昨日の記事の最後のエピクテトスのことばについて思うことを追加します。
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「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
われわれの力の及ぶものとは、判断、努力、欲望、嫌悪など、ひと言で言えば、われわれの意志の所産の一切である。われわれの力の及ばないものとは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれのせいではない一切のものである。
われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されることもない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、自分を隷属的にし、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。
それゆえ、君が本来、君を隷属的にするものを自由なものと思い、他人に属するものを自分のものと見るならば、君は障害に遭い、悲哀と不安に陥り、ついには神を恨み、人をかこつものとなるであろうことを忘れるな。
これに反して、君が真に自分に所有するものを自分のものと思い、他人のものを他人のものと認めるならば、だれも君を強制したり、妨害したりはしないだろう。君はだれをも恨まず、非難せず、またどんな些細なことも自分の意志に反してなす必要もないであろう。だれも君を不必要に害せず、君は多くの人がそうであるように、作らなくてもいい敵をあえて作ったりしないであろう(エピクテトス)」
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一例をあげると、奉仕の特権を得ようとすれば、長老の良い評判を得ようと努力しなければなりません。また巡回監督にも従順であることを印象づけなければなりません。そのためには「自分を捨て、苦しみの杭を取り上げる(マタイ16:24)」、つまり自発的な欲求や願望、自分の自然な夢を断念しなければなりません。任命権は巡回監督にあり、推薦されるかどうかは長老たちの意向にあります。つまり役職は自分の力の及ぶものではなく、他人に所属するものなのです。他人に所属するものを得ようとすれば、自分の望みのいくらかは禁止されます。また長老たちのお気に入りになるためには程度の差はあれ、隷属的な立場に立つことにもなります。
エホバの証人は「新しい人格」を身につけているかどうかを評価します。それは「組織への服従」の度合いが測られることなのです、実際は。仕事を調整して開拓奉仕をとらえるよう努めているか、進学を断念して開拓奉仕をとらえようとしているか、結婚、出産をあとまわしにして開拓奉仕をとらえようとしているか、病気であろうと何であろうと開拓奉仕をとらえようとしているか、家庭がバラバラになってもエホバの証人のおきてを擁護することで会衆の励みになっているか…。
他人の基準にかなうよう努めているかどうか、というのは個人の欲求を否定する考えかたです。秩序を保つためには自分ばかり押し出していてはいけない、集団の一員として行動しなければならないことはほんとうです。しかし社会秩序を保つのに、個人の人権を放棄しなければならないことはありません。職業を選ぶこと、進学すること、結婚、出産することを選んだからといって、どこのどんな秩序が乱されるのでしょうか。乱されるのは他人の人生をいじくりたい人たちの感情でしょう。そうした人たちは他人を思い通りに操作することで、自分の存在に価値を認めようとする残忍な人たちなのです。自分が無理に多くのことを犠牲にした、その喪失感は新人への同様の厳しい要求として発散されます。高校のスポーツ部活のしごきの習慣のように、非情な要求は連鎖して受け継がれてゆくのです。
エホバの証人の知性は低い。自分に属するものと他人に属するものの区別がつかない。いいえ、自分に属するものを放棄させるのがエホバの証人の教育なのです。カルトのやりかたそのものです。きっとのちのちそのつけを支払うことになるでしょう。 「君が本来、君を隷属的にするものを自由なものと思い、他人に属するものを自分のものと見るならば、君は障害に遭い、悲哀と不安に陥り、ついには神を恨み、人をかこつものとなるであろうことを忘れるな」 ということを味わい知ることになるのです。わたしもそのひとりです。だれよりも強く家庭を望んでいましたが、自分を主張し続けたために、婚期を逸しました。そしていまは神だの宗教だのを毛嫌いする人間になっています。自分の決定権の範囲まで指図されるのを好まず、自分のペースを守る人が現れると、エホバの証人は差別的待遇によって孤立させ、屈辱感を味わうように状況を操作するのです。
