「文言追加 20日 9.16][追補 20日 18.01][追補 20日 23.25]
今日(4月19日)の毎日新聞夕刊(東京本社版)に、次のような記事がありました。
新聞記事ですから、やむを得ないことなのかもしれませんが、単に「歴史的事実」を記憶していたか、否か、の点に焦点が絞られているのが、気になりました。
単なる「歴史的事実」の「記憶」の問題ではない、と私は思います。
往時の人びとは、単に「歴史的事実」を記憶していたからではなく、その「事実」の先に、「そこは暮らすべきでない場所だ」ということを、「理由(わけ)も踏まえて認識していた」からだ、と私は考えます。
考えてみてください。津波は日常茶飯事のことではありません。
もちろん、地震も同じ、日常茶飯事のことではありません。
単なる「記憶」なら、忘れてもいたしかたない。
「記憶」していたか、否か、そういうことではないのです。
往時の人びとは、「その場所の地形・地質が何を意味するか」まで認識していたのです。そして、「だから、そのような土地に暮してはならない」、ということを「認識」していたのです。
それが、「歴史的事実として、表れている」にすぎないのです。
先回書いたことを一部再掲します。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
・・・・
「新市街地」とは、その多くは、現代の「科学・技術」による「想定」(=基準・指針)の下に「計画」された地区にほかなりません。
たとえば、地盤の悪さは杭やベタ基礎で解決できる、津波は、大きくても数mだろう・・・という「想定」(=基準・指針)の下で開発された新興地区なのです。
それがダメになったのは、「想定外」の天災に拠るのだ、天災がワルイ・・・。
旧市街:往時に人びとがつくりあげた集落:町が津波被災をしなかった、ということは、
そこに暮す人びとが、「住まいの備えるべき必要条件、十分条件」を認識していた、ということです。
「わざわざ危ない場所に暮すことはしてこなかった」ということです。
「大地」の上で暮す以上、「大地の理」を「尊重する」こと、おそらく、往時の人びとは、この「道理」を、当然のものとして理解していたと思います。
日ごろの「経験」「観察」を通して、「大地の理」を認識していたのです。
そして、当たり前のこととして、人が「大地の理」を凌駕できる、とは考えませんでした(もちろん、それが「大地の理」に「負けることだ」などとは思うわけもない)。
どうしてそれが可能だったか。
人びと自らが、自らの感覚で、日常的に、「大地の理」を学んでいたからだ、と言えるでしょう。
《偉い人》のご託宣に頼るようなことはしなかった、ということです。
・・・・
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
先ほど、TVで、《専門家》の、実験をまじえた液状化現象についての「解説」を放映していました。
私は、
そういうことが分っていたのなら、なぜ、低湿地:海岸や沼沢地を埋め立てて宅地化することはやってはならない、と説かなかったのか、それを説いて初めて「専門家」ではないか、
と思いながら聞いていました。
もっと言ってしまえば、そういう実験などは、単に、学会へ発表するのが目的の「研究」なのではないか、とさえ思いました。「研究」が「求利」の一手段になっている・・・。
「事件」が起きてから、「理詰めの説明」をしてもらったって、何の意味もないではないですか。
原発推進を諮ってきた原子力の《専門家》による「原発事故についての解説」に至っては、もっと憤りを感じています。
進んで現場に行かれたらいかがですか。
自ら唱えた「安全」論の「評価」のために。
そして、事態の収束の為に。
この際、あなた方は、評論家であってはならないのです。
それは、やむをえず避難を強いられる多くの人びとに対して為さねばならない、原発を推進してきたあなた方の責務です。
それができないのなら、所詮、あなたがたの「学」「研究」は、「求利」の為のものだった、ということになります。
以前に載せた宮澤賢治の「グスコンブドリの伝記」の一節を思い出しました。
そこには、こうあります。
「・・・私はもう火山の仕事は四十年もして居りまして
まあイーハトーヴ一番の火山学者とか何とか云はれて居りますが
いつ爆発するかどっちへ爆発するかといふことになると
そんなはきはきと云へないのです。
そこでこれからの仕事はあなたは直観で私は学問と経験で、
あなたは命をかけて、
わたくしは命を大事にして共にこのイーハトーヴのために
はたらくものなのです。」
「文言追加 20日 9.16]
原子力の利用は、二酸化炭素を出さないから、地球環境を護るクリーンなエネルギーだなどと言うことをやめましょう。
原子力なるものは、下水道が整備されていないのに上水道だけつくってしまった、というに等しいのです。
廃棄物はどうするのか、不明のまま使っている・・・!
地中深く埋めれば問題がない?!
