大分前になりますが、遠藤 新(えんどう・あらた)の論説を紹介しました(下註)。
本棚を整理していたところ、ちょうど今から20年前の1989年に開かれた「遠藤新 生誕100年記念」展のカタログが出てきました(INAX BOOKLET)。
そこには、彼が設計した建物の貴重な写真が多数載っています。
上の写真はその内の一。1938年に建てられた栃木県真岡(もおか)の「真岡尋常高等小学校 講堂」です。なお、平面図は「遠藤新 生誕100年記念作品集」から転載。これは実測図のようです。
写真の側廊上部の壁(桁行方向)は、内部が木造トラス、その上に梁行に小屋組のトラスが架かる架構ですが、断面図がないので詳細は不明です。
現在この建物は、校舎改築にともない別の敷地に移築され、公民館的な用途に使われています。国指定の「登録有形文化財」です。
註
「日本インテリへの反省・・・・遠藤 新のことば」
彼の設計した学校は、いずれも従来の学校のイメージを覆すつくりですが、1949年に書いた「日本インテリへの反省」の「その二」で(「その一」が上記の論説で、住居について述べています)、学校の建物についての彼の見解、更には「建築」についての見解を述べていますので、今回その一部を紹介します。前回、いずれ紹介、と書いたものの、2年以上も約束を果していませんでした!
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哲学なき教育と校舎・・・・日本インテリへの反省(その二) 抜粋
・・・・・前略・・・・・
私は先に日本インテリの住まんとする家が、世界の民族の家の正当なる発達に見られない珍型でその重大欠陥が生活を哲学しない点にあることを指摘した。そして哲学しない家を欲しがるのは、哲学しない教育の結果だと言った。そしてさらに日本を滅ぼしたのは日本のインテリだとまで極言した。日本の教育はどうしてそうなったか。
註 以上の詳細は、上掲註の記事に引用した論説参照
註 哲学:philosophy の訳語として定着
「賢哲の明智を希求する」意味で「希哲学」と訳され、
後に略されて「哲学」となった。
原義は「智を愛す」「知るを愛す」という意味。
彼の言う「哲学しない家」「哲学しない教育」とは、
「家」「教育」の本義は何か、深く考えない
という意味と解してよいだろう。
なお、phil-は、philharmony の phil-に同じ。
一体昔の寺子屋は一人の師を中心に読み書きそろばんを習いながら人たるの道を学ぶという意味で少なくとも教育は哲学していた。しかし明治になってからの学校は一見整備したかに見えつつ、実は時間割でいろいろの教師が知識の切売をして免状をくれるだけの工場になってしまった。
思えば明治維新日本が大きな転換期に際会したとき、一代の先覚福澤諭吉先生はいみじくも教育の本義を道破して「本当の学問は一つの物について世間のいわゆる物知りになることではない、物と物との間の関係を知ること」だというた。それはたしか明治9年のころ。福澤先生の卓見はひっきょう私のいう哲学する教育という意味にほかならない。
註 この福澤諭吉の論については、私は寡聞にして知らない。
彼の「一科一学の奨め」だけが、世に広まった、と
私は理解している。
しかし悲しいかな、日本の教育は福澤先生が意図したような哲学する方向に進まずまたあらぬ方向に迷い込んだ結果、やがて後藤新平という自力人から帝国大学は低能児養成所だという痛烈な非難を浴びるまでになった。かつて橋田という文相は「科学する心」と言ったが日本の教育は哲学するどころか科学さえしていなかったのだ。
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一体教育の重大要素の一つは環境である。孟子の母が三度まで引越しをしたのもひっきょう自分の感化が到底周囲の環境に勝てないと悟った結果である。いかなるよい先生もよい環境なしによい教育が出来るはずがない。したがって学校建築の第一義は教育のよい環境たるにある。私はそのことを先生が教育する前に、まず環境が教育する・・・という。
しかし、残念なことに日本の学校は決してそんな見識から建てられてはいない。世間も教育家も建築家もことごとく学校建築を等閑に附した。「学校だから」と言うのは粗末な間に合わせと同義語にさえなった。かくして哲学しない教育場として哲学しない校舎が建った。時間割教育の時間割校舎。
