越前国府探訪 前編
文殊山を降りてまだ陽も高いので、越前市へ。
平成17(2005)年10月、平成の大合併で今立町と合併して越前市となったが、
福井県民には旧市名の武生(たけふ)の方が通りが良い。
これは平安時代に流行った催馬楽(さいばら)という古代歌謡の中で、
太介不(たけふ)として詠われたことに因み、明治2(1869)年に府中から改称。
府中、つまり越前国府が奈良時代から中世にかけてこの地に置かれ、越前の政治・経済・文化の中心として栄え、近世になって越前の中心が北ノ庄(福井)に移っても、府中と呼ばれていた。
国府が置かれていた名残りとして、中心部に国府(こくふ)や
府中(ふちゅう)といった地名が残る。
府中の北にある福井鉄道の北府駅(きたごえき)
北府と書いて”きたご”と読み、これも国府に因む地名。
北国府(きたこう)が”きたごう”に訛り、その後”国”が取れて”きたご”に転じたとされる。
越前国のはっきりとした成立年は不明だが、遅くとも持統3(689)~同6(692)年頃までには成立したとされる。
大化の改新以前は高志(越)国(こしのくに)と呼ばれ、現在の福井県、石川県、富山県、新潟県、山形県の一部を含む広大な国だったが、令制国への移行に際して、高志道前(こしのみちのくち)・高志道中(こしのみちのなか)・高志道後(こしのみちのしり)の3国に分立。
前述の見知乃久知(みちのくち)は、”〇前”と呼ばれた旧国名の”前”の部分にあたり、越前国が”古之乃(こしの)見知乃久知”、備前国が”岐比(きび)之美知乃久知”、筑前国が”筑紫(つくし)之三知乃久知”、肥前国が”比(ひ)之三知乃久知”、豊前国が”止与久迩(とよくに)之美知乃久知”と称された。
やがて”道”が省略されて、高志前・高志中・高志後とも表記され、大宝4(704)年に国司が使う国印が鋳造された際に、高志を越に変えて越前・越中・越後の漢字2文字の表記になった。
日本の地名に2文字が多いのはこの時代の名残で、それまでの国名や郡名などには大和言葉に漢字を当てたものが多く、古之乃見知乃久知のように8字にも及ぶ長い地名や当てられた字もバラバラだったので、中国(唐)に倣って漢字2文字に統一しようとし、和銅6(713)年には諸国郡郷名著好字令(好字二字令)が発布された。
例えば3文字だった近淡海国(ちかつあはうみ)、遠淡海国(とほつあはうみ)は近江国、遠江国へ、1文字だった泉国(いずみのくに)、津国(つのくに)、木国(きのくに)なども、和泉国、摂津国、紀伊国と強制的に2文字に改称された。
幸町にあるまちなか来街者専用駐車場を利用。
3時間まで無料で駐車できる。
智光山本興寺(ほんこうじ) 越前市国府1丁目4-13
法華宗真門流三本山の1つで、元々は真言宗の興隆寺だったが、延穂元(1489)年に改宗。
境内に塔頭五ヶ寺を有する大寺で、国衙(こくが)跡とされる説も。
国衙とは国司が政務を行なう役所群で、国衙など重要な施設を集めた都市域が国府。
国府地籍内にあり、条里制の基準線などから国衙跡と推定される。
越前国府があった丹生郡(※)では、下記地形分類図①のように条里制基準線が規定され、南北・東西の基準線の交点付近に国府が設置されたと推定される。
※中世以降は南条郡となるが、この当時は丹生郡に属していた。
地形分類図①
※地理院地図に等高線データを色分けして作成。
東西基準線は標高約30mのラインとほぼ一致し、これより北側はかつて縄文海進により古九頭竜湾だったとされる低地が続く。
また南北基準線は日野川(叔羅川)の左岸ラインに沿っており、基準線の東側エリアは氾濫原だったと思われる。
本興寺境内にある紫式部ゆかりの紅梅。
長徳2(996)年、紫式部(当時18歳もしくは26歳)は越前国司(越前守)となった父藤原為時に随伴し、約2年間越前国府に滞在した。
説明板によると、式部が越前を去る際に植えた梅とされ、当初は白梅だったが、
式部没後に娘の大弐三位藤原賢子(だいにさんみふじわらのかたいこ)が母を偲んで紅梅に植え替えたとされる。
いつ頃、太介不(たけふ)に国府が置かれるようになったのか?
