若狭国府探訪 前編
好評?でシリーズ化が決まった国府探訪企画(そんなもん、いつ決まった?w)
今回は福井県嶺南地方に属する若狭国(わかさこく)をご紹介。
北陸道に属し、平城京や平安京に塩や海産物を供する御食国(みけつくに)とも称された。
福井県民でも意外と誤認しているのが、嶺南≠若狭。
若狭は三方郡美浜町から大飯郡高浜町までで、敦賀市は旧越前国。
その名残りなのか、旧若狭国エリアは関西電力管内だが、敦賀市は嶺北と同じ北陸電力管内。
また敦賀市と三方郡を合わせたエリアは二州地区とも呼ばれるが、これは越州(越前)と若州(若狭)、2つの州(くに)に跨っているからである。
余談だが、旧若狭国エリアと敦賀市の市外局番は同じ0770なのだが、単位料金区域(MA)が異なるため、例えば敦賀から小浜に電話する場合、同じ市外局番であるにもかかわらず、市外局番を付加しないと繋がらない。
若狭国は7世紀後半頃に成立したとみられ、当初は遠敷郡(おにゅうぐん)と三方郡(みかたぐん)の2郡だったが、のちに遠敷郡から大飯郡(おおいぐん)が分立。
若狭国府は遠敷郡(現小浜市)にあったとされているが、正確な比定地は不明。
この遠敷という地名、通常ならまず読めない難読地名だが、これは越前国府探訪でも触れた諸国郡郷名著好字令(好字二字令)によるもの。
藤原京から出土した木簡では小丹生(おにゅう)と表記されているが、平城京から出土した木簡で、好字二字令が発布された和銅6(713)年以降では、全て遠敷の表記に替わっている。
これは好字二字令による改悪の典型例で、遠(おん)+敷(ふ)=遠敷(おにゅう)と読ますだけでもだいぶ無理があるのに、丹(=辰砂=硫化水銀HgS)が採れる(生)場所という本来の意味が全くなくってしまった。
郡内にはかつて丹生郷(現在の太良庄付近)という郷があり、小丹生郡の表記の方が読みも意味も分かり易かったはず。
もっとも現在の福井県には旧越前国府のあった丹生郡(にゅうぐん)も存在するので、小丹生郡だと劣ったイメージを受けるので、遅かれ早かれ改称されていたのかも…
ちなみに福井市(旧丹生郡越廼村)には、大丹生町(おにゅうちょう)、小丹生町(こにゅうちょう)という住所が存在する。
また、おにゅう(おんふ)は、元々古代朝鮮語のウォンフ(=遠くにやる)が語源だという説もあり、もしこれが正しいとすれば、遠敷の当て字はまさに意味が近い好字二字となるのだが果たして・・・
そんな由緒ある遠敷郡だが、残念ながら平成の大合併で消滅してしまった。
遠敷郡を構成していた旧上中町が、三方郡三方町と合併して若狭町となったが、2郡を跨ぐ対等合併だったので三方上中郡という新郡が設置された。
最後に残っていた旧名田庄村も大飯郡大飯町と合併し、大飯郡おおい町となったため、2006年3月3日付で遠敷郡は廃止となってしまった。
行政の効率化のため複数の自治体が一緒になり、その結果由緒ある郡名や町名が消滅してしまうのは致し方ないことだが、嶺南の場合、各自治体のエゴと打算が顕著になってしまった。
滋賀県長浜市や高島市、岐阜県高山市の様に、隣県には小異を捨てて大同団結した例が多数あり、嶺南や若狭も1つもしくは2つの自治体に集約すべきだったのだが、結果は大合併前の8自治体から6自治体に減っただけ。
敦賀市は越前国だったので、若狭に吸収されるのは不本意だろうし、小浜市も敦賀市と一緒になるのはイニシアチブを取れなくなりかねず、小浜市をメインに若狭がまとまるという案も、周りの自治体にとっては併合されたも同然なのはよく分かる。
一番の阻害要因は、敦賀市、美浜町、高浜町、おおい町が原発立地自治体であったこと。
当時は税金や補助金など莫大な原発マネーが入っていたので、敢えてその利を薄める合併を行なう必然性はなく、地方交付税不交付団体もあったので、人口1万人程度の零細自治体が存続することになってしまった。
美浜町(9,472人)、おおい町(8,104人)、高浜町(10,361人)の議員数はいずれも定数14人で、約3倍の人口を持つ小浜市(28,672人)の18人とさほど変わらない。
しかも敦賀市を含めた嶺南全体(136,035人)の議員数は98人で、県都で中核市の福井市(263,529人)の32人と比べても異常な有様。※人口は2018年10月1日時点
よく国会議員の1票の格差が問題視されるが、地方議員の格差はなぜ問題視されないのだろう?
