Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

『虎に翼』 第119回 感想

2024年09月13日 | 思想・哲学・倫理

 

 

 

山本周五郎の傑作のひとつといわれている作品に「虚空遍歴」がある。武家の中藤冲也は浄瑠璃に生きる道を見出し、いちどは世間で喝采を以て受け入れられるが、大衆受けする芸能に満足できない。より深い芸術を探求して、武家の身分を捨て、諸国を遍歴して、求める芸術を創ろうとするが、思うようにいかず、やがて酒におぼれて精神を壊し、病死する。「人間の真価はなにを為したかではなく、何を為そうとしたかだ」という周五郎の思想を物語にした小説。第119回の「虎に翼」を見て、この作品を思い出した。

 


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航一
やっぱり僕には納得できない。ここまできて研究の道を諦めるなんて。優未さんが一番に話してくれたのも本当は悩んでいるからでしょう?

 

優未
お母さんに話そうとしたらおなかが ぎゅるぎゅるしちゃったから。

 

航一
研究者にならなくてもせめて 博士課程をきちんと終えて、そこから考えても遅くないんじゃないですか?

 

優未
本当にごめんなさい。でも 私はそうは思えない。大学 修士課程 博士課程と進んでいく度に周りから遠回しに言われてきた…。この先に お前の椅子はないって。私ね、初めて心から勉強が楽しいと思えたからここまで来ちゃっただけ。博士課程を終えた先の椅子は男女関係なくとても少ないの。

 

航一
厳しい戦いかもしれないけれど男女関係なく機会は訪れるはずです。

 

優未
もう戦う自信がない。この先 私は自分の目がキラキラしてる想像がつかない。寄生虫の研究を嫌いになりたくない。だから すっぱり諦めたいの。

 

航一
やめて どうするんですか?

 

優未
それは まだ分からない。

 

航一
今 弱気になっているだけなんじゃないですか。諦めず、もがいてそれでも進む先には必ず希望が…。

 

 


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航一の考えの土台にあるのは、世の中で努力に応じた成果を上げる、それでこそ甲斐があるという、立身出世志向。その成果のためには自分の意に反した決断が必要であり、それが大人という資質である、という考え方。せっかく大学院まで来たのだから、せめて博士号という世間の評価を得る資格だけでも取った方がいい。もっともな論理ではあるが、それは世間の評価を主人とみなす考え方でもある。

 

こんな考え方のさらに土台にあるのは、資本主義社会での社会通念。結果を出さねば利益につながらない。利益を出すためには人間個人の望みなどは棄てなければならない、それが人生の厳しさだという考え。

 

でも寅子はそれとは違い、個人中心の人生観を披露する。

 

 

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寅子(闖入してきて)
航一さん 黙って!

 

航一
寅子さん?

 

寅子
優未の道を閉ざそうとしないで。

 

航一
閉ざす? 僕は彼女に諦めるなと伝えているんですよ?

 

寅子
それが 優未の進む道を妨げているの。どの道を、どの地獄を進むか諦めるかは優未の自由です。

 

航一
あ…?
じゃあ、寅子さんはこの9年近くの時間を無駄にしろというんですか?

 

寅子
はて? 
無駄? 
手にするものがなければこれまで熱中して学んできたことは無駄になるの?

 

航一
なるほど。抽象的で情緒的な方向に議論を持っていこうとしていますね。

 

寅子
私は努力した末に何も手に入らなかったとしても、立派に生きている人たちを知っています。

 

航一
寅子さんは現実を見ていない。甘すぎる! 
この年齢で何者でもない彼女に社会は優しくない!

 


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その通り。この社会で有利に生きてゆくためには、個人中心の人生観では評価されない。それどころかむしろ排除差別の犠牲にすらなりかねない。

 

しかしそれは、会社員人生をのみ個々人に強いるこの社会のエゴなのです。この社会をけん引しているのは多国籍メガ企業のリーダーたち。利益を出すために、働く人たちから人間性をはく奪し、部品扱いする人たち。人間の多様性を認めず、人生尾の多様性も認めない。商品を買わせるために必要な程度にしか給料を出さず、その程度にしか庶民に生存権を認めない人たち。だから公害で庶民が人生を棒に振らされても、利益のためには切り捨てようとする。庶民の人生を保障するためにカネを出すのは無駄な出費なのだ。

 

そんな人間にやさしくない社会に迎合する必要はないし、むしろ迎合してはならない。人間一人一人は弱いものだから、生涯をかけた努力が実らないほうが多い。だからと言ってその人生に意味がないなんてことはない。「人間の価値は何をなしたかではなく、何をなそうとしたか」です。自分がなそうとしたことに誠実に生きることが、それこそが豊かな人生である、と寅子も、航一の娘ののどかも主張します。

 

 

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寅子
私は 優未が自分で選んだ道を生きてほしい。
優未。あなたが進む道は 地獄かもしれない。それでも 進む覚悟はあるのね?

 

優未
うん ある。

 

寅子
ふふふ。

 

航一
いや 駄目だ。絶対に駄目だ!僕は かわいい娘が傷つくのは見たくないんだ!

 

のどか(丸メガネにロン毛の冴えない風貌の誠也を連れて闖入)
お父さん!

 

航一
えっ、はあ?
じゃあ あっ つまり…つまり 後ろの あな… あなたが…。

 

のどか
お父さん あのね…。たとえ傷ついたとしても、やっぱり自分の一番で生きた方がいいんだよ。本当は 誠也さんと結婚するつもりだって話そうと思ってた。でも… 私 誠也が好きだけど普通になるならばやっぱり一緒にいられない。私、たとえワガママと言われようと、普通の家庭も子供もいらない。自分の人生を自分のためにだけ使いたい。誠也にも、私と一緒になるために芸術の道を諦めてほしくないの。だから…。

 

誠也
えっ ちょっと待って 待って。それは つまり 俺が普通にならなくてものどかはずっと一緒にいてくれるってこと?

 

のどか
えっ?

 

航一
皆さん! あっ すみません…。
一旦… 一旦 落ち着きましょう。

 

寅子
航一さんがね。

 

航一
あっ… ああ… ん…。

 

誠也
お義父さん…。

 

航一
お義父さん?

 

誠也
お義母さん。

 

寅子
はい。

 

航一
はい?

 

誠也
のどかさんは きっと苦労するし、自分の幸せは自分で見つけてもらうことになるし、人が当たり前に持ってるものはほぼ持っていないような人生になるかと思いますが…。僕たち結婚します。

 

のどか
んっ? えっ? えっ…?

 

誠也
大人の僕らが親の承諾を得るものじゃないかなと。

 

のどか
それもそうね!

 

航一
ハッ… フフフフフ…。

 

寅子
あらやだ 怖い。

 

航一
あっ いや… いや…。こんなにも感情が高まり揺さぶられることが人生に起きると思っていなかったので。

 

寅子
じゃあ みんな自分の道を選んで進むということで。そろそろ うなぎが届きますから。大丈夫?

 

航一
はい ごめんなさい。

 

寅子
届いたら みんなで食べましょう。

 


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「ふつう」であるということは、会社と会社を中心とした世の中に恭順であることを態度で示すこと。ロン毛を短く刈り込むこと。大企業リーダーたちがそれを望むから。彼らは男が髪を伸ばすことも、「戦場」と名付けられた男の職場に女が進出してくることも、まして同性同士の恋愛結婚の権利も気に入らない。彼らの感覚をベースにして、彼らの気に入るモラルを庶民に強いてくる。給料で生計を立てる庶民は、いわば生殺与奪の権を握られている状態なので、自分には自分の価値観があると胸を張って抵抗できない。卑屈に従わざるを得ず、その屈辱感を、自分と同じように屈しない人に向けていじめや排除の圧力をかけて鬱憤を晴らすことしかしない。これが世の中を閉塞させる。

 

「お父さん あのね…。たとえ傷ついたとしても、やっぱり自分の一番で生きた方がいいんだよ」。
人に言われたとおりにして、それで褒賞を得るうれしさより、自分の思うことを追求して失敗するほうが、人生のコントロール感を持っている分、ずっとましなことです。自分の人生を自分でコントロールしているということも充足感の重要な要素だから。そのうえいくらかの成果を得られればなおのこと満足度は大きい。その満足感、充足感は、サラリーマンの会社への貢献と報酬などとは比較にならないくらい大きいだろう。

 

「人並みに」二人の子どもを持ち、車を買って、家を建て、日曜日に、商業化されたレジャー地で遊んだり、ショッピングモールをぶらつく類の、消費の「幸せ」は、それがなくても限られた人生を終えようとしているときに感じる充足感には無関係。

 

こんな話を読んだことがある。

 


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「先生は、後悔したことはありますか?」
静かにベッドに横たわったあなたは問う。
「後悔…ですか?」
「ええ」
ともすれば眠ってしまいそうな、そんな強い眠気と闘いながら、あなたは¨もろもろ¨を振り払うかのように大きく頷く。
「後悔…」
「そう、先生にはないでしょうか」
わたしは、首からぶら下げた聴診器の先を左手でやわらかく握りしめた。ひんやりとした感覚が手から入り、脊髄を通って脳に達する。
「もちろん、ありますよ」
「ある?」
「ええ、後悔するのは…しょっちゅうですよ」

 

医者であるということで、後悔がないと思うのなら、それは間違いである。理想主義者は、あるいはロマンチストは、期待や希望に裏切られる現実と、それに従ってもたらされる後悔と常に戦わねばならない。

わたしはそういう意味で、後悔の名人といえた。終末期医療の最前線で、正解がない問の連続の中、日々「こうしておけばよかった」、「ああいえばよかった」、そのような仕事上の後悔とも無縁ではない。

おのずとゆっくり、顔がほころぶのがわかった。自嘲ではなく、自分が凡夫であるという、悩み多きただの人間の一人であるという、すがすがしい諦念だ。

 

「わたしだって、いつも後悔しています」
ダメ押しすると、あなたもつられてやや微笑んだ。
「そうなんですか」
どことなく安心したようだ。声も落ち着きを取り戻している。
「ええ、そうですとも」

 

わたしは緩和ケアという、主に末期がんの患者さんの心身の苦痛を取り除く仕事をしている医者である。今まで数千人の最期を見届けてきた。

 

とりわけがんの末期は様々な苦痛を伴う。ゆえに、私の仕事の大半は、主に薬を用いて、その増大した苦痛を取り除くことに向けられている。終末期の患者さんを苦しめるのは身体的な苦痛である。私はそれを取り除くスペシャリストなのである。しかし一方で、身体的な苦痛は取り除けても、その人の心の苦痛を取り除くことはなかなかに難しい。心の苦痛を訴える患者さんと出会うと、わたしも迷い悩むことがよくある。もはや解決できない、あるいはおそらく解決できないであろう問題を患者さんから示されると、わたしにはどうすることもできないのである。ただただ裸の人間として向き合い、お話を聞かせていただくよりほかはない。そんなとき、表情が曇るのが自分でもわかる。

 

あなたの余命は、おそらく短い週の単位である。すなわち、あなたが生きられるのは、おそらくあと数週間なのである。

 

あなたはもはや体が自由にならない。満足に歩けない。日中も寝ている時間が多くなった。終末期によくみられる、体力の低下を睡眠時間を増やすことで補おうとする現象である。つまり、あなたの思考力も以前のようには働かない。あなたは健康な時にやすやすと解決できた問題が、もう簡単には解決できない。あなたの後悔が、あなたの人生で解決していない問題に由来しているのであれば、それを取り除くのは難しいかもしれず、それを聴いたわたしも、ともにその後悔の痛みを引き受けることしかできないのかもしれないのである。

 

ごくっと唾をのんだ。
しかし、あなたに後悔を持ったまま、亡くなってもらいたくない。
姿勢を正すと、わたしは問うた。
「あなたの、後悔は何ですか?」
あなたはゆっくり口を開いた。
「わたしの後悔は…」

 

 


「死ぬときに後悔すること25」/大津秀一・著

 

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この前書きの後、後悔を吐露した患者さんの話が25にまとめられ、「生きること」を考える内容となっている。25の後悔のうち、いくつかを目次から引いてみると、

健康を大切にしなかったこと
煙草をやめなかったこと

そして、

自分のやりたいことをやらなかったこと
悪事に手を染めたこと
他人に優しくしなかったこと
自分がいちばんと信じて疑わなかったこと
仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと
記憶に残る恋愛をしなかったこと
愛する人に「ありがとう」を伝えなかったこと

…とある。

 

このうち、「自分のやりたいことをやらなかったこと」の章では…

 

 

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おそらく日本人はまじめすぎる。もう少し肩の力を抜かないと息が詰まる。そしてもう少し自由に生きるとよいと思う。見えない鎖に縛られすぎている。

...

 

自分勝手の自由ではなく、自らによって立ち、何ものにも束縛されない真の自由に生きる人間は本当に強い。心の部屋に清涼な風が吹き込むように、窓をいっぱいに開けて、己がしたいように生きるべきだ。とにかくいまわの際には、自分に嘘をついて生きてきた人間は必ず後悔することになる。

 

転職したいなら、今すべきである
新しい恋に生きるなら、今すべきである
世の中に名を残したいのであれば、今からすべきである。

 

命の時間は決して長くない。毎日無用なストレスにきりきり耐えて、レールに乗るばかりの人生を走っても、最期に感じるのは「おれは忠実なバトンランナーであった」という思いだけであろう。

 

生命の役割は、バトンに載せて、「思い」を次世代につなぐことである。バトンをつなぐことも大事ではあるが、それが目的ではない。バトンをつなぐのにどんな(自分独自の)すごい走りを見せたのか、それが次のランナーを励ましもすれば、TVの前の観衆をも魅了するのである。苦しそうな顔をして、落とさないように落とさないようにとおっかなびっくり走って、素晴らしい走りができるだろうか。胸を張って、自分の思いに忠実に、全力以上の力で走るからこそ、皆が感動するのではないだろうか。

 

もちろん、秩序を壊せとは言わない。そして新しい人生には、それなりの逆風が吹くだろう。それは覚悟しなければならない。地図のない海を初めて航海しうとすれば、そこには多くの未知の障害が待っている。それは人生も同じであろう。しかし、わたしもたくさんの人生の最後を見てきたが、

 

生涯を愛に生きるため、新たな伴侶と生きた女性
都会での暮らしを捨てて、高原で第二の人生を自然とともに生きた男性
最期の瞬間まで、自分の作品に心血を注ぎこんでいた男性(彼の死自体も、彼の作品の新たな1ページとなった)

 

こうした彼らすべてが輝いていた。そこにはほとんど曇りもなく、死に顔は穏やかで、実際、後悔などはほぼなかったのではないかと思えた。

 

社会的な規範からすれば、「自由にいきる、自分に忠実に生きる」人生は必ずしも完全な善ではないかもしれないが、自分の思いに殉じたのであろうその人生は、後ろ指をさされるどころか、不思議と潔いものである。なので自由に生きた人生はみなから尊敬はされないかもしれないが、愛される。

 

一方で、自分の心の声に耳を傾けることなく、社会的に規範のみを重んじ、したいと思った多くのことを心のうちに押し込めたままで、
「先生、ひたすら耐えるだけのわたしの人生は何だったのでしょうか」と後悔を漏らすのは、どうなんだろう。
自分というものを取り戻し、自分らしく生きることができれば、このような後悔もはるかに少なくなるのではないかと思う。

 

予定調和ばかり気にして、あるいは周囲と和することばかり考え、空気を読みすぎるのはあきらかに精神衛生上よくないし、そのような無形の長年のストレスが病気を生む可能性もある。

 

だからやりたいことは普段からどんどんやるようにし、他人に迷惑をなるべくかけないという前提で、もう少し、好きに生きてみてもよいように思われる。自由に生きても、忍耐で生きても、文句を言われる量はそれほど変わらない。だとしたら自由に生きたほうが、自分のためになるのではないか。

 

後悔しない生き方、それは「自分を取り戻す」ことだ。自分を意識せずとも、自分を体いっぱいに表現している子どもと同じようになれば、おのずと人生の楽しみを取り戻すこともできると思う。

 

やりたいことをやらねば最期に後悔する。

 


(同上)

 

--------------

 


そう、だから優未は目標を変えてもいいし、誠也とのどかは共に生きていきたいのであれば結婚すればいい。うまくいかなかったら別れればいい。大の大人が結婚するのに親の許可なんていらない。娘が結婚するのに父親の許可が必要だったのは家制度、家父長制のような封建的価値観の時代の話。

 

ただ、今の日本は、資本主義の制度に異議を唱える人には「優しくない」。忍従の生き方で、世の中に恭順して生きてきた労働者にさえ、老後や負傷や病気で働けなくなれば、ほぼ何の補償もなく死ぬに任される。コロナ禍がそれを実証した。こんな日本の仕組みは変えなければならず、そのためにはわたしたちはそれなりの労力を提供しなければならない。でも、こんな無慈悲な日本を変えることができた日には、それは大きな喜びとなるだろう。

 

あと、航一さんはものわかりがよく、優未とのどかと誠也の望みを受け入れたが、現実のエリートは、逆に激高して少なくとものどかと誠也は勘当扱いにするだろう。寅子やのどかの思想は、権威者から評価してもらうために、多くの犠牲を払って、勉強し、のし上がってきた自分の生き方を真っ向から否定するものだからだ。

 

 

 

 

 

 

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学校生活と子どもの人権に関する宣言

2020年09月30日 | 思想・哲学・倫理

 

 

 

学校生活と子どもの人権に関する宣言

 

 

 

本文

 

いま、子どもが人間として生きる基盤を培う学校は、放置できない現状にある。教育条件の整備がなおざりにされ、教育内容への統制の強化が問題とされるなかで、子どもは、学歴偏重の風潮を背景にした受験競争にさらされ、詳細極まる校則、体罰、内申書などによって管理され、「おちこぼれ」、「いじめ」、登校拒否、非行など深刻な事態に追い込まれている。さらに、子どもの非行を警察依存で処理し、教育的対応を放棄しようとする社会的傾向も強まっており、未来を開く子どもの人権侵害は深刻な事態にある。


子どもも、憲法で保障される自由や人格権の主体であり、教育を受け、よりよき環境を享受し、人間としての成長発達を全うする権利を有する存在である。何人といえども子どもの人権を侵害することは許されない。


われわれは、国及び自治体に対し、憲法及び児童憲章に定める子どもの権利保障を徹底させ、教育基本法、学校教育法などに規定する教育目的を達成するため、教育条件を整備する具体的措置の速やかな実施を求める。同時に、父母、教師及びすべての人々に対しても、子どもの人権を保障する責務があることの自覚を求め、共に、体罰や「いじめ」の一掃、「おちこぼれ」の解消を図り、子どもや父母の校則制定・改定への参加の機会の保障、子どもに対する処分に際しての適正手続の保障、内申書などの自己情報を知り・質す機会の保障など、子どもの人権の確立を期する。


さらに、われわれは、子どもの権利の救済窓口を設置するなど、具体的な子どもの人権擁護のため全力を尽す決意である。

 


右宣言する。

昭和60年10月19日
日本弁護士連合会

 

 

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理由

 

1.

 日本国憲法11条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」と規定し、同法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」と規定している。さらに、同法18条は、奴隷的校則及び苦役からの自由を、同法19条は、思想及び良心の自由を、同法20条は、信教の自由を、同法21条は、集会・結社・表現の自由を、同法31条は、適正手続の保障を、それぞれ定めている。


これら憲法で保障された基本的人権は、すべての人々に対して保障されているのであり、もとより子どもも例外ではない。


右の権利・自由の保障に加えて、子どもは成長発達過程にある存在であり、人類の未来を開く存在として、その可能性を全面的に開花させるため、おとなに保障される以上に人権が保障されなければならない。その中心となる権利が、同法26条の教育を受ける権利であり、よりよき環境を享受する権利である。学校教育の過程にあるということは、子どもに対して、より十分な人権保障を要求する根拠にこそなれ、子どもの人権を制限する根拠にはなり得ないものである。

 


2.