天平3(731)年に中央に提出された越前国郡稲帳(えちぜんこくぐんとうちょう)に、国府が丹生郡にあったと窺える記述があり、遅くともこの頃までには国府が置かれていたと思われる。
しかし越前国ができたのは前述の通り、持統3(689)~同6(692)年頃とされ、その間約40年の開きがある。
越前国分立と同時に太介不に国府ができたのかというと、少し疑問が残る。
乙巳の変(いっしのへん)を機に、大化の改新と呼ばれる一連の政治改革が行われ、中央集権化が進むも、畿内から先の東日本では、国造(くにのみやつこ)と呼ばれていた地方豪族たちが依然として勢力を保っており、壬申の乱(672年)では吉野から一旦東に逃れた大海人皇子(のちの天武天皇)が東山道(不破)を封鎖し、中央政府と東国豪族間の情報伝達を遮断。
尾張氏の助力を得て大友皇子(弘文天皇)を撃破し、翌年即位する。
この時の戦訓から、天武天皇2(673)年に畿内と東国との緩衝地帯であった近江国境に接する三関(さんげん)を設置する。
三関とは、東山道の不破(ふわ)関(美濃国)、東海道の鈴鹿関(伊勢国)、北陸道の愛発(あらち)関(越前国)で、天皇の崩御や政変など政情不安の際、固関使(こげんし)が派遣され各関が閉鎖(=固関)された。
これは三関固守と呼ばれ、中央で非常事態が発生した折に、その機に乗じて東国から畿内へ侵入する勢力を食い止めたり、謀反者が畿内から東国に逃亡するのを防ぐためであり、各関のある国司の重要な任務の1つだった。
三関が最初に固関されたのは、養老5(722)年に元明上皇が崩御された際で、その後も天皇の崩御や長屋王の変などの政変の際に固関された。
愛発関が最も有名になったのが藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で、仲麻呂が越前国司だった息子の藤原辛加知(ふじわらのしかち)の元に逃れようとするも、先回りした討伐軍が事変を知らぬ辛加知を斬り、愛発関を閉鎖。仲麻呂は行く手を遮られ、討ち取られてしまう。
愛発関の比定地には、現在R8とR161が合流し、愛発小学校がある敦賀市の疋田(ひきた)周辺、近江国から黒河峠(くろことうげ)を通って敦賀に至るルート、若狭国から越前国に至る関峠(せきとうげ)付近などがあるが、特定はされていない。
ちなみにこの”愛発”、どう読んでも”あらち”とは読めないが、これも前述の諸国郡郷名著好字令によって、荒血(あらち)だった地名が好字二字の愛発に置き換えられた。
余談だが、荒血の由来については義経記(ぎけいき)の”愛発山のこと”の中で、判官(=義経)と弁慶の会話の中で登場する。
白山の女神として有名な白山比咩神(しらやまひめのかみ=菊理媛神(くくりひめのかみ))が、志賀(=滋賀)の唐崎明神に見初められてその子を宿し、出産のため郷里の加賀に戻る途中、越前に入った辺りの山で産気づき出産。お産の際に荒(新)血が流れたことから、その山を荒血山と呼ばれるようになり、後に愛発山となったとされる。
愛発山がどこか比定されていないが、恐らく赤坂山(824m)から岩籠山(725m)にかけての野坂山地かと思われる。
またその際生まれた御子が佐羅皇子で、猿田彦と同一だとする説も。
いずれにしろ三関が設置された当時(673年頃)、越前国はまだ分立(689~692年)しておらず、畿内を守る重要な施設で越前国司が管轄する愛発関は、国府の近くに置かれたと思われる。
各関から国府までの距離を比較してみると、鈴鹿関から伊勢国府(鈴鹿市広瀬町)までが約10km、不破関から美濃国府(垂井町府中)までが約8kmと至近なのに対し、もし愛発関設置当初から太介不に国府があったとすると、その距離なんと約35km!
