾さんをあれこれ言う資格はないと思うし、「経済学を何も知らない」なんていえた義理じゃないと思うぜ。
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