大阪府知事選に、死刑執行を急ぐ橋下弁護士(*)が立候補することになりました。橋下氏の言説と行動には共感を示す声は非常に多いことをわたしは知りました。今回は、ちょっとこの厳罰化擁護論の深層を調べてみました。
(*)光市事件弁護団最高裁欠席についての関連記事はこちら
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ただ、ひとつだけ不思議なことがある。それは、この「被害者やその家族に配慮しよう」という動きは、なぜか「加害者の人権には配慮しないでおこう」という動きとセットになっている、ということだ。
単純に考えれば、被害者や家族の心情に思いをはせ、なんとかしたいと思う豊かな想像力や繊細さがあれば、「なぜこんなことをしたのか、今はどういう気持ちなのか」と加害者やその家族の心情にも想像が及ぶはずなのではないか。
ところがそうではなく、「被害者を思う」ということは「加害者は思わなくていい、思ってはならない」ということと連動しているのだ。
とくに少年事件の加害者に対して「厳罰化」を求める声は大きく、この動きを受けて、2000年には刑事罰を加える年齢を下げるなど、少年法の一部改正が行われた。現在(2005年)も、より厳罰化の方向へと検討が行われている。
京都医療少年院で、長く「罪と病」という二重の試練を背負った子どもたちのケアにあたってきた精神科医・岡田尊司氏は、その著書『悲しみの子どもたち-罪と病を背負って』(集英社新書、2005年)の中で、問題は決して「厳罰化」だけでは片づかない、と強調する。
大人も息を呑むような犯罪を犯し、反省のそぶりさえ見せない、こういう子どもは「回復不能の冷血モンスター」と捉えられがちだが、岡田氏は「そうした子どもに実際に会ってみると、『冷血』とは正反対の、気弱で過敏な子どもであることが多い」とした上で、こう言う。
「どうして、この子にあんな残酷なことができたのか、そんな疑問をもって、子どもの気持ちに向かい合ってゆくと、必ず浮かび上がってくるのは、その子自身が、気持ちを汲み取ってもらえずに、大きくなってきたという状況である。大人の身勝手や社会の醜さによって、傷つけられ、壊されてきた道のりである」。
そこで起きた結果だけを厳しく咎めたところで、「原因の部分に手当てを施さなければ、悲劇を本当に防ぐことにはならない」と少年犯罪現場の臨床家(香山氏もそのひとり)は訴える。
(「いまどきの『常識』」/ 香山リカ・著)
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「その子自身が、気持ちを汲み取ってもらえずに、大きくなってきたという状況である。大人の身勝手や社会の醜さによって、傷つけられ、壊されてきた道のりである」…
一般の人々はここの点をなかなか理解しようとしません。
「そういうことはその子だけの問題じゃない、みんな多かれ少なかれ親によって傷つけられる経験はしている、子どもを傷つけてしまわない親なんて一人もいない、なのにその子は空恐ろしい犯罪を犯した、他の多くの子はそんなことをしないのに。だから問題はその子自身にある、甘えか先天的な異常か、何かその子独自の欠陥があるのだ」…というのがおおかたの感想です。
こういう人々は、その子だけがおかしいと主張する根拠として、
「むかしはそんな凶悪な事件を起こす子どもは今ほど多くはなかった」と言います。
これはウソです。
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ここでひとつ、ある事件の記事を紹介します。
「母親から叱られたのを根に持って、夕食の雑炊に亜ヒ酸を混入して、妹ふたりを殺した三女エツ子(15)-仮名-は、12日朝大牟田市署の取調べに、犯した罪のこわさも知らぬような笑顔で次のような犯行動機を申し立てた。
…(中略)…
同女は大牟田市立新制第六中学2年生で、成績も中以上でバレーボール、卓球の選手だが、放課後練習し、帰りが遅れると、母は遊んでいたのだろうと平手でなぐって叱りつける。犯行の前々日にもなぐられたので、この上は一家みなが死んだ方がよいと決意、小屋の中に隠してあった殺虫用亜ヒ酸を5日の日曜日に探し出しておいたが、6日の朝も叱られたので、いよいよ決行しようと雑炊に混入した」(1948年12月13日付け毎日新聞西部版)。
この事件は、もし今の時代に起こったら、たいへんセンセーショナルな報道がなされるだろうことは想像にかたくありません。(旧)教育基本法を攻撃したい人が飛びつくであろう事件です。
しかし、実はこの事件が起きたのは、1948年12月6日、敗戦3年後なのです。この少女は1948年に15歳ですから、1933年生まれ、国民学校で少国民教育を受けた世代です。最近の少年犯罪が(旧)教育基本法のせいだというなら、この事件は教育勅語のせいだとでもいうのでしょうか。
要するに、こうした少年犯罪と教育そして(旧)教育基本法との相関関係は単純に言えるようなものではない、ということです。かつて起きた事件と似た事件は今でも起こりうるし、現在の事件もそうめったに「前代未聞」のものとはいえないのです。
むしろ、わたしたちが注意しなければならないのは、こうしたショッキングな事件を持ち出して教育を論じようとする人たちが、何を目的にそうしているのかということです。
(「教育と国家」/ 高橋哲哉・著)
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この文章はすぐる一年前、強行採決によって「改正」された教育基本法を擁護する目的で書かれたものですが、今日のエントリーでは教基法のことをは棚上げします。論点は、「むかしは今より犯罪は少なかったか」ということです。この文章では特に少年による犯罪に注目しています。