しかも途中には、万葉集でかへる山(=帰山)と歌われた険しい木ノ芽山地が立ちはだかっているため、有事の際、国司が直接指揮を執ろうとしたり、兵員を遣わそうとしてもかなりの時間と労苦を伴う。
敦賀(角鹿)は太古より大陸への玄関口であり、神功皇后がこの地から熊襲征伐に出陣したとされ、越前国一宮の氣比神宮もある。
敦賀に国府が所在したとする文献や遺跡は見つかってないが、日本書紀には持統天皇6(692)年に越前国司が角鹿(敦賀)郡の浜で獲った白蛾を献上したとする記述があり、分立前の高志(越)国や越前国分立後のしばらくの期間、敦賀に国府、もしくは国府に準ずる施設が置かれたと考えるのが自然ではないだろうか?
個人的には氣比神宮から手筒山にかけての一帯にあったのではないかと思っている。
では、太介不(たけふ)が新(国)府に選ばれた理由とは?
敦賀は越前国の南端に位置し、当時は石川県全域(能登・加賀)を含む広大な国だったため、領内統治の観点から言えば目の行き届かぬ箇所も多かったことは容易に想像できる。
事実、養老2(718)年に能登国、弘仁14(823)年に加賀国がそれぞれ越前国から分立するが、その際の理由は、国府から遠過ぎて国司、領民共々不便だからだった。
領内統治と愛発関管理のバランスを取る場所として、能登国分立前後の養老年間頃に、太介不に新(国)府が建設されたのではないだろうか。
またそれだけでなく、地形上の理由からも太介不が選ばれたと考えられる。
縄文海進時の越前想定図
※地理院地図に等高線データを色分けして作成。
縄文時代には縄文海進により海岸線が内陸側に入り込んでおり、福井平野の大部分は古九頭竜湾と呼ばれる海中にあったとされている。
弥生期に入り海岸線が後退し、足羽三川(九頭竜川、足羽川、日野川)の扇状地堆積作用で福井平野の陸地化が進むが、まだまだ低湿地が多く、古墳期に高志(越)を治めた大王たちの墳墓は東側の山上に集中している。
時代が下り飛鳥時代頃には、より陸地化が進んでいたと思われるが、福井平野の大部分は現在でも標高20m以下の低地で、治水技術が未発達の当時はひとたび洪水に見舞われると水没しかねない場所だったと考えられる。
上記の縄文海進時の越前想定図の中で、水害に遇いにくい高台で、国府が築けるような広い土地で、しかも水陸共に交通の便が良い場所と言えば、1つしかない。
そう、それが太介不だったのだ。
地形分類図②
※地理院地図に等高線データを色分けして作成。
標高30m以上の扇状地が広がり、北側の福井平野より一段高く、洪水の心配が少ない。
しかも三方を標高500m以上の山々に囲まれたまさに天然の要害で、いまだ恐怖を拭い切れない蝦夷(えみし)の侵攻を迎え討つには絶好の場所。
さらに南北に北国街道が通っており、すぐ近くには叔羅川(日野川)があり、交通・水利の便も満たしている。
ちなみに叔羅川(しくらがわ)は日野川の古名で、大伴家持が歌に詠んでいる。
(万葉集巻19-4190)
また太介不は、四神相応の地として選ばれたとする説も。
四神相応とは、大地の四方の方角を司る四神(四禽)の存在に最もふさわしいと、伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。
