ちょっとここで「哲学ってなんだ」を読んだ感想を述べます。
エホバの証人は子どもたちにもエホバの証人になるよう教育を施します。エホバの証人にとって都合の悪い情報を与えないようにし、エホバの証人サイドからの情報のみ与えます。エホバの証人の生きかたがベストであるように「宣伝」するのです。わたしはこの方法はカルト手法だと思っています。情報操作を行っているからです。このようにして育てられた子供たちは「2世」と呼ばれています。情報操作によって、ものの見かたや世界観が偏狭な人たちです。子どもといっても親とは別個の人格を持つ人間ですから、価値観や趣向、志しは親とは異なるのはあたりまえです。
ところが親がエホバの証人の中心的なメンバーであった場合、つまり熱狂的な信者であった場合、子ども自身の意向は拒絶されるのです。それはエホバへの「不従順」であり、エホバの主権への反抗的な精神態度、「悪魔的な独立の精神」であると教え込まれます。エホバの証人の教理によると、悪魔というのはエホバの「子」たちである天使たちのひとりが、エホバに対抗し、独立しようとした者なのです。エホバから自立しようとした者が悪魔サタンだといいます。エホバが定めた枠組みではなく、自分らしく生きようとした者がサタン悪魔であるのです。したがって、エホバの枠組みから自立すること、独立しようとすることは「悪魔的な反逆の精神」と呼ばれています。
こんにち、親の期待を押しつけられて育った子どもたちの中には、「アダルト・チルドレン」に当たる者がおおぜいいます。自分の本当の興味、志向を押し殺して親のために生きる子どもたち、その子どもたちが自分の内に押し殺されてきた「自分らしさ」に目覚めて、自分らしさを拒否してきた親を憎むようになり、怒りをいろんな形の行動で爆発させ、自傷行為、反社会的な行動、拒食症、過食症に走らせたり、うつやひきこもりを起こさせたりする臨床例が、一部の良心的な精神科医、カウンセラーたちによって報告されるようになりました。しかし日本のように親や会社や国家のために自分らしさを抹消するのを美徳とする文化はなかなかそれらの報告を認めようとはしません。それらはその人自身の「弱さ」とか「甘え」と見なされるのです。
エホバの証人の子どもとして自分を押し殺して生きていたわたしは、しかし日本の精神風土よりもそれら良心的な精神科医とカウンセラーたちのほうが正しいということを、自分の身を持って知ることができました。人間は社会生活を営むべき存在ではありますが、自由を求めるものであり、自分らしい仕方で、自分にあった生きかたを望むものなのです。決して親の期待や神の枠組みのために自分を押し殺すのが自然ではないのです。ジュニア向けの本ではありますが、「哲学ってなんだ」を読んだとき、近代哲学は神権支配から抜け出して、人間が自己を自由な存在として認め、神の押しつけから自己を解放しようとしてきたことを知ってとてもさわやかな感想を持ちました。そしてこれまでは哲学なんて難解な概念を創作して机上の空論をこねくりまわすものだと思っていたのですが、むしろ哲学はわたしの味方だったんだと分かって、とても身近かに感じるようになりました。
ではこれよりまた「絶対観は原始的な思考です」を続けます。特に子どもさんを持たれるエホバの証人の目に留まることを遥かな思いを抱きます。
エホバの証人は子どもたちにもエホバの証人になるよう教育を施します。エホバの証人にとって都合の悪い情報を与えないようにし、エホバの証人サイドからの情報のみ与えます。エホバの証人の生きかたがベストであるように「宣伝」するのです。わたしはこの方法はカルト手法だと思っています。情報操作を行っているからです。このようにして育てられた子供たちは「2世」と呼ばれています。情報操作によって、ものの見かたや世界観が偏狭な人たちです。子どもといっても親とは別個の人格を持つ人間ですから、価値観や趣向、志しは親とは異なるのはあたりまえです。
ところが親がエホバの証人の中心的なメンバーであった場合、つまり熱狂的な信者であった場合、子ども自身の意向は拒絶されるのです。それはエホバへの「不従順」であり、エホバの主権への反抗的な精神態度、「悪魔的な独立の精神」であると教え込まれます。エホバの証人の教理によると、悪魔というのはエホバの「子」たちである天使たちのひとりが、エホバに対抗し、独立しようとした者なのです。エホバから自立しようとした者が悪魔サタンだといいます。エホバが定めた枠組みではなく、自分らしく生きようとした者がサタン悪魔であるのです。したがって、エホバの枠組みから自立すること、独立しようとすることは「悪魔的な反逆の精神」と呼ばれています。
こんにち、親の期待を押しつけられて育った子どもたちの中には、「アダルト・チルドレン」に当たる者がおおぜいいます。自分の本当の興味、志向を押し殺して親のために生きる子どもたち、その子どもたちが自分の内に押し殺されてきた「自分らしさ」に目覚めて、自分らしさを拒否してきた親を憎むようになり、怒りをいろんな形の行動で爆発させ、自傷行為、反社会的な行動、拒食症、過食症に走らせたり、うつやひきこもりを起こさせたりする臨床例が、一部の良心的な精神科医、カウンセラーたちによって報告されるようになりました。しかし日本のように親や会社や国家のために自分らしさを抹消するのを美徳とする文化はなかなかそれらの報告を認めようとはしません。それらはその人自身の「弱さ」とか「甘え」と見なされるのです。
エホバの証人の子どもとして自分を押し殺して生きていたわたしは、しかし日本の精神風土よりもそれら良心的な精神科医とカウンセラーたちのほうが正しいということを、自分の身を持って知ることができました。人間は社会生活を営むべき存在ではありますが、自由を求めるものであり、自分らしい仕方で、自分にあった生きかたを望むものなのです。決して親の期待や神の枠組みのために自分を押し殺すのが自然ではないのです。ジュニア向けの本ではありますが、「哲学ってなんだ」を読んだとき、近代哲学は神権支配から抜け出して、人間が自己を自由な存在として認め、神の押しつけから自己を解放しようとしてきたことを知ってとてもさわやかな感想を持ちました。そしてこれまでは哲学なんて難解な概念を創作して机上の空論をこねくりまわすものだと思っていたのですが、むしろ哲学はわたしの味方だったんだと分かって、とても身近かに感じるようになりました。
ではこれよりまた「絶対観は原始的な思考です」を続けます。特に子どもさんを持たれるエホバの証人の目に留まることを遥かな思いを抱きます。