1948年というと、その頃に生まれた人々は来年2008年で還暦を迎えます。死刑などの極刑によって犯罪を抑制できると主張する人々はそれよりずっと若い世代です。ですからそれらの人々がいう「むかしはもっとよかった」という時代は1948年以降のことでしょう。著者の高橋さんは、戦後の少年犯罪の発生件数のデータを紹介しておられます。
それによると、
① 少年による殺人事件は1946年から1969年まで200件以上発生していた。
② 1970年に戦後はじめて198件となり、200件を割った。
③ その後、70年代前半に激減し、75年についに100件を割り、95件に減る。
④ 75年以降現在(2004年)に至るまでほぼ100件前後で推移している。
⑤ 戦後、少年による殺人事件が多かった時代は、
1951年が448件
1954年が411件
1959年が422件
1960年が438件
これ以降、現在に至るまで少年による殺人事件は際だって減少してきている。
⑥ 戦前については、
1936年、153件、
1937年、155件、
1938年、161件、
1939年、123件、
1940年、146件、
1941年、107件、
1942年、126件、
1943年、 94件、
1944年、 97件、
1945年、141件…
…とこの時期はほとんど毎年100件を越えている。戦前の日本の人口が現在の約三分の二であったことを考えれば、人口比の発生率は戦前の方がもっと高い…
…ということです。つまり、むかしはもっとひどかったのです。ではなぜ事実を確かめもせずに、短絡に「現在はむかしより悪くなっている」、というのでしょうか。それは高橋さんの言葉を使えば、「ショッキングな事件をことさらに取り上げて、何かの目的を達成しようとしている」ということです。高橋さんのこの著作では、教育基本法を反動的に改定しようとする意図を暴いていますが、このエントリーでは「刑罰を厳しくし、国民への監視を強化したい」という意図に注目します。
新自由主義を強力に批判し続けるルポライターの斉藤貴男さんが好んで引用するある小説の一節がわたしにはとても印象深く残っています。それはこういうものです。
「飛行機の速度=0なら、飛行機は飛ばない。
人間の自由=0なら、人は罪を犯さない。
これは明白である。
人間を犯罪から救い出す唯一の手段は、
人間を自由から救い出してやることである」
(「われら」/ ザミャーチン・作)
安全を求める日本人の要求は、人間から自由を奪い去ることで犯罪を減らそうとするのですが、それは経団連をはじめとする独裁的企業層の狙いとピタリ一致する、と斉藤さんは訴え続けておられます。
利益をあげるために労働者の福祉をカットする、そういう方針を法制化してスタンダードにする。その結果が国民の非正規労働化→ワーキング・プアの激増、医療厚生、福祉の大減退…とつながってきているわけです。
こういうような扱いを労働者層にさせておきながら、労働者層の不満を爆発させないようにするために、「国家・国益のため」ならよろこんで自分を犠牲にする精神の涵養を図りたい、だから教育基本法を変え、学校で国家・国益のために個人を犠牲にする生き方を美化して教えておく、という政策が実施されるにいたる。また便宜的な「モノ・道具」扱いされる国民の大多数の不満が蓄積し、それが大規模な抗議行動につながらないように共謀罪を制定させ、希望を失った国民が無軌道な行動(犯罪など)に出ないよう、厳罰化による恐怖でそれを抑えこもう、とするのです。
ここでまさに、安全を希求する国民の利益と産業=官僚=軍部の連合体の意図が一致するのです。
どうしてこういう方法になるのでしょうか。
犯罪を起こらないようにしたいという願いは、人間であるなら自然な感情でしょう。ならなぜ、もっと犯罪が起こる事情を多角的に検討しようとしないのでしょう。なぜ短絡的に厳罰主義、監視社会の形成という方向へ進もうとするのでしょうか。わたしはここに、日本人の民主主義への理解と意欲の欠如がかかわっていると考えるのです。
だから個々人の事情や感情を理解しようとするよりも、規律の力によって人間の行動や思考に制限を設けようとするのです。これは全体主義→ファシズムの発想なのです。民主主義の理解の欠如は、個々人の事情を考慮しようとする粘り強い努力をするのを面倒がります。犯罪を阻止し、安全な社会を築くには、自分たちの社会、そしてその社会の成員である自分個人の考え方や行動を調整していく必要があるという事実から目をそむけようとするのです。香山さんはそのへんのことをこのように明らかにされています。
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しかし、安易なヒューマニズムからではなくて、実際の経験の積み重ねから発せられているこの声が、どれだけの人の耳に届くだろう。
いや、もし届いても、多くの人は「聞こえないふり」をするのではないか。「少年事件の本質は、その少年にあるのではなく、大人や社会にある。間違っていたのはあなた自身なのだ」と、自分たちの方に “お鉢が回ってくる” のは、何としても避けたいからだ。
誤解を招く言い方かもしれないが、被害者に対して「気の毒に」と同情・共感している間は「やさしさを持った自分」でいられるが、加害者やその家族について想像を始めると、自分の中にもある「あやまち」や「不実」にも向き合わなければならなくなる。
それを避けるために、つまり少年犯罪という問題を、自分と切り離すために、「被害者は気の毒、加害者はモンスターだ(つまり死刑にするのがふさわしい、という考え)」と短絡的に決めつけている人はいないだろうか。
(「いまどきの『常識』」/ 香山リカ・著)
