2018年05月18日
ありふれた言葉で世界の深淵を穿つ詩人
今回ご紹介するのは、この詩集です。
吉野弘さんの詩は、「夕焼け」など国語の教科書に載っていたものもありますので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
“詩”というものには、古めかしくも美しい言葉で彩られたものや、読む人ごとに解釈が分かれるほど難解なものなど、作者によって、それぞれ雰囲気も個性も違っているものです。
そんな中、吉野弘さんの詩は、日常生活の中で当たり前に使われる、ごく普通の言葉で、とてもストレートに分かりやすく綴られているのが特徴です。
なので、読み手は「さぁ、詩を読むぞ!」という気負いも無く、友人・知人のブログでも見ているような感覚で、さらりと読めるのではないかと思います。
けれど、そんな“ありふれた言葉で分かりやすく”綴られた詩が語るのは、この世界の深淵に潜む真理であり、時にハッと心に突き刺さる人生哲学なのです。
しかし、それは決して押しつけがましい教訓話や説教ではありません。
それは、時にあたたかく、時に哀しく、命やヒトや人生を見つめた“一人の人間”としての心の“つぶやき”なのです。
この詩集を読んでいると、吉野さんが他のヒトやモノへ向けるあたたかな眼差しや、人生の悲哀に対する情の深さのようなものがじわりと心に染みてきて、何だか自分まで、そんなあたたかく深い情に包まれているような気分になります。
また、この人は“言葉”に対する感覚がとても鋭敏であるように感じられます。
吉野さんの詩には“言葉”に関する詩がいくつもあります。
漢字の“形”や“文字と文字の組み合わせ”からの連想イメージを詩にしたもの、同じ植物に付けられた二つの名(葭と葦)から作られた詩、「夕焼け」の詩が「夢焼け」と誤植されたことに対する感慨など……。
普段から言葉に対する感度を高くして、出会う言葉のいちいちを面白がったり、美しく思ったり、不思議に思ったりしていたのかな――などと、思わず想像してしまいます。
アマチュアとは言え言葉を扱う者として、とても勉強になりますし、読んだだけで言語センスが良くなったかのような錯覚を覚えます。
(まぁ、実際にセンスUPしているかどうかは分かりませんが……。)
そして、この人の詩が特別なのは、他の多くの一般的な人々と比べて“思考の角度が少し違う”気がするところです。
たとえ同じものを見ていたとしても、他の人とは目に留める物が違っていたり、心に引っかかるモノが違っている……そんな気がするのです。
そのせいか、この人の詩を読んでいると「こんな考えがあるのか」「こんな視点もあるのか」と、ふっと驚かされることが多々あります。
国語の教科書を作った人々が、載せる詩にこの人のものを採用したのも頷ける気がします。
学生時代にこの詩と出会った方の中には、国語という教科が大嫌いで教科書に載っていたというだけで何となくイヤな思いを抱いている方もいらっしゃるかも知れませんが……そんな先入観は忘れて『親しい人が、ふと漏らしたマジメなつぶやきや本音』を聞くような感覚でフラットに読んでいただければ、この世界で生きていく上でのちょっとした“気づき”や“学び”が発見できて、今後の人生をより豊かに、そしてほんのり生きやすくしてくれるかも知れません。
ちなみに、自分がこの詩集の中で一番心に引っかかった詩は「I was born」です。
英語を習い始めたばかりの頃の吉野さんが“I was born”という文章に、自らの意志ではなく“I was born”という“受け身”の形で“生まれさせられる”人間の真理にふと気づくという辺りに、当時から既にズバ抜けていた言語センスを感じ舌を巻くのももちろんなのですが、何よりその後に続く文が凄まじいのです。
“生まれさせられる”人間という発見を何気なく口にした吉野さんに対し、父親が語った、蜉蝣という生き物の、生命を繋ぐ上での残酷なまでに儚い生態、そしてそれに重なるように告げられる吉野さんの母親の話……。
事実であるがゆえに淡々と語られながらも、そこには生物が命脈を繋いでいく上での悲哀や宿命的な何かが恐ろしいまでに凝縮されていて、圧倒されると共に、何とも切ない余韻が胸に残る一作なのです。
<その他の刊行情報>
吉野弘さんの詩集はKindle版でも出ているようです。
(自分が読んだものとは違う出版社ですが、ハルキ文庫さんのものも、元々この「青土社」の「吉野弘全詩集」を底本にしているそうなので、掲載されている詩にはそう違いはないかと思われます。)