今日はちょっと軽めの話題…のつもりでしたが、書き終わってみるとけっこう重くなった部分もありました。
「話し方で相手の心の9割がわかる」と題する、自己啓発系? ポップサイコロジー系? の本を購入して、帰りの電車内で読みきりました。面白かったのでご紹介します。
ネトウヨ系の粗暴なコメント、高圧的なコメント分析、ブロガー分析などにも使ってみたら楽しいと思います。ちょっと息抜きに、まあ、ご覧になってみてください。
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【口ぐせ編】
■「ここだけの話だけど…」という口ぐせのひとは…
①自己顕示欲の強い人。自分に注目を集めたい人。
「ここだけの話」とことわることで、情報の価値を高めて、自分が人に教える立場、助言や忠告をたれる立場であることを顕示しようとする。
②小心で責任逃れタイプのひと。
自分がしゃべったことで、あとで問題(あるいは「騒ぎ」)になったらどうしよう、とビクビクしている人。「ここだけの話」とことわることで、ほかに広げたりしないでよと念押しのセリフ。
▽「ここだけの話だけど…」の有効利用する。
「ここだけの話だけど…」ということで、その場にいる人との連帯感を強める作用があり、「秘密を守ってくれるよね」というこちらの信頼を表明することにもなり、信頼関係を一歩強めることができる。
ただし、やたらめったら「ここだけの話」を連発すると、軽い人間、週刊誌人間のレッテルを貼られてしまうかも。
「ここだけの話」はここぞ、というときにするからこそ信頼関係につながるもの。
■「キミだけに言うけど…」と内緒話をしたがるひとは…
男性からこのように言われるのは、言われたほうに気がある証拠。
自分の秘密やプライベートなことを思い切って打ち明けるのは、相手を信頼している証拠、好意を寄せている証しです。あるいは、もっと親しくなりたいというサインを送っている可能性もあり。
女性の場合、周囲とコミュニケーションを深め、調和しようとする傾向が男性よりずっと強い。だから「打ち明け話」の回数が増える。内緒話は信頼と親和意欲の表明ですから。ですから、女性から男性への「あなただけに言うことだけど」ということばを特別な好意だと思い込むと、じつはほかの人にも同じように言っていた、ということもあるかも。
▽反対に、自分のことは一切話さないひとは…
自己防御に一生けんめいなタイプ。相手と深く関わりたくないという気持ちの表れ。傷つくことへの怖れのために心理的に引きこもってしまっているとか、他人を信用できず、「どうせ自分のいうことなどちゃんと聞いてもらえない」とスネているか、強い劣等感の埋め合わせのため、「おまえらなんかとまともにつき合えるか」という見下しのサインの表明である場合。
■「今だから言うけど…」と言わなきゃ気がすまないひとは…
①サービス精神旺盛なひとで、おしゃべりの場を盛り上げたいひと。
②優越感を得たいひと、自慢したいひと。
他人が知らないことを知っているというのは気持ちがいいもの。大したことではなくても、相手が知らないことを自分が知っていると、自分の方が偉くなったような気になれる。他人より一歩リードしているんだぞ、という優越感を味わえる。
■「こんなことは言いたくないけど…」と言うひとは…
相手を見下していることを言外にあらわしている。あるいは相手は自分より下であるということを思い知らせ(または、認めさせ)ようとしている。攻撃的な言いかた。聞かされるほうを確実に怒らせる言いかたで、また怒らせて=あいての感情をかく乱させて、自分は冷静に振る舞うことで、周囲にも自分の優越性を演出してみせることができる。
「言いたくないけど」ということばは「言われたくない」の裏返し。「オレも言われるのはイヤだから、おまえも言われたくないという気持ちは分かる。だからホントは言いたくないが、それでも言わずにはおれない。おまえがそれだけだめなヤツだ」という意味合いを多分に含んでいる言いかた。
「じゃあ、聞きたくないね」