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少年犯罪を生じさせる大きな要因として「社会の構造と家庭環境の機能不全」を無視することはできません。
でももし仮に、いいですか、「仮に」ですよ、ここでいう「社会の構造と家庭環境の機能不全」ということが、わたしたちがあたりまえのことと受けとめてきた社会規範のことだったとすると、この仮定をわたしたちはふつうどう受けとめるでしょうか。
こんな話があります。
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ある日本の心理学者が、夫婦関係を測定する尺度(心理学の実験でふつうに行われる方法)を開発して、その(つまり、夫婦関係の)日米比較を計画した。その尺度を英語に翻訳して、アメリカ人の研究者に見せたところ、そのアメリカ人はこう質問した。
「これは何の病理の尺度ですか? 共依存ですか?」
言うまでもなく、日本文化においては “良好な夫婦関係” を意味する項目が、アメリカ人には “共依存” の病理に見えた、というお話である。
(「依存と虐待」/ 野口裕二・著)
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日本人にとっては当たり前に見える「良好な夫婦関係」がアメリカ人には病理と受けとめられるのです。実例を挙げてみましょう。
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由紀子(仮名)は父親がサラリーマン、母親は教師という家庭で育ちました。学校では有能な先生である母親は、テキパキした性格で、家のことをすべて取り仕切っています。
由紀子には順一(仮名)という弟がひとりいますが、喘息持ちなので、母親の注目はどうしても弟の方に向かいがちです。子どものころ、由紀子はよくこのように言われるのでした。
「順ちゃんは病気だからやさしくしてあげないといけないけど、あなたはがまんするのよ」。
由紀子がなぜかと聞くと、
「あんたはちょっとやさしくすると、すぐつけあがるからよ。根性が悪いんだから」。
そう言われると、なにも言い返せませんでした。
また、ひとりで何かをしてうれしがっていると、
「あんたはそうやって、いつも目立ちたがるんだから。少しは順ちゃんのことも考えなさい。順ちゃんはそんなふうにはしゃぎたくてもできないのよ」。
母親からいつもいつもこのような言動で接せられているうちに、由紀子は、子どもながらにも、できるだけ目立たないように、周囲に気をつかいながら暮らすようになっていきました。
由紀子が「バレエを習いたい」というと、母親は「バイオリンを習いなさい」と、自分が子どものころにやりたかったことを強引に押しつけました。しかも由紀子がバイオリン教室に行こうとすると、聞こえよがしにボヤくのです。
「由紀子にはほんとにお金がかかるわ。そのくせこんなにぜいたくをさせてやっているのに、ちっともありがたいと思わないんだから」。
そのたびに由紀子は罪の意識に駆られ、バイオリンを習っていても少しも楽しくありません。ときには無意識のうちに拒否反応が起きて、教室に行く時間になると頭痛がするようになりました。そこで「お稽古を休みたい」というと、「あんたは、いつもそうやって仮病をつかって怠けようとする。いったい、いくらかかっていると思うの。つべこべ言わずに、早く行きなさい」。
もちろん、こんな精神状態で習い事をしても上達するはずもなく、自分が無駄金をつかっているかと思うと(母親がいつもいつもそのようなことを言うので、子どもはこう思い込んでいる)、罪の意識はつのるばかりでした。
しかも、これまでにかかった費用のことを考えると、自分からもうやめたいと言いだすこともできず、どんどん落ち込んでゆくばかりでした。
こうした家族関係の中で成長した由紀子は、大人になっても、うつに落ち込むことが多く、自分の子どもを育てるのが重荷になってしまうまでになったので、私(著者である西村和美さん)のところに相談にやってきたのでした。
*** *** ***
由紀子の母親の言葉をひとつひとつ見ていくと、誰もが無意識のうちに口にしそうなものばかりです。しかも教師という指導力を要求される仕事をしているうえ、自己中心的で優柔不断な夫にかわって家庭も切り盛りしなければなりません。
おまけに下の子が喘息の持病を持っているという、なかなかたいへんな環境を抱えていますから、つい由紀子にきつい言葉を浴びせてしまう気持ちもわからないではありません。私も母親ですから。
由紀子の母親に限らず、どんな母親でも一度は、子どもなんて手のかかることばかりだとか、いなければいいのにと思ったことがあるのではないでしょうか。しかし、一時的にそう思ったり感じたりすることと、それを子どもの前で口にすることでは、もたらされる結果はまったく異なってきます。それが子どもに与える影響というものを、よく考えてほしいのです。
(「機能不全家族」/ 西尾和美・著)
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みなさんがもし会社の社長で、従業員に由紀子さんを雇っているとします。由紀子さんがやってきて、これこれこういう事情で気分が沈みこんでいるので、一週間ほど休ませてください、と言ってきたら、どう反応するでしょう。
そんな人材は要らない、もう来なくていいよ、というのがふつうです。健康上の問題を抱えているのならそれは致し方ないでしょう。では、由紀子さんの事情には、みなさんはどう反応するでしょうか。甘えるな、そのくらいで心にダメージを受けるなんて、人間として未熟だ、というのが日本人の反応です。
