Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

近代国家におけるアイデンティティの「素」ってなに?

2009年07月12日 | 思想・哲学・倫理

おひさしぶりで~す。ずいぶんさぼっちゃってますね~。でも放置していても訪問してくださる方々がいらっしゃって、胸にじーんとくるものがあります。気まぐれにしか更新しないブログですが、これからも時々でも覗いてやってくださいませ。

 



さて、ひさしぶりにエントリーするに当たって、最近話題になった国旗国歌への態度の問題に関連して、「『国』とは? 『愛する』とは?」という憲法研究者の樋口陽一さんの記事をご紹介しようと思います。これは月刊誌「世界」の2006年6月号で特集された「憲法にとって『国』とは何か」というテーマの特集記事群の中の一本です。改憲の動きに対して、近代民主主義の原則をもう一度考え直そうという特集です。教育基本法改訂以前の考察です。

教基法改訂への動きがうねり始めた時代背景に、日本人なら国旗を崇拝するべきだの、君が代斉唱時に伴奏・斉唱拒否するなら日本を出て行け、など、「国」や「日本人」といったことばが多用された流れがあります。それは改訂された現在、裁判所が堂々と憲法にそぐわない判決を出してきている状態へと発展してきています。

改訂教基法の中の「愛国心」の表記を問題の俎上にのせて、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできたわが国と郷土を愛する…態度を養う」という文言ですが、そもそも近代国家における国民の結合は、文化とか伝統で結びつけるものではないのではないか、そういう考察を述べている記事です。

改訂教基法は憲法と明らかにそぐわないものになりました。自民党の眼目は、かねてよりアメリカから要求されてきた改憲です。改訂教基法の精神を憲法にも書き込もうと言うものです。

樋口さんはかつて対談されたある作家の考えを引き合いに出されます。その作家は「ネーション」と「ステート」をしっかり区別するべきと提案されたのだそうです。

「ネーション」による結びつきというのはまさに改訂教基法が「愛国心」について言うところの、「伝統と文化」を生来的に共有する民族の集まりが国家である、とする考え方です。しかし、近代国家とは、「ステート」である、ということを強調しておられるのです、樋口さんは。「ステート」は法体系によって結びつけられるもので、それはさまざまにユニークな個々人による「社会契約」という新しい概念によってつくられるものが近代国家だ、とおっしゃられます。

ややこしいですね。「ネーション」は、血のつながり、民族という括りで結び付けられた集まりであり、近代国家はそのようなものではないのです。この説明を、「ネーション」と「ステート」の類似概念である、「エトノス」と「デモス」をつかったこういうたとえ話を述べられます。

「エトノス」というのは、民族、血のつながり、ナショナル・アイデンティティという意味であり、「デモス」は人為、民主主義、制度、の意味です。「ネイション」、「ステート」の概念との類似が感覚的にわかっていただけるでしょうか。

 

---------------------------


デモスとしての国民国家は、人びとの生活実感としては、何でまとまろうとするのか。

井上ひさしさんの芝居に、『兄おとうと』という、吉野作造を取り上げたものがありますが、劇中、主人公の作造に言わせているこんな言葉があります。

ナショナリストの若者が斬奸状(悪者=奸を切り殺す趣意を書いた書状)を持って糾弾に来るのに対して、「このおにぎり(国民の集まりである国家を、米粒を集めたおにぎりに喩えている)の『芯』になっているのはなんだろう」と問いかけながら、吉野が応える場面です。

 

国の素(もと)は何か。

若者はまず、「民族だ」という。吉野は、「ちがうな。民族も種族も国の素にはならない」と言う。なぜなら、「世界のどこを探しても純血な民族など存在しない。わが国もまたしかり」と。

つぎにナショナリストの若者が、「国語を話すから日本人、それで決まりだ」と言う。吉野は「それもちがう。多言語国家もあれば、ひとつの言語を使ういろいろの国があり、その逆もある」と応える。

さらに、「この日の本の国をひとつに束ねているのは国家神道に決まっている」と若者が言うと、吉野は「それでもない。明治以前にはそんなものはなかった。宗教が国の素というのなら、イランもイラクもイエメンも、コーランの教えのもとにひとつの国になっていてもよいはずだが、そうはなっていない」と応える。

