『五十歩百歩どっちもどっちの似たもの同士』
美しい言葉が美しい結果を得られるという安っぽい宗教(道徳)が、科学や科学的思考方法で有るはずがないんですが、如何いうわけか偶々科学的な装いを凝らすと一部の世間から大歓迎された。
此れが所謂『水からの伝言』です。
科学を偽装するも何も、万世一系の神話を科学用語DNAで説明しようとした某宮様の話と同じで、元々が科学ではない。
インチキ臭い新興宗教である大川隆法の『幸福の科学』と五十歩百歩の代物で一々科学者が解説しなければならない科学的に間違っている「ニセ科学」とは種類が違う。
ところが山形大学助教授のapjさんや大阪大学の物理学教授菊池誠などの人物がマジで『水からの伝言はニセ科学である』、『ニセ科学は悪で有る』との啓蒙活動を行っているし、彼等の信奉者の科学者もいると言うから面白い。
この人たちは自分たち科学者が『これはニセ科学です』と説明しないと一般の市民達は(科学に疎いので)科学と宗教(道徳)の区別が付かないと思っているらしい。
余りに馬鹿馬鹿しい。
本当に我々下々には『水には言葉を理解する能力が無いので美しい言葉では美しい結晶は出来ません』なんて一々説明する必要が有るとでも思っているのでしょうか。
普通その様なことは今頃の小学生低学年でも失礼に当たるだろうが、大人相手に真面目に論じていると聞いて思わず溜息が出る。
しかしやっている本人達は大真面目。
自分が何をしているのか、何の為に何を行っているか、何が問題なのかの自覚が全くない。
自分の行いの滑稽さを疑う事は決してない。
『インチキ臭く、宗教的なニセ科学批判者の言動』
勿論インチキ臭い偽科学の数々や超能力とか超常現象とか超科学とかUFOとか宇宙人の来訪とか細木数子の占いとか近頃流行りの江原啓之のスピリチュアルとか統一協会の霊感商法とか創価学会の現世得利の為の財務とか靖国神社の行っている歴史の偽造とか日本政府により数々の隠蔽工作や偽装とか、
小さいものから大きいものまで此の世には科学的でないもの批判しなければならないモノは其れこそ星の数ほど有る。
全てを扱えとは言わないが、そこそこ満遍なく批判しないでは、其れこそ科学的とはいえない。
『胡散臭い科学教信者菊池教授と其の信奉者達』
ところが一部の人(菊池誠)たちはそうではなく、世間一般から見たら如何でも良い『水からの伝言』だけが気になって仕方がない。
なんとも不思議な話だ。
この不思議な人たちはもっと大きな社会的不正には案外鈍感で政府を非難する事になる原発関連の問題点には触れる事はないか、触れるときは原発告発者の詰まらない言葉の揚げ足取り程度の理解に苦しむ事をする。
概してこの不思議な人たちの価値観は大幅に偏っていた、到底科学的な考え方ではないが不思議と道徳的(宗教的)な価値判断をする。
何故?如何して?などの健全な懐疑心から生まれる科学は『科学とはエラーの自己修正過程であると』と考えるが、
其の反対に懐疑心が希薄で信ずる心が優先すれば、如何に科学といえど宗教(科学教)に簡単に変化する。
そのため科学を文字どうり宗教として信じている人は思った以上に案外多い。
『科学』に似ているが全く違う『科学教』
健全な懐疑心が基礎になっている科学と違い、そもそも『科学教』は新興宗教(カルト)なので創価学会やオウムなどと良く似ている。
宗教の基本は『信じる心』です。
だから科学的合理的な理由などは『有ったらあったほうが良い』程度で科学程には重要ではない。
何かの御神体を崇め奉り崇拝したるするし、其の反対に其れを貶める言動には文字どうり宗教的情熱で攻撃したりする。
新興カルト菊池誠氏と其の信奉者達の信じる神(科学)に敵対するインチキ宗教『水からの伝言』は、創価学会にとっての宗門や竹入義勝、矢野絢也元公明党委員と同じようなモノに見えているのでしょうか。
一番不思議なのは、空白部分や間違いが多すぎて今では世界中で完全には誰も信じていない9・11事件のアメリカ政府公式報告書を文字どうり『聖書』として信奉し如何なる疑いも『陰謀論』として攻撃していることでしょう。
完全なるアメリカ教信者ですね。
完全無欠無謬の『聖書』なので、如何なる書き換えや削除修正の類い、勿論疑うことなどは何があろうと許されるべきではないと信じている。
『科学とは何か、宗教とは何か。?』
科学が、今の人類の文化の最高峰で『全ての物事の正誤の判定を独占的にしている』最高権威である。