それはこの大地に対する冒涜です。
追補 [追補 20日 18.01]
4月20日毎日新聞朝刊に、見過すことのできない記事がありました。
以下はその一部、そして赤枠内を拡大すると右側になります。
もちろん全てではありませんが、現在の「学」「研究」の様態を如実に示しています。
再追補 [追補 20日 23.25]
毎日のネットニュース:毎日jpに「地震国日本になぜ原発が多いか:原発の戦後史」という、注目すべき特集が載っています。同日の夕刊の記事でもあります。
今日(4月19日)の毎日新聞夕刊(東京本社版)に、次のような記事がありました。
新聞記事ですから、やむを得ないことなのかもしれませんが、単に「歴史的事実」を記憶していたか、否か、の点に焦点が絞られているのが、気になりました。
単なる「歴史的事実」の「記憶」の問題ではない、と私は思います。
往時の人びとは、単に「歴史的事実」を記憶していたからではなく、その「事実」の先に、「そこは暮らすべきでない場所だ」ということを、「理由(わけ)も踏まえて認識していた」からだ、と私は考えます。
考えてみてください。津波は日常茶飯事のことではありません。
もちろん、地震も同じ、日常茶飯事のことではありません。
単なる「記憶」なら、忘れてもいたしかたない。
「記憶」していたか、否か、そういうことではないのです。
往時の人びとは、「その場所の地形・地質が何を意味するか」まで認識していたのです。そして、「だから、そのような土地に暮してはならない」、ということを「認識」していたのです。
それが、「歴史的事実として、表れている」にすぎないのです。
先回書いたことを一部再掲します。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
・・・・
「新市街地」とは、その多くは、現代の「科学・技術」による「想定」(=基準・指針)の下に「計画」された地区にほかなりません。
たとえば、地盤の悪さは杭やベタ基礎で解決できる、津波は、大きくても数mだろう・・・という「想定」(=基準・指針)の下で開発された新興地区なのです。
それがダメになったのは、「想定外」の天災に拠るのだ、天災がワルイ・・・。
旧市街:往時に人びとがつくりあげた集落:町が津波被災をしなかった、ということは、
そこに暮す人びとが、「住まいの備えるべき必要条件、十分条件」を認識していた、ということです。
「わざわざ危ない場所に暮すことはしてこなかった」ということです。
「大地」の上で暮す以上、「大地の理」を「尊重する」こと、おそらく、往時の人びとは、この「道理」を、当然のものとして理解していたと思います。
日ごろの「経験」「観察」を通して、「大地の理」を認識していたのです。
そして、当たり前のこととして、人が「大地の理」を凌駕できる、とは考えませんでした(もちろん、それが「大地の理」に「負けることだ」などとは思うわけもない)。
どうしてそれが可能だったか。
人びと自らが、自らの感覚で、日常的に、「大地の理」を学んでいたからだ、と言えるでしょう。
《偉い人》のご託宣に頼るようなことはしなかった、ということです。
・・・・
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先ほど、TVで、《専門家》の、実験をまじえた液状化現象についての「解説」を放映していました。
私は、
そういうことが分っていたのなら、なぜ、低湿地:海岸や沼沢地を埋め立てて宅地化することはやってはならない、と説かなかったのか、それを説いて初めて「専門家」ではないか、
と思いながら聞いていました。
もっと言ってしまえば、そういう実験などは、単に、学会へ発表するのが目的の「研究」なのではないか、とさえ思いました。「研究」が「求利」の一手段になっている・・・。
「事件」が起きてから、「理詰めの説明」をしてもらったって、何の意味もないではないですか。
原発推進を諮ってきた原子力の《専門家》による「原発事故についての解説」に至っては、もっと憤りを感じています。
進んで現場に行かれたらいかがですか。
自ら唱えた「安全」論の「評価」のために。
そして、事態の収束の為に。
この際、あなた方は、評論家であってはならないのです。
それは、やむをえず避難を強いられる多くの人びとに対して為さねばならない、原発を推進してきたあなた方の責務です。
それができないのなら、所詮、あなたがたの「学」「研究」は、「求利」の為のものだった、ということになります。
以前に載せた宮澤賢治の「グスコンブドリの伝記」の一節を思い出しました。
そこには、こうあります。
「・・・私はもう火山の仕事は四十年もして居りまして
まあイーハトーヴ一番の火山学者とか何とか云はれて居りますが
いつ爆発するかどっちへ爆発するかといふことになると
そんなはきはきと云へないのです。
そこでこれからの仕事はあなたは直観で私は学問と経験で、
あなたは命をかけて、
わたくしは命を大事にして共にこのイーハトーヴのために
はたらくものなのです。」
「文言追加 20日 9.16]
原子力の利用は、二酸化炭素を出さないから、地球環境を護るクリーンなエネルギーだなどと言うことをやめましょう。
原子力なるものは、下水道が整備されていないのに上水道だけつくってしまった、というに等しいのです。
廃棄物はどうするのか、不明のまま使っている・・・!
地中深く埋めれば問題がない?!
それはこの大地に対する冒涜です。
追補 [追補 20日 18.01]
4月20日毎日新聞朝刊に、見過すことのできない記事がありました。
以下はその一部、そして赤枠内を拡大すると右側になります。
もちろん全てではありませんが、現在の「学」「研究」の様態を如実に示しています。
再追補 [追補 20日 23.25]
毎日のネットニュース:毎日jpに「地震国日本になぜ原発が多いか:原発の戦後史」という、注目すべき特集が載っています。同日の夕刊の記事でもあります。