今後原発マネーが先細り、人口も減るのは間違いないので、今こそ令和の大合併をすべきなのではないだろうか?
閑話休題
まずは若狭国分寺跡へ。
今も地名やバス停にその名が残っている。
北川支流の松永川と遠敷川、R27に挟まれた三角地に位置し、寺域は約2町(約218m)四方。
これまでの発掘調査から、南大門、中門、塔、金堂、講堂などの伽藍跡が発見されており、国の史跡に指定されている。
南大門跡
若狭国分寺が特徴的なのは、伽藍内に大きな古墳が存在する点。
直径約45mと若狭最大級の円墳(国分寺古墳)で、墳頂部には若狭姫神社が鎮座。
若狭姫神社
後編で紹介する若狭国二宮の若狭姫神社の境外社で、祭神は豊玉姫(とよたまひめ)
中門跡
金堂跡(現国分寺釈迦堂)
調査の結果、現在の国分寺は金堂基壇跡に建てられていることが判明。
本尊の木造薬師如来坐像は国指定の重要文化財になっている。
古墳の北側を通って塔跡へ。
塔跡
基壇跡は約15m四方と、先日訪れた大虫廃寺の塔跡(12m四方)よりひと回り大きい。
心礎石
据付掘方・根石などの遺構から、塔自体は3間(約8.1m)の五重塔だったと推定される。
8世紀の瓦(平城京系)が出土しない点や構造規模、文献などから平安初期の造営とされ、
国分寺建立の詔(741年)直後は、近くにある地方豪族の氏寺が転用されていたともされる。
日枝神社(太興寺廃寺推定地)
松永地区の太興寺集落内にある神社で、付近から8世紀のモノと思われる平城京系瓦が出土したことから、ここに太興寺廃寺があったと推定され、当初国分寺として代用されたのでは?とする説も。
画像には写っていないが、左手にある手水石は塔の心礎石だったとも謂われている。
ちょうど手水鉢の祠を修繕されていた氏子と思しきお父さんに、太興寺廃寺のことを尋ねたが、詳しいお話は伺えなかった。
続いて向かったのは国分寺同様、国府になくてはならない總社がある府中町へ。
總(社)神社
主祭神は五十猛命(い(そ)たけるのみこと)、大山祇神(おおやまつみのかみ)
五十猛命は素戔男尊(すさのおのみこと)の息子とされ、妹神の大屋津姫命(おおやつひめ)や抓津姫神(つまつひめ)とともに全国を植林して回ったという記述(日本書紀)から林業の神とされ、古事記の大屋毘古神(おおやびこのかみ)と同一神とされる。
大山祇神は山の神で、素戔男尊の妻、櫛名田比売(くしなだひめ)の祖父。
創祀年代は不詳だが、文永2(1265)年の若狭国惣田数帳にて初見される。
先日訪問した越前国の総社大神宮や能登国の總社から比べると規模が小さく、特に五十猛神は失礼ながら、大国主命や天照大御神などから比べるとマイナー感が否めない。
ただし大山祇神同様、”山”に関する神で、海へ大地の恵みをもたらす治山治水を司ることや、五十猛神が埴土船を作って海を渡ったことから造船の神ともされるので、豊漁や航海安全を祈願してこの二神が祀られたのかもしれない。
若狭国分寺跡や總(神)社などとの位置関係から、国府は現在の遠敷、国分、府中一帯にあったと推定されているが、府中町にあったとする説には疑念を感じる。
地形分類図①
※地理院地図に等高線データを色分けして作成。
上の地形分類図①を見て判るように、小浜平野の大部分は標高10m以下の沖積平野で、北川を始め、南川、松永川、遠敷川、多田川といった多くの河川が流れ込んでいる。