今の世の中で科学以上のものは有りません。普通の方法で『科学』に敵対すれば誰であれ勝てない。
それで賢い連中は科学で無いもの(宗教、道徳)に科学的な装いをして『科学である』として騙そうとする。
しかしこれ等(宗教、道徳)が科学的に正しくないの事実ですが、本来科学では無いので当たり前で、科学的に正しい方が可笑しい。
『水からの伝言』に対して『科学的に間違っている』『ニセ科学で有る』と批判する一見正しい行為は、
犬に向かって『犬畜生』と呼んで罵倒する様な、意味が有るのか無いのか判らない行為です。
『ニセ科学批判の宗教性』
私が、科学を偽装した『道徳』の『水からの伝』批判で、気になって気になって仕方が無い事が一つ有るんですよ。
不思議な事に、批判している側の『ニセ科学批判』がえらく宗教(道徳)臭い。
相手が科学を偽装した『道徳論』なので、それで道徳論が前面に出ているのかもしれませんが、これは矢張り間違いです。
科学が道徳に介入してはいけないし、道徳は科学に介入してはいけない。
此処で誤解されないように予め言っておくと『水からの伝言』を批判している人達の道徳観(論)に異議を唱えている訳では有りません。
この人たちの道徳的な問題提起に対しては全面的に賛成したいと思いますが、科学に対する道徳的なアプローチだけは賛成いたしかねる。
自然科学と道徳とを関連付けるのは危険極まりない行為ですよ。
科学は万人に平等に共通に適用される。
しかし道徳(内心)は個人個人で別々であるべきです。
昔はそうでは無かったが今では、個人の心の中は誰であれ触れるべきではない聖域で、誰からも干渉されない自由がある。
道徳と社会科学とはある程度の関連性はあるが、其れも限定的であるべきです。
例えば、法律に介入すべきでない。
今イスラム世界で問題に成っているイスラム法は道徳を法律にしたもので、不倫は石打による死刑で、日本なら芸能人や保守政治家なんか殆ど全員死刑ですね。
イギリスでは1960年代までホモを罰する刑法が存在し普通の司法警察が取り締まっていた。
「鶴の恩返し」では有りませんが『決して見てはなりませぬ』言われると誰でもコッソリ覗きたくなるものです。
キリスト教の聖書の道徳を、法律に書いた結果が大変な事になる。
それで今でもイギリス人の男は一生のうちで一度はホモを試してみるし、十分一はホモになるらしい。
「内心の自由や宗教の自由、政教分離」
1)最初『水からの伝言』が科学である、と一般社会に紹介された。
2)科学的に正しいか間違っているかは検証すれば簡単に白黒が判ります。
3)検証の結果は勿論『科学的に間違いで有る』となる。
4)しかし科学論争としての『水からの伝言』論争は終結しても、信奉者達は科学的な検証結果を無視して宣伝活動する。
5)反科学的な宣伝活動に対して、科学者、有識者からの批判や啓蒙活動が行われる。
6)『水からの伝言』が科学的に正しくない(ニセ科学)ことを承知の上で、学校等教育現場への普及活動が一部の公教育関係者に因って行われようとしている。
7)教育委員会と校長会が『水からの伝言』の講演を積極的に行った形跡が有る。
何故ニセ科学として明らかな『水からの伝言』を学校現場に持ち込むのか。?と言えば、
文部省や自民党文教族(麻生や中山等)の道徳、宗教と「水からの科学」の主張が親和性が有るからです。
科学的に正しいからでは有りません。
其の逆で、科学的には間違い(矛盾)ではあっても彼等の主張とは矛盾しない。
8)現在、学校現場(科学)に対して、宗教、道徳を無理やり導入しようとしている。
9)「水からの伝言」は半世紀前から自民党政府によって始まっている、宗教や道徳の科学(教育)に対する侵犯行為の一環です。
10)全面的に勝利している科学の領域への侵犯行為(ゲリラ活動?テロ行為?)なので、正面切って『道徳である』とか『宗教で有る』とか名乗らず『科学』を詐称するのは、ある意味当然の行為です。
『反宗教活動の難しさ』
1~5までは皆さん誰であれ納得して頂けると思います。
統計をとってみたわけではないが、未だに『科学的に正しい』なんて、極一部の信者以外に誰も思っていません。
そして、この極一部の信者達にとっては世間からの糾弾は、オウム真理教や統一協会や創価学会の例を見れば分かる様によりいっそう信心を深める結果になり逆効果になる。
カルト退治はなかなかに難しい。
今の私が問題にしているのは(6~10)の問題です。