有名なのは平安京の四神相応で、山川道澤という4つの地勢に当てはまった都市計画がなされたとされる。
太介不は南を除く3方向が適応し、しかも玄武は共に船岡山という同名の山があり、一見ほぼ平安京の四神相応を踏襲しているかに思えるが、太介不に国府が造られたのは養老年間(717~724年)頃とされるので、794年に遷都された平安京を真似ることはあり得ない。
一方、太介不に国府が造られる前に造営されたと思われる平城京(710年)も、青龍の佐保川や白虎の生駒越は首を傾げるところもあり、厳密には山川道澤説通りではない。
元々山川道澤説は、平安京遷都からかなり時間を経た平安後期に後付けで唱えられたとされ、太介不や平城京と合致しない箇所があるのも当然とされる。
むしろ元明天皇が和銅元(708)年に出した平城京建都の詔勅では、
「方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しずめ)を作(な)し、亀筮(ぎぜい)並に従ふ」
(平城京の地は四禽図に叶い、三方山地に囲まれた平安な地であるとの占いに従った)
と記されており、この三山鎮という考え方が重要視されていた。
藤原京や平城京と比べると南北が入れ替わるが、まさしく三山鎮の地勢で、当時先進だった都市計画が施され、風水に守られた国府最適地だったと思われる。
普段登っている里山が、実は国府を守る三山鎮だったと思うと、感慨深いモノがある。
越前国府関連年表
本興寺前のこの道は旧北陸街道。
江戸時代には福井藩家老だった本多氏が治めた城下町で、
越前松平家の陪臣だったが、参勤交代や将軍拝謁が許される大名並の扱いだった。
旧街道沿いには歴史を感じさせる商家や古民家が立ち並んでいる。
札の辻
江戸時代、幕府による禁制札を掲示した高札場。市街地の中心にあることから札の辻と呼ばれるようになった。
蔵の辻
かつて関西と北陸の物流の中継点として、この一帯には商人の白壁造の土蔵が立ち並んでおり、近くにある札の辻に肖って蔵の辻と呼ばれている。
現在土蔵はオシャレなカフェや小物屋さんなどとして有効活用されている。
長くなったので後編に続く・・・
※レポ作成には「武生市史編さんだより第30号」を参照させていただきました。
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平成17(2005)年10月、平成の大合併で今立町と合併して越前市となったが、
福井県民には旧市名の武生(たけふ)の方が通りが良い。
これは平安時代に流行った催馬楽(さいばら)という古代歌謡の中で、
みちのくち | たけふのこふに | |
見知乃久知 | | 太介不乃己不尓 |
太介不(たけふ)として詠われたことに因み、明治2(1869)年に府中から改称。
府中、つまり越前国府が奈良時代から中世にかけてこの地に置かれ、越前の政治・経済・文化の中心として栄え、近世になって越前の中心が北ノ庄(福井)に移っても、府中と呼ばれていた。
国府が置かれていた名残りとして、中心部に国府(こくふ)や
府中(ふちゅう)といった地名が残る。
府中の北にある福井鉄道の北府駅(きたごえき)
北府と書いて”きたご”と読み、これも国府に因む地名。
