大阪地検特捜部検事による証拠隠滅事件で、前田恒彦主任検事(43)による故意の証拠データ改竄を認識しながら、隠蔽したとして、最高検は10月1日、犯人隠避容疑で、大坪弘道前特捜部長、佐賀元明前同部副部長を逮捕。
大坪弘道前大阪地検特捜部長らの逮捕に特捜部経験のある若手検事は、『証拠の改竄はとてもできないこと。特捜部長や副部長から「証拠を変えろ」ぐらいの示唆があったのでは』と上司の責任を指摘していた。
前田恒彦主任検事の証拠データの改竄は、『指示されたわけでなくても、追い詰めるプレッシャーがあったのではないか』と推測している。
郵便不正事件で特捜部は村木厚子局長が厚生労働省上村係長に対し、2004年6月上旬に証明書発行を指示したとの構図を描いて捜査。
昨年5月26日に上村被告を逮捕して偽の証明書が保存されたFDを押収し、6月14日には村木元局長を逮捕。
しかし、上村係長の取り調べた検事は、FDを押収した直後に、FDに残された『2004年6月1日』の最終更新日が、特捜部の構図と矛盾することに気付き、前田主任検事に告げた。
しかし、前田主任検事は特捜部長らに矛盾について報告せずに、『無実』の確実な村木氏を逮捕、起訴して裁判に持ち込んでいる。
『証拠から筋書きを書くのか。筋書き(見立て)から証拠を集めるのか』
同僚検事は構図に沿って『6月上旬に指示を受けた』という趣旨の上村係長の供述調書を作成。
FDの日付は、村木氏の取り調べを担当した検事にも伝えられなかった。
特捜部は昨年7月4日に村木氏を起訴。
前田主任検事は同13日、FDの日付を特捜部の構図と矛盾しない『2004年6月8日』に書き換え、16日に上村被告側に返却している。
このことからも、前田主任検事が、無実であることを示す有力な証拠があることを隠して、村木厚子厚生労働省元局長を逮捕した可能性が高い。
『仕掛けた相手が悪かった』
この日付の矛盾(無罪の証拠)に一番最初に気が付いたのが担当弁護士ではなくて刑事被告人として拘束されていた当人の村木元局長だった話は凄いですね。
人それぞれで菅直人のような救いがたい『無能』もいれば、並外れた才能がある人もいる。キャリア(有能)官僚も伊達にやっていない(特殊な能力がある)のですね。
ところが、この悪質な偽装行為は、検察特捜部VS高級キャリア官僚の争いであったので発覚した可能性が高いのですよ。
多分、鹿児島県の志布志事件や富山県の女性暴行事件の柳原浩さんのような警察の任意調査段階で、物的証拠がまったく無くても自分がしてもいない『犯罪』を捜査当局の『見立て』(筋書き)どうりに泣きながら自供してしまう一般の市民レベルでは、今回のように無実が証明されることは無く、間違いなく『泣き寝入り』だったでしょう。
H-Yamaguchi.neの『新聞記者はえらい、という話』June 01, 2006 の内容が今回の大阪地検特捜部の手口を彷彿させて興味深い。
>『目からウロコの落ちる瞬間、というのはうれしいものだ。今日もまた新しい「大発見」をして、ちょっと興奮ぎみなので、あまり時間はないが手短に書いてみる。たぶん、皆さんには先刻ご承知のことなんだろうが、私には新しい、そして大きな発見だった。
新聞記者はなぜえらいのか、についてだ。
新聞記者がえらい、という点について、疑問をもつ方はそう多くないのではないかと思う。新聞記者はえらい。えらくなければ旗を立てた黒塗りの車でどこへでも乗り付けたりできるわけないし、記者会見という公の場で人をつるし上げ、なんて大それたこともできようはずがない。もちろん全員がそういう人ではないのは重々承知した上で書いているのだが、「この人はえらい」と考えるしか納得のしようがない人、というのは確実に、それもけっこうたくさんいるように思われる。
