数日前から、ホトトギスが啼きながら飛んでいます。卯の花の季節。
[追記 31日 8.55][末尾に、NHKスペシャル「原発の安全とは何か」の内容を、NHKオンラインから転載しました 3日 17.39]
咽喉もと過ぎれば熱さを忘れ・・・・・、
産業の空洞化を避けるために・・、原発稼動を願望する見解が増えているように思えます。
そして、その「実現」のために、電気がなければ、この夏の暑さを乗り切ることができないぞ、という脅迫めいた「見解」をメディアでしばしば見受けます。
簡単に言えば、大地の上に人の住めない地域:「空洞」ができてもいいから、《経済》を繁栄させたいというのでしょう。
人が居ないのに、《経済》だけは活況を呈する・・・、どうしたらそんな不気味な姿を思い描けるのか、《経済人》や《有識者》たちの頭の中を見てみたいものです。
原子力委員会なるものの程度のヒドサについて、ここ数日の毎日新聞が鋭く切り込んでいます。
追記 [31日 8.55]
たまたま深夜に見たNHKスペシャル「原発の安全とは何か」で、
欧米と日本では、「科学」に対する「認識・理解」が、
まったく異なることを報じていました。
欧米では、原発が潜在的にもつ危険性を scientific に検証するのが「科学」、
日本では、稼動を正当化する理屈をつくりだすのに使うのが「科学」。
どう見ても、日本のそれは scientific ではありませんでした。
たとえばスイス。福島の事故後2ヶ月で、各原発にストレステストを課し、その結果に拠って、
12月には政府は脱原発の決定をしている。
日本では、EUのストレステストには存在しない「段階」を勝手に設け(第一次ストレステスト)、
それを経れば稼動OKとした。そしてその後、第二次テストの話を聞いたことがありません。
そこでも「科学」が稼動の正当化のためにだけ使われたのです。
これはどう考えたって SCIENCE ではない。
こういうのに係わるのは scientist ではなく「利系」の人たち。
そして今朝、総理が「自らの責任」で稼動を決定する、という報道。
万一、再び人の住めない大地が生じたとき、いったい、その「責任」をどういう形でとるのか?
私には理解不能。
ご存知かと思いますが、『みんなで決めよう「原発」:国民投票』という運動が行なわれています。
要するに、政治家が稼動の判断をする(それを政治的判断というのだそうですが)と言っていますが、政治家が本当に国民を代表しているとは言い難い今、そんなことを任せるわけにはゆかない、「国民投票」で決めようよ、という運動です。
イタリアでは昨年の国民投票で、原発廃止が決まったはずです。
ドイツでは、政治が進んで原発廃止を決めた。
日本は・・・・。アメリカがやらないからダメなのかなァ?
詳細は、下記で。
国民投票
東京新聞に、この運動を「激励する」社説がありました。以下に転載させていただきます。
読みやすいように、段落を変えてあります。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
原発住民投票 今こそ民意問うときだ 2012年5月11日
原発を動かすべきか否か。
東京都民の意思表示の機会を求め、市民団体が石原慎太郎知事に住民投票の条例づくりを請求した。
原発ゼロの地平に立ち、草の根の本音をじかに確かめる意味は大きい。
註 東京都知事は、「反対」の意見を付して議会にまわした、とのことです。
大阪でも行なわれましたが、「民意」を重視するはずの「知事」「市長」は、「反対」の意見を付しています。
市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」は地方自治法に基づき、
有権者の2%を超す三十二万三千人分余りの有効署名を添えて直接請求した。
石原氏は、市民団体がつくった条例案に賛否の意見をつけて議会に出す。条例ができれば住民投票が実現する。
議会は直接民主制の重みを十分にくみ取り、成立を期してほしい。
問われるのは、都内に本店を構える東京電力の原発運転を認めるかどうかだ。
福島第一原発の事故を引き起こした当事者である。
原発の放射能禍は恐ろしい。多くの国民の命や暮らし、国土さえ奪い去る。
発電に使った核燃料のごみは手つかずのまま増える一方だ。
将来の世代につけを回す負の遺産はあまりにも大きい。