『水からの伝言』をニセ科学で有ると糾弾しても懲りずに蔓延る原因は、『水からの伝言』が元々が宗教や道徳が科学を詐称しているものだからです。
いくら人間並みにブランド服を着ているからと言って犬に向かって『お前は犬だ。人間ではない。犬畜生だ』といってみても何の効き目も有りません。
この言葉は人間(間違った科学)には効き目は有りますが今回の場合には何の効き目もありません。
元々犬(宗教、道徳)なんですよ。
美しい言葉が美しい結果を得られるという安っぽい宗教(道徳)が、科学や科学的思考方法で有るはずがないんですが、如何いうわけか偶々科学的な装いを凝らすと一部の世間から大歓迎された。
此れが所謂『水からの伝言』です。
科学を偽装するも何も、万世一系の神話を科学用語DNAで説明しようとした某宮様の話と同じで、元々が科学ではない。
インチキ臭い新興宗教である大川隆法の『幸福の科学』と五十歩百歩の代物で一々科学者が解説しなければならない科学的に間違っている「ニセ科学」とは種類が違う。
ところが山形大学助教授のapjさんや大阪大学の物理学教授菊池誠などの人物がマジで『水からの伝言はニセ科学である』、『ニセ科学は悪で有る』との啓蒙活動を行っているし、彼等の信奉者の科学者もいると言うから面白い。
この人たちは自分たち科学者が『これはニセ科学です』と説明しないと一般の市民達は(科学に疎いので)科学と宗教(道徳)の区別が付かないと思っているらしい。
余りに馬鹿馬鹿しい。
本当に我々下々には『水には言葉を理解する能力が無いので美しい言葉では美しい結晶は出来ません』なんて一々説明する必要が有るとでも思っているのでしょうか。
普通その様なことは今頃の小学生低学年でも失礼に当たるだろうが、大人相手に真面目に論じていると聞いて思わず溜息が出る。
しかしやっている本人達は大真面目。
自分が何をしているのか、何の為に何を行っているか、何が問題なのかの自覚が全くない。
自分の行いの滑稽さを疑う事は決してない。
『インチキ臭く、宗教的なニセ科学批判者の言動』
勿論インチキ臭い偽科学の数々や超能力とか超常現象とか超科学とかUFOとか宇宙人の来訪とか細木数子の占いとか近頃流行りの江原啓之のスピリチュアルとか統一協会の霊感商法とか創価学会の現世得利の為の財務とか靖国神社の行っている歴史の偽造とか日本政府により数々の隠蔽工作や偽装とか、
小さいものから大きいものまで此の世には科学的でないもの批判しなければならないモノは其れこそ星の数ほど有る。
全てを扱えとは言わないが、そこそこ満遍なく批判しないでは、其れこそ科学的とはいえない。
『胡散臭い科学教信者菊池教授と其の信奉者達』
ところが一部の人(菊池誠)たちはそうではなく、世間一般から見たら如何でも良い『水からの伝言』だけが気になって仕方がない。
なんとも不思議な話だ。
この不思議な人たちはもっと大きな社会的不正には案外鈍感で政府を非難する事になる原発関連の問題点には触れる事はないか、触れるときは原発告発者の詰まらない言葉の揚げ足取り程度の理解に苦しむ事をする。
概してこの不思議な人たちの価値観は大幅に偏っていた、到底科学的な考え方ではないが不思議と道徳的(宗教的)な価値判断をする。
何故?如何して?などの健全な懐疑心から生まれる科学は『科学とはエラーの自己修正過程であると』と考えるが、
其の反対に懐疑心が希薄で信ずる心が優先すれば、如何に科学といえど宗教(科学教)に簡単に変化する。
そのため科学を文字どうり宗教として信じている人は思った以上に案外多い。
『科学』に似ているが全く違う『科学教』
健全な懐疑心が基礎になっている科学と違い、そもそも『科学教』は新興宗教(カルト)なので創価学会やオウムなどと良く似ている。
宗教の基本は『信じる心』です。
だから科学的合理的な理由などは『有ったらあったほうが良い』程度で科学程には重要ではない。
何かの御神体を崇め奉り崇拝したるするし、其の反対に其れを貶める言動には文字どうり宗教的情熱で攻撃したりする。
新興カルト菊池誠氏と其の信奉者達の信じる神(科学)に敵対するインチキ宗教『水からの伝言』は、創価学会にとっての宗門や竹入義勝、矢野絢也元公明党委員と同じようなモノに見えているのでしょうか。
一番不思議なのは、空白部分や間違いが多すぎて今では世界中で完全には誰も信じていない9・11事件のアメリカ政府公式報告書を文字どうり『聖書』として信奉し如何なる疑いも『陰謀論』として攻撃していることでしょう。
