「ヒマラヤ戦友会」
3年振りに開催された。
2022年11月26日は、「ヒマラヤ戦友会」の10回目が開催されるという記念すべき日だった。
12年前の晩秋、2010年11月13日~23日、ネパールに出かけてエベレスト街道をトレッキングした。
その道順は、タンボチェ(3867m)、パンボチェ(3901m)、ペリチェ(4215m)、トゥクラ(4593m)、ロブジェ(4930m)、ゴラクシェブそしてゴールはカラパタール(5545m)であった。その仲間の会を「ヒマラヤ戦友会」と呼ぶことにした。
「ヒマラヤ戦友会」の前日、コブキ女将から、このようなメッセージを受け取った。身が締まるコトバになった。
いよいよ明日が「ヒマラヤ会」当日となりました。
昭さん12個のアイスクリームの差し入れ期待しております。
嬉しい事にカメも民子さんも出席となりました。
こんなにうれしい事はありません。
心配なのは私の意欲減退です。
なんとかこれから自分自身にはっぱをかけてみます。
何より、皆様に会えることを楽しみにしております。
市が尾駅から徒歩10分少し坂道がありますが
トンネルをこえますと公園の紅葉が見事です。
グーグルにでも道案内させてお出で下さい。
女将コブキは張り切り過ぎたのだろうか、少し心配になった。
しかし当日は、4人姉妹と一緒に優しそうで元気だった。ホッと安心した。愛用のキッチンで凄腕を振るっていた。
今から3年前になるが思い出してほしい。コロナ禍前で平和だった世界中。ウクライナ紛争もなかった良き時代だった。
前回の「ヒマラヤ戦友会」は、2019年11月9日に横浜・市ヶ尾の久米宅で開催された。トンベは元気に真ん中に座っていた。オスタのデコレーション・ケーキは注目の的だった。
あれから3年の月日は流れた。コロナ禍による会合自粛という苦しい日々を耐えてきた。コロナ冬眠の厳しい日々を送ってきた。余命も残り少ない高齢ワンダラーにとり「ヒマラヤ戦友会」を開催して欲しいという熱望。開催は苦渋の英断だった。
コロナ禍中に、朋友トンベ(田中透君)を2021年に亡くした。
トンベは、天空の厳かな山頂へ登っていた。そこは白い峰エベレストよりも高い天国の岩稜である。トンベはいつも仲間の中心にいて、みんなのことを思いやる優しい心で、「ヒマラヤ戦友会」の絆を大切にしてくれた。トンベを偲ぶ会としても是非とも「ヒマラヤ戦友会」の開催は期待された。
2022年11月26日についに実現された。感無量だ。
ここで、「ヒマラヤ戦友会」の歴史を振り返ってみよう。
最初の会合は、2011年11月10日(毎年11月第二土曜日)に鵠沼カメ宅で開催された。10年前になるから、みなさんは高齢者であったが70歳代と少しは若かった。
2014年から2018年までの記録である。コブキ女将の采配による手料理の数々は「ヒマラヤ戦友会」の名物になった。最後の締めは、いつもオスタの豪華な巨大なケーキだった。
あれから回数を重ねて2019年で9回目を迎え、翌年2020年は10回目という記念すべき祝賀年となる予定だった。
しかしながら2020年は実現されなかった。すべてはコロナ禍に原因がある。
2022年11月26日は久々の再会だった。何となく照れくさい雰囲気も感じられたが、コブキ女将の豪華な手料理によって一気に昔のみなさんの食欲はもどったようだ。
もりもり食べ、カブカブ飲む、そして乱れた雑談。ヒマラヤ戦友会は3年間のブランクなど忘れたかのように盛況になった。
隊長のマサボンからの挨拶で始まった。テーブル上に所狭しと並べられた豪華な料理を目の前にして、スピーチよりも、何から食べようかという食欲戦略、よだれを溜め込んでいた。早くも女性のお皿は空っぽになっていた。
シャンパンとシャブリによる乾杯。トンベの追悼などに続き、コブキ女将から手料理の紹介があった。コブキ女将の苦労を忘れたかのような吉之助亭主の眠そうな顔。