「親にも問題はあるだろうが、それはあんたの家庭だけのことではない、おおかたの人は多かれ少なかれそういう経験はしているものだ、第一、あんたのお母さんは立派じゃないか、学校の先生という仕事を有能に務めながら、家庭の仕事も立派に切り盛りしてきた、それだから多少のきつさも出るだろう、親の大変さというものにあんたはむしろ感謝をせねばいかんのではないか!」
少年犯罪の厳罰化を支持する態度を強力にささえる思想がここにあります。子どもは親に服すべし、という考え方です。これは美徳として日本人に受け継がれてきた考え方です。いつから受け継がれてきたかというと、武家出身者では徳川時代から、しかし庶民にとっては明治時代からです。明治天皇によって「教育勅語」を「賜って」以来のことです。
教育勅語は、天皇制国家を支える思想を国民(大日本帝国憲法下では “臣民” =主権がないから)に心に刷り込んできました。その思想は、天皇は国民の父親のような神である、父親は敬わなければならない、これは儒学の教えるところでもある絶対的な道徳だ、これに逆らうのは不道徳で恥だ、人間は親には絶対に逆らってはならないのと同様に、日本臣民にとって親のような天皇にも絶対に服従しなければならない、というのが主要な要旨でした。これが日本国家の大黒柱でしたから、何が何でも徹底させられたのでした。こういう絶対的な縦の序列意識がいまだに日本人を捉えて離さないので、少年の精神医学的な事情は裁判においても、世論においても、社会一般の意識においても擁護されないのです。そしてアメリカ人の感覚からすれば、これは病理に見えたのです。
(「共依存」について書くとまた長くなるので、またの機会に譲ることにします。)
そしてそういう考え方が日本では標準なので、アダルト・チルドレンとか共依存とかいうことは軽蔑すべきこととされているのであり、親や社会の側に重大な問題があるという問題提起はまじめに受けいれられないのです。ある社会学者はこういう日本の現状をこう述べています。
「共依存ということばはどこかアンビバレント(好きだけど嫌いというような、相反する態度・感情を有すること)な響きがある。つまり、何かとても本質的な問題を言い当てているようでもあり、当たり前のことをおおげさに言い立てているようでもあり、といったところである。アメリカでは1980年代後半から、一般の人々にもかなり受けいれられるようになった概念だが、日本ではまだ浸透していない。臨床家(臨床心理学者、治療家など)の中にも、この概念を使うことにためらいを示す向きが多い(「共依存の社会学」/ 野口裕二)」。
日本ではカウンセラーや精神科医、学者でも共依存という概念をつかうことにはためらい、ある時はそれ以上の「抵抗」すら示すのです。なぜなら、それは「何かとても本質的なことを言い当てているようであるが、しかし、当たり前のことをおおげさに言い立てている」ようにも感じられるからです。
「何かとても本質的なこと」というのは、日本人の深層意識に横たわる、教育勅語に由来する人間関係のありようについての標準的思考様式=親子、上下関係の縦構造への執着のことだとわたしは考えています。そしてそれを疑問視するよりはむしろ当然のこととして受容するのです。だから「当たり前のことをおおげさに言い立てているに過ぎない」ということで決着をつけたがるのです。ところがこれは実は全体主義をささえる思考でもあるのです。それなのに、それを医師や学者たちは「あたりまえのこと」と見なすのです。
そんなことだから、少年による凶悪犯罪には厳罰を持って処理してしまうべきだと考えるし、全体の前には個人の都合など取るに足りないと(教育勅語では、いったん危急の事態が起これば、自分の身を挺して天皇家の繁栄を守れと教えていたし、軍人勅諭では一兵士の命は国家=天皇にとっては鴻毛のごとく軽いものだ、と教えていた)いう考えが深層にあるので、社会が矛盾していようと、社会の仕組みが個人を軽視していようと、社会を脅威にさらす犯罪者の方を処刑してしまえ、という思考に落ち着くのです。
新聞をはじめマスコミは、被害者へ過剰に感情移入し、加害者を過剰にふてぶてしく報道します。そうして日ごろ、非行少年や暴力団のまえに窮々としており、時に彼らに公衆の面前で辱められている国民の感情的な怒りを呼び起こさせます。また国民としても、これまで自分たちが従ってきた思考・行動規範を疑問視し、自分たちのほうに重大な間違いがあるのではないかと反省するよりは、ああいう犯罪を犯す人間の方が「おかしい」のだと考える方が気がおさまるわけです。
でももし、凶悪犯罪が社会の構造にゆがみあることと家族のあり方、人間関係の捉え方に問題があるのだとしたら、犯罪者をいちいち処刑したところで、根本的な解決にはならないのではないでしょうか。わたしは、最近の傾向をみていてひしひしと感じるのは、むしろ人々は問題の本質的解決などを望んでいないのではないか、ということです。あるいはそれをじっくり考えて理解しようという気概ももてないほど心に余裕がない状態におかれているのではないかということです。とにかく短絡的に処理してしまおうという気持ちで、先ほど引用した、ザミャーチン式の思考様式、自由をなくすことで、つまり決められたとおりに心と考えと行動を動かすことで、ちょうど小学低学年の子が点線をなぞって字を書くようにして生きることで、軌道を外れた人間が出ないようにしようという方向に同意をし始めているのではないか、と感じるのです。
そして国民のこういう傾向は、経団連にとっても国家主義者にとっても、アメリカ右翼政権にとってもたいへんに都合のいいものなのです。限られたエリート層の利益のために、国民の生存権を縮小して道具のように使うことを正当化できる傾向でもあるからです。つまりは全体の前には個人の命・存在など鴻毛のごとく軽いものだという考えに国民が同意し始めていることは!