結局、「民族、ことば、宗教、文化、歴史、全部だめ。なら『芯』は何か」。吉野が言うのは、「ここでともに生活しようという意志だな。ここでともにより良い生活をめざそうという願い、それが国のもとになる。そして人びとのその意志と願いを文章にまとめたものが憲法なんだ」というわけです。

つまり、ある時代以前から人びとの前にヌっと当然のように横たわってきた何かではなくて、今その時代に生きている人々の意志の力でひとつの公共社会をつくってゆく、ということです。

 

ナショナリストの若者が主張するのが「エトノス」で、括弧つきですが「自然」のもの、言葉とか文化とか伝統とか、そういうネイティブなものです。それに対して吉野の主張するのが「デモス」としての国民で、それは(ひとりひとりユニークな個々人がユニークなままでひとつに)まとまろうとする意志だ。だからこそ、近代国家に値する公共社会をつくっていくためには、「ネーション」と「ステート」という仕分けをしっかりしなければならない、と言うのです。

 


(「『国』とは? 『愛する』とは?」/ 樋口陽一・談/ 「世界」2006年6月号より)

---------------------------


最後の段落で、“括弧つきのですが「自然」のもの、言葉とか文化とか伝統とか、そういうネイティブなもの” とあるのは、伝統、文化 etc... というものも人間の手によるものですが、リアルタイムに生きている人びとが自分で選んだり、つくったりしたものではありません。たいていの場合、伝統・しきたりだから従え、というような強制的に、あるいは伝統・しきたりなんだから従うしかない、というような選択の余地のないものとして受けとめられるものです。自分で選び取ったり、新たにつくってゆくということができないもの、と意味で「人為の及ばないもの」→「受け入れなければならないものとして自ずと存在してきたもの」→「自然と存在するもの」となっています。

つまり近代民主主義国家は、国民が、リアルタイムに生きている人びとが自分で選び、自分でつくってゆくものであり、またそうでなければならないということです、樋口さんが訴えておられるのは。「国の素、国民を統合するもの」は、天皇制をも含む伝統でもなく、まして在りもしない「(純血)日本人のDNA」などではないのです。今、リアルタイムに生きている人びとが、自分の暮らし、自分の人生を目いっぱい良くしてゆこうという「意志」こそ国の素、国民を結びつけるもの、なのだということです。わたしもまったく同感です。「ネーション」、そして「エトノス」によって国家を定義することを否定するところから、近代民主主義国家は始まるものなのです。

しかし、教育基本法はむりやり強硬改訂され、改憲の動きでも「国柄」だの、「日本人のDNA」という強烈なナショナリズム色のことばさえ飛び交うのです。つまり今わたしたち日本を覆う雰囲気は、事実上近代国家の否定であるといえるでしょう。

 

樋口さんは続けて、「エトノス」そして「ネーション」の意味で国をまとめようとすることの危険を述べてこう書かれます。


---------------------------


ただ、国をエトノスの意味でまとめようというのも、ある局面では意義をもちます。たとえば民族自決ということばは、大帝国の支配を解体させて、新しい状況をつくり出して行く起爆剤になることがある。

しかし、多民族帝国を解体させた瞬間に次の局面で現れてくるものはなにか、とりわけ90年代以降、われわれはそれをいやというほど目にしてきました。つまり、本当に民族自決しようとすれば、ひとつの地域の中に実際には入り組んでいるわけですから、それはやがて「民族浄化」に至ったのでした。「出て行け」「出て行かなければ殺す」ということになる。

だからこそ、エトノスという意味での国民、民族、それにつながるようなシンボルをたてる時には、近代国家はいつも非常に慎重だったのです。とりわけ「先進国」や「民主主義国」を標榜する国々では、「民族」ということばが出てくる場合には必ず複数で出てきている。ところが、日本の場合には、公式、非公式を含めて改憲案の下で「民族」ということばが、なんと単数で表記されている。このエトノスの単数表記にこめられている意図には非常に恐ろしい内容を含んでいるということを、わたしたちはもっと自覚する必要があると思います。

 

(上掲書より)

