天皇制は日本人にとってはたいへんにデリケートな問題になっています。わたしの世代では、戦争反対の気運が強い時代に十代を過ごしましたから、とくになんとも思わないのですが、今日、国旗国家法などが定められ、学校で日の丸掲揚、国歌斉唱が義務づけられているご時世です。民族意識を高め、ナショナリズムを子どものころから育もうという方向に進んでいるご時世です。国家の経済成長を最優先させ、国民をそのための単なる労働力としてしか見なさない方向へと進んでいるご時世です。労働力としての価値を失った老人や身体障害者や病人、失業者は切り捨てようという法律が次々に制定されているご時世です。正直なところをいうと、わたし自身、「こんなことを書いて怖い思いしないだろうか」という不安がちらりと心に過ぎったほどです。これって、いま自由な言論が脅かされているってことですよね?
心理療法の基本方針は、「個」の自立と尊重、「対等な相互依存、相互尊重」です。わたしは絶対にこの立場を擁護します。人間は国家や神、天皇のための奉仕者として生まれてくるのではありません。あくまでも日本という国に生まれてきた、あるいは日本という国の人民として生きることを選択した人たちの人生をよりよく支えるための国家国民体制、という受け止めかたであるべきだ、とわたしは主張します。このブログを訪れてくださる方々が、以下の引用文、もっといえば、引用の著作を、女性天皇議論を考えるときの資料として参考にしていただければ幸いです。
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女帝については、すでに民間でも議論の的になっていた。自由民権結社で、のちにその幹部が立憲改進党結成に参加した嚶鳴社(おうめいしゃ)は、「皇室制規」立案にさきだつ1882年(明治15年)1月、「女帝を立るの可否」と題する討論を行ない、3月から4月にかけて東京横浜毎日新聞紙上にその内容が掲載されたのである。
この頃、自由民権結社はさまざまな題目のもとに、さかんに討論会を開いていた。嚶鳴社の最初の公開討論会の題目は「君主に特赦の権を与うるの可否」で、大盛況であったと伝えるが、それにつづく第二回がこの「女帝を立るの可否」であった。これから述べるように、この討論は当時の女帝観を示すものとして興味深いものであると共に、井上毅(いのうえ つよし)が「謹具意見」で、女帝否定論者の島田三郎、沼間守一(ぬま もりかず)の発言を全文引用したように、当時の政府に影響を与えたことでも注目される。
この討論に参加した論者は八名、女帝を否とするものは、発議者の島田三郎、益田克徳(かつのり)、沼間守一であり、可とするものは、肥塚竜、草間時福(ときよし)、丸山名政(なまさ)、青木匡(ただす)、波多野伝三郎であった。
この討論で冒頭、島田三郎が、女帝を否とする論拠として、つぎの三点をあげた。
1.過去の女帝である、
推古、皇極(再祚〔さいそ〕して斉明)、
持統、元明、
元正、孝謙(再祚して称徳、以上は古代の女帝)、
明正、後桜町(以上は近世の女帝)は、
明正を除き、いずれも皇子が帝位につくまでのいわば中継ぎであり、ヨーロッパの女帝制とは本質が異なること。
2.日本は男尊女卑の国柄であるから、女帝の夫は人臣でありながら女帝の上に位置するように見られ、かえって皇帝の尊厳を損ずるうえ、しかも日本では外国の王族と結婚するわけにもいかないこと。
3.女帝の夫が暗に女帝を動かして政治に干渉する弊も起こりうること。
こうして論争がはじまった。
論争の主要な争点は男女の地位の問題に関わっていた。草間は、島田の論は「猶お(なお)亜細亜の癖習中に迷うて、男を人とし、女を獣として、女子の権利を破らんとする」ものだと正面から反論した。しかし、こうした論者は、この時意外に少ない。女帝を可とする論者でも、「男女の間に同等の権を立てんと云うにあらず」として、日本は男尊の風習があるから男を先にすべきだが、女帝の風習もあったのだから否定すべきでない(肥塚)とか、皇帝は雲の上の人だから、人民の間に男尊女卑の慣習があっても、女帝の尊厳が損なわれることはない(波多野)とか、消極的な論が中心であった。