こんな厄介な原発の取り扱いが国と電力会社、立地先自治体のみのさじ加減に委ねられている。
国民を欺いてきた安全神話は崩壊したが、閉鎖的な仕組みは相変わらず温存されている。
東電の再建に向けた総合特別事業計画には、
新潟県にある柏崎刈羽原発を二〇一三年度に再稼働させる方針が盛り込まれている。
国はゴーサインを出した。またも国民は蚊帳の外に置かれた。
原子力政策は国家の命運を左右する。原発事故でそれがはっきりした。
市民団体が求める住民投票は、いわば“原子力ムラ”が独占している政策を国民の手に取り戻そうとする試みでもある。
首都東京は、福島県や新潟県などの地方に原発を押しつけ、その電力を大量に消費して繁栄を築いてきた。
東京都は東電の大株主でもある。もはや都民は原発に対して無関心でいてはいけない。
住民投票が実現すれば、一人ひとりが問題意識をしっかりと持ち、意思を示す。
その代わり結果について責任を負う覚悟が求められる。法的拘束力はないが、歴史を見れば民意は重い。
福井県にある関西電力大飯原発の再稼働に対し、大阪府や京都府、滋賀県などの関西の周辺自治体は慎重な姿勢だ。
だが、政治的駆け引きで原発の取り扱いが決まらないかと不安の声も出ている。
地域ごとに住民の思いを真摯(しんし)にすくい取る努力が大切だ。住民投票の機会を全国各地に広げたい。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
この社説の10日ほど前の同紙の社説も転載します。
週のはじめに考える それでも原子力か 2012年4月30日
どうしても原子力か、という問いがかつて発せられていました。
ある物理学者の問いです。今もなお、それでも原子力か、とやはり問わねばなりません。
手元に一冊の本がある。
武谷三男(たけたにみつお)編「原子力発電」(岩波新書)で、一九七六(昭和五十一)年第一刷発行。
日本の商業用原子炉が本格稼働し始めたころで、経済的な軽水炉時代の幕開けといわれたものです。
編者の武谷は福岡県出身、京大物理学科卒の一物理学者です。
素粒子モデルで世界的に知られる坂田昌一らと研究し、それと同時にビキニ水爆死の灰事件や原子力について発言してきました。
◆物理学者武谷の警告
本を開くと、被爆国日本の物理学者が研究に誇りをもちつつも、いかに悩んできたのかがわかります。
武谷は広島で被爆者への聞き取りを重ねています。科学の現実を知ろうとする学者なのです。
本は原子炉の仕組みに始まり、続けて、その無数の配管が高温高圧の蒸気に耐えられず肉厚が薄くなることや、腐食、疲労の危険性を指摘します。
人間のミスも取り上げている。例えば試運転中の玄海原発1号機で放射能レベルが上がった。調べたら、炉内に鋼鉄製巻き尺の置き忘れがあり、それが蒸気発生器の細管を傷付けていた。
だがそれはむしろ幸運な方で、もし炉心側に飛び込んでいたら大事故になっただろう、と述べている。
人間の不注意を責めているのではありません。
原発ではささいなミスがとんでもない惨事に結びつきかねないと言っているのです。
原発の立地集中化についても当時から心配していました。
日本では人口密度が高く適地がなかなか見つからない。
とはいえ、日本ほどの集中例は少なく、地域住民にとってこれほどひどいことはない、とも述べています。
◆昔も今も変わらない
さらに大物の学者が原子力推進計画に乗って、政府から多額の研究費を得ようとしたという、学者の弱みも明かしています。
四十年近くも前の、今と何と似ていることでしょう。何だ変わっていないじゃないかというのが大方の実感ではないでしょうか。
それらを列挙したうえで、武谷は「どうしても原子力か」という力を込めた問いを発しています。
彼はノーベル賞物理学者朝永振一郎らとともに、公開・民主・自主の三原則を原発の条件としています。
公開とは地元住民らによく分かる説明をすること。民主とは原発に懐疑的な学者を審査に参加させること。
自主はアメリカ主導でなく日本の自主開発であることです。
それらの不十分さは福島の事故前はもちろん、事故後の今ですらそう思わざるをえないことが残念ながら多いのです。
加えて今は地震の知見が増えました。危険性は明らかです。
本は二十刷をこえています。しずかに、しかしよく読み継がれてきたというところでしょうか。