みなさまからの膨大な差し入れの数々は食卓を一層、豪華なものにした。「太一」は一早く平らげ満足していた。次は稲荷寿司とシシトウの春巻きを狙おう。胴回りが太い太一。
参考までに料理の差し入れを紹介しておこう。コブキ女将の指示であるから粗相なきよう緊張して準備した。
オスタ様
筑前煮、漬物、ケーキよろしくお願いいたします。
量は少なめにしてください。
民子様
ローストビーフ、例年のように差し入れお願いできますか。
だるま殿、高原ビールの手配よろしくお願い致します。
光枝様
果物よろしくお願いします。
皆さま
ワイン赤白、日本酒、その他、つまみ類の差し入れ大歓迎
よろしくお願いいたします。
コブキ女将の陣頭指揮の下で豪華な手料理の数々を楽しみ、ヒマラヤの荘厳な峰々を懐かしみ、エベレスト街道で苦楽を共にした旧き友は楽しく歓談した。
こんな宴会をよくもまあ10年も続けてきものだ。ささやかな伝統になった。「ヒマラヤ戦友会」は誇り高い会合といえる。
毎年問題になる事は、料理の内容と当日の服装についてだろう。ダルマは過去5回も全く同じ衣装で参加続けている。ユニクロへ行き、洒落たものを見つけてきてほしい。
「レッサンピリリー」の歌声に合わせて、ダルマとカメは踊る。カトマンズから、エベレスト街道の道中まで「餃子モモ」を食べながら毎夜踊った。下手な踊りにシェルパは呆れていた。
ヒマラヤ戦友会は、品格ある宴会を続けていくだろう。老化痴呆は深刻な課題になっても酒宴となれば、なんとか誤魔化して出席できるだろう。90歳まで頑張ろう。
オスタの巨大なケーキは何層も重ねたお菓子である。
上手く塗り固められた豪華な姿は、まるで結婚式のケーキのようだ。名パティシエ、オスタは誇らしげに微笑んでいた。
均等にナイフを入れる。これがなかなか難しい。上に飾られたブドウの数にも配慮した。ミリ誤差も許されない。食べ物の恨みはいつまでも残る。あさましい。
テレビ大画面に映し出されたエベレスト街道の写真と唄。
神々のヒマラヤの荘厳な峰々の姿こそ想い出を飾る最高の記念になった。
渓谷を流れるドオドコシ川はエベレストの氷河を源流とする川で、急流を吊り橋で数回渡った。進むにつれて酸素が半分となり高山病の対策は重要だった。
何処でも聞こえる唄は「レッサンピリリー」の歌声だった。
Resham firiri, resham firiri
Udera jaunkee
dandaa ma bhanjyang
Resham firiri
レッサンピリリー、レッサンピリリー
ウーレラジャンキー
ダーラマバッサン
レッサンピリリー
下記の動画を矢印クリック(「レッサンピリリー」の歌声)
2022年11月26日に開催された「ヒマラヤ戦友会」、
戦友のみなさまの益々の御健勝を祈ります。
会合を盛りあげて、場所と豪華な手料理を提供頂いた久米御夫妻に心から感謝を表します。
2022年11月27日
斉藤 孝 (カメ)
関連アーカイブ
(1) エベレスト街道トレッキング (2010年11月13日~23日)の行動記録(pdf)
この記録は印刷版(pdf)によるもので行動記録の途中20頁まで読むことが出来る。
ダーサ「相川正汎」のコトバやメンバープロフィール(写真付き)、そして行動記録(途中まで)
(2) 『レッサンピリリー』 想い出を飾る (動画) 2021年8月
(3) カメのエベレスト街道 2010年11月13日
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カメの旅 京都
「80歳の修学旅行」
2022年11月13日~20日
斉藤 孝
2022年9月6日は80歳の誕生日になった。1942年9月6日に中国・青島で生まれて、日本の各地で育った。中学生の頃、初めて京都と奈良の修学旅行を経験した。古いモノクロ写真に神社・仏閣など名所が数枚残っていた。
そうだ。「80歳の修学旅行」、やってみよう !!