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およそ日本のあらゆる学校はいずれも千篇一律の御粗末な建物、しかもその御粗末な学校が例外なしに中央に玄関と車寄せがある。そしてこの正面に厳しく構えた玄関は東京駅の皇室専用と同じく、ただ一つまみの先生達の専用で生徒は決して出入りを許されないのです。何百人という生徒はどこかの隅の昇降口という汚い小便臭い所から出入りしなければいけない。これは決してよい教育をする環境ではない。
註 ここにあるような学校校舎は、さすがに最近は見かけない。
しかし、私の通った国民学校はこのような建物だった。
なお、この論説の冒頭は、引用を省略したが、東京駅についての
厳しい評が書かれている。
当初、東京駅は、中央に「皇室専用口」、両端に一般客用口があり、
しかも、一般用は向って右が「入口専用口」(今の丸の内南口か)、
左側が「出口専用口」(北口)に分かれていたのだという。
校舎もまた、それに倣っていたのである。
この一例は、「登米高等尋常小学校」(
「スナップ・・・・旧 登米高等尋常小学校」参照)に
見ることができる。
なお、「高等尋常小学校」「尋常高等小学校」とは、明治の学制では
「尋常小学校」と「高等小学校」があり、両者を併設した学校の呼称。
どちらを先に書くか、学校によって違っていたらしい。
西洋には気が利いた間抜けの例として猫くぐりを親猫と子猫の寸法に合わせて別々につくったという笑話がある。日本の学校はこの笑話をそのままに、別々に猫くぐりをつくるというむだをあえてして、坪数と工費を多くかけながら哲学しない校舎をつくって少しも怪しまない。
しかもここに見逃したい一大事はこの中央の玄関車寄せの形式が取りも直さず日本人が落ち込んだまま抜け切ることができない官僚思想の表現だということ。
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それにもかかわらず日本人の無関心は、学校とはこういうものと思い込んで少しも怪しむ様子がない。これは実に驚くべき事実といわんよりもさらに恐るべき事実である。そして私は今さらに日本インテリの落ち込んだ禍の深さを思う。
註 この「官僚思想」「無関心」は未だに払拭されていないのではないか。
ここでひるがえって私は行者の本色に立ち帰って専門の建築の道を考える。
建築とは――。
建築とは福澤先生が道破したと同じく、しかもより精確にかつより具体的に二つまたは二つ以上の物の釣合の関係に出発する。この意味で枕木にレールをのせた姿が建築で、柱に腕木、腕木に碍子、碍子に針金の電信柱も建築で、物干竿に吊した干物の姿も建築である。そしてこの原則を押し進めて行けば、建物と建物との間が建築で、建物と植木の間が建築で、建物と門の間が建築で、建物と庭の関係が建築で、結局敷地全体が建築である。だから建築の本領は世間で考えるように壁に囲まれた建物だけではない。そして建築家にとっての敷地とは、世間の所有権と全然無関係に、目に身ゆる限りが敷地――山でも川でも空飛ぶ鳥でも流れる雲でも。
このような見地に立つとき壁に囲まれた建物に執着していた建築と建築学は輝かしい「変貌」をもって生活と敷地の有機的統一に向かって焼点する。この境地を指して、私は「建築は哲学する」という。
この境地に立つとき建築家はもはや「間取り」をしない。そして建物をその敷地に対する「たたずまい」においてのみ考える。これを私は哲学する立場から考えるという。
しかるに世間で建築といえば建物にとりつき建物といえば間取りと思い、間取りといえば玄関から始める。そして時間割のように部屋を並べては廊下でつなぎ、棟を並べては渡り廊下でつなぐ。ここに哲学するかしないかの千里の岐路がある。
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以下略
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この休みの間に、締切り間近の仕事を片付けるつもり。次回は休み明け、あるいは来週になりそうです。