つうは与ひょうのために身を削って機を織る。与ひょうは欲深い友人にそそのかされてつうにたくさん布を織らせてお金にする。
つうのせりふ。「あんたがおカネを好きなのなら、あたしはそれでいい。でもあんたが好きなおカネはもうたくさんあるのだから、あとは二人きりで静かに楽しく暮らしたいのに。畑を耕したり、子どもたちと遊んだりして…」。
生きることを楽しめない人間は手段そのものを目的にしてしまう。生きることを楽しむとは、人とのかかわりを楽しむということ。人との関わりあいに人間の生きる意味がある。すると人との関わりあいを楽しめない人間には生きる意味合い、生きる目的がないことになる。実際、そういう人間は自分の生きている意味が分からない。だから手段を目的にする。ところが「銀を愛することには際限がない(伝道の書/ 聖書)」。いくら稼いでもいくら貯めこんでも「満ち足りることがない(伝道の書/ 聖書)」。
つうにはおかねに対する態度に限度があった。つうが愛したのはおかねではなく与ひょうだった。つうは与ひょうとの人間関係を楽しむことができた。日常お決まりのルーティンワークも与ひょうと一緒にするのなら、つうにはこれ以上なく楽しいことになった。つうは人との関わりあいを楽しむことができたので、手段と目的を転倒させることはなかった。
手段と目的が転倒しているのがエホバの証人。
神への奉仕の業(=布教活動)は神に愛を表す方法のひとつだったのに、奉仕の時間を報告することで愛を表せるという本末転倒=「量(布教活動に費やした時間)※」が少ないと愛も少ないという思い違い。だから「量」が気にかかる。挙げ句が家庭が崩壊するまで、あるいは人格が崩壊するまで量をかせいで疲れ果てる。
生きることについて、手段と目的が転倒するのは、やはり人との関わりあいを楽しめない、コミュニケーション・スキルの未成熟さがあるに違いない。人と心を開いて関われないから、人を信じられないし、理解できない。人に心を開いて本音で関われないから、理解しあうことも信用を醸成してゆくこともできない。
心を開かないから、規則に頼る。規則にきれいに沿った人なら安心できる、という思考。組織から肩書きを与えられている人は、「規格合格品」の保証書を与えられたのと同じ。それは一級市民権のような重みがある。だからみんな「規格合格品」の保証書を得ようとして励む。巧妙なマインド・コントロール。
でも規則に頼って営まれる人間関係は融通がきかない。思わぬ事態の展開にとっさに対処できない、つまり規則にない事態には対処ができない。だから問題を起こした人は有無を言わせず除去してしまう。理解できないことをすべて排除してしまう。規則にない事態、状況はすべて排除する。これは魔女裁判の原因でもある。たとえば、レイプされた女性はいたわられるのではなく逆に非難される。レイプ犯を非難する以上に。レイプ犯が擁護されることすらある。つまりレイプ犯に犯意を起こさせた女性の方が悪いというのだ、エホバの証人の「長老」や産経新聞などに言わせると!
温室の中の人間関係。試験管の中の人間関係。エホバの証人の中の人間関係は、日本人社会の人間関係にそっくりだ。日本人社会でも、「緊急事態」を引き起こす人間が排除される。イラクの3人の人質、反戦ビラを配布する市民運動家たち、アメリカ兵にレイプされた女子…。問題の原因からは目をそらせ、問題の原因に光を当てることになった事件の被害者たちがバッシングされる。
そこまでして問題の原因から目をそらせるのはなぜ?
事態を改善しようとしないのはなぜ?
それがわたしたちの人生を抑圧しているというのに!
日本人に告ぐ。日本人よ、あなたたちはエホバの証人やオウム真理教のようなカルト宗教を非難し、その信者たちを嘲笑することはできない。なぜならば、あなたたちもおなじだからだ。あなたたちもカルト宗教とおなじ思考回路を駆使しているからだ。あなたたちの発想はカルト宗教の発想だ。あなたたちの思考習慣はカルト宗教の思考習慣だ。
エホバの証人時代の自分を、そこから離れてから思い返してみると、ほんとうにこっけいな考え方&あわれな生き方だったと思う、つくづくと…。でも外へ出てもおなじだった。日本人はカルト宗教の信者のように、みんなから浮かないように窮々としていて、みんなと同じでいるよう窮々として、「世間」に波風を立てないように窮々として生きている。
波風を身に招かないよう、つまり規則にない事態を身に招かないよう、おおかたの日本人は人と関わりあうことを怖れている。人に心を開くことを怖がっている。浅くあたりさわりのない人間関係にしようとしている。だから生きていることに実感がない。当然のことだ。他人の感受性に媚びるために生きていて楽しいはずがない。人から評価されることのために生きていて安心できるわけがない。自分を評価してくれた人がいなくなれば、ゼロになる。そんな人生に実感があるわけがない。だから日本人はいま、手段でしかない経済を至上の目的にしている。人間と関わりあうことを楽しめないから。
※(解説)
エホバの証人の布教活動は、布教に費やした時間を報告させることによって管理されています。むかしは「開拓奉仕」といって、1年間に1000時間を布教活動に費やすという誓約を立てさせます。一ヶ月平均にして90時間です。強制はされない、ということになっていますが、独身の人とか主婦とかはひっきりなしに、開拓奉仕を行うようにプレッシャーをかけられます。
月90時間ですから、当然男性であれば、就業ができません。ウィークデーに布教にやってくる若い男性たちはだから、フリーターです。ウィークデーの日中に布教活動にやってくる若い女性たちは、「自発的ニート」ともいうべき人たちです。2007年現在、開拓奉仕の要求時間は月70時間だそうです。
この誓約は果たせなくても罰則はありません。果たしていると目立つ機会が与えられることもあるというていどの「報酬」はあります。エホバの証人には年3回の「大会」という催しがあって、布教活動に時間を多く費やし、信者を多くかき集めている成績優秀者は「大会」でのステージに招かれて成功譚を披露する機会が与えられることがあるのです。
たいへん効果的な人間管理で、これは実はトヨタ方式です。トヨタの社員管理と酷似しています。信者ひとりひとりの宗教団体への求心力を維持し、精神的に宗教団体に依存させるという効果があります。詳しくは、ブックマークの「エホバの証人情報センター」を参照なさってみてください。たとえばこちらなど。