 かつて、子どもは、親や国家の保障の客体とみられてきた。


しかし、現代の人権思想は、子どもが固有の権利及び自由の主体であることを承認している。日本国憲法の精神に従って、1951年(昭和26年)5月5日に制定された児童憲章は「児童は、人として尊ばれる。児童は、社会の一員として重んぜられる。児童は、よき環境のなかで育てられる。」と三大原則を宣言した。


国際連合総会は、1959年(昭和34年)11月20日「児童の権利宣言」を採択し、子どもを次の世代を担う主体として、その心身の健全な発達を図ることが社会全体の責任であることを宣言した。


さらに、わが国においても1979年(昭和54年)9月21日に発効した国際人権規約は、右「児童の権利宣言」と1948年(昭和23年)12月10日国際連合総会で採択された「世界人権宣言」とを人権の通則と認め、A規約及びB規約に、子どもの権利をより具体的に規定している。子どもが権利の主体であることは、明確な法的根拠を与えられているのである。

 


3.

 子どもの個性が豊かに開花されることは、他の市民的、政治的、文化的、経済的人権を有効に働かせる前提となるものであるから、人間的に成長発達し、平和的な国家及び社会の形成者として、個人の価値を尊び、自主的精神に充ちた国民となるための教育を要求する権利は、子どもの人権中の人権とさえよぶことができるものである。


最高裁判所も、昭和51年5月21日の学力テスト事件判決において、子どもが学習権の主体であると判示し、このことを承認しているのである。


子どもの教育を受ける権利の内容は、憲法、教育基本法によって根拠づけられ、国際人権規約A規約13条においても、教育の目的は「人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきこと」と規定されている。

 


4.

 ところが、わが国の現実は、果たして子どもが人権の主体として位置づけられているのかと問わざるを得ないほど子どもの権利は危機的状況にある。なかでも、人間として生きる基礎を培う重要な場である学校での人権侵害は深刻である。


学歴偏重の社会風潮を背景とする能力主義の名の下に、偏差値にかたよった受験競争が展開され、教師は、知識偏重の学習指導要領を消化することに追われ、授業についていくことのできない多くの子どもをおちこぼし、子どもの教育を受ける権利が侵害されている。


久しく要求されてきた大規模校の解消や少人数学級が実現されず、他方、教師に対する管理は強化され、教師が一人一人の子どもを人間として大切にし自信とゆとりをもって教育に打ち込むことを困難にする教育行政の現実を背景にして、多くの学校は、子どもの自主性を無視し、問題を起こさせないことにのみ目を奪われ、子どもや父母の意見を聴くことなく「生徒心得」などを制定して、子どもの学校内外における画一的な生活管理を強化している。「生徒心得」などの多くは、校内生活の心得、所持品規制、服装や髪型の規制、校内掲示や集会規制のみならず、通学路の規制から本来自由であるべき校外生活のあり方に至るまでこと細かく規定しており、子どもの精神的自由(憲法21条)、憲法13条から導かれるプライバシーの権利、いかに生きるかを自ら決定する権利、あるいは国際人権規約A規約13条に定められた「親権者などが、自己の信念にしたがって児童の宗教的および道徳的教育を確保する自由」を侵害する危険性が極めて高いものである。


そして、このような微細な「きまり」を押しつける手段としても、学校教育法11条で禁止されている体罰が違法に行われており、本年5月には、高校教師の体罰による子どもの死亡事件まで発生している。教師に認められる指導懲戒権の行使に際しても、子どもの名誉権、人格権(憲法13条)を無視するような言動が日常的に頻発している。また、出席停止処分のごとき子どもの教育を受ける権利を剥奪するに等しい措置を行う場合でさえ、子どもや父母の弁明の機会は、権利として保障されていないのである。これらの実態は、国際人権規約B規約7条に定める「非人道的な若しくは品位を傷つける取扱いの禁止」に違反するものである。


また、学校の内申書は、内容が教師によって一方的に作成され、当該子どもや父母が知ることができないという現実と、その内容が進学の合否に影響をあたえるということから、子どもの心理を抑圧し、微細すぎる「きまり」にも従順な子どもをつくり出す機能を果たしている。


非行を行った子どもに関して、ときとして学校から警察あるいは家庭裁判所に対し、報告書が提出されているが、その報告書も、学校が一方的に作成するものであり、伝聞証拠に基づく事実も記載されているが、子どもや父母は内容を知ることができず、この点で内申書と同様の知る権利の侵害が行われているといわなければならない。また、報告書の内容には「学校教育の限界を超えた」という文言が多用され、学校は、教育機関としての役割を安易に放棄しているのではないかとの危惧を禁じ得ない。


さらに重視すべきことは、警察に対する学校の依存関係が、今日一層深まりつつあるということである。警察庁は、少年警察体制の一層の整備を図ると共に、警察の総合力の発揮と民間の力の積極的な活用による総合的な少年非行対策を推進する必要があるとの観点から、昭和57年5月27日「少年非行総合対策要綱」を発表し、少年を非行から守るパイロット地区活動等の地域活動の強化や、本年2月13日に施行された風俗営業取締法「改正」法にみられるような有害環境等の浄化の促進などと並んで、学校への働き掛けを強化するとの方針を打出し、さらに進んで、警察自ら、非行に全く関係のない子どもに対しても規範意識を持たせるための指導が必要として「人づくり活動」に乗り出している。昭和38年に成立し、昭和45年には全国の90パーセントを超える学校で組織されている「学校警察連絡会」は、右「少年非行総合対策要綱」が発表されて以降、一層活発化し、今日、全国各地で学校から警察に対し、生徒の名簿が提出されているという事実などをみるとき、学校や教師が、子どもの人権について、どれほどの理解と認識を有して教育に携わっているか疑問をもたざるを得ない。

 


5.

 このような、子どもの人権が存在しないかのごとき学校、教師の管理は、子どもの成長発達にいかなる影響をもたらしているであろうか。


心理学者の分析によれば、管理された状況におかれた子どもは、自らの判断を必要としない状態にならされる結果、創造性や活力を奪われ、主体性を失い、自信を喪失し、多数派に同調し、同質化をもとめるようになると発表されており、さらに、人間は、権威に弱く、強い強制の下では、自主性を失うばかりか、むしろ不道徳、無責任を学習するとの実験結果の報告もある。


近時、「他から指示されなければ、主体的に何もできない自立性のない子どもが増えた」とか、「無関心・無責任・無感動」のいわゆる三無主義の子どもや、自分中心で他人の痛みを知ろうとしない子どもが多くなったとの指摘がなされている。そもそも民主主義社会は、自主的な個人の独立した理性を前提としてのみ存立できるものである。その視点から今日の子どもの現状をみるならば、わが国の明日の民主社会を担うべき主体が育成されていないとさえいえるのであって、その意味では、管理に反発して一過性の非行に走ることなどとは較べものにならないほど深刻な子どもの病理現象が進行しているのである。


今日の重大な社会問題となっている、「いじめ」、登校拒否、中途退学、非行などの増加は、社会・文化的背景、社会の価値観や社会構造に深く根ざしているものではあるが、学校における管理の状況と無関係ではあり得ない。これらの子ども達の現象の中に、せめて学校だけは、個人の価値を尊び、心身共に健康な国民を育成するにふさわしい教育の場として早急に復活して欲しいと願う切実なさけびをみることができる。

 


6.

 子どもは、社会的に弱い存在であるが故に、自らその権利を主張し得ないところに特殊性をもつものであって、まず、第一に父母が、そして保護者が、地域住民が、学校の教師が、さらには社会全体がその権利の実現を保障する責務を負うものとして尽力しなければならない。


 事態は深刻であり、1日も放置することは許されない。国も自治体も、父母も、教師も、全国民がいますぐ子どもの人権の確立に立ち上がらなければならない。われわれは、まず、国及び自治体に対し、憲法、児童憲章、国際人権規約を遵守し、教育基本法、学校教育法に規定する教育目的を達成するため、大規模校の解消、少人数学級の実現、教師の教育の自由の保障、学習指導要領の見直しなど教育条件を整備するための具体的な措置を速やかに実施することを求める。


 同時に、子どもの人権侵害が、一部の教師、父母の人権感覚の欠如により助長されていることに留意し、子どもの人権を保障する責務の自覚を求め、地域社会の人びとと手をつないで、基本的人権尊重の理念を徹底させ、体罰や「いじめ」を一掃し、「おちこぼれ」の解消を期する。さらに、子どもに対する処分に際しての告知・聴問、不服申立手続の保障、非行を行ったとされる子どもについて教師が作成する家庭裁判所や警察に対する報告書、内申書などの自己情報を知り・質す機会の保障、校則を制定・改定する場合に子どもや親が参加する機会を保障し、今ある校則を見直すなど、子どもの人権の確立を期する。


 子どもの権利は、子どもとしての権利であると同時に、自らがおとなへと成長する権利でもある。子どもの権利は、歴史的には、おとなの人権思想から派生したが、現代では、子どもの人権を保障することが、人権一般を豊かに発展させることにつながるのである。

 


7.

 子どもをとりまく環境の悪化に伴い、非行件数が増加していくなかで、警察による犯罪捜査規範や少年警察活動要綱すら無視した少年補導の濫用、暴力を伴う違法な取調べ、強制された虚偽の自白による寃罪事件などがしばしば発生している。それにもかかわらず、少年保護事件については、再審制度すら確立していないのである。


 また、「個別性、社会性、科学性、教育性」を尊重し、ケースワーク機能を生命として発足した家庭裁判所の少年事件の取扱いは、近時、形式的画一的な処理に傾き、最近では、最高裁判所から「少年事件処理要領モデル試案」が出されるなど、家庭裁判所に期待されている子どもの成長発達権保障機能は、ますます減退しつつあり、さらに法務省は、少年法を福祉と教育の法から処罰と取締まりの法へと変質させる動きを進めている。


 われわれは、これらの事態を座視することなく、これまで、少年事件の附添人活動や少年問題法律相談活動、さらには民事事件訴訟、行政事件訴訟あるいは少年法「改正」反対の活動を通じて、子どもの人権保障の重要性を訴えてきたが、今後とも、これらの諸活動を拡充すると共に、学校をめぐる今日の深刻な状況にかんがみ、会内に子どもの権利の救済窓口を設置することを含め具体的な人権保障のために全力を尽くす決意をこめて、ここに本宣言を提案するものである。

 

 

こちらより転載

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「軍事で国は守れない」~神奈川県基地シンポジウムから

2019年01月13日 | 思想・哲学・倫理

 

 

 

「軍事で国は守れない」~神奈川県基地シンポジウムから

 

 

 

孫崎(享)です。よろしくお願いいたします。
今日は(米軍)基地の問題を取り上げるということですが、私は根本的な問題である、「軍事力で国は守れない」ということを申し上げたいと思っております。

 

この問題は、第二次世界大戦のあと、新たに起こったことだと思います。私たち人類は歴史を重ねてきましたけれども、軍事力で自分たちを守れないという事態はなかったと思います。それは核兵器とミサイルという二つの兵器の問題があって、この兵器の破壊力があまりにも大きすぎるということから、新しい時代に入ったのだと思います。ただ日本は核兵器を持っていませんし、基本的に攻撃型ミサイルも持っていませんから、この軍事情勢をあまり勉強してこなかった。そのことは、軍事力の限界というものを実はあまり知らないし、考えてこなかったのだろうと思います。右派グループは、しばしば「平和的な手段で日本の安全を確保する」などは「お花畑の議論」と言いますが、私はむしろ、軍事力で平和が確保できるというほうが「お花畑」だと思っています。

 

 

 

■ミサイル防衛はできない

 

相手を攻撃するいちばんの根幹はミサイルですから、ミサイルというものはどういうものであるかを考えてみましょう。

 

ミサイルはたいへんな高速で飛んできます。ロシア、あるいは中国がアメリカに発射したとすると、それが標的に向かって落ちてくるときには秒速8000メートル、北朝鮮のミサイルが日本に落ちてくるときには秒速2000~3000メートルだと言われています。これを迎え撃つと言われ、日本に置かれているPAC3の秒速はマッハ5と言われていますから、秒速1800メートルぐらいです。つまり、落ちてくるミサイルのスピードが迎え撃つミサイルよりも速いのです。

 

いちばんの大きい問題は、たとえばPAC3を配備しましても、この射程距離は15~20キロメートルです。飛んでくるミサイルを80度の角度で迎え撃ちます。射程距離15~20キロメートルですから、実は守っている地域は半径2~3キロメートル(cos80°×15キロメートル=2.60キロメートル、cos80°×20キロメートル=3.47キロメートル)くらいしかありません。だから東京市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地にPAC3を配備しても、国会議事堂も首相官邸も、銀座も新宿も丸の内もどこも守っていないのです。

 

もうひとつ、非常に重要なポイントは、仮に北朝鮮などからのミサイルが日本に来ると想定した場合、日本の経済、社会、政治の中心地を狙って撃ってくるということになりますが、どのポイント、どの地点に落ちてくるのかはわからない。国会議事堂や首相官邸を狙っているかもしれないし、霞が関の官庁を狙っているかもしれない。このどこにミサイルが飛んでくるのかわからないのです。ミサイルがどこに飛んでくるかわからなければ、相手のミサイルの軌道の計算ができませんから、ミサイルを迎え撃って落とすことはできないのです。

 

これから日本政府はいろんなところにミサイルを配備します。しかし、ミサイルは日本の社会と政治と経済の中心地を守るという意味ではまったく実効性はないということをまずお分かりいただきたいと思っています。

 

そうすると、「そんなことを言ってもミサイル実験は成功したという報道があるじゃないか」と言われます。私は1985~6年にハーバード大学国際問題研究所で研究していました。ちょうど1986年に、隣にあるマサチューセッツ工科大学でミサイル防衛のシンポジウムがありました。そこに、「一週間前にミサイル防衛が成功した」という米軍の大佐クラスの人が参加していました。「成功した」とはどういうことなのか。当時のソ連がアメリカをミサイル攻撃の対象としていたのには二つの種類があります。

 ひとつは、政治・経済・社会の中心地へのミサイル攻撃であり、
 もうひとつはアメリカの持つミサイルを破壊するというものです。

アメリカのミサイルを攻撃するということであれば、ミサイル基地めがけて撃ってくるわけですから、当然、ミサイルの軌道を計算できます。だから迎撃できるということなのです。しかし、政治・社会・経済の中心地を破壊しようとしたときには、軌道計算などできませんから、もはやミサイル防衛はありえないのです。これが今日みなさんにお分かりしていただきたいひとつです。

 

 

 

■米軍が日本のために戦い勝つというというシナリオはない

 

もうひとつ、基地の問題を考える上でぜひわかってほしいポイントが一つあります。

 

アメリカにランド研究所というのがあります。米国の軍事研究所の中でもっとも能力が高いといわれているところですが、ここで2015年に次のような報告が出ました。

 

どういう報告かといいますと、「台湾正面」と言っているのですが、尖閣諸島と思ってください。尖閣諸島の周辺で、米中が戦ったら、どちらが有利になるかというものですが、結論から言いますと、1996年の時点では、米軍が圧倒的に勝つ、2003年でも米軍が圧倒的に勝つが、2010年にはほぼ均衡、2017年(予測)には中国が優位、という分析結果を導き出しています。核兵器を使用しないという前提です。

 

これの意味するところはたいへんなことです。日米安保条約があって、日本にはさまざまの基地があります。その前提は、米軍は確実に日本を攻撃する国をやっつけられるということです。ところが、2017年に尖閣諸島周辺で戦ったら、アメリカは負けるという予想の報告書です。なぜこんな現象が起こったのか。日本には米軍の基地があり、その米軍が尖閣諸島で中国と戦ったら負けるということはたいへんなことです。このことはほとんど日本では議論されていないのです。

 

それはさっき言ったミサイルと関係しています。中国はいま人工衛星を飛ばせるようになりました。人工衛星を飛ばせるということは、ミサイルの技術がたいへんに発達したということです。めざす地域に、10センチ、20センチ単位の誤差でしか狂わない、人工衛星を打ち上げられるということはそれくらいの技術を持っているということです。そうするとどうなるかというと、米軍基地の滑走路を攻撃すればいい、ということになります。アメリカは優秀な戦闘機を持っていますから、中国と(空中戦を)戦ったらたぶんアメリカの戦闘機が勝つでしょう。その戦闘機がどこから飛び立つのかといえば、尖閣諸島で戦って給油なしに基地に戻ってくることのできるのは沖縄の嘉手納基地しかありません。ということは、嘉手納基地の滑走路を壊せば、米軍の戦闘機は飛び立つことはできません

 

中国は米軍基地を攻撃できる中距離弾道ミサイル、短距離弾道ミサイル、巡航ミサイルを1200発以上持っていると言われます。ということで、もはや米軍が日本のために戦って勝つ、というシナリオはないのです。

 

 

 

■基地負担は米軍が払うと定められている

 

そうすると、なぜ尖閣諸島で勝てない米軍を置いているのか。沖縄にいる米軍の中心は、海兵隊です。しかし、海兵隊はもともと沖縄を守る部隊ではありません。その海兵隊を沖縄に置いている理由はきわめて単純だと思います。沖縄においておけば海兵隊の費用の7割は日本政府が払ってくれる。フィリピンであれば、フィリピン政府は、(フィリピンに)米軍基地を置くのであれば、当然米軍に、費用を負担しせなさい、と言います。しかし、日本であれば、日本政府は基地費用の7割を負担してくれるわけですから、米軍にとってみれば、これほどありがたいことはありません。

 

それでは、日米地位協定では、基地負担をどのように書いてあるでしょうか。日本が持つのは25%か、50%か、75%か、100%か。答えは、実はゼロなのです。

 

基地の問題について関心がある方でも、ゼロと思っている人は少ないと思います。しかし、日米地位協定には24条で、「日本国に合衆国軍隊を維持することに伴うすべての経費は、(2)に規定するところにより、日本国が負担すべきものを除くほか、この協定の存続期間中日本国に負担をかけないで合衆国が負担することが合意される」と、基本的に在日米軍基地の経費は米軍が自分で払うと書いてあります。ところが、日本が米軍の基地の負担をしなければならないと地位協定で義務づけられていると思わされている。いかに「洗脳」がすすんでいるか、ということです。

 

私は、この問題は、非常に深刻な意味合いを持っていると思っています。そもそも、米軍がなぜ日本にいるかといえば、米国の世界戦略のためにいるわけです。考えてみれば、横須賀にアメリカ第7艦隊の旗艦船がいます。なぜ横須賀なのか。横須賀を守るためなのでしょうか。太平洋、インド洋、あるいは湾岸を守るために第7艦隊入る。ということであれば、第7艦隊の費用は日本が払わないことになっている、といえばしっくりきます。また、沖縄にいる海兵隊は、アメリカが世界に出撃する緊急部隊ですから、なにも日本を守るためにいるわけではありませんから、日本が費用を負担する必要はありません。これらのことは非常に重要であって、日本の負担は基本的にゼロなのです。

 

 

 

■「軍事に意味なきおカネ」が生活をおかしくする

 