2022年11月13日~20日まで一週間を京都で過ごした。
天晴な紅葉の日本庭園。穏やかな自然の美。
『金閣寺』は、金箔に塗り込まれていた。
厚化粧であるが、清楚な室町庭園の中で落ち着いていた。
(それにしても金ピカで趣味が悪いが、木造の細かな造作ですっきりしている。)
(金閣寺の美は自然の山と木々、そして池などバランスの良い配置で演出される。)
雨上がりの山道を登り、夕闇の『清水寺』を眺めた。
海外の若者達で大変賑やかだ。京都は世界の憧れの町。
(雨上がりの清水寺 夕闇と立ち込めた霧が優雅)
清水寺といえば、「清水の舞台から飛び降りる」ということわざが有名。
「思い切って大きな決断を下す」という意味である。
余談であるが、海外観光客の日本観光の期待。国によってこんなに違うらしい。
欧州のドイツ、フランス、スペインなどは「伝統工芸」「伝統文化」「街の歴史」など観光資源の魅力を評価する。米国や英国など英語圏は「上質なサービス」や「外国人に優しい(観光しやすい)」そして「清潔」「治安」、観光の快適さを評価する。中国、香港、台湾、韓国は、「交通の利便性」「食事」を期待する。「伝統文化」よりも、より日常生活の魅力を評価する。
ベルサイユやシェーンブルンなど人工庭園しか見たことのない異邦人。
自然と静けさを尊ぶ日本庭園は理解できないだろう。
(清水の舞台は、観音様に雅楽や能など伝統芸能を奉納するために造られた。)
大陸系庭園は、人為的な美しさを再現することで、権力を誇示。
自然すらも文明で支配できるものと強権的に主張する。
(嵐山) 夏に来たことがあるが紅葉は初めてだった。
隠遁したら命を奪われる異邦の権力者。一神教の恐怖。
隠居しても自然庭園を愛でる余生を与える日本。多神教の寛容。
(東寺の五重塔は高さ54.8mを誇り、日本一の高さの木造建築)
『平等院』は老夫婦のために絶景ポイントを与えてくれた。
ノンビリと一週間も過ごす終活の京都旅行だった。
町中がテーマパークになっていた。SNS撮影のために観光している。
(ライトアップされた清水寺や青空の下の平等院)
京都の名所とは、寺社仏閣ではなく日本庭園にあるようだ。
自然との調和を重んじ、自然への敬意、移り変わる時間。
わび・さびという美意識。
これこそが日本庭園の魅力と確信できた。
(日本の伝統仏教宗派の大本山の3分の1以上は京都にあり、
京都五山など規模が大きいお寺がいくつも存在する。)
京都では古くからの中心市街の「洛中」と、外縁部の「洛外」では文化が異なると言われる。
80歳の修学旅行で学んだ。
(続き1)
「寺侍」 森家のルーツを探る
秋晴れの下、『西本願寺』を訪れた。浄土真宗の本山で親鸞の廟堂がある。親類知人には、信者門徒が多数いるが、私は初めての参拝。
本願寺は文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転された。
本願寺が東西に分裂した原因は、1570年から1580年までの10年間、織田信長と石山本願寺が間戦った石山戦争までさかのぼる。