私がわからなかったのは、それがなぜか、ということだ。なんでこんなにえらそうにふるまえるんだろう、と。その長年のなぞが今日、一気に氷解したのだ。こんなうれしいことはめったにない。
なぞを解いてくれたのは、某大手新聞社の現役役員の方。私はその方に、「新聞記者というのはなぜ予断をもって記事を書こうとするんでしょうか」と質問したのだった。個人的に新聞記者の方に取材らしきものをされたことが何回かあって、そのうち全部ではないが一部の方がそうだったような記憶がある。新聞記者は取材テーマについて必ずしも専門家であるとは限らない。むしろ専門家ではないからこそ取材に来るわけだが、それでも、書こうとする記事について、あらかじめ結論までの明確なイメージをもってやってくることがある。そういうケースを念頭において、なぜなんでしょうかと聞いたわけだ。
役員氏の答えは明快だった。記者というのはそういうものだと。あらかじめ何を書きたいかは決まっていて、それに添わなければあなたが何時間しゃべろうとも記事には反映されないのだ、と。
あまりのあっけなさに、一瞬ぽかんと口をあけてしまったのだが、考え直して、そうかそうだったんだ!と納得した。いやそうかそんなに簡単なことだったのか。
つまりだ。私は、とんでもない思い違いをしていたのだった。
私は、新聞記者というのは取材によって事実を集めて、それをもとに記事を書くのだとばかり思っていた。それが大きなまちがいだったわけだ。役員氏のいうところを斟酌すれば、新聞記者が書くのは事実ではなく、解釈された事実でもなく、その記者自身の主張なのだ。書かれるべき内容の主要部分は取材対象にではなく、記者自身の脳内にある。記者が取材に行くのは、事実を積み重ねるためではなく、自己の主張に沿った情報をネタとして仕入れるためだったのだ。
これで、新聞記者がなぜえらいかがわかってくる。新聞記者の仕事というのは、事実を伝えるルポライターの仕事とも、事実を解釈する学者の仕事ともちがう。より近いのは、小説家だ。新聞記者がある事件について記事を書くということは、いってみれば、司馬遼太郎が桶狭間の戦いについて生き生きと描写するのと同種の仕事、ということだ。
つまり、「先生」なのだ、彼らは。アーティストなのだ、その意味で。だからえらいのだ。
この理屈なら、なぜ新聞で署名記事が尊ばれるかもわかる。署名のない記事を書いている記者は、つまりはゴーストライターのような立場なのだ。早く自分の名前の入った記事を書きたい。そう記者の皆さんが思うのも当然だろう。小説家なら、自分の名の入った作品を残さずしてなんとする。めざせ論説委員!というわけだ。
そういえば、同じ場で、新聞社の元役員だった別の方が、「メディアとは『真ん中』。取材対象と読者との間に立って情報を伝えるのが役割」と説明していたっけ。その定義からすると、新聞はメディアではないということになるんだが、まあそんな細かいことはどうでもいいや。なにせえらいんだから。メディアであるかどうかなんてことより、自らの「作品」を残すことのほうがはるかに大事なことのはずだ。
日本新聞協会のサイトにある「新聞倫理綱領」というのをみると「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。」なんて書いてあるが、まあ問題ないんだろう。なにせえらいんだから。たとえ100%記者の脳内から生まれたとしても、それは個人の立場や信条に左右されているのではなく、客観的な論述になっている、はずだ。
いやほんと、わかるってのは気持ちがいい。
…あれ?じゃあいったいなんで取材なんてものをするんだ?取材って本当に必要なのか?