2016年11月に、読売新聞が、防衛省の資料をもとに各国の米軍基地負担の額を報じました。それによれば、
日本が7612億円、
ドイツが1876億円、
イタリアが440億円、
韓国が1012億円、
イギリス286億円となっています。

 

日本が米軍基地の負担をゼロにするということでなくても、せめてドイツの1876億円なみにすれば、5000億円くらい浮きます。5000億円あれば何ができるでしょうか。社民党の福島瑞穂議員がツイッターで国公立大学の無償化は4168億円、同じように小中学校の給食無償化は4720億円と試算を公表しています。自民党はしばしば教育の無償化を憲法に書き込もうと吹きますが、せめてドイツ並みの自主外交をやっていれば、国公立大学の無償化はできるのです。

 

若い人たちにしばしば言っているのは、日本がもう少ししっかりとした安全保障政策をとればそのおカネは教育に行くかもしれないし、保育園に行くかもしれない。軍事に意味のないおカネを費やすということは、私たちの生活をおかしくすることだということです。社会保障と軍事費にどれくらい出すかということは、実はおカネをどのように使うかということとものすごく関係があるのです。

 

 

 

■東アジアで外交的協力関係をつくる

 

安全保障の問題で、今日申し上げさせてもらったことでいちばん言いたいことは、「軍事でもって平和は保てない」ということです。それではどうしたらいいのか、という話になります。

 

いちばん戦争の理由になるのは、領土問題です。これはでも、解決すればいいのです。さらに重要なことは、第一次世界大戦、第二次世界大戦を戦ってきたドイツとフランスがこんにちなぜ戦争をしないのか。憎しみをやめて協力することが利益になる、そんな政策をドイツとフランスがやってきたからです。

 

最初は、戦争の源になる石炭、資源の問題、そして武器になる鉄。この石炭と鉄を欧州で共有しようということから始まり、こんにちのEUに連なりました。協力があるから戦争はしない、という体制を作りました。同じようにASEAN諸国にも、長きにわたる努力で、武力で問題を解決しない、外交で解決するという姿勢が行き渡っています。

 

なぜ東アジアでそれができないのか。私は、やろうと思えばできるものだと思います。軍事力ではなくて外交的な協力関係をつくることによって、日本の平和を達成する、このような道を歩んでいくべきではないかと思います。

 

 

 

 

 

「軍事で国は守れない」~神奈川県基地シンポジウムから/ 2018年11月23日、日本共産党神奈川県委員会主催。/ 「前衛」2019年2月号より

 

 

 

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「学校が教えないほんとうの政治の話」の目立った点(1)

2016年07月17日 | 思想・哲学・倫理






政治参加の第一歩は、あなたの「政治的なポジション(立場)」について考えることです。政治的なポジションは、結局のところ、二つしかありません。


「体制派」か「反体制派」か、です。


「体制」とは、その時代時代の社会を支配する政治のこと。したがって「体制派」とはいまの政治を支持し「このままのやり方でいい」と思っている人たち、「反体制派」はいまの政治に不満があって「別のやり方に変えたい」と考えている人たちです。


さて、あなたはどちらでしょう。


どっちでもない?  あ、そうですか。そんなあなたは「ゆる体制派」「ぷち体制派」「かくれ体制派」です。どっちでもない、つまり政治に無関心で、とくにこれといった意見がない人は、消極支持とみなされて自動的に「体制派」に分類されます。


先にいっておきますが、政治的な立場に「中立」はありえません。


世の人びとはとかく「自分こそが中立で、まわりが偏っているのだ」といいたがります。あるいは「自分こそが正義で、まわりがまちがっているのだ」と考えたがります。とんだ誤解というべきでしょう。民主主義とは多種多様な意見を調整し、よりよい結論を導くためのしくみです。人の意見は多様なものである、という前提に立てば、どんな意見も少しずつ「偏っている」のが当たり前なのです。


とはいうものの、どんな国でも、どんな時代でも、数として多いのは「ゆる体制派」の人たちです。投票で国や自治体の代表者を選ぶ民主主義の下では、「体制派」は「多数派」とほぼ同じといっていいでしょう。政治に関心を持てと大人はいいますが、そんな大人もたいていは政治にたいして関心のない「ゆる体制派」なのです。


体制の側に立つか、反体制の側に立つか。あなたがどちらの立場に近いかは「いまの日本」をどう評価するかにかかっています。
A  豊かとはいえないけれど暮らしてはゆけるし、いまのところ平和だし、インターネットも使えるし、世の中こんなもんでしょ、と考えるか。
B  格差は広がっているし、ブラック企業が平気ではびこっているし、国は戦争をしたそうだし、こんな世の中まちがっているよ、と考えるか。


物事を楽観的にとらえて楽しく暮らすAタイプの人が「(ゆる)体制派」なら、社会のアラをさがし出し、ものごとを悲観的に考え、日本の将来を憂えるBタイプの人は「(ゆる)反体制派」になりやすい傾向がある、とは言えるでしょう。


人生、「ゆる体制派」でいけるなら、それに越したことはありません。政治のことを考えずに暮らせるのは幸せな証拠。本人がそれでよければ、なんの問題もありません。もちろんあなたが幸せでも、誰かを踏みつけている可能性はありますが。


これに対して「反体制派」は、自ら選ぶというよりも「やむをえず選ばされてしまう」立場、というべきでしょう。誰だってお上(体制)になんか、できれば刃向かいたくはありません。ところが「体制派」「ゆる体制派」だった人たちが、突然「反体制派」に転じる場合があります。「政治に目覚める」とは、じつのところ、こういうケースを指す場合が多いのです。




 

 

「学校が教えないほんとうの政治の話」 第1章 p.18-20 / 斎藤美奈子・著




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「国を愛する心/ 『国を愛する心』/ 三浦綾子・著」の目立った点 (1)

2016年04月06日 | 思想・哲学・倫理






お便り拝見いたしました。

あなたもまた、近頃テレビや新聞でたびたび取り上げられている教科書問題について、若い母親のひとりとして、真剣に心配していられるのですね。

「私はその時まだ生まれておりませんでしたから、日本の国が、ほんとうに他国を侵略したものか、しないものか、よくわからないのです。また、終戦というべきか、敗戦というべきかもわからないのです。私は子どもに真実を教えたいのです。三浦さんは、第二次世界大戦において、日本が中国その他を侵略したと思いますか、ほんとうのところを教えてください」。

このお便りのなかに私は、あなたの謙遜と真実を感じました。私はある人から、「あなたはそれでも日本人ですか。日本が侵略をしたとか、残虐なことをしたとか、いろいろ書いていますが、あなたには愛国心がないのですか」とい手紙をもらったことがあります。困ったことに、これからはますます、「おまえはそれでも日本人か」という言葉が、多く使われるような気がしてなりません。

ところで、この間、澤地久枝(ノンフィクション作家、1930年=昭和5年生まれ)さんの講演会が旭川でありました。850人で満席になる会場に950人も入ったのです。澤地さんの話が終わったとき、ほんとうに嵐のような拍手が、いつまでもいつまでも鳴り響いておりました。誰もが、受けた感動をその拍手に込めたのです。(中略)

澤地さんは「もう一つの満州」というノンフィクションの中に書かれているとおり、少女時代、満州に育った方です。この澤地さんが昨年(=1981年)満州を訪ねられました。一人の抗日青年の生涯と、無残な死を調べるためでした。その取材旅行において、澤地さんは、日本が犯した数々の怖ろしい残虐行為を直接中国人の口からきかされたそうです。肉親の誰彼が、日本人の手によって、目の前で虐殺された話、一つの村が、赤子から老人まで皆殺しにされた話など、身の毛がよだつむごたらしい話であったと言います。

戦後40年にもなろうとして、いまだにそうした忌まわしい記憶を引きずって生きている人々のいることを、澤地さんは改めて知らされたのです。それらの人びとの目に、消しがたい悲しみと恨みを見たとも澤地さんは言われましたが、当然のことでしょう。

私たちは、敗戦後、初めて南京大虐殺の話を聞いたものでした。小さな子どもが串刺しにされたこと、妊婦がその腹を引き裂かれたこと、非戦闘員が一つ建物に閉じ込められて焼き殺された話なども聞きました。もし、私たちの故国に、他国の軍隊が乱入して、このような殺戮をくり返したとしたら、私たちはそれを「進出された」と言うでしょうか。それとも「侵略された」というでしょうか。いいえ、もっと強烈な表現を取るのではないでしょうか。日本政府が「侵略」という言葉をどんなに教科書から消し去ろうとも、いまなお現実に、肉親の無残な死を思い、悲しみ憤っている人々がたくさんいるのです。その人たちの胸から、「侵略」という言葉をどうして消し去ることができるでしょう。

学問は真実でなければなりません。とりわけ歴史は、その時の政府の都合で、勝手に書き改めるべきものではありません。一たす一は二であるはずです。けれども、一たす一は五であるという教科書がもしあったとしたら、あなたはその教科書を子どもさんに与えますか。明らかな侵略を進出などという言葉に置き換えることは、一たす一は五である、というのと同じで、いったい、一たす一は五であると強弁することが愛国心なのでしょうか。私には到底そうは思えないのです。私たちの国が、ほんとうにどんな歩みをしたのか、その真実を私たちは知るべきです。そして誤った歩みをしていたならば、その責任を取るべきです。それともあなたは、自分の子どものすることなら何でもよしよしというのが、親の愛だと思いますか。弱い者いじめをしようと、体の不自由な人も真似をして、そうした人々を辱めようと、他の人に乱暴しようと、人の家に火をつけようと、黙って見ているのが親の愛だと思いますか。


…(中略)…


さて、国を愛するとは、いったいどういうことでしょう。時の政府の言うままに、唯々諾々と従うことなのでしょうか。「侵略ではなかった、進出だった」と政府が言えば「そのとおり、そのとおり」と拍手をし、「戦いは負けたのではない、終わったのだ」と言えば「そうだ、そうだ」とうなずくことなのでしょうか。

あなたはまだ生まれていなかったそうですから、戦争中のことは何もご存じないでしょう。しかし(戦争中)二十代だった私は、当時の国民が、どんなに自分の国を信頼し、誇りに思っていたかを知っています。国のために死ぬということは、男性は無論のこと、私たち女性も、この上ない名誉に思ったことでした。そして、勝利を祈ってしばしば神社に参拝し、慰問袋を戦地に送り、かき消えるように亡くなった食料の乏しさにも愚痴を言いませんでした。いいえ、食料どころか、たった一人の息子を戦死させても、一生の伴侶である夫を戦地に死なせても、「お国のためだ」と歯を食いしばってその悲しみに耐えたのです。そうした純粋な気持ちを、私たち国民は、戦争のために利用されたのでした。そして戦争は負けたのでした。

私たち庶民は、戦争がある種の人びとの儲ける手段であるなどとは、夢にも思わなかったのです。あの時、戦争はいけないと言った人がもしあれば、その人こそ真の意味で愛国者だったのです。そうした人もわずかながらいました。でもその人たちは、国のしていることはいけない、と言ったために獄にとらわれ、拷問され、獄死さえしたのでした。真の愛国者は彼らだったのです。国のすることだから、何でもよしとするのは、国が大事なのではなく、自分が大事な人間のすることです。

もし、第二次大戦のとき、すべての日本人が戦うことを拒んでいたなら、原爆にも遭わず、何百人もの人が死なずにすんだのです。いや、他の国々のさらに多くの人々が殺されずにすんだのです。とにかく、日本の犯した罪を知っている人々が、侵略は侵略だと言い、敗戦は敗戦だと言っているはずです。でもその数が次第に少なくなっていくだろうという予感に、私は戦慄を覚えます


こんなお返事でお分かりいただけたでしょうか。日本と世界の真の幸福を祈りつつ。

 

 

(小学館発行月刊誌「マミイ」1982年11月号初出/ 1982-11-01/ 三浦綾子)

 

 

 

 

 

 

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安倍政権の裏の顔~『攻防・集団的自衛権』ドキュメント 1.ことの起こり

2015年09月20日 | 思想・哲学・倫理

 

 

 

 

 

2001年初夏、元駐タイ大使岡崎久彦は、安全保障研究の第一人者である佐瀬昌盛・現防衛大学名誉教授の自宅に電話した。佐瀬は、「集団的自衛権(PHP新書)」を出版したばかりだった。

 

集団的自衛権は、自分の国が攻撃を受けていなくても、密接な他国が攻撃を受けた場合、いっしょになって反撃できる権利のことだ。憲法9条を持つ日本では、日本に直接攻撃があった場合にのみ反撃できる個別的自衛権しか認められていない。当時は集団的自衛権が政治課題にまったく上がっていなかったこともあり、専門的に扱った本は少なかった。

 

岡崎は電話で佐瀬にこう伝える。 「この本は最高の教科書だ。これで政治家を教育しよう」。 その後二人は作戦を練るために会った。佐瀬は尋ねた。 「どうやって政治家を教育するんだ」。 岡崎は、 「各個撃破だ。ひとりひとり教育していこう」、と答えた。 「だれからやるんだ?」 佐瀬の問いに岡崎は、まだ衆院当選三回にすぎなかった若手議員の名を即答した。 「安倍晋三だ。あれはぶれない」。

 

 

 

1980年ごろ、外務省から防衛庁に出向していた岡崎のもとを、米海軍の司令官が訪ねてきた。中東ではイラン・イラク戦争が起きていた。米海軍司令官は、在日米軍横須賀基地からペルシャ湾のホルムズ海峡までパトロールする任務のつらさを語った。

 

米艦船の甲板は、夏場にはセ氏50度にもなる。船内に冷房はなく、夜でも温度は下がらない。石油運搬の要衝海域であるホルムズ海峡を通るのは、「〇〇丸」という名前がついた日本のタンカーが多かった。それを守る米海軍の水兵たちは司令官を、「どうして日本の自衛隊が守らないのか。どうして、俺たちだけがつらい任務をしないといけないんだ」と突きあげていた。

 

司令官は岡崎にこう告げた。 「私は日本の政治の都合上、自衛隊がタンカーを守れないことは分かっているつもりだ。しかし、水兵たちには分からないんだ。わたしはただ、水兵たちが怒っているということだけでも、岡崎に理解していてほしい」。

 

日本に原油を運ぶタンカーのほとんどは、パナマ船籍かリベリア船籍だった。日本の海運業者は、税金や人件費を節約するため、経費が安い国に便宜上、船を登録する。自衛隊は日本船籍のタンカーなら守れるが、外国船籍を守ると集団的自衛権の行使にあたり、憲法違反になる恐れがあった。

 

岡崎は司令官の愚痴を聞き、「こんなばかばかしい話はない」と憤る。集団的自衛権の行使を認めるべきだと思った瞬間だった。

 

 

 

それから約10年後、岡崎の憤りは、外務省の怨念へと変わっていく。 イラクがクウェートに侵攻したことを機に勃発した湾岸戦争。当時の外務省条約局(現・国際法局)は、憲法の解釈をつかさどる内閣法制局に対して、 「自衛隊に多国籍軍の負傷兵の治療をさせたいが可能か?」と問い合わせた。しかし、返ってきた答えは、 「憲法9条が禁じる武力行使の一体化にあたる」と、派遣を否定するものだった。結局、日本は130億ドルを拠出したが、「カネしか出さないのか」と、米国を中心とした国際社会から強い批判を浴びた。それはやがて外務省内で「湾岸戦争トラウマ」と言われるようになった。

 

 

■「日本は禁治産者だ」

 

2000年5月の衆院憲法調査会。安倍は、「日本は持っているが、使えない」とい集団的自衛権についての政府見解を激しく批判した。

「かつてあった禁治産者は、財産の権利はあるけれども行使できなかった。まさにわが国が禁治産者であることを宣言するようなきわめて恥ずかしい政府見解ではないか」。

 

日本の安全を考えたうえでの政策的な必要性よりも、国家が当然、持つべきものを持っていないのはおかしいという観念が優先しているようだった。そこには、祖父・岸信介の考えが見える。岸は、日本での内乱を米軍が鎮圧することを許した旧日米安全保障条約を「不平等だ」と考え、安保改定に踏み切った。集団的自衛権を行使できるようになると、日本も米国を守ることができる。日米同盟がより対等な関係となり、真の「独立国家」へと一歩近づく。

 

安倍が強烈に意識する岸の答弁がある。

「外国に出て他国を防衛することは憲法が禁止しておる。その意味で集団的自衛権の最も典型的なものは持たない。しかし、集団的自衛権がそれに尽きるかというと、学説上、一致した議論とは考えない」

1960年の参院予算委。首相だった岸は、憲法9条のもとでは、外国まで自衛隊を派遣して、その国を守る典型的な集団的自衛権を持つことはできないが、そうでない限定的な集団的自衛権ならば、行使できる可能性を示唆していた。

 

当時、集団的自衛権を行使できるかどうか、政府の憲法解釈は固まりきっていなかった。

「国際法上は保有するが、憲法上、行使できない」

という憲法解釈が次第に固まってくるきっかけは、ベトナム戦争だった。1965年に米軍が北ベトナムを爆撃して以降、戦争は泥沼化する。

「米国の戦争に巻き込まれるのではないか」という世論の不安を背景に、野党が自民党政権を追求した。

政権は、「集団的自衛権が行使できないため、ベトナム戦争に参戦できない」という理屈で、野党の批判をかわす答弁が1970年代にかけて積み重ねられた。そして、

「持ってはいるが、使えない」

という憲法解釈が1972年の政府見解、1981年の答弁書で固まる。

 

1960年の岸の答弁は、安倍にとって、まるで「遺言」のようなものだった。「持っているが、使えない」という憲法解釈を忌み嫌い、それを変える推進力になったと同時に、

「限定的にしか使えない」という理屈にもつながってゆく。

 

 

■小泉内閣で共闘した旧友

 

安倍は、衆院憲法調査会で集団的自衛権の行使容認を訴えてから二か月後の2000年7月、第二次森内閣で内閣官房副長官に就任した。首相官邸で執務する官房副長官は、将来有望とされる中堅議員の登竜門だ。安倍が権力の中心に近づいたことは、岡崎ら集団的自衛権の行使を求める勢力にとって、大きな好機だった。
「一緒に相談してやろう」
岡崎は安倍に集団的自衛権の行使容認に向けて動き出すよう促した。翌年、小泉純一郎に首相が代わったが、安倍は副長官に留任した。安倍と岡崎は、集団的自衛権を使えるよう憲法解釈を変えることを小泉に働きかけ続けた。

2001年5月の国会答弁で、小泉はついに踏み込む。
「憲法に関する問題について、世の中の変化も踏まえつつ、幅広い議論が行われることは重要であり、集団的自衛権の問題について、さまざまの角度から研究してもいいのではないか」。
しかし、9月、米国で同時多発テロが発生し、集団的自衛権を使えるように憲法解釈を見直してゆくという動きはとん挫した。岡崎は当時をこう振り返った。
「この最中に、集団的自衛権を持ち出すと混乱する。遠慮して引っ込めた」。

 

 

 

■官房長官時代から準備

 

安倍は2005年10月、官房長官として初入閣した。ポスト小泉を見据えながら、集団的自衛権の行使容認への動きを加速させる。
「集団的自衛権行使容認に向けて、官房長官のころから綿密に検討していた」。
第一次政権で首相秘書官を務めた井上義行(後、参院議員、現在は落選)は明かす。
井上は官房副長官、官房長官時代も安倍の秘書官を務めた。安倍の知恵袋になっていたのは、当時、外務事務次官の谷内だった。安倍と谷内は、北朝鮮による拉致問題をめぐり、北朝鮮に対して強硬姿勢をとる方針でも一致し、気脈を通じていた。

 

そして、安倍は2006年9月、首相に就任する。
満を持して2007年、有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)を立ち上げた。
谷内は、後輩で国際法に詳しい外務省国際法局長の小松一郎と二人で、
「米艦船が攻撃された場合に自衛隊が応戦できるか」
「米国に向かう弾道ミサイルを撃ち落とすことができるのか」
など、「憲法上できない」とされてきた4つの類型を練り上げ、集団的自衛権の行使容認について、議論の流れを作り出した。
しかし、安倍は約1年で退陣、安保法制懇の議論は宙に浮いた。

 

憲法解釈の見直し議論は雲散霧消したかに見えた。
だが、安倍は2012年12月、民主党から政権を奪い返し、首相に返り咲く。
解釈変更に向けて、外務省との二人三脚の関係をさらに強め、外務省出身者を要路に配置して突き進むことになる。

 

「集団的自衛権を持たない国家は禁治産者だ」
という安倍の観念と、外務省の「湾岸トラウマ」の怨念。二つの「念」は集団的自衛権の行使容認に向けた大きなエネルギーとして結びついた。

 

 

 

「安倍政権の裏の顔~『攻防・集団的自衛権』ドキュメント」/ 朝日新聞政治部取材班・著 より

 

 

 

 

 

 

 

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(インタビュー)力の論理を超えて ハーバード大学名誉教授・入江昭さん

2014年06月21日 | 思想・哲学・倫理

 

 

 

 

                                                                              

   「過去は変えられないのだから、国家間の相互依存をさらに高めるしかないのです」=米ケンブリッジのハーバード大学、坂本真理氏撮影
 

 

 

 
 日本では、安倍政権による集団的自衛権行使容認に向けた議論が大詰めを迎えている。国家と軍事力という「力」の論理が前面に出ているが、60年前に米国に渡り、歴史研究を続けてきた入江昭ハーバード大名誉教授は、グローバル化した現代において、国家中心の世界観はもはや時代遅れだという。いま必要な視点は「シェア」と「つながり」だという入江氏にその理由を聞いた。

 

 


  ――長く米国で暮らす歴史家の目に、安倍政権下の日本はどう映っていますか。


   「自国中心的な見方に陥っていると思います。 『美しい国』 『日本の誇りを守る』 といった言葉に象徴される国家中心の思考は、あまりに現在の世界のあり方を知らない」

 

 


  ――時代からずれている、と?