やがて秀吉の裁定が下り、教如は隠居して准如が本願寺の十二代目となった。これが今日の本願寺派であり、『西本願寺』となる。
(唐門。桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した四脚門。彫刻は見事。)
森家の御先祖様は「寺侍」だった。格式ある家柄なのだ。
『西本願寺』など門跡寺院では、武士を雇用していた。
そのサムライを「寺侍」と呼ぶ。
(真っ赤な楓の紅葉 京都はどこでも彩り鮮やかだ。)
「寺侍」の武家屋敷は簡単に見つかった。『西本願寺』の近く、下京区文覚町384にある。門構えは隣の近所の京町長屋とは造りがことなる。一見して、武家屋敷のたたずまい。現在、築300年の武家屋敷は、『京都コンシェルジュサロン』と呼ばれている。
『京都コンシェルジュサロン』は、森家の寺侍屋敷を購入し大切に継承。海外観光客のために京都の文化を広報している。「寺侍」を忘れないでほしい。
(武家に仕えるサムライとは異なり、名門跡寺に仕える「寺侍」仕事は多忙だった。)
森家はワイフ栄子の母親の実家である。この機会に「森家」のファミリールーツを探った。栄子の話によると約70年前には森ミツと呼ぶ祖母(1882年生)から昔話をよく聞かされたそうだ。当時は、 栄子の母(寿)の兄夫婦(森重一と文江)も同居していた。
(御影堂 寛永13年(1636)建、中央に親鸞聖人の木像、両脇に本願寺歴代宗主の影像を安置)
阿弥陀堂 宝暦10年(1760)再建、東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートル。中央に阿弥陀如来の木像、法然聖人と聖徳太子の影像を安置している。巨大な木造建築。
寺侍は、用心棒ではなく経理や維持などの仕事を一切任されていた。剣術よりも明晰な頭脳によって『西本願寺』を支えてきたという。
(飛雲閣 金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つ。三層からなる楼閣。)
桃山時代に発達した豪壮華麗な書院造の様式。書院の北側には、現存する最古の能舞台がある。
「寺侍」は西本願寺の書院も維持・管理し「寺侍」は陰ながら宗主を警護した。
森家の寺侍屋敷は約300年に渡り、威厳を持って京都と本願寺の歴史を見守ってきた。御先祖様の偉業、そして子孫への誇りという贈り物に、二人は心から感謝した。
余談であるが、「武家屋敷」について初めは疑問を感じた。
京都は天皇と公家、そして神社・仏閣の町。
京都に武家屋敷は変ではないか。
殿様とは誰だろうか。
お城は何処にあるのか。
『二条城は』は近くにあるが・・・。
戦のための城ではなく迎賓館のようだ。
江戸時代になり武家が治める幕藩体制が確立されたが、
京都は朝廷警護の大名はいたが・・・。
その家臣の武家屋敷なのか・・・。
森家は、300年も続く「寺侍」だった。武家屋敷は、寺侍屋敷として使われてきたのだ。森家の御先祖は、寺侍の仕事を巧みに処理し300年の長き『西本願寺』の歴史を見てきた。
(続き2)
『京都ぎらい』 京都は好きになれなかった ?