女帝賛成論者は、自由民権運動家らしく、立憲政治との関連で自説を主張したものが目立つ。たとえば、島田が女帝の夫が政治に介入する弊を云々したことに対し、肥塚や草間は、君主独裁国ならばともかく、これから日本がめざす立憲国にあっては君主は憲法にしたがって政治を行うのであり、内閣の大臣の意見を無視して政治を行うことはできないから、その心配はないと主張した。
女帝が臣下の夫を迎えるのが問題であるならば、外国の王室と結婚する途もあるではないかという論点も登場した。肥塚は、古来の例はなくとも、「明治23年の後国会を開き、我日本の人民皆我皇室の外国帝室と婚姻あらせられんことを翼賛するあらば、我帝室は清国なり、其他の外国なり、其望ませらるる外国皇室と結婚あらせらるるも妨げなし」といいきっている。
この討論は、採決の結果、女帝を可とするもの八名、否とするもの八名の賛否同数であった。結局、議長権限で女帝は否となったが、しかし、少数ながら男女同権論が存在したことといい、女帝論者が半数いたことといい、さらには外国王族との婚姻を認める発言といい、今日からみても驚くほど自由な議論が展開されたことは注目すべきであろう。
そして国家の側における皇室法案になかにも女帝や譲位を認める考えも存在していたことは、明治国家草創期に特有の秩序観の多様性を示していたといえよう。
(「皇室制度」/ 鈴木正幸・著)
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そのうち書きますが、天皇が国家国民の統合の要とされたのは、明治政府の採った政策です。その政策に沿った教育によって、国民の間に「神聖不可侵」の存在として意識下に刷り込まれたのです。それは江戸時代に儒教道徳が支配的にされた過程と同じです。決して、古来の伝統が日本人民に自然に受け継がれたのではありません。それは強制的に、あるいは工作的に日本人に教え込まれたのです。そして、その根底にはやはり、「男尊女卑の国柄」を「天が上に、地が下にあるのと同様の自然の理」とみなす儒教の影響があるのです。当時としては比較的拓けた考えの人々の間でも、「男女同権を立ち行かせようというわけではない」というのです。女が男と同様の人格を有する人間であるとみなすのは、「米欧回覧実記」の記録者であった久米邦武の言うとおり、乾坤反覆の思想だったのでしょう。無理もないですね、戦後昭和の40年代ころでも女性の地位は事実上似たようなものでしたから。戦後、GHQの指導でなんとかかんとか民主憲法が制定されました。それにあたっても、女性の地位を人間並みに引き上げようとするのに、かなりの抵抗があったのです。戦後、女性の人格権が認められるようになって、再び女性天皇の問題が取り上げられるようになりました。次に戦後間もない頃の女性天皇論議を引用してみます。まず最初に、天皇主権国家というのが日本の国体であり、それは無批判、無条件に受け継がねばならないとする、人権論を超越した保守的な意向がまかり通っていたところから引用を始めます。
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1945年8月15日、天皇は「終戦」の詔書を放送、15年にわたる戦争が終結する。ポツダム宣言の受諾は、8月10日の御前会議で「聖断」により決定していたが、国体護持について疑義が生じ、14日の御前会議であらためて「聖断」により受諾を最終決定した。このように、ポツダム宣言の受諾にあたって最大の問題は国体護持が可能かどうかにあったのであり、日本政府はポツダム宣言が国体を否認するものではないという一方的な了解のもとに受諾を決めたのである。
だから終戦の詔書にも、
「朕は茲(ここ)に国体を護持し得て、忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠に信倚(しんい・依り頼む、に似た意。もう、変換にムダに時間が取られてイライラしてきました…)し、常に爾臣民と共に在り。…(中略)…誓いて国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらしむことを期すべし(阿部照哉ほか編『憲法資料』より)」とあった。
ポツダム宣言にも、
「日本政府(明治憲法下では、総攬者としての天皇を戴いていた)は民主主義的傾向の復活、強化の妨げとなる全ての障害を除去すべし」