   「そうです。最近の歴史学は大国間の関係、領土問題やパワーゲームだけに注目するのではなく、多国籍企業やNGO、宗教団体などの非国家的存在や、国境を超えた人間のつながりに重きを置いています。環境問題やテロリズムをはじめ、一つの国の内部では理解も解決もできない問題がほとんどだからです」


   「僕自身、過去には英米や中国の歴史、国際関係史など、国を単位とした歴史学を研究していました。国家にとらわれずに歴史を見る風潮が研究者の間に生まれたのは1980年代の終わりごろですが、私自身もそう感じ始めていました。米歴史学会の会長を退任する際にスピーチをし、『歴史学はもっと世界全体を見ないといけない』 と訴えると、予想以上に賛同してくれた人が多かった。それまでの歴史学は時代区分も西欧史を他国に当てはめる発想でしたが、西欧を中心から外す、ディセンターという考え方が生まれた。さらに、国家ではなく地球を枠組みとするグローバル・ヒストリー、国家間ではなく国境を超えた関係に注目するトランスナショナルと呼ばれる研究が進みました」


 

 

  ――国際関係論や政治学では、まだパワーポリティクスの理屈が目立ちます。「国境を超える」と言っても、現実的じゃないと言われませんか。


   「国際関係論における 『現実主義的な見方』 は皮相的で、現在の世界ではあまり意味を持たないと考えています。 『大国の興亡』 を書いたポール・ケネディ氏はたいへん立派な学者ですが、国益の衝突が世界を動かすという史観は非常に一面的です」


   「日本では60年代に現実主義的な見方が浸透しました。 『現実主義者の平和論』 を書いた国際政治学者の故高坂正堯(まさたか)さんとは親しく、当時は僕の考えも近かった。日米安保への観念的な反対には違和感を持っており、日米間の緊密な連携は重要と考えていたのです。国際関係史を専攻すると、軍備競争や政策決定論を重視せざるを得ないものですから」


   「しかしパワーバランスばかりに注目し過ぎたため、90年前後の東西冷戦の終結を予想できた研究者は僕を含めて誰一人いなかった。現実主義は面目を失ったと言えるでしょう。例えば今では、75年のヘルシンキ宣言でソ連が人権尊重を認めたことにより、東側諸国に民主化の希望が広がったと考えられていますし、同時にグローバル経済がソ連体制へ与えた影響も予想以上に大きかった。そんな国家を超えた深いつながりを理解しないと、冷戦終結は導けない。現実主義というのは 『文化や社会、思想による世界の変化』 を認めない考えなのです」


   「力対力の外交も大切ですが、それは他のつながりに比べると根本的ではないと多くの歴史家が考えるようになりました。トランスナショナルな歴史学というのは国家を超えた関係、例えば移民や文化交流、環境問題、女性運動、さらにはテロリズムなどを研究対象とします。昔から、歴史家が現在の歴史を認識するには30年かかると言われてきましたが、ようやく概念が現実に追いついたのかもしれません」

 

 

 

      ■     ■


 ――日本では今、中国の拡張主義への懸念が強まり、逆に「国家」が前面に出ていますが。


   「旧来の地政学的な発想ですね。中国の拡張主義は一面に過ぎないでしょう。これだけモノと人とカネが国境を超えて動いているのに、領土という動かないものだけを重視するのは世界の潮流に逆行します」


   「中国もまた変わらざるを得ません。国民すべてが中国政府の命令で動いているわけではないし、私の知る中国の研究者や留学生はみんな政府とは違う考えを持っている。日中、日韓の間にはシェア、共有できるものがたくさんあります。世界各国が運命を共有する方向に向かっているのに、 『中国が侵略してくる』 とだけ騒ぐのは、全体が見えていない証拠でしょう。領土だけに拘泥し、東アジア全体の状況を深刻化させているように見えます」

 

 


  ――憲法9条は現実に合わないという声があり、安倍晋三首相は集団的自衛権に踏み込もうとしています。


   「時代遅れなのは憲法9条ではなくて現実主義者の方でしょう。過去70年近く世界戦争は起きていないし、武力では国際問題は解決しないという考えに世界の大半が賛成している。」

  「集団的自衛権を行使する代わりに米国に守ってもらおうというもくろみも、まったく第2次世界大戦以前の考え方です。戦後日本が平和だったのは日米安保の核の傘のおかげか、9条のおかげか、という問いに簡単に答えは出ませんが、少なくとも日本自身が近隣に脅威を与えることはなかった。これは経済成長に必須の条件だったわけで、日本こそグローバル化の動きに沿っていた。いまや米国もオバマ大統領の下で軍備を縮小しようとしており、日本は世界の最先端を歩んできたのです。卑下したり自信喪失したりする必要はまったくない。それを今になって逆行させるというのは、日本の国益にもつながりません」

 

 


  ――日本国内では、排他主義的な動きも目立ち始めました。


   「フランスでも右翼政党が躍進しました。各国に共通する過渡的な現象だとは思いますが、非常に深刻ですね。経済の停滞により、自分たちが取り残されるのではないかという焦りが生まれ、偏狭なナショナリズムに向かわせるのでしょう」


   「ナショナリズムと言えば、歴史を直視することを自虐史観と批判する人たちもいますが、本当に日本に誇りを持つなら、当然、過去の事実を認めることができるはずです。現代人の見方で過去を勝手に変えることはできないと、歴史を学ぶ上で頭にたたき込まれました。様々な角度から深掘りして見ることは大切だが、いつ何があったという事実そのものは変えてはならない。例えば日本人でもトルコ人でもブラジル人でも、世界のどの国の人が見ても歴史は一つしかない。共有できない歴史は、歴史とは言えないのです」

 

 

 

      ■     ■


 ――「国家を超える」と言っても、経済のグローバル化には、格差拡大などの負の側面もあります。


   「だからと言って、冷戦や保護貿易主義の時代に戻ることはできません。環太平洋経済連携協定(TPP)も国益の対立と捉えるのは誤りで、基本的に私は賛成です。マイナス面を是正するには、経済以外の結びつきを尊重し、人間の意識も国境を超えることが求められます。カネの動き、人の動きはもう止められない。これからは、非国家的存在、国際NGOのような人道主義的なつながりがグローバル化の世界にもっと入ってくる必要があります」

 

 


  ――ではグローバル化に、個人はどう向き合えばいいのでしょうか。


   「今年、イリノイ州の公立高校を卒業した孫娘は、母親が日本、父親はアイルランド系です。また今年、送り出した最後の教え子の大学院生も父はドイツ系、母は中国系で、たいへん優秀な生徒でした。このように米国社会は人種の融合が進んでいます。オバマ大統領もそうですから。人も社会もいわば『雑種化』していく。これからの世界に希望があるとしたら、そこだと思います」


   「日本でも、明治維新というのはいわば文化の雑種化でした。それにもかかわらず、今になって排外的で国に閉じこもるような動きがあることが理解できません。日本だけがグローバル化の例外というわけにはいかないでしょう。 『古き良き日本』 などに戻ることはできないのです」

 

 

 

     *

 


  いりえあきら 34年生まれ。
  高校卒業後に渡米、シカゴ大、ハーバード大の教授を歴任した。元アメリカ歴史学会会長。
  近著に「歴史家が見る現代世界」。

 


  ■取材を終えて


 入江さんの言葉を反芻(はんすう)し、「理想主義と現実主義」について、改めて考えさせられた。「現実を見ろ」と言いながら、世の中の変化を黙って見過ごし、現状を肯定する罠(わな)に陥ってはいないか。グローバル化した世界では、国家を超えたつながりやシェアが鍵だという考えは確かに理想論かもしれない。だが理想こそ、あるべき未来をたぐり寄せる。今年80歳になる歴史家のしなやかな知に学ぶことは多い。


  終戦直後、国民学校5年生だった入江さんは、教科書の軍国主義的な記述を墨で塗らされた。それが歴史家としての原点だったという。国家は歴史をねじ曲げるし、簡単に書き換えもする。この経験こそが、「国境を超えて共有される歴史を編む」という覚悟を生んだのだろう。


  (ニューヨーク支局長・真鍋弘樹)

 

 

 


 朝日新聞デジタル 2014年6月19日05時00分

 

 

 

 

 

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TPP 国民が知らなければならないほんとうのこと (2)

2013年03月31日 | 思想・哲学・倫理

 

 




「…それから最後にこのことを強調しておきたい。国内には『TPPに参加すれば有事の際に、米国に守ってもらえる』との声があるが、米国の対外政策の歴史を見てほしい。幻想から覚醒し、次世代のために全力で守るべきこの国の宝(例:世界にまれにみる国民皆保険制度など)のほうに目を向けてほしい(堤未果・ジャーナリスト/ 「まだ知らされていない壊国TPP・主権侵害の正体を暴く」/ 日本農業新聞・編)」。


安倍さんの政策はみなアメリカに迎合するのを主な動機としています。TPP交渉参加もそうです。新聞は数少ないメリットと思しきことしか伝えません。推進しようとしているひとたちの腹の底には、緊張を高めることしかできない中国外交で、これからも緊張を高め続けることができるように、アメリカの軍事力の応援を期待している事があるかもしれない。


対中、対韓強硬派の右翼たちは少なくとも、いざ中国との軍事衝突となったらアメリカ軍に頼ろうという気持ちがあったのだろう、少なくとも安倍さんたちには。だがアメリカ軍は少なくとも尖閣をめぐる衝突で日本に加勢する気持ちはない。最近ようやく安倍さんにもそれが理解できつつあるようだが。が、TPP交渉参加は、軍事同盟強化を謳う安倍さんの真骨頂だ。


右翼に扇動されない、いまや少数の市民派の人びとはよもやアメリカ軍が日本を助けるなどというヨタ話に希望を置いたりはしないだろう。日米軍事同盟とは何か、それをはっきりさせておくのに役立つ文章を二つ三つ紹介しておこう。

 



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なぜ在日米軍があるのかと言えば、日本国民は当然「日本を守るためだろう」と思います。では、米国人はどのように思っているのでしょうか。2010年12月24日付け朝日新聞は「米軍は何のために日本にいるのか?」という世論調査を行いました。回答結果は次の通りです。音国務長官の


・日本の防衛のため          日本42%     米国 9%

・米国の世界世界戦略のため    日本36%     米国59%
・日本の軍事大国化を防ぐため    日本14%     米国24%


この調査結果はある意味で驚きです。歴史的なことを少し見ていきたいと思います。


日本は1951年講和条約を結びます。この時、吉田茂首相は講和条約を早期に締結するために、「米軍の駐留を認めてもよい」と米国側に述べています。元国務長官のダレス特使は日米安保条約の締結交渉で、米国の方針を「われわれは日本に、われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保できるだろうか、これが根本問題である」と指摘しています。


この意志は、日米行政協定(後、基本的に同じ内容で日米地位協定に引き継がれている)に巧妙に組み込まれています。ダレスは「フォーリン・アフェアーズ」1952年1月号で、「米国は日本を守る義務をもっていない。間接侵略に対応する権利はもっているが、義務はない」と書いています。


米国が日本に自国の軍隊を置いているのですから、質問の答えは当然、米国人の方がより正解に近いと思われます。その米国人が、「日本の防衛のため」は9%です。ところが、日本人は42%もいるのです。これは明らかに、日本人が操作され、誘導された結果です。


1960年の安保条約では「日本国の施政下への武力攻撃のときには、自国の憲法上の規定および手続きにしたがって対処する」としています。米国の憲法では交戦権は議会にありますから、この約束は「議会にお伺いを立てます」以上の意味はありません。


歴史的経緯を踏まえれば、米国の日本駐留は「日本の防衛のため」ではなくて、「米国の世界戦略のため」なのです。しかし、日本は「思いやり予算」で、基地受け入れ国負担では全世界の半分以上を負担しています。さらに自衛隊を米国戦略の一環に使う動きが強化されています。「米軍の駐留は日本の防衛のため」という宣伝が行われてきた理由は、ここにあります。

 

 




(「これから世界はどうなるか」/ 孫崎享・著)


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アメリカ自身には積極的に日本を防衛しようという気持ちはないけれども、お花畑な日本人右派が日本国民に対して、アメリカは日本防衛をしてくれると期待するよう宣伝するのを放置してきた。それは「自衛隊を米国戦略の一環として使役する」意図があるからです。たとえば1990年代には、このような報告書がアメリカ議会で作成されました。



 

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アメリカの対日戦略会議の内容は次のようになっています。アメリカの対日戦略会議というのは、いわゆる “ジャパン・ハンドラーズ” です。ジョゼフ・ナイ(ハーバード大学名誉教授、元国務次官補)が興味深い報告書を知らせています。「対日超党派報告書」と呼ばれているものです。


①東シナ海、日本海近辺には未開発の石油、天然ガスが眠っており、その総量は世界最大の産油国サウジアラビアを凌駕する分量である。アメリカは何としてもその東シナ海のエネルギー資源を入手し寝ければならない。


②チャンスは台湾と中国が軍事衝突を起こした時である。当初、米軍は台湾側に立ち、中国と戦闘を開始する。日米安保条約に基づき、日本の自衛隊もその戦闘に参加させる。中国軍は米日軍の補給基地である日本の米軍基地、自衛隊基地を本土攻撃するであろう。本土を攻撃された日本人は逆上し、本格的な日中戦争が開始される。


③米軍は戦争が進行するに従い、徐々に戦争から手を引き、自衛隊と中国軍との戦争が中心となるように誘導する。


④日中戦争が激化したところで、アメリカが和平交渉に介入し、東シナ海、日本海でのPKO(平和維持活動)を米軍が中心となって行う。


⑤東シナ海と日本海での軍事的、政治的主導権をアメリカが入手することで、この地域での資源開発に圧倒的に優位な権利を入手することができる。


⑥(この)戦略の前提として、日本の自衛隊が自由に海外で軍事活動できるような状況を形成しておくことが必要不可欠である。




実に怖ろしい内容です。このアメリカ政府の戦略文書は、クリントン政権時代、CIAを統括する大統領直属の国家安全保障会議NSCの議長で、東アジア担当者でもあったジョゼフ・ナイが上院下院の200名以上の国会議員を集めて作成したものです。対日本への戦略会議の報告書です。

 

 




(「今、『国を守る』ということ」/ 池田整治・元自衛隊陸将補・著)



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どうです、アメリカの右派というのは人間味あふれるひとたちではないですか。わたしは中国共産党や北朝鮮などよりもアメリカ右派の方が何倍も怖ろしいです。ところがこんな連中に安倍さんはなんと媚を売った演説をしているのです。




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2月、安倍首相は訪米した。このとき、首相訪米の性格を如実に示す出来事があった。


2月22日、安倍首相は米国のシンクタンク、戦略国家問題研究所(CSIS)で、「日本は戻ってきた」と題する講演を行った。その場で安倍首相は、「ジャパンハンドラー」に媚を売る以外の何物でもない態度を恥ずかしげもなく晒したのである。


「ハムレさん、ご親切な紹介ありがとうございます。アーミテージさん、ありがとうございます。グリーンさんもありがとうございました。そしてみなさん方本日は、おいでくださいましてありがとうございます。昨年、リチャード・アーミテージ、ジョセフ・ナイ、マイケル・グリーンやほかのいろんな人たちが、日本についての報告書を出しました。そこで彼らが問うたのは、日本はもしかして、二級国家になってしまうのではないだろうかということでした。アーミテージさん、わたしからお答えします」…と。


ジャパンハンドラーとして知られるアーミテージ氏に報告するという形で演説を始めている。この神経はいったい何だろう。演説の冒頭は、ふつう重要な来客に向けて発するものであり、安倍首相の言説は、今回の演説の主要なゲストがCSIS所長のハムレ氏、アーミテージ氏やグリーン氏だったことを示している。とても一国の首脳による演説の主要ゲストのレベルではない。一方で、現役の政治家や政権担当者は出てこない。つまり、オバマ政権の中枢にある人々は、安倍首相には重要な聴衆ではなかったのだ。


ハムレ氏はCSIS所長といっても、元米国防副長官レベルである。


アーミテージ氏は元米国務副長官ではあるが、2003年7月にCIAリーク事件で糾弾された人物である。CIAリーク事件とは、ウィルソン元駐イラク大使代理が、イラク戦争に関して2003年7月6日付けニューヨーク・タイムズ紙に、イラクの核開発についての情報がねじ曲げられていると寄稿して世論に訴えたことに端を発する。これを受け、2003年7月14日、ウィルソンの妻がCIAエージェントであるとの報道がなされた。露骨な報復である。CIA工作員であることが表向きにされれば活動はできなくなる。(ブログ主註;たしかナオミ・ワッツ主演で映画にもなったと思う。タイトルは忘れた)このリークにアーミテージ氏が関与したことを認めたため、米国内での同氏の威信は著しく低下した。


マイケル・グリーン氏はジョージタウン大学准教授に過ぎず、ジョセフ・ナイ氏もハーバード大学名誉教授であっても、公的には国務次官補経験者に過ぎない。


このレベルの人びとに、一国の首相が演説の冒頭でお礼を言わなければならないほど、来場者のレベルが低かったのだろう。


しかし、ハムレ氏、アーミテージ氏、グリーン氏には共通点がある。それは彼らが「日本を操る人びと」、すなわちジャパンハンドラーと呼ばれるグループに属していることである。こうした人びとに一国の首相が米国の公けの研究所でお礼を述べるというのは、“ご主人” さまにお礼を言うようなものである。

