人がどう生きるか、どんな人であるか。こういうことを決めることができるのは自分自身だけです。国家や宗教指導者たちによって決めてもらうものではありません。うつの症状を引き起こす人たちには、自分というものがわかっていません。自分のほんとうの気持ちがわかっていません。「…であるべき」、「…と考えるべき」という外から教え込まれ、習慣づけられた規範を自分の見解であるとカン違いしているのです。「ありのままの自分でいる」というのは欲望の無制限な解放ではなく、また現状維持を通すためのいいわけやわがままを正当化するために使うものでもありません。それは自分のほんとうの気持ち、ほんとうの意欲、自分の自然体を大切にするということです。
でもこれまでわたしたちは、他人が決めた枠組みや目標を、「一人前」であるための必須事項であるかのように追い求めさせられてきました。企業社会における成功、有名になること、指導者になることが「良い」目標であり、それ以外のことは「負け組」とみなされるよう宣伝され、また教育されてきました。それでも、教育基本法で、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を徹底普及しなければならない(教育基本法前文)」、「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない(第1条)」と定められている間は、周囲の圧力に屈せずに、自分の生きたいように生きる権利を主張することができるのです。日本においては、この教育基本法によって、個人主義が共同体主義より優先されているからです。個人主義とは、人間一人一人の意思、尊厳が社会に先行するという考え方です、一方共同体主義というのは、人間は社会集団に依存し、依存する集団に貢献することによって初めて有徳な存在になってゆくという考え方です。 「個人主義の考え方を取るべきか、共同体主義の考え方を取るべきか。これは、哲学の世界ではギリシャ時代から続く論争のテーマです。(ルナ註:つまり今に至るまで決着はついていない。)日本国憲法の下で理解された民主主義の中では、個人主義を基板に置いた考え方のほうが一般的だったかもしれません。しかし、欧米社会の中では、公に対する責任を引き受けることを通じて人間が価値ある存在になるという、共同体主義にもとづく民主主義の理論も唱えられています(「教育基本法『改正』-私たちは何を選択するのか」/ 西原博史・著)」。
エホバの証人の場合は、「共同体主義にもとづく民主主義」ではありません。「共同体主義にもとづく絶対専制制度」です。互いが互いを監視し合い、個人的な意向は抑えこまされる社会です。逸脱に対してはこれみよがしな「刑罰」が下されたりはしませんが、代わりに心理的な処罰が加えられます。心理的な処罰というものを分かりやすく示してみましょう。以下はエレン・ベンスとマイケル・ベイマーによって1993年に発表された、「女性虐待のタイプと虐待方法」による分類です。
--------------------------------------------
この分類はドメスティック・バイオレンスの心理的な構造に重きを置いた分類である。
1.孤立させること。
○仕事や学校教会に行かせない。家族や友人に会わせない。
○IDカードや免許証を取り上げる。
○被害者の後をつけまわす。
○手紙を開封する。
○電話を勝手に聞いたり、電話機を外したりする。
2.経済的コントロール。
○お金に触らせない。
○おカネを下さいと言わせる。
○お金に関して嘘をつき、隠す。
○仕事に行くのを妨げる。
○被害者の金を盗む。
○家計に必要なお金を与えない。
○クレジットを使えないように邪魔をする、ぶちこわす。
○児童扶養手当の書類をダメにしてやると脅す。
3.脅し。
○身振りや表情で脅す。
○ものを投げつける、放り投げる。
○女性の持ち物を壊す。
○ペットを傷つけたり、殺したりする。
○女性を怖がらせるために武器をもてあそぶ。
○女性や子どもを殺すとか自分が自殺すると脅す。
○移民や難民の状態にあるとき、追放処分にしてやると脅す。
4.情緒的虐待。
○女性を非難する。
○悪態をつく。
○家族や友人の前で恥をかかせる。
○女性に、自分が無能だと思わせる。
○虐待者が間違ったことで、女性のほうを非難する。
5.性的虐待。
○女性の性的な行為や反応をばかにする。
○女性が不快になるような性的行為を強要する。
○子どもに性的な行為をするぞと脅す。
○ポルノグラフィーを真似るように強要する。
○ポルノビデオを見るよう強要する。
○レイプしたり、レイプするぞと脅す。
6.身体的被害。
○押す、突く、つかむ、腕をねじ上げる。
○たたく、なぐる、喉をしめる、火で焼く、ひどい目に合わす。
○ものや武器を使う。
この表にあがっていることはすべて、日本でもあてはまることである。単なる暴力の恐怖だけではない。ドメスティック・バイオレンスの心理的虐待もこの表には表現されている。いまだに「妻子を殴ることのどこが悪い」とおおっぴらに言う人がいることからも、ドメスティック・バイオレンスが罪の意識なく広がっていると言えるだろう。実際にドメスティック・バイオレンスの被害を受けて、家庭裁判所に調停を申し立てた女性がよく言うのは、調停委員のドメスティック・バイオレンスに対する理解のなさである。