任命を受けたり、誉を受けたりすることを追い求めるのは「他人に属するものを得ようとする」ことなのです。エピクテトスはそうではなく、「自分に属するもの」を追い求めるなら、わたしのような人生を送ることはないと言っています。宗教に当てはめると、宗教者として価値があるのは、指導部からの評価ではなく、自分と神との関係で潔い良心を持って生きることです。神に対していつもまっすぐ目をあげて言い開きができるのであれば、それで宗教的には完全なのです。そして言い開きができるか否かは各自の問題であり、他人が介入することではありません。個人の崇拝は個人にのみ属するものであって、他人に属するものではないのです。このことは聖書の中でも使徒たちが複雑な文章を駆使して説明しているのですが、集会で注解されることはあっても実際に実行されることのない教理となっています。個人間に「犠牲」の差があることに不安を覚える人がいるのです。いい年して社会人として労働しない巡回監督、家庭を破壊するまでに極端な原理主義的な解釈を守り通す醜いオバサン(言っちゃなんですが、この種の女性信者はどういうわけか表情も顔つきも醜い)、まともに働かずに初老に至った長老たちなどのように、自分の責任から逃避してきた人たちがそうです。
他人に属するものを追い求め、自分に属するものを放棄してきた人のなれの果てがこれです。これは要するに「自己」が確立されずに人生を終えようとする人間のすがたなのです。こういう人たちは若い人たちの可能性を、自分でも気づかないところで妬んでいるのでしょう。若い人たちのすることにとにかく何でも批判的です。独身のままよぼよぼになった宣教者を神格化して褒め称える一方で、いまどきの若い人たちは…といいます。自分が若かったときはもっとハングリーだったよねえ、などと言う人たちはいま自分には、人生で何ごとかを成し遂げたという実感を持たないことに恐怖しているのでしょう。教理がこれだけ変化すれば、過去には価値のあったことも、今では口の端にも上ることがありません。これでは自分の過去に充実感を持てるはずがないのです。むかし、ある掲示板で書き込まれたことなのですが、川崎の大ちゃん事件の当の会衆では、よそから越してきた人が大ちゃんの話をすると、露骨に顔をゆがめて嫌悪感を示す、ということです。あの時は偉大な信仰の決断だったのですが、いまは輸血拒否の基準も緩やかになっていて、いまなら大ちゃんは死なずに済んだかもしれないからなんです。それでもエホバの証人としての自分たちの立場を守りたいので、臭いものにはフタをするからそんなことになるのです。
「自分を大事にする」というのは利己的であれ、という意味ではありません。自分に属する権利を守り、自分に属する責任から逃げるな、ということです。一方他人に属するものを得ようとするな、と言うことでもあります。まして他人からその人の人権まで剥奪し、自己の確立を破壊しようとするのは大変な「悪」です。精神分析医のアリス・ミラーはそれを「魂の殺人」と呼びました。一生を後悔のないように生きたいなら、自分に属するものを精いっぱい伸ばすことに一生懸命になってください。他人に属するものを得ようとして、自分の貴重な人生の時間を無駄にしないでください。エピクテトスの上記のことばは、現代のエホバの証人にとても重い教訓を与えています。
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「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
われわれの力の及ぶものとは、判断、努力、欲望、嫌悪など、ひと言で言えば、われわれの意志の所産の一切である。われわれの力の及ばないものとは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれのせいではない一切のものである。
われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されることもない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、自分を隷属的にし、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。
それゆえ、君が本来、君を隷属的にするものを自由なものと思い、他人に属するものを自分のものと見るならば、君は障害に遭い、悲哀と不安に陥り、ついには神を恨み、人をかこつものとなるであろうことを忘れるな。
これに反して、君が真に自分に所有するものを自分のものと思い、他人のものを他人のものと認めるならば、だれも君を強制したり、妨害したりはしないだろう。君はだれをも恨まず、非難せず、またどんな些細なことも自分の意志に反してなす必要もないであろう。だれも君を不必要に害せず、君は多くの人がそうであるように、作らなくてもいい敵をあえて作ったりしないであろう(エピクテトス)」
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一例をあげると、奉仕の特権を得ようとすれば、長老の良い評判を得ようと努力しなければなりません。また巡回監督にも従順であることを印象づけなければなりません。そのためには「自分を捨て、苦しみの杭を取り上げる(マタイ16:24)」、つまり自発的な欲求や願望、自分の自然な夢を断念しなければなりません。任命権は巡回監督にあり、推薦されるかどうかは長老たちの意向にあります。つまり役職は自分の力の及ぶものではなく、他人に所属するものなのです。他人に所属するものを得ようとすれば、自分の望みのいくらかは禁止されます。また長老たちのお気に入りになるためには程度の差はあれ、隷属的な立場に立つことにもなります。