お高くとまっているといったイメージ。あの京都弁、なかでも京女がまくしたてる京都弁が嫌いだ。何でも「さん」を付けたがる公家さん好みのスピーチ。
(金閣寺)
しかも京都人は上品だと思っている。京都は歴史が古く街全体が上品に見える。京町家の長屋、風通しも悪くて、とても住みたくない。
逆に考えると、京都コンプレックスかもしれない。
(浄瑠璃寺)
「これぞ日本」という歴史ある風景は、京都にしかない。そして日本人の典型として、コトバに表れる優雅とやさしさ。今でもその当時の雰囲気を感じられる場所が数多く存在し、「和」を感じられる場所である。
(隋心院 小野小町が隠遁したという寺。 小町は出羽出身。秋田美人だった)
京都は、2000を超える神社やお寺、17の世界遺産を有する日本有数の観光地。 この街は、794年の平安京遷都から1868年まで約1200年の間日本の都として栄えてきた。
応仁の乱の戦火をくぐり抜けた建築物や仏像、そして庶民が実際に住んでいた町家もあちこちに残る。
(銀閣寺)
京都は、街そのものが日本の文化である。
川が流れ、花が咲き、秋には紅葉や銀杏が色づき、四季折々の味わいがある。昔のあたたかい感じがある。
(浄瑠璃寺 京都の南、奈良県に近いところにある)
寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。近くにある蟹満寺は、「今昔物語集」に出てくる「蟹の恩返し」の縁起で有名。
(銀閣寺 雅やかな金閣寺と比べてみる地味である。吉田山が見える。)
足利義政は、焼けてしまった浄土寺の跡地に金閣にならって「東山殿(東山山荘)」を造営。隠やかに生活したいと願う。
(平等院 サンディエゴ出身の若い女性が映してくれた。彼女と一緒に撮りたかった。)
本尊は阿弥陀如来。開基は藤原頼通、天喜元年(1053年)に建立された。
(萬福寺 珍しい中国風寺。黄檗宗大本山、聞いたこともない)
黄檗宗大本山である萬福寺は中国僧 隠元隆琦禅師(1592‐1673)によって開創された。中国福建省出身の隠元禅師は明代末期の臨済宗を代表する高僧。
(建仁寺 石庭であるが白砂でなく、苔の海)
建仁寺は、臨済宗建仁寺派の大本山の寺院。山号は東山。本尊は釈迦如来。開基は源頼家、開山は栄西である。かつて京都五山の第3位であった。
(二条城)
二条城は、江戸時代の平城であり近代においては離宮の役割を担った。京都の守護並び上洛時の宿所として造営した城である。
70年前に行った修学旅行の写真はセピア色になり懐かしい友の顔と一緒に残っていた。1956年~1959年頃だろうか。古い京都の街並みと市電だけが写っていたが神社・仏閣など名所の写真は一枚もなかった。
「80歳の修学旅行」、やってみてよかった !!
京都は大好きになった。
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(終わり) カメの旅 「80歳の修学旅行」 2022年11月
仙台近郊の紅葉ー不忘の碑、長老湖、横川渓谷
2022年11月
澤井 清
東北は目下紅葉の季節。書斎に入室すると窓ごしに真っ青の空と紅葉が目に飛び込んできた。
書斎から見える紅葉
例年にない見事な紅葉風景。この時期を逃したら今年の紅葉も見納めと判断。急遽紅葉見物に出かけることに決めた。今回は七ヶ宿町の「長老湖」と「横川渓谷」を訪れた。
作並から七ヶ宿方面に向かいドライブしていると、「不忘平和記念公園」という道しるべを目にし、立ち寄ってみた。
七ヶ宿町(宮城県側)の不忘山(1705m)にある「不忘の碑」を御存知でしょうか?