『特捜検事はえらい、という話』
これ、新聞記者だけに止まらず我が日本国では警察も検察も、みんながみんな同じで『えらい』のです。
地検特捜部の仕事とは、隠された真実(犯罪事実)を暴く事ではなく、『真実とは何か』と解釈する事でもなく、その担当検事の脳内の主張を裁判で証明することなのだ。
調べるべき証拠内容の主要部分は捜査対象にではなく、検事自身の脳内にある。
検事が捜査や被告人から事情聴取するのは、事実を積み重ねるためではなく、自己の見立て(筋書き)に沿った情報をネタとして仕入れる為だったのだ。
これで特捜検事がなぜ『えらい』かがわかってくる。
検事の仕事というのは、隠された事実を発見する捜査員の仕事とも、客観的事実を解釈する学者の仕事とも性格が全く違う。
一番近いのは、小説家だ。
特捜検事がある事件について供述調書を書くということは、いってみれば、司馬遼太郎が桶狭間の戦いについて描写するのと同種の、僅かな史実から『生き生きとした物語』を作り出す自由な『創作的な活動』だったのだ。
つまり『先生』なのだ、特捜検事とは『無いものを創り出す』アーティストだったのだ。その意味で『だからえらいのだ。』
彼等はいずれも、何もしなくとも道が開かれる、いわゆる減点主義の世界から外れている者ばかりということです。だから、何もなくても何か得点するための動きをしなければ上昇できない者ばかり、ということです。
コメント有難う御座います。アメリカではロースクールの学閥は凄いらしいですが、この三人は今のような法科大学院制度の司法試験ではなくて旧の司法試験なので大学の学閥よりも司法修習生第何期などの繋がりのほうが強いようです。
しかし今度の事件ですが、
証拠を改竄したのだの部下の犯罪を隠蔽したのだとの小さな犯罪行為ではなく、もっと悪質極まる、
『無実が判っている人を5ヶ月も牢屋に閉じ込めて自白を迫り犯罪を作り上げようとした』
魔女狩り的な大事件であるとの認識は大事であると思います。
それにしても不思議な事件ですね。
半年前の毎日放送で、事件は郵政民営化命の小泉純一郎首相の秘書官飯島勳が無実の村木局長の上司であった塩田元部長と『石井議員が関与した』ように口裏合わせをして村木厚子局長を逮捕したと報じたのですが、何故か即刻削除されています。
検察は、民主党の『石井一犯人説』の前提で村木局長の部下の上村係長の供述調書を頼りに村木厚子元局長を起訴したのですが、肝心のこの上村係長の動機は不明であるのですよ。
普通、人は自分に何かの利益が無いとこんな不正はわざわざ行いません。
ばれれば大事で訴追は免れないのですから余程の大金の賄賂が無いと駄目ですが、知られている限りでは上村被告には、まったく利益が無い。
ですから、それなら上村係長の犯行の動機がないので、多分上司からの指示で行ったのは間違いないでしょう。
村木が無罪なら誰か他のもっと上の村上係長が命令に逆らえない上司(塩田部長?)からの指示であったことが推定されるのです。
検察の腐敗程度では済まず、もっと大事件が隠されている可能性があるのですね。
何か変なことに利用されている気がする。
ですから、皆さんは大きな誤解をしていますが今回の一般市民11人からなる審査員の(マスコミ報道だけでは真相が判らないので)『『国民に説明して欲しい』とか『裁判で白黒を付けて欲しい』との判断の対象は、
2年近くもかけて小沢一郎個人一人を付け狙い、
マスコミリークの疑惑情報を垂れ流した挙句に、
とうとう有罪に出来るだけの証拠を集められずに挫折した、『東京地検特捜部に対する審査である』筈なのですよ。
小沢一郎以上に説明責任を全く行ってこなかった検察庁の『責任』が問われるているのです。
ところが検察庁はこの審査結果に対する反省も説明も無いのですよ。
説明が何も無いといえば,この検察審査会の審査の説明が全く無いのですよ。
検察以上の権限がある様に見える検察審査会の、内容が単なる『一般市民』の仮名の影に隠れて姿がわからないのです。
議論の記録も経過も参加メンバーの発言内容もすべてが不明(機密)であるのですね。
特に問題なのは、
今度の2回目の検察審査会ですが前回よりも問題があり『検察』が訴追していない4億円の取得の経緯をわざわざ追加しているのですよ。
検察審査会とは文字どうりなら、『検察』の判断の是非を審査するものなのですが、完璧に範囲を逸脱して『検察の判断』以上の判断をしているのです。検察の公訴権独占の審査機関として、
検察審査会議決による起訴強制が認められているのです。
それなら、そもそも検察が不起訴処分の対象事実に含まれない、新しい被疑事実で起訴相当議決を行うことは許されない筈で、それなら今回の起訴相当議決は無効であり、強制起訴手続をとることはできないと成ります。
これでは、検察審査会ではなくて、魔女狩りをした中世の『異端審問』に近いですね。