(*)光市事件弁護団最高裁欠席についての関連記事はこちら
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ただ、ひとつだけ不思議なことがある。それは、この「被害者やその家族に配慮しよう」という動きは、なぜか「加害者の人権には配慮しないでおこう」という動きとセットになっている、ということだ。
単純に考えれば、被害者や家族の心情に思いをはせ、なんとかしたいと思う豊かな想像力や繊細さがあれば、「なぜこんなことをしたのか、今はどういう気持ちなのか」と加害者やその家族の心情にも想像が及ぶはずなのではないか。
ところがそうではなく、「被害者を思う」ということは「加害者は思わなくていい、思ってはならない」ということと連動しているのだ。
とくに少年事件の加害者に対して「厳罰化」を求める声は大きく、この動きを受けて、2000年には刑事罰を加える年齢を下げるなど、少年法の一部改正が行われた。現在(2005年)も、より厳罰化の方向へと検討が行われている。
京都医療少年院で、長く「罪と病」という二重の試練を背負った子どもたちのケアにあたってきた精神科医・岡田尊司氏は、その著書『悲しみの子どもたち-罪と病を背負って』(集英社新書、2005年)の中で、問題は決して「厳罰化」だけでは片づかない、と強調する。
大人も息を呑むような犯罪を犯し、反省のそぶりさえ見せない、こういう子どもは「回復不能の冷血モンスター」と捉えられがちだが、岡田氏は「そうした子どもに実際に会ってみると、『冷血』とは正反対の、気弱で過敏な子どもであることが多い」とした上で、こう言う。
「どうして、この子にあんな残酷なことができたのか、そんな疑問をもって、子どもの気持ちに向かい合ってゆくと、必ず浮かび上がってくるのは、その子自身が、気持ちを汲み取ってもらえずに、大きくなってきたという状況である。大人の身勝手や社会の醜さによって、傷つけられ、壊されてきた道のりである」。
そこで起きた結果だけを厳しく咎めたところで、「原因の部分に手当てを施さなければ、悲劇を本当に防ぐことにはならない」と少年犯罪現場の臨床家(香山氏もそのひとり)は訴える。
(「いまどきの『常識』」/ 香山リカ・著)
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「その子自身が、気持ちを汲み取ってもらえずに、大きくなってきたという状況である。大人の身勝手や社会の醜さによって、傷つけられ、壊されてきた道のりである」…
一般の人々はここの点をなかなか理解しようとしません。
「そういうことはその子だけの問題じゃない、みんな多かれ少なかれ親によって傷つけられる経験はしている、子どもを傷つけてしまわない親なんて一人もいない、なのにその子は空恐ろしい犯罪を犯した、他の多くの子はそんなことをしないのに。だから問題はその子自身にある、甘えか先天的な異常か、何かその子独自の欠陥があるのだ」…というのがおおかたの感想です。
こういう人々は、その子だけがおかしいと主張する根拠として、
「むかしはそんな凶悪な事件を起こす子どもは今ほど多くはなかった」と言います。
これはウソです。
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ここでひとつ、ある事件の記事を紹介します。
「母親から叱られたのを根に持って、夕食の雑炊に亜ヒ酸を混入して、妹ふたりを殺した三女エツ子(15)-仮名-は、12日朝大牟田市署の取調べに、犯した罪のこわさも知らぬような笑顔で次のような犯行動機を申し立てた。
…(中略)…
同女は大牟田市立新制第六中学2年生で、成績も中以上でバレーボール、卓球の選手だが、放課後練習し、帰りが遅れると、母は遊んでいたのだろうと平手でなぐって叱りつける。犯行の前々日にもなぐられたので、この上は一家みなが死んだ方がよいと決意、小屋の中に隠してあった殺虫用亜ヒ酸を5日の日曜日に探し出しておいたが、6日の朝も叱られたので、いよいよ決行しようと雑炊に混入した」(1948年12月13日付け毎日新聞西部版)。
この事件は、もし今の時代に起こったら、たいへんセンセーショナルな報道がなされるだろうことは想像にかたくありません。(旧)教育基本法を攻撃したい人が飛びつくであろう事件です。
しかし、実はこの事件が起きたのは、1948年12月6日、敗戦3年後なのです。この少女は1948年に15歳ですから、1933年生まれ、国民学校で少国民教育を受けた世代です。最近の少年犯罪が(旧)教育基本法のせいだというなら、この事件は教育勅語のせいだとでもいうのでしょうか。
要するに、こうした少年犯罪と教育そして(旧)教育基本法との相関関係は単純に言えるようなものではない、ということです。かつて起きた事件と似た事件は今でも起こりうるし、現在の事件もそうめったに「前代未聞」のものとはいえないのです。
むしろ、わたしたちが注意しなければならないのは、こうしたショッキングな事件を持ち出して教育を論じようとする人たちが、何を目的にそうしているのかということです。
(「教育と国家」/ 高橋哲哉・著)
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この文章はすぐる一年前、強行採決によって「改正」された教育基本法を擁護する目的で書かれたものですが、今日のエントリーでは教基法のことをは棚上げします。論点は、「むかしは今より犯罪は少なかったか」ということです。この文章では特に少年による犯罪に注目しています。