終戦間近の1945年3月10日(東京大空襲の日)、蔵王連邦の不忘山に米軍爆撃機
(B29)3機が山中に激突。乗組員34名全員が死亡。吹雪の悪天候による操縦ミスや日本軍による迎撃等諸説があるが、墜落原因やこの地域への飛行理由は未だ不明。
墜落事故から10数年後、不忘山山頂付近には乗組員への慰霊と平和への祈りを込めた石碑「不忘の碑」が地元住民によって建立された。そして、2015年8月2日今日の不忘山平和記念公園「不忘の碑」が完成。不忘山を望む公園には大きな「世界平和」と書かれた碑、米兵34人一人一人の名前・年齢・階級・役割を刻んだ銘板と犠牲者と同じ34本のハナミズキが植えられている。碑の一つにはキャロライン・ケネディー駐日大使のメッセージ「平和の友情をもたらすために、一人一人が何をできるのか自分に問いかけることを望みます」とある。
世界平和と書かれた碑
米軍用機 B29墜落現場位置図
「一番機乗組員」の名前・年齢・階級・役割を刻んだ銘板
乗組員34名の慰霊碑
戦前生まれの私にとって、未知の出来事であるが複雑な気持ち。慰霊碑を後に目的地「長老湖」に向かった。
長老湖は南蔵王の名峰不忘山のふもとにある湖で、湖面に山の姿を写すことでも知られる。一周およそ2kmの神秘的な美しい湖で、ブナの林と深い峡谷を刻む横川の清流に彩られている。残念ながら、私のiPad miniでは旨く撮影できなかった。長老湖は紅葉の名所。特に長老湖から見る不忘山の眺めは最高である。
長老湖から見る不忘山
横川渓谷は白石川の支流にあり、渓谷の両側を広葉樹が鮮やかに彩る。渓谷の途中にある「やまびこ橋」は高さ20m,全長120mの吊り橋で、東北最大級の長さのビュースポットとして知られている。橋の中央から眺める不忘山は、雄大な景色と紅葉が楽しめる名所として知られている。
不忘山を望む横川渓谷の吊り橋
吊り橋の上から見た横川の紅葉は圧巻
吊り橋から見る横川
紅葉見物を終え、帰路七ヶ宿町を訪れた。車道から「Book & Cafe こ・らっしぇ」
という建物を見つけ立ち寄ってみた。小さな町にしては「お洒落なカフェ」。
Book & Cafe こ・らっしぇ
2階には町の小さな図書館のように分類順に本が展示。来店者には自由に閲覧可能。ミニTUTAYA図書館の様な雰囲気。本に囲まれたゆったりした空間でドリンクが楽しめるカフェ・レストランであった。
2階図書室
仙台近郊往復160kmのドライブ。家に帰ると駐車場は一面枯葉、今年最後の紅葉見ることができた一日であった。
最後にこの季節に相応しい曲、シャンソンの名曲Autmn Leaves「枯葉」をお届けして終わります。お届けする演奏はBlue Noteの名盤Somethin' ELSE。
トランペット(Miles Davis)、アルトサックス(Cannonball Adderley)、ピアノ(Hank Jones)、ドラム(Art Blakey)という超豪華な演奏お楽しみ下さい。
出典 You Tube
https://www.youtube.com/watch?v=CpB7-8SGlJ0
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KWVキチ会 2022年パーティーの開催
(新ちゃんとトンベを偲ぶ会)
2022年11月8日
久し振りに皆様と集まる機会ができて嬉しい限り。
大勢の参加があると嬉しいですね。皆様、万象繰り合わせてご参加ください。
奥様方もお元気な顔をお見せ下さると嬉しい。案内状は素晴らしい内容だった。
(パーティーを要約した写真 三田の丘に登った)
慶應義塾大学三田キャンパス「ファカルティクラブ」において「キチ会」が開催された。3年ぶりの旧き山の友の会合だった。懐かしい見慣れた顔ぶれだ。
(司会役は真面目一徹の平木君)
母校を訪れることも久しぶりだった。遠路、富山からそして名古屋からも駆けつけてくれた。総勢、25名にもなった。大変老化が進んでいるが何とか五体満足といえる。ダルマはQRコードもURLも全く知らない。最後のガラパゴス人間なのか。
(ダルマと啓子夫人 啓子さんはダルマ夫人ではない)