奈良時代に入り高燥化が進んでいたとはいえ、灌漑・治水技術が未発達の当時では、国府推定地とされる府中一帯は、現在より河川が入り乱れ、中洲の多い低湿地で、ひとたび河川が氾濫すればたちまち水没しかねない場所だったことは容易に想像できる。
しかも總神社のある府中町一帯は、現在でも標高3m以下。
付近では縄文期の遺跡も発見されており、中洲だったと思われるが、ここに国府が置かれたとするのはかなり無理があり、よしんば置かれたとしても、ずっと時代が下った鎌倉期以降かと思われる。
一方、若狭国分寺跡、太興寺廃寺跡や越前二宮の若狭姫神社などの主要な祭祀施設は、いずれも標高20m以上の高台に配置されている。
これらは未来永劫残すために、水害を受けやすい低湿地を避けて高台に祀られたからで、若狭国分寺の伽藍内に古墳が存在するのも、おそらく一定の広さが得られる高台がここしかなかったからであろう。
個人的には国衙などの国府重要施設も、現在のJR東小浜駅周辺、もしくは東小浜高校付近にあったのではないかと思うのだが果たして・・・
それらを確かめるべく、東小浜駅近くにある福井県立若狭歴史博物館(300円)へ。
ここには若狭の歴史を始め、仏像や祭り・伝統芸能などが展示されているが、内部は撮影禁止につき画像はなし。
結果から言うと、若狭国府の比定地はここでは分からなかったが、色んな興味深い展示がされていた。
若狭国は令制国の等級区分(国力・距離)では中国・近国とされ、17国あった近国の中で1国2郡と最少郡数だったのは、若狭国、志摩国、淡路国の3ヶ国のみ。
これら3ヶ国はいずれも御食国(みけつくに)とされ、島嶼やリアス式海岸などで田畑が少なかったにもかかわらず、単独の令制国に成り得たのは多分にこの御食国だったからとされる。
律令制下では各令制国は都に、租・庸・調といった税を納めることが求められ、
若狭国は調(絹や麻などの特産品)として、塩で納めていたことが平城宮などから出土した木簡で判明している。
また延喜式によると、旬料として10日ごとに雑魚、節料として節日ごとに雑鮮味物、年料として生鮭、稚海藻(ワカメ)、毛都久(モズク)、山薑(ワサビ)を御贄(みにえ)として納めることが義務付けられていた。これらは宮中で行われる神事に欠かせない神饌として使われ、都にとって極めて重要な国であった。
また天皇の料理番とされる内膳司(ないぜんし/うちかしわでのつかさ)の長官である内膳奉膳(ないぜんぶぜん/うちかしわでのかみ)を歴任した膳氏(かしわでうじ)は、四道将軍の1人大彦命(おおびこのみことの)の孫で、料理の神とされる磐鹿六鴈命(いわかむつかりのみこと)を祖とする一族で、のちに高橋氏と改称し、若狭国や志摩国の国司を歴任している。
古くから若狭に勢力を持っていたとされ、若狭町(旧上中町)にある膳部山(292m)は膳氏に由来するとも謂われる。
ちなみに膳部山は、若狭・三方五湖ツーデーマーチの鯖街道熊川宿コースで峠越えする山で、山上には膳部山城跡があるので、いずれ登ってみたい。
また余談だが、数年前に佐藤健主演で放映されたドラマ「天皇の料理番」のモデルとなった秋山徳蔵(ドラマでの役名は秋山篤蔵)も、越前国府のお膝元越前市村国の出身。
気付くと1時間も居てしまい、すっかりお腹ぺこぺこ(笑)
御食国のあのスポットへ…
やっぱり、歴史っていいね!