 




 

(「国家主権投げ捨てる安倍政権」/ 孫崎享・著/ 「世界」2013年4月号より)


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右翼のみなさん、冒頭のへつらいの文句を言う相手が、中国の最高権力者である習近平さんだったら、どう思いますか。まずまちがいなく、こめかみの血管が見る見るうちに膨張して破裂するでしょう。ところがこのセリフが言われたのはアメリカのオバマ大統領でもなく、その側近でもない、日本の自衛隊を道具にして、戦争を引き起こし、日本近海のエネルギー資源への優先権を獲得しようというアイディアを打ち出した、下級クラスの人びとに対してだったのです。


わたしたち日本人はこんな人に政権をゆずったのです。安倍さんの「ご主君」であるアーミテージ氏やナイ氏は二級クラスの人びとではあるが、対中国強硬派でもあります。日本の右派の人びとや安倍さんとはこの点で気持ちが通じ合うのでしょう。アジアへの偏見と、個人的な劣等感を埋め合わせる民族主義的優越感を達成しようとする人びとによる対中国強行突破路線を選択したあげくの売国行為です、TPP参加も自衛隊の集団的自衛権行使解禁も。池田さんの文章の⑥にあったように、自衛隊をつかった対中国代理戦争を実現させるためにも、自衛隊が海外で戦争ができるように環境を整える必要があり、安倍政権と自民党、民主党右派と石原慎太郎と維新塾の橋下が憲法改正をもくろんでいます。


だますひとたちは確かに悪い。無慈悲で他人の痛みに何の同情も持つことができない。社会人の失敗作のような人たちです、だますひとたちは。だが、だまされる人たちはじゃあかわいそうなのかと言えば、それはちがう。だまされる人たちはただただ愚かなのだ。知力が低いのだ。木ばかり見て森を俯瞰できないのだ。これはひょっとしたら、人間界における「自然淘汰」の特殊な形態なのかもしれない。自然界では弱者が淘汰されてゆく。人間界では愚か者たちが食い物にされたあげく捨てられて、淘汰されてゆくのだ…。






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TPP 国民と国会議員が知らなければならないほんとうのこと (1)

2013年03月13日 | 思想・哲学・倫理






毎日新聞の大阪版2013年3月18日付朝刊一面に、こんな記事が掲載されていた。


「毎日新聞世論調査:TPP交渉、支持63% 内閣支持、70%に上昇」


会社の食堂で読んだから今は手元にないので正確には書けないが、2面には、1500世帯ほどにランダムに電話をかけ、六十数パーセントの有効回答を得た、という。およそ1000人弱だ。

内訳は、
「毎日新聞は16、17両日、全国世論調査を実施した。安倍晋三首相が環太平洋パートナーシップ協定(TPP)への交渉参加を正式表明したことについて
「支持する」との回答は63%で、
「支持しない」の27%を大きく上回った。
 安倍首相の経済政策により、景気回復が
「期待できる」と答えた人は65%に上り、
「期待できない」は30%にとどまった。
安倍内閣の支持率は70%に達し、2月の前回調査から7ポイント上昇。
「支持しない」は5ポイント低下し、14%だった。


 TPP交渉参加の支持は30代以上の世代で6割前後に及び、不支持を上回った。一方、20代では不支持が50%を占め、支持の47%と逆転。市場開放で雇用機会が奪われることに警戒感もうかがえる。地域別にみると、北海道の不支持は53%に上り、支持40%より高い」。

 

 

みなさん、こんな数字を見せられて、「ああ、TPPは参加がトレンドだな、ま、いいか」などと思わないでください。「世界」の今月号に、ずっとTPPの危険性を訴え続けてこられた鈴木宣弘東京大学助教授の魂を絞り出すような訴えが掲載されています。今回、それをご紹介します。


まず、世論調査の数字をどう読むかについて、鈴木助教授はこのように述べておられます。

 

 

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各種世論調査では、TPP推進の声が多いかのように出ているが、人口の4割が集中する首都圏中心に行われる、わずか1000人程度の世論調査の結果は誤解を生む。首都圏の人口を支えているのも、北海道から沖縄までの全国の地域の力である。人口は都市部に多くても、単純に人の数だけで評価されるべきではない。


全国の多くの地域がTPPに反対している。都道府県知事で賛成と言っている方は6人しかいないし、都道府県議会の47分の44(44/47)が反対または慎重の決議をし、市町村議会の9割が反対の決議をし、地方新聞紙はほぼ100パーセントが反対の社論を展開している。


だから、都道府県ごとに世論調査をして47の結果を並べてみれば、圧倒的に反対の声が大きいはずである。だからこそ自民党議員の6割以上がTPP反対を唱えているのである。


しかし、このような全国各地の地域社会の声が、東京中心のメディアの発信では伝わらない。全国の真の声を共有しなくてはならない。

 

 

 

(「世界」2013年4月号/ 「許しがたい背信行為」/ 鈴木宣弘・著)

 

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現に、安倍首相の参加表明後、山形県では850人の反対集会が行われた。毎日新聞の世論調査の賛成派600人ほど(1000人中の60パーセント強)よりも多い人数だ。第一、大手新聞社は企業役人サイドに立った情報しか流さないのに、国民がどうして正確な判断を下せるだろうか。鈴木助教授は国民に隠されてきた情報をいくらか紹介してくださっている。

 

 

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安倍総理は、オバマ大統領から「聖域なき関税撤廃を前提としないことを明示的に確認した」としているがしかし、共同声明は、「全品目を対象として、高い水準の協定をめざす」ことを確認したうえで、「交渉に入る前に全品目の関税撤廃の確約を一方的に求めるものではない」と形式的には当たり前のことを述べているだけで、「例外がありうる」とは言っていない。

 


「早く入れば交渉が有利になる」、「交渉力で例外も作れるし、嫌なら脱退すればいい」というのもきわめて困難である。そもそも米国は、「日本の承認手続きと言9か国による協定の策定は別々に進められる」と言っている。最近、米国がメキシコやカナダの参加を認めたときも、屈辱的な「念書」が交わされ、「すでに合意されたTPPの内容については変更を求めることはできないし、今後、決められる協定の内容についても口を挟ませない」ことを約束させられている。つまり、日本がどの段階で交渉に参加しようが、法外な「入場料」だけ払わされて、ただ、できあがった協定を受け入れるだけで、交渉の余地も、脱退で逃げる余地もない。

 


共同声明では「自動車部門や保険部門に関する残された懸案事項」について日本が早急に「入場料」を支払うよう明記された。「その他の非関税措置」についても対処を求められた。例外品目確保の保証を得られず、「入場料」だけを一方的に求められるようなものだ。この「入場料」交渉については、国民にも国会議員にも隠されてきたが、今回の共同声明で「公然の秘密」になった。国民には「情報収集のための事前協議」とウソを言い続け、水面下では、自動車、郵政、BSE(狂牛病)の規制緩和など、米国の要求する「入場料」に対して必死で応えようとする裏交渉を進めてきた。

 

 


(上掲書より)

 


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一番めのことについては、わたしたち素人でも見当がついていました。二番めについては、安倍さんは交渉作りリードも撤退もできないことを知っているのです。それはこのあと引用する「しんぶん赤旗」の記事にある安倍首相の反応を読めばわかります。三番めについて、みなさんはどう思われたでしょうか。「保険部門」の規制撤廃を「入場料」として決めるようにという交渉が、アメリカの要求にこたえようとする方針で裏で進められてきており、それが国民と、そして国会議員から隠されてきた、というのです。いったい、TPP導入を推進しているのはだれなんでしょう。


みなさん、日本を愛する人たち、右翼の人は読みたくない「世界」ですが、この記事と続く孫崎さんの記事だけは目を通してください。買うのが嫌なら図書館で読むなどして。この記事と孫崎さんの記事はつづけてわたしのブログで紹介してゆきます。


以下、しんぶん赤旗の記事2本を引用しておきます。

 

 


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■首相“合意ずみルール変更できぬ”

 


 安倍晋三首相は会見で、「TPPが目指すものは太平洋を自由にモノやサービス、投資などが行き交う海とすることだ。世界経済の3分の1を占める大きな経済圏が生まれる」と強調。中国、韓国、インドネシアなどアジアの主要国がTPPに参加していないことには触れず、「日本だけが内向きになったら成長の可能性もない、優秀な人材も集まらない」とし、「アジア太平洋の未来の繁栄を約束する枠組み」とTPPを絶賛しました。


 安倍首相は、農業や医療保険制度などへの深刻な影響が懸念されていることに対しては、「だからこそ衆院選挙で聖域なき関税撤廃を前提とする限りTPP交渉参加に反対すると明確にし、国民皆保険制度を守るなど、五つの判断基準を掲げた」と強弁。交渉参加表明によって公約を踏み破っているという批判には耳を貸さず、「交渉力を駆使し、守るべきものは守り、国益にかなう最善の道を追求する」とのべるだけで、何の担保も示しませんでした。しかも、「すでに合意されたルールがあれば、遅れて参加した日本がそれをひっくり返すことが難しいのは厳然たる事実」と述べ、不利益な条件を受け入れざるを得ないことを認めました。


 また記者団から、「国益に反する場合、交渉から撤退するのか」との問いに明言を避けました。

 安倍首相は、TPPの意義は経済効果だけにとどまらないとし、「同盟国である米国と共に、新しい経済圏をつくる。そして自由、民主主義、法の支配といった普遍的価値を共有する国々が加わり、アジア太平洋地域における新たなルールを作り上げていく」と述べました。

 

 

 


■安倍首相のTPP交渉参加表明に強く抗議し、撤回を求める
日本共産党幹部会委員長 志位 和夫
   

 


 一、本日、安倍首相は、TPP交渉参加を表明した。安倍首相は、交渉のなかで「守るべきは守る」などとしているが、いったん参加したら「守るべきものが守れない」のがTPP交渉である。日本共産党は、安倍政権にたいし、TPP交渉参加表明を行ったことに抗議するとともに、参加表明の撤回を、強く求めるものである。


 一、TPP交渉で、「守るべきものが守れない」ことは、さきの日米首脳会談と共同声明からも明らかである。安倍首相は、日米首脳会談で「聖域なき関税撤廃が前提ではないことが明確になった」というが、これは国民を欺く偽りである。


 首脳会談で発表された共同声明では、「TPPのアウトライン」に示された「高い水準の協定を達成」する――関税と非関税障壁の撤廃を原則とし、これまで「聖域」とされてきたコメ、小麦、砂糖、乳製品、牛肉、豚肉、水産物などの農林水産品についても関税撤廃の対象とする協定を達成することを明記している。「聖域なき関税撤廃」をアメリカに誓約してきたのが日米首脳会談の真相である。


 国民皆保険、食の安全、ISD条項など、自民党が総選挙で掲げた「関税」以外の5項目についても、安倍首相は一方的に説明しただけで、米側から何の保証も得ていない。TPPに参加すれば、非関税障壁の問題でも、アメリカのルールをそのまま日本に押し付けられることになることは、明らかである。


 一、さらにTPP交渉では、新規参入国には対等な交渉権が保障されず、「守るべきものを守る」交渉の余地さえ奪われている。

 昨年、新たにTPPに参加したカナダ、メキシコは、
(1)「現行の交渉参加9カ国がすでに合意した条文はすべて受け入れる」、
(2)「将来、ある交渉分野について現行9カ国が合意した場合、拒否権を有さず、その合意に従う」、
(3)「交渉を打ち切る権利は9カ国にあって、遅れて交渉入りした国には認められない」
――という三つのきわめて不利な条件を承諾したうえで、参加を認められたと伝えられている。日本政府も、この事実を否定できず、安倍首相は、「(交渉参加条件は)判然としない」「ぼやっとしている」と、真相をごまかす答弁をおこなっている。


 「ルールづくりに参加する」どころか、アメリカなど9カ国で「合意」したことの「丸のみ」を迫られるのがTPP交渉である。


 一、今回の交渉参加表明は、自民党の総選挙公約――「聖域なき関税撤廃を前提とするTPP交渉に反対する」「関税以外の5項目でも国益を守る」――を、ことごとく踏みにじるものである。国民への公約を踏み破るものがどういう運命をたどるかは、前政権が示していることを、自民党は銘記すべきである。


 日本共産党は、農林水産業、医療、雇用、食の安全など、日本経済を土台から壊し、経済主権をアメリカに売り渡すTPPの実態を国民に広く知らせ、TPP参加反対の一点で国民的共同を広げるために、力を尽くす決意である。

 

 

 


しんぶん赤旗2012年3月16日、17日付より


 


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原発のコストのからくり

2012年12月02日 | 思想・哲学・倫理







ヤフーブログで、石原慎太郎フリークに、原発がなければ日本経済は立ち行かない、とボケている人物に絡まれています。しかしそのような言説がそれらしく広まっているのであれば問題だと思います。もちろん、多くの人びとはそんな言説に振り回されてはいないでしょう。しかし、うちのヤフーのほうのブログに絡んでいる人物のように本気で思い込んでいる人びともおり、橋下の「ファシス党」が人気を得ている日本の現状ですから、ちょっとこんな資料を提供しておこうと思います。以下はヤフーのほうでアップした記事のコピーです。







 日本の火力発電はほとんどが天然ガス、LPガスで動いている。天然ガス火力の発電は、発電単価でみれば一目瞭然だが、圧倒的に原子力発電より安い。さらに安いのは石炭火力。日本では高騰する石油ではほとんど火力発電に使われていない。


ではなぜ、日本の発電で燃料費が増えているのだろうか。また、日本の電気料金が世界で最も高額なレベルだと言われるのはなぜだろうか。それは国家による電力会社優遇制度があるからだ。「総括原価方式」といわれている。



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アメリカでは、原発よりLNG(ガス)火力のほうがはるかにコストが安い。だからアメリカでは、電力会社がコスト高の原発よりも、石炭火力とガス・コンバインドサイクル(ガス火力発電システム)が大普及してきたのである。


その後、アメリカで新規の原発建設計画が打ち出されてニュースになったが、それも政府の補助金が付かなければ電力会社は原発を建設できない、というのが実情だ。さらにいまアメリカでは、「シェール・ガス革命」によるガス価格の急落が起こっており、現在ではコストの安さではガスが圧倒的に優位になっていて、原発建設は論外になっている。

ところが、低価格のはずのガスが日本では、アメリカでの価格の8倍の値段で輸入している。これは国際市場原理を無視した日本の電力会社の怠慢経営が原因である。

その原因とは「総括原価方式」にある。電力会社は公益事業者であるという理由から、、国家から保護を受けており、今もって3%の利益率(事業報酬率、あるいは適正報酬率とも呼ばれている)が保障されているのだ。

一般企業であれば、原価を圧縮して利益率を高めようとする。
(註:原価が100、利益が12だったとする。原価を90に圧縮すれば利益12の原価に対する割合は大きくなる。)

ところが日本の電力会社は、原価に対して一律3%の利益率が政府によって保証されている。
(註:つまり、原価が100であるよりも200であった方が、原価に対する3%の利益率により、利益は3から6に増える。これが日本の電力料金が世界一高い事情をつくっている原因。)

かつては、この利益率が8パーセントだった。だから、原発建設費 + 運転・維持費 + ウラン燃料費 + 使用済み核燃料(高レベル放射性廃棄物)の処分費用 + 廃炉費用 + 地元への交付金・寄付金+メディアによる「安全神話」宣伝費などで出費がかさめばかさむほど、浪費すればするほど利益額が増えて儲かる仕組みになっている。

したがって電力会社は、一般企業が必死になって払っている原価を縮小しようという努力をまったくしないでも、寝ていても利益が転がり込んでくる。そのため、アメリカの8倍もの輸入価格で天然ガスを購入しても、痛くもかゆくもない。痛いどころか、出費がかさめばかさむほど利益額が増えるのだ。

だからガス料金を下げる努力をしなくても、その出費分は消費者の電気料金に転嫁するのである。われわれ消費者が、電力会社の怠慢のツケを支払っている、というわけだ。これによって関連業界が潤うというのだから、ネズミ講の詐欺と呼ばずになんというか。

なぜガスを世界市場価格の8倍で買うのかといえば、石油価格との連動性になっていて、ガスを石油の値段で買う仕組みになっているのだ。

こうして電気の原価が高くなればなるほど、電力会社は利益を増やしてきた。これが安いはずのガス火力発電の焚き増しのために費用がかさばった理由だ。そしてこれが電気料金の値上げに直結した。



原発推進者たちが二言めには、「原発がなければ、電力コストは上昇する」と主張して、この脅しを受けたかなりの企業が「原発必要論」に傾斜している。いわく、「全国の原子力発電所の運転停止が長引いた際、来年の夏は、全国的に電気料金が10パーセントほど上がる。経営合理化ではこのコストを吸収できない(2012年5月21日、枝野幸男経済産業相)」などというのは、もちろんこの「総括原価方式」を知ってのことだから、私は電力会社とメディアと経産省と政治家はグルだというのである。

逆に、原発を維持していることが、どれほど電力会社の経営を圧迫しているか。

電力会社が一年間に原発の維持・運転に要する費用は、2011年3月の有価証券報告書によれば、電力会社9社合計(原発のない沖縄電力を除く)で1兆7040億円にも達する。電気料金の燃料費というのは、原発のために数年先のウラン燃料まで買いつけてあるので、その維持管理費の分の費用が運転停止中の原子力発電所でもコストにかかって、大量の無駄な出費が決算にでているのである。

2011年2月27日、日本産業医療ガス協会の豊田昌洋会長が記者会見して、東電が4月から1kw時あたり平均2・51円(17%)の電気料金値上げをしようとしていることに対して、「電気料金を算定する原価から原子力発電にかかわる費用をすべて除けば、値上げ幅を0.9円程度に圧縮できる」と主張し、「燃料の増加など理屈に合う部分は受け入れるが、発電していない原発費用まで含めるのは、ビジネスの原理としておかしい」と東電を強く批判したのはそのためである。

また、原発依存度が高い電力会社ほど純損益が悪化していて赤字が巨額になっている。東電は福島事故によって破たんしているので現状では赤字は無限大だが、東電を除外すれば、関西電力、九州電力といった原発にどっぷりつかっている会社が、純損益▲2500億、九電が▲1700億である。原発のない沖縄電力は500億ほどの黒字になっている。

過日、同志社大学の室田武教授が、電源別の発電コストを正しく比較して教えてくれた。室田教授は、もともとわが国で最初に、電力会社の「総括原価方式」のトリックを明らかにした先駆者である。福島原発事故の後、大手メディアが室田教授をほとんど取材しないのは、まったくおかしなことである。

室田教授によれば、電力会社に電気を売る卸電気事業者として日本原子力発電(日本原電)は敦賀原発と東海大二原発を運営していて、原子力発電所しか運転していない。それに対して卸電気事業者の電源開発(社名。Jパワーとも呼ばれる)はこれまでのところ、火力と水力がほとんどで、火力はすべて石炭火力である。この両社の卸電力単価を調べると、

           原子力        石炭火力

2006年     10円/kw時     7円/kw時
2007年     13円/kw時     7円弱/kw時
2008年     14.5円/kw時   9円強/kw時
2009年     12円/kw時     7.5円/kw時
2010年     11円/kw時     7.5円/kw時