北国府(きたこう)が”きたごう”に訛り、その後”国”が取れて”きたご”に転じたとされる。
越前国のはっきりとした成立年は不明だが、遅くとも持統3(689)~同6(692)年頃までには成立したとされる。
大化の改新以前は高志(越)国(こしのくに)と呼ばれ、現在の福井県、石川県、富山県、新潟県、山形県の一部を含む広大な国だったが、令制国への移行に際して、高志道前(こしのみちのくち)・高志道中(こしのみちのなか)・高志道後(こしのみちのしり)の3国に分立。
前述の見知乃久知(みちのくち)は、”〇前”と呼ばれた旧国名の”前”の部分にあたり、越前国が”古之乃(こしの)見知乃久知”、備前国が”岐比(きび)之美知乃久知”、筑前国が”筑紫(つくし)之三知乃久知”、肥前国が”比(ひ)之三知乃久知”、豊前国が”止与久迩(とよくに)之美知乃久知”と称された。
やがて”道”が省略されて、高志前・高志中・高志後とも表記され、大宝4(704)年に国司が使う国印が鋳造された際に、高志を越に変えて越前・越中・越後の漢字2文字の表記になった。
日本の地名に2文字が多いのはこの時代の名残で、それまでの国名や郡名などには大和言葉に漢字を当てたものが多く、古之乃見知乃久知のように8字にも及ぶ長い地名や当てられた字もバラバラだったので、中国(唐)に倣って漢字2文字に統一しようとし、和銅6(713)年には諸国郡郷名著好字令(好字二字令)が発布された。
例えば3文字だった近淡海国(ちかつあはうみ)、遠淡海国(とほつあはうみ)は近江国、遠江国へ、1文字だった泉国(いずみのくに)、津国(つのくに)、木国(きのくに)なども、和泉国、摂津国、紀伊国と強制的に2文字に改称された。
幸町にあるまちなか来街者専用駐車場を利用。
3時間まで無料で駐車できる。
智光山本興寺(ほんこうじ) 越前市国府1丁目4-13
法華宗真門流三本山の1つで、元々は真言宗の興隆寺だったが、延穂元(1489)年に改宗。
境内に塔頭五ヶ寺を有する大寺で、国衙(こくが)跡とされる説も。
国衙とは国司が政務を行なう役所群で、国衙など重要な施設を集めた都市域が国府。
国府地籍内にあり、条里制の基準線などから国衙跡と推定される。
越前国府があった丹生郡(※)では、下記地形分類図①のように条里制基準線が規定され、南北・東西の基準線の交点付近に国府が設置されたと推定される。
※中世以降は南条郡となるが、この当時は丹生郡に属していた。
地形分類図①
※地理院地図に等高線データを色分けして作成。
東西基準線は標高約30mのラインとほぼ一致し、これより北側はかつて縄文海進により古九頭竜湾だったとされる低地が続く。
また南北基準線は日野川(叔羅川)の左岸ラインに沿っており、基準線の東側エリアは氾濫原だったと思われる。
本興寺境内にある紫式部ゆかりの紅梅。
長徳2(996)年、紫式部(当時18歳もしくは26歳)は越前国司(越前守)となった父藤原為時に随伴し、約2年間越前国府に滞在した。
説明板によると、式部が越前を去る際に植えた梅とされ、当初は白梅だったが、
式部没後に娘の大弐三位藤原賢子(だいにさんみふじわらのかたいこ)が母を偲んで紅梅に植え替えたとされる。
いつ頃、太介不(たけふ)に国府が置かれるようになったのか?