とあって、占領後の日本政府を通した米国の間接統治の方針が示唆されていたが、1945年9月のアメリカの初期の対日方針は「最高司令官は米国の目的達成を満足に促進する限りにおいては、天皇を含む日本政府機構及び諸機関を通じて其権限を行使すべし」としていた。つまり、日本政府も天皇ご自身も「国体護持」を当然と了解していたし、天皇制存置と日本政府を介する間接統治の方針はアメリカの占領政策の方針となっていたのである。
(ただし、翌年1月には日本国民が『皇帝制度』の廃止を希望する場合はそれも認める方針になっていた)。
1945年10月、政府が設置した憲法問題調査会(松本烝治委員長)は、新しい憲法における天皇の地位を明治憲法のそれと基本的に変えない方針を決め、翌年2月8日、GHQに「政府起草の憲法改正案に対する一般的説明」を提出した。そこにはつぎのようにある。
「日本国が天皇に依りて統治せられたる事実は、日本国歴史の始まりたる以来、不断に継続せるものにして、此制度を維持せんとするは我国民大多数の動かすべからざる確信なりと認む。よって改正案は…(中略)…天皇が統治権を総攬行使せらるるの制度を保持することとせり」。
ただし、天皇の統治権は、立法はすべて「帝国議会の協賛」によってのみ行われ、軍の統帥をふくむ行政は「議会に基礎を置く内閣」の「国務大臣の輔弼(助言)を以ってのみ」行いうるものとした。また明治憲法第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」は、「神聖」を「『至尊』なる語を以って更置すること」としていた。
これに対しGHQは、いわゆるマッカサー草案を作成して1946年2月13日、日本側に手渡した。民政局長だったホイットニー将軍はつぎのように言った。
「先日あなた方が提出された憲法改正案は、自由と民主主義の文書として、最高司令官が受け入れることのまったく不可能なものです。…(中略)…最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力…(中略)…から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。…(中略)…しかしみなさん、最高司令官といえども万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています(「ラウレル文書」筒井若水ほか編『日本憲法史』より)。
(「皇室制度」/鈴木正幸・著)
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ポツダム宣言受諾にあたっても、沖縄戦で住民が放棄され、広島と長崎に原爆が投下され、国民が陰惨な苦痛にあり、核兵器の使用によって今や日本国民が絶滅の危機にさらされていたにもかかわらず、政府の関心は天皇主権という国体護持が関心の唯一の的だったのですね…。日本の政府というのは本当に国民の生存権をまともに取り上げないんですよね…。わたしたちって、不幸な国民ですよね。ここの一文だけをみれば、GHQは、演劇用に創作されたあの「水戸の黄門」さまに見えてきませんか。日本政府は「悪代官」で…。でもアメリカとしては共産主義ソヴェトや中国共産党の脅威への防御壁としての戦略のために日本を使うつもりだったのです。ただし、アメリカという国は福音主義キリスト教のイメージを強く持っていて、つまり、日本が天皇主権国家と思い込んでやまないのと同じような感じで、世界に民主主義と自由市場主義を「伝道」する使命を自覚している国家ですから、日本を民主化しようという意向ももちろん持っていたのです。そうすると、女性の地位も向上するのでしょうか…。それは皇室にも影響するのでしょうか。
さてさて、日本はいよいよ、マッカーサー草案にしたがって、日本国憲法を作成し始めます。上記の様子を見ると、あいもかわらず「伝統」にしがみつくようですね。新憲法では男女同権の思想が書き表されているのです。さあ、女帝問題はどうなるのでしょうか。つづけて引用してみます。
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皇室典範論議のなかでも、新しい憲法と関係して、特に注目されるのが、女性皇族にも皇位継承権を認めるべきだとする議論と、天皇の退位・譲位規定をめぐる議論である。及川規議員(日本社会党)は、皇室典範案が戦前同様、皇位継承権を男系男子にのみ与え、女性皇族に皇位継承権を認めなかったのは憲法の原則を破るものだとして、こう批判した。