1948年というと、その頃に生まれた人々は来年2008年で還暦を迎えます。死刑などの極刑によって犯罪を抑制できると主張する人々はそれよりずっと若い世代です。ですからそれらの人々がいう「むかしはもっとよかった」という時代は1948年以降のことでしょう。著者の高橋さんは、戦後の少年犯罪の発生件数のデータを紹介しておられます。
それによると、
① 少年による殺人事件は1946年から1969年まで200件以上発生していた。
② 1970年に戦後はじめて198件となり、200件を割った。
③ その後、70年代前半に激減し、75年についに100件を割り、95件に減る。
④ 75年以降現在(2004年)に至るまでほぼ100件前後で推移している。
⑤ 戦後、少年による殺人事件が多かった時代は、
1951年が448件
1954年が411件
1959年が422件
1960年が438件
これ以降、現在に至るまで少年による殺人事件は際だって減少してきている。
⑥ 戦前については、
1936年、153件、
1937年、155件、
1938年、161件、
1939年、123件、
1940年、146件、
1941年、107件、
1942年、126件、
1943年、 94件、
1944年、 97件、
1945年、141件…
…とこの時期はほとんど毎年100件を越えている。戦前の日本の人口が現在の約三分の二であったことを考えれば、人口比の発生率は戦前の方がもっと高い…
…ということです。つまり、むかしはもっとひどかったのです。ではなぜ事実を確かめもせずに、短絡に「現在はむかしより悪くなっている」、というのでしょうか。それは高橋さんの言葉を使えば、「ショッキングな事件をことさらに取り上げて、何かの目的を達成しようとしている」ということです。高橋さんのこの著作では、教育基本法を反動的に改定しようとする意図を暴いていますが、このエントリーでは「刑罰を厳しくし、国民への監視を強化したい」という意図に注目します。
新自由主義を強力に批判し続けるルポライターの斉藤貴男さんが好んで引用するある小説の一節がわたしにはとても印象深く残っています。それはこういうものです。
「飛行機の速度=0なら、飛行機は飛ばない。
人間の自由=0なら、人は罪を犯さない。
これは明白である。
人間を犯罪から救い出す唯一の手段は、
人間を自由から救い出してやることである」
(「われら」/ ザミャーチン・作)
安全を求める日本人の要求は、人間から自由を奪い去ることで犯罪を減らそうとするのですが、それは経団連をはじめとする独裁的企業層の狙いとピタリ一致する、と斉藤さんは訴え続けておられます。
利益をあげるために労働者の福祉をカットする、そういう方針を法制化してスタンダードにする。その結果が国民の非正規労働化→ワーキング・プアの激増、医療厚生、福祉の大減退…とつながってきているわけです。
こういうような扱いを労働者層にさせておきながら、労働者層の不満を爆発させないようにするために、「国家・国益のため」ならよろこんで自分を犠牲にする精神の涵養を図りたい、だから教育基本法を変え、学校で国家・国益のために個人を犠牲にする生き方を美化して教えておく、という政策が実施されるにいたる。また便宜的な「モノ・道具」扱いされる国民の大多数の不満が蓄積し、それが大規模な抗議行動につながらないように共謀罪を制定させ、希望を失った国民が無軌道な行動(犯罪など)に出ないよう、厳罰化による恐怖でそれを抑えこもう、とするのです。
ここでまさに、安全を希求する国民の利益と産業=官僚=軍部の連合体の意図が一致するのです。
どうしてこういう方法になるのでしょうか。
犯罪を起こらないようにしたいという願いは、人間であるなら自然な感情でしょう。ならなぜ、もっと犯罪が起こる事情を多角的に検討しようとしないのでしょう。なぜ短絡的に厳罰主義、監視社会の形成という方向へ進もうとするのでしょうか。わたしはここに、日本人の民主主義への理解と意欲の欠如がかかわっていると考えるのです。
だから個々人の事情や感情を理解しようとするよりも、規律の力によって人間の行動や思考に制限を設けようとするのです。これは全体主義→ファシズムの発想なのです。民主主義の理解の欠如は、個々人の事情を考慮しようとする粘り強い努力をするのを面倒がります。犯罪を阻止し、安全な社会を築くには、自分たちの社会、そしてその社会の成員である自分個人の考え方や行動を調整していく必要があるという事実から目をそむけようとするのです。香山さんはそのへんのことをこのように明らかにされています。
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しかし、安易なヒューマニズムからではなくて、実際の経験の積み重ねから発せられているこの声が、どれだけの人の耳に届くだろう。
いや、もし届いても、多くの人は「聞こえないふり」をするのではないか。「少年事件の本質は、その少年にあるのではなく、大人や社会にある。間違っていたのはあなた自身なのだ」と、自分たちの方に “お鉢が回ってくる” のは、何としても避けたいからだ。
誤解を招く言い方かもしれないが、被害者に対して「気の毒に」と同情・共感している間は「やさしさを持った自分」でいられるが、加害者やその家族について想像を始めると、自分の中にもある「あやまち」や「不実」にも向き合わなければならなくなる。
それを避けるために、つまり少年犯罪という問題を、自分と切り離すために、「被害者は気の毒、加害者はモンスターだ(つまり死刑にするのがふさわしい、という考え)」と短絡的に決めつけている人はいないだろうか。
(「いまどきの『常識』」/ 香山リカ・著)
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少年犯罪を生じさせる大きな要因として「社会の構造と家庭環境の機能不全」を無視することはできません。