…というように、石炭火力に比べて、原子力が非常に高い卸電力単価で電気を売っている。つまり、日本の実際の市場で原子力がコスト高であることは明らかである。むしろ、原発がなくなれば、電気料金は値下げされる運命にあるということだ。また、この調査から、石炭火力がコスト面での優等生であることがわかるだろう。


今夏の関西地方で電力不足が起こらなかったことが実証されたため、経団連や日本政府などが、言うに事欠いて、「原発がなければ、電気料金値上げのため、日本企業が海外手逃避する」といった新たな脅しをかけ始めてているが、ほとんどの日本企業の海外移転は原発が54基も猛烈に運転されていた時代に起こった現象である。原発に依存する日本が世界一高い電気料金だったからなのだ。





(「原発ゼロ社会へ・新エネルギー論」/ 広瀬隆・著)


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新聞、TVメディアとは全然違いますよね、この情報。原発以外で頼れるのは火力発電のみ、とまるで火力発電が原発よりコスト高であるかのようにいう、マスコミと政府と官僚を抱き込んだ電力マフィアの情報に洗脳された人々が言うのですが、火力発電のほうが安く電気を提供してきているのです。


それに、頼れるのは火力発電のみ、という認識もメディアに踊らされています。私が小学生だった時代は高度経済成長期末期でしたが、その時代は水力発電が主力でした。小学校の社会の授業では、水力発電が主力だと書かれていました。日本の高度経済成長は主に水力発電と火力発電によって賄われてきたのでした。いまほど家庭への普及はなかったものの、オフィスや、公共の建物ではクーラーはガンガン効いていました。これはあのアホ右翼の小林よしのりも同じ証言をしています。

今度はやはりメディアに騙されていない経済学者の書いたものをご紹介しましょう。




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まず原子力から離脱すると経済に悪影響を及ぼすという懸念についてみよう。最もポピュラーなのは、原発を停止すると、その分火力発電所を稼働させる時間が長くなり、化石燃料の焚き増しが増え、燃料費が増えて発電コストが上昇し、結果的に電気料金が上がるとする考え方である。

典型的なものは、革新的エネルギー・環境政策を策定するために設置されたエネルギー・環境会議(構成員は関係閣僚)の決定(2011年7月29日)で示されている試算である。これによれば、原発が定期検査で次々と停止し、このまま再稼働できない場合、2012年には原子力発電がゼロになる。その足りない分を石炭やLNG、石油などの火力発電所に依存すれば、火力発電の燃料費が増大し、全国で3兆1600億円ほど負担が増えるというのである。

ここにはいくつか検討すべき点が残されている。まず、燃料の焚き増しがどれだけあるかは、電力需要に依存しているという点である。省エネ投資、省エネ危機の購入などにより、電力需要を抜本的に引き下げることができれば、焚き増しはその分少なくなり、追加費用も減少する。したがって、節電をセットにして、焚き増しによる費用を考える必要がある。

仮に、節電がまったく行われず、電力需要が従来通りであるとした場合、再生可能エネルギー普及がまったく進んでいない現状では火力の焚き増しがあることは確かである。ただしここでも注意すべき点がある。それは原子力発電をなくせば(=廃炉にすれば)、火力用の燃料費が増える半面、原子力発電に罹っていた費用を節約できる。原子力発電をなくすことのコストのみを強調し、便益を見ないのでは一面的な議論に陥ってしまう。




(「原発のコスト」/ 大島堅一・著)


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さて、大島立命館大学教授の文章にあるとおり、再生可能エネルギーでは、日本は大きく立ち遅れています。意図的にそうしているのではないかと、わたしは個人的に疑っておりますが、実際に再生可能エネルギーはどれほどのポテンシャルを持っているのでしょうか。また折を見て、再生可能エネルギーについて、資料をご紹介します。


急に選挙が行われることになって、候補者を見れば、経済右翼と反動右翼ばかりが目について誰に投票していいかわからない状況です。顔ぶれを見る限り、だれが政権を取ってもわたしたちの暮らしのことを本気で顧みてくれるとは想像できません。でも、選ばなければならない。ただ、情報がきちんと伝えられていないのは深刻な現状です。原発報道がその典型です。石原のように尖閣騒ぎを起こして、地方の庶民の暮らしをどん底に陥れるわ、原発を再稼働させようとするわ、の、あたかもわたしたちが身分制度における下級庶民であるかのようなものの見方には心底憤りを覚えます。

とにかく、原発についての政府や産経新聞の情報は偏向であることが暴露されてきていますから、原発についてどういう方針かを見ることで投票行動の基準にできるかもしれません。候補者の原発に対する態度は、その候補者の目が黒いか濁っているかを見分けるバロメーターになるのではないかと思います。どうか産経=石原慎太郎派に洗脳されてしまった人々に踊らされないようにしてください。国家が大事だから、国民は国家のために死ね、といったのは戦前の日本の精神思考でした。みなさんは本当にそんな時代に戻っていいんですか。

近代立憲主義は、国民が生きることのための国家である、という前提に立っています。土台はわたしたちです。尖閣を守るために国民は血を流せと言う石原慎太郎や山谷えり子の考えは、たとえていえば土台を壊した高層建築物です。そんな建築物は立っていられません。だからそんな考えは空想の産物なのです。わたしたちはもう小泉郵政選挙のような失敗をしてはならない、東京都民や大阪府市民が人物を判断する基準としてもっている、「乱暴な口をきく人物、強気の発言をびしっと言ってくれる人物が頼りがいがある人物だ」というような、ゆがんだ考え方をしてはならないのです。







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アメリカ時代の入り口に立って(続)

2011年11月13日 | 思想・哲学・倫理

(承前)



 

三橋さんのブログにはさらに興味津々の情報が掲載されています。

 

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さて、TPPと言いますか、TPP関連の報道ですが、凄まじいことになっています。本日と明日と、二日続けて本「情報戦争」について取り上げたいのですが、まさしく、「ここまでやるか!」と叫びだしたくなるほどの偏向報道、イメージ操作の繰り返しになっています。特に酷いのが新聞で、珍しく「テレビの方が新聞よりは、まだまとも」というおかしな状況になっています。


【【マスゴミねつ造報道検証!】TPPについて谷垣氏の発言すべて10月15日 】


アナウンサーからTPPに関する谷垣総裁の見解を尋ねられ、、
谷垣総裁 「まだ情報が少なくてですね、もう少しいろんな問題点を解明しなければいけないと思います。ただ、全然、協議もしないということでいいのかどうか。それは協議をしながら国策にかなうかどうか、日本の国益のかなうかどうかを、判断していかなければいけないんじゃないかと思いますね」
アナウンサー 「どういう情報が必要なんですかね?」
谷垣総裁「これはね、農業の問題ばかりが取り上げられますけど、24の分野があるわけですね。そこで、どういう風にしたら、その分野がどうなっていくのかということについて、もう少し情報を集めて、我々も検討していかなければいけないと思います。与党の方も議論を始めて、だいぶ大激論になり、混迷もしているようですが、我々は高村正彦さん、外務大臣をやられたベテランに、外交、経済連携調査会を作って頂いて、そこで大いに議論していこうと思っています。
 24の分野とは、色々な分野があります。医療とかそういった分野もあれば、農業もあり、そういった問題に情報を集めてきちんと議論をしていく。それから、特にこの問題は、外交・安全保障といった分野からの議論も必要だと思います」
 アナウンサーから自民党の「TPP参加の即時撤回を求める会」についてふられ、
谷垣総裁「参加するかどうかは、本当に参加するかどうかはもう少し議論しなければなりませんね。それと、まだ国論も集約していませんから、野党として国論をどうやって集約していくか、その役割も果たさなければならないと思います。
 きちんと議論していこうと。あんまり拙速に判断してはいけないと思います」


 上記の谷垣総裁の発言が、いかに日本の大手紙に報道されたか。

 

『毎日新聞 TPP:「交渉参加し、判断するべきだ」…谷垣総裁
 自民党の谷垣禎一総裁は15日のテレビ東京の番組で、政府が交渉参加を検討している環太平洋パートナーシップ協定(TPP)について「全体の協議もしないことでいいのか。協議しながら国策、国益にかなうか判断しないといけない」と述べ、交渉には参加すべきだとの考えを示した。(後略)』

 

『産経新聞 【TPP参加】交渉参加に前向き 自民・谷垣総裁が発言 党内に波紋呼ぶ可能性も

 自民党の谷垣禎一総裁は15日のテレビ東京番組で、環太平洋連携協定(TPP)交渉について「協議をしながら、国益にかなうかどうかを判断しなければいけない」と述べ、参加に前向きな考えを示した。(後略)』

 

『日経新聞 自民総裁、TPP交渉「参加すべき」 

 自民党の谷垣禎一総裁は15日午前のテレビ東京番組で、環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉参加問題に関し「全然協議しないでいいのか。協議をしながら国益にかなうか判断すべきだ」と述べ、交渉に参加すべきだとの認識を示した。』

 

 お分かりでしょうが、谷垣総裁は「TPPの交渉参加し、判断するべきだ」などと一言も言っていません。単に、情報が足りないので、情報を集めて自党内で協議する、と言っているだけです。
 珍しいことに、上記について読売新聞がまともに報じています。

 

『読売新聞 TPP、拙速判断いけない…自民は議論急ぐ考え
 
 自民党の谷垣総裁は15日、テレビ東京の番組で、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉への参加について、「まだ情報が少なくていろいろな問題点を解明しないといけないが、全然協議もしないということでいいのか」と述べ、自民党内の議論を急ぐ考えを示した。
 谷垣氏は「国論もまだ集約していないので、野党として集約させる役割も果たしたい。あまり拙速に判断してはいけない」と述べ、慎重に議論する方針も示した。
 同党は今後、政務調査会に新設した「外交・経済連携調査会」(会長・高村正彦元外相)を中心に議論を再開する方針。TPP交渉参加問題では、石原幹事長らが賛同する考えを示しているが、農業関係議員を中心に反対論が多い。』

 

 谷垣総裁は「情報が足りないので、情報を集めて協議をしていく」と言っているわけですが、それが毎日や産経、日経の手にかかると「交渉参加すべし」となってしまうわけです。


 現在、自民党内ではTPP不参加派が多数派を占めています(実は、そうなんです)。上記のテレビ番組も、自民党内に反対派が多いことを受け、左下に「党内分裂? TPP参加の行方」という煽りテロップを出しています。現実には、自民党が割れるほどTPP賛成派の数は多くないのです。


 谷垣総裁は、[とりあえず、情報集めて、協議しようよ」という態度であり、これは現時点のトップとしては正しいと思います。ここまで情報が少ない中、
「交渉参加と参加は違いますから。いざとなれば途中で抜けられますから」
「韓国に負けないようにTPP交渉参加しましょう」
 などと言ったミスリードに流されて「交渉参加検討」をしている、現政権が異常なのです。

 

 皆様、昨日に引き続き、民主党内反対派、自民党内反対派、国民新党、たちあがれ日本の政治家の方々に、是非、皆様の声を届けて差し上げて下さい。国民の声があれば、政治家は動けます。 

 

 

またもや、要人の発言が「捏造」されました。

 

『小沢元代表、TPPに前向きも国内対策の必要性強調

 民主党の小沢元代表は、TPP=環太平洋経済協定について「自由貿易は最も日本がメリットを受ける」と述べ、前向きな姿勢を示す一方、国内対策の必要性も強調しました。(後略)』

 

『小沢氏、TPPに前向き 「自由貿易は日本にメリット」

 民主党の小沢一郎元代表は20日、東京都内でフリー記者らが主催する記者会見に応じ、TPP(環太平洋経済連携協定)について「自由貿易は最も日本がメリットを受ける。原則として理念的にはいいこと」と述べ、交渉参加に前向きな考えを示した。(後略)』

 

『野田降ろしにならない?TPP慎重派に温度差

民主党が21日、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉参加の党内論議を11月2日までに終える方針を固めた背景には、「反対論者の多くは、党内を混乱させてまで、野田首相を追い詰めないのではないか」との読みが執行部内に出てきたことがある。(中略)
 民主党内最大勢力の小沢一郎元代表グループも、元代表本人が自由貿易そのものには賛成のため、表だって反対活動に加わっていない。小沢グループ幹部は「TPPで『野田降ろし』にはならない」と話す。』

 

 以下、小沢一郎事務所のツイッター。

 

『今日、一部紙面等で『TPPについて「小沢氏前向き」』と報じられておりますが、それは誤りです。今の拙速な進め方では、国内産業は守れません。 』

 

 要するに、この「前向き」という言葉が極めて曲者というか、悪質なのです。すなわち、「TPP断固反対! TPP打破すべし!」とかやっていない政治家は、「○○氏はTPPに前向きな態度を表明した」などと捏造報道をされてしまい、TPP交渉参加のための既成事実積み上げに活用されてしまうわけです。


 先日、自民党の谷垣総裁が、
「参加するかどうかは、本当に参加するかどうかはもう少し議論しなければなりませんね。それと、まだ国論も集約していませんから、野党として国論をどうやって集約していくか、その詰めの役割も果たさなければならないと思います。
 きちんと議論していこうと。あんまり拙速に判断してはいけないと思います」
 と発言されていましたが、いよいよ(と言うか、こんなにギリギリで)TPPの全容がオープンになりました。


 皆様、上記の情報を是非とも地元の政治家に転送し、
「官公庁が14も関連しなければ資料一つ作れないほど、凄まじく広範囲なTPPについて、きちんと議論を経ていない現時点で交渉参加を決意するなど、国家として自殺行為だ!」
 などと、皆様の言葉を伝えてください。

 


こちらのブログより転載。


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2011年11月新刊のちくま新書から出た作品でこういうのがあった。


「ヒトラーの側近たち」。大沢武男・著。


この本のエピローグにはこういう文章があった。

 


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ナチ政権が成立したとき、ヒトラーを囲む側近閣僚たちはきわめて若い世代であり、43歳の首相ヒトラーを中心に30代が最も多く、平均年齢は40歳ちょっとという、前例を見ないほど若い構成の内閣だったのである。

 

しかも彼らは党史の浅いナチ党の閣僚であったため、急速に出世して大臣という権力の座に就いた人物が多く、ちゃんとした政治的、官僚的な経歴を持ち合わせていないものが大方を占めていた。

 

 

 

(上掲書より)

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若手の人間はとかく理想や理論に走りやすく、生身の人間という事情を深慮しない傾向があるのだろうか。確かにそういう傾向はあると言えるかもしれない。つまり、未成熟さ、ということか。そういえば、小泉さんはこういう人物だった。

 


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小泉以前の自民党で総裁の座を目指すためには、政治家に必要とされる明確な要件があった。まず組織の面で、派閥のボスとなり、親分の意のままに行動する数十名の手勢を持つことが絶対の条件であった。トップに上り詰めるためには選挙を支える家子郎党が必要とされた。

 

次にキャリアの面で、財務(旧大蔵)、外務、経産(旧通産)という主要閣僚と、幹事長、政調会長、総務会長という党三役のうちで、できれば二つ以上のポストを経験することが必要であった。重要なポストに就いてリーダーとしての経験、力量を積むことは、政党に限らずあらゆる組織に共通する話である。

 

この仕組みは、政府と自民党という既存の権力空間の中における人材育成システムであった。そして、長期安定政権の時代にはそれなりに機能し、橋本龍太郎、小渕恵三の時代まではこの仕組みの中からリーダーが出現した。しかし、小泉以降、この仕組みは崩壊した。既存の権力空間で長いキャリアを積んだインサイダーに対して国民が嫌悪感を持ち、訓練の仕組み自体が無意味になった。

 

…(中略)…

 

その結果、自民党においては中間の鍛錬、育成の期間を省略し、組織の掌握や政策決定に向けた調整の経験を十分に持たない政治家がいきなりトップリーダーになるということが起こるようになった。

 

 

(「政権交代論」/ 山口二郎・著)


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一方の利益や、一方的な理論に突っ走ってしまうのは調整力の無さや将来的な展望力の無さという「未熟さ」があるからだ。かつての自民党では、総裁に至るまでの鍛練となる「道順」が暗黙のルールとしてきめられていた。だが、小泉さん以降、人気やある勢力にとって便利な人物が、急に表れては総裁にたてられる。短命総理になるのも無理からぬことなのだろう。











若い世代は、理想論や理論に現実を合わせようとする。経済学は、ホモ・エコノミクスを前提に、論理が組み立てられるが、人間はいつも合理的に行動するわけではない。いや、合理的に行動しないから人間は魅力的なのだ。だが、経済学の若手論者は、経済学理論の原則に合わない結果とその結果をもたらした人々のほうが悪く、理論の整合性のために、そういう輩は排除せよ、自己責任だという。

 

だが自然科学はそんなことは言わない。既存の法則に合わない結果が報告されたら、既存の理論を護るためにそのデータのほうを抹消しようという自然科学の学者などいるだろうか。科学の進歩はそういう既存の理論に合わない観測データの存在を認め、それを調べることで進歩してきた。老練な人間も、人間の暮らしを支える経済というものを扱うときには、理論通りには動けない人間の弱さ気まぐれさを十分に考慮に入れるのだ。

 

そういう老練さは、長年の鍛錬によって、対立する利害の両方の要求を取り入れた調整的な政策を生み出すものだ。一方的に肩入れして国民の暮らしを破壊的な影響にさらすなどという愚行はしないだろう。民主党政権はそういう意味で未熟なまま大きな問題を扱い、みっともない失政に終わらせ、その埋め合わせに、アメリカのみを益するものであり、かつ日本を変革するような自由貿易協定に参加しようという。

 

わたしたちはどうすればよかったのだろう。そう、わたしたちが、考えることを他人任せ=新聞・TV “ジャーナリズム” まかせにしてきたことに大きな原因があるように思う。わたしたちは、自分の国に関することについては、もっと積極的に、そう、労と時間を惜しまず参加してゆくべきだった。

 

今となってはすべてが見苦しいグチになってしまう。どうしていいかわからない。とりあえず、ベッドに横たわり、眠ろう。心配は明日からにしよう。もうブログに意見を言うのには、限界を思い知った。自分の筆力の問題、ブログ意見の無力さ、つながってゆかない無意味さ。そしてわたしたち個々人が割拠し、自分のメンツや意地の内側に立てこもっている間に、国家の官僚たちは政治家とマスコミを操って、自らの出世と、天下り先の創出とを成し遂げ、その財源のために国民の暮らしに手を付けるようになった。国民への見返りは、震災復興を御旗に見立てたTPP参加と復興増税の実施だった。どちらも国民の暮らしを破壊する政策だった。…

 

 

 




長い間ありがとうございました。「Luna's “A Life Is Beautiful”」は今回をもちまして更新停止とさせていただきます。このブログを書いてきてよかったことはひとつ、世の中のことを勉強できたことです。それまで関心を持たなかったことに知見が広がるというのは、それなりに意味があると思いたいです。それはきっとよかったんだろうと思います。



大変な時代が始まります。みなさんが、わたしをも含めて、生きのびれるように、幸運の星に祈り続けるとしましょう。ごきげんよう。











「カナダ国民は、何に調印したのかわかっていない。彼らは20年以内にアメリカ経済に吸収されるだろう」。

 -クレイトン・キース・ヤイター・レーガン大統領時代のアメリカ通商代表。
   アメリカ=カナダ自由貿易協定の締結後の非公式の発言。

 






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アメリカ人の時代の入り口に立って

2011年11月13日 | 思想・哲学・倫理




 