---------------------------


この記事が出されて3年後のわたしたちは、「民族」単数表記の「改憲案にこめられている非常に怖ろしい意図」というのを目撃しましたよね。

カルデロンのり子さんの通う学校に出かけて行き、罵倒、脅迫を行った団体がなんの処分もされずのさばっているのです。わたしがもしのり子さんだったら、恐怖で登校拒否になったかもしれません。立川ビラ事件や麻生総理宅デモ・洞爺湖サミットのデモでの公安の謀略によるデモ参加者逮捕がある一方で、あんな怖ろしい脅迫的デモが容認されるのです、今の日本は。死者こそ出なかったものの、そこにこめられていた意図は、民族浄化の論理に通底するものなのです。

日の丸・君が代への個人的な態度表明の強制排除にもその論理は通底しています。そこにあるのは個々人の意志の自由、表現の自由を否定し、過去の人々が、とくに日本の場合、国を誤らせて、破壊に導いた人びとが作りあげてきた伝統や慣習、しきたりを無批判・無条件に受け入れ、服従せよという暗黙のメッセージが大手をふってまかり通りだしたのです。

 


わたしたちに対抗する術はないのでしょうか。まだ何とかなる道筋が残されています。いま、通読中なのですが、今年の3月に刊行された本に、このようなことが書かれていました。


---------------------------


さらに日本の場合、1955年以来50年以上にわたって、短い例外期間を除き、自民党が一貫して権力の座にあったことによって、権力の融合と集中が一層強化されるという事情があった。

ふつうの近代民主主義国家なら、立法府による抑制均衡のほかにも、権力分立の原理の下で、司法による行政府へのチェックが存在する。さらに言論の自由の下で、メディアによる批判という事実上のチェックも存在する。

しかし、特定の政党が半永久的に権力を保持することが自明の前提となれば、これらのチェック機能も機能不全を起こすのである。

裁判所は憲法上、独立を保障されている。しかし、最高裁判所の長官は内閣が指名することになっており、そのほかの判事も内閣が任命することになっている。したがって、裁判所といえどもその時の内閣の動向、政治の動きとは無縁ではない。

実際、1960年代から1970年代初めにかけて、裁判所が労働事件などで比較的自由主義的な見地からの判決を出すことが多かった時には、その時の自民党政権が司法の左傾化に対して批判的な動きを起こし、最高裁判所判事の傾向が変化した。法廷の入れ替え(court packing)が事実上行われたと言うことができる。

この時以来、政府に批判的な判決を多発すると、人事の面で介入を受ける、ということを裁判所は思い知ったのである。それ以後、政治的な意味を含む事件について、裁判所は積極的に政府権力を批判したり、チェックするような判決を出すことを控えるようになった。

たとえば近年の例として、自衛隊のイラクへの派遣に反対するビラを自衛隊員の宿舎に配布したことが住居侵入に問われた事件でも、一審では無罪とされたにもかかわらず、最高裁は検察の主張をすべて是認し、被告人を有罪とした。これが示す意味は、自民党の永続政権下にあっては、権力の暴走により個人の権利を侵害することについて、積極的にチェックしようという姿勢を、もはや裁判所は放棄したということである。

 


(「政権交代論」/ 山口二郎・著)

---------------------------


息をのみますよね、この文章。でもこれが現実なのです。根津先生やほかの先生方が裁判所によって憲法に反して退けられる背景には、こういうそら怖ろしい仕組みが働いていたのです。

これではもう日本には、近代社会の保障する人権は潰えるのも時間の問題じゃないか、と気分が沈みそうですよね。

でもあとひとつ、方法は残っています。この本のタイトルが示すとおり、「政権交代」です。上記の文章はまさに「なぜ政権交代が必要か」という章にあるのです。

民主党、社民党、共産党、どれも万全の選択肢ではない、それは事実です。しかし、自民党による単独永久支配が続くと、ほんとうにわたしたち、リアルタイムに生きているこのわたしたちの人生が、暮らしがアメリカの投機的野心家や富裕層の使い捨ての道具となってしまうのです。

ひとつの政党が半永久的に政権党に居座り続けることで裁判所が丸め込まれてしまうのであれば、権力の分立が消滅し、事実上独裁政権に堕してしまうのであれば、時折政権交代は起こすべきなのです。決めるのはわたしたちです。わたしたちにはまだ、自分たちの人生をコントロールできる機会が残されています。