天平3(731)年に中央に提出された越前国郡稲帳(えちぜんこくぐんとうちょう)に、国府が丹生郡にあったと窺える記述があり、遅くともこの頃までには国府が置かれていたと思われる。
しかし越前国ができたのは前述の通り、持統3(689)~同6(692)年頃とされ、その間約40年の開きがある。
越前国分立と同時に太介不に国府ができたのかというと、少し疑問が残る。
乙巳の変(いっしのへん)を機に、大化の改新と呼ばれる一連の政治改革が行われ、中央集権化が進むも、畿内から先の東日本では、国造(くにのみやつこ)と呼ばれていた地方豪族たちが依然として勢力を保っており、壬申の乱(672年)では吉野から一旦東に逃れた大海人皇子(のちの天武天皇)が東山道(不破)を封鎖し、中央政府と東国豪族間の情報伝達を遮断。
尾張氏の助力を得て大友皇子(弘文天皇)を撃破し、翌年即位する。
この時の戦訓から、天武天皇2(673)年に畿内と東国との緩衝地帯であった近江国境に接する三関(さんげん)を設置する。
三関とは、東山道の不破(ふわ)関(美濃国)、東海道の鈴鹿関(伊勢国)、北陸道の愛発(あらち)関(越前国)で、天皇の崩御や政変など政情不安の際、固関使(こげんし)が派遣され各関が閉鎖(=固関)された。
これは三関固守と呼ばれ、中央で非常事態が発生した折に、その機に乗じて東国から畿内へ侵入する勢力を食い止めたり、謀反者が畿内から東国に逃亡するのを防ぐためであり、各関のある国司の重要な任務の1つだった。
三関が最初に固関されたのは、養老5(722)年に元明上皇が崩御された際で、その後も天皇の崩御や長屋王の変などの政変の際に固関された。
愛発関が最も有名になったのが藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で、仲麻呂が越前国司だった息子の藤原辛加知(ふじわらのしかち)の元に逃れようとするも、先回りした討伐軍が事変を知らぬ辛加知を斬り、愛発関を閉鎖。仲麻呂は行く手を遮られ、討ち取られてしまう。
愛発関の比定地には、現在R8とR161が合流し、愛発小学校がある敦賀市の疋田(ひきた)周辺、近江国から黒河峠(くろことうげ)を通って敦賀に至るルート、若狭国から越前国に至る関峠(せきとうげ)付近などがあるが、特定はされていない。
ちなみにこの”愛発”、どう読んでも”あらち”とは読めないが、これも前述の諸国郡郷名著好字令によって、荒血(あらち)だった地名が好字二字の愛発に置き換えられた。
余談だが、荒血の由来については義経記(ぎけいき)の”愛発山のこと”の中で、判官(=義経)と弁慶の会話の中で登場する。
白山の女神として有名な白山比咩神(しらやまひめのかみ=菊理媛神(くくりひめのかみ))が、志賀(=滋賀)の唐崎明神に見初められてその子を宿し、出産のため郷里の加賀に戻る途中、越前に入った辺りの山で産気づき出産。お産の際に荒(新)血が流れたことから、その山を荒血山と呼ばれるようになり、後に愛発山となったとされる。
愛発山がどこか比定されていないが、恐らく赤坂山(824m)から岩籠山(725m)にかけての野坂山地かと思われる。
またその際生まれた御子が佐羅皇子で、猿田彦と同一だとする説も。
いずれにしろ三関が設置された当時(673年頃)、越前国はまだ分立(689~692年)しておらず、畿内を守る重要な施設で越前国司が管轄する愛発関は、国府の近くに置かれたと思われる。
各関から国府までの距離を比較してみると、鈴鹿関から伊勢国府(鈴鹿市広瀬町)までが約10km、不破関から美濃国府(垂井町府中)までが約8kmと至近なのに対し、もし愛発関設置当初から太介不に国府があったとすると、その距離なんと約35km!
しかも途中には、万葉集でかへる山(=帰山)と歌われた険しい木ノ芽山地が立ちはだかっているため、有事の際、国司が直接指揮を執ろうとしたり、兵員を遣わそうとしてもかなりの時間と労苦を伴う。
敦賀(角鹿)は太古より大陸への玄関口であり、神功皇后がこの地から熊襲征伐に出陣したとされ、越前国一宮の氣比神宮もある。
敦賀に国府が所在したとする文献や遺跡は見つかってないが、日本書紀には持統天皇6(692)年に越前国司が角鹿(敦賀)郡の浜で獲った白蛾を献上したとする記述があり、分立前の高志(越)国や越前国分立後のしばらくの期間、敦賀に国府、もしくは国府に準ずる施設が置かれたと考えるのが自然ではないだろうか?
個人的には氣比神宮から手筒山にかけての一帯にあったのではないかと思っている。
では、太介不(たけふ)が新(国)府に選ばれた理由とは?