国民はみんな、郵政が民営化されても、派遣労働が増加して生活を立ててゆけない人が派遣村に集まっても、自分の家は何とかやってこれたので、TPPに参加するようになっても、自分の家だけはなんとかなるだろう、くらいにしか思っていないに違いありません。でも、今度だけはその楽観は粉々に打ち砕かれるでしょう。TPPがもたらす国民の暮らしの破壊は、おそらく戦後最悪の惨事となるでしょう。これは決してこけおどしなどではないのです。アメリカンスタンダードが日本をつくり変えてゆくからです。



3.11の大津波のとき、いち早く津波に気づき、避難を始めた人がいたようです。そういうひとたちは、逃げる途中で、避難路に面した家々のひとびとや、通りがかりに出会ったひとびとに、津波が来るから早く逃げるようにと大きな声で伝えたそうですが、ひとびとは反射的迅速な行動はとらなかったそうです。それどころか、人々は津波のことを話題にして談笑さえしていた人もいたそうです。海から遠くの自分たちのところまで致死的な大津波が到達するとは想像できなかったのではないでしょうか。責めることはできないし、もとよりわたしは責めるつもりもありません。わたしはそういう人以上にかっこよく、賢い行動がとれたかと聞かれれば、しょんぼりするしかできないでしょうから。しかし、海水は来たのです。真っ黒に濁った不気味な水の大群が。

 

今回のTPPもまったく同様でしょう。いままでも農産物は自由化されてきた。だが都会暮らしの自分たちにそれほど危機をもたらしたわけではなかった。派遣村が話題になっても、自分の家族にはそんなに悪いことは起きなかった。リーマン・ショックの時は、給料も下がり、ボーナスも減り、さすがに恐怖だったが、乗り切れた。だからTPPっつても、おなじようなものだろう、と、おそらくみんなそんなふうに感じているに違いありません。ブロガーは、TPPはやられた。次の話題に移ろう、と思っているでしょうか。

 

だが、TPPはちがう。この激震がもたらす大津波は、確実に自分のもとまでどす黒い水を送り込む。信じられないくらいに犠牲者が増える。3か月、4か月と何事もなく時間は過ぎるだろう。だがあるとき、住宅地の向こうで煙が立っているのを見るだろう。火事か、と思うかもしれない。それが大きな水しぶきであるのを認めた時にはもう遅い、逃げ切ることはできない。

 

どこで判断をまちがえたのか。野田さんが総理になるのを阻止することはわたしたち国民のだれにもできなかった。これはどうしようもないことだった。だが、経団連と財務省は野田総理を誕生させる影響力を十分もっていたし、彼らはその影響力を行使した。民主党に投票したのだって、わたしたちは小泉構造改革で破壊されたわたしたちの暮らしと安全を回復させてほしいという思いからでたことだった。だが、民主党はみごとに変節した。その変節に、わたしたち国民にも責任があるとでもいうのか。そう、ただひとつ、わたしたちはあまりにも完全主義だったかもしれない。政治とカネの問題に注意を取られ、バッシングしやすかったこともあってか、小沢という影響力のある人物をわたしたちは葬った。だが、戦術としては、小沢を切り札として活用できたかもしれない。小沢よりもっと凶悪な影響力を見分けることができなかったか。仙石=前原グループという経団連の送り込んだ刺客を。民主党は寄せ集め世帯だったので、いくつかのグループがひとつに束ねられていた。わたしたちが前原の脅威に気づくなら、小沢という毒を温存しておいて、あの前原を下してしまえたかもしれない。そのくらいのずる賢さは、政治のことについては必要だったのかもしれない。結果からふりかえってみれば、民主党というのは、財務省と経団連が送り込んだ、みごとなトロイの木馬だった。いまさらグチグチ言ってもしようがないことだが。

 

最後に、マスコミのことを転載して、このブログの幕としようと思う。ブログを書き始めたのは2005年の3月末日だった。今年で満6年と8か月ということになる。よくも続けてこれたものだ。だが、わたしの筆力の限界のため、あまり共感は得られなかったようだ。にぎわう大ブログには縁遠い存在だった。でも、わたしはわたしなりに一生けんめい書いてきたと自負できる。それはそれでいいとしよう。

 

思えば、小泉郵政選挙もマスコミの影響の産物だった。あのときにはまだマスコミは反省を述べたりもしたものだった。だが今は違う。マスコミははっきり、政・官・財と蜜月関係を持つようになり、国民を犠牲にすることをいとわないようになったようだ。

 

 

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TVが権力の内側にいたのは昔からだが、ここまで露骨に権力擁護に走り、権力側もまた露骨に利益誘導するようになったのは最近のことである。

 

「小泉政権時代に政治の “劇場化” が急速に進み、政治家はTVをフルに利用し、その手法を官僚も取り入れて、御用学者、御用コメンテーターへの『教育』を強化した。一方で、TVの側もあけっぴろげに自分たちの要求を出すようになった」(民法記者)

 

その要求のひとつが、地デジ化に際して検討されていた「電波オークション(*1)」潰しであり、「クロスオーナーシップ改革(*2)」潰しであった。


(*1)電波オークション;
日本では、政府が公共財産である電波を、恣意的に割り当て、既存のTV局に無料で免許を与えてきた。それを改め、周波数帯域の利用免許を競売にかけて、新規事業者にも電波を解放しようという制度。諸外国では多く導入されている。民主党は08年のマニフェストで導入を掲げていたものの、昨年の電波法改正案からは完全に外された。

(*2)クロスオーナーシップ改革;
新聞社が放送業に市販参加するなど、特定の企業が多数のメディアを傘下にして影響を及ぼすことを「クロスオーナーシップ」という。民主党政権誕生時、原口一博総務相(当時)らはクロスオーナーシップ規制の法制化を目指したが、2010年成立の改正放送法では規制強化が見送られた。

 

そして増長しきったTV界は、ついに国民のカネにも手を伸ばそうとしている。「TV減税」(通信・放送システム災害対策促進税制)の創設だ。

 

東日本大震災を名目に、TV、ラジオ、通信業者の災害用設備新設の法人税優遇(2年間の特別償却)と固定資産税優遇(課税標準を5年間、3分の1に圧縮)というずうずうしい要求である。ところが総務省は概算要求の税制改正要望にすでに盛り込んでおり、誰も批判報道しないこの改正は、すんなり通る可能性が高い。いうまでもないが、震災でTV局だけが特別に救済される根拠など本来はない。

 

ついでにいえば、民放キー局の親会社である大手新聞も同様のことをたくらんでいる。消費税増税の必要性を紙面で主張する一方で、「新聞代は消費税免除に」と陳情し、野田内閣はそれを認める方針である。

 

こんな連中が、野田内閣が進める大増税、年金1千万円カットを、「仕方ない」、「国民も痛みを」と後押ししているのである。

 

アムステルダム大学教授で、日本の権力構造に詳しいカレル・ヴァン・ウォルフレン氏が指摘する。「TVをはじめとする日本メディアの根本的な問題は、国家権力の中枢にいるエスタブリッシュメントたちの考え方に無批判にしたがっているだけで、彼ら自身にそれを深く理解し、批判する力がないことです。たとえば、日本の財政赤字はほとんどは日本国内からの借金で、国外から借りているわけではない。むしろ日本は米国債を大量に保有しており、政府があおる財政危機とは明らかに実情と異なる。政治家や官僚のことばを垂れ流すことはすなわち国民をだますことにつながる」。

 

(「週刊ポスト」2011-11-11号より転載)

 

2011年7月中旬の出来事である。


日本新聞協会が主催し、大手各新聞社の論説委員を集めた会合が開かれた。そこに、与謝野馨経済財政政策担当大臣(当時)が招かれ、新聞社側は、「消費税をアップしても、新聞の購読料には軽減税率を適用してほしい」と「陳情」したのだ。


それに対し、与謝野氏は、「復興増税の件、よろしく頼む」と答えたとのことである。

 

日本新聞協会が与謝野氏に陳情した「軽減税率」とはなにかといえば、文字通り増税や新税導入などをした際の「軽減措置」のことだ。新聞ビジネスでいえば、この先消費税が5%から10%にアップした場合、購読料値上がりでさらなる読者離れが起きることは確実だ。消費税が5%の現在でも、新聞産業は経営が悪化しており、購読料アップで読者が減ると、これまで以上にリストラを実施しなければならなくなってしまう。

 

つまり日本新聞協会や各大手紙の論説委員たちは、自社の経営悪化を回避するために、消費税増税が決定しても新聞の購読料への課税は「対象外」にしてほしいと陳情したというわけだ。日本国家や日本国民のためではなく、言論の自由とやらのためではなく、自社の経営のために「自分たちは例外にしてくれ」と頼んだのだ。それに対して与謝野氏は、「新聞に軽減税率を適用してほしければ、復興増税のキャンペーンをしろ」という条件をだした。

 

これがはたして、選挙で選ばれた政治家(与謝野氏は比例復活だが)や、自称「社会の木鐸」たる新聞社のやることか、といいたい。

 

…(中略)…

 

■大手マスコミの増税志向 (2011年6月19日)


政府の復興構想会議でも財源を増税に求めることを決め、財務省主導の増税路線にマスコミも乗っかっています。某大手新聞社に大物の財務官僚OBが天下ったりしていて、財務省の増税シフトに対して大手マスコミは賛成モードです。消費税が上がっても大手新聞社は困らないカラクリがあります。大手新聞は「新聞購読料は消費税対象外」という要求をし、その要求に財務省はOKを出している様子です。財務省と大手マスコミはすでに蜜月状態にあります。


山内康一・みんなの党、衆議院議員のブログより

 

 

日本のマスコミは官僚の天下りを散々に批判しているが、その急先鋒たる読売新聞の社外監査役に、2010年7月まで財務事務次官を務めていた丹呉泰健(たんごやすたけ)氏が就任している。きわめて重要な事実なので繰り返すが、2010年まで財務省事務方のトップ(次官)を務めていた人物が、同年11月に読売新聞に天下ったのだ。

 

 


(「増税のウソ」/ 三橋貴明・著)






つづく

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「現代社会と自己への道」の目立った点~「もういちど読む、山川『倫理』」通読(1)

2011年04月15日 | 思想・哲学・倫理

 

 

 

 

自分を探す旅

 

 

 

日常生活の中で、ふと、自分は何のために生きているのだろうか、自分はこれでよいのだろうか、これから自分はどうなるのだろうかという、さまざまな自己への問いかけが生まれることがある。

 

わたしたちは、このような心にわきあがる問いに対して、自分なりの答えを見つけ出そうとする。そのような試みのひとつが倫理、すなわち人間の生きる道筋を考えることである。人間は生きている限り、自己の生き方を問いかけ、、倫理を模索し続ける存在といえるかもしれない。

 

地球には、今まで無数ともいえる多様な生物が生まれてきた。その中でわたしたち人類は、あるときから命の神秘と価値に目覚め、命を守り、成長させることが善であり、命を傷つけ、破壊することは悪であることを悟った。人類だけが倫理や道徳という文化を持つことは、命の価値を自覚できる唯一の生きものとして、命への責任のあらわれと言えよう。それはまた、命を生み、育てる奇跡的な地球の自然への畏敬の念にもつながる。倫理をはじめ、哲学、宗教、芸術などの文化が生まれた根源は、そのような人類の命への目覚めや、自然への畏敬にあるともいえよう。とくに倫理は、与えられた命の重みをかみしめ、命を生み出した自然への畏敬の念を新たにすることでもあるだろう。

 

わたしたちは、このような人類の精神が目覚める歩みのなかに生きている。それは、自己とは何か、人間とは何か、人生とは何かを問い続ける長い長い心の旅である。その旅の道しるべとして、先人たちのさまざまな思想について学んでみよう。

 

 

 

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近代国家におけるアイデンティティの「素」ってなに?

2009年07月12日 | 思想・哲学・倫理

おひさしぶりで~す。ずいぶんさぼっちゃってますね~。でも放置していても訪問してくださる方々がいらっしゃって、胸にじーんとくるものがあります。気まぐれにしか更新しないブログですが、これからも時々でも覗いてやってくださいませ。

 



さて、ひさしぶりにエントリーするに当たって、最近話題になった国旗国歌への態度の問題に関連して、「『国』とは? 『愛する』とは?」という憲法研究者の樋口陽一さんの記事をご紹介しようと思います。これは月刊誌「世界」の2006年6月号で特集された「憲法にとって『国』とは何か」というテーマの特集記事群の中の一本です。改憲の動きに対して、近代民主主義の原則をもう一度考え直そうという特集です。教育基本法改訂以前の考察です。

教基法改訂への動きがうねり始めた時代背景に、日本人なら国旗を崇拝するべきだの、君が代斉唱時に伴奏・斉唱拒否するなら日本を出て行け、など、「国」や「日本人」といったことばが多用された流れがあります。それは改訂された現在、裁判所が堂々と憲法にそぐわない判決を出してきている状態へと発展してきています。

改訂教基法の中の「愛国心」の表記を問題の俎上にのせて、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできたわが国と郷土を愛する…態度を養う」という文言ですが、そもそも近代国家における国民の結合は、文化とか伝統で結びつけるものではないのではないか、そういう考察を述べている記事です。

改訂教基法は憲法と明らかにそぐわないものになりました。自民党の眼目は、かねてよりアメリカから要求されてきた改憲です。改訂教基法の精神を憲法にも書き込もうと言うものです。

樋口さんはかつて対談されたある作家の考えを引き合いに出されます。その作家は「ネーション」と「ステート」をしっかり区別するべきと提案されたのだそうです。

「ネーション」による結びつきというのはまさに改訂教基法が「愛国心」について言うところの、「伝統と文化」を生来的に共有する民族の集まりが国家である、とする考え方です。しかし、近代国家とは、「ステート」である、ということを強調しておられるのです、樋口さんは。「ステート」は法体系によって結びつけられるもので、それはさまざまにユニークな個々人による「社会契約」という新しい概念によってつくられるものが近代国家だ、とおっしゃられます。

ややこしいですね。「ネーション」は、血のつながり、民族という括りで結び付けられた集まりであり、近代国家はそのようなものではないのです。この説明を、「ネーション」と「ステート」の類似概念である、「エトノス」と「デモス」をつかったこういうたとえ話を述べられます。

「エトノス」というのは、民族、血のつながり、ナショナル・アイデンティティという意味であり、「デモス」は人為、民主主義、制度、の意味です。「ネイション」、「ステート」の概念との類似が感覚的にわかっていただけるでしょうか。

 

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デモスとしての国民国家は、人びとの生活実感としては、何でまとまろうとするのか。

井上ひさしさんの芝居に、『兄おとうと』という、吉野作造を取り上げたものがありますが、劇中、主人公の作造に言わせているこんな言葉があります。

ナショナリストの若者が斬奸状(悪者=奸を切り殺す趣意を書いた書状)を持って糾弾に来るのに対して、「このおにぎり(国民の集まりである国家を、米粒を集めたおにぎりに喩えている)の『芯』になっているのはなんだろう」と問いかけながら、吉野が応える場面です。

 

国の素(もと)は何か。

若者はまず、「民族だ」という。吉野は、「ちがうな。民族も種族も国の素にはならない」と言う。なぜなら、「世界のどこを探しても純血な民族など存在しない。わが国もまたしかり」と。

つぎにナショナリストの若者が、「国語を話すから日本人、それで決まりだ」と言う。吉野は「それもちがう。多言語国家もあれば、ひとつの言語を使ういろいろの国があり、その逆もある」と応える。

さらに、「この日の本の国をひとつに束ねているのは国家神道に決まっている」と若者が言うと、吉野は「それでもない。明治以前にはそんなものはなかった。宗教が国の素というのなら、イランもイラクもイエメンも、コーランの教えのもとにひとつの国になっていてもよいはずだが、そうはなっていない」と応える。

結局、「民族、ことば、宗教、文化、歴史、全部だめ。なら『芯』は何か」。吉野が言うのは、「ここでともに生活しようという意志だな。ここでともにより良い生活をめざそうという願い、それが国のもとになる。そして人びとのその意志と願いを文章にまとめたものが憲法なんだ」というわけです。

つまり、ある時代以前から人びとの前にヌっと当然のように横たわってきた何かではなくて、今その時代に生きている人々の意志の力でひとつの公共社会をつくってゆく、ということです。

 

ナショナリストの若者が主張するのが「エトノス」で、括弧つきですが「自然」のもの、言葉とか文化とか伝統とか、そういうネイティブなものです。それに対して吉野の主張するのが「デモス」としての国民で、それは(ひとりひとりユニークな個々人がユニークなままでひとつに)まとまろうとする意志だ。だからこそ、近代国家に値する公共社会をつくっていくためには、「ネーション」と「ステート」という仕分けをしっかりしなければならない、と言うのです。

 


(「『国』とは? 『愛する』とは?」/ 樋口陽一・談/ 「世界」2006年6月号より)

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最後の段落で、“括弧つきのですが「自然」のもの、言葉とか文化とか伝統とか、そういうネイティブなもの” とあるのは、伝統、文化 etc... というものも人間の手によるものですが、リアルタイムに生きている人びとが自分で選んだり、つくったりしたものではありません。たいていの場合、伝統・しきたりだから従え、というような強制的に、あるいは伝統・しきたりなんだから従うしかない、というような選択の余地のないものとして受けとめられるものです。自分で選び取ったり、新たにつくってゆくということができないもの、と意味で「人為の及ばないもの」→「受け入れなければならないものとして自ずと存在してきたもの」→「自然と存在するもの」となっています。

つまり近代民主主義国家は、国民が、リアルタイムに生きている人びとが自分で選び、自分でつくってゆくものであり、またそうでなければならないということです、樋口さんが訴えておられるのは。「国の素、国民を統合するもの」は、天皇制をも含む伝統でもなく、まして在りもしない「(純血)日本人のDNA」などではないのです。今、リアルタイムに生きている人びとが、自分の暮らし、自分の人生を目いっぱい良くしてゆこうという「意志」こそ国の素、国民を結びつけるもの、なのだということです。わたしもまったく同感です。「ネーション」、そして「エトノス」によって国家を定義することを否定するところから、近代民主主義国家は始まるものなのです。

しかし、教育基本法はむりやり強硬改訂され、改憲の動きでも「国柄」だの、「日本人のDNA」という強烈なナショナリズム色のことばさえ飛び交うのです。つまり今わたしたち日本を覆う雰囲気は、事実上近代国家の否定であるといえるでしょう。

 

樋口さんは続けて、「エトノス」そして「ネーション」の意味で国をまとめようとすることの危険を述べてこう書かれます。


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ただ、国をエトノスの意味でまとめようというのも、ある局面では意義をもちます。たとえば民族自決ということばは、大帝国の支配を解体させて、新しい状況をつくり出して行く起爆剤になることがある。

しかし、多民族帝国を解体させた瞬間に次の局面で現れてくるものはなにか、とりわけ90年代以降、われわれはそれをいやというほど目にしてきました。つまり、本当に民族自決しようとすれば、ひとつの地域の中に実際には入り組んでいるわけですから、それはやがて「民族浄化」に至ったのでした。「出て行け」「出て行かなければ殺す」ということになる。

だからこそ、エトノスという意味での国民、民族、それにつながるようなシンボルをたてる時には、近代国家はいつも非常に慎重だったのです。とりわけ「先進国」や「民主主義国」を標榜する国々では、「民族」ということばが出てくる場合には必ず複数で出てきている。ところが、日本の場合には、公式、非公式を含めて改憲案の下で「民族」ということばが、なんと単数で表記されている。このエトノスの単数表記にこめられている意図には非常に恐ろしい内容を含んでいるということを、わたしたちはもっと自覚する必要があると思います。

 

(上掲書より)