エホバの証人は「新しい人格」を身につけているかどうかを評価します。それは「組織への服従」の度合いが測られることなのです、実際は。仕事を調整して開拓奉仕をとらえるよう努めているか、進学を断念して開拓奉仕をとらえようとしているか、結婚、出産をあとまわしにして開拓奉仕をとらえようとしているか、病気であろうと何であろうと開拓奉仕をとらえようとしているか、家庭がバラバラになってもエホバの証人のおきてを擁護することで会衆の励みになっているか…。
他人の基準にかなうよう努めているかどうか、というのは個人の欲求を否定する考えかたです。秩序を保つためには自分ばかり押し出していてはいけない、集団の一員として行動しなければならないことはほんとうです。しかし社会秩序を保つのに、個人の人権を放棄しなければならないことはありません。職業を選ぶこと、進学すること、結婚、出産することを選んだからといって、どこのどんな秩序が乱されるのでしょうか。乱されるのは他人の人生をいじくりたい人たちの感情でしょう。そうした人たちは他人を思い通りに操作することで、自分の存在に価値を認めようとする残忍な人たちなのです。自分が無理に多くのことを犠牲にした、その喪失感は新人への同様の厳しい要求として発散されます。高校のスポーツ部活のしごきの習慣のように、非情な要求は連鎖して受け継がれてゆくのです。
エホバの証人の知性は低い。自分に属するものと他人に属するものの区別がつかない。いいえ、自分に属するものを放棄させるのがエホバの証人の教育なのです。カルトのやりかたそのものです。きっとのちのちそのつけを支払うことになるでしょう。 「君が本来、君を隷属的にするものを自由なものと思い、他人に属するものを自分のものと見るならば、君は障害に遭い、悲哀と不安に陥り、ついには神を恨み、人をかこつものとなるであろうことを忘れるな」 ということを味わい知ることになるのです。わたしもそのひとりです。だれよりも強く家庭を望んでいましたが、自分を主張し続けたために、婚期を逸しました。そしていまは神だの宗教だのを毛嫌いする人間になっています。自分の決定権の範囲まで指図されるのを好まず、自分のペースを守る人が現れると、エホバの証人は差別的待遇によって孤立させ、屈辱感を味わうように状況を操作するのです。
任命を受けたり、誉を受けたりすることを追い求めるのは「他人に属するものを得ようとする」ことなのです。エピクテトスはそうではなく、「自分に属するもの」を追い求めるなら、わたしのような人生を送ることはないと言っています。宗教に当てはめると、宗教者として価値があるのは、指導部からの評価ではなく、自分と神との関係で潔い良心を持って生きることです。神に対していつもまっすぐ目をあげて言い開きができるのであれば、それで宗教的には完全なのです。そして言い開きができるか否かは各自の問題であり、他人が介入することではありません。個人の崇拝は個人にのみ属するものであって、他人に属するものではないのです。このことは聖書の中でも使徒たちが複雑な文章を駆使して説明しているのですが、集会で注解されることはあっても実際に実行されることのない教理となっています。個人間に「犠牲」の差があることに不安を覚える人がいるのです。いい年して社会人として労働しない巡回監督、家庭を破壊するまでに極端な原理主義的な解釈を守り通す醜いオバサン(言っちゃなんですが、この種の女性信者はどういうわけか表情も顔つきも醜い)、まともに働かずに初老に至った長老たちなどのように、自分の責任から逃避してきた人たちがそうです。
他人に属するものを追い求め、自分に属するものを放棄してきた人のなれの果てがこれです。これは要するに「自己」が確立されずに人生を終えようとする人間のすがたなのです。こういう人たちは若い人たちの可能性を、自分でも気づかないところで妬んでいるのでしょう。若い人たちのすることにとにかく何でも批判的です。独身のままよぼよぼになった宣教者を神格化して褒め称える一方で、いまどきの若い人たちは…といいます。自分が若かったときはもっとハングリーだったよねえ、などと言う人たちはいま自分には、人生で何ごとかを成し遂げたという実感を持たないことに恐怖しているのでしょう。教理がこれだけ変化すれば、過去には価値のあったことも、今では口の端にも上ることがありません。これでは自分の過去に充実感を持てるはずがないのです。むかし、ある掲示板で書き込まれたことなのですが、川崎の大ちゃん事件の当の会衆では、よそから越してきた人が大ちゃんの話をすると、露骨に顔をゆがめて嫌悪感を示す、ということです。あの時は偉大な信仰の決断だったのですが、いまは輸血拒否の基準も緩やかになっていて、いまなら大ちゃんは死なずに済んだかもしれないからなんです。それでもエホバの証人としての自分たちの立場を守りたいので、臭いものにはフタをするからそんなことになるのです。
「自分を大事にする」というのは利己的であれ、という意味ではありません。自分に属する権利を守り、自分に属する責任から逃げるな、ということです。一方他人に属するものを得ようとするな、と言うことでもあります。まして他人からその人の人権まで剥奪し、自己の確立を破壊しようとするのは大変な「悪」です。精神分析医のアリス・ミラーはそれを「魂の殺人」と呼びました。一生を後悔のないように生きたいなら、自分に属するものを精いっぱい伸ばすことに一生懸命になってください。他人に属するものを得ようとして、自分の貴重な人生の時間を無駄にしないでください。エピクテトスの上記のことばは、現代のエホバの証人にとても重い教訓を与えています。