完全なるアメリカ教信者ですね。
完全無欠無謬の『聖書』なので、如何なる書き換えや削除修正の類い、勿論疑うことなどは何があろうと許されるべきではないと信じている。
『科学とは何か、宗教とは何か。?』
科学が、今の人類の文化の最高峰で『全ての物事の正誤の判定を独占的にしている』最高権威である。
今の世の中で科学以上のものは有りません。普通の方法で『科学』に敵対すれば誰であれ勝てない。
それで賢い連中は科学で無いもの(宗教、道徳)に科学的な装いをして『科学である』として騙そうとする。
しかしこれ等(宗教、道徳)が科学的に正しくないの事実ですが、本来科学では無いので当たり前で、科学的に正しい方が可笑しい。
『水からの伝言』に対して『科学的に間違っている』『ニセ科学で有る』と批判する一見正しい行為は、
犬に向かって『犬畜生』と呼んで罵倒する様な、意味が有るのか無いのか判らない行為です。
『ニセ科学批判の宗教性』
私が、科学を偽装した『道徳』の『水からの伝』批判で、気になって気になって仕方が無い事が一つ有るんですよ。
不思議な事に、批判している側の『ニセ科学批判』がえらく宗教(道徳)臭い。
相手が科学を偽装した『道徳論』なので、それで道徳論が前面に出ているのかもしれませんが、これは矢張り間違いです。
科学が道徳に介入してはいけないし、道徳は科学に介入してはいけない。
此処で誤解されないように予め言っておくと『水からの伝言』を批判している人達の道徳観(論)に異議を唱えている訳では有りません。
この人たちの道徳的な問題提起に対しては全面的に賛成したいと思いますが、科学に対する道徳的なアプローチだけは賛成いたしかねる。
自然科学と道徳とを関連付けるのは危険極まりない行為ですよ。
科学は万人に平等に共通に適用される。
しかし道徳(内心)は個人個人で別々であるべきです。
昔はそうでは無かったが今では、個人の心の中は誰であれ触れるべきではない聖域で、誰からも干渉されない自由がある。
道徳と社会科学とはある程度の関連性はあるが、其れも限定的であるべきです。
例えば、法律に介入すべきでない。
今イスラム世界で問題に成っているイスラム法は道徳を法律にしたもので、不倫は石打による死刑で、日本なら芸能人や保守政治家なんか殆ど全員死刑ですね。
イギリスでは1960年代までホモを罰する刑法が存在し普通の司法警察が取り締まっていた。
「鶴の恩返し」では有りませんが『決して見てはなりませぬ』言われると誰でもコッソリ覗きたくなるものです。
キリスト教の聖書の道徳を、法律に書いた結果が大変な事になる。
それで今でもイギリス人の男は一生のうちで一度はホモを試してみるし、十分一はホモになるらしい。
「内心の自由や宗教の自由、政教分離」
1)最初『水からの伝言』が科学である、と一般社会に紹介された。
2)科学的に正しいか間違っているかは検証すれば簡単に白黒が判ります。
3)検証の結果は勿論『科学的に間違いで有る』となる。
4)しかし科学論争としての『水からの伝言』論争は終結しても、信奉者達は科学的な検証結果を無視して宣伝活動する。
5)反科学的な宣伝活動に対して、科学者、有識者からの批判や啓蒙活動が行われる。
6)『水からの伝言』が科学的に正しくない(ニセ科学)ことを承知の上で、学校等教育現場への普及活動が一部の公教育関係者に因って行われようとしている。
7)教育委員会と校長会が『水からの伝言』の講演を積極的に行った形跡が有る。
何故ニセ科学として明らかな『水からの伝言』を学校現場に持ち込むのか。?と言えば、
文部省や自民党文教族(麻生や中山等)の道徳、宗教と「水からの科学」の主張が親和性が有るからです。
科学的に正しいからでは有りません。
其の逆で、科学的には間違い(矛盾)ではあっても彼等の主張とは矛盾しない。
8)現在、学校現場(科学)に対して、宗教、道徳を無理やり導入しようとしている。
9)「水からの伝言」は半世紀前から自民党政府によって始まっている、宗教や道徳の科学(教育)に対する侵犯行為の一環です。
10)全面的に勝利している科学の領域への侵犯行為(ゲリラ活動?テロ行為?)なので、正面切って『道徳である』とか『宗教で有る』とか名乗らず『科学』を詐称するのは、ある意味当然の行為です。
『反宗教活動の難しさ』
1~5までは皆さん誰であれ納得して頂けると思います。