「聞きたくないが、そこでしゃべっているのは勝手だよ」と応えるのもひとつの手。ただしケンカになる可能性大。その点要注意。でもそもそも「こんなことは言いたくないけれど」という言いかたで攻撃を仕かけてくることのほうが失礼なこと。相手を下に置こうという企ては失礼千万。下手(したで)にでる必要はなし。
【とっさの返答編】
■「はい、検討します」でお茶をにごすひとは…。
相手に賛成ではないが、あからさまにそうは言えないときの逃げ口上のことば。
そう言うひとは、検討はするでしょうが、それは相手の意見を取り入れようというのではなく、自分の意見をどう通すか、という方向での仕切りなおしでしょう。したがって、「はい、検討します」ということばが出たときは、相手はこちらのいうことを聞くつもりはないと覚悟したほうがいい。
■「いまやるところです」と調子のいい返事をするひとは…。
プライドばかりが高いひとです。
プライドが高いひとは、自主性を軽んじられ、人から命令されると、やる気を失う。人に命令されてやったのでは、相手の言いなりになった=相手に従属したということになる。それがイヤだから、あくまでも自分で進んでやったと思いたいがため、本当は言われなくてもやった、命令に服したのではなく、いままさにやろうとしていたということにしたいがために、「いまやるところです」と答えるのです。
■「しかし」「だから」「つまり」「すごく」「しょせん」のひとことが多いひとは…。
①「しかしですね…」とことあるごとに連発するひとは…
相手に対し、否定的な態度だが、相手を否定するニュアンスよりも自分に注目を集めようとするニュアンスの方が強い。自分を目立たせるために相手を押しのけるっていう感じ。
②「だから」の口ぐせは、自己主張が強いタイプ。「だから私が言ったでしょう」というニュアンスを強調したい言いかた。上から目線のことば遣いではある。
③「つまり」で話をまとめようとするひとは、話に論理的道すじをつけたい人ではあるが、中には話の展開が苦手で、論理的表現が練習不足で不得手であるため、それをカバーするために頻繁に使う場合がある。
④「すごく」をよくつかうひとは、感情的なタイプ。感情の起伏が激しく、しゃべっているうちに(あるいは、ブログなどを書いているうちに)自己コントロールがきかなくなる人に多い。
(ルナ註: わたしはこのタイプです^^)。
⑤「しょせん」をよくつかうひとは、皮肉屋さん。世の中のことは相手よりもより多く知り尽くしている、という態度を顕示しようとしている。このタイプはほかに、老人を装ってみたり、達観している風なことば遣い、枯れたようなことば遣いなどをよくつかう。相手をとかく批判はするが自分では責任を取ろうとはしない。議論が自分の手に負えなくなってくると「熱く議論する若さはいいものだが、世の中は熱情では動かないものだよ、ふう」などというようなことを言って逃げる。
【露骨な上から目線の言いかた集編】
■「だから言ったじゃない」と言ってくるひとは…
優越することへの欲求がたいへんに強いタイプ。
この言いかたは、「あなたのやり方では失敗するということがわかっていた」ということを言いたい、また、「私のやり方ならもっとうまくやれた」ということを強調したい言いかたです。
しかし、これを言われるほうの側に立ってみると、このことばはこれ以上なく不快で屈辱的。それでなくとも失敗を自覚していて、「自尊感情」が低下しているのです。「オレってドジだなあ」、「あたしってダメだなあ」と、自分の価値が低く感じられるときなのです。平たく言えば、思い切りへこんでいるときなのです。
そんなときに「だから言ったじゃない」と追い打ちをかけて言うひとは、さらに相手の自尊心を低めようとしているのです。これはもう攻撃です。相手の自尊心を殲滅しようとする「攻撃」です。この目的は、そのことばを言われる人に自分が優越していることを徹底的に見せつけ、思い知らせようとすることです。まったく思いやりのかけらもない行為です。
(「話し方で相手の心の9割がわかる!」/ 渋谷昌三・著)