敦賀は越前国の南端に位置し、当時は石川県全域(能登・加賀)を含む広大な国だったため、領内統治の観点から言えば目の行き届かぬ箇所も多かったことは容易に想像できる。
事実、養老2(718)年に能登国、弘仁14(823)年に加賀国がそれぞれ越前国から分立するが、その際の理由は、国府から遠過ぎて国司、領民共々不便だからだった。
領内統治と愛発関管理のバランスを取る場所として、能登国分立前後の養老年間頃に、太介不に新(国)府が建設されたのではないだろうか。
またそれだけでなく、地形上の理由からも太介不が選ばれたと考えられる。
縄文海進時の越前想定図
※地理院地図に等高線データを色分けして作成。
縄文時代には縄文海進により海岸線が内陸側に入り込んでおり、福井平野の大部分は古九頭竜湾と呼ばれる海中にあったとされている。
弥生期に入り海岸線が後退し、足羽三川(九頭竜川、足羽川、日野川)の扇状地堆積作用で福井平野の陸地化が進むが、まだまだ低湿地が多く、古墳期に高志(越)を治めた大王たちの墳墓は東側の山上に集中している。
時代が下り飛鳥時代頃には、より陸地化が進んでいたと思われるが、福井平野の大部分は現在でも標高20m以下の低地で、治水技術が未発達の当時はひとたび洪水に見舞われると水没しかねない場所だったと考えられる。
上記の縄文海進時の越前想定図の中で、水害に遇いにくい高台で、国府が築けるような広い土地で、しかも水陸共に交通の便が良い場所と言えば、1つしかない。
そう、それが太介不だったのだ。
地形分類図②
※地理院地図に等高線データを色分けして作成。
標高30m以上の扇状地が広がり、北側の福井平野より一段高く、洪水の心配が少ない。
しかも三方を標高500m以上の山々に囲まれたまさに天然の要害で、いまだ恐怖を拭い切れない蝦夷(えみし)の侵攻を迎え討つには絶好の場所。
さらに南北に北国街道が通っており、すぐ近くには叔羅川(日野川)があり、交通・水利の便も満たしている。
ちなみに叔羅川(しくらがわ)は日野川の古名で、大伴家持が歌に詠んでいる。
(万葉集巻19-4190)
叔羅川 瀬をたずねつつ 我が背子は 鵜川たたさね 情なぐさに |
(意味) |
叔羅川(日野川)に浅瀬を求めながら、親愛なる友よ、心を慰められるように、貴方(大伴池主)に贈るこの鵜で鵜飼をしなさい。 |
(背景) |
天平勝宝2(750)年4月9日に、越中守として高岡に赴任中の大伴家持が、友人で越前掾(じょう)として太介不に赴任中の大伴池主(おおとものいけぬし)に贈った歌。 |
※掾は国司四等官(守・介・掾・目)の三等官。 |
また太介不は、四神相応の地として選ばれたとする説も。
四神相応とは、大地の四方の方角を司る四神(四禽)の存在に最もふさわしいと、伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。
有名なのは平安京の四神相応で、山川道澤という4つの地勢に当てはまった都市計画がなされたとされる。
方位 | 四神 | 地勢 | 色 | 季節 | 平安京 | 平城京 | 太介不 |
北 | 玄武 | 丘陵(山) | 黒 | 冬 | 船岡山 | 平城山 | 船岡山 |
東 | 青龍 | 流水(川) | 青 | 春 | 鴨川 | 佐保川 | 日野川 |
西 | 白虎 | 大道(道) | 白 | 秋 | 山陰道 | 生駒越 | 北陸道 |
南 | 朱雀 | 湖沼(澤) | 朱 | 夏 | 巨椋池 | 五徳池 | 水田? |
太介不は南を除く3方向が適応し、しかも玄武は共に船岡山という同名の山があり、一見ほぼ平安京の四神相応を踏襲しているかに思えるが、太介不に国府が造られたのは養老年間(717~724年)頃とされるので、794年に遷都された平安京を真似ることはあり得ない。
一方、太介不に国府が造られる前に造営されたと思われる平城京(710年)も、青龍の佐保川や白虎の生駒越は首を傾げるところもあり、厳密には山川道澤説通りではない。
