越前国府探訪 後編

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Byよっし~

旧武生市街越前国府所縁の地を探訪したレポの後編です。
前編では太介不(たけふ)の地に、いつ頃、どんな理由で国府が置かれたのか、地理的、地政学的に検証してきた。
後編では国分寺総(總)社といった国府にはなくてはならないスポットに訪れてみよう。

蔵の辻を抜けて、総社大神宮方面へ。
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歩き疲れて、なんかお腹が空いてきたな…
よっし~の荒魂である大喰主命(おおくいぬしのみこと)が今にも暴れそうな勢いで、急いで鎮めないと祟る恐れがある(笑)
 
ヨコガワ分店
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”祓いたまえ 清めたまえ 腹いっぱいに~”と、祝詞をあげながら緊急避難(笑)
総社の参道沿いにあり、武生の方なら知らない人がいないほど有名なお店で、過去にも何度か訪れたことがある。

大喰主命を呼び起こしてしまった、愛らしいイラストのタペストリー(笑)
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武生が誇るB級グルメのボルガライス発祥のお店としても有名。
かつては初代ご主人が修業された本店もあったが、現在は閉店されてしまったそうだ。

越前市出身の漫画家池上遼一氏監修のPRポスター。
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”武生に来たらボルガライス”ということで、もちろん注文。

ボルガライス大盛(1,130円)
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ボルガライスの由来は諸説あるが、確か以前ヨコガワさんで伺ったのは、イタリアのボルガーナ(ボルガ)地方の郷土料理に似ているからという説。

オムライストンカツをのせ、デミグラスソースがかけられているのが一般的だが、
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チキンライスがチャーハンやピラフだったり、ソースがトマトソースや中華風あんかけだったりと明確な規定はない。

ヨコガワさんのはケチャップが色付け程度で、キツ過ぎない塩梅。
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これはおやつですがなにか。

ようやく大喰主命が鎮まったので、総社大神宮へ。
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扁額(へんがく)の題字は、日本海海戦で有名な東郷平八郎元帥。
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総社大神宮 越前市京町1-4-35
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本殿は流造、拝殿は入母屋造で、向拝は千鳥破風をのせた軒唐破風(のきからはふ)

先月訪れた能登国總社の時も触れたが、国司にとって最重要業務は祭祀であり、
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神々の怒りによる災厄を起こさせないよう、領国内の主要な神社を決められた順番で、年に何回か巡拝する職務(部内巡行)があったが、時代を経るにつれおろそかになることが増えたため、主要神社の祭神を国府近くに合祀する總社(惣社)という制度が作り出された。

総社大神宮には主祭神の大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)を始め、
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宗像三女神(田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命)、少彦名命(すくなびこな)、事代主命(ことしろぬしのかみ)などの国津神に加え、越前国内の官社126座も合祀。
更には別天津神の天常立尊(あめのとこたちのみこと)、神世七代の国常立尊(くにのとこたちのみこと)、皇祖神の天照皇大神などの天津神も祀られており、かなり賑やかご様子。
※神名は日本書紀での表記に統一。

もちろん、大喰主命も合祀されています(大ウソ)
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しかしなぜか、越前一宮(氣比神宮)気比大神(=伊奢沙別命(いざさわけのみこと))、二宮(劔神社)素戔男尊が明記されておらず、その他諸々(越前国中官社)の中に含まれているのは、もしかすると大人の論理(商売敵?)が働いているのかも(笑)

拝殿には今年の干支の愛らしいイノシシくん(笑)
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残念なのが、拝殿に横文字のブランド名が入ったスピーカーが設置されていたこと。
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恐らく火災避難用のモノだろうが、金文字でかなり目立っており、チョッと興ざめだった。

当初からこの地にあったのではなく、天正4(1576)年頃に移されたと謂われる。
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府中三人衆(不破光治・佐々成政)の1人前田利家府中城を築城しようとした際、縄張りが社地にかかるため、神威を怖れて現在の地に移転させ、社殿を寄進したとされる。

府中城は現在の越前市役所付近にあったことが社伝や発掘等で判明しており、
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総社も元々はこの付近のどこかにあったものとされる。

続いて向かったのが、総社大神宮から石畳の細い路を挟んだ北隣にある
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国分寺
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天平13(741)年に聖武天皇により国分寺建立の詔を出され、以後各令制国の国府付近に国分(僧)寺国分尼寺が建てられる。