でももし仮に、いいですか、「仮に」ですよ、ここでいう「社会の構造と家庭環境の機能不全」ということが、わたしたちがあたりまえのことと受けとめてきた社会規範のことだったとすると、この仮定をわたしたちはふつうどう受けとめるでしょうか。
こんな話があります。
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ある日本の心理学者が、夫婦関係を測定する尺度(心理学の実験でふつうに行われる方法)を開発して、その(つまり、夫婦関係の)日米比較を計画した。その尺度を英語に翻訳して、アメリカ人の研究者に見せたところ、そのアメリカ人はこう質問した。
「これは何の病理の尺度ですか? 共依存ですか?」
言うまでもなく、日本文化においては “良好な夫婦関係” を意味する項目が、アメリカ人には “共依存” の病理に見えた、というお話である。
(「依存と虐待」/ 野口裕二・著)
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日本人にとっては当たり前に見える「良好な夫婦関係」がアメリカ人には病理と受けとめられるのです。実例を挙げてみましょう。
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由紀子(仮名)は父親がサラリーマン、母親は教師という家庭で育ちました。学校では有能な先生である母親は、テキパキした性格で、家のことをすべて取り仕切っています。
由紀子には順一(仮名)という弟がひとりいますが、喘息持ちなので、母親の注目はどうしても弟の方に向かいがちです。子どものころ、由紀子はよくこのように言われるのでした。
「順ちゃんは病気だからやさしくしてあげないといけないけど、あなたはがまんするのよ」。
由紀子がなぜかと聞くと、
「あんたはちょっとやさしくすると、すぐつけあがるからよ。根性が悪いんだから」。
そう言われると、なにも言い返せませんでした。
また、ひとりで何かをしてうれしがっていると、
「あんたはそうやって、いつも目立ちたがるんだから。少しは順ちゃんのことも考えなさい。順ちゃんはそんなふうにはしゃぎたくてもできないのよ」。
母親からいつもいつもこのような言動で接せられているうちに、由紀子は、子どもながらにも、できるだけ目立たないように、周囲に気をつかいながら暮らすようになっていきました。
由紀子が「バレエを習いたい」というと、母親は「バイオリンを習いなさい」と、自分が子どものころにやりたかったことを強引に押しつけました。しかも由紀子がバイオリン教室に行こうとすると、聞こえよがしにボヤくのです。
「由紀子にはほんとにお金がかかるわ。そのくせこんなにぜいたくをさせてやっているのに、ちっともありがたいと思わないんだから」。
そのたびに由紀子は罪の意識に駆られ、バイオリンを習っていても少しも楽しくありません。ときには無意識のうちに拒否反応が起きて、教室に行く時間になると頭痛がするようになりました。そこで「お稽古を休みたい」というと、「あんたは、いつもそうやって仮病をつかって怠けようとする。いったい、いくらかかっていると思うの。つべこべ言わずに、早く行きなさい」。
もちろん、こんな精神状態で習い事をしても上達するはずもなく、自分が無駄金をつかっているかと思うと(母親がいつもいつもそのようなことを言うので、子どもはこう思い込んでいる)、罪の意識はつのるばかりでした。
しかも、これまでにかかった費用のことを考えると、自分からもうやめたいと言いだすこともできず、どんどん落ち込んでゆくばかりでした。
こうした家族関係の中で成長した由紀子は、大人になっても、うつに落ち込むことが多く、自分の子どもを育てるのが重荷になってしまうまでになったので、私(著者である西村和美さん)のところに相談にやってきたのでした。
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由紀子の母親の言葉をひとつひとつ見ていくと、誰もが無意識のうちに口にしそうなものばかりです。しかも教師という指導力を要求される仕事をしているうえ、自己中心的で優柔不断な夫にかわって家庭も切り盛りしなければなりません。
おまけに下の子が喘息の持病を持っているという、なかなかたいへんな環境を抱えていますから、つい由紀子にきつい言葉を浴びせてしまう気持ちもわからないではありません。私も母親ですから。
由紀子の母親に限らず、どんな母親でも一度は、子どもなんて手のかかることばかりだとか、いなければいいのにと思ったことがあるのではないでしょうか。しかし、一時的にそう思ったり感じたりすることと、それを子どもの前で口にすることでは、もたらされる結果はまったく異なってきます。それが子どもに与える影響というものを、よく考えてほしいのです。
(「機能不全家族」/ 西尾和美・著)
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みなさんがもし会社の社長で、従業員に由紀子さんを雇っているとします。由紀子さんがやってきて、これこれこういう事情で気分が沈みこんでいるので、一週間ほど休ませてください、と言ってきたら、どう反応するでしょう。
そんな人材は要らない、もう来なくていいよ、というのがふつうです。健康上の問題を抱えているのならそれは致し方ないでしょう。では、由紀子さんの事情には、みなさんはどう反応するでしょうか。甘えるな、そのくらいで心にダメージを受けるなんて、人間として未熟だ、というのが日本人の反応です。