「それくらいの暴力だったら、我慢したほうがいいんじゃないか」
「自分のことばっかり、勝手なことを言っていてはならない。子どものことを考えたら夫婦はずっと一緒にいたほうがいい」というアドバイスが安直になされてきた。数年前のことだが、「殴られる以外は問題ないんでしょう」といわれた人の話も聞いた。殴られるだけでも十分離婚の理由になると思うが、「殴られる以外に問題のない」夫婦などありえない。むしろ殴られることだけが問題だ、しかもそれは被害者のほうで我慢するべきことだと思いこんでいるほうの人に問題があると言いたい。
(「ドメスティック・バイオレンス」/ 小西聖子・著)
-------------------------------------------------
エホバの証人の場合は、「4.情緒的虐待」の、
○家族や友人の前で恥をかかせる。
○女性に、自分が無能だと思わせる。
○虐待者が間違ったことで、女性のほうを非難する。
に類する心理的帆罰がほんとうに多用されます。エホバの証人の集会では講演が行われているわけですが、講演者が名指しはしないものの、すぐに誰と分かる仕方で講演の中で非難、侮辱します。会衆の人々の中で恥ずかしい思いをさせるのが主な手段であり、常習的に行われているのです。指導者の方針へのクレームは事実上禁止されています。抗議すれば「反抗的」「サタン的」というレッテルを貼られて、心理的処罰や教理で定められている、おもに孤立化させる処罰が加えられることになります。そのほか、言葉による脅しも常套手段ですし、経済的コントロールは信者全般に対して行われている「政策」に匹敵する手段です。布教活動を管理し、報告用紙を毎月提出させ、その月に布教に費やした時間を増やすよう指導します。神への信仰は、布教に費やした時間で測定されると彼らは言います。つまり独身男性であれば、生計を立てるための就労時間を削って、布教に費やさなければ評価されないところまで、布教時間を増やすよう求められます。さらにその状態を維持するよう、結婚を遅らせるのです。こういうことがいわば「法制化」されているのです。エホバの証人であるためには、教団の教理はしたがわねばならない「法」なのです。監視社会であるということと、全体主義ということが、この教団の特徴を言い表すキーワードです。
このような話を聞いたら、非人間的だと思いませんか。まともじゃないと思うでしょう? それは日本国憲法や教育基本法で定められている、個人主義優先の理念を基準にして考えているからです。ところが現実にはそうは思わない人もおおぜいいるのです。上記引用文の最後に出てきた記述に注目してください。家裁の調停委員には、傷つけられた人への無理解がはびこっていました。このような人たちは、身体的暴力でさえ理解できないのですから、心理的な傷などには真面目に取り組まないでしょう。それは、共同体の安定維持のためには個人の問題は気にかけなくてよいという、共同体主義の極端な解釈が信じられているからです。エホバの証人にいたっては、この風潮が徹底されています。そして「教育基本法『改正』」がめざすのも、先鋭的な共同体優先主義なのです。
--------------------------------------------------
Ques.1 現在の教育基本法が制定されてから、すでに50年以上の歳月がたっています。この間に社会の姿は大きく変わりました。新しい時代にはそれにふさわしい新しい教育の理念にそった改革が必要なのではありませんか?
Ans. 「新しい時代」の中身が問題です。中央教育審議会(以下、中教審と略)の想定する「新しい時代」とは、「東西の冷戦構造崩壊後」の「世界規模の競争が激化」する時代、つまり経済のグローバル化時代のことです。教育は今、グローバル化した大競争時代に勝ち抜くための国家戦略の一環として位置づけられているわけです。こうした時代認識を背景に提唱された教育改革には二つの側面があります。第一に、教育における市場原理・競争原理の徹底した導入、いわゆる新自由主義改革ということです。第二に、教育における国家主義の拡張です。新自由主義改革は、自由競争のもとに社会階層の格差を拡大し、国家主義は教育における統制を強化します。
Ques.2 経済のグローバル化を背景にした教育改革は、教育基本法の理念にどう関係してくるのでしょうか?
Ans. 直接的には、大競争を勝ち抜くために、個人の尊重から国家による人材養成へと教育目的が移行します。中教審答申が前提としている国際社会における日本の役割は、現在の憲法、教育基本法の前提としているものとは大きく異なります。教育基本法改正推進論は、平和主義にもとづく国際社会への貢献から、世界規模の市場競争を勝ち抜くために軍事貢献する国家、すなわち「戦争に加われる国家」へ向けてシフトチェンジしようという流れの中にあります。中教審答申がめざす教育理念の構築は、そのような国家戦略に役立つ人材養成なのです。これは教育基本法理念の根本的な転換を意味しています。
Ques.3 新自由主義改革によって教育はどう変わるのでしょうか? 教育における規制を緩和して自由が増えるのならよいのではありませんか?