わたしは、ものごとには臨界点があると思うのです。それを超えると、もう元には戻れない、という限界がある。

たとえば個人の場合、レイプなどされようものなら、女はもうレイプされる以前の自分には戻れない、一生トラウマを抱えて生きるのです。

また人権を尊重する社会を享受することについても臨界点があります。ある一線を超えるともう失った人権を取り戻せなくなる限界がある。戦前で言えば、それは1928年(昭和3年)の治安維持法「改正」がそうでした。それ以後、多数の人権派の人びと、また多数の共産党員が拷問に遭って、転向を強要され、事実、主義主張を放棄しました。わたしはそのひとたちを責めたりするつもりは毛頭ありません。拷問に耐えうる人間など存在しないからです。ひとえに、治安維持法改正を許した国民に責任があり、それ以後、もう以前の状態には戻れなくなったからです。

現代、2009年、わたしはそういう種類の臨界点はすぐそばまで来ていると感じています。すでに教育基本法が「改正」されましたし、ね。憲法ももう風前の灯です。あと残された希望は、政権交代を地道に支持し続けることだけです。わたしは、まだかろうじて言論がそこそこ自由にできる機会を利用して、人権の本当の意味を調べ、それをブログなどで公開するという手だても、ささやかながら、超ささやかながら、自分にできることかな、と勝手に思いこんでもいるのです。「人権」はいま、誤解を受けて敵意の的になっているからです。

きれいに締めくくれないのですが、今感じたことをここで終わることにします。「世間交代論」は教科書的な内容ですが、わかりやすくまとめられていますので、基礎教養書として、一度読んでおくことをお奨めします。いままで自分言葉でうまくいえなかったことが、言えるようになる気がする本です。

 

コメント (10)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« シチズンシップの未成熟な社会 | トップ | 臓器移植法改定A案の基礎知... »
最新の画像もっと見る

10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
好き嫌いではなく事実を・・・ (かきね)
2009-07-13 03:17:27
沢山の情報ありがとうございます。

日本の場合、それぞれが自由に考え、自立、責任を果たしますから、事実を語るだけでいいでしょう。事実でないものを強制されることはありません。事実を知らしめるところが学校であって。間違いは間違いであるといえば良いでしょう。政治や宗教は嘘で固まっていますから、それがまた事実ですから、そういうものであると、それが、強制してくるものもあると、知らしめればよいのではないでしょうか。教育が独立しているなら別ですが、行政管轄ですからしようがありません。先生やPTAでよく相談されるのが良いと思われます。

そういう相談をしなくても、日本は、神そのものであるというのも事実です。天皇や朝廷によるものが中核ですから。人類にとって具合の良いことに、神はあらゆるモノを融合し進化するものですから、何よりも優れています。これは最も知らしめる価値のあるものですし、そうなれば、宇宙や地球やアジアの旗や歌のあとに表現する地の果て日本の住所を表わす旗や歌として、これまたうまくできていますし。これが、嘘の塊のキリスト教やイスラム教なら大変なことになりますが。

裁判は昨今の裁判員制度なんていうのが出来て、司法は責任を投げ出したというのが本当ですし、今まで、死刑をやってきた罪を国民にも被せて逃げようと・・・裁判なんて素人がねぇ。わたしなら、1件の有罪者につき、国会議員全員と同時に教護院送還でおしまいですね。国会議員も行政官もみんな裁判員制度みたいににしてね。いや、事実を語ればよいでしょう。
返信する
かきねさんへ (ルナ)
2009-07-14 00:12:17
はじめまして、かきねさん。

おっしゃるとおり、歴史教育は事実を提示して、解釈や歴史観は個々人の自発的な研究に任せるのがよいでしょうね。

わたし個人としては、学校の社会科の授業は、一にも二にもまず、憲法の理念、憲法の条文研究、立憲主義採用に至るまでの歴史などを主軸におくべきだと考えています。

だって、今の日本社会の、人権を憎悪する傾向を見ると、あまりの無知に愕然とするからなんです。憲法はその国に生きる際の枠組みですから、無知でいいはずがないんです。でしょ?