ではその長い年月の間、日本はどう変わってきたのか。
世界を驚かせるほどの経済成長を遂げたけれど、中身はどうだったか。
欧州では、持続可能性という新しい概念が提出されました。
資源と消費の均衡、また環境という新しい価値に目を向けたのです。
大きな工場は暮らしを豊かにしたけれど、排出する汚染物質は酸性雨となり、森を枯らし、川の魚を死なせたのです。
放射能の恐怖もありました。東西冷戦で核搭載型ミサイルが配備され、チェルノブイリ原発のちりは現実に降ってきたのです。
欧州人同様、私たち日本人ももちろん考えてきました。
水俣病をはじめとする公害は国民的自省を求めました。
しかし原子力について、私たちは過去あまりにも楽観的で(欧州もまた同様でしたが)警戒心を欠いてきました。
放射能汚染はただの公害ではなくて大地を死なせ、人には長い健康不安を与えるのです。
原子力の研究はもちろん必要です。医療やアイソトープ、核物質の扱い方は核廃棄物処理でも必要な知識です。
その半面、核物質が大量に放出されれば、人類を永続的に脅かすのです。
◆核を制御できるのか
だからこそ「どうしても原子力か」という問いの重さを考え直したいのです。
物理学者らには原爆をつくってしまったという倫理的罪悪感があるでしょう。
人類が果たして核をよく統御、制御できるのかという問いもあります。
被爆国であり技術立国である日本は、その問いにしっかりと答えるべきです。大きく言えば人類の未来にかかわることなのです。
新エネルギー開発や暮らしの見直しは、実は歴史を書き換えるような大事業なのです。そういう重大な岐路に私たちはいるのです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
NHKスペシャルの内容です(NHKオンラインからコピー)。
シリーズ東日本大震災
原発の安全とは何か ~模索する世界と日本~
2012年5月19日(土)
午後9時30分~10時19分総合
災害
日本だけでなく、世界にも大きな衝撃を与えた東京電力・福島第一原発事故。原発を持つ国々では、現在も、原発の安全性をどう確保するか、事故からどんな教訓をくみ取るべきなのか、詳細な分析が行われ、議論が交わされている。
アメリカでは、NRC(原子力規制委員会)が事故を徹底分析し、「米国でも起きうるか?」を検証。政府が「原発推進」を掲げる中、今も、安全対策・規制を巡って激しい議論を戦わせている。
一方、EU各国も緊急の“シビアアクシデント対策”に乗り出している。
スイスは「フクシマの教訓」というリポートをいち早く公表し、事故から1年も経たない内に数々の“安全対策”を実行している。
事故が起きた日本では、原子力安全・保安院が、福島の教訓をまとめた新たな“30項目の対策”を公表する一方で、その一部を新たな安全基準と定め、安全性を審査し、原発の運転再開を目指している。
福島第一原発事故を世界はどう受け止めたのか。日本はどうなのか。世界の最新動向を伝えると共に日本の進むべき道を探る。
[以下は担当の記者の感想です]同じくNHKオンラインから
私はNHKで原子力分野を担当する科学文化部の記者の一人として、原発の取材に取り組んできましたが、福島第一原発の事故は私にとっても「原発に100%の安全はない」という事実を突きつけ、それまで「安全」対策や「安全」規制などと日常的に使っていた「安全」という言葉の意味を改めて考える重大な契機になりました。
何をもって「安全」とするかは国の事情によっても異なります。
番組で取材したアメリカでは、情報公開によって原発のリスクを共有することで、国が考える「安全」に社会的な合意を得ようとしていました。
一方スイスでは、経済性を度外視した安全対策を重ねてリスクをゼロに近づけようと努力を続けていますが、それでも脱原発を決めました。
では、日本にとって原発の安全とは何か。番組スタッフの間でも繰り返し議論をしましたが、さまざまな考えがあり、ひとつにはまとまっていません。
ただ私は、今回の取材を通じて、安全かどうかを決めるのは専門家ではなく、社会が原発を受け入れるかどうかで決まるのではないかと考えています。
放送後の反響もさまざまで、日本の社会が原発を受け入れるかどうかは非常に難しい問題になっていると感じます。
私はこれからも原発の安全とは何かを問い続けていく考えです。