「親にも問題はあるだろうが、それはあんたの家庭だけのことではない、おおかたの人は多かれ少なかれそういう経験はしているものだ、第一、あんたのお母さんは立派じゃないか、学校の先生という仕事を有能に務めながら、家庭の仕事も立派に切り盛りしてきた、それだから多少のきつさも出るだろう、親の大変さというものにあんたはむしろ感謝をせねばいかんのではないか!」
少年犯罪の厳罰化を支持する態度を強力にささえる思想がここにあります。子どもは親に服すべし、という考え方です。これは美徳として日本人に受け継がれてきた考え方です。いつから受け継がれてきたかというと、武家出身者では徳川時代から、しかし庶民にとっては明治時代からです。明治天皇によって「教育勅語」を「賜って」以来のことです。
教育勅語は、天皇制国家を支える思想を国民(大日本帝国憲法下では “臣民” =主権がないから)に心に刷り込んできました。その思想は、天皇は国民の父親のような神である、父親は敬わなければならない、これは儒学の教えるところでもある絶対的な道徳だ、これに逆らうのは不道徳で恥だ、人間は親には絶対に逆らってはならないのと同様に、日本臣民にとって親のような天皇にも絶対に服従しなければならない、というのが主要な要旨でした。これが日本国家の大黒柱でしたから、何が何でも徹底させられたのでした。こういう絶対的な縦の序列意識がいまだに日本人を捉えて離さないので、少年の精神医学的な事情は裁判においても、世論においても、社会一般の意識においても擁護されないのです。そしてアメリカ人の感覚からすれば、これは病理に見えたのです。
(「共依存」について書くとまた長くなるので、またの機会に譲ることにします。)
そしてそういう考え方が日本では標準なので、アダルト・チルドレンとか共依存とかいうことは軽蔑すべきこととされているのであり、親や社会の側に重大な問題があるという問題提起はまじめに受けいれられないのです。ある社会学者はこういう日本の現状をこう述べています。
「共依存ということばはどこかアンビバレント(好きだけど嫌いというような、相反する態度・感情を有すること)な響きがある。つまり、何かとても本質的な問題を言い当てているようでもあり、当たり前のことをおおげさに言い立てているようでもあり、といったところである。アメリカでは1980年代後半から、一般の人々にもかなり受けいれられるようになった概念だが、日本ではまだ浸透していない。臨床家(臨床心理学者、治療家など)の中にも、この概念を使うことにためらいを示す向きが多い(「共依存の社会学」/ 野口裕二)」。
日本ではカウンセラーや精神科医、学者でも共依存という概念をつかうことにはためらい、ある時はそれ以上の「抵抗」すら示すのです。なぜなら、それは「何かとても本質的なことを言い当てているようであるが、しかし、当たり前のことをおおげさに言い立てている」ようにも感じられるからです。
「何かとても本質的なこと」というのは、日本人の深層意識に横たわる、教育勅語に由来する人間関係のありようについての標準的思考様式=親子、上下関係の縦構造への執着のことだとわたしは考えています。そしてそれを疑問視するよりはむしろ当然のこととして受容するのです。だから「当たり前のことをおおげさに言い立てているに過ぎない」ということで決着をつけたがるのです。ところがこれは実は全体主義をささえる思考でもあるのです。それなのに、それを医師や学者たちは「あたりまえのこと」と見なすのです。
そんなことだから、少年による凶悪犯罪には厳罰を持って処理してしまうべきだと考えるし、全体の前には個人の都合など取るに足りないと(教育勅語では、いったん危急の事態が起これば、自分の身を挺して天皇家の繁栄を守れと教えていたし、軍人勅諭では一兵士の命は国家=天皇にとっては鴻毛のごとく軽いものだ、と教えていた)いう考えが深層にあるので、社会が矛盾していようと、社会の仕組みが個人を軽視していようと、社会を脅威にさらす犯罪者の方を処刑してしまえ、という思考に落ち着くのです。
新聞をはじめマスコミは、被害者へ過剰に感情移入し、加害者を過剰にふてぶてしく報道します。そうして日ごろ、非行少年や暴力団のまえに窮々としており、時に彼らに公衆の面前で辱められている国民の感情的な怒りを呼び起こさせます。また国民としても、これまで自分たちが従ってきた思考・行動規範を疑問視し、自分たちのほうに重大な間違いがあるのではないかと反省するよりは、ああいう犯罪を犯す人間の方が「おかしい」のだと考える方が気がおさまるわけです。
でももし、凶悪犯罪が社会の構造にゆがみあることと家族のあり方、人間関係の捉え方に問題があるのだとしたら、犯罪者をいちいち処刑したところで、根本的な解決にはならないのではないでしょうか。わたしは、最近の傾向をみていてひしひしと感じるのは、むしろ人々は問題の本質的解決などを望んでいないのではないか、ということです。あるいはそれをじっくり考えて理解しようという気概ももてないほど心に余裕がない状態におかれているのではないかということです。とにかく短絡的に処理してしまおうという気持ちで、先ほど引用した、ザミャーチン式の思考様式、自由をなくすことで、つまり決められたとおりに心と考えと行動を動かすことで、ちょうど小学低学年の子が点線をなぞって字を書くようにして生きることで、軌道を外れた人間が出ないようにしようという方向に同意をし始めているのではないか、と感じるのです。
そして国民のこういう傾向は、経団連にとっても国家主義者にとっても、アメリカ右翼政権にとってもたいへんに都合のいいものなのです。限られたエリート層の利益のために、国民の生存権を縮小して道具のように使うことを正当化できる傾向でもあるからです。つまりは全体の前には個人の命・存在など鴻毛のごとく軽いものだという考えに国民が同意し始めていることは!