Ans. 「自由」ということばに踊らされないで下さい。わたしたちが「自由」というときにイメージすることと、新自由主義が重んじる「自由」とは意味が違います。新自由主義が重んじる「自由」とは市場における「競争の自由」ということであり、つまり商売するのに面倒でうるさい約束事(もちろん、倫理も)を減らしに減らすということです。思想・良心の自由とか、表現の自由というときの「自由」とは異なり、人々を営利追及、儲けた者が「官軍・正義」という意味の、弱肉強食の競争へと駆り立てるものです。「競争しない」自由は、むしろ縮小することになります。教育において新自由主義政策を推進するならば、生徒間の能力主義的差別を促進し、各学校間の序列化をもたらし、社会を急速に階層化することはほぼ確実です。
Ques.4 能力に応じて差が生じるのは仕方がないことではありませんか。むしろ、個々人の能力や適性に応じて個性を伸ばす教育が求められているのではありませんか。
Ans. 中教審答申では「個性に応じて自己の能力を最大限に伸ばしてゆく」教育がうたわれていますが、この「個性」の中身が問題です。現行の教育基本法前文にある「個人の尊厳」や第一条【教育の目的】にある「個人の価値」が、国家に対して個人のほうを尊重することを求めているのと、中教審答申は全く逆の方向性を持っていることに注意する必要があります。改正教育基本法に「個性」が書き込まれることは、国家によって、「自己の能力を最大限に伸ばしてゆくこと」が強制されることを意味しています。個性化教育の具体的施策としては、少人数指導や習熟度別指導など、「才能」に重点を置く能力主義的な教育政策が提起されています。これは教科によって「才能」のある子ども、「できる」子どもを早い段階から選別して少人数指導を行うことですから、それは生徒間の競争を若いうちから激化させ、学力格差を助長することになります。結果として少数のエリ-トを育成するために予算を割き、その他大多数の「普通の能力」の児童・生徒を犠牲にするものです。これが中教審のいう「能力に応じた」教育の実態です。
(「教育基本法改正論批判」/ 大内裕和・著)
-------------------------------------------------
Ques.3への回答で、「教育において新自由主義政策を推進するならば、生徒間の能力主義的差別を促進し、各学校間の序列化をもたらし、社会を急速に階層化することはほぼ確実です」という一文があります。これは、人の人生が、生まれた家庭や環境や障害などに運命づけられるという意味です。一方、現行の教育基本法第3条には、すべて国民はひとしく、その能力の応じる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位、または門地によって、教育上差別されない。第2項、国および地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない、と教育の機会均等を保障しています。「その能力に応じる教育を受ける機会を与えられなければならない」というのは、企業にとってあまり有用でない研究、芸術活動への訓練などを受ける権利を有しているということです。エホバの証人は布教の時間を割くくらいなら、大学教育も受けさせません。新自由主義者の考えかたによれば、産業振興に有用な研究には予算を割くが、社会科学や芸術などにはカネを出さないということになります。また、障害をもって生まれてきても、教育基本法上は教育の機会を制限されないということをも意味していますが、近年、小泉改革の一環として、障害者福祉は大きく減退しました。
今日本がめざしている教育改革は、要するに経済振興のための子どもの選別であり、その議論の中では優生学さえおおっぴらに主張されています。以前にも引用しましたが、それは以下の主張です。
---------------------------------
三浦朱門・前教育課程審議会会長の証言を紹介しよう。
「学力低下は予測し得る不安というか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、今度はできる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張って行きます。限りなくできない非才、無才にはせめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです。
トップになる人間だけが幸福とは限りませんよ。わたしが子どものころ、隣の隣に中央官庁の局長が住んでいた。その母親は魚の行商をしていた人で、よくグチをこぼしていたのを覚えていますよ。息子を大学になんかやるものじゃない、おかげで生活が離れてしまった。行商もやめさせられてぜんぜん楽しくない。魚屋をやらせておけばよかったと。裏を返せば自慢話なのかもしれないが、つまりそういう、家業に誇りを与える教育が必要だということだ。大工の八っつあんも熊さんも、貧しいけれど腕には自信を持って生きていたわけでしょう。
今まで、中程度以上の生徒を放置しすぎていた。中以下なら、「どうせオレなんか」で済むところが、なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。昨今の17歳問題は、そういうところも原因なのです。
(日本の)平均学力が高いのは、遅れてる国が近代国家に追いつけ追い越せと国民のお尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になってゆかなければなりません。それが『ゆとり教育』の本当の目的。エリート教育とはいいにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」。
インタビュアー:それは三浦先生個人の考えですか。それとも教課審としてのコンセンサスだったのですか?