「男尊女卑の思想は、従来わが国において長年にわたって培われ、国民の思想を支配し、今なお牢固として抜くべからざる根強さを有しておる弊風であります。…(中略)…国民を首肯せしむに足る確固たる理由のない限り、女子除外の措置は男尊女卑の弊風の払拭の妨げとなり、否、この思想肯定の根拠とさえなる怖れがあるといわねばなりません。…(中略)…皇室は、新憲法において天皇が象徴となられたことにより、一層国民の儀表たるの地位を高めたものであります。したがって皇室は、全ての点において範を国民に垂らせられ、真に国民憧れの中心とならるべきものと思うのであります。憲法に折角樹立せられた男女平等同権の原則が、まず皇室典範において破られておることは、遺憾のきわみであります」。
また井上赳議員(国民党)は、憲法9条に規定された戦争放棄と関連させて、議論を展開する。
「われわれは、文化国家の象徴として、女子天皇の出現はまことにふさわしいものがあるように感ずるのであります。しかのみならず、わが国は永久に戦争を放棄いたしまして、あらゆる軍備を撤廃することを憲法において宣言したのであります。従ってこの平和国家の象徴として、女子天皇の出現すべき可能性を、この際法規の上に残しておくということが、この宣言の誠実な実践の第一歩として、わたしは国際的にも一大好感を持たれるのであろうと確信するものであります」。
女性に参政権を認めて行われた1946年4月の、戦後初の総選挙では、39名の女性議員が誕生したが、そのひとり、新妻イト議員(日本社会党)はつぎのようにいう。
「この皇室典範によりますところの皇位の継承だけが、男系の男子でなければ承け継げないということは、非常に矛盾しておるのではないか。…(中略)…今度の新憲法によりまして、女もどうやら人間並みになったのでございますから、この男系の男子ということを、どうかしてとっていただくことができないかしら」。
これに対して、金森国務大臣はつぎのように答弁する。
「われわれ国民が何千年の間にかくありと考えておった、その原理の線を追うてものを考えて行くよりしようがない。…(中略)…その歴史の中に、まず確定不動として安心してゆけるものを発見してゆくにはどうするか、これは日本においては男系ということは一点の疑いもなく確保されております。そういたしますると、男系ということはまず擁護しなければならんのではなかろうか。…(中略)…女帝ということになるとどうかといえば、[歴代天皇のうち]百二十何分の十という、約七、八分に近い例外でありまして、よほどよく考えてその利害損失を見てゆかねばならぬ」。
理由は、歴史上、皇統が男系によって継承されてきたこと、女帝が一割にも満たなかった、ということだけである。そして、女性天皇は今後の検討課題としてうけ流して、質問を退けた。かつて1882年に女帝論議が展開されて以来、64年が過ぎていた。そして憲法そのものが新しくなって、その憲法にそって議論が始められようとしたが、このたびはかつてのような自由活発な議論は行われず、結局女性天皇は認められなかったのである。
(「皇室制度」/ 鈴木正幸・著)
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この金森国務大臣の答弁、いかがでしょう。平成17年の今日の女性天皇反対論のことばと全く同じではありませんか。「歴史上、皇統が男系によって継承されてきたこと、女帝が一割にも満たなかった」というのが説得的な根拠でしょうか。「長く続いた」ということが根拠になるのでしょうか。長く続いたかどうかではなく、今生きている人々が、男でも女でも、より豊かな人生をエンジョイできるかどうかということが問題なのです。今現在生きている人たちの一部分が圧迫されているなら、それをひとつづつ改善してゆこうとするのが、たとえそれが千年、二千年の伝統を有していても、変えたほうがいいのなら変えるべきではないでしょうか。伝統はしょせん人間が創作したものなのです。人間がいなければ伝統は形成されません。でも伝統がなくったって人間は生まれてきます。わたしはまだ聞いたことがないのですが、女性が天皇になるとどんな「損失」があるのでしょう?