統計をとってみたわけではないが、未だに『科学的に正しい』なんて、極一部の信者以外に誰も思っていません。
そして、この極一部の信者達にとっては世間からの糾弾は、オウム真理教や統一協会や創価学会の例を見れば分かる様によりいっそう信心を深める結果になり逆効果になる。
カルト退治はなかなかに難しい。
今の私が問題にしているのは(6~10)の問題です。
『水からの伝言』をニセ科学で有ると糾弾しても懲りずに蔓延る原因は、『水からの伝言』が元々が宗教や道徳が科学を詐称しているものだからです。
いくら人間並みにブランド服を着ているからと言って犬に向かって『お前は犬だ。人間ではない。犬畜生だ』といってみても何の効き目も有りません。
この言葉は人間(間違った科学)には効き目は有りますが今回の場合には何の効き目もありません。
元々犬(宗教、道徳)なんですよ。
悪質なこと、違法な点は、宗教であるにもかかわらず、あたかも科学であるかのように教育することです。つまり、科学と宗教の区別を明瞭にしないで宗教は科学であって、科学は宗教である、というような精神論を教育内容にすることです。何が科学で何が宗教か、の区別、つまり、科学的認識をしていないからインチキなオカルト、宗教に騙されます。何が宗教で何が科学かの峻別をした上で宗教を対象として研究したり、信仰したりするのであれば、それは科学的な態度だと言えます。宗教科学といえば、矛盾に聞こえますが、宗教を対象とした科学なわけで、宗教と科学を峻別していることが前提なわけです。
政教一致の問題では、特定の宗教団体が国家権力を握ったらどんなことになったか?特に、わたしたちは日本国民ですから、戦前の日本政府が特定の宗教、すなわち、神道と結合した結果、どんな事態を招いたのか?こうした歴史の事実を繰り返して認識させる教育・報道をするしかありません。創価学会という特定の宗教団体が国家権力を握るということへの恐怖心を日本国民が認識するには、戦前の国家神道と日本政府がどんなものだったか?を学習する必要があります。
創価王国となってからでは遅いという事実を認識する必要がありますね。創価学会の問題でいえば、やはり、社会科学と宗教の区別を日本国民の認識とするような民主主義運動が必要ですが、多数の国民が社会科学と宗教の区別を認識することは日本国の民主化へ直結しますから、最大の課題ですね。
問題になっている『アメリカの学校で進化論を否定する学校教育』とは州政府が行っている公立の学校での話ですね。
『何が宗教で何が科学かの峻別』
言葉の上では全く違うし、別々のものであるはずなんですが此れが簡単そうで難しい。
特に今回、私が問題にしたのは『科学を宗教として信じている人々』で、新興カルト宗教としての『科学教』です。
この人たちは科学を科学的に理解できず、宗教的に解釈して宗教的な教義として『科学』を信じているんですよ。
しかもこの宗教(科学教)の信者は日本人では可也多い。
科学とは物事に対する『健全な懐疑心』の事で、無条件で『科学を信じる』では宗教になってしまう。
そして今の日本の主要な宗教は仏教でも神道でも儒教でもなく古代日本人の信じていたアニミズムでも無く、『科学教』でしょう。
ましてや世界的に見れば主要宗教のキリスト教なんかは風俗程度です
新興カルト宗教の科学教信者達は、科学的な思考方法とは『疑う心』なのだと少しも思っていない。
科学教の信者達にとっては、科学を疑う『異教徒』は絶対に許す事が出来ない不倶戴天の敵です。
このブログでの主要テーマである『科学が多くの者にとっては宗教と化している。』が理解出来ない人がいる時点で、いかに科学教の力が強いかが判ります。
しかも彼等信者達は、『自分が宗教的な思考方法をしている』とは夢にも思っていない。
自分は科学的に物事を考えている。
科学的だと考えるところが科学教信者の特徴です。
そして宗教信者との教義問答は大概は神学論争、禅問答にしかなりません。科学教信者相手でもヤッパリそうなる危険が有るでしょう。
しかも我々科学教の信徒でない異教徒?に対しては其れこそ文字どうり宗教的情熱で攻撃してくる。
有る意味、恐ろしい話です。
何とか教義問答ではなく、事実だけを争う科学論争に持っていかないと、論争は永久運動になってしまいますね。
破壊的カルトの創価学会の問題点は仰られるとおり大問題なので、これからもまた別の記事を書いていきたいと思っています。
その時はコメント等御協力下さる様に宜しく御願い致します。