しかし越前国国分寺は創建地不明で、近世にこの地に移転したとされる。
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というのも国分寺建設地の選定には、下記の条件があったとされ

地形的条件
国華として仰ぎ見るのによい地形
②水害の憂いなく長久安穏の場
南面の土地

都市計画的条件
④人家の雑踏から離れている
⑤人の集合するのに不便でなく、交通至便の地
⑥条里制区画の拘束を甘受すること

政治的条件
国府に近いところ

上記①~⑦の中で、太介不(たけふ)は大部分を満たすが、唯一満たさないのが、
④人家の雑踏から離れている

これは人家に近いと、騒音や悪臭などの生活公害が、神聖な国分寺に及ぶからだとされる。

また大国だった越前国の国分寺は国内屈指の規模だったはずで、
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先日訪れた能登国は国力が中国だったにもかかわらず、国分寺の規模は南北約210m東西約180m約2町四方(約4ha)にも及ぶ。

地形分類図③
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越前国府の範囲は東西、南北ともに約8町(約880m)程度と推定されており、面積は約8町四方(約64ha)
越前国分寺の寺域は不明だが、控えめに2.5町(約270m)四方だったと仮定しても約7.3haとなり、実に国府想定域の1/9にも及ぶ。

これだと国府内のどの場所に設置しても、人家の雑踏からは逃れることはできず、設置条件満たすことはできない。よしんば設置できたとしても、そんな巨大な国分寺が国府内にあったならば、中世、近世を経て何かしらの遺構や地名などが残っていてもおかしくないはずなのだが…

越前国分寺の創建地候補としては、大きく以下の3つの説がある。
所在距離標高
①深草廃寺跡深草1丁目(現龍泉寺境内)約600m約34m
②府中城跡幸町(旧越前市中央図書館付近)約200m約32m
③大虫廃寺跡大虫町(村田製作所一画)約2.4km約42m
※距離は国衙推定地を本興寺とした場合の距離。

①の深草廃寺跡とされる龍泉寺境内からは、2015年に7世紀後半北陸最古級とみられる寺院の柱穴列が出土している。
上記地形分類図③で示す国府想定域の西側に位置し、国衙推定地からの距離も約600mと適度な間合いがあり、国分寺創建地だった可能性大だが、国分寺建立の詔(741年)が出された8世紀中頃には、廃寺になっていたともされ、国分寺だったのはちょっと分が悪い

②の府中城跡とされ、越前市役所に隣接する旧越前市中央図書館跡からは、1996年に「国大寺」「国寺」「大寺」「足羽」などと書かれた墨書土器に混じって、篠尾廃寺(しのおはいじ)で出土したのと同じタイプの瓦が出土。
篠尾廃寺(福井市篠尾町)は、足羽(あすわ)郡の豪族生江氏(いくえ)が7世紀後半に創建したとされ、往時は法隆寺五重塔にも匹敵する高塔が建てられていたとされる大寺。

国分寺建立の詔(741年)が出されるも、国司の怠慢で多くの国で国分寺建設が滞り、痺れを切らした中央政府は、天平19(747)年国分寺造営督促の詔を出し、造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示している。

そして天平3(731)年越前国大税帳には、丹生郡主政(しゅせい)として生江氏の名前が見られ、しかも篠尾廃寺では8世紀後半新たな瓦が葺き替えられたことが発掘調査で判明している。※主政は郡司の四等官の3番目で、国司でいう掾(じょう)にあたる。

これらのことから郡司世襲というニンジンをぶら下げられた生江氏が、氏寺の篠尾廃寺と同じ瓦を使い、国分寺造営に勤しんだ証拠ではないかと思われ、時代もピッタリ符合する。

しかし府中城跡に創建時の国分寺があったとすると、国衙推定地の本興寺まで2町(約220m)ほどしかなく、あまりにも近過ぎる立地で、配置次第では国衙にかかってしまう恐れもある。
もっとも国衙跡が本興寺ではなく、もっと北や西にあれば問題ないが、いずれにしろ国衙からそれほど離れることはないので、前述の④人家の雑踏から離れているをクリアするのは難しい。

発掘調査が進めばより明確になるのだろうが、城下町だったこともあり、
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細い路地や住宅が密集しており、建て替え等がなければなかなか発掘調査することも儘ならない。