記者 大崎要一郎
[追記 31日 8.55][末尾に、NHKスペシャル「原発の安全とは何か」の内容を、NHKオンラインから転載しました 3日 17.39]
咽喉もと過ぎれば熱さを忘れ・・・・・、
産業の空洞化を避けるために・・、原発稼動を願望する見解が増えているように思えます。
そして、その「実現」のために、電気がなければ、この夏の暑さを乗り切ることができないぞ、という脅迫めいた「見解」をメディアでしばしば見受けます。
簡単に言えば、大地の上に人の住めない地域:「空洞」ができてもいいから、《経済》を繁栄させたいというのでしょう。
人が居ないのに、《経済》だけは活況を呈する・・・、どうしたらそんな不気味な姿を思い描けるのか、《経済人》や《有識者》たちの頭の中を見てみたいものです。
原子力委員会なるものの程度のヒドサについて、ここ数日の毎日新聞が鋭く切り込んでいます。
追記 [31日 8.55]
たまたま深夜に見たNHKスペシャル「原発の安全とは何か」で、
欧米と日本では、「科学」に対する「認識・理解」が、
まったく異なることを報じていました。
欧米では、原発が潜在的にもつ危険性を scientific に検証するのが「科学」、
日本では、稼動を正当化する理屈をつくりだすのに使うのが「科学」。
どう見ても、日本のそれは scientific ではありませんでした。
たとえばスイス。福島の事故後2ヶ月で、各原発にストレステストを課し、その結果に拠って、
12月には政府は脱原発の決定をしている。
日本では、EUのストレステストには存在しない「段階」を勝手に設け(第一次ストレステスト)、
それを経れば稼動OKとした。そしてその後、第二次テストの話を聞いたことがありません。
そこでも「科学」が稼動の正当化のためにだけ使われたのです。
これはどう考えたって SCIENCE ではない。
こういうのに係わるのは scientist ではなく「利系」の人たち。
そして今朝、総理が「自らの責任」で稼動を決定する、という報道。
万一、再び人の住めない大地が生じたとき、いったい、その「責任」をどういう形でとるのか?
私には理解不能。
ご存知かと思いますが、『みんなで決めよう「原発」:国民投票』という運動が行なわれています。
要するに、政治家が稼動の判断をする(それを政治的判断というのだそうですが)と言っていますが、政治家が本当に国民を代表しているとは言い難い今、そんなことを任せるわけにはゆかない、「国民投票」で決めようよ、という運動です。
イタリアでは昨年の国民投票で、原発廃止が決まったはずです。
ドイツでは、政治が進んで原発廃止を決めた。
日本は・・・・。アメリカがやらないからダメなのかなァ?
詳細は、下記で。
国民投票
東京新聞に、この運動を「激励する」社説がありました。以下に転載させていただきます。
読みやすいように、段落を変えてあります。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
原発住民投票 今こそ民意問うときだ 2012年5月11日
原発を動かすべきか否か。
東京都民の意思表示の機会を求め、市民団体が石原慎太郎知事に住民投票の条例づくりを請求した。
原発ゼロの地平に立ち、草の根の本音をじかに確かめる意味は大きい。
註 東京都知事は、「反対」の意見を付して議会にまわした、とのことです。
大阪でも行なわれましたが、「民意」を重視するはずの「知事」「市長」は、「反対」の意見を付しています。
市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」は地方自治法に基づき、
有権者の2%を超す三十二万三千人分余りの有効署名を添えて直接請求した。
石原氏は、市民団体がつくった条例案に賛否の意見をつけて議会に出す。条例ができれば住民投票が実現する。
議会は直接民主制の重みを十分にくみ取り、成立を期してほしい。
問われるのは、都内に本店を構える東京電力の原発運転を認めるかどうかだ。
福島第一原発の事故を引き起こした当事者である。
原発の放射能禍は恐ろしい。多くの国民の命や暮らし、国土さえ奪い去る。
発電に使った核燃料のごみは手つかずのまま増える一方だ。
将来の世代につけを回す負の遺産はあまりにも大きい。