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その「思いやりのなさ」の根っこにあるのは、「自分の忠告を無視するから失敗した→自分の思い通りに動かなかったことへの意趣返し→自分はあなたを支配し、援助し、従わせていたい」という怖ろしい動機です。
過干渉して子どものコミュニケーション能力を萎えさせてしまう「毒になる親」の動機であり、パートナーを共依存に巻き込む人格障害系の人物の精神的性向なのです。またカルト宗教の教祖の取り巻き連中の腹の底にある動機もこれです。彼らは失敗を成長の貴重な機会とはみなしません。ほんとうはひとは失敗経験から成功への知恵やコツを学んでゆくものです。ですから、失敗したときにこそ、そのひとの自尊感情をなだめて上げなければならないのです。それが相手を愛するということです。相手の人が自分の足で立ち上がり、失敗経験から教訓を得、再び挑戦していけるように、「あなたは大丈夫」のメッセージを、信頼に基づく肯定的なことばでたゆまず与えるのが思いやりであり、また「愛」なのです。
ところが「だから言ったじゃない」というひとは相手の失敗のときを、相手を潰し、自分の必要性を認識させ、従わせる絶好の機会とみなすのです。「それみなさい、だからあたしのいうことにしたがってればよかったのよ」という恋人の女性や妻は、自分がいなければあなたは一人前にやっていけないんだよというメッセージを思い知らせるチャンスとみなします。ただ妻がこのような思いを抱くのは、夫の方が日頃から妻に「愛されている」「必要とされている」という実感を感じさせない、愛情表現の少なさに原因があるのかもしれません。親が子どもにこの仕打ちを与えるのは、愛を十分に実感できていない妻の場合とは異なり、ひたすら悪辣です。そのひとは子どもに自分を認めてもらいたいのです。子どもから評価と賛辞を受けたいのです。これを親子逆転現象と言います。いえ、私が勝手に名づけたんですけれどね。
つまり、本来、親が子どもを励まし、一生けんめいやったことを素直に賞賛してあげることによって、「じぶんはやれるんだ」という自信を育んでゆけるのですが、「だからいったじゃない」といって子どもを攻撃する親は、子どもから賛辞と評価を受けて自分に自信を生じさせたいのです。本来、親である自分が子どものためにやってあげなければいけないことを、子どもにしてもらいたいのです。子どもが親の心理的必要の世話をするよう求められるのです。「ぼくが、あたしが親の言うことに服従すればものごとはうまくいくんだ、親ってすごいなあ」という視線、態度の表明を親が、子どもに暗に要求するのです。子どもの役割と親の役割が逆転しています。
こうして育った子どもは、自分で目標を見つけてそれを達成することで人生から充足を得るということができない大人になってしまいます。そのうちに、だれかに生きる意味や目的を与えられないと何をしても一生けんめいになれない、というそんな人生にやがて空虚を覚えるようになります。こういうひとはカルト宗教やかつて日本を席巻した「超国家主義」などというものににハマります。
なぜなら、カルト宗教では神あるいは教祖の与えた使命を果たすことが人間の本分であるということが教え込まれます。つまり自分でやりたいことが見つけられず、探す術も知らず(親のいうとおりに従うことを調教されてきたため)、そこへ人生の意味、また達成感ある仕事を教団から教えられることに自己実現の機会を見いだすのです。超国家主義も同じです。そこでは天皇のために一命を捧げて靖国神社で祀られる生きかたこそ、日本人の本分であると教えられます。つまりひとがひとり、どう生きるべきかということを国が教え、指図し、強要するのです。意識下のレベルでの実存的な自信を育み損ねた多くの現代人のなかで、カルトにさらわれるのは少数派です。が、国家を神格化し、国家への帰依を求める人、国家主義にハマるひとは大勢いるのです。
