引き揚げ
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引き揚げ(ひきあげ、英語: Repatriation)とは、1945年(昭和20年)8月15日に日本が第二次世界大戦で連合国に降伏したことを受け、日本の外地[注釈 1] や日本軍占領地[注釈 2] または内地のソ連軍被占領地[注釈 3] に生活基盤を有する一般(民間)日本人が日本の本土(内地)への帰還を指す[2][注釈 4]。引き揚げの対象となった者は引き揚げ者と呼ばれ、引揚者給付金等支給法や引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律によって給付行政の対象とされた。
注釈
出典
- ^ #引揚援護の記録
- ^ a b c d e f g h i j k l 河原(2011年)12ページ
- ^ 「 戦後引き揚げ 大国の思惑/国文学研究資料館・加藤准教授 全体像描く研究書」『読売新聞』朝刊2021年7月7日(文化面)。加藤聖文『海外引揚の研究 忘却された「大日本帝国」』(岩波書店)の紹介記事。
- ^ a b c d e f g h i j k l m #引揚援護の記録 p.1
- ^ 久しぶりの母国に感激の顔『大阪毎日新聞』昭和16年11月15日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p456 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 第二船大洋丸にはハワイの四百四十七人『大阪毎日新聞』昭和16年11月16日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p456)
- ^ 第三船氷川丸が横浜入港『朝日新聞』昭和16年11月19日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p456)
- ^ 蘭印から高千穂丸、門司へ帰る『朝日新聞』昭和16年11月23日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p456)
- ^ ボルネオ、マレーには浅間丸が『朝日新聞』昭和16年12月6日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p457)
- ^ 在米残留邦人、龍田丸で最後の引き揚げ『朝日新聞』昭和16年11月30日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p457)
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- ^ a b c 朝日新聞夕刊 2015c, 9面「抑留、風化させぬ」
引き揚げ船
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敗戦後、興安丸はGHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-K086の管理番号を与えられた。 1945年9月~1947年(昭和22年)4月に仙崎・博多-釜山間に就航し、海外邦人の引き揚げ、朝鮮人の帰国輸送などに当たる。引き揚げ者が上陸した仙崎漁港には、跡地の記念碑がいまも残り、記念碑には興安丸の活躍が記されている。1947年12月下関市で天皇全国巡幸時の御宿泊所とされた。1948年(昭和23年)4月に関釜連絡船は公式に閉鎖された。 1949年(昭和24年)6月1日、運輸省鉄道総局を引き継ぐ形で日本国有鉄道が設立されたことに伴い移籍したが、翌1950年(昭和25年)3月に朝鮮郵船(後の東京郵船→昭和郵船)へ国家賠償に伴う補償として払下げられた。 1950年7月~1953年(昭和28年)4月の朝鮮戦争時にはアメリカ軍に傭船され佐世保市-釜山の国連軍輸送に就航し、朝鮮戦争終結後は政府の傭船により中華人民共和国の河北省秦皇島-舞鶴間、ソビエト連邦(現ロシア)ナホトカ・ホルムスク-舞鶴の引き揚げ船として日本赤十字社の救護班を乗せて1957年(昭和32年)に至るまで延べ22回の活躍し、舞鶴港の「岸壁の母」の悲話で国民の胸を打った。
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