こんな厄介な原発の取り扱いが国と電力会社、立地先自治体のみのさじ加減に委ねられている。
国民を欺いてきた安全神話は崩壊したが、閉鎖的な仕組みは相変わらず温存されている。
東電の再建に向けた総合特別事業計画には、
新潟県にある柏崎刈羽原発を二〇一三年度に再稼働させる方針が盛り込まれている。
国はゴーサインを出した。またも国民は蚊帳の外に置かれた。
原子力政策は国家の命運を左右する。原発事故でそれがはっきりした。
市民団体が求める住民投票は、いわば“原子力ムラ”が独占している政策を国民の手に取り戻そうとする試みでもある。
首都東京は、福島県や新潟県などの地方に原発を押しつけ、その電力を大量に消費して繁栄を築いてきた。
東京都は東電の大株主でもある。もはや都民は原発に対して無関心でいてはいけない。
住民投票が実現すれば、一人ひとりが問題意識をしっかりと持ち、意思を示す。
その代わり結果について責任を負う覚悟が求められる。法的拘束力はないが、歴史を見れば民意は重い。
福井県にある関西電力大飯原発の再稼働に対し、大阪府や京都府、滋賀県などの関西の周辺自治体は慎重な姿勢だ。
だが、政治的駆け引きで原発の取り扱いが決まらないかと不安の声も出ている。
地域ごとに住民の思いを真摯(しんし)にすくい取る努力が大切だ。住民投票の機会を全国各地に広げたい。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
この社説の10日ほど前の同紙の社説も転載します。
週のはじめに考える それでも原子力か 2012年4月30日
どうしても原子力か、という問いがかつて発せられていました。
ある物理学者の問いです。今もなお、それでも原子力か、とやはり問わねばなりません。
手元に一冊の本がある。
武谷三男(たけたにみつお)編「原子力発電」(岩波新書)で、一九七六(昭和五十一)年第一刷発行。
日本の商業用原子炉が本格稼働し始めたころで、経済的な軽水炉時代の幕開けといわれたものです。
編者の武谷は福岡県出身、京大物理学科卒の一物理学者です。
素粒子モデルで世界的に知られる坂田昌一らと研究し、それと同時にビキニ水爆死の灰事件や原子力について発言してきました。
◆物理学者武谷の警告
本を開くと、被爆国日本の物理学者が研究に誇りをもちつつも、いかに悩んできたのかがわかります。
武谷は広島で被爆者への聞き取りを重ねています。科学の現実を知ろうとする学者なのです。
本は原子炉の仕組みに始まり、続けて、その無数の配管が高温高圧の蒸気に耐えられず肉厚が薄くなることや、腐食、疲労の危険性を指摘します。
人間のミスも取り上げている。例えば試運転中の玄海原発1号機で放射能レベルが上がった。調べたら、炉内に鋼鉄製巻き尺の置き忘れがあり、それが蒸気発生器の細管を傷付けていた。
だがそれはむしろ幸運な方で、もし炉心側に飛び込んでいたら大事故になっただろう、と述べている。
人間の不注意を責めているのではありません。
原発ではささいなミスがとんでもない惨事に結びつきかねないと言っているのです。
原発の立地集中化についても当時から心配していました。
日本では人口密度が高く適地がなかなか見つからない。
とはいえ、日本ほどの集中例は少なく、地域住民にとってこれほどひどいことはない、とも述べています。
◆昔も今も変わらない
さらに大物の学者が原子力推進計画に乗って、政府から多額の研究費を得ようとしたという、学者の弱みも明かしています。
四十年近くも前の、今と何と似ていることでしょう。何だ変わっていないじゃないかというのが大方の実感ではないでしょうか。
それらを列挙したうえで、武谷は「どうしても原子力か」という力を込めた問いを発しています。
彼はノーベル賞物理学者朝永振一郎らとともに、公開・民主・自主の三原則を原発の条件としています。
公開とは地元住民らによく分かる説明をすること。民主とは原発に懐疑的な学者を審査に参加させること。
自主はアメリカ主導でなく日本の自主開発であることです。
それらの不十分さは福島の事故前はもちろん、事故後の今ですらそう思わざるをえないことが残念ながら多いのです。
加えて今は地震の知見が増えました。危険性は明らかです。
本は二十刷をこえています。しずかに、しかしよく読み継がれてきたというところでしょうか。