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自己価値観(意識下のレベルでの自信のこと)は民主主義の心理的基盤であり、民主主義の心理的目標でもあります。
逆に自己無価値観はファシズムの温床になります。独裁者になるのは自己無価値観型の人間である場合が多く、自己無価値観人間が束になって独裁者を支持しやすいからです。
独裁者は、強力な権力欲、支配欲、顕示欲を持ちますが、いずれの欲求も、自己無価値観人間が事故価値観を得ようとして希求するものなのです。独裁者の心の底には深い自己無価値観が横たわっているのです。
独裁者の多くは、虐待されたり、それに近い形の養育を受けています。
たとえばヒットラーは、父親から鞭で打ちのめされ、犬のように口笛で呼ばれたりするなかで育ちました。スターリンも、酒に酔った父親に厳しく鞭打たれ続け、サダム・フセインは異母兄弟とともに、母親の再婚相手であり継父に虐待されて育ったと言われています。いずれの仕打ちも、基本的な自己無価値観を人の心の奥底に生み出してしまう養育環境でした。
一般大衆としての自己無価値観人間は、自由な場面に立たされると戸惑ってしまいます。自分の感覚、感情、欲求、判断、意見を信じられないために、内的判断基準がないからです(自分で価値判断ができない、という意。そうなったのは親から言われることに無批判に、自動的に服従して育ってきたため。自分の体験から自分独自の教訓や方針、知恵などを発見することが許されなかったから。「毒になる親」参照)。だからむしろ、権力者が決定してくれて、権力によって強制的に行動させられる方が安心なのです。
また、自己無価値観人間は、独裁者と心理的に一体化することで、自分が力を得たかのような高揚感を得るのです。それは一種の麻薬の陶酔状態に似ています。このために、容易に独裁者を支持してしまうのです。
支配者が国民を支配する手法はむかしから変わりません。「分断し、孤立させよ」です。これにより、国民は無力感に貶められ(人間同士の協力が奪われ、破壊されるということだから)、自己無価値観を刷り込まれるよう親子関係など人間関係を操作し、自己無価値観を刷り込まれた人間たちはまさに、その無価値観から逃避するために、理性的な民主主義指導者よりも、情緒に訴えかけてくるわかりやすいメッセージを送り出すやはり情緒的な独裁者を受け入れてしまうのです。
しかしこのことは、自由で闊達な欲求を抑えつけることでもありますので、国民の側に不満・敵意が蓄積することになります。この不満・敵意が独裁者に向かわないように、独裁者は敵をつくりだし、この敵と戦うことこそ聖戦なんだ、という幻想を演出します。さらに、この敵と戦うことは、民衆が共同で闘うという連帯意識を生み出し、民衆の自己価値観の高揚をもたらす、という作用があります。こうして独裁政権を支持する回路のようなものができあがり、それは国家の壊滅に至るまで続くのです。
(「なぜ自信が持てないのか」/ 根本橘夫・著)
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これが今の日本で起きていることです。またエホバの証人の社会を支える原理でもあります。エホバの証人の「教育」は屈辱を与えることによって、個性を摘み取り、他者とは異なるユニークであるゆえ貴重な個人、という意識を抹消させてしまうものです。そうすることによって、信者のひとりひとりは、教団指導部によって与えられる評価、地位や役職、大会でステージで目立たせてもらえること、などによってでしか自分を評価できず、だから必死で評価されようとして、他人に気に入られるような生き方に没頭してゆきます。自分の本当の欲求を自分で抹殺して、上層部からの地位と名声を必死に得ようとするのです。その結果自分の本当の気持ちを殺してしまうため、つまり個性的な自分を認めない生き方をしてきたので、他者をも大切に思えず、互いが互いを監視して、だれも人間らしい幸せを抜け駆けで、得ることがないようにする、という息苦しい社会を作り出してゆくのです。