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今回は福井県嶺南地方に属する若狭国(わかさこく)をご紹介。
北陸道に属し、平城京や平安京に塩や海産物を供する御食国(みけつくに)とも称された。
福井県民でも意外と誤認しているのが、嶺南≠若狭。
若狭は三方郡美浜町から大飯郡高浜町までで、敦賀市は旧越前国。
その名残りなのか、旧若狭国エリアは関西電力管内だが、敦賀市は嶺北と同じ北陸電力管内。
また敦賀市と三方郡を合わせたエリアは二州地区とも呼ばれるが、これは越州(越前)と若州(若狭)、2つの州(くに)に跨っているからである。
余談だが、旧若狭国エリアと敦賀市の市外局番は同じ0770なのだが、単位料金区域(MA)が異なるため、例えば敦賀から小浜に電話する場合、同じ市外局番であるにもかかわらず、市外局番を付加しないと繋がらない。
若狭国は7世紀後半頃に成立したとみられ、当初は遠敷郡(おにゅうぐん)と三方郡(みかたぐん)の2郡だったが、のちに遠敷郡から大飯郡(おおいぐん)が分立。
若狭国府は遠敷郡(現小浜市)にあったとされているが、正確な比定地は不明。
この遠敷という地名、通常ならまず読めない難読地名だが、これは越前国府探訪でも触れた諸国郡郷名著好字令(好字二字令)によるもの。
藤原京から出土した木簡では小丹生(おにゅう)と表記されているが、平城京から出土した木簡で、好字二字令が発布された和銅6(713)年以降では、全て遠敷の表記に替わっている。
これは好字二字令による改悪の典型例で、遠(おん)+敷(ふ)=遠敷(おにゅう)と読ますだけでもだいぶ無理があるのに、丹(=辰砂=硫化水銀HgS)が採れる(生)場所という本来の意味が全くなくってしまった。
郡内にはかつて丹生郷(現在の太良庄付近)という郷があり、小丹生郡の表記の方が読みも意味も分かり易かったはず。
もっとも現在の福井県には旧越前国府のあった丹生郡(にゅうぐん)も存在するので、小丹生郡だと劣ったイメージを受けるので、遅かれ早かれ改称されていたのかも…
ちなみに福井市(旧丹生郡越廼村)には、大丹生町(おにゅうちょう)、小丹生町(こにゅうちょう)という住所が存在する。
また、おにゅう(おんふ)は、元々古代朝鮮語のウォンフ(=遠くにやる)が語源だという説もあり、もしこれが正しいとすれば、遠敷の当て字はまさに意味が近い好字二字となるのだが果たして・・・
そんな由緒ある遠敷郡だが、残念ながら平成の大合併で消滅してしまった。
遠敷郡を構成していた旧上中町が、三方郡三方町と合併して若狭町となったが、2郡を跨ぐ対等合併だったので三方上中郡という新郡が設置された。
最後に残っていた旧名田庄村も大飯郡大飯町と合併し、大飯郡おおい町となったため、2006年3月3日付で遠敷郡は廃止となってしまった。
行政の効率化のため複数の自治体が一緒になり、その結果由緒ある郡名や町名が消滅してしまうのは致し方ないことだが、嶺南の場合、各自治体のエゴと打算が顕著になってしまった。
滋賀県長浜市や高島市、岐阜県高山市の様に、隣県には小異を捨てて大同団結した例が多数あり、嶺南や若狭も1つもしくは2つの自治体に集約すべきだったのだが、結果は大合併前の8自治体から6自治体に減っただけ。
敦賀市は越前国だったので、若狭に吸収されるのは不本意だろうし、小浜市も敦賀市と一緒になるのはイニシアチブを取れなくなりかねず、小浜市をメインに若狭がまとまるという案も、周りの自治体にとっては併合されたも同然なのはよく分かる。
一番の阻害要因は、敦賀市、美浜町、高浜町、おおい町が原発立地自治体であったこと。
当時は税金や補助金など莫大な原発マネーが入っていたので、敢えてその利を薄める合併を行なう必然性はなく、地方交付税不交付団体もあったので、人口1万人程度の零細自治体が存続することになってしまった。
美浜町(9,472人)、おおい町(8,104人)、高浜町(10,361人)の議員数はいずれも定数14人で、約3倍の人口を持つ小浜市(28,672人)の18人とさほど変わらない。
しかも敦賀市を含めた嶺南全体(136,035人)の議員数は98人で、県都で中核市の福井市(263,529人)の32人と比べても異常な有様。※人口は2018年10月1日時点
よく国会議員の1票の格差が問題視されるが、地方議員の格差はなぜ問題視されないのだろう?