ではその長い年月の間、日本はどう変わってきたのか。
世界を驚かせるほどの経済成長を遂げたけれど、中身はどうだったか。
欧州では、持続可能性という新しい概念が提出されました。
資源と消費の均衡、また環境という新しい価値に目を向けたのです。
大きな工場は暮らしを豊かにしたけれど、排出する汚染物質は酸性雨となり、森を枯らし、川の魚を死なせたのです。
放射能の恐怖もありました。東西冷戦で核搭載型ミサイルが配備され、チェルノブイリ原発のちりは現実に降ってきたのです。
欧州人同様、私たち日本人ももちろん考えてきました。
水俣病をはじめとする公害は国民的自省を求めました。
しかし原子力について、私たちは過去あまりにも楽観的で(欧州もまた同様でしたが)警戒心を欠いてきました。
放射能汚染はただの公害ではなくて大地を死なせ、人には長い健康不安を与えるのです。
原子力の研究はもちろん必要です。医療やアイソトープ、核物質の扱い方は核廃棄物処理でも必要な知識です。
その半面、核物質が大量に放出されれば、人類を永続的に脅かすのです。
◆核を制御できるのか
だからこそ「どうしても原子力か」という問いの重さを考え直したいのです。
物理学者らには原爆をつくってしまったという倫理的罪悪感があるでしょう。
人類が果たして核をよく統御、制御できるのかという問いもあります。
被爆国であり技術立国である日本は、その問いにしっかりと答えるべきです。大きく言えば人類の未来にかかわることなのです。
新エネルギー開発や暮らしの見直しは、実は歴史を書き換えるような大事業なのです。そういう重大な岐路に私たちはいるのです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
NHKスペシャルの内容です(NHKオンラインからコピー)。
シリーズ東日本大震災
原発の安全とは何か ~模索する世界と日本~
2012年5月19日(土)
午後9時30分~10時19分総合
災害
日本だけでなく、世界にも大きな衝撃を与えた東京電力・福島第一原発事故。原発を持つ国々では、現在も、原発の安全性をどう確保するか、事故からどんな教訓をくみ取るべきなのか、詳細な分析が行われ、議論が交わされている。
アメリカでは、NRC(原子力規制委員会)が事故を徹底分析し、「米国でも起きうるか?」を検証。政府が「原発推進」を掲げる中、今も、安全対策・規制を巡って激しい議論を戦わせている。
一方、EU各国も緊急の“シビアアクシデント対策”に乗り出している。
スイスは「フクシマの教訓」というリポートをいち早く公表し、事故から1年も経たない内に数々の“安全対策”を実行している。
事故が起きた日本では、原子力安全・保安院が、福島の教訓をまとめた新たな“30項目の対策”を公表する一方で、その一部を新たな安全基準と定め、安全性を審査し、原発の運転再開を目指している。
福島第一原発事故を世界はどう受け止めたのか。日本はどうなのか。世界の最新動向を伝えると共に日本の進むべき道を探る。
[以下は担当の記者の感想です]同じくNHKオンラインから
私はNHKで原子力分野を担当する科学文化部の記者の一人として、原発の取材に取り組んできましたが、福島第一原発の事故は私にとっても「原発に100%の安全はない」という事実を突きつけ、それまで「安全」対策や「安全」規制などと日常的に使っていた「安全」という言葉の意味を改めて考える重大な契機になりました。
何をもって「安全」とするかは国の事情によっても異なります。
番組で取材したアメリカでは、情報公開によって原発のリスクを共有することで、国が考える「安全」に社会的な合意を得ようとしていました。
一方スイスでは、経済性を度外視した安全対策を重ねてリスクをゼロに近づけようと努力を続けていますが、それでも脱原発を決めました。
では、日本にとって原発の安全とは何か。番組スタッフの間でも繰り返し議論をしましたが、さまざまな考えがあり、ひとつにはまとまっていません。
ただ私は、今回の取材を通じて、安全かどうかを決めるのは専門家ではなく、社会が原発を受け入れるかどうかで決まるのではないかと考えています。
放送後の反響もさまざまで、日本の社会が原発を受け入れるかどうかは非常に難しい問題になっていると感じます。
私はこれからも原発の安全とは何かを問い続けていく考えです。
記者 大崎要一郎