マスクをお互いに取り去り、頭髪の落ち込みも激しく相手に驚愕した。
容貌の激変はどうにもならないが、悪態と罵声は変わっていないようだ。
(決意と意識は確かなのか、会長久米君)
吉之助会長は頭髪だけが自慢。頭の中は退化したのか、大人しい。名古屋ダンディーのダチョーは姿勢は立派である。さすがに頭髪は薄くなった。
(2023年5月 傘寿を祝う合宿を宣言 見谷ダチョー君)
平木君の司会でパーティーは始まった。
まず、「キチ会」会長の久米君からスピーチがあった。
やや緊張しているが、内容はしっかりとポイントを突いていた。
(三人娘のスピーチ、 その一人のオカルは欠席)
事前に久米君からメールでもらった内容を記述しておこう。
以下の3点に要約される。かなり省略している。
(固いマスクで防御する色男ミドリと呆れ顔のマサボン、浅輪君は眠っている)
『目には蚊を 耳にはセミを 飼っている』
(ウクライナ情勢を憂う 元防衛庁技官 クマゴロー)
『自分のシワ 顔にあるのに脳にない』
(1) 「傘寿を祝う会」の実施
実施時期は、我々の年齢を考えると少しでも早い方がいいとの考えから2023年の5月、連休後に二泊三日で行いたいと思います。賛成である。
(睨みつける秤君 迫力ある面構え、こんな怖い人の横で困るわ)
(2) 「キチ会の会計」の終了と三田会への寄附
余剰金や埋蔵金など遺産はいらない。賛成である。
(ゴルフをやめました。後は酒だけゴンサク)
ゴンサクはマイクを握ると離さない。カラオケと勘違いしている。
(マスクは離せません、古平君の横で寺島君)
古平君は、コロナ禍なぞ糞くらえと平然と構えていた。
(お巡りさん高木君に促されるゴンサクとカメ)
俺が歌っている最中に、邪魔するなとマイクを固く握るゴンサク。
(3) 「キチ会」の今後の運営について
今後「キチ会」は原則年二回の例会とし、暑さと寒さを避けた4月と10月の昼間に旧交を温めることにしたいと思います。場所は「ファカルティクラブ」とする。
「ファカルティクラブ」とは学術的関係者だけが利用する学会のような場所。それも母校。満足に単位も取れなく、居眠りを繰り返した卒業生では利用できない。それが80歳になると時効になった。ありがたい。賛成である。
(炭竃君の禿げ頭を指で舐める)
テカテカと手入れされた頭部を誉めている。お互い様。
高木君の罵声は若い時からの持病。早めに認知症になったから80歳になっても特に驚かない。皆さんは温かく、我慢して高木君を見守っていた。
(お嬢様、お姫様 名が出ない、 あれ、これ、それ、で用を足す)
(コブキとダルマ、アタエちゃんとハカリ)
「腰よりも 口につけたい 万歩計」
コブキの食欲は衰えていない。お持ち帰りのビニ袋まで用意していた。アタエちゃんは早々とデザートを平らげ赤ワインで御満悦だった。
亡き友への黙とうを行った。
(乾杯と亡き友への献杯 吉岡君は越中高岡から上京した。)
● とにかく真面目で、笑えない冗談を飛ばす。
(ヌカリ大林史一君)
● 山には、横笛を持ち歩き、静かに楽しんでいた。
(エータン斉藤文昭君)
● ハンガリーで亡くなるという夢多き国際人だった。
(オバー阿部紀子)
● タバコを吸いながら「モク吸って語らず」
(ドシ土志田実君)
● 「来てくれるだけで嬉しいよ」
(新ちゃん大河原新太郎君)
● みんなの中心にいて、盛り上げてくれた。
(トンベ田中透君)
故人(大林君、斉藤君、阿部紀子君、土志田君、大河原君、田中君)
エイタン(斉藤君)は国会議員になったのに画質の悪い写真で申し訳ない。
今回は昨年2021年に亡くなった二人の友、「大河原新太郎」君と「田中透」君を偲ぶ会でもあるので、お二人の追悼記録について説明があった。
自称三人娘、「コブキ、アタエ、オカル」追悼文集の紹介
トンベは、天空の厳かな山頂へ登っていた。そこは白い峰エベレストよりも高い天国の岩稜である。天女にかこまれて、満足した笑みで眼鏡を外している。極楽浄土なので安らかに過ごせる。
(いつまで喋るのか、不満そうな古平君とゴンサク)
「何回も 話したはずだが 初耳だ」
天に召されたKWVの仲間を探し出し、天女と仲間と、あらたな出会いを考えていることだろう。