「いくら会長でも、私だけの考えで審議会は回りませんよ。メンバーの意見は皆同じでした。経済同友会の小林陽太郎代表幹事も、東北大学の西澤潤一名誉教授も…。教課審では江崎玲於奈さんのような遺伝子判断の話は出なかったが、当然そういうことになってゆくでしょうね」
(「機会不平等」/ 斉藤貴男・著)
--------------------------------
江崎玲於奈博士の「遺伝子の話」というのは以下の通りです。
--------------------------------
人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(許容)せざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。その上で、人間のできることをやってゆく必要があるんです。
ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子どもの遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。
遺伝的な資質と、生まれた後の環境や教育とでは、人間にとってどちらが重要か。優生学者は天性のほうだといい、社会学者は育成のほうだという。共産主義者も後者で、だから戦後の学校は平等というコンセプトを追い求めてきたわけだけれど、僕は遺伝だと思っています。これだけ科学技術にお金を投じてきたにもかかわらず、ノーベル賞を獲った日本人は僕を含めてたった5人しかいない。過去のやり方がおかしかった証拠ですよ。
(「機会不平等」/斉藤貴男・著)
--------------------------------
わたしたちはだれのために生きるのでしょうか。だれに認めてもらいたいのでしょうか。そのために自分の望んでいないことのために自分の人生の貴重な機会を消費するのでしょうか。うつ病やバーンアウトはそういうことの結果生じているのです。そこまでして「経済大国」を追い求めるのはどうしてでしょうか。加藤諦三さんの著書、「無名兵士の言葉」にこのような指摘があります。
「大きなことを成しとげるために強さを求めたが、謙遜を学ぶようにと弱さを(神から)授かった」。
--------------------------------
神経症的野心は復讐心などとともに名声追求のひとつの要素である。それは社会的成功への衝動である。それは「不安からの防衛」としての野心である。不安から自分を防衛するために、他人より優位に立とうとする人が持つ野心である。したかって社会的成功が必要になる。彼らは社会的成功によって人より優位に立っていなければ不安でならない。
(「無名兵士の言葉」/ 加藤諦三・著)
-------------------------------
今日の日本を建国した幕末・明治の指導者たちは「大国」を目指しました。その理由の一つに、不平等条約の改正を求めたことがあります。しかしその一方で、朝鮮半島や中国大陸に進出し、日本がアメリカやイギリスに押しつけられたのと同じ不平等条約を、朝鮮と中国に押しつけて侵略を行ったのです。それはやがて日本を徹底した破局へと導きました。人間を動物のように、選別して経済大国のための部品のように用いてそれで何を得るのでしょうか。一部の人たちの「不安からの防衛」を一時的に癒すだけでしょう。私たちが望むのは豊かな人生です。それは巨万の富を築いたからといってかならず得られるものではありません。
--------------------------------------
【ポストにしがみついてノイローゼになる人】
人はほんとうの自信をつけることができないから、脅迫的に力を求め、富を求める。そしていったん得たポストにしがみつく。そのポストでストレスからノイローゼになる人がいる。それでもポストを放さない。
ある女性の文化人である。「あなたは何を求めているのか?」と聞きたくなるくらいに「上に、上に」と脅迫的に名声を追求する。そして自分が今している勉強が好きではないようである。彼女は一時的には華やかである。しかし華やかさの中で自分を見失う。華やかさに捕まっている人は、いずれ華やかさがなくなる。テレビのワイドショーを降りる。そのときに一気に老いが来る。今までの人生のツケが来る。つまり自分は何をしてきたのか、何がしたいのか、どうやって生きていっていいか分からない。
エリートコースを歩む人、華やかさを求める人は、たとえば「どうしても」ほしいポストや賞がある。しかし、その「どうしても」欲しいポストや賞にしがみつかないことが大切なのである。それが心の自由である。人は「どうしても」欲しいものを手に入れられなくても生きていけるし、逆にかけがえのないものと思っているものを失っても、やがてそれなしででも生きていける。
その悲しみや絶望を乗り越えて人間の幅ができる。ただ、人と心でふれあえない人は、それを乗り越えることができない。
人と親しくなれないということに、人間のほとんどの重要な心理的問題が隠されていると言っても過言ではないからである。アメリカの離婚原因を調べてみると、女性も男性も第一原因としてあげるのはコミュニケーション問題である。
