絵画と彫刻
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「マルセイユの大ペスト」の記事における「絵画と彫刻」の解説
ミシェル・セールの絵画3点、ジャック・リゴーの版画4点、フランソワ・アルノーのエクス・ヴォート(奉納物)、ジャン=フランソワ・ド・トロイの絵画、ダンドレ=バルドンのスケッチ等、約10作品が疫病流行期ないしその直後に製作されたと考えられている。サン・フェレオール地区の勇気ある学芸員であるミシェル・セールの作品、何よりも彼自身が直接この出来事を目撃した点によって興味深い作品に仕上がっている。これらの同時代の作品は2つのグループに分けられる。 第一のグループは街路を表現したものである。ミシェル・セールの2つの大作「Vue de l'hotel de ville/市庁舎の眺め」(高さ3.05m×幅2.77m)と現代でいうベルサンス広場を表現した「Vue du Cours/街路の眺め」(高さ3.17m×幅4.40m)、リゴーの版画4点から構成される。ミシェル・セールの2枚の絵画はM. ド・カニスが購入しイングランドやオランダで展示された。この作品群はイエズス会の大学ベルサンス総長が所有し、彼の名を冠したコレクションの一つであり、1762年にイエズス会が弾圧を受けるまでその所有下にあった。1763年10月24日、その作品はマルセイユ市の所有となり、当初は市庁舎に在ったが1804年に旧ベルナルディーヌ修道院(現在のティエール高校)にある新しい博物館へ移された。「市庁舎の眺め」はマリオン窓を持つ市庁舎付近の建造物に遺体を搬送する場面が非常に良く描出されている。この絵画は左側、つまり市庁舎の西側が切り取られている。 第二のグループは騎士ニコラ・ローズがトゥレット通りからペスト犠牲者の遺体を搬送した様子を描写したもので、ミシェル・セールの3つ目の作品「Scène de la peste de 1720 à la Tourette/1720年のラ・トゥレットのペストの光景」(モンペリエのアトジェ美術館収蔵、高さ1.25m×幅2.10m)、現在はマルセイユ美術館に収蔵されている1725年に描かれたジャン・フランソワ・ド・トロワの絵画「 Le chevalier Roze à la Tourette /トゥレットの騎士ニコラ・ローズ」(高さ2.28m×幅3.75m)からなる。後者の作品はマルセイユ海洋博物館に所蔵されているトマッサンが1727年に製作した版画の素材となった。ルーアン美術館に所蔵されているダンドレ=ベルドンのスケッチもまた、騎士ニコラ・ローズを題材としたものである。ミシェル・セールによる「Scène de la peste de 1720 à la Tourette/1720年のラ・トゥレットのペストの光景」については、騎士ニコラ・ローズ自身が所有したと考えられている。ペストの犠牲者と囚人が最も多く登場する作品であり、感染から防御できると信じられていた酢に浸した布で防備を固めている囚人たちの姿によってその劇的な描写はさらに高められている。ニコラ・ローズ、市参事会員、街路の角にいる銃剣で武装した歩兵の存在は、ペストを恐れる囚人の統制を維持するため必要とされた。この絵画は同時に、1851年に新しい大聖堂に建て直される前の大聖堂が持っていたバロック様式の門扉を最もよく表現している。この大流行の後、他の画家も騎士ニコラ・ローズを主題とする様々な絵画を制作した。1826年に制作し、マルセイユ美術館に展示された「Le Chevalier Roze faisant inhumer les pestiférés」の作者ポーラン・ゲラン、1911年に制作され、「Le Chevalier Roze à la montée des Accoules」の作者ジャン=バティスト・デュフォーが、同じくマルセイユ美術館に展示されている「Le Courage civil : la peste de 1720 à Marseille」を制作したA. マゴーらが挙げられる。これらの作品においては市民からは騎士ニコラ・ローズが、聖職者からはベルサンス司教といった、美化された英雄たちが取り上げられ、彼らの勇気と献身とに焦点があてられている。特に騎士ニコラ・ローズは、市政府の指示で行った遺体の搬出という出来事を通して、国家による介入による模範を体現したとされている。
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絵画と彫刻
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サラ・ベルナールが喜劇女優としての才能が認められ始めた1874年頃、彼女は、当時興味を持つ大部屋女優(アンプロワ(フランス語版))が少なかった彫刻(さらに絵画も)を習った。サラはアカデミー・ジュリアンに足繁く通い、1880年のサロン・ド・パリに「死せる乙女」像を出品、« moins comme un résultat qu'une promesse »(型破り)との評を受けた。他にも、今ではオルセー美術館に展示されている「エミール・ド・ジラルダン(フランス語版)の胸像」や「ルイズ・アベマの胸像」など、いくつか銅メダルを得た。
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絵画と彫刻
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ブエノスアイレスの都市的な様子とは対照的なもうひとつのアルゼンチンを描いた画家としては、初めて本格的にガウチョを描いたプリリディアーノ・プエイレドンや、アンデス地方の牧場や、ガウチョを題材に描いたフェルナンド・フェデールなどの名が挙げられる。三国同盟戦争などを題材にした歴史絵画ではホセ・イグナシオ・ガルメンディアや、カンディード・ロペス(素朴派)などの名が挙げられる。ロペス、アントニオ・ペリーニ(en:neo figurative)、エミリオ・ペットルーティ(キュビスム)、フェデール、ギジェルモ・クイトカの作品は国際的に認知されている。そのほかにも「ボカ共和国」こと、ブエノスアイレスのラ・ボカ(La Boca、河口)地区出身のキンケラ・マルティンはラ・ボカ地区や労働者を描いた画家として名高い。 ルシオ・フォンタナとレオン・フェラーリは彫刻家かつコンセプチュアル・アーティストとして喝采された。シルエロ・カブラルは世界的に有名な幻想芸術家かつ彫刻家であり、エドゥアルド・マクリンティーレの幾何学的なデザインは1970年代以降の世界中の広告家に影響を与えた。
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