③の大虫廃寺跡については、少し離れているので後ほど。

総社大神宮、国分寺の近くにある井上歯科医院
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明治41(1908)年建築で、土蔵造りだが洋館風に左官仕上げされており、国の登録有形文化財

御霊神社(ごりょうじんじゃ) 越前市本多1丁目3-1
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地元では”御霊さん”と親しみを込めて呼ばれているが、実はかなりヘビーなスポット。

桓武天皇の弟の崇道天皇(すどうてんのう=早良親王(さわらしんのう))を祀る。
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※諡号は追称で、皇位継承した事実はないので歴代天皇には数えず。

桓武天皇の第1皇子、安殿親王(あてしんのう:のちの平城天皇)がまだ幼かったため、早良親王が立太子(皇嗣)していたが、延暦4(785)年の藤原種継暗殺事件に関与したとして、廃太子となり幽閉。早良親王は無実を訴えて断食し、淡路国に配流される途中に憤死した。

その後皇太子となった安殿親王がにかかったり、延暦7(788)年には桓武天皇夫人の藤原旅子(ふじわらのたびこ)、延暦9(790)年には同皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)、同後宮の坂上又子(さかのうえのまたこ)と立て続けに病死
疫病水害も起こり、これは早良親王の崇りだとして鎮魂の儀式が行なわれ、延暦19(800)年には崇道天皇と追称(諡号)される。

だがその後も凶事が続いたため、桓武天皇は延暦24(805)年に淡路国にあった墓を大和国に移して崇道天皇陵(八島陵)を造営し、諸国の国司に対し
崇道天皇のために小倉(=祠)を建て、正税四〇束を納め国忌(こくき)や奉幣(ほうへい)の例にならい、怨霊に謝するようにせよ」
と命じ、全国に御霊神社が建てられていったとされる。
※国忌…天皇の命日や定められた日に、政務を止めて仏事(追善供養)を行うこと。
※奉幣…天皇の命で幣帛(へいはく)を奉献すること。

早良親王が藤原種継暗殺事件に関与していたかどうかは不明だが、前年の延暦3(784)年に平城京から長岡京遷都が行なわれており、これは東大寺大安寺といった南都寺院勢力の影響力を排除するためでもあったが、親王は還俗する前に両寺院に属しており、遷都を阻止して再び南都に戻そうとする騒動に巻き込まれてしまったという見方がある一方、桓武天皇が自分の御子である安殿親王に皇位継承すべく、邪魔になる早良親王を廃する陰謀があったともされる。
なんか今の御時勢が少し似ている気もするんですが…

桓武天皇は教科書では平安京に遷都し、征夷大将軍坂上田村麻呂らに蝦夷を平定させた偉大な天皇というイメージがあるが、実はかなりダークな側面が強い。

生母(高野新笠)の出自が低かったため、当初立太子される可能性はかなり低かったが、父光仁天皇(天智天皇の孫)の皇后井上内親王(聖武天皇の娘)と異母弟で皇太子だった他戸親王(おさべしんのう)親子を、巫蠱(ふこ:人を呪う事)や厭魅大逆(えんみたいぎゃく:妖術で君主を呪う事)などの謂れのない罪を被せ、廃后廃太子させ、宝亀4(773)年に自らが皇太子となっている。
しかもそれだけで終わらず、伯母の難波内親王が薨去(64歳以上の高齢)したのも2人の呪詛だとし、正式な裁きもなく、僅か5日後に大和国宇智郡に幽閉され、2年後には両者が同日に没している(=暗殺)
これにより天武系皇統は完全に断絶し、ヤマト建国の王朝は終焉を迎え、天智系皇統、つまり藤原氏が実権を握る王朝となる。

異説だが、病死した桓武天皇皇后藤原乙牟漏や夫人藤原旅子の出身である藤原氏始祖の中臣(藤原)鎌足は、実は百済王子豊璋だったという説がある。
桓武天皇の母高野新笠(たかののにいがさ)も百済系渡来人の和氏(やまとうじ)の出身とされ、これらが全て事実とすると、現在まで続く皇統は渡来人の末裔たちに牛耳られてきたことになるのだが、この話はまた別の機会に…