今後原発マネーが先細り、人口も減るのは間違いないので、今こそ令和の大合併をすべきなのではないだろうか?
閑話休題
まずは若狭国分寺跡へ。
今も地名やバス停にその名が残っている。
北川支流の松永川と遠敷川、R27に挟まれた三角地に位置し、寺域は約2町(約218m)四方。
これまでの発掘調査から、南大門、中門、塔、金堂、講堂などの伽藍跡が発見されており、国の史跡に指定されている。
南大門跡
若狭国分寺が特徴的なのは、伽藍内に大きな古墳が存在する点。
直径約45mと若狭最大級の円墳(国分寺古墳)で、墳頂部には若狭姫神社が鎮座。
若狭姫神社
後編で紹介する若狭国二宮の若狭姫神社の境外社で、祭神は豊玉姫(とよたまひめ)
中門跡
金堂跡(現国分寺釈迦堂)
調査の結果、現在の国分寺は金堂基壇跡に建てられていることが判明。
本尊の木造薬師如来坐像は国指定の重要文化財になっている。
古墳の北側を通って塔跡へ。
塔跡
基壇跡は約15m四方と、先日訪れた大虫廃寺の塔跡(12m四方)よりひと回り大きい。
心礎石
据付掘方・根石などの遺構から、塔自体は3間(約8.1m)の五重塔だったと推定される。
8世紀の瓦(平城京系)が出土しない点や構造規模、文献などから平安初期の造営とされ、
国分寺建立の詔(741年)直後は、近くにある地方豪族の氏寺が転用されていたともされる。
日枝神社(太興寺廃寺推定地)
松永地区の太興寺集落内にある神社で、付近から8世紀のモノと思われる平城京系瓦が出土したことから、ここに太興寺廃寺があったと推定され、当初国分寺として代用されたのでは?とする説も。
画像には写っていないが、左手にある手水石は塔の心礎石だったとも謂われている。
ちょうど手水鉢の祠を修繕されていた氏子と思しきお父さんに、太興寺廃寺のことを尋ねたが、詳しいお話は伺えなかった。
続いて向かったのは国分寺同様、国府になくてはならない總社がある府中町へ。
總(社)神社
主祭神は五十猛命(い(そ)たけるのみこと)、大山祇神(おおやまつみのかみ)
五十猛命は素戔男尊(すさのおのみこと)の息子とされ、妹神の大屋津姫命(おおやつひめ)や抓津姫神(つまつひめ)とともに全国を植林して回ったという記述(日本書紀)から林業の神とされ、古事記の大屋毘古神(おおやびこのかみ)と同一神とされる。
大山祇神は山の神で、素戔男尊の妻、櫛名田比売(くしなだひめ)の祖父。
創祀年代は不詳だが、文永2(1265)年の若狭国惣田数帳にて初見される。
先日訪問した越前国の総社大神宮や能登国の總社から比べると規模が小さく、特に五十猛神は失礼ながら、大国主命や天照大御神などから比べるとマイナー感が否めない。
ただし大山祇神同様、”山”に関する神で、海へ大地の恵みをもたらす治山治水を司ることや、五十猛神が埴土船を作って海を渡ったことから造船の神ともされるので、豊漁や航海安全を祈願してこの二神が祀られたのかもしれない。
若狭国分寺跡や總(神)社などとの位置関係から、国府は現在の遠敷、国分、府中一帯にあったと推定されているが、府中町にあったとする説には疑念を感じる。
地形分類図①
※地理院地図に等高線データを色分けして作成。
上の地形分類図①を見て判るように、小浜平野の大部分は標高10m以下の沖積平野で、北川を始め、南川、松永川、遠敷川、多田川といった多くの河川が流れ込んでいる。