-------------------------------------------
人生を豊かにするものは、人との交流です。コミュニケーションの能力にかかっています。大国を、大国をと目指してきた日本はバブル崩壊で手痛い打撃を受けたのではないでしょうか。それでもあきらめないのです。心理的に病んだうつ病「大国」日本の真の状態が見えてきたように、わたしには思えます。「不安」が今、日本を突き動かしているのです…。
でもこれまでわたしたちは、他人が決めた枠組みや目標を、「一人前」であるための必須事項であるかのように追い求めさせられてきました。企業社会における成功、有名になること、指導者になることが「良い」目標であり、それ以外のことは「負け組」とみなされるよう宣伝され、また教育されてきました。それでも、教育基本法で、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を徹底普及しなければならない(教育基本法前文)」、「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない(第1条)」と定められている間は、周囲の圧力に屈せずに、自分の生きたいように生きる権利を主張することができるのです。日本においては、この教育基本法によって、個人主義が共同体主義より優先されているからです。個人主義とは、人間一人一人の意思、尊厳が社会に先行するという考え方です、一方共同体主義というのは、人間は社会集団に依存し、依存する集団に貢献することによって初めて有徳な存在になってゆくという考え方です。 「個人主義の考え方を取るべきか、共同体主義の考え方を取るべきか。これは、哲学の世界ではギリシャ時代から続く論争のテーマです。(ルナ註:つまり今に至るまで決着はついていない。)日本国憲法の下で理解された民主主義の中では、個人主義を基板に置いた考え方のほうが一般的だったかもしれません。しかし、欧米社会の中では、公に対する責任を引き受けることを通じて人間が価値ある存在になるという、共同体主義にもとづく民主主義の理論も唱えられています(「教育基本法『改正』-私たちは何を選択するのか」/ 西原博史・著)」。
エホバの証人の場合は、「共同体主義にもとづく民主主義」ではありません。「共同体主義にもとづく絶対専制制度」です。互いが互いを監視し合い、個人的な意向は抑えこまされる社会です。逸脱に対してはこれみよがしな「刑罰」が下されたりはしませんが、代わりに心理的な処罰が加えられます。心理的な処罰というものを分かりやすく示してみましょう。以下はエレン・ベンスとマイケル・ベイマーによって1993年に発表された、「女性虐待のタイプと虐待方法」による分類です。
--------------------------------------------
この分類はドメスティック・バイオレンスの心理的な構造に重きを置いた分類である。
1.孤立させること。
○仕事や学校教会に行かせない。家族や友人に会わせない。
○IDカードや免許証を取り上げる。
○被害者の後をつけまわす。
○手紙を開封する。
○電話を勝手に聞いたり、電話機を外したりする。
2.経済的コントロール。
○お金に触らせない。
○おカネを下さいと言わせる。
○お金に関して嘘をつき、隠す。
○仕事に行くのを妨げる。
○被害者の金を盗む。
○家計に必要なお金を与えない。
○クレジットを使えないように邪魔をする、ぶちこわす。
○児童扶養手当の書類をダメにしてやると脅す。
3.脅し。
○身振りや表情で脅す。
○ものを投げつける、放り投げる。
○女性の持ち物を壊す。
○ペットを傷つけたり、殺したりする。
○女性を怖がらせるために武器をもてあそぶ。
○女性や子どもを殺すとか自分が自殺すると脅す。
○移民や難民の状態にあるとき、追放処分にしてやると脅す。
4.情緒的虐待。
○女性を非難する。
○悪態をつく。
○家族や友人の前で恥をかかせる。
○女性に、自分が無能だと思わせる。
○虐待者が間違ったことで、女性のほうを非難する。
5.性的虐待。
○女性の性的な行為や反応をばかにする。
○女性が不快になるような性的行為を強要する。
○子どもに性的な行為をするぞと脅す。
○ポルノグラフィーを真似るように強要する。
○ポルノビデオを見るよう強要する。
○レイプしたり、レイプするぞと脅す。
6.身体的被害。
○押す、突く、つかむ、腕をねじ上げる。
○たたく、なぐる、喉をしめる、火で焼く、ひどい目に合わす。
○ものや武器を使う。
この表にあがっていることはすべて、日本でもあてはまることである。単なる暴力の恐怖だけではない。ドメスティック・バイオレンスの心理的虐待もこの表には表現されている。いまだに「妻子を殴ることのどこが悪い」とおおっぴらに言う人がいることからも、ドメスティック・バイオレンスが罪の意識なく広がっていると言えるだろう。実際にドメスティック・バイオレンスの被害を受けて、家庭裁判所に調停を申し立てた女性がよく言うのは、調停委員のドメスティック・バイオレンスに対する理解のなさである。