そしてもうひとつ、平成の女帝反対論議では、明治時代程度の自由活発な議論がされず、戦後間もない頃のような人権の観点からの反論もなされていないということです。あまり関心が持たれていないのではないでしょうか。単に皇室だけのことではなく、人権感覚が問われていることなのに…。ひょっとしたら、金森国務大臣のように、今、何か「変わらないもの、不動のもの」への要求が強いのでしょうか。今日本は不安の大きい時代ですから…。
パリサイ人はイエスのところに来てこういった。
「あなたの弟子が昔の人々からの伝統を踏み越えているのはどうしてですか」。
イエスは答えて言われた。
「あなた方も自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか。あなた方は自分たちの伝統のゆえに神のことばを無にしています。偽善者よ、イザヤはあなた方について適切に預言して言いました。
“この民は唇でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを崇拝し続けるのは無駄である。人間の命令を教理として教えるからである”(マタイ15:3-9)」。
伝統は昔の人々の教えです。昔の便宜にはかなっていたのでしょう。でもより啓発された人生観にはもはや適合しないのです。金森国務大臣は興味深い心情を吐き出しています。
「その歴史の中に、まず確定不動として安心してゆけるものを発見してゆくにはどうするか」。
変化のないことに「安心できる」ものがある、という考えです。今まで通りでないと何が不安なのでしょうか。女性が上に立つということがそんなに気に障るのでしょうか。経験したことのないことだし、偉い人や古老が頑として譲らない、そんな事情でもあるのでしょうか。徳川家康の採用した儒教。この呪縛っていまだにわたしたちを束縛しているのでしょうか。女は男のような筋力は(ふつうは)持ち合わせていません。でもこれは劣っているのではありません。女性とはそういうものなのです。健全な女性は過去にとらわれず、今現在を情緒豊かに生きようとします。女性というのはそういうものなのです。そしてもし、人類が女性という存在を持たなかったら、人類はとうに滅びていたでしょう。男と女は互いを必要としています。人間として、対等な存在なのです、女は、ね。
みなさんは、女性天皇についてどのように思われますか。今回の記事では、女性天皇の過去の議論を知っていただければと思って、書き写しました。ぜひ一度、お考えになってみてくださいね。
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追記:
日本には女性天皇はいましたが、「女系天皇」は存在しなかった、ということです。「女系継承」に反対する方々の理由は、以下の通りです。一部分の引用です。詳しくは、http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005 をご覧下さい。ブログのタイトルは、「ほそかわ・かずひこのBLOG」です。
たとえば、愛子様が独身で女性天皇となられ、民間人の佐藤氏とご結婚され、男子が誕生されたとする。この「女系の男子」が次の天皇となったならば、これは女系継承となる。しかし、田中氏は、その女系の男性天皇が、民間人女子とご結婚され、そこに生まれた男子が次の天皇になれば、それは「男系にかえる」ことなのだという。これは、おかしい。
その男子は、父は天皇ではあるが、祖父は民間人であり、曽祖父・高祖父等とさかのぼっても、歴代天皇にはつながらない。これを「女系の天皇」というのである。そして、厳密に言えば、佐藤氏と愛子様の子である「女系の男子」が天皇となった時点で、従来の皇室とは異なる家系に、皇位が移ったと見なしうる。だから、皇室の伝統を尊重する日本人は、女系継承に反対するのである。
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「万世一系」は守らなければならないんなら、女系天皇には「血筋が代わる」という問題があるんですね。
でも、皇太子さまって、そんな生き方でほんとうに、心の底から納得されていらっしゃるんでしょうか…。もし、皇太子さまが外国人と恋愛関係におちいって、やがて生活を共にしたいと思うまでに信頼しあうようになられたら、皇室に異民族の血が入ってくることになります。皇室典範第10条には、立后と皇族男子は婚姻の際には皇族会議に諮られる、と定められています。これは違憲だという説があります。だれでもそう思います。異民族の女性ならば、皇族会議はどう判断するでしょうか。「皇室の伝統を尊重する日本」国民はどう反応するでしょうか。もし反対するなら、それってすごい残酷なことではないかって思うのですが…