元々山川道澤説は、平安京遷都からかなり時間を経た平安後期に後付けで唱えられたとされ、太介不や平城京と合致しない箇所があるのも当然とされる。
むしろ元明天皇が和銅元(708)年に出した平城京建都の詔勅では、
「方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しずめ)を作(な)し、亀筮(ぎぜい)並に従ふ」
(平城京の地は四禽図に叶い、三方山地に囲まれた平安な地であるとの占いに従った)
と記されており、この三山鎮という考え方が重要視されていた。
北 | 東 | 西 | 南 | ||
藤原京 | 耳成山 | 香具山 | 畝傍山 | ||
平城京 | 平城(奈良)山 | 春日山 | 生駒山 | ||
平安京 | 貴船山 | 大文字山 | 嵐山・愛宕山 | ||
太介不 | (広囲) | 権現山(565m) | 鬼ヶ岳(533m) | 日野山(795m) | |
(狭囲) | 村国山(239m) | 茶臼山(135m) | 妙法寺山(235m) |
藤原京や平城京と比べると南北が入れ替わるが、まさしく三山鎮の地勢で、当時先進だった都市計画が施され、風水に守られた国府最適地だったと思われる。
普段登っている里山が、実は国府を守る三山鎮だったと思うと、感慨深いモノがある。
越前国府関連年表
西暦 | 元号 | 関連する出来事 |
645年 | 大化元年 | 大化の改新 |
672年 | 天武天皇元年 | 壬辰の乱 |
672~673年 | 天武天皇元~2年 | 三関(さんげん)設置 |
689~692年 | 持統天皇3~6年 | 越前国分立 |
692年 | 持統天皇6年 | 越前国司が中央に白蛾を献上(日本書紀) |
694年 | 持統天皇8年 | 藤原京遷都 |
701年 | 大宝元年 | 大宝律令制定 |
708年 | 和銅元年 | 高志連村君(こしのむらじむらきみ)が越前国司に任命 |
710年 | 和銅3年 | 藤原京から平城京へ遷都 |
713年 | 和銅6年 | 諸国郡郷名著好字令(好字二字令) |
718年 | 養老2年 | 越前国から能登国分立 |
722年 | 養老5年 | 元明上皇崩御に伴う初の固関(こげん) |
731年 | 天平3年 | 越前国郡稲帳に越前国府(丹生郡)記述 |
741年 | 天平13年 | 国分寺建立の詔 |
746年 | 天平18年 | 大伴家持の越中国司赴任 |
764年 | 天平宝字8年 | 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱により愛発関固関 |
784年 | 延暦3年 | 平城京から長岡京へ遷都 |
785年 | 延暦4年 | 早良親王廃太子、薨去 |
789年 | 延暦8年 | 三関停止 |
794年 | 延暦13年 | 平安京遷都 |
805年 | 延暦24年 | 御霊神社建立の詔 |
本興寺前のこの道は旧北陸街道。
江戸時代には福井藩家老だった本多氏が治めた城下町で、
越前松平家の陪臣だったが、参勤交代や将軍拝謁が許される大名並の扱いだった。
旧街道沿いには歴史を感じさせる商家や古民家が立ち並んでいる。
札の辻
江戸時代、幕府による禁制札を掲示した高札場。市街地の中心にあることから札の辻と呼ばれるようになった。
蔵の辻
かつて関西と北陸の物流の中継点として、この一帯には商人の白壁造の土蔵が立ち並んでおり、近くにある札の辻に肖って蔵の辻と呼ばれている。
現在土蔵はオシャレなカフェや小物屋さんなどとして有効活用されている。
長くなったので後編に続く・・・
※レポ作成には「武生市史編さんだより第30号」を参照させていただきました。
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