それから宗教については、トラウマがあってもう受けつけないんで、無視させてくださいね、ごめんなさい。

またよろしかったら、ご訪問お願いいたします。このたびはコメントを下さってほんとうにありがとうございました。
返信する
憲法の基礎。 (東西南北)
2009-07-14 06:24:26
 結局、観念を優先するか、それとも人命を優先するか、にあると思います。

 人命は受精卵から始まりますが、受精卵には脳がないですから観念・精神は存在しません。

 この場合に、観念・精神を優先すれば、中絶は合法であるとなりますし、人命を優先するのであれば、中絶は原則として違法な殺人であるが、母体の生命が危機が迫っている場合にのみ、正当防衛の成立を認める、ということになります。

 植物人間、脳死患者、痴呆性老人、知的・精神障害者、低学力児、エリート・大衆理論などを考えてみると、結局、憲法の基礎に、何があるか、がはっきりと認識できると考えます。

 観念・精神は多様にあったとしても、人命は、どの個体の人命も等しく人類の生命であって、軽重はなく、客観的に平等である、という個人の生命の尊重を基礎にしなければならない、ということです。

 受精卵から始まる個体・個人としての人間が等しく人類としての生命として共に自然の寿命の限り、生きていける社会にする不断の努力を続けることが、人権・憲法の基礎にある、ということを絶対に譲ってはならない、と考えます。

 したがって、個人の尊厳を理由とする自殺・治療拒否による尊厳死などは、個人が社会によって選ばされた社会的な殺人である、というのが憲法の立場なのだと考えます。

 自殺・治療拒否などによる尊厳死を選ばなくてもいいような社会を形成していくことが人権・憲法の基礎です。
返信する
村野瀬さんのブログへの投稿をルナさんにも報告を。 (東西南北)
2009-07-15 20:58:59
① 「核抑止力が平和を保っているのではない」という証拠はない

 核抑止力論は、核軍拡を招く国家安全保障の事実と論理であることは、戦後の歴史が証明しています。今現在、核軍縮が進んでいますが、それにしても戦後直後からすれば、核軍拡なのです。ゆえに、核兵器のない世界を実現するには、核抑止を完全に否定する各国の合意が必要なのです。核抑止を認める限り、北朝鮮政府の防衛核抑止論も否定できなくなりますよ。もちろん、自民党の極右勢力の防衛核抑止力論も否定できなくなります。こうして、世界には核のドミノ現象、核拡散となり、最悪にはテロにまで核兵器は拡散します。

② 「非軍事同盟・中立の国の平和運動のみが、世界の核戦争を抑止、防止してきた法の力である」ということも断言できない 」

 これは、既に①で述べましたが、核抑止力を完全に否定する民族・国民の非軍事同盟・中立の国の平和運動のみが、世界の核戦争を抑止、防止してきた法の力である、と断言できますし、それが事実なのです。

 戦争の原因は、軍事力であって、民族・国民・人類の存在が戦争の原因ではないからです。

 ですから、国家の安全保障の事実と論理は、必ず軍事力による抑止力論になるのです。

 これにたいして、人類、民族、国民の力で戦争を抑止、防止する事実と論理を示したのが日本国憲法です。

 国家安全保障の事実と論理と民族・国民の安全保障の事実と論理は、矛盾しており、闘争となるのです。

 これが日本国憲法のアイデンティティー、立憲民主主義の基本です。
返信する
参考です。 (東西南北)
2009-07-15 21:46:17
 [C7695] 東西南北さんの間違い

>戦争の原因は、軍事力であって、民族・国民・人類の存在が戦争の原因ではないからです。

通常、軍事力は戦争の手段であって、原因ではありません。(特殊な例外はあるかもしれませんが)

戦争の原因は、支配者の「戦争への意志」です。
「戦争への意思」は様々な要因によって醸成されます。
民族的な憎悪、領土紛争、国内の政治的不安定、宗教対立、思想対立、などです。

相手国の軍事力が当事国と同等か、または上回るほど強力であれば、「戦争への意思」はくじかれ、戦争はおきません。

[C7702] oldmanさんへ。

 1点だけに集中した方がいいようですね。

 戦争の原因は、軍事力です。つまり、国家安全保障の事実と論理です。他方、平和の原因、戦争抑止、防止の原因は、人類、民族、国民の平和と人権・民主主義運動の安全保障の事実と論理です。