トンベはいつも仲間の中心にいて、みんなのことを思いやる優しい心で、KWVの絆を大切にしてくれた。トンベは、コミュニケーションとコーディネータの達人だった。
(嘆く炭竃君 こんな連中といつまで一緒なのか ふてくさる)
『旧き友』 両手を大きく開け音頭をとり、大声で歌っているトンベの姿を忘れることは出来ない。(約3分の動画)
この動画は「旧き友」を歌い、「若き血」も輪になって歌う。
(矢印をクリックする)
旧き友 集い語ろうは
過ぎし日の旅 山の想い
森にさすらい 谷をゆき
峰に立ち日を忘れえず
峰に立ち日を忘れえず
山よ 心の故郷よ 清らに高く
厳かに 変わらぬ汝れが 姿こそ
永き交わりの印しなれ
永き交わりの印しなれ
トンベも、みなさんも若かった。そこには青春と未来があった。
山と森、そして我々も実に美しく、輝いていた。
トンベの想い出は、60年前の山旅の想い出と重なる。
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カメは「新ちゃんのデジタル追悼文集」について紹介した。
(貴婦人御一緒で幸福 フサコがいなくて寂しい今井君)
「いい夫婦 今じゃどうでもいい夫婦」
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故新太郎君からの御挨拶 一周忌 2022年10月17日
新太郎君の写真集(約3分動画)
新ちゃんの懐かしい笑みを見ることができる。
(矢印をクリックする)
天国から新ちゃんからのメッセージ
ご無沙汰しております。
2021年10月17日に、私は永遠の別れを告げ、不帰の旅へ向いました。
一年後2022年10月に、デジタル世界で開催される「私を偲ぶ会」に招かれました。お招き、誠にありがとうございます。皆様と久々の再会になります。
アルスロンガ農園の皆様の御尊顔を拝し、大変嬉しく思っております。
一言、お礼です。
「来てくれるだけで嬉しい!」
(横山太一君と上野君 話が退屈で眠くなる)
「この頃は 話しも入れ歯も かみ合わず」
(チビチョン、高木君、マサボン、吉岡君 ネパールから来た男マサボン)
「食後は薬の 説明会」 「何回も 話したはずだが 初耳だ」
(「旧き友」を肩を組み合い歌う 入れ歯を飛ばさないように)
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KWVキチ会 祝 傘寿合宿 プロモーション
1966年 我々はなんとか卒業できた。
みなさんは若かった。
そこには未来があった。
2023年 我々は80歳になり、
傘寿を迎えるだろう。
そこには懐かしい想い出が残った。
KWVキチ会 祝 傘寿合宿 2023年 (約4分の動画)
60年前の写真集。みんな若かった。
(矢印をクリックする)
上の動画は60年前のセピア色した写真集である。
(コロナ禍でも怖くない, 歌うのは「旧き友」)
(出席者の集合写真 2022年11月8日)
『自分のシワ 顔にあるのに脳にない』 しめのコトバ
2022年11月8日、最後に集合写真を撮ってもらった。シワなど画像編集は難しいみなさんのお顔である。しかし余生を思う存分に楽しみ、お互いに元気な再会を祈願した。三人娘と幹事の尽力に心から感謝したい。(カメ)
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キチ会諸君は、呆れるくらいデジタル音痴である。終活としてのIT教養。
QRコードとURLについて、この機会に勉強してほしい。(カメ)
(1) QRコード
QRとは quick response(素早い反応)の略称で2 次元バー-コードの方式である。製造・流通などの分野で使用されている。
(2) URL
URL(Uniform Resource Locator)とは、インターネット上に存在するデータやサービスなどの情報資源の位置を記述する標準的な記法。Webページの所在を書き表す方式として広く普及している。頭に「https」というプロトコル名を付ける。
終わり (カメ作成編集)