またかなりの好色家で、皇后藤原乙牟漏を始め、后、夫人、女御、(後)宮人、女嬬(にょじゅ)など、分かっているだけでも26人の女性と関係を持っており、短期間に3人の后たちが病死したとしても単なる偶然だと思うのだが(笑)

奇しくも訪れたこの日は、年に1度の祭礼だった。
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本来の祭礼日は6月5・6日のようだが、休日の関係で今年は6月1・2日で開催。
また崇道天皇の国忌は10月7日。

参道では地元の方が焼き鳥遊戯などの出店を開いていた。
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”御霊さん”がある本当の理由を知らない子供たちが無邪気に遊んでいた。
君たちにはそんなこと関係ないか(笑)

しっかり参拝しないと、フォースの暗黒面に引き込まれます(大ウソ)
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崇道天皇だけでなく、他にも怨念を持つ方々が祀られている。
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孝謙天皇天武系最後の天皇在位中、藤原仲麻呂の変や宇佐八幡宮神託事件
藤原吉子桓武天皇夫人謀反の嫌疑で子伊豫親王と服毒自殺
藤原広嗣藤原式家の祖謀反の嫌疑で藤原広嗣の乱を起こし、処刑
菅原道真天神様・学問の神藤原時平の讒訴により太宰府に左遷され没
橘逸勢三筆の1人謀反の嫌疑で伊豆への配流中に病死
伊豫親王桓武天皇第3皇子謀反の嫌疑で母藤原吉子と服毒自殺
文室宮田麻呂従五位上・筑前守謀反の嫌疑で伊豆に配流され没

いっぱい怨念がおんねん

長岡京が僅か10年で廃都になったのは、案外崇道天皇天武系怨霊が怖くて、とても長岡京や平城京に居られなかったからだろう。
また苦労して皇太子とした安殿親王(平城天皇)が、のちに平城京に再遷都を図ろうとしたのも怨念の仕業なのかも…

車を停めたまちなか駐車場に戻ろう。
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武生公会堂記念館 越前市蓬莱町8-8
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幕末に藩校(立教館)があった場所で、昭和4(1929)年建設の旧武生町公会堂を活用した博物館。

1階は常設展(無料)で、縄文から近世に至る越前市の歴史を紹介。
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2階は企画展(有料)でこの日は準備中だった。次回は「極 池上遼一展」(7/5~9/1)だそうだ。

愉快な鬼瓦に見送られ、駐車場に戻る。
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最後に向かったのが大虫廃寺跡
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場所は越前市大虫町にある福井村田製作所武生事業所の一画。
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従業員用駐車場と最近完成した新工場の間にひっそりとある。
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大虫廃寺塔跡 県史跡 
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昭和41(1966)年の発掘調査で一辺約12mの基壇遺構が出土。

心礎石が発見されたことから、塔跡と推定される。
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付近からは地元(広瀬町)で焼成されたが大量に出土しており、分析の結果、7世紀後半から8世紀にかけて創建されたと判明。

地形分類図①
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工場ができる前(1959年)は一面田畑が広がる高台(標高約40m)で、国府のある太介不仰ぎ見ることも可能。
しかも開けた南側には後に馬借街道(ばしゃくかいどう)と呼ばれる街道が通っていた。
馬借街道は日本海沿いの河野から府中(太介不)を結ぶ約5里の道で、峠越えが標高250~260mと低いため、険しい木ノ芽峠(標高約628m)を越える北陸道(約11里)より負担が少なく、中世以降よく利用された。
この当時から馬借街道があったかは不明だが、恐らく既に通っていたと思う。

先に触れた国分寺選定条件と照らし合わせると、ほぼ一致
国華として仰ぎ見るのによい地形
水害の憂いなく長久安穏の場
南面の土地
人家の雑踏から離れている
⑤人の集合するのに不便でなく、交通至便の地
⑥条里制区画の拘束を甘受すること
国府に近いところ

唯一、⑦国府に近いところが、国府まで約2.4km離れており気になるところだが、他国の事例(美濃国約2.6km、伊勢国約7km)と比較しても全く問題ない

俄然、越前国分寺跡だったのでは?とされ、発掘調査が進んだが、
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残念ながら伽藍配置などのその他の遺構は発見されなかった。

しかし他の遺構が見つからなかったといって、廃寺から1200年以上経過しており、ここが国分寺だったことが完全に否定された訳ではないだろう。
むしろ個人的には府中城跡より、よっぽど国分寺に相応しい場所だと思うのだが。