「それくらいの暴力だったら、我慢したほうがいいんじゃないか」
「自分のことばっかり、勝手なことを言っていてはならない。子どものことを考えたら夫婦はずっと一緒にいたほうがいい」というアドバイスが安直になされてきた。数年前のことだが、「殴られる以外は問題ないんでしょう」といわれた人の話も聞いた。殴られるだけでも十分離婚の理由になると思うが、「殴られる以外に問題のない」夫婦などありえない。むしろ殴られることだけが問題だ、しかもそれは被害者のほうで我慢するべきことだと思いこんでいるほうの人に問題があると言いたい。
(「ドメスティック・バイオレンス」/ 小西聖子・著)
-------------------------------------------------
エホバの証人の場合は、「4.情緒的虐待」の、
○家族や友人の前で恥をかかせる。
○女性に、自分が無能だと思わせる。
○虐待者が間違ったことで、女性のほうを非難する。
に類する心理的帆罰がほんとうに多用されます。エホバの証人の集会では講演が行われているわけですが、講演者が名指しはしないものの、すぐに誰と分かる仕方で講演の中で非難、侮辱します。会衆の人々の中で恥ずかしい思いをさせるのが主な手段であり、常習的に行われているのです。指導者の方針へのクレームは事実上禁止されています。抗議すれば「反抗的」「サタン的」というレッテルを貼られて、心理的処罰や教理で定められている、おもに孤立化させる処罰が加えられることになります。そのほか、言葉による脅しも常套手段ですし、経済的コントロールは信者全般に対して行われている「政策」に匹敵する手段です。布教活動を管理し、報告用紙を毎月提出させ、その月に布教に費やした時間を増やすよう指導します。神への信仰は、布教に費やした時間で測定されると彼らは言います。つまり独身男性であれば、生計を立てるための就労時間を削って、布教に費やさなければ評価されないところまで、布教時間を増やすよう求められます。さらにその状態を維持するよう、結婚を遅らせるのです。こういうことがいわば「法制化」されているのです。エホバの証人であるためには、教団の教理はしたがわねばならない「法」なのです。監視社会であるということと、全体主義ということが、この教団の特徴を言い表すキーワードです。
このような話を聞いたら、非人間的だと思いませんか。まともじゃないと思うでしょう? それは日本国憲法や教育基本法で定められている、個人主義優先の理念を基準にして考えているからです。ところが現実にはそうは思わない人もおおぜいいるのです。上記引用文の最後に出てきた記述に注目してください。家裁の調停委員には、傷つけられた人への無理解がはびこっていました。このような人たちは、身体的暴力でさえ理解できないのですから、心理的な傷などには真面目に取り組まないでしょう。それは、共同体の安定維持のためには個人の問題は気にかけなくてよいという、共同体主義の極端な解釈が信じられているからです。エホバの証人にいたっては、この風潮が徹底されています。そして「教育基本法『改正』」がめざすのも、先鋭的な共同体優先主義なのです。
--------------------------------------------------
Ques.1 現在の教育基本法が制定されてから、すでに50年以上の歳月がたっています。この間に社会の姿は大きく変わりました。新しい時代にはそれにふさわしい新しい教育の理念にそった改革が必要なのではありませんか?
Ans. 「新しい時代」の中身が問題です。中央教育審議会(以下、中教審と略)の想定する「新しい時代」とは、「東西の冷戦構造崩壊後」の「世界規模の競争が激化」する時代、つまり経済のグローバル化時代のことです。教育は今、グローバル化した大競争時代に勝ち抜くための国家戦略の一環として位置づけられているわけです。こうした時代認識を背景に提唱された教育改革には二つの側面があります。第一に、教育における市場原理・競争原理の徹底した導入、いわゆる新自由主義改革ということです。第二に、教育における国家主義の拡張です。新自由主義改革は、自由競争のもとに社会階層の格差を拡大し、国家主義は教育における統制を強化します。
Ques.2 経済のグローバル化を背景にした教育改革は、教育基本法の理念にどう関係してくるのでしょうか?
Ans. 直接的には、大競争を勝ち抜くために、個人の尊重から国家による人材養成へと教育目的が移行します。中教審答申が前提としている国際社会における日本の役割は、現在の憲法、教育基本法の前提としているものとは大きく異なります。教育基本法改正推進論は、平和主義にもとづく国際社会への貢献から、世界規模の市場競争を勝ち抜くために軍事貢献する国家、すなわち「戦争に加われる国家」へ向けてシフトチェンジしようという流れの中にあります。中教審答申がめざす教育理念の構築は、そのような国家戦略に役立つ人材養成なのです。これは教育基本法理念の根本的な転換を意味しています。
Ques.3 新自由主義改革によって教育はどう変わるのでしょうか? 教育における規制を緩和して自由が増えるのならよいのではありませんか?