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この記事が出されて3年後のわたしたちは、「民族」単数表記の「改憲案にこめられている非常に怖ろしい意図」というのを目撃しましたよね。

カルデロンのり子さんの通う学校に出かけて行き、罵倒、脅迫を行った団体がなんの処分もされずのさばっているのです。わたしがもしのり子さんだったら、恐怖で登校拒否になったかもしれません。立川ビラ事件や麻生総理宅デモ・洞爺湖サミットのデモでの公安の謀略によるデモ参加者逮捕がある一方で、あんな怖ろしい脅迫的デモが容認されるのです、今の日本は。死者こそ出なかったものの、そこにこめられていた意図は、民族浄化の論理に通底するものなのです。

日の丸・君が代への個人的な態度表明の強制排除にもその論理は通底しています。そこにあるのは個々人の意志の自由、表現の自由を否定し、過去の人々が、とくに日本の場合、国を誤らせて、破壊に導いた人びとが作りあげてきた伝統や慣習、しきたりを無批判・無条件に受け入れ、服従せよという暗黙のメッセージが大手をふってまかり通りだしたのです。

 


わたしたちに対抗する術はないのでしょうか。まだ何とかなる道筋が残されています。いま、通読中なのですが、今年の3月に刊行された本に、このようなことが書かれていました。


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さらに日本の場合、1955年以来50年以上にわたって、短い例外期間を除き、自民党が一貫して権力の座にあったことによって、権力の融合と集中が一層強化されるという事情があった。

ふつうの近代民主主義国家なら、立法府による抑制均衡のほかにも、権力分立の原理の下で、司法による行政府へのチェックが存在する。さらに言論の自由の下で、メディアによる批判という事実上のチェックも存在する。

しかし、特定の政党が半永久的に権力を保持することが自明の前提となれば、これらのチェック機能も機能不全を起こすのである。

裁判所は憲法上、独立を保障されている。しかし、最高裁判所の長官は内閣が指名することになっており、そのほかの判事も内閣が任命することになっている。したがって、裁判所といえどもその時の内閣の動向、政治の動きとは無縁ではない。

実際、1960年代から1970年代初めにかけて、裁判所が労働事件などで比較的自由主義的な見地からの判決を出すことが多かった時には、その時の自民党政権が司法の左傾化に対して批判的な動きを起こし、最高裁判所判事の傾向が変化した。法廷の入れ替え(court packing)が事実上行われたと言うことができる。

この時以来、政府に批判的な判決を多発すると、人事の面で介入を受ける、ということを裁判所は思い知ったのである。それ以後、政治的な意味を含む事件について、裁判所は積極的に政府権力を批判したり、チェックするような判決を出すことを控えるようになった。

たとえば近年の例として、自衛隊のイラクへの派遣に反対するビラを自衛隊員の宿舎に配布したことが住居侵入に問われた事件でも、一審では無罪とされたにもかかわらず、最高裁は検察の主張をすべて是認し、被告人を有罪とした。これが示す意味は、自民党の永続政権下にあっては、権力の暴走により個人の権利を侵害することについて、積極的にチェックしようという姿勢を、もはや裁判所は放棄したということである。

 


(「政権交代論」/ 山口二郎・著)

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息をのみますよね、この文章。でもこれが現実なのです。根津先生やほかの先生方が裁判所によって憲法に反して退けられる背景には、こういうそら怖ろしい仕組みが働いていたのです。

これではもう日本には、近代社会の保障する人権は潰えるのも時間の問題じゃないか、と気分が沈みそうですよね。

でもあとひとつ、方法は残っています。この本のタイトルが示すとおり、「政権交代」です。上記の文章はまさに「なぜ政権交代が必要か」という章にあるのです。

民主党、社民党、共産党、どれも万全の選択肢ではない、それは事実です。しかし、自民党による単独永久支配が続くと、ほんとうにわたしたち、リアルタイムに生きているこのわたしたちの人生が、暮らしがアメリカの投機的野心家や富裕層の使い捨ての道具となってしまうのです。

ひとつの政党が半永久的に政権党に居座り続けることで裁判所が丸め込まれてしまうのであれば、権力の分立が消滅し、事実上独裁政権に堕してしまうのであれば、時折政権交代は起こすべきなのです。決めるのはわたしたちです。わたしたちにはまだ、自分たちの人生をコントロールできる機会が残されています。

わたしは、ものごとには臨界点があると思うのです。それを超えると、もう元には戻れない、という限界がある。

たとえば個人の場合、レイプなどされようものなら、女はもうレイプされる以前の自分には戻れない、一生トラウマを抱えて生きるのです。

また人権を尊重する社会を享受することについても臨界点があります。ある一線を超えるともう失った人権を取り戻せなくなる限界がある。戦前で言えば、それは1928年(昭和3年)の治安維持法「改正」がそうでした。それ以後、多数の人権派の人びと、また多数の共産党員が拷問に遭って、転向を強要され、事実、主義主張を放棄しました。わたしはそのひとたちを責めたりするつもりは毛頭ありません。拷問に耐えうる人間など存在しないからです。ひとえに、治安維持法改正を許した国民に責任があり、それ以後、もう以前の状態には戻れなくなったからです。

現代、2009年、わたしはそういう種類の臨界点はすぐそばまで来ていると感じています。すでに教育基本法が「改正」されましたし、ね。憲法ももう風前の灯です。あと残された希望は、政権交代を地道に支持し続けることだけです。わたしは、まだかろうじて言論がそこそこ自由にできる機会を利用して、人権の本当の意味を調べ、それをブログなどで公開するという手だても、ささやかながら、超ささやかながら、自分にできることかな、と勝手に思いこんでもいるのです。「人権」はいま、誤解を受けて敵意の的になっているからです。

きれいに締めくくれないのですが、今感じたことをここで終わることにします。「世間交代論」は教科書的な内容ですが、わかりやすくまとめられていますので、基礎教養書として、一度読んでおくことをお奨めします。いままで自分言葉でうまくいえなかったことが、言えるようになる気がする本です。

 

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社会現象を「科学的」に研究できるか (1)

2008年12月14日 | 思想・哲学・倫理
オピニオン・ブログで述べられることに、どのようにしてある程度ではあっても説得力を持たせることができるでしょうか。そのためにはより客観的に、科学的に論じることができれば、ちょっとは説得力を高めることができるかもしれません。

でも、科学ということばからわたしたちが最初に連想するのは、やはり自然科学の分野の研究です。社会現象を扱う研究は「科学」と呼べるのでしょうか。メンヘラーたちは心理学や精神病理学に素人にしてはやけに詳しかったりしますし、そうした知識を使って、子どもの育て方や、親の「愛」を批判したりします。元エホバの証人たちも、心理学や精神病理学の知見をつかってエホバの証人を批判します。こういう人間を扱う分野で、実際、科学的な研究ができるものなのでしょうか。事実、エホバの証人などは、心理学や哲学、社会学が自分たちを痛烈に批判するものになるので、それらは科学とはほど遠い代物なので、それらを勉強するのはくだらないことだと豪語します。自分たちの教理こそおよそ科学とはかけ離れたものであることは棚上げするくせに。

しかしそれでも、自然科学とちがって、社会現象は人間の営みを基本としているわけです。

「科学的認識である以上、それは因果性という概念の使用ということとどうしても関連を持たざるを得ない。ところが、人間というものは意志の自由を持つために、その行為は非合理的なものを含み、したがってその営みには本来的に計測不可能性を帯びている。だから、人間の営みである社会現象は、非合理的なものを含んでいるために、目的→手段という目的論的な関連は辿れるかもしれないが、因果性の概念をあてはめて、原因→結果という関連を辿ることはできにくい。では科学的認識としては、社会科学は自然科学と較べて程度の低いものにならざるをえないのだろうか(大塚久雄/「社会科学の方法」より)」。

どうでしょう。わたしたちはいくら努力をして勉強しても、わたしたちの切実な訴えは、科学性の低さゆえに説得力が劣ってしまうのでしょうか。「Luna's “A Life is Beautiful”」の第2部の最初に、この問題を扱った本を読みました。そのメモとして、今回はエントリーします。


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中学生のとき、弟といっしょに一高 - 三高の野球戦を見に行ったのですが、入り口近くで群衆がなだれをうって動きはじめました。そしてそのなかへ、私も弟も入ってしまったのです。

どうにも逃げ出すわけにいかない。足がもう地についていないのです。着物を着、下駄をはいていたのですが、帽子や下駄などはいつのまにか、どこかへいってしまいまして、足がようやく地についたときには、よくも生きていたものだと思ったことがあります。

ああいうばあい、逃げ出すわけにはいかないものですね。力の強い人なら、少しはがんばって抵抗することもできるでしょうけれども、いくら強くたって、個々人が全体に徹底的に反抗して動こうとしたら、自分が死なないまでも大怪我をするだけで、無事に生きのびようとすれば、個々人はその流れのなかで、ただ全体の動きについていくほかはないでしょう。

マルクスは、自然成長的な分業の基盤の上でおこなわれる場合、経済現象はだいたいこうした性質をおびることになると言うわけなのですが、この群集の例をとってみると、それがもっと単純な形で現れてくるので、われわれの理解にはたいへん好都合です。




ところで、群集全体のものすごい力、教委に値するようなエネルギーは、しかし、よく考えてみると、諸個人の力の総和に他なりません。それが諸個人の協働の結果、倍加されていることはもちろんありますが、しかし、結局のところ、諸個人の、群集を形づくる一人一人の力の総和に過ぎないことは明らかですね。

…(略)…

そうした諸個人の力の総和にほかならぬ群集全体の力が、その場合、群集を形づくる諸個人自身から独立し、むしろ(ルナ註:諸個人に)対立するものとなっていることは明らかでしょう。皆どうにもならない。ただ、その群集の一人として全体の流れる方向に動いているだけです。一人一人は、みな、自分はそんなところへ行きたいとか、そういう動き方をしようなどとは、だれも思っていない。できたら、もちろん止めたいと思っている。早く流れの外へ出たいと思っている。

しかし、ちょっとそこまで出れば楽になるんだから、と思っても、どうにもならないで、どんどん一定の方向にもっていかれてしまうわけです。怪我せずにいたいから、ただ仕方ないから進むわけですが、その個々人の進むことが、また(ルナ註:群集の暴走の)力の総和の一環となっていくわけです。

こうして、自分たち自身の力が、自分たちにまったく対立した別のものになって、どうにもならなくなる。それはどこから来て、どこへ行くか、ぜんぜん見渡すこともできない。これが「疎外」だといったら、よくわかるんじゃないでしょうか。そしてまた、人間の「疎外」の現象が、とりもなおさず、社会関係の「物化」~人と人との関係がわれわれの目には物と物との関係として表れてくる~の現象であることも分かってくるのではないかと思います。



(「社会科学の方法」/ 大塚久雄・著)

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いくつか用語を説明します。まず、「自然成長的な分業」ですが、これはマルクスが使った用語らしいです。何のことかと思うに、この著者の解説によると、

「社会的分業、大ざっぱにいって、さまざまな職業分化だとお考え下さっていいと思います(上掲書)」。

つまり日本でいうと、農業労働者がいて、運送業者によって運ばれ、仲買業者に渡り、一部は食品加工業者に渡り、他は卸売市場で小売業者に卸される、また、農耕車を製造する工場はさまざまな部品を下請けに出し、下請けは部品を作るのに鋳物業者から材料を入手する、というような社会的分業が偶発的に、あるいは自然とできあがることをいうのだそうです。

こういう分業化された個々の業者は、その産業をまったく私的な行為としておこないます。鋳物業者は、自分のところから買ってくれる製造業を営む会社に納めることを考えて仕事をします。下請けの製造工場はその材料を部品に仕立てあげて元請け会社に納めることを考えて仕事をします。決して社会全体を意識して製造、納品するわけではないのです。みんな自分と従業員の生計を立てるため働くにすぎません。みんな、自分たちがそこそこ暮らしていけるように、いろいろやりくりして家族や友人や恋人同士でたまに楽しいときを過ごせるように、そんなささやかなことを願って自分の仕事をするわけです。

ところが、こうした個々の私的な営みの総和である、社会全体のレベルになると、需給のバランスをうまく取れない、景気の変動を招く、自分たちの作ったものが自分たちに還元されない、景気が極端に悪くなると自分を失業させる。個々人の仕事は、個々人である程度コントロールできますが、その個々人の分業体制の総和である社会レベルになると、もうコントロールできなくなる。こういう現象を、マルクスは「疎外」という言葉で表現したのだそうです。上掲書ではこのように説明されています。

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では「疎外」とはどういう現象なのか。それを少し説明してみましょう。先ほども申しましたが、マルクスの場合、具体的な人間というものは、社会をなして生産しつつある諸個人です。つまり、その諸個人がそれぞれ独自な生産用具をもって労働対象に働きかけつつ、さまざまなものを生産する。この、さまざまな物を生産する諸個人の力が、マルクスによって “生産諸力” と呼ばれているものです。 …(中略)… こうした生産諸力の総体が社会の生産力を形づくるわけです。

ところで、こうした生産諸力を支える基盤が、計画的ではなくて、「自然成長的な分業」である場合には、ほんらい人間諸個人の力の総和にほかならない社会の生産力が、そしてその成果たる生産物が、人間自身からまるで独立してしまって、その全体を見渡すことができず、また人間の力ではすぐさまどうすることもできないような動き、そういう客観的な過程と化してしまう。この意味で、まったく自然と同じようなものになってしまうというわけです。

つまり、経済現象というものは、ほんらいは人間諸個人の営みであり、その成果であるにもかかわらず、それが人間諸個人に対立し(もはや人間のコントロールの及ばないものになっているから)、自然と同じように、それ自体頑強に貫徹する法則性をそなえた客観的な運動として現れてくる、というわけです。

マルクスはそれを、哲学者にわかるように言えば、人間の「疎外」だ、と言っております。すなわち、彼のいう「疎外」とは、人間自身の力やその成果が人間自身から独立し、人間に対して、あたかも自然がそうであるような、独自な法則性をもって運動する客観的過程と化してしまうことであります。

つまり、経済現象がわれわれにとっていわば第二の自然として、マルクス自身の言葉を使えば、「自然史的過程」として現れるということであります。だからこそ、自然を取り扱うのと同じやり方で、同じ理論的方法を用いて、科学的認識が成立するのだとマルクスは言うわけなのです。



(上掲書)

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ここでいわれている「疎外」とは、個々人の労働から発する経済現象が、社会的分業の総和としての社会全体のレベルとなったときに、人間の意図の及ばない、ある場合には人間を富ませ、ある場合には人間を貧窮させるというような、人間に対して独立した、対立的な過程となる、そういう意味で、経済現象が人間を疎外するようになる、だからこそ、その経済現象は自然と同じようなものになるということができ、それゆえ、経済学のような社会科学も、科学的に社会現象を取り扱うことができる、とまとめてよいようです。わたしの、このまとめかたはもちろん、正確さを欠くかもしれませんが。

昨年から今年にかけての金融危機などはまさに、人間のお金儲けの行為が人間の暮らしを破壊してしまう、という現象で、大塚さんのこの記述は生々しくわたしたちの耳に響いてきませんか。このたびの金融危機は、実体経済の生産とは少し離れたバーチャル性のあるマネーゲームの招いた危機ではありますが。つまり金融工学という、一部の投機家たち、金融業者たちのルール無用の無法な経済活動が、まっとうな生産をおこなう諸労働者たちを食い詰めさせているわけです。

とりあえず、マルクスによれば、社会現象を研究したり、評論したりするときにも、科学的に論じ、記述することができる、ということらしいです。ですからわたしたちも、科学的な手順を意識するなら、まっとうに世の中の出来事を論じることができるわけです。そしてそうした意見の開陳は客観的であるものとして、訴える力を持たせることができるというわけです。

同書にはもう少し具体的で直感的な説明もしてくださっています。以下の通りです。

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さて、群集がなだれを打って動きだして混乱が生じたばあい、それを収拾するには、どうしたらよいでしょうか。皆さんは、どうお考えになりますか。この点で、マルクスの考え方を、著者なりに解釈して比ゆ的に説明してみますと、むしろ、こういうことになるのではないでしょうか。

どこか小高いところに立って、群集全体の動きを見渡す。高いところから見るのですから、個々の人間の細かい動きはともかく、群集全体がどこからどこへ動いているか、その大筋がはっきりとわかるでしょう。そのばあい、個々の人間を、独自な個性的な動きをする人間をする人間として取り扱うことは当然二の次です。群集全体が自然と同じような「もの」になって動いているのだから、さしあたっては人間を「もの」扱いにするほかはありません。ともかく、群集全体の動きを見定めて、方々に伝令をとばし、方向をいろいろ変えさせたり、止めたりしていくわけです。その極限は、軍隊などのように、計画的な隊列を作らせることになるでしょうが、ともかく、こうして混乱は収拾されるでしょう。

つまり、計画的に隊列をつくって行進すれば、そうした混乱は起こり得ないのだから、群衆に隊列行進という計画性を与えて、その混乱を解消していく。こうして、人間の「疎外」現象を解消していけばいいのだ、こうマルクスはいうのだと思います。これが彼のいう社会主義とその計画経済の意味するところでしょうが、それはともかくとして、「社会的分業の自然成長性」の結果たる「疎外」現象のために、人と人との関係がわれわれの目に物と物との関係として表れてくるような資本主義社会の経済現象を、科学的に認識するためには、このような意味で人間の営みである社会現象を自然史的過程として捉え自然科学と同じ理論的方法を適用することが必要ともなり、可能ともなるというわけです。



(上掲書より)

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なんとなく、共産主義のおおもとがつかめる説明ですよね。共産主義はこうした思考から生み出されたようです。

今回わたしたちが直面している大不況は、金融にもう少したががかけられていたら、回避できたものでした。前世紀末ごろから生じるようになった格差拡大は、一切の経済活動を市場に任せる、福祉から社会保障からなんでも市場に委ねるという、暴力的な政策がもたらしたものです。市場が判断できるのは採算性であって、公益性ではないのです。社会保障というのは採算が取れないものだから、公的に行われるものなのではないでしょうか。まさにわたしたちは「群集の無軌道なスタンピード(殺到)」に呑みこまれて、そこから逃げ出したくてももはや自分をコントロールできない状況にあるのです。うちの会社でも、12月最初の朝礼で、来年は本格的に残業規制がかかるかもしれないとか、覚悟を決めなきゃいけないとか、胃の痛くなるような話がされました。「財政再建」といえば市場原理主義的な政策はノンストップでアクションを演じさせていいような政治家(陰には歳出削減にこだわる財務省がいる)の無能。たしかに共産主義は崩壊しました。ソ連がなくなったとき、みんな資本主義の勝利だといいましたが、今、資本主義も行き詰ったことが明らかです。日本はいいかげんアメリカから離れて、もうちょっと社会主義的な政策を取り入れないと、ほんとうにわたしたちの暮らしはダウンです。2008年12月9日の毎日新聞によると、麻生さんは「労働は神が与えた罰(キリスト教)と思ってる国と、神と一緒にやる善行と思っている(日本のような)国では、労働に対する哲学が違う。日本の持っている底力の一番はこれだ」と言ってくれたそうです。このことばにそって政策転換を図ってほしいものです。




えーっと…、またまた話がそれましたが、とにかく、資本主義社会の非合理的に見える現象も、「疎外」という概念によって、自然と同じようなものとみなすことができ、したがって科学的研究も可能になる、ということです。大塚さんは、つぎに、マックス・ヴェーバーという社会学者の著作から、社会現象を科学的に陳述できるかどうかを考察されます。次回に続きます。
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