 これが現状の社会を分析した上での、事実認識における現実です。

 軍事力は戦争の原因であり、戦争の手段です。だから、国家の支配者である政府が「戦争を起こそう」と動機・目的したとしても、物質的・物理的な軍事力が存在しなければ、戦争は実現しません。

 しかし、国家の支配勢力の国家安全保障の事実と論理は必ず、軍事力による抑止力論へ堕するのです。

 したがって、日本国憲法、立憲民主主義の安全保障の事実と論理は、軍事力による抑止力論、国家安全保障の事実と論理を否定する法なのです。

 現実においては、以上の2つの力が絶えず、矛盾し、せめぎ合い、闘争しているのです。

 こうした現実の中で、傍観者として振舞うのではなく、明確に核兵器の抑止力及び軍事力の抑止力を完全否定する立場から、国家安全保障の事実と論理を抑止、防止していく人類、民族、国民の人権・民主主義、平和運動に参加していく主体性、能動性が求められるのです。これが法です。

 その上で、当面する具体的な問題を解決するために現状よりも1歩でも2歩で前進させていく知恵の結集が必要だということです。

出所:http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1299.html#comment7695
 
返信する
東西さんへ (ルナ)
2009-07-16 00:13:08
こんばんは、東西さん。

「憲法の基礎」のコメント、ちょっとむずかしいお話ですね。臓器移植法A案のことをおっしゃっておられるのでしょうか。

今回の法が通ったのは、移植手術が必要なお子さんを持つ親御さん方にとっては朗報だったでしょうね。

さあ、でも脳死状態の親族を持つ方々にとっては、ショックです。

どちらの側に立つか。究極の選択ですよね。

どちらの側に立って法を通すにしても、国民の議論が十分尽くされていないことがわたしは気に入りません。裁判員制度についても同じです。

わたしは…どう判断していいのかわからないです。憲法上の判断についても、専門家の意見をまず聞いてみたいです。賛否両論を、ね。

> 個人の尊厳を理由とする自殺・治療拒否による尊厳死などは、個人が社会によって選ばされた社会的な殺人である、というのが憲法の立場なのだと考えます。

これは快哉です^^。輸血拒否で信者や、その子どもたちを死なせているエホバの証人の連中に聞かせてやりたいです^^

それから、玲奈さんちへは週末に覗ってみますね。
返信する
ルナさんへ。 (東西南北)
2009-07-16 01:34:44
 こんばんは。

 脳死・臓器移植法については、臓器移植と脳死の問題を区別して認識しなければなりません。

 臓器移植が必要な患者さんがいてもいなくても、個体死していると断定できもしない人間の臓器を摘出したら、殺人です。

 問題は、脳死が人の死である、と断定できるか否かの事実問題、医療科学の問題です。

 そして、どうしても「生きているか、死んでいるか、わからない」というのであれば、価値判断のレベルの問題となりますが、その場合にも、臓器を摘出すれば確実に死に至りますので、脳死ではなく、心臓死を人の死とすることが価値判断論としても、妥当・穏当です。

 このテーマについても、玲奈さんのブログでコメントしていますので、週末にでも覗いてみてください。

 出所:http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1309.html
返信する
補足です。 (東西南北)
2009-07-16 01:43:52
 臓器移植を受けた患者さんについても心臓死を人の死の基準として適用し、脳死患者についても、心臓死を人の死の基準として適用するということです。

 「もう助からない」「もう意識は戻らない」一人の人間の臓器を摘出し、確実に死なしたり、殺しておいて、その臓器で自分が生き残るということを法が認めてはなりません。弱肉強食を戒める点に、憲法のアイデンティティーがあると言えます。

 「もう死んだも同然なのだから、臓器移植で助かる患者さんのために確実に死になさい」という法律は法ではなく、暴力の最たるものです。 

 法は脳死・臓器移植法を認めてはいないと東西は考えますが、「悪法も法なり」という意味では、「法」として機能してしまっています。

 
返信する
東西さんへ (ルナ)
2009-07-21 02:02:54
臓器移植法案について解説記事を見つけました。

早速書き写しましたので、ご覧いただければうれしいです。
返信する
ルナさんへ。 (東西南北)
2009-07-21 02:57:43
 早速、読んできました。続きも楽しみしています。

  
返信する

コメントを投稿

思想・哲学・倫理」カテゴリの最新記事