Ans. 「自由」ということばに踊らされないで下さい。わたしたちが「自由」というときにイメージすることと、新自由主義が重んじる「自由」とは意味が違います。新自由主義が重んじる「自由」とは市場における「競争の自由」ということであり、つまり商売するのに面倒でうるさい約束事(もちろん、倫理も)を減らしに減らすということです。思想・良心の自由とか、表現の自由というときの「自由」とは異なり、人々を営利追及、儲けた者が「官軍・正義」という意味の、弱肉強食の競争へと駆り立てるものです。「競争しない」自由は、むしろ縮小することになります。教育において新自由主義政策を推進するならば、生徒間の能力主義的差別を促進し、各学校間の序列化をもたらし、社会を急速に階層化することはほぼ確実です。
Ques.4 能力に応じて差が生じるのは仕方がないことではありませんか。むしろ、個々人の能力や適性に応じて個性を伸ばす教育が求められているのではありませんか。
Ans. 中教審答申では「個性に応じて自己の能力を最大限に伸ばしてゆく」教育がうたわれていますが、この「個性」の中身が問題です。現行の教育基本法前文にある「個人の尊厳」や第一条【教育の目的】にある「個人の価値」が、国家に対して個人のほうを尊重することを求めているのと、中教審答申は全く逆の方向性を持っていることに注意する必要があります。改正教育基本法に「個性」が書き込まれることは、国家によって、「自己の能力を最大限に伸ばしてゆくこと」が強制されることを意味しています。個性化教育の具体的施策としては、少人数指導や習熟度別指導など、「才能」に重点を置く能力主義的な教育政策が提起されています。これは教科によって「才能」のある子ども、「できる」子どもを早い段階から選別して少人数指導を行うことですから、それは生徒間の競争を若いうちから激化させ、学力格差を助長することになります。結果として少数のエリ-トを育成するために予算を割き、その他大多数の「普通の能力」の児童・生徒を犠牲にするものです。これが中教審のいう「能力に応じた」教育の実態です。
(「教育基本法改正論批判」/ 大内裕和・著)
-------------------------------------------------
Ques.3への回答で、「教育において新自由主義政策を推進するならば、生徒間の能力主義的差別を促進し、各学校間の序列化をもたらし、社会を急速に階層化することはほぼ確実です」という一文があります。これは、人の人生が、生まれた家庭や環境や障害などに運命づけられるという意味です。一方、現行の教育基本法第3条には、すべて国民はひとしく、その能力の応じる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位、または門地によって、教育上差別されない。第2項、国および地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない、と教育の機会均等を保障しています。「その能力に応じる教育を受ける機会を与えられなければならない」というのは、企業にとってあまり有用でない研究、芸術活動への訓練などを受ける権利を有しているということです。エホバの証人は布教の時間を割くくらいなら、大学教育も受けさせません。新自由主義者の考えかたによれば、産業振興に有用な研究には予算を割くが、社会科学や芸術などにはカネを出さないということになります。また、障害をもって生まれてきても、教育基本法上は教育の機会を制限されないということをも意味していますが、近年、小泉改革の一環として、障害者福祉は大きく減退しました。
今日本がめざしている教育改革は、要するに経済振興のための子どもの選別であり、その議論の中では優生学さえおおっぴらに主張されています。以前にも引用しましたが、それは以下の主張です。
---------------------------------
三浦朱門・前教育課程審議会会長の証言を紹介しよう。
「学力低下は予測し得る不安というか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、今度はできる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張って行きます。限りなくできない非才、無才にはせめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです。
トップになる人間だけが幸福とは限りませんよ。わたしが子どものころ、隣の隣に中央官庁の局長が住んでいた。その母親は魚の行商をしていた人で、よくグチをこぼしていたのを覚えていますよ。息子を大学になんかやるものじゃない、おかげで生活が離れてしまった。行商もやめさせられてぜんぜん楽しくない。魚屋をやらせておけばよかったと。裏を返せば自慢話なのかもしれないが、つまりそういう、家業に誇りを与える教育が必要だということだ。大工の八っつあんも熊さんも、貧しいけれど腕には自信を持って生きていたわけでしょう。
今まで、中程度以上の生徒を放置しすぎていた。中以下なら、「どうせオレなんか」で済むところが、なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。昨今の17歳問題は、そういうところも原因なのです。
(日本の)平均学力が高いのは、遅れてる国が近代国家に追いつけ追い越せと国民のお尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になってゆかなければなりません。それが『ゆとり教育』の本当の目的。エリート教育とはいいにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」。
インタビュアー:それは三浦先生個人の考えですか。それとも教課審としてのコンセンサスだったのですか?