天平勝宝2(750)年4月3日に、越中守大伴家持が、友人で越前掾(じょう)の大伴池主(おおとものいけぬし)に以下の2首の歌を贈っており、その内容からこの付近に池主の公邸あったともされる。(万葉集巻19-4178・4179霍公鳥歌)

吾れのみし 聞けば寂しも 霍公鳥 丹生の山辺に い行き鳴かにも
(意味)
私(大伴家持)一人だけで聞くのは寂しい。ほととぎすよ、あの方(大伴池主)がいる丹生の山辺に行って鳴いてくれ。
 
霍公鳥 夜鳴きをしつつ 吾が背子を 安寐な寝しめ ゆめ心あれ
(意味)
ほととぎすよ、夜どおし鳴いて、愛しいあの方(大伴池主)を決して安眠させるな。私(大伴家持)の気持ちを察してくれるように。
 
※丹生の山辺…鬼ヶ岳(533m:古名は丹生ヶ嶽)や蛇ヶ嶽(418m)の山麓(大虫)付近を指すとされる。
※にも…他に対する願望の終助詞「なも」の語源
※安寐…安眠

前編で紹介した同じく家持から池主に贈られた「叔羅川 瀬をたずねつつ 我が背子は 鵜川たたさね 情なぐさに」は、この歌の僅か6日後(4月9日)に贈られており、家持が池主と頻繁に和歌を交わしていたことがよく分かる。
いくらお互い都から遠く離れて寂しいとはいえ、仕事しろよ・・・(笑)

また天平勝宝3(751)年8月5日、少納言に任じられて都(平城京)に戻る家持と、正税帳使の任を終えて都から越中国に戻る途中の越中掾の久米広縄(くめのひろただ)が、偶然池主の邸宅で再会。
3人で宴が開かれた際に、広縄と家持が詠んだ歌も残っている。(万葉集巻19-4252・4253)

君が家に 植ゑたる萩の 初花を 折りてかざさな 旅別るどち
(意味)
お宅(大伴池主邸)で育てられた萩の初花を、手折って冠に挿す挿頭(かざし)にしましょう。別れ別れに旅する者同士だから。
 
立ちて居て 待てど待ちかね 出でて来し 君にここに逢ひ かざしつる萩
(意味)
立ったり座ったりして貴方(久米広縄)の帰りを高岡で待っていましたが、待ちかねて出発してしまいましたのに、 その貴方にここ(池主邸)でお逢いでき、共に萩を挿頭にしたのです。 なんという嬉しいことでしょう。
 
挿頭(かざし)…神事に際して髪や冠に挿した草花。


家持や池主たちが眺めていたであろう鬼ヶ岳を望みながら、家路につく。
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越前国府関連年表
西暦元号関連する出来事
710年和銅3年藤原京から平城京へ遷都
718年養老2年越前国から能登国分立
731年天平3年越前国大税帳に丹生郡主政生江臣積多記述
741年天平13年国分寺建立の詔
746年天平18年大伴家持の越中国司赴任
747年天平19年国分寺建立督促の詔
750年天平勝宝2年家持から池主へ霍公鳥歌を贈る
751年天平勝宝3年都に戻る家持が太介不の池主邸に訪れる
772年宝亀3年井上内親王廃后、他戸親王廃太子
773年宝亀4年山部親王(のちの桓武天皇)立太子
775年宝亀6年井上廃后、他戸廃太子同日逝去
781年天応元年桓武天皇即位
784年延暦3年平城京から長岡京へ遷都
785年延暦4年藤原種継暗殺事件
785年延暦4年早良親王廃太子、薨去
788年延暦7年桓武天皇夫人藤原旅子、薨去
789年延暦8年三関停止
790年延暦9年桓武天皇皇后藤原乙牟漏、崩御
790年延暦9年桓武天皇後宮坂上又子、卒去
794年延暦13年長岡京から平安京へ遷都
800年延暦19年早良親王に崇道天皇を追称(諡号)
800年延暦19年井上内親王を皇后に追号
805年延暦24年崇道天皇陵に移葬
805年延暦24年御霊神社建立の詔
806年延暦25年桓武天皇崩御


やっぱり、歴史っていいね!

※レポ作成には「武生市史編さんだより第30号」を参照させていただきました。

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