[註記追加:8月23日8.57AM]
以上の試案は、つまるところ、架構を「半ばラーメン状」の、弾力のある、しかし強固な立体架構に組むというかつての考え方を継承したにすぎない。
もちろん、「構造力学的な解析」が根にあるわけではないから、《専門家》の方々からは、根拠を示せとのクレームが出て当然と考えている。
しかし、それに対しては、そうであるならば、何度も書いてきているように、たとえば、「東大寺・南大門」はなぜ800年以上無傷なのか、あるいはまたたとえば「奈良今井町・高木家」がなぜ健在なのか・・について、「科学的に解析し説明してくれ」、と私は言う。それができないで、近世までの工人が生み出した工法を、非科学的云々と否定し、黙殺することを私は認めない。それは、これも何度も書いてきたが、決して科学的:scientificな態度とは認められないからである。
註 私は、知ることのできる範囲の資料(かつて主流であった工法でつくられ
現存する建物:したがって文化財が多い:の資料)から、
いわば帰納的に推量してみる方法で、データを得てきている。
また、今の大工さんの意見も折りにふれて聞いてきた。
何よりも、「現場」で得られたものは、机上で仮定に仮定を重ねて
得られたもの、あるいは部分の試験体の実験で得られたもの等と異なり
リアリティそのものだ、と考えるからだ。
そして、かつての「技術の進展」もまた、このような過程を経て
得られたはずなのである。
かつての工人も「仮定」を立てて見ることはあっただろう。
しかし彼らは、常に「現場」の事実・リアリティと対照し、
決して一度立てた「仮定」に固執することはなかった。
ところが、現在はどうか?「仮定」のはずのものが、
あたかも真理であるかのように世に憚っていないか。
事実・リアリティとの対照作業を怠っていないか?
これをして「科学的」と呼んでいいのだろうか?
すでに各地で起きているようではあるが、「王様はハダカだ」「王様の耳はロバの耳」という素朴にしてあたりまえな感覚による異議申立てを、より一層行わなければならない時期に来ている、と私は思う。
一つ「目新しい事態」が起きている。今回の「中越沖地震」の被災状況に対して、「国を挙げて取組んでいる『耐震補強指針』は正しかった」という声が、《専門家》から起きていないことだ。むしろ、《専門家》は沈黙している。
先に(8月1日)、新潟大学災害復興科学センターの刈羽村の被災調査報告を紹介した。そこでは、「中越地震」後に新築した建物や、大規模改修した建物(それらは当然現在の法令や「耐震補強指針」に従っているはず)が、今回の地震(「中越沖地震」)で大きく損壊した例が多数あったのである。
そこが砂質地盤だから特殊だ、という言い訳もできない。なぜなら、そういう地盤での基礎の仕様まで、法令は細かく規定しているのだから。つまり、規定や指針に従ってもダメだった、ということ。
これは、人間よ、そんなに驕らずに、「耐震」という考え方を見直しなさい、という「自然界からの声」なのではないだろうか。