「いくら会長でも、私だけの考えで審議会は回りませんよ。メンバーの意見は皆同じでした。経済同友会の小林陽太郎代表幹事も、東北大学の西澤潤一名誉教授も…。教課審では江崎玲於奈さんのような遺伝子判断の話は出なかったが、当然そういうことになってゆくでしょうね」
(「機会不平等」/ 斉藤貴男・著)
--------------------------------
江崎玲於奈博士の「遺伝子の話」というのは以下の通りです。
--------------------------------
人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(許容)せざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。その上で、人間のできることをやってゆく必要があるんです。
ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子どもの遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。
遺伝的な資質と、生まれた後の環境や教育とでは、人間にとってどちらが重要か。優生学者は天性のほうだといい、社会学者は育成のほうだという。共産主義者も後者で、だから戦後の学校は平等というコンセプトを追い求めてきたわけだけれど、僕は遺伝だと思っています。これだけ科学技術にお金を投じてきたにもかかわらず、ノーベル賞を獲った日本人は僕を含めてたった5人しかいない。過去のやり方がおかしかった証拠ですよ。
(「機会不平等」/斉藤貴男・著)
--------------------------------
わたしたちはだれのために生きるのでしょうか。だれに認めてもらいたいのでしょうか。そのために自分の望んでいないことのために自分の人生の貴重な機会を消費するのでしょうか。うつ病やバーンアウトはそういうことの結果生じているのです。そこまでして「経済大国」を追い求めるのはどうしてでしょうか。加藤諦三さんの著書、「無名兵士の言葉」にこのような指摘があります。
「大きなことを成しとげるために強さを求めたが、謙遜を学ぶようにと弱さを(神から)授かった」。
--------------------------------
神経症的野心は復讐心などとともに名声追求のひとつの要素である。それは社会的成功への衝動である。それは「不安からの防衛」としての野心である。不安から自分を防衛するために、他人より優位に立とうとする人が持つ野心である。したかって社会的成功が必要になる。彼らは社会的成功によって人より優位に立っていなければ不安でならない。
(「無名兵士の言葉」/ 加藤諦三・著)
-------------------------------
今日の日本を建国した幕末・明治の指導者たちは「大国」を目指しました。その理由の一つに、不平等条約の改正を求めたことがあります。しかしその一方で、朝鮮半島や中国大陸に進出し、日本がアメリカやイギリスに押しつけられたのと同じ不平等条約を、朝鮮と中国に押しつけて侵略を行ったのです。それはやがて日本を徹底した破局へと導きました。人間を動物のように、選別して経済大国のための部品のように用いてそれで何を得るのでしょうか。一部の人たちの「不安からの防衛」を一時的に癒すだけでしょう。私たちが望むのは豊かな人生です。それは巨万の富を築いたからといってかならず得られるものではありません。
--------------------------------------
【ポストにしがみついてノイローゼになる人】
人はほんとうの自信をつけることができないから、脅迫的に力を求め、富を求める。そしていったん得たポストにしがみつく。そのポストでストレスからノイローゼになる人がいる。それでもポストを放さない。
ある女性の文化人である。「あなたは何を求めているのか?」と聞きたくなるくらいに「上に、上に」と脅迫的に名声を追求する。そして自分が今している勉強が好きではないようである。彼女は一時的には華やかである。しかし華やかさの中で自分を見失う。華やかさに捕まっている人は、いずれ華やかさがなくなる。テレビのワイドショーを降りる。そのときに一気に老いが来る。今までの人生のツケが来る。つまり自分は何をしてきたのか、何がしたいのか、どうやって生きていっていいか分からない。
エリートコースを歩む人、華やかさを求める人は、たとえば「どうしても」ほしいポストや賞がある。しかし、その「どうしても」欲しいポストや賞にしがみつかないことが大切なのである。それが心の自由である。人は「どうしても」欲しいものを手に入れられなくても生きていけるし、逆にかけがえのないものと思っているものを失っても、やがてそれなしででも生きていける。
その悲しみや絶望を乗り越えて人間の幅ができる。ただ、人と心でふれあえない人は、それを乗り越えることができない。
人と親しくなれないということに、人間のほとんどの重要な心理的問題が隠されていると言っても過言ではないからである。アメリカの離婚原因を調べてみると、女性も男性も第一原因としてあげるのはコミュニケーション問題である。
-------------------------------------------
人生を豊かにするものは、人との交流です。コミュニケーションの能力にかかっています。大国を、大国をと目指してきた日本はバブル崩壊で手痛い打撃を受けたのではないでしょうか。それでもあきらめないのです。心理的に病んだうつ病「大国」日本の真の状態が見えてきたように、わたしには思えます。「不安」が今、日本を突き動かしているのです…。