奈良時代に入り高燥化が進んでいたとはいえ、灌漑・治水技術が未発達の当時では、国府推定地とされる府中一帯は、現在より河川が入り乱れ、中洲の多い低湿地で、ひとたび河川が氾濫すればたちまち水没しかねない場所だったことは容易に想像できる。
しかも總神社のある府中町一帯は、現在でも標高3m以下。
付近では縄文期の遺跡も発見されており、中洲だったと思われるが、ここに国府が置かれたとするのはかなり無理があり、よしんば置かれたとしても、ずっと時代が下った鎌倉期以降かと思われる。
一方、若狭国分寺跡、太興寺廃寺跡や越前二宮の若狭姫神社などの主要な祭祀施設は、いずれも標高20m以上の高台に配置されている。
これらは未来永劫残すために、水害を受けやすい低湿地を避けて高台に祀られたからで、若狭国分寺の伽藍内に古墳が存在するのも、おそらく一定の広さが得られる高台がここしかなかったからであろう。
個人的には国衙などの国府重要施設も、現在のJR東小浜駅周辺、もしくは東小浜高校付近にあったのではないかと思うのだが果たして・・・
それらを確かめるべく、東小浜駅近くにある福井県立若狭歴史博物館(300円)へ。
ここには若狭の歴史を始め、仏像や祭り・伝統芸能などが展示されているが、内部は撮影禁止につき画像はなし。
結果から言うと、若狭国府の比定地はここでは分からなかったが、色んな興味深い展示がされていた。
若狭国は令制国の等級区分(国力・距離)では中国・近国とされ、17国あった近国の中で1国2郡と最少郡数だったのは、若狭国、志摩国、淡路国の3ヶ国のみ。
これら3ヶ国はいずれも御食国(みけつくに)とされ、島嶼やリアス式海岸などで田畑が少なかったにもかかわらず、単独の令制国に成り得たのは多分にこの御食国だったからとされる。
律令制下では各令制国は都に、租・庸・調といった税を納めることが求められ、
若狭国は調(絹や麻などの特産品)として、塩で納めていたことが平城宮などから出土した木簡で判明している。
また延喜式によると、旬料として10日ごとに雑魚、節料として節日ごとに雑鮮味物、年料として生鮭、稚海藻(ワカメ)、毛都久(モズク)、山薑(ワサビ)を御贄(みにえ)として納めることが義務付けられていた。これらは宮中で行われる神事に欠かせない神饌として使われ、都にとって極めて重要な国であった。
また天皇の料理番とされる内膳司(ないぜんし/うちかしわでのつかさ)の長官である内膳奉膳(ないぜんぶぜん/うちかしわでのかみ)を歴任した膳氏(かしわでうじ)は、四道将軍の1人大彦命(おおびこのみことの)の孫で、料理の神とされる磐鹿六鴈命(いわかむつかりのみこと)を祖とする一族で、のちに高橋氏と改称し、若狭国や志摩国の国司を歴任している。
古くから若狭に勢力を持っていたとされ、若狭町(旧上中町)にある膳部山(292m)は膳氏に由来するとも謂われる。
ちなみに膳部山は、若狭・三方五湖ツーデーマーチの鯖街道熊川宿コースで峠越えする山で、山上には膳部山城跡があるので、いずれ登ってみたい。
また余談だが、数年前に佐藤健主演で放映されたドラマ「天皇の料理番」のモデルとなった秋山徳蔵(ドラマでの役名は秋山篤蔵)も、越前国府のお膝元越前市村国の出身。
気付くと1時間も居てしまい、すっかりお腹ぺこぺこ(